間歇日記

世界Aの始末書


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2004年8月中旬

【8月17日(火)】
▼うちのテレビはNTSC方式で、画面の縦横比は3:4と、むかしながらのどーこにでもあるテレビであるが、病院の待合室やらホテルのロビーやらで縦横比が9:16のやつを観ると、とても違和感を覚える。あの横長画面だと、サッカーの選手だろうがアナウンサーだろうが、大人だろうが子供だろうが若者だろうが、とにかくテレビに出てくる人間がおれにはことごとく麗子像に見えるのである。慣れればふつうに見えるようになるのかもしれんが、慣れるほどよそのテレビを観ることもないもんだから、外で横長テレビを見かけると、おかしくってしかたがない。自宅でああいうテレビを長時間観ている人は、現実の世界の人間が縦に引き伸ばされて、キリコの絵みたいに見えたりしないのだろうか。

【8月16日(月)】
▼いわゆる「IBM 101」系のキーボード配列の Ctrl キーの位置だけは我慢ならんと7月25日の日記でぼやいていたら、その後、橘家鶴蔵さんとスズミさんがまったく同じことを教えてくださった。あの Ctrl キーは、指ではなく“小指の付け根あたり”で押すとよいというのだ。なーるほどねー。そんなこと、考えてみたこともなかったな。やってみると、たしかにおれのキーボードでも、左の Ctrl ならこの方法で押せる。小指の先で押すよりはずっと合理的だ。だけど、右は無理だなあ。そもそも、右の Ctrl キーって、なんのためにあるのだろう? おれがヘンなのかもしれんが、ふだんおれは、まず右の Ctrl など押さない。右の Shift も押さない。おれは使わないが、逆に右を頻繁に使う人もあるのだろうな。鶴蔵さんによれば、「定説としては現在よりずっとCtrlやAltキーの出番の多かったDOSの時代に(特に英文ワープロはCtrlの嵐だった)、手の不自由な人のためにCtrlとAltを押しやすい位置で、なおかつ左右に配置したのだ、という説が良く言われています」とのことで、それなりにできるだけ多くの人が使えるように考えてあるらしい。だけど、「現在その入力補助の思想を滅茶苦茶にしているのが無意味なWindowsキーとMenuキー」と鶴蔵さんも嘆いてらっしゃるように、邪魔なキーが増えたせいで、右のほうなど“小指の付け根あたり”で押すなんてことは到底できそうにない配列になっている。もったいないことだ。
 余談だが、英語では、キートップが正方形の小さなキーを押すのには hit を、エンターやスペースなどの大きめのキーを押すのには press を使うことが幾分か多い。この日記の読者には、ジョン・ヴァーリイの傑作SF中篇 「PRESS ENTER ■」『ブルー・シャンペン』浅倉久志・他訳所収/ハヤカワ文庫SF/[bk1][amazon])を連想なさる方も少なくないだろう。hitpress の使い分けが厳密に決まっているわけではないけれども、まあ、感覚的には、あくまでおおざっぱな多数決的使い分けがなされているのは事実だ。べつにどっちを使っても、絶対まちがい、絶対正しいなんてことはないけれども、なんかこう、やっぱり英語ネイティヴの連中にも、キーを“打つ”のと“押す”のとを使い分けたい心理はあるんだろうな。キーの形やら、心理的な打鍵時間(?)やら、いろいろな要素が絡み合って、「あ、これは hit だ」「いまのは press だ」と反射的に言い分けたくなるのだろう。ふたつ以上のキーを同時に押すときは……こりゃ、やっぱり press のほうが多い気がするな。key を目的語に取っているときに push が使われているのだけは、少なくともおれは見た覚えがない。見たことがあるとすれば、英語が母国語じゃない人とかが書いた、かなり不自然な文章でだろう。push するのは、button だよなあ。

【8月15日(日)】
先日、にわかに気に入ったので、まとめて聴いてみようと注文していたメロキュア岡崎律子日向めぐみ)の最初で最後のアルバム、『メロディック・ハード・キュア』が届いた。さっそく聴いてみる。
 うーん、よいではないか。このユニットは、声質的にも曲想的にも、じつに稀有な組み合わせだったのだなあ。ベッツィ&クリスというかシモンズというかザ・リリーズというか、いやまあ、若者にはなんのことやらわからんかもしれんが、そういう往年の女性デュオを連想させる。ザ・リリーズなんかは二人ともほとんど同じ声だから、ソロアーチストが多重録音でハモってるみたいで、可愛いけどあんまり意外な面白みはなかったものだが、メロキュアの二人は、よくぞこういうめぐり合わせになったものだと、おれですらなにやら天の配剤のようなものを感じるほど面白い。そうだな、声の組み合わせとしては、やっぱりシモンズがいちばん近いかな。シモンズと同様、微妙に“融け合っていない”ところこそが絶妙に心地よいのである。二十一世紀のポップなシモンズという感じ。岡崎律子の声も日向めぐみの声も、それぞれ単独では聴いているはずなんだけど、おれの声フェチ・インジケータの針は一人ひとりの声にはあんまり振れなかったらしい。歌を覚えてないくらいだからな。ところがどっこい、この二人の声を合わせると、まるで未知の合金にでもなったかのように、じつにいい感じになる。こういう声の組み合わせは、そうそう現われないと思うね。もともとアニメに疎いうえに、『円盤皇女ワるきゅーレ』なんて観てないから、こんな奇跡的に面白いデュオが誕生していたとはついぞ知らなんだ。まったく惜しい人を亡くしたものだ。この二人には、もっともっと二人で活動してほしかったものだなあ。まあ、こんなこと言っても詮ないことだが、少なくともメロキュアとしてアルバムが一枚残ったことで、このデュオは伝説となることだろう。
 ううーむ、聴けば聴くほど惜しい。この二人の声で「明治チェルシーの唄」が聴いてみたかったなあ。ふざけて言っているのではない。あれは名曲ですぜ。初代のシモンズから、サーカスハイファイセットなどの一流コーラスユニットを含む錚々たるメンバーが歌ってきているのだ。このリストにメロキュアが加わっていたら、歴代ベスト5には入ったろう。

【8月14日(土)】
▼東京都教育委員会が「ジェンダーフリー」という用語を教育現場から「全廃」し、いわゆる「男女混合名簿」の作成も「禁止」するのだそうな。おれはニュースを読んで、おのれの正気を疑ったね。いま二十一世紀だったっけ? どうしてこういうバカな結論になるのだろうね? おれはあまり東下りをしないのであちらの地方の事情はよく知らんが、東京というところは田舎者が集まっているところだというのは、どうやらほんとうらしい。
 まず、論理的にヘンじゃないかい? 「ジェンダーフリー」という概念や用語がまだまだよく理解されず、誤解や曲解に基いた珍妙な決めごとがあちこちにできているというのはしばしば報道されているし、そういうものがあるのは事実だろう。人間というのは、どこまでが生物学的なハードウェアで規定されるものか、どこまでが“社会化”によって作られるものかということが、いまだはっきり定義できないんだから、ジェンダーフリーの解釈がまちまちになるのは当然のことである。まちまちになるのがあたりまえなんだから、まちまちになるようにさせておけばいいだけの話だろうに。男女混合名簿にしてもいいし、しなくてもいいとするのが論理的かつ民主的である。それを「全廃」したり「禁止」したりするってのは、どう考えてもおかしい。べつにジェンダーフリーの問題じゃなくたって、論理の展開がヘンだということは、平均的な知能の持ち主であれば、誰にでもわかることである。
 上方の成熟した文化で例を挙げるとするとだな、たとえば、お好み焼きをひっくり返す道具を「テコ」と呼ぶか「コテ」と呼ぶか、それを教育現場でどのように教えるかが問題になったとするわな。まあ、上方的には「テコ」なんだが、標準語的には「コテ」の一種だからそう呼んだほうが全国的にわかりやすいであろうとか、いろいろ議論になったとするわな。じゃあ、ま、使う人が好きなほうにすりゃよかろうというのが成熟した文化というもので、「コテ」はいかん、「コテ」は全廃する、禁止するなどという結論が、どこをどうひねくったら出てくるのか理解に苦しむ。東京都教育委員会というのは、論理構造の把握に不自由な人々か、単なる世間知らずの集まりかね?
 で、おれ個人はどう考えているかというと、おれはたぶん頭が悪いほうではないだろうとは虚心坦懐に思うが、とくによいほうでもないともまた虚心坦懐に思うから、あんまり難しいことはよくわからん。おれが思うに、要するに、今回の件をとくにジェンダーの話だと思うから、想像力の貧困な人間が混乱するのだ。こう教えてやればよい。あらゆる“らしさ”なるものは、おのれが自覚する自由はあるが、他人に押しつけられる筋合いのものではないということだ。ホントに単純明快、ただそれだけのことなのである。ただそれだけのことがわからん人がずいぶんたくさんいるらしいとも、さすがに四十年以上も生きていると鈍いおれでも気がついてはいるのだが、なぜそうなのか、いまだによくわからんのだ。生きにくい世の中ではあるが、まあ、あんまり生きやすいとそれはそれでまたつまらんような気もするしな。
 東京都教育委員会の方々におれから提案があるのだが、聴いてくださるか? 生物学的にたしかに一応分類はできるが個人の“らしさ”との関係についてはさまざまな意見や信仰がある属性に、“ABO式血液型”というものがある(なぜか、MN式やらP式やらKell式やらDuffy式やらLewis式やらなにやらの血液型が性格に関係があるといった主張は耳にしない)。あなたがたの論理でゆくと、「血液型は個人の性格とはなんの関係もない」という思想に基いた教育は、東京都では“全廃・禁止”しなくてはならない。おれの言ってることわかるよね? おれがそう思ってるんじゃないよ、あんたがたがそういう論理を展開しているんだから、おれはあんたがたの思想の一貫性のためを思って、アドバイスしてさしあげているだけである。“肌の色”とか“虹彩の色”とか“髪の色”とかについても、それぞれの色に適した教育をするよう、ぜひ東京都教育委員会で検討するべきだ。そうだな、各種の遺伝的属性についても検討が必要かもしれん。赤緑色盲の児童には赤緑色盲の人“らしい”性格になるような教育、血友病の児童には血友病の人“らしい”性格になるような教育、アセトアルデヒド脱水素酵素2の生成をコードする遺伝子が欠損している児童にはアセトアルデヒド脱水素酵素2の生成をコードする遺伝子が欠損している人“らしい”性格になるような教育、フェニルチオ尿素味盲遺伝子を保有する児童にはフェニルチオ尿素味盲遺伝子を保有する人“らしい”性格になるような教育をすることが早急に必要ではないのか? そうは思わないというのなら、あんたらの思想はニセモノだ。単に自分の好みに合わせて、都合のいい考えの都合のいいところだけを都合よく他人に押しつけようとしているにすぎない。どこかで“線が引ける”ものなら、引いてみるがいい。
 だいたい、選挙で選ばれたわけでもない連中に、なんの正当な理由があって、こんな強大な権限を与えているんだろうね? そりゃまあ、おれだって、教育問題に関しては、棋士やら脚本家・エッセイストやらに引けを取らない素人ではあるが、こういうことを決めようとするなら決めようとするで、どうして生物学者や社会学者や自然人類学者や文化人類学者や医学・生理学者や精神医学者に助言を仰がない? 仰いだのかもしれんが、仰いでこうなるというのだったら、まったく理解に苦しむよ。

【8月13日(金)】
▼讀賣巨人軍の渡辺恒雄オーナーが突然の辞任。なんでもスカウト活動で金銭を提供する行為があったことの責任を取って辞めるのだそうである。なーるほど、「金さえあればいいというもんじゃない」と言うておった人だけのことはあるな。有言実行の人だ。おれのものの言いかたに慣れない通りすがりの方々に誤解されるのも愉快でないから念のために言っておくのだが、むろん、これは皮肉というものである。
「銀のさら」という宅配寿司チェーンのテレビCMが最近気に入っている。お隣の家が宅配寿司をしばしば取るのを羨むよぼよぼの爺さんが、隣家の食卓に並ぶうまそうな寿司を念動力で引き寄せようとするアレである。おれが知るかぎりでは三パターンあって、中トロが十センチほど宙に浮かび上がったところで爺さんが力尽き「だーめだ」とうなだれるやつ、中トロに念を込めているのにカッパ巻きのキュウリだけが宙に浮いてしまい「ちがーう」と爺さんが苛立つやつ、念動とテレポーテーションの合わせ技が成功して中トロが爺さんの頭の上に瞬間移動してくるやつを観たことがある。成功したのは一回しか観たことがないんだが、やっぱり「だーめだ」編(?)がいちばん面白いな。あの爺さんの顔もすごいが、すがるように爺さんを見守る息子の嫁(だろう)がいい味を出している。
 そもそもあの爺さんが老体に鞭打ち念力をふり絞ってまで呼び寄せようとしているあの中トロは、いったいいくらするのか? 息子の嫁も嫁だ、中トロの入ったいちばん安いセットくらい、老い先短い爺さんのために、たまには取ってやってもいいのではないか――と思って、「銀のさら」のサイトで調べてみると、「お好み」(つまり“バラ”)で中トロを頼むと、二カンで八百四十円である。う、うーむ。息子の嫁よ、非難して悪かった。爺さん、やっぱり念力を磨いたほうがよいぞ。しかし、宅配寿司なのに、なかなかいい値だなあ。まあ、ちゃんとした寿司屋(宅配寿司がちゃんとしてないってわけじゃないけどね)だったら、倍取られても不思議じゃないだろうけどなあ。“だろう”と推量しているのは、ここ十年か二十年か三十年かくらいは“ちゃんとした寿司屋”(要するに、値段の書いてない寿司屋だ)などという怖ろしいところで寿司を食ったことがないからである。わが家の場合、「今日はひっさびさに贅沢をしよう」と言って食う寿司が回転寿司か宅配寿司なのであるから、じつになんというか、あのCMはリアリズムだなあと思うわけなのだ。もっとも、仮に毎日“ちゃんとした寿司屋”で寿司が食える経済力があったとしても、たかが食いものにそれだけの金を使うなどということは、おれにはとてもアホらしくてできない。根が貧乏症である。だって、魚の死骸の切り身が乗っかってるだけの小ぶりのおにぎりを一個食うごとに文庫本を一冊食ってるようなものだとでも思ってみろ、とてもじゃないが、味を楽しむどころではない。やっぱり、「ひっさびさに贅沢をしよう。自分にご褒美をあげよう」とつぶやいて回転寿司を食うのが、おれの性にも分にも合っている。こういう発想を“酸っぱいブドウ”と言うのだろうけどね。
『新・刑事コロンボ 奪われた旋律』(日本テレビ系)を観る。もう、どうでもいいわい。「けっ」である。いままでも「最近のコロンボは犯人がアホになってしまってつまらん」とさんざん貶したおしてきたが(1998年10月16日2001年4月13日など)、今回の犯人も例によって“新”刑事コロンボらしい、箸にも棒にもかからぬどアホウ。こんな犯人であれば、今泉慎太郎にでも捕まえさせておけばよかろう。でも、やっぱり観ちゃうのは、つまるところ、ピーター・フォークが観たいだけだ。いやあ、それにしてもピーター・フォーク、歳食ったねえ――って言ってるおれもねえ。

【8月12日(木)】
▼夏休みなのだが、クスリが切れると鼻やら顔やら眼やら歯やら首やらが痛くなってくるもんだから、おとなしくしている。まあ、どこも悪くないときと、それほど過ごしかたがちがうわけでもないけれども。
 夏休みはじっくり本を読もうと思っていたのだが、鈍痛で集中力が続かず、あきらめてパソコンでアニメやらなにやらを観る。「ShowTime」「東映特撮アニメアーカイブス」で、『仮面ライダー』やら『仮面ライダーV3』やら『マジンガーZ』やら『デビルマン』やら『北斗の拳』やらを、一話めだけはタダで流していたもんだから、もうええかげんにせんかいと思いつつも、ほかになにをする気力がおきるわけでもなく、だらだらと全部(タダのぶんだけ)観てしまう。おれんとこのADSL環境では、それほど高画質・大画面で観られるわけでもないけど、まあ、充分懐かしかった。ブロードバンドってやつはなかなか便利なものだ、婆さんや。
 懐かしがってばかりではいかんと思い、近年、地域的・時間的ハンディキャップのために見逃している作品はないかとサイトを見てまわっていたら、『ストラトス・フォー』をやっているのを見つけた。「ああ、これがちょっと前にあちこちで話題になっていた『ストラトス・フォー』であるか。どれ、やはりどんなものかは観ておくべきであろう。一話めはタダだし(といっても、月会費は要るわけだが)」と、懲りずにまだ観る。ほお、オープニングのテーマ曲「1st Priority」はたいへんよろしいではないか。たしか、これ唄ってるメロキュアって二人組の片方、岡崎律子は、ちょっと前に急逝してしまったんだよな。なるほど、これは惜しい人を亡くしたもんだなどと、いまごろ惜しがる。
 アニメ自体は、まあ、そこそこ面白い。野尻抱介さんの《ロケットガール》シリーズを髣髴とさせる作りだ。テーマソングにある「結果 all right」という歌詞は、ひょっとしたら野尻さんにウィンクする意図(?)でもあるのかななどと、勝手に推測する。なんでまた、彗星(というか、巨大隕石じゃないの、これ?)がこんなに地球に近づいてきてから破壊するのかという根本的な疑問を抱えたまま、二話めを金払って観る。乗りかかった舟であるからして、時間が取れるときにちびちび観てゆくことにするか。なるほど、ブロードバンドってやつはなかなか便利なものだ、婆さんや。


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