間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説企画モノリンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


2004年8月下旬

【8月31日(火)】
「金儲け商品とご覧のスポンサーの提供でお送りしました」とテレビの音声がだしぬけに言う。そりゃ、商品というものは金儲けのために売ってるのだろうからおっしゃるとおりにはちがいないが、ずいぶん露骨ではあるまいか。ぎょっとしてふり返り、画面をまじまじと見つめると、それは「カネボウ化粧品」なのだった。そろそろ耳まで遠くなってきたのだろうか。

【8月26日(木)】
▼全然更新していなかった当サイトの H" LINK用「オープンネットコンテンツ」版を廃止した。「京ぽん」が登場したいまとなっては、ほとんど意味ないしね。

【8月25日(水)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『グアルディア』
(仁木稔、ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
bk1 で見てみる amazon.co.jp で見てみる

 おや、聞いたことない人だな、と思ったら、Jコレでデビューという幸運な新人のひとりであった。まあ、Jコレのラインナップにいきなり放り込まれる新人にしてみれば、嬉しさ以上のすごいプレッシャーだろうけどね。一九七三年生まれの若手だという。つっても、よく考えたら、一九七三年生まれでも、もう三十は超えてるわけね。どうも、SF界は“新人”でも三十代、四十代はざらだから、“新人”という言葉に関するおれの感覚が麻痺しているのかもしれん。まあ、海外では五十代でデビューして名を成したSF作家も何人かいることだし。
 冲方丁、共感かつ驚倒」という、ものすごい腰巻コピーがついている。驚倒ですぞ、驚倒。広辞苑には「ひどく驚くこと」などとぶっきらぼうな説明だけが書いてあるが、やっぱりこれは、誰もが字面から思うように、「ぶっ倒れるほどに驚くこと。驚いてぶっ倒れること」であるにちがいない。もっとも、ウェブサイトから窺われる最近の冲方丁の多忙ぶりからすると、驚いても驚かなくてもぶっ倒れそうでなにやら心配になってくるが、それはともかく、冲方丁が驚倒するほどの新人の出現であるらしい。
 二十二世紀にいったん人類の文明が滅びたあと、二十七世紀のラテンアメリカを舞台に繰り広げられる物語であるらしい。「変異体と化した人間たちと種々雑多な組織が蠢く汚濁の地にあって、自治都市エスペランサは唯一、古えの科学技術を保持していた」ってアオリからすると、『黙示録3174年』(ウォルター・M・ミラー・ジュニア/吉田誠一訳/創元SF文庫)みたいなのを反射的に連想しちゃうんだけれども(若い人には「伝説の暗殺拳・北斗神拳の伝承者である主人公ケンシロウは……」みたいな反射があるのかも)、こういう設定はもはやパブリック・ドメインにあるも同然なので、むしろ、よくある設定でどれだけ個性を発揮してくれるかのほうに期待がかかる。あとがきによると、ラテンアメリカ文学にインスパイアされているようで、それを聞くと、なるほどこの設定と親和性が高いかもとも思える。「精緻にして残虐なるSF的イメージと、異形の者たちが織りなす愛憎と退廃のオペラ」(アオリ文)か……。ラテンアメリカ文学って、SFでなくたって、ただでさえそんな感じだもんね。『エル・トポ』(監督:アレハンドロ・ホドロフスキー)みたいなのだろうかなあ? おーし、一千枚、おつきあいさせていただきましょう。

【8月23日(月)】
▼ノルウェーの美術館からムンク『叫び』が盗まれたそうなんだが、あんな有名な絵を盗んでどうしようというのだろう。小学生のころ、いや、中学生になっても、いやいや、高校生でも、下手すると大学生面提げて、誰でも一度は真似したことがある絵にちがいない。模写したという意味ではない。形態模写したという意味である。おれはいまだに、漫然と鏡を見ている最中など、だしぬけに真似したりするけどな。われながら似てるんだ、これが。ま、そのスジの人たちの世界では、あんなものでも捌くルートがあるんだろうかねえ。餅は餅屋だ。
 それにしても、ノルウェーの美術館ってのは、ずいぶんと牧歌的で、なんだかほっとしてしまうね。子供のころ、田んぼの畦道の脇に、近くの畑で取れたと思しき野菜とお金を入れる笊だけが置いてあるだーれもいない“お店”がよくあったが、あれを初めて見たときに「誰も盗まへんのやろか」と思ったはるかな記憶がよみがえってきてしまったほどだ。『叫び』の横に笊でも置いておけば、犯人たちはちゃんとお金を入れていったかもしれんぞ。
 どのニュースでも言ってたが、『叫び』って四枚もあるんだねえ。へぇ〜。いっそのこと、いまの技術で、もっと精巧な複製を何百枚も作ってだな、それを全部美術館に飾っておいてはどうか。常時『叫び』だけがずらりと展示されている美術館なわけだ。建物全体も『叫び』の人物の顔になっていて、入館者は口から入ってゆく。売店では『叫び』キーホルダー、『叫び』ストラップ、『叫び』Tシャツ、『叫び』饅頭などなどが売られており、「これくださーい」と店員の背中に声をかけると、「はい、いらっしゃいませー」と『叫び』の顔をしたねえちゃんがふり向く。ときおり大きな催しものがあって、〈秋の大『叫び』展〉なんかをやったりする。〈春の大『叫び』展〉とは、また趣のちがった『叫び』が見られると、毎年大盛況なのだ。もちろん、飾ってある『叫び』群は年中みな同じなのだが、見る人の心持ちによって、ちがった『叫び』に見えてくるものなのである。おお、なんだか、すごく高尚なアイディアのような気がしてきたぞ。
 こんな美術館、一時間もいると頭がおかしくなりそうだが、防犯策としてはけっこう効果的だと思う。何百枚もの『叫び』の中から、みごと本物だけを盗んでゆくような犯人の手に落ちるのであれば、ムンクも以て冥すべしである。土居まさるも、あの世で喜ぶと思う。中島梓さんどうぞ、って番組がちがいますかそうですか。こういう場合、本物にだけは影があるにちがいない。古典的でいいなあ。「この中にひとり、ムンクの『叫び』がおる」「ぼくじゃない、ぼくじゃないんだ、ぎゃぁあああああああっ」「おまえやー!」ってのいいかも。複製には全部「ムンク♂」なんて署名がしてあったりしてな。タイトルは、もちろん『叫び。』になっている。♪アイスクリーム、ユースクリーム、好きさ〜。古い。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説企画モノリンク



冬樹 蛉にメールを出す