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2001年10月中旬 |
【10月19日(金)】
▼葉月里緒菜が結婚との報道。先日の婚約は誤報だというのが報道の直後に判明したらしいのだが、今度はいきなり結婚である。なにがなんだかわからないが、こういうところが葉月里緒菜らしいですなあ。いずれにしても引退は残念である。
▼なんということだ。今日から『アリー・myラブ4』(NHK)がはじまると楽しみにしていたのに、録画を失敗して見逃してしまった。まったく忘れていたのならともかく、ちゃんとビデオの予約録画設定はしていたのだから腹が立つ。つまり、ビデオデッキをオフにするのを忘れていたのであった。まったく今日はろくなことがない。
【10月18日(木)】
▼坂口厚生労働大臣と武部農林水産大臣とが、狂牛病の安全宣言とやらを出した。いろんな媒体の報道を何度読んだり聴いたりしても、なにがどう安全なのだかさっぱりわからない。おれはそれほど頭がよいほうでもないが、それほど悪いほうでもないと自分では思っているのだが、はて、なぜこんなにもわからないのだろう? はっ――そうか。もしかしたら、おれの脳はすでに冒されはじめているのでは……。
【10月17日(水)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
「Treva」で撮影 |
どどどどと出た徳間デュアル文庫の《デュアルノヴェラ》シリーズ、初回のラインナップの一冊である。こういう形式は、祥伝社の《400円文庫》がすでにおなじみだ。昨今、文庫一冊がやたら分厚く(つまり値段が高く)なってゆく傾向にあるから、「ちょっと一気読みしたいなあ」という需要には向かないのである。中篇はけっして短篇の長いやつでもなければ、長篇に短いやつでもない。「もの足りないなあ。長篇にすればよかったのに」「キレがないなあ。短篇にすればよかったのに」などと読者に思われるようであれば、それは作家が下手なのであって、中篇には向かない人なのだ。中篇には中篇ならではの風味がある。
で、この『大赤斑追撃』、「後書き」の冒頭でどんな話か潔くまとめてある――「性能が格段に違う二隻の宇宙船が宇宙以外の環境で闘う。すべての装置が宇宙での使用を前提としているため、この異なる環境では宇宙船は本当の力を発揮できない。だから宇宙での力関係は、ここでは通用しない……。」
いかにもいかにも林譲治が得意そうな設定である。機械というやつは、すべての機能が合目的的にできている。というか、まともな作り手はそう考えて作るはずだ。だから、われわれは“機械の機能”というものに、非常にスタティックなイメージを抱きがちである。よって、これを裏切るところにドラマが生じるのだ。この面白さは、古来、黄金の定型として愛されている。こういうのを書かせたら、林譲治は期待を裏切らない。〈SFマガジン〉に長期にわたって発表している人工降着円盤による太陽系開発史のシリーズにも、随所にこういう発想、こういう面白さが躍動しているのにお気づきの読者も多いだろう。本書の舞台は、タイトルからわかるとおり木星だ。木星の大気圏での宇宙艇と宇宙船のチェイスらしい。涎が出てきそうな素材だ。むふふふ、こりゃ面白そうじゃわい。
表紙画の宇宙艇がまたいいすね。噴射される推進剤(白く見えているのはたぶん水蒸気ではないかと思うが、見ただけじゃ推進方法がわからないのでさだかではない)が後方にたなびくさまは、さすがは加藤直之作品である。距離感・立体感を掴むよすがとなるものがほとんど見当たらない木星の大気圏内であるにもかかわらず、この宇宙艇雲(?)の描きかたひとつで、木星の巨大さと宇宙艇の速力が一瞥するや直感に訴えてくるではないか。絵が巧いだけのイラストレータでは、こうはいかないだろう。作家の作品と視覚で競う、もうひとりのSFクリエイターとしての心意気がびんびん伝わってくる。うーん、かっこいい。
【10月16日(火)】
▼依然として夜中にイワシを食ったりしているが、今日は味つけ海苔まで一パック(小袋が六つ入っている大森屋のやつだ)貪り食ってしまった。客観的にはえらく健康的な間食ではあるのだろうが、精神的にはなはだ不健康なのではないかと思う。やはりトラウマがあるらしい。そのうち、カマボコを取り外したあとの板にわずかにこびりついた部分を包丁でこそげ落としたやつ“だけ”を腹一杯食いたいなどという衝動が湧き起こってくるのではなかろうかと恐れ戦いている。なにしろ、あの“最もうまい部分”は、一枚のカマボコからほんのわずかしか取れない非常に贅沢な食材なのであり、あれを腹一杯食おうと思ったら、相当高くつくにちがいないからだ。
【10月15日(月)】
▼まだ、モーニング娘。のカゴとツジにこだわっている。ふつう、あんなに人数の多いグループであるなら、できるだけキャラがかぶらないようにしようとするだろうに、わざわざ二、三人ずつ似たようなコにするというのは、つんくのオヤジいじめだとしか思えない。全部憶えられないようでは老化のはじまりだとでも言わんばかりである。顔と名前が一致するように一生懸命憶えようとするオヤジもいて、まかりまちがって憶えてしまったりするオヤジも中にはいるだろうが、喜んでひけらかしたりするとそれこそがまさにオヤジっぽい挙動であるという罠にハマるようになっているのではないか。若者なら、モーニング娘。くらいの人数であれば、とくに意識して憶えようとしなくても、漫然と細切れに観ているだけでたちまち“憶わって”しまうのにちがいないのだ。努力しなくてはならないのが、すでにオヤジなのである。すなわち、モーニング娘。なるものは、機械的な記憶力が衰えたオヤジたちのための、ポケットモンスターの代用品にほかならない、とおれは思っているのだがどうか。
とかなんとか考えていたら、突如、一句できてしまった。これは、われながらすばらしい。一生に五つも出れば上等の傑作である。
【10月14日(日)】
▼煙草を吸いながら、なんとはなしにケータイのカラオケサービスにアクセスしてみると、カーペンターズの The Rainbow Connection があったのでダウンロードしてみる。それどころか、唄ってしまう。ケータイのカラオケといえども侮れぬもので、あの狭苦しい画面の中でいっちょまえに曲の進行に合わせて歌詞の色が変わっていったりするのだ。それにしてもその、いい中年男がひとり暗い部屋でケータイを睨みながら洋楽カラオケを唄っているというのは、客観的に見るとものすごく不気味ではあるまいか。まあ、人間、四十も近くなると、みな似たようなことをしているのだろうと思う。してないですかそうですか。
【10月13日(土)】
▼「炭疸菌パイとシナモンティー」というフレーズを突如思いついたものの、あまりの不謹慎さに不用意に口にすることができない。相手を選ぶ必要がある。「今月の言葉」に使うには、あまりに不謹慎だ。あれは比較的誰にでもウケそうなネタを選ぶようにしているのだ。一日中、誰かに言いたい誰かに言いたいと身をよじっていた。日記に書こうにも、このところ日記が著しく遅れているため、今日のネタを書けるのはまだまだ先になりそうだ。ああ、誰かに言いたい!
▼『すしあざらし』(えだいずみ)は、ほのぼのとしていておれもけっこう好きなのだが、おれの場合、ほのぼのでは終わらない想像をしてしまう。すしあざらしに頭からかぶりついて、胴体の中ほどから食いちぎったとしたら、中からは米が出てくるのか、それとも、すしあざらしの臓物がでろりんと出てくるのかどっちだろう? おれは後者だと想像して(できるだけヴィジュアルに)、そのほのぼのとしたイメージとのあまりのギャップをどちらかというと楽しんでいる。小林泰三的快感とでも言おうか。こういう想像をしている人はけっこうたくさんいそうな気がする。アンパンマンの脳味噌と同じようなグロテスクさだよなあ。
【10月12日(金)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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「Treva」で撮影 |
おや、聞いたことない作家だなと思ったのは単なるおれの不明で、『イマジナル・ディスク』の夏緑氏はジュニア向けの小説やマンガの原作などではすでにおなじみの方らしい。プロフィールには『ゴルゴ13』の脚本も担当するとあるから、たぶんおれも知らずに夏氏のゴルゴを読んだことがあるのかもしれない。大人向け、というか、一般向けの小説は本書が初になるようだ。ぱらぱらと拝見するとかなり専門的な用語が乱舞し、どうやら本格的なバイオSFのようだ。アオリには、「あまり知られることのない、日本の若き科学者たちの日常と、彼らが巻き込まれる恐るべき遺伝子災害の陰謀を描くバイオSF!!」とある。作者は京都大学大学院理学研究科白鹿亭、じゃない、博士課程修了とあるから、「若き科学者たちの日常」にも通じているのであろう。バイオハザードもので、一般の目には触れないディテールをちりばめてあるとすれば、まずまず一定の面白さは手堅く保証されるはずであるから、なおのことそれだけに留まるものなのかどうかを確認したい気持ちが湧き起こってくる。おれは初めての作家でもあるし、優先的に読むことにする。
『ほしからきたもの。(1)』(“(1)”は奥付けでは丸ヌキ数字なのだが、ウェブでは使いたくないので丸カッコにしておく)は、“日本で最も打ち上げを見た作家”笹本祐一の新シリーズ。“打ち上げ”といっても宴会のほうではなく、むろんロケットのほうである。アオリを読んで、おっと思う――「1960年代、地球は異星人からの侵略にさらされていた。対抗するべく結成された『国連宇宙軍』は実験機や試作機まで駆出してUFO迎撃に当たっていた」
そうだよなあ。懐かしいなあ。そういえば、おれの子供のころはよく異星人が攻めてきていたし、そこいらでしょっちゅうUFOが撃墜されていたものだ……ってのはあくまで主観的な実感にすぎないので、おれとはちがうご記憶をお持ちの方も多いとは思うが、要するに、いわゆる“あり得たかもしれない過去もの”というわけだ。さらにアオリは続く――「ある日、旧式の戦闘機P−51ムスタングを操る民間人が現れ、訓練中のジェット戦闘機を模擬空戦でひねりつぶした。このパイロットは弱冠一二歳の少女だった!!」
うわあ、好き放題の設定やなあ。過去改変、柔よく剛を制す旧式メカ、少女パイロットとくれば、これまた、好きな人はたまらない設定であろう。もしかしたら、スティーヴン・バクスターの一連の過去改変宇宙開発史に刺激を受けたのかもしれない。「おれなら、ああいう暗い話じゃなく、ハルキ文庫の読者層に合わせたエンタテインメントにしてみせる」という挑戦であろうか。これもほとんどアオリでレジで持ってゆきたくなる類のいい設定である。こういうのが好きな人は、書店で手にしてアオリを読み、「ふっ、ようやるわ」ととりあえず口にし、にやにやしながらレジへ持ってゆき、「ふっ、鬼畜め」と作家に悪態をつきながらにやにやしながら金を払い、帰りの電車でいそいそと読みはじめるものなのである。
【10月11日(木)】
▼NOVAのテレビCMに出てくる“言いわけ太郎”君、「やらない理由が見つからない〜!」などと叫んでいるが、めんどくさいからってのはダメなのか?
いやしかし、あのCMを観ていると、ほんとに“やらない理由が見つからない”と言ってもいいくらい、至れり尽くせりのよい時代である。おれが十代のころなど、『セサミストリート』(全部英語でやってくれる番組などごくわずかだったのだ)をせっせと録音しては、夢の中でカーミットとグローバーが漫才をやるほどバカみたいに繰り返し聴き(言うまでもないが、情けないことにあれは幼児番組なのである。すげークオリティー高いけど)、テレビの二か国語放送がようやく開始されると今度は副音声が受信できるラジカセ(まだ、うちのテレビにはそんな機能はなかった)で英語圏の映画やドラマを片っ端から別途録音してシーン割りや会話が再現できるほどに聴きまくり、生身のガイジンが欲しいと平安神宮あたりへラジカセを提げてガイジン狩りに出かけ、若気の至りというかなんというか、マイクを向けてインタビューするなどという失礼かつこっ恥ずかしいことをやっていた。というか、できるだけ安上がりにホンモノに触れようとすると、フツーの公立中学・公立高校に通ったおれは、そういうカッコ悪いことでもやるしかないのであった。それでも、おれたちのずっと上の世代に比べると、天国にいるも同然に恵まれた環境にあったわけだ。テクノロジー万歳である。
しかし、おれはヒネているから、いまの若者をあまり羨ましいとは思わないことにしている。むしろ、気の毒なのではないかと思う。魔法のようなテクノロジーのおかげで、外国語を勉強するのに(少なくとも英語に関しては)なぁ〜んの障害もない世の中に育ったら育ったで、あえて肩肘張って“修行”のようなことをしようなどという気には、なかなかならないんじゃなかろうか。そんな世の中で強いモチベーションを保ち続けていられるやつのほうが、むかしの若者などよりよっぽど意志が強いのではないかとすら思ったりするのであった。
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