ホーム | プロフィール | 間歇日記 | ブックレヴュー | エッセイ | 掌篇小説 | リンク |
← 前の日記へ | 日記の目次へ | 次の日記へ → |
99年1月中旬 |
編集者「もしもし。携帯電話を紛失してしまいました。たいへんセンシティヴな情報が登録されているので、アレをお願いします」
電話会社のオペレータ「アレですか――やってよろしいんですね?」
編集者「やむを得ません。やってください」
オペレータ「ほんとうによろしいんですね?」
編集者「……はい。やってください」
オペレータ「それでは、お電話番号をどうぞ」
編集者「***********です」
オペレータ「***********、と。では、やります――禁断のパスワードをどうぞ」
編集者「そ、それは――」
ここで編集者が「ヴァルス」とパスワードを叫ぶと、電話会社から識別ビットを載せた非常信号が発信され、狙った携帯電話はこっぱみじんに爆散する――のでは少々社会的に問題があるので、登録されている情報がすべてクリアされてしまうようにしておくのだ。もちろん、パソコンでデータのバックアップを取っておくのが前提である。最近そういうソフトとケーブルがいくつも出てるよね。
どうでしょうね? こういう仕組みがあるといいと思うのだが。ほら、おれたちの子供のころ、組織を裏切ると体内に埋め込まれた爆弾が爆発するようになっている改造人間だのロボットだのスパイだのがよくあったではないですか。あれの電話版である。
いまはなき、中央公論「海」の名編集長・塙嘉彦(“いまはなき”はどの語にかかるんだか)について、後任の高橋善郎から聞いた思い出話を筒井康隆が書いている――「彼はつきあい酒で遅くまで飲み、よく物をなくしていた。なくしても割合平気だったが、ただ、手帳を落とすことだけはひどくおそれていた」(「楽しき哉地獄 知の産業――ある編集者」筒井康隆全集22、新潮社・所収) 塙氏の手帳だ、きっと世界的文学者をはじめとする著名人の連絡先なんかがいっぱい書いてあったにちがいない。落としたりしたら、「はぁ、はぁ……ねえ、いま履いてるパンティ何色?」などと、日本の阿呆がミシェル・フーコーに国際電話をかける可能性はゼロではなかったはずだ(金に糸目をつけない阿呆だな)。そりゃ、落とすのを怖れるでしょう。
べつに編集者じゃなくたって、自分の不注意でお友だちに迷惑をかけてしまうこともあるやもしれない。誰にでも不注意はあるのだから、携帯電話を落とすことを前提にして、それなりの防護策を取っておくに越したことはないだろう。
【1月19日(火)】
▼カウンタがさほど回っていないのに、プロバイダのログを見るとページヴューがやたら増えている。なのに、京都iNET内でのページヴュー順位はさほど変わっていない。こういうときは、どこかの検索エンジンが一斉にいつもより多くのロボットを放っているのだ。さてはと思って、Infoseek Japan を調べてみると、先日まで「冬樹蛉」で七百件以上ヒットしたものが、六百七十一件しかヒットしない。つまり、大規模なデータベース整理があったということである。ページヴューの急増は、十中八九 Infoseek Japan の仕業だろう。たちまち元のペースに戻るはずだ。
アクセスが増えるのはいいことなんだけれども、さして思い当たる理由もないのに突然増えると気味が悪いよね。どこかの有名サイトで絶賛されているんじゃないかと期待したり、笑い者にされているんじゃないかと気になったりするものである。まさか、おととい「hosokin's room」の紹介コメント(「書籍関係いろいろのリンク」)を変更したのが効いたわけじゃ――ないよなー。
▼マクドナルドでハンバーガーを食いながらふと天井を見ると、巨大なプロペラが回っている。ほれ、カフェバーとかでも、ゆっくり回っているアレである。むかしは銭湯の天井にああいうのがついていたものだが、最近とんと銭湯なんて行ってないから、まだあるものかどうかわからない。
それはともかく、あれはなんのために回っているのか? 「店内の空気を撹拌して、換気に役立てているんじゃないの?」という邪説を信じている人がなぜか多い。じつは、おれは以前から「あれは換気のために回っているのではない」と主張しているのである。おれのような鋭い観察眼がないとなかなか気づかないのだが、あれが回っている店は、たいてい柱が少ない店だ。そこにぜひ着目していただきたい。あのでかいプロペラは、回転することで店の床に空気を押しつけ、天井の重みを支えるのに寄与しているのである。ヘリコプターの対地効果のようなものだ。
だから、あの手の店には、雷雨のときには行かないほうがよい。うっかり雷で停電でもしようものなら、あのプロペラが止まり、たちまち天井ががらがらと落ちてくる。これはもう、きっと落ちてくる。「冬樹さんの日記を読んでいたおかげで命拾いしました」というお便りを待っております。
【1月18日(月)】
▼一度聴いたが最後なかなか耳から離れず、頭の中で永久ループを続ける曲、おれの呼ぶところの“メビウス・ミュージック”が、最近ひさびさに出現した。97年5月27日の日記で書いた篠原ともえの「ウルトラリラックス」以来である。あなたは侵されていないだろうか? 昨年暮れころからおれの脳のどこかで勝手にループをはじめているこの忌々しい曲は、ツーカーホンのCMで流れている「パフィー de ルンバ」(Puffy)。ご存じない方はあまりいらっしゃらないだろう。え? 知りませんか? ほら、死後の世界は地球上空五百キロ前後のところでドーナッツ状に地球を取り巻いていて、そこへゆけばどんな夢も叶う愛の国だという、なんか途中でいろいろこんがらかったような気がするが、細かいことを気にしてはいけない。知らない人はツーカーホンのCMを観てください。
困ったことに、なかなかいい曲だ。最初に聴いたときは、ザ・ピーナッツが「大ちゃん数え唄」を唄っているのかと思ったが、似ているが微妙にちがう二人の声質をうまく利用していて奇妙な味がある。まあ、最初のリヴァプール・サウンドにしたところで、そういう声質の旨み狙いだと思うが。いや逆か、こういうのをやるために結成したんだろうな。おれはべつにPuffyのファンというわけではないから、詳しい事情はよく知らない。奥田民生版華原朋美みたいなもんだろうという認識しかないのだ。
だものだから、今日風呂に入っているとき、ふと思った。「そもそも、Puffyってデュオ名は、どういうつもりでつけたのだろう?」と。いままでは、売り出しかたや当初のイメージから、なんとなく“思い上がって気取ってる”みたいな、ちゃんとした英語を踏まえてつけた名前だろうと思っていたのだが、もうひとつ単純な可能性に思い当たった。ひょっとして、“ぽっと出”を直訳したんじゃあるまいか。たしかに puffy には、“ぱふっと出て、そのまま消える”といった短命のニュアンスがあるが、これは日本語の“ぽっと出”とはちょっとちがうよね。日本語の“ぽっと出”は、然るべき下積みもなしに運よくひょっこり表舞台に出てきたにすぎないという感じで、必ずしも息が短いことを意味しない。英語のつもりでつけるのなら、いくらなんでも短命だなんて名前にはしないでしょう。だからおれは、Puffyってのは、たぶん「日本語の“ぽっと出”を直訳してみました。そのとおりでしょ、あはは」という仕掛人の自虐ジョークだと思うのだ。なんか、奥田民生ならやりそうな気もする。考えすぎかなあ? 実際、どうなんでしょうね、詳しい方?
▼この日記は日記とは名ばかりで、おれがその日に書きたいことを書き放題書くための落書き帳みたいなつもりで書いている。おれの日常やらナマの私生活やらを書いても、読者にはちっとも面白くないだろうからだ。どっこい、今日はなかなか面白いことが起こった。充分エンタテインメントになり得ると判断するので、少々生々しいかもしれないが書く。
突然、おれが卒業した大学の同窓会事務局から電話があった。なんでも、おれの父親と名告る人物が電話してきて、おれの直接の連絡先を教えてほしいと頼んできたのだそうだ。その人物は、おれの母とはコンタクトしたくないが、おれとはどうしても会いたがっているという。なんでも海外に住んでいてたまたま帰国しているが、すぐに帰らねばならぬと言っているらしい。おまけに、医者から癌を宣告され入退院を繰り返しているのだそうな。要するに、死ぬ前に一度おれに会いたいと同窓会事務局の事務員の女性に身の上話をしたわけである。事務員さんも困っただろうに。彼女はまず、おれの自宅に電話し(当然、母が出る)まったく別件であるかのように装って母からおれの携帯電話の番号を聞き出し、次におれに電話をかけてきた。でもって、これこれこういう事情だが、あなたの連絡先をその人物に教えてもよいかと、ちゃんとおれに確認を入れてくれたのである。さすがは大学同窓会事務局、こういうことには慣れているとみえ、たとえ父親と名告る人物にでも卒業生の個人情報を勝手に教えたりはしないのだ。単純なソーシャル・エンジニアリングにひっかかるようなプロバイダには、ぜひ見習ってほしいものである。
突然上記のような話を聞かされたおれは、一瞬面食らった。おれの父親のふりをしてまでおれと会いたがる熱烈な年配の男性ファンがいるのだろうか――これはちょっと考えにくい。おれの熱烈なファンは、たいてい人妻か女子学生だからである(よく言うよ)。たぶん、ほんとうにおれの父親なのだろう。いや、父親というのは“オレ的”には抵抗があるので、おれの遺伝子提供者と呼んでおこう。そのほうがSFっぽくて面白い。だとしたら、二十年ぶりにコンタクトを求めてきたことになる。まだ生きていたのか。なんだか陳腐な昼ドラみたいだ。
次に判断すべきことは、上記の話がほんとうなのかということである。おれの遺伝子提供者は、こういう陳腐な嘘ばかりついては博打と女でさんざん家族や親類や知人に迷惑をかけ、おれも子供のころからろくな目に会っていない。おれやおれの家族をむかしから個人的に知る人は驚くだろうが、外面なんてものはどうとでも取り繕えるものなのである。まあ、ここいらの話は思い返せば“使える”ネタがいくらでもあるので、そのうちエンタテインメントに昇華できたら、なんらかの形で使うことにしよう。そのまま書いても私小説まがいのものにしかならないだろう。
さて、仮に上記の話がほんとうであったとしても、おれにはまったく関係のないことである。なにを血迷っておれに会いたがっているのか理解に苦しむ。下手におれの連絡先など教えたが最後、どんな罠にハメられるかわかったものではない。
同窓会事務局の女性はすっかりドラマに巻き込まれているらしく、哀しそうにおれに返答を迫った。「あなたの(携帯電話の)電話番号をお教えしてよろしいでしょうか?」 おれは二、三秒考えて、あっさり言った。「教えないでください」
「そうですか。よろしいんですね?」事務員の声にやや非難の色が混じったが、おれはまったく同じトーンで答えた。「ええ、教えないでください。つまらない身内の事情で学校にまで迷惑をかけて申しわけありませんでした。身内のことは身内で処理しますので」
電話を切ってから、むらむらと腹が立ってきた。十数年前に卒業した学生の些細な家庭の事情ごときで、なんの罪もない大学事務員の女性に心労を強いた神経が許せん。この無神経さは、なるほどほんもののおれの遺伝子提供者にちがいない。それにしても、じつにありがちなシナリオである。フィクションであったとしても陳腐だし、事実であればなおさら陳腐だ。おれはなにやらブラック・ジャックにでもなったような気がして苦笑した。おれが外科医だったりしたら、話としてはもっと面白くなったはずなのだが、さすがに現実はそれほどのエンタテインメント性を持っていないようである。
「ほんとうだったらどうするの」と呆れていらっしゃる読者が目に見えるようだが、おれは血縁幻想というものをもののみごとに欠いている。自分でも気味が悪くなることがあるくらいだ。つまり、ある意味での精神異常者だという自覚はあるのだ。だが、誰に迷惑をかけるわけでもないから、こうして入院もさせられずに暮らしている。どこぞの老人が癌だろうが水虫だろうが、おれの知ったことではない。ちなみに、おれが就職以来ずっと母親と同居して養い続けているのは、少なくとも彼女に親らしいことをしてもらった過去があり、また精神的にも経済的にもまったく自立能力のない“二級市民”として育てられた彼女にいささかの憐憫の情を覚えるからである。むかしは、女性というものを社会がそういうふうに設計したのだ(いまもだっけ?)。いわば、纏足みたいなものである。治るものではなかろう。まちがっても、ただこの女性の腹から出てきたという理由から面倒を見ているのではない。また、妹と良好な関係を保っているのは、厄介な遺伝子提供者に共に苦しめられた被害者仲間としての意識があるからだ。けっして血が繋がっているという、くだらない理由によるものではない。
まったく、血縁などというものは、おれには屁のようなものだとしか思われない。試験管の中ですら簡単に作ることができる人間関係ではないか。事実、試験管の代わりが子宮であるというにすぎない夫婦は、掃いて捨てるほどいるだろう。なるほど、おれは精神異常者かもしれない。が、おれの仲間たちは増えつつあるし、そう遠くない将来、おれたちのほうが正常になるにちがいないとおれは確信している。
生物学的な親子かどうかのDNA鑑定をしてくれる商売というのがあって、自分の子がほんとうに自分の子か鑑定してもらいたがる父親が激増しているそうだ。嘆かわしいことである。鑑定の結果、いままで可愛がっていた子が自分の精子で受精した卵から発生した個体でないことがわかったとしたら、急に可愛がるのをやめるとでもいうのか? その鑑定によって影響を受けるのは、あくまで夫婦間の信頼関係だけであって、父子間の人間対人間の関係になんの影響があるというのだ。アホらしい。
まあ、おれの精子を欲しがるやつなどいないだろうが、おれに“種つけ”をしてほしかったら、認知を迫らない条件で気軽に応じてさしあげる所存である。厄介ごとに巻き込まれるのは厭だから、周辺の人間のインフォームド・コンセントはきちんと取っておいてね。そうして生まれた子は、その子を愛し育み親らしいことをした男性もしくは女性の子であって、けっしておれの子ではないのだ。
どうもお上は、旧態依然たる生物学的親子関係至上主義を温存する方向へ国民を誘導したがっているかのようにおれには思われるのだが、残念ながら(かどうかはよくわからないが)科学技術も現実の社会も、生物学的親子関係と社会的親子関係とを完全に分離せざるを得ない方向へと動いている。そうしてなにが悪いというのだ? 戸籍なんて紙きれはさっさと廃止せよ。悪しき優生思想が忍び込むことには厳重な警戒が必要だが、べつに「へー、ケンちゃんとこのお父さんって生物学的にも父親なのー? アタシやチャコちゃんとこはちがうのよ。ねっ、チャコちゃん」などという時代が来てもいいんじゃないか? まあ、古い習慣はなかなか死なないだろうけどね。
【1月17日(日)】
▼このサイトの「書籍関係いろいろのリンク」で、某出版社編集者、細田均さんの「hosokin's room」をご紹介しているが、このたび細田さんのサイトにある逆リンクコーナー「オレに関するリンクが貼られているページ(1999.1.17)」にて、『オレのページにコメントをつけられる場合は、「辛口」「毒舌」の2つの単語は使用禁止です』との宣言があった。これはなにも、細田さんが「オレは自分の意見をオブラートに包んで言う、いたって温和で控えめな人間である」などとカマトトぶって怒っておられるわけではない。あんまりあちこちで「辛口」だの「毒舌」だのと紹介されているので、そのボキャブラリーの貧困さ加減がつまらないとおっしゃっているわけなのだ。「わはははは、細田さんが辛口で毒舌なのはあたりまえじゃないか。みんな、そんな陳腐なことを書いているのか」とひとしきり笑い、はて、おれはなんと書いていたっけとリンク集を見てみると「出版業界事情を語る辛口のページ」となっていた。はらほろひれはれ。誰だ、こんな陳腐なことを書いたやつは。
細田さんに禁止されたからといって直す義務はないのだが、こういう縛りがあったほうが、より面白いにちがいない。面白いことはいいことだ。で、さっそく直そうといろいろ考えてみたのだが、いざとなると、なかなかいい文句を思いつかない。「激辛」ならいいのだろうかとか、「歯に衣着せぬ」というのもあまりに陳腐だとか、ああでもないこうでもないと苦しむ。なるほど、おれはボキャブラリーが貧困にちがいない。あげくの果てには、「けっしてひとりでは見ないでください」「今度は戦争だ!」「真実はそこにある」などと盗作に走る始末である。結局、こういうふうにしてみた。おれのサイトにとっても細田さんのサイトにとっても、アクセス数向上の効果があるかもしれない。ずるいって? でも、嘘はついてないと思うぞ。
【1月16日(土)】
▼野暮用で外出し「CoCo壱番屋」に入る機会を得たので、迷わず納豆カレーを注文してみる。以前に読者からメールをいただいて、いつかは食わねばなるまいと思っていたのだ(98年11月4日の日記)。この店にもバナナは置いてなかったが、納豆カレーはあたりまえのようにメニューにあった。トッピングは生卵とガーリックにする。これからデートでもしようというのであれば下心見えみえの臨戦ラインナップだが、なんのことはない、家に帰って仕事をするのだ。
食ってみると、これがなかなかいける。たしかに三瀬恵さんのおっしゃるように、カレーの辛さが納豆によってマイルドになる効果があるようだ。おれはカレーは辛いほうが好きだから、テーブルに置いてある激辛スパイスをかなり足さなければならなかった。納豆の糸を捌くためカレースプーンをくるくると回しながら食っているさまは、遠くから見たらさぞや奇ッ怪であったろう。
▼雑誌 Newsweek(January 18, 1999)のインタヴューで三宅一生が毎度おなじみの服飾論を展開していて楽しい。楽しいったって、おれはファッションにはまったく興味がない。ともすると“ゲージツ家”扱いされてしまう三宅氏は、そんな世評などどこ吹く風とまるで大工の棟梁みたいなことを言うので、それが面白いのだ。氏のスタンスを大ざっぱに要約してみよう――自分は藝術家と仕事をするが、自身は藝術家ではない。服なんてものは未完成品として世に出るもので、それが着てもらえたときはじめて、作品として完成するのだ。自分は実用品を作っているのであって、鑑賞するためのものを作っているのではない。藝術を“使う”ことはできんでしょう――とまあ、こういうことをあっけらかんと言うわけである。イッセイ・ミヤケを実際に着ている人にはこんなことはあたりまえの認識らしく、みなが異口同音に三宅氏自身と同じことを言う。大原まり子さんも、むかし「ワイアード」で、三宅一生のこうした本質を的確に指摘したうえで持論を展開しておられた。おれは着たことがないのでわからん。でも、たしかに「こんなもん着て歩くやつがおるか」と思うような服は少ないよな。見ただけでも、着心地がよさそうだとは感じる。
アメリカの雑誌のインタヴューなので、イッセイ・ミヤケは“You can't use art.”と英語で言ったことになっていて(まあ、ほんとは日本語かフランス語で答えたのかもしれない)、オスカー・ワイルドの“All art is quite useless.”(from The Preface of The Picture of Dorian Gray)を連想させるところが、これまた愉快だ。オスカー・ワイルドもイッセイ・ミヤケも、記号論理的には同じことを言っているわけだが、その含意と彼らのスタンスはほとんど正反対のところにある。ワイルドは、使えないものを作ってもいいのはそれが藝術であるときだけだと言っているのに対し、ミヤケは、使えるもんは藝術じゃないじゃんと言ってのける。世界のイッセイ・ミヤケなら「おれの藝術は、使えるんだ」と言ってもいいはずなのだが、そうは言わないところがダンディズムなのか、それとも、真底、自分は藝術家じゃないと思っているのか。どうも、後者のような気がするなあ。このおっちゃん(失礼)は、火星探査機とか人工衛星とか作ってる人たちと同じようなメンタリティーを持っているように思われる。
勝手におれが想像しているだけなんだが、三宅一生とアーサー・C・クラークは、とても話が合うんじゃなかろうか。そういえば、クラークの着てるものって、いつもどことなくイッセイ・ミヤケっぽくないか? 一度、どこかの雑誌で対談を企画してくれんかな。
【1月15日(金)】
▼成人の日だったりするわけだが、思い起こせば、おれは成人式に行かなかった。べつになんの興味もなかったし、ただただ面倒くさかっただけである。おれは式典嫌いだと前にも書いたよね。そういうわけで、おれはいまだに“人ならぬもの”なのである――じゃなくて、「これを境に大人になった」という実感がなーんにもないのである。
もっとも、いまの時代に「私はこれを境に大人になりました」なんて実感を持つ若者がいるんだろうか? 成人式に出るだけで自分は大人になったと思い込める単純なやつは、まずいないだろう。
ふつう、好むと好まざるとにかかわらず、法的にはひとりでに大人になってしまうわけだ。どうも気色が悪い。おれにも、思い当たる節目というやつがない。初めて酒を飲んだときか(そんなもん、ガキのころだ)? 初めて煙草を吸ったときか? 初めてパチンコをしたときか? 初めてセックスしたときか? 初めて働いて金をもらったときか? 結婚したり子供を作ったりする趣味の人であれば、あるいは、結婚したときとか、子供が生まれたときとかが節目になるのかもしれないが、おれはそういうオプションは取らない方針だし、仮にそんなイベントを体験したとしても「これで大人になった」と実感したかどうか、はなはだ疑問である。
この調子では、死ぬときになってようやく「ああ、大人になった」と思うのかもしれない。いや、それも怪しいな。結局、おれは大人になれないまま死んでゆくような気がする。たぶん、一生、十二歳の少年のままでいるんだろう。こういうと聞こえはいいが、要するに、ウーパールーパーみたいなもので、幼態成熟しちまってるだけだよな。ウーパールーパーというと聞こえはいいが、要するに、アホロートルのことである。おっと、このネタは筒井康隆のパクリだ。
今日はひとつ、さすがアホ――いや、人生の先輩はちがうと、新成人に尊敬される日記にしてやろうと思ったのだが、山口瞳のようなかっこいいことは、おれには一生書けそうにない。
【1月14日(木)】
▼これだけ体験情報が来るということは、納豆の冷凍保存はかなりの人が実行していると判断してよいだろう。くりりんさんは、納豆が冷凍保存できることを「オレンジページ」で知ったとおっしゃっている。えーと、お父さん方にはご存じない方もいらっしゃいましょうから、念のため申し上げておきますと、「オレンジページ」ってホームページじゃないからね。料理の雑誌というか、生活情報誌というか、たしかダイエー系列の紙媒体である。該当記事を書き写して送ってくださったので、ご参考までに孫引用しておこう――「手軽にホームフリージング 納豆 買ってきたときのパックから取り出し、ラップに包んで厚みを薄くして、冷凍用パックにいれる。解凍は室温に30分ほどおけばOK。半分解凍した状態で刻めば、べとつかずにひき割り納豆ができる。塩少々を加えて練るとこくのある味に」(「オレンジページCOOKING 1991WINTER『お料理1年生』」91ページ)
してみると、「冷凍した納豆をかき氷器で粉砕すれば、手軽に碾割納豆が作れるかもしれんな」(99年1月9日)と冗談半分で書いたおれのアイディアも、まんざらではなかったということか。冷凍して粉砕したはいいが、常温に戻ると砕いた納豆がひとりでに集合し、元の納豆になって襲ってくる『アタック・オブ・ザ・ターミネーター納豆』というB級映画を思いつく。くだらねー。
▼ツーカーサービスステーションの前を通りがかり、ふと考える。Puffyは、おれは向かって左側のほうが好みである(名前はいまだに憶えられん)。そういえば、以前にパイレーツについても同じことを書いた(98年10月2日)。はて、WINKの翔子と早智子はどっちがどっちだったっけ? あんまり無表情だったので記憶が曖昧だ。ピンクレディーはミー(いまはMIEか)が左だったかな。いとし・こいしは――べつにどっちが好きだということはないな。
いろいろ思い浮かべてみると、どうもあの手のコンビなりデュオなりは、向かって左側のほうが美人だったり可愛かったりするような気がする。しませんか? あるいは、見ているおれのほうこそが、向かって左側に配置されるようなタイプに好感を持つタイプなだけなのかもしれないけど、もしかして、ああいう世界には可愛いほうを向かって左側に配置するというルールでもあるのだろうか? だとしたら、それはなぜか? なにか認知科学的に深ーい理由が隠れているような気もする。「いや、おれはPuffyもパイレーツも右がいい」という人から抗議されそうだが、実際のところ、どうなんでしょうね?
【1月13日(水)】
▼ひたすら納豆の話が続いているところへもって、晩飯を食いながらテレビを点けると、『ためしてガッテン』(NHK総合)で納豆特集をやっている。晩飯のメニューに納豆はない。おれはあまり、納豆をおかずにして飯を食ったりしないのだ。納豆は納豆として納豆だけ納豆を食いたいときに食う。
“究極の納豆”などともったいをつけるから、いったいどんなものが紹介されるのかと固唾を呑んでブラウン管を睨んでいたのだが、なんのことはない、ただひたすらかき混ぜると究極の納豆になるらしいのだった。混ぜたほうがうまいのはたしかとはいえ、いくらなんでも四百回以上もかき混ぜていられるものか。いらちのおれにはとても真似できそうにない。その四百回かき混ぜた納豆を食って、山瀬まみがうまいうまいとしきりに感激していた。ご苦労さま。
▼昨日はアメリカ納豆事情をお送りした冷凍納豆アワー、今日はドイツである。十年以上前、お父様の仕事のご都合で西ドイツ(当時)に住んでおられたlunaさんのお便りによると、ドイツのスーパーでも冷凍納豆が売られていて、「日本での扱いに比べたら、かなりの高級食材」だったのだそうだ。妙なことに、luna さんは渡独するまではさほど納豆が好きではなかったのに、あちらには日本食材が少ないものだから、ドイツに滞在するうち大好物になってしまったのだという。さもあろう、さもあろう。やはり納豆は日本人の心のふるさと、あの同じような姿をした豆が狭いところでねばねばべたべたぬちょぬちょとひしめき合っているさまを見れば、近親憎悪――じゃない、親近感も湧いてこようというものである。このあたり、ちょっと清水義範が入っている。
おれが思うに、納豆を食うとドイツ語がうまくなるのではなかろうか。唇に粘りつく糸を切りながら喋らねばならないため、自然と呼気に勢いがつく。I だの je だのと軟弱な音を出していたのではとても納豆の糸は切れない。力強く ich と硬口蓋破擦音で一気に糸を吹きちぎるのだ。イッヒ パック アケルネン。ウント タレカーケ イッヒ ダス カラシッヒカイト シボルネン。マゼルネン ネルネン ウント マゼルネン。イッヒ マメーネ ハシニッヒ カラミーリエ ダーバイ タベルネン ハーベ イッヒ ドッホ ドッホ ムセルネン。ディー マメーネン イトヒクネン ニーダー ヴィーダー ツヴィッシェン。イトキルティッヒ ネバルネント マメーネン ニオウネン。グロース マメーネン ワラヅット ミット ナットー ヤメラレヘン。アーバー クイスギルト クダスネン ウント ヘーデル ゲフンデン。グーテン アペティート。
【1月12日(火)】
▼さてさて、人様の投稿ばかりでお茶を濁すのもどうかと思うので(まあ、なにぶんこのところ忙しいので許してね)、ひさびさに「マダム・フユキの宇宙お料理教室」をやることにする。もちろん素材は納豆だ。今回は、ああら不思議、眠気がふっ飛ぶ納豆である――と、ここらで厭な予感がしているあなたは鋭い。いや、じつはひどく眠いうえに小腹が空いているという最悪の状態だったので、冷蔵庫を開けたときに天啓に打たれた。そうじゃ、エスタロンモカ内服液(エスエス製薬)を納豆にかけて食ったら、これはたいへんパワフルな食いものになるにちがいない。題して「エスタロンモカ納豆」(まんまやがな)。エスタロンモカは強烈なコーヒー味がする反面、かなり甘い。納豆に砂糖をかけて食う人もいるくらいだから、合わないということはないだろう。やってみると、これがうまい。コーヒー風味の甘納豆という感じである。ちょっと糸を引きにくくなるのが残念だが、眠気と空腹に悩まされている方には、おめめぱっちり、栄養満点の嬉しい一品と言えよう。
▼冷凍納豆情報は続々寄せられてくる。今日ははるばる海外からの投稿。アメリカの大学に留学中の眞田則明さんによれば、冷凍納豆はアメリカでふつうに販売されているそうである。そうか、うかつだった。アメリカったっていまや日本人がうようよいるわけで、納豆を売ってないはずがない。が、まさか地元で作ってるとは思えない。畢竟、冷凍納豆になるのだろう。味はそれほど悪くないらしいが、「たまにとてつもなく不味いものに当たる」ことがあるとのこと。どのくらいまずいかと言うと、「納豆の残骸としか言い様のない代物で、納豆の匂いだけを残して歯触りと味を抜いた品」なのですと。さすが学究に勤しんでおられるだけのことはあって、このすさまじい食品の特徴を、鋭い観察と深い思索を経た簡にして潔をきわめる表現で書き記しておられる――「食べられません」
それにしても、そんなものを納豆として売られるのは日本人として心外である。日本食は健康にいいとかなんとかいう不純な理由で試しに納豆を買ってみたアメリカ人が、たまたまその“納豆の残骸”に当たったらどうするのか。「ナットウとはこういうものだ」と思ってしまうのではなかろうか。アメリカで冷凍納豆を売るのはけっこうだが、そういう不適切な状態のものではなく、ちゃんと食えるものを売っていただきたい。
▼おやおやおやおや? 例の「不二の昆布茶」のCMなんだが、ねこたびさんがべたべたネイティブの関西人であるご夫君にお尋ねになったところが、『「不二の昆布茶」などというものは全く知らない』との答えが返ってきたそうである。そんなバカな! おれのような帰化関西人ですら知っているというのに。ううーむ。これはどうやら世代間ギャップであるらしい。そういえば、最近――いや、最近どころか、もう十何年もあのCMを観ていないような気がする。だいたいCMなんか放映しなくても、売れるもんな、あれは。
【1月11日(月)】
▼冷凍納豆続報。海さんからのお便りが妙に切実で説得力がある。海さんは昨年三月末まで学生で下宿をしておられたのだが、「スーパーで平常価格108円の納豆4個パックが98円のセールになる度、冷凍庫の中の在庫を考えもせず、逆上気味に買い込み、そのまま冷凍」していたとのこと。すばらしい。まだこんな学生はたくさんいるにちがいない。昨今、どうも学生というと、豪華マンションのようなところにひとりで住んでいてスポーツカーを乗りまわししょっちゅう合コンをしては男や女を自室に引っ張り込んで朝までセックスをしブランドものに身を包んで暇があれば海外旅行に出かけてよっぽど暇があれば試験前だけ勉強をしテレビの街頭インタビューに捕まって「日本の首相? えー、ナカソネさーん?」などと悪びれもせずニコニコと答える人畜無害の有閑階級であるかのごときイメージが定着しているような気がするが、そういうステロタイプの学生がおったとしてもそれはほんのひと握りで、やっぱりいまも納豆が十円下がったからと「逆上気味に買い込」み、日々勉学に励んでいる諸君がほとんどなのであろうとおれは信じたい。逆上しているのはおれのほうかもしれんが、おれが出た大学は一般的に金持ちのご子息が大勢いるボンボン学校だということになっていて、貧乏人としては世間のまちがった認識にはなはだ肩身の狭い思いをしたトラウマがあるのである。実態はというと、たしかに「こいつは富豪刑事か」と思うほど次元のちがう金持ちも多少はおったが、ぼろぼろの服を着て蒼い顔でうろついている学生のほうがはるかに多かったものだ。世間のイメージなどというものに惑わされてはいけません。そりゃ金があるに越したことはなかろうが、そもそも理屈で考えても学生に金があるはずがなく、昼飯を抜いてでも欲しい本を買うのが学生の正しい姿である――てなことを言い出すと、爺い扱いされるにちがいないが、こういう学生がいまだ健在だとは、おじさんは嬉しい。日本の未来は明るいぞ。
それはともかく、海さんによれば、「どのくらい持つか、というのは、試すほど長期在庫にすることがなかったため、分かりませんが、半年は平気です」だと。そりゃ、十二分に長期在庫ですわ。やはり人体実験の生存者がいると心強い。みなさん、半年は保つそうですよ。解凍には電子レンジを使わず、自然解凍するのだそうだ。「翌朝分は前夜寝る前に、夕食分は昼間外出する前に冷蔵庫に移しておけば、普通に戻っています」ってのがまたいい。自然のリズムに合わせて(?)納豆を食っているという感じが伝わってくる。風と水が育んだ納豆を、呼吸するように食う。いいねえ。あなたがたによい納豆が粘りますように。
アメコミ者で有名な海法紀光さんも冷凍納豆の経験者で、海法さんの場合も自然解凍だが、ちょっと流派がちがう――「ある程度解凍したら、上からしょうゆをかけて、かき混ぜて解凍を促進させます。…がしかし、あわただしい朝食の時だと完全に解けず半分凍ったまま、熱いご飯にかけて、しばらく待つ…ということもしばしば」 ご飯の熱で解凍するところが、なかなか合理的である。生活の知恵ですな。「少し凍り気味のも食感としては、悪くないです。歯ごたえのある納豆という感じで」 おおお、納豆シャーベットみたいなものか。
うむ。納豆を冷凍している人は意外と多いことがわかった。よし、いまちょうど冷蔵庫に納豆が5パック入っているから、賞味期限が迫っているものをさっそく冷凍してみよう。
↑ ページの先頭へ ↑ |
← 前の日記へ | 日記の目次へ | 次の日記へ → |
ホーム | プロフィール | 間歇日記 | ブックレヴュー | エッセイ | 掌篇小説 | リンク |