間歇日記

世界Aの始末書


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2002年1月中旬

【1月20日(日)】
タカアキラ ウさんから、Tommy February6“ひとめ惚れ”したというメールが来る。なんでも、タカアキラさんは、「今まで、冬樹さん等の眼鏡っ子等への拘りというか偏愛というのが良く分からなかった」そうなのだが(冬樹さん“等”ってのは、つまりアレだ、あそこいらへんに代表されるあそこいらへんの人々を指しているのではないかと思われる)、Tommy February6にコロリと参って、そのあたりの高尚な嗜好を理解なさったようなのであった。ちなみに、タカアキラさん、“眼鏡っ子”ではなく“眼鏡っ娘”が国際公式表記なので、まちがえないように。
 うむ、たしかにこの娘、なかなかいいではないか。なに、the brilliant green川瀬智子? やめなさいやめなさい、眼鏡をかけさせてくれないような無粋なバンドはやめて、ずっとこちらをやりなさい。むさい男に挟まれてあんなのぺっとした顔でいるより、Tommy でいるほうがはるかに知的で可愛いではないか。ま、ちょっとB.B.クイーンズを思い出さないでもないけど。

【1月19日(土)】
▼ひさびさに「○○と××くらいちがう」シリーズの複合技として、「宇多田ヒカルと浜崎あゆみは、イチローと新庄くらいちがう」というのを思いつく。なんか、すでにいろんな人があちこちで使ってそうなレトリックだよな。

【1月18日(金)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『導きの星 I 目覚めの大地』
小川一水、ハルキ文庫)
「Treva」で撮影

 かなり以前のことだが、小川一水さんから突如苦情のメールが舞い込み、驚いたことがある――「この忙しいのになんでこんなに面白い文をサイトに出してるんだ!」
 なんでも小川さんは、それ以前からときおりおれの日記を読んでくださっていたそうなのだが、ふと思い立ってバックナンバーを読みはじめたところが止まらず、十二時間ほどぶっ続けで読み、それでも全部読むまで止まらないだろう、一日仕事ができなかった、どうしてくれる、と、苦情を寄せられたのである。こんなに手の込んだファンメールを頂戴したのは初めてであったので、さすが作家だなあと感心し、日記者冥利に尽きると、たいへんありがたく思った。不勉強なことに、おれは当時まだ小川さんの作品を読んだことがなかったので、読んだことのない作家からレヴュアーが著作物にファンレターをもらうという不思議な経験をしたのであった。小川さんはおれよりひとまわり以上も若いが、おれの日記が面白いと思えるほどに、諸事の好みやものの考えかたが似ているらしい。お気の毒に。
 それはさておき、小川一水、ハルキ文庫に二度めの登場である。ハルキ文庫初登場の『回転翼の天使 ジュエルボックス・ナビゲイター』は、小川さんの航空機好きが生きたヘリコプター青春小説とでも言うべきものだが、今度はもろにSF、それもファースト・コンタクトSFであるらしい。腰巻によれば、「異星人(リスっぽい)を宇宙航行種族へと育てあげる! 〈観察官〉とアンドロイド(美少女)はこの任務を成し遂げられるか?」ということで、いちいち(リスっぽい)だの(美少女)だのと断っているところがお茶目なコピーである。つまり、“萌え”を狙える要素が入ってて“育てゲー”風であるぞと、いけしゃあしゃあと宣言している“売りに入ったコピー”なわけである。それだけに、売り要素は売り要素として、SFとしてのこだわりをどのように見せてくれるかが楽しみになってくる。
 アオリや腰巻から、おれのようなロートルがすぐ連想するのは、『リトル・ファジー』(H・ビーム・パイパー、酒匂真理子訳、創元推理文庫SF)だ。書かれたのは一九六二年だが、翻訳が出たのは一九八四年。まだ“創元推理文庫のSF”で、“創元SF文庫”ではなかったころである。一九七五年生まれの小川一水が九歳やそこらで出たての翻訳を読んでいたほど早熟だったとはとても思われないが、勉強熱心な彼が古典としての『リトル・ファジー』に触発された可能性は十分あるだろう。『リトル・ファジー』が扱っているのは、「知性とはなにか?」という問いかけと、知性を持った存在の黎明期の文明に、より進んだ段階の文明がどう干渉するべきか、しないべきかというSF的テーマである。そう、『導きの星』のアオリを読めば読むほど、「ファジーに挑戦!」に見えてくるのだ。もっとも、小川一水は『リトル・ファジー』を読んだことがない、それどころか、聞いたこともないという可能性もある。そうであれば、なおさら面白いし、読むのが楽しみである。作家のアンテナというのは奇妙なもので、似通った問題意識や感性が、似通った設定や物語を生み出すことが往々にしてあるのだ。『リトル・ファジー』は、哲学的テーマとその扱いは面白いし、おれはけっこう好きなのだが、はっきり言って、小説としてはかなり下手くそなのである。どちらかというと、キャラの可愛さで話題になり、おれは読んでないが、人気に乗じて続けられた続篇は、すっかり“キャラ萌え”小説に堕してしまったと聞く。続篇の翻訳は出ていない。
 さて、「I」巻とあるからには、何冊か続くのだろうが、読む前からおれが勝手に比較している『リトル・ファジー』を超えてくれるかどうか、大いに期待しよう。

【1月17日(木)】
外務省の仮庁舎についての報道があちこちでなされている。田中外相はさっそく文句たらたらのようだ。食堂がなくて、職員は近所に弁当を買いに行ったりしているというのには、さすがに仰天した。危機管理的にどうかと思うね。まあ、ふつうの会社などであれば、自社の食堂があるところのほうが少ないだろうし、みな弁当持ってきたり、適当に外食したり、各人それぞれの昼飯を食っているのがあたりまえだろう。だけど、腐っても国家の外交を司る外務省がそんなことしてていいのかなあ? 外から食いものが入ってくるルートが一本化されておらず、管理もできないわけだ。毒物テロの恰好の標的なのではなかろうか? おれがテロリストだったら、この大チャンスに外務省仮庁舎の近所に弁当屋のふりをした何台ものライトバンで乗りつけ、遅効性の毒物を仕込んだ弁当やパンを売る。あまり早く効いたのでは被害が少ないうちにバレてしまうし、逃亡の時間も稼がにゃならんから遅効性の毒物なのである。それこそ、炭疸菌でもよかろう。まんまと成功したら、外務省は大混乱に陥り、機能が麻痺すること請け合いだ。おや、そこのテロリスト、なにか言いたそうな顔をしているが? なに? これ以上麻痺しないだろうから、やり甲斐がない? そ、そうかもしれん。
 まあ、いずれにせよ、なんとも牧歌的なことだ。世間はテロの話題で持ちきりだというのに、日本は狙われないとでも思っているのだろうか? 霞ヶ関にサリンを撒かれてようやく気づくというのでは困るんだけどなあ。

【1月16日(水)】
▼会社の帰り、バス停に入ってきたバスの側面を見ると、「北白川ペット霊園」なるものの広告がでかでかと貼りつけてある。公園やガード下に住んでいるホモ・サピエンスをほとんど毎日目にするというのに、“霊園”などというところに入れてもらうペットもおるのか、はて、いまの総理大臣は徳川綱吉であったかと、世の不条理を嘆き悲しもうとしたが、「それもおもろいな」という気持ちのほうが勝ち、複雑に頬が歪む。
 妹が結婚するときにうちにおった室内犬を連れていってから、一度も動物を飼っていないため、動物のことにはとんと疎いのだが、最近の人たちはペットが死ぬとどうしているのだろう? みながみな、なんたらペット霊園みたいなところに持ってゆくのだろうか? そういえば、妹も愛犬が死んだときには、北白川かどうかは知らないが、どこぞのペット墓地に持っていっていたような気がするぞ。
 むかしは、そこいらの地べたによくアイスキャンデーの棒が刺さっていて、「きんぎょのはか」とか「ぴょんきちのはか」とか「おばあちゃんのはか」とか書かれていたものだが、最近はその地べたがあまりない。やっぱり、なんたらペット霊園に持ってゆくしかないのか。剥製にして飾っておく人もいるという話を聞いたことがあるけど、少数派だろうな。
 死んでもずっと飼い続けるという方法もあることはある。なにやら干からびた襤褸布のようなものが絡みついた首輪が応接間に転がっているので気味悪く思った来客が「あの、それ、もう死んでません?」と恐るおそる尋ねたら、あなたは眉ひとつ動かさず「いえ、生きてますよ。定説です」と言い張れば、いつまでもいつまでも飼い続けられるという寸法だ。どういう寸法だ。

【1月15日(火)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『だからドロシー帰っておいで』
牧野修、角川ホラー文庫)
「Treva」で撮影

 表紙絵の楽しそうな狂いかたは牧野修作品らしくて秀逸なのだが(猫もいるし)、「妄想は現実を超える。そして世界は壊れた…」という腰巻コピーはいまひとつ。たいていの牧野作品にそのまま使えそうじゃないか。アオリによれば、「『オズの魔法使い』をモチーフに、平凡な主婦の狂気とロマネスクを描いた」らしい。「狂気」はわかるが、この文脈で「ロマネスク」とはなんぞや? 伝奇的・頽廃的とでもいった意味であろうか? 読んでみないと、いまひとつよくわからない。
 それはともかく、まず「曖昧なあとがき」を読むと(おれはたいてい解説やあとがきから読む)、これがたいへん面白い。このわずか二ページ半を読むだけで、この小説がいかに怖ろしい話であるかが、そこはかとなく薫ってくる。楽しみだ。
 それにしても、ええタイトルですな。たぶん、ドロシーにあたる主婦が狂って出ていっているのだろうが、「帰っておいで」と言っているタイトルのほうも、なにやら電波ハリガミみたいなのである。唐突な「だから」が効いてますなあ。

【1月14日(月)】
▼今年も各地で成人式なるものをやっている。近年、成人式で必ず“揺りかごアウトロー”どもが暴れ、昨年はとくにひどかったため、今年はいろいろと“工夫”をしている自治体が話題になっている。その工夫というのが脱力もので、ディズニーランドでやるだの親同伴だの、幼稚園かいな。あんなことをしても揺りかごアウトローどもがつけあがるだけだ。アホはどこに連れていっても親同伴でもアホである。案の定、“工夫”したところでもアホは出現している。ああいう育ちぞこないは、ハリー・キャラハンでも呼んできて、片っぱしからマグナムで頭を吹き飛ばしてやればよい――と個人的には切に思うわけであるが、さすがにそこまでやっては具合が悪いらしい。射殺できないのはきわめて残念だとしても、大人なんだから、片っぱしから逮捕してブタ箱にぶち込んでやればよろしかろう。あれ、去年とまったく同じことを書いているぞ。
 それはともかく、そもそも、なぜにああまでして成人式なんぞをやらねばならぬのだろう? やめちまえばいいだけの話だ。やりたい人は身内でパーティーでもやればよろしい。なに? 偉い人の訓示がないと雰囲気が出ない? そんなもん、大人なんてそこいらじゅうにいっぱいいるのだから、誰か身内や隣近所から適当な人を捕まえてきて、訓示を垂れてもらえばいい。成人のほうもスピーチの練習になっていいだろうし、「はて? おれは徒に馬齢を重ねてきたが、新成人になにか言ってやれるようなことがあるだろうか?」と、大人のほうの内省にも役立つであろう。
 むかしはまともな新成人へのインタビューをニュースで観ると、「ああ、しっかりしとるなあ。おれなんぞ、あのころは右も左もわからんかったなあ。おれも長年生きとるだけの値打ちは身に着けんといかんなあ」などと、ほんのちょっぴり刺激を受け(て、次の日には忘れ)たものであるが、近年は、「こいつらの世話になるくらいなら、糞まみれになって独りでのたれ死ぬほうがよほど人間らしい」と思わされることが多い。山口瞳さん、あなた、なかなかいいタイミングでお亡くなりになりましたよ。去年や今年の成人式を知ったら、アホらしゅうて新成人向けにあんな名文書けたもんやなかったでしょうからなあ。

【1月13日(日)】
▼昨日はひさしぶりにけっこう飲んだはずなのに、宿酔いどころか、いつもより調子がよいくらいだ。最近酒に強くなったのだろうか? よく笑ったので、代謝が活発になったのかもしれん。やはり酒は笑いながら飲むものである。
▼近ごろ、「あなたはどんな鍋が好きか?」などという街頭インタビューをよくテレビで観る。この冬、二、三回は観たような気がするのだ。なんでも、景気が悪いと鍋が流行るらしい。蟹すきとかキムチ鍋とかが上位にランクインするのはわかるのだが、なぜかいつもすき焼きが入っているのにはなんとなく違和感がある。あれって鍋料理か? 少々水分は多いが、その名のとおり焼きものだと思うのだがなあ。

【1月12日(土)】
▼雑誌の座談会(正確には書籍扱いのムックの座談会か)なるものに初めて出席する。『SFが読みたい! 2002年版』(SFマガジン編集部編、早川書房)のベストSF2001に、北野勇作『かめくん』一位)、小林泰三『ΑΩ』二位)、田中啓文『銀河帝国の弘法も筆の誤り』四位)、谷口裕貴『ドッグファイト』五位)と、上位ベスト5に四人も関西在住作家が入ったため、関西で座談会をやるというのだ。でまあ、関西に住んでいるし、参加者が「ああいう面子だし」ということで、茶々入れに加わってくれということになのである。こんな錚々たる面々に茶々を入れるのがおれなんかでええんかいなと思うが、なんかお笑い狙いというか、不可避的にお笑いになりそうな座談会なので、これを生で聴く機会を遠慮したとあっては一生後悔し続けそうな気がして、いそいそと引き受けたのであった。
 会場の中華料理店にゆくと、どうやらおれが一番早かったようで、一本めの煙草を吸っている最中に〈SFマガジン〉塩澤編集長が到着。やがて、どどどどと主役たちがやってきた。谷口裕貴さんとは初対面で、名刺を交わす。日本SF新人賞を谷口さんと同時受賞した吉川良太郎『ペロー・ザ・キャット全仕事』)さんは見るからに繊細そうな白皙の美青年であったが(2001年5月3日の日記参照)、谷口さんはがっしりとした丸っこい身体つきで、さながら引き締まった堺三保さんといった感じ。つまり、このお二方は、作品名や作風のみならず、風采までもが犬と猫なのであった。なんとも面白いことである。
 さて、座談会のもようであるが、これは『SFが読みたい! 2002年版』をお読みいただきたい。小林泰三さんがひたすら田中麗奈の話をしていたような気がするが、これを編集せずにまるごと掲載したとすると、田中麗奈ファンクラブの会報のようなものになってしまうことは必定であるから、まあ、その部分はカットになることであろう。
 こんなもののテープ起こしがはたして可能なのだろうかと心配になるほどに格調高く内容の濃い、人生とはなにかを改めて深く考えさせられる座談会が終わる。夕刻からは、別途、北野勇作さんの日本SF大賞受賞&『SFが読みたい!』一位獲得を祝う宴会が予定されている。どのみち、座談会のメンバーは全員そちらへも雪崩れ込むのである。喫茶店で時間を潰して(そこでの会話のほうがよほどSFの座談会であったような気もしないではないのだが)、やや迷って、宴会場に到着。別働隊(?)はすでに店に到着していた。我孫子武丸さん、北野勇作夫妻、喜多哲士さん、小林泰三さん、塩澤編集長菅浩江さん、田中啓文さん、谷口裕貴さん、野尻抱介さん、林譲治さん、藤原ヨウコウさん、堀晃さん、牧野修さんがずらりと勢揃い。塩澤編集長を除き、これだけのメンバーが京阪神を中心とする近畿一円に住んでいるのか。しかも、例によって、斜体で名を記した人々は、おれも含めて一九六二年生まれである。いったい、あのころになにがあったのか。いったい、関西になにがあるのか。はなはだ不気味である。
 ちゃんこ鍋に火が入り、鍋の底に溜まっている味噌がもこもこと蠢きはじめるや、同じテーブルの堀さんと野尻さんが、「おおっ」「お、ベナールか」などと嬉々として鍋を覗きこみ、ベナール対流に於けるセル・ダイナミクスについて術語を交わしはじめた。さすが日本ハードSFの大御所と中堅、ちゃんこ鍋を食うのもハードSFである。
 ちょっと遅れて、「迷うたまよた」と怨霊のようなことを言いながら、田中哲弥さんが大久保町からやってきた。哲弥さんは一九六三年生まれだが、学年はおれたちと同じであるから、ふつう“呪われた六二年”にカウントされることになっている。哲弥さんは、北野夫妻、喜多さん、野尻さん、林さん、堀さん、おれのテーブルに加わり、なにやらアホで汚い子供の話をはじめる。哲弥さんが“アホの話”をはじめると(ただの“アホな話”は常に呼吸に合わせてしている)、なにやら魔力が宿ったかのようになり、とにかくそのアホのやることなすことすべてが殺人的に面白く聞こえるのである。のべつまくなしに笑い、笑いに酔ったようになり、実際酒にも酔っていたため、具体的になにを話しなにが話されたのかよく覚えていない。たしか、“ヒマラヤ芸者”なるものが大活躍していたような気がするのだが、“ヒマラヤ芸者”とはいったい何者だったのか、いまとなっては判然としない。

お祝いの品を手に微笑む北野夫妻
「Treva」で撮影

 いや、じつにほのぼのとした楽しい宴会であった。自分がこんなところにおってもええのかと思うような、夢のように心地よいひとときというものがごくたまにあるものだが、まさにそのような夜のひとつであった。
 宴が終わり、店を出る前に何人かがいっせいにトイレにゆく。小林泰三さんがケータイで「新・大森なんでも伝言板」を読んでげらげら笑っている。巷で話題の三鷹ういさんが、性懲りもなく素っ頓狂な発言をしているらしい。おれもトイレに並びながらケータイを取り出し、やっぱり「新・大森なんでも伝言板」を読んでやっぱりげらげら笑う。なんだか笑ってばかりの夜だが、世の中は面白いものに満ちみちているのだからしかたがない。
 堀さんは一次会でお帰りになり、一行は怪しい雰囲気の酒場で二次会。かなりマジメにSFやらミステリやら出版業界の話。

怪しい雰囲気の酒場
「イーーッ!」
「Treva」で撮影

 我孫子さんから、某公共図書館に宮部みゆき同じ本が百冊も入ったなどという話を聴き仰天する。公共の福祉も大事かもしれんが、そこまでゆくとほとんど営業妨害としか思えない。
 我孫子さん、菅さん、藤原さんと喫茶店で三次会。あんなこととかこんなこととか、駄弁りまくる。我孫子さんは、マックの不良品を掴まされ、さらにそのサポートのひどさにえらいめにあったらしい。我孫子さんが理路整然と怒りを顕わにして悪や不合理を斬っている姿は、とても活きいきとしている。
 喫茶店から出ると、ケータイにメール着信。なんと、もう北野さんからお祝い宴会のメールが全員に同報で来ている。律義な人だ。
 深夜、タクシーで帰宅。ああ、おもろかった。半分は仕事だったはずなのだが、なにやら一日中宴会をしていたような気がする。

【1月11日(金)】
マクドナルドに新メニューの「ジャガマック」というのがあったので食ってみる(店舗によっては出していないかもしれないが)。狂牛病の影響か、近ごろのマックは、やたら鶏やら芋やらで攻めてくるのだ。ジャガイモを三日月形に切って焼くだか揚げるだかしたもので、要するに、サブウェイで出しているポテト(店舗によっては出していないかもしれないが)のパクリみたいなものである。おれはサブウェイのアレが好きで、ジュンク堂大阪本店に行ったときには、よく堂島アバンザの地下で食って帰る。
 で、ジャガマックだが、サブウェイのよりも大きさが揃ってお行儀がよい感じで、味は悪くないがジャガイモの野趣に欠ける。サブウェイのポテトのほうが、いかにも「イモです。ええ、ただのイモですとも」という投げやりな感じがしてうまいのである。マクドナルドが作ると、どうしてこういう規格品規格品したものになるのかな。ハンバーガーはそこが好きなんだけども。
 そういえば以前から気になっているのだが、チキンナゲットをはじめたのは、たしか、ケンタッキー・フライドチキンのほうが先ではなかったろうか? おれの記憶ちがいかもしれないが、どうもそんな気がするのだ。KFCがナゲットを出してまもなくマックが追随し、いまではマックの定番となり、KFCではすっかり見かけなくなってしまった。いつだったか、マックのトレイに敷いてある紙に、チキンマックナゲットの開発話のようなものが子供向けに書いてあり、マクドナルドのコックさんがチキンの身だけを食べやすい大きさにして揚げてみたらどうかと突然思いついたようなことを言っているので、「おいおい、KFCがはじめたからやったのではなかったか?」と思わず突っ込んでしまった。勝てば官軍である。
 ひょっとしたらおれの記憶がこんがらかっているのやもしれず、なにやら気色が悪い。日本のファーストフード店でチキンナゲットを先に出したのはKFCだったのかマックだったのか、はっきりとご記憶の方がいらしたら、ぜひ教えていただきたい。


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