間歇日記

世界Aの始末書


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98年12月下旬

【12月31日(木)】
▼いやあ、なんだかんだ言ってるうちに今年も終わってしまう。子供のころはこう、大晦日などというと、なにやらいいことがありそうなわくわく感に満ち溢れていて、夕食を食うころから年が明けるまでの時間がずいぶん長かったような気がするのだが、最近ではなーんの感慨もない。ああ、まだ原稿が――などと、とうとう二年越しになってしまうのが確実な仕事を気にしつつ、どうでもいい細々とした用事に忙殺される。やれやれ。正月休みというのは、下手をするとふだんより忙しかったりするわけで、なにやら本末転倒だ。眠くなってはいかんので、酒もあまり食らわぬ。あっ。なんということだ。またもや年賀状の“ね”の字も書いていないではないか。年末はとにかく、それどころではないのである。それどころではないが、なんとか効率化を図ろうと「筆まめ」など買ってきてしまったが、使いかたを詳しく勉強している暇などないので、今年もろくなものにならないにちがいない。あまり効率化を図ったのでは年賀状の意味がないような気もして、そこいらの矛盾に毎年苦しむ。そういうわけで、今年も元旦に届く年賀状が書けなかった。おれに年賀状を出してくださった方々には、無粋をお詫びいたします。いただいた方には必ずお出しするようにしておりますので、最悪の場合、十五日ころに届いたりしたら、笑ってやってください。貧乏暇なし、暇なし飛び出す、なんてこと言うても若い人にはさっぱりわからん。
 夜も十時を過ぎたころ、パーポーパーポーとすぐ近所に救急車がやってきた。どこぞの年寄りが餅でも喉に詰めたのだろうか。みなさんも気をつけてくださいよ。若い若いと思ってても、唾液の分泌が悪くなって、嚥下の協調運動を司る神経系にガタがきているかもしれない。
 まあ、今年はほんとにいろんな仕事をさせてもらった。本屋で売ってる雑誌に手前の文章が載るなどという事態にも最初のころこそ胸躍ったものだが、最近では悪ズレしてきて、こう言っちゃなんだが、あまり感動がない。来年は初心に還って、自分に喝を入れることにしよう。そもそも、雑誌に一ページ広告を出そうと思ったら、いったいいくらかかることか。アクセスの多いウェブ雑誌にバナー広告を貼ろうと思ったら、いくらかかるか。そういう貴重なスペースに駄文を載せてもらって、あろうことかなにがしかのお金がいただけるだけでも、ありがたくてバチが当たるくらいのもんである――と基本的には思っているが、やっぱり慣れてくるとお金はたくさんもらえたほうがいいよなあ。いかんいかん、こういう了見がいかんのだ。やはり兼業もの書きというものは、「藝は一流、人気は二流、ギャラは三流」という上岡龍太郎のような境地をめざさなくてはならぬ。しかし、あの人もいまはギャラは一流の下くらいやろうなあ……。いかんいかん、人のことは人のことじゃ。だいたい、釘一本、米一粒作れるわけでもない藝人なんぞは、末期哀れは覚悟の前――ってのは桂米朝師匠の請け売りだが、けだし名言である。そやけど、あの人、人間国宝やしなあ……。いかんいかん、人のことは人のことじゃと言うに。
 というわけで、泣いても笑っても一九九八年も終わり。このホームページも、みなさまのおかげをもちまして、トップページも十万カウントを超え、日記ページは十四万カウントを数えるまでになりました。くだらんことばかり書いている本サイトに今年一年おつきあいくださいまして、まことにありがとうございます。来年は心機一転、目から鱗が落ちるような有意義なことを書いたりはたぶん絶対にしないでありましょうから、変わらぬ気楽なおつきあいを、ア、隅から隅までずいずいずっころばし、御願い奉ります――ってのは、ほんとは明日書きゃいいんだよな。

【12月30日(水)】
▼カラオケのメンバーは、さっきの鍋の独身四人組に加えて、佐脇洋平さん、藤元直樹さん米村秀雄さんの七人。このむさい(失礼)男七人が密室に集いなにを歌うのかといえば、そりゃもう、アニソンに決まっている。ときおりアニソンでないものも混じり、佐脇さんの「Jack the Ripper」(聖飢魔II)にはみなが驚く。デーモン小暮そっくりなのである。人にはいろいろな隠し芸があるものだ。「叫べ、呪え、怒れ、殺せ!」と熱唱する佐脇さんの隣で、米村さんは「ええ歌や……ええ歌や」としきりに頷きながら、感動に打ち震えておられた。たしかに名曲だとは思うが、そういう“ええ歌”じゃないと思うんだが……。
 なんだかんだで朝五時に追い出されて、ラーメン食ってから旅館に帰って寝る。二時間ほど寝て、すぐ朝飯。ついさっきラーメン食ってるのに、平気で食える。やはりカラオケはかなりエネルギーを使うようだ。さいとうよしこさんのスタイルがいいのは、余分な脂肪をカラオケで燃焼させているからにちがいない。着メロ本の次は『さいとうよしこのカラオケダイエット』で行けば、三百万部は堅いのではあるまいか。
 朝食のあと部屋に戻って「クレヨンしんちゃん」を観ているうち、旅館を出る時間となる。みなで喫茶店に入り、三々五々解散。
 ついでなので、おれは四条河原町あたりをうろつき、丸善で広辞苑を買う。荷物の少ないこういうときにでも買っておかねば、いつ買えるかわからない。ちなみにおれは、果物屋で西瓜を買って丸善に置いてくるという香り高い文学作品の構想を温めているのだが、なぜかまだ書く気にならない。ドリアンのほうがいっそう香り高いインパクトがあるかもしれぬという迷いが断ち切れないのである。
 驚いたことに、もう腹が減ってきたため、四条大橋そばのPRONTOでペペロンチーノを食う。やはりカラオケはかなりエネルギーを使うようだ。さいとうよしこさんの――ってもういいですかそうですか。どうも京都SFフェスティバル以来、田中啓文さんや田中哲弥さんの呼吸に毒されているようだ。
 帰宅してメールをチェックすると疲労がどっと襲ってくる。まだ年内に仕上げねばならない原稿がひとつあるのだが、とにもかくにも寝る。

【12月29日(火)】
▼恒例の“関西のSFな人々の忘年会”に参加。いまだに正式名称のよくわからない忘年会なのだが、青心社の方々や関西海外SF研究会まわりの人々が集まって催す会である。毎年書いているから、説明は省略。少し遅れてしまい会場の旅館に駆けつけると、いい歳をしたおじさんおばさん(家族連れの人も多い)が一室に集まってテレビのアニソン特番を嬉々として観ていた。大人のほうが嬉しい番組だ。『ハクション大魔王』のテーマソングを歌っていた歌手が出てきて、「今夜、三十年ぶりに歌います」などと紹介されているのには笑った。あの人、マジで歌うまいよな。
 大広間で鍋をつつく。家族連れが同じテーブルになるので、必然的に独り者は同じテーブルに集まることになる。おれたちのテーブルはといえば、水鏡子さん岡田靖史さん堺三保さんにおれと、見るからにむさいおじさんばかり(失礼)。酒も煙草もやるのはおれだけでなんとなく気が引けないでもなかったが、女性に縁がない点では似た者同士で気が楽だ(失礼)。飯を食いながら堺さんとSFオンライン関係の打ち合わせなどしているうち、いろいろSFの話になる。あとで大野万紀さんが、「SF忘年会で飯のときからSFの話をしておるとはなんたることか」とヘンな呆れかたをしておられた。ひととおり食うものを食って、恒例のビンゴゲーム。驚くべきことに、一枚のカードで八つもリーチがかかっているのに、おれはとうとう当たらず。運命にここまでもったいぶったいたぶられかたをすると、かえって清々しい。ハズレの人たちで参加賞のくじ引きをしたら、図書券三千円ぶんが当たった。これはおれにしてはえらく運がいいほうである。来年は明るい年になりそうだ。なることにしておこう。なるにちがいない。
 堺さんが鍋を食いながら(厳密には鍋の中の料理を食いながら、である。誤解のないように)、「夜中にカラオケに行こう」と突如提案。なんでも、最近カラオケに飢えているそうで、今夜は肩のところにさいとうよしこさんの生霊が憑いているのだそうだ。おれも飢えていたので、すぐ話に乗る。
 食事のあとあちこちの部屋を行ったり来たりしながらくつろぐ。水鏡子さんと佐脇洋平さんは、例によって布団の上でギャザっていた。臨時開設されていた菊池誠ロックギター教室」の様子を横で眺めているうちに夜中になったので、カラオケに繰り出す。

【12月28日(月)】
「英語を話せると、10億人と話せる。」などと英会話学校の広告の中から金城武が誘いかけている。中条かな子に誘いかけられるほうがどちらかというと嬉しいが、あそこは潰れてしまった。それはともかく、“10億人と話せる”と聞いて、「10億人もの人と話せるのか」と感心するか、「なんだ、10億人ぽっちか」と落胆するか、あなたはどっちだろう? 単純計算だと、地球人が六人いたら五人とは話せないわけだ。でも、この数字はおそらく、英語が公用語でない国の人同士が英語で話す場面を想定していないだろう。「ああ、英語とはなんと便利な言葉であろうか」としみじみ実感するのは、じつはそういうときなのだ。
▼あいかわらず一部のマスコミは牧師ごっこをやっている。だからあ、それはあんたたちの仕事じゃないってば。そんなにたかが他人の生き死にが気になるんなら、「オウム真理教に入信すれば救われるよ」と教えてあげれば? 救われるのは事実だもんね、たしかに。死にたいやつが死のうが生きようが、おれの知ったことではない。おれが関心を持つのは、おれやおれにとって大事な人たちがそいつらのとばっちりを食らって毒殺されないかどうかということだけだ。まあ、牧師ごっこをしているのは一部のマスコミだけで、警察はやるべきことを淡々とやってるようだから頼もしいね。
 早くもウェブ上での情報発信に規制をとかなんとか短絡的にたわけたことをほざいている人々が出現しているようだ。ある種の規制が必要なのはたしかだが、こういう事件を利用して、ここぞとばかりに尻馬に乗って曲学阿世するのはやめてもらいたい。まあ、曲げる学がある人はまだいいほうで、わけもわからず「インターネットってコワいわねえ」と人前で踊って怖がってみせる輩は、はっきり言って、おれはユーザとして迷惑に思う。そういう輩にかぎって、ユーザですらなかったりすると、もっとタチが悪い。
 そもそも、自殺の教唆幇助の話が、いつのまにやらあちこちで、ただの情報発信の話にすり替わっているのは、いったいどうしたことだ? 死にたいというやつに、「この薬をこの説明書に従って服用すれば死ねるよ」と手渡すのは自殺幇助だが、駅の便所に毒薬の名称や化学式と服用方法を落書きして、たまたまそれを読んだやつがその情報を利用して自殺したとしても、これは自殺幇助ではない(風紀紊乱もしくは器物汚損には問われるだろうが)。いま、おどろおどろしげに規制云々と騒いでいる人は、便所の落書きを規制しろと言っているに等しい。繰り返すが、未成年に酒を飲ますなというレベルの、ある種の規制は必要だ。だが、その話は、今回の事件とはまったくなんの関係もない。公共の福祉と表現の自由とのトレードオフに関するコスト論に揺れているインフラを、たまたま死にたいやつと死なせたいやつが利用したにすぎない単純な話ではないか。インターネットがなくたって、死にたいやつが簡単に死ねる方法など、どこででも手に入る。いっそ図書館で薬学書の貸出しを規制でもするか? どうしても死にたいやつは、努力を惜しまず淡々と死ぬのであって、情報収集になにを使おうが大きなお世話である。
 さらに幻惑的なことに、話は“死ぬ権利”にまで広がっている。これはもちろん、インターネットとはなんの関係もない。この問題はこの問題で非常に重要なのだから、インターネットとは切り離して論じていただきたい。一応、自殺幇助は刑法上の犯罪ではあるから(おれは本質的に悪いこととはちっとも思わんが)、法治国家の恩恵を受けている身としては件の“ドクター・キリコ”のやったことを容認するわけにはいかない。ただ、勘ちがいしてはいけないのは、法律屋さんは宗教屋さんではないということである。自殺教唆・幇助を犯罪としているのは、殺人教唆・幇助と容易には区別がつけにくく、前者を犯罪にしておかないと社会秩序の維持に支障を来たすというプラグマティックな理由が大きい。社会に与える心理的な影響にも、その立法主旨は鑑みているだろう。宗教屋さんとは、たまたま結論が一致しているにすぎないのである。自殺幇助(教唆はともかく)を認めたほうが、より社会の安寧に役立つような状況が生ずれば、法律なんぞは淡々と動く。たとえば、SFファンならずともおなじみの映画『ソイレント・グリーン』で描かれたような社会(安楽死者の死体を加工して食糧にする飢餓社会)が一例だが、そこまで極端な社会を想定せずとも、それこそほんもののドクター・キリコが活躍しそうな状況に於いて、一部の国・州では、すでに合法的な自殺幇助が可能である。自殺幇助罪は、国家がおれたちに「人生はすばらしいから生きなあかんよ」などとおせっかいを焼いてくれているのではない。国家の成員たる一国民は、社会秩序の維持のため“自己の存在を守らねばならない”と言っている“ロボット工学三原則”みたいなものが、刑法のあの条項なのだ。それが証拠に、ロボット工学三原則であれば第三原則のこの条項に優先する、第一だか第二だかの原則が出現する状況下では、殺人も自殺も簡単に合法化される。だから宗教屋さんは、たまたま“いま”味方であるにすぎない法律屋さんに調子を合わせてはいかんのだ。もっとも、調子を合わせてこられた宗教だけがうまく生き延びているという面はあるけどね。
 おっと、宗教嫌いのおれが宗教屋さんに警告する義理などなにもない。なんの話だっけな。そうそう、だから、教唆・幇助と情報発信とを混同するなということが言いたいのである。アホなので混同しているのならまだ微笑ましくもあるが、意図的にやってる人は、そういういやらしいことをしなさんな。
 さて、面白いので、今日は死にたい人のために“自殺に役立つ情報”を堂々とウェブ上に公開してやろう。題して「マダム・フユキの自殺教室」。奥様、メモのご用意を。
 以下のことを実行すれば、まず確実に死ねる。言っとくが、おれは情報を発信しているだけであって、「ぜひ死になさい」と言ってるのではけっしてないよ。

【効果的な自殺のしかた】

◆高層ビルから飛び降りる。
◆灯油をかぶって火をつける。
◆足をコンクリートで固め、両手を後ろ手に縛って海に飛び込む。
◆市販の睡眠薬をどれでもいいから五瓶全部飲む。
◆刃渡り二十センチ以上の刀を両手で逆手に持ち、まず左の脇腹に深々と突き立てる。それから腹直筋に垂直に腹を切り開いてゆき、右の脇腹まで来たらいったん刀を抜く。次に、鳩尾のやや下あたりに刀を突き立て、先ほどの傷口と直行するよう、恥骨のあたりまで一気に斬り下ろす――え? それからって? おい、まだ生きてるのか。
◆渡米し、ハイウェイを時速二百キロで蛇行運転する。パトカーが追いついてきたら車を止める。警官が近づいてくるのを見定め、両手に持ったモデルガンを警官のほうに突き出しながら突然車からまろび出る。空砲を二、三発鳴らすと、さらに確実。

 さて、おれは自殺教唆もしくは幇助で逮捕されるのかな?
 年末特別企画ということで(いつそんなものになった?)長々と書いたけれど、よく考えてみたら今日の日記は、98年2月7日にバタフライナイフ騒ぎについて書いたこととほとんど同じだ。つまらんなあ。
▼あっ。明日は例年の“SF忘年会”で外泊なので、更新はあさって以降になります。

【12月27日(日)】
▼はて、はたして今日という日は存在したのか。やらなければならないことばかりがどんどん増えてくるが、体調最悪のため、ほとんど寝て過ごす。テレビすらも一度もスイッチを入れていない。そういえば、このテレビはおれが高校生のころからあるぞ。計算してみたら、このテレビは今年でちょうど二十年使っている。よく映っているものである。みんながこんなことをしていたら、日本経済はまちがいなく崩壊する。来年は日本経済のためにも、テレビが買えるようにがんばることにしよう。いや、テレビを買うくらいの金が工面できないわけではない。ただ、より優先順位の高いほかの活動に使ったり、ほかのものを買ったりすると、テレビが後まわしになってしまうのであった。後まわしにしているうちに二十年経ってしまったのだ。なんともはや。「まあ、いつでもやれる」とやりたいことを後まわしにしていると、二十年くらいはあっという間に経ってしまう。若い人には実感が湧かないかもしれないが、ほんとなんだから。「まあ、いつでも死ねる」と思って後まわしにしていると、二十年や三十年や五十年や八十年くらいはあっという間に経ってしまい、わざわざ自殺しなくてもすぐにひとりでに死ねる。だから、思い立ったらすぐに死なないと――って、ちがう、そういう話じゃないってば。「いつでも死ねる」というのは「リンゴは赤い」ってのと同じで、なるほど事実なのである。だったら、なにも“いま”自分の人生に不可逆的な処置を施すことないじゃん。人生は博打以外のなにものでもないのだから(横山やすしかい)、「死んだらおしまい」という事実がある以上、生き続けるほうに張るのが博打としては合理的である。簡単なことだ。「死んでも生き返ることができる」ってルールが将来導入されたら、そのときこそ“戦略的にいま死ぬ”ことの意味も出てこようというものだが、いまはそうじゃないんだから、生き続けるほうが得だ。まあ、「生きててもなにもいいことなんかない」と、なぜか自分の予知能力に絶大な信を置くことができるのなら、おれには「生きてたほうがいい」と説得する言葉はない。人生生きるに値するかどうかなんてのは、主観的なものですからなあ。10持ってるものが9になるのを悲観して死ぬやつもいれば、2持ってたものが3になるだけで天にも昇る気持ちになるやつもいる。後者が前者を見て言うことは、ただひとつ「アホか」である。
 それにしても、例の自殺幇助事件、またしてもマスコミ媒体の多くは愚にもつかないことばかり並べ立てては、深刻ぶりっ子をしている。死にたがってる人間に、人生は生きるに値すると自信を持って説教できるほどの御仁かあんたらは? そりゃ、あんたらにとって人生は生きるに値するものなのかもしれんが、主観的にそうじゃないと思っている人にあんたらの基準を押しつけても無駄なことである。おれにはとてもそんなエラそうなことは言えんね。おれが彼らに言えるのは、「博打として考えれば生き続けたほうが“勝つ”確率が高い」「勝手に死んだら人に迷惑がかかる」「生きたいのに死ななければならない人たちに失礼である」という客観的な事実だけである。“勝つ”ってのはどういう意味かというと、「ああ、生まれてきてよかった」と思える時間を一瞬でも持てれば“勝った”ことになるだろうね。「人生は生きるに値しないよ」と言う人に、おれは「おれにとってはそうではないが、なるほど、あんたがそう言うのなら、あんたにとってはそうかもしれん」と感想を述べることしかできない。ほかになにができるというのだ? そりゃ、おれにとって大事な人が死のうとしたら、おれは「あんたが死んだら、おれは悲しいのでぜひやめてくれ」と言うだろう。目の前でどこかの他人が川に飛び込もうとしたら、おれは止めるだろう。夢見が悪いからだ。だから、死にたい人はおれの目の届かないところで勝手に死んでくれ。ご存じのようにおれは納豆が好きだが、目の前で誰かがまだ食える納豆を大量にドブに捨てていたら「ああ、もったいない」と不快になるだろう。おれが誰かが自殺したというニュースを見て感じるのは、それとまったく同じ不快である。それ以上でも以下でもない。そして、その不快もすぐに忘れてしまう。そういうものだ。
 マスコミさんもエラそうに牧師の真似ごとなんかしてないで、あの毒物が自殺以外の目的に使われ得た(使われ得る)ことをなによりも重大視して報道していただきたい。なあにが「自殺さえ遊び感覚化」(讀賣新聞)だ。あんたら、湾岸戦争のときも同じようなこと言ってたな。酒鬼薔薇事件のときもだ。あたりまえのことを、いまさら鬼の首でも取ったように言うんじゃないよ。あたりまえのことをあたりまえに言うなら、せめてボードリヤールくらいの華麗なを見せなさい、藝を。

【12月26日(土)】
▼なんとね、薬物による例の自殺幇助事件、薬を送ってたやつは「ドクター・キリコの診察室」なるホームページを開いていたのか。まあ、おれが同じ商売するとしたら、きっと同じ名前をつけたろうな。ブラック・ジャックの宿敵として有名だもんね。もっとも、キリコは必ずしも悪役ではない。元軍医であるドクター・キリコは、薬や器具の乏しい戦場で瀕死の負傷兵たちを見るに見かねて安楽死させてやっているうち、助かる見込みのない患者は安らかに殺してやったほうがよいとする哲学を持つに至ったという背景がちゃんと何度も描かれている。簡単に善悪の構図に嵌められないからこそ、手塚治虫はキリコをブラック・ジャックの好敵手として据えたのだ。ドクター・キリコとて、「死への一時間」(『ブラック・ジャック』少年チャンピオン・コミックス版13巻、秋田書店)では、みずから科学者に開発させた安楽死用の新薬カルディオトキシンを誤って飲んでしまった患者を救うべく、ブラック・ジャックと共に駆けずりまわっているのだ。
 ここの読者の多くには言わずもがなのことをなぜわざわざ書くかというと、マンガのキャラクターの名で自殺幇助が行われていたという点のみが、マスコミの報道でひとり歩きすることを怖れているからである。『ブラック・ジャック』が本屋から姿を消したりしてはどえらいことだ。マスコミ関係者に於かれては、ドクター・キリコなるキャラクターがどのように描かれているか、作品をちゃんと読んで、時間の許すかぎり誤解のないように報道していただきたい。今日たまたま観たニュース番組など、まるで模倣されたマンガのほうが悪いという印象すら与えかねない興味本位な報道であった。
 じつは、おれ自身は、自殺幇助が必ずしも悪いとは思っていない。死にたいやつが安楽に死にたいと思うのは当然であり、大人の本人がそう決断し、本人が死ぬのなら、それはそいつの勝手である。死体の後始末をしなくてはならない人々に迷惑をかけても平気だと思うような人間であったという死後の汚名は本人が負うべきコストで、もちろん自殺する人間はそう罵られることを覚悟のうえでやるのだから、第三者の知ったことではない。今度の“ドクター・キリコ”のやりかたでは、最後の決断は本人に委ねており、おれはああいう形の自殺幇助自体はそれほど悪いことだとは思わない。おれは牧師でも精神科医でもない。いちばんの問題は、あのようにして顔の見えない依頼人に提供された薬物が、本来の目的とはちがう用途に使用される可能性があった(まだある)点である。件の“ドクター・キリコ”は、そういう危険性を都合よく看過している。殺人に使用されたらどうするつもりだ。この点は断じて許せん。そういう意味で、この“ドクター・キリコ”は、名前負けもはなはだしいのである。
 さて、キリコの話が出たついでだが、ドクター・キリコに関して、以前からちょっと気になっていることがある。キリコが『ブラック・ジャック』に初登場したエピソードは、一九七五年「ふたりの黒い医者」だ。超音波発振器で延髄を麻痺させ、死を望む患者をエレガントに殺してやる医者というのは、なかなかに衝撃的だった。おれは、ブラック・ジャックに匹敵する“かっこよさ”を感じたくらいである。それまでにも植物状態の患者にまつわるエピソードはあったが、真正面から安楽死問題(当時は尊厳死という言葉は、まだ耳慣れなかった)を扱うに持ってこいのキャラクターの登場で、ますます面白くなるぞとわくわくした。おれはキリコが出てくるのを楽しみにして、リアルタイムで週刊少年チャンピオンを読んでいたものだ。
 何年かして、やはり安楽死問題をシリアスに投げかけた渡辺淳一『神々の夕映え』(講談社)を読んだとき、おれは「おやおや」と思った。主人公の医師の愛人が“桐子”という名なのである。おれは文庫で読んだのだが、調べてみると、最初の書き下ろし単行本は一九七八年に出版されているではないか。渡辺淳一が『ブラック・ジャック』を読んでいたかどうかは知らないが、表現方法こそちがえど、同じ医師(手塚治虫は医学博士ではあっても臨床医であったことはない)である創作者が医師を描いた作品にまったく関心がなかったとは思われない。“桐子”という名は、小説の登場人物としてもかなり珍しい名だろう。もしかしてひょっとすると、渡辺淳一は『神々の夕映え』を書いているとき、ドクター・キリコをある程度念頭に置いていたのではあるまいか――というのがおれの仮説なんだが、どなたかこの仮説を証明する、あるいは、否定する事実をご存じではないだろうか? 「こんなことを渡辺が、手塚が、書いている、言っている」と思い当たる資料をご存じの方がいらしたら、ぜひお教えください。わかったからといってべつにどうということはないのだが、手塚ファンとして、なんだか気にかかるじゃないか。
『ウルトラマンガイア』(TBS系)に石橋けいが出た。だからどうなんだよ。
 それにしても、チーム・クロウのほかのふたりは、ヘルメットをかぶるとどうしてあんなにもおばさんなのだろう? どうやら世の中には、髪の毛が見えないとおばさんに見える化粧というものがあるらしい。女性ライダーなんかは当然気づいているはずだから、おばさんに見えない化粧のコツを教えてもらってはどうだろうかと思う。石橋けいはというと、ヘルメット姿のほうがかっこいいのだから、じつに不思議である。

【12月25日(金)】
▼帰りに駅のそばの本屋をはしごしたら小腹が空いたので、マクドナルドに入る。「いらっしゃいませこんばんわ」(これは“一語”である)と、おなじみの挨拶、というか「データ入力を開始せよ」という意味のプロンプト・メッセージがボッコちゃんのような店員から音声出力されたので、「ダブルチーズバーガーセット、ドリンクはホットコーヒー」とこちらも音声で入力する。こういう書きかたをすると、おれがマクドナルドを嫌っているかのように誤解されるかもしれないが、とんでもない、大好きである。たしかに店員の使う日本語が気色悪いことは認めるが、このシステマティックで効率的な対応は、不測の事態が発生しないかぎりに於いてはたいへん心地よい。おれはべつに女の子と話がしたくてマクドナルドに来ているわけではないのだ。店員と自動販売機が並んでいて両方でものが買える店で、とくに質問する必要を感じなければ、おれは絶対自動販売機を選ぶ。買うものが決まっているのなら、いちいち人間とかかわりあいになるのがわずらわしいからである。こう書くとまたもや、おれは人間嫌いなのかと誤解されるかもしれないが、まあ、それは当たっていなくもない。ただ、ほかになんの目的もなく、ただただ人間と関係するのが目的であるときだけ、おれは急に人間が好きになる。世の中には、人間と関係する以外の明確な目的がほかにある際にもインタフェースが人間であったほうが心地よいという変わった人が大勢いるらしいのだが、おれはそうではないというだけの話である。効率よく目的を遂行することが目的であるのなら、おれはインタフェースが機械であったほうが気が楽だ。フェアリイ空軍に徴兵されたとしたら特殊戦を志願したい。もっとも、あそこでやってゆくにはまだまだおれは人間が好きすぎるかもしれない。第一、まぬけだからすぐジャムに撃墜されてしまうだろう。とはいえ、心情的には、あの部隊がフェアリイ空軍の中でいちばん心地よさそうである。そういう人間があの作品に魅せられるのだろうと思う。えーと、さっきからの話がわからない方は、『戦闘妖精・雪風』(神林長平、ハヤカワ文庫JA)をお読みください。この日記の読者の半数くらいには説明不要だろうけどね。
 クリスマスで金曜日で、しかも多くの会社では給料日だから、こんな夜にマクドナルドに入ったら、さぞやアベックやら仲間連れで混雑していることだろう――と思う人は素人である。なんの素人なのかよくわからんが……。店のレイアウトや立地条件にもよるけれども、こういう夜のマクドナルドは、むしろ男も女もそのほかも、ひとりでハンバーガーを食っている人が多いものなのである。夜を過ごす相手をハントに来ているのかというと、さにあらず。それが目的なら、ほかにいい場所がたくさんある。あたりを見まわすと、ひとりで食っている客は、めいめいに本を読んだり雑誌を読んだり熱心に書きものをしていたりと、自分の世界に没入している人が多い。特殊戦向きのやつらだ。
 ふつう、こういう場所で本を読む人は同じタイプだが、雑誌を読む人には、大まかに言って二種類のちがうタイプがある。本を読んでいる人はたいていカバーをかけていて、傍から見ると周囲に壁を立てているが如き印象を受ける。一方、雑誌はふつう裸で持つ人が多く(というか、カバーをかけている人は特殊だ)、一種のファッションを意識したアイテムになり得るわけだ。あきらかにそれを意識して人前で雑誌を読んでいるとしか思えない人(若者や女性に多い)もけっこう見かける。ところが、今夜の客にはそんなやつはひとりもいない。「自分が○○誌を読んでいる」姿を絵として見せたがっている人は雑誌を両手に開いて持ち表紙が見えるように読んでいるのがふつうであるのに、もののみごとに今夜の客は、雑誌をテーブルか膝の上にぺたりと開いて読んでいるのだ。つまり、ほんとうにただ雑誌が読みたいだけなのだろう。よくもこれだけ似たような男女ばかりが、示し合わせたようにひとところに集まるものだと改めて感心する。隣にミスター・ドーナッツがあるが、こちらはうるさい。若い連中が多いのである。いろいろ可愛いものや面白いものがもらえるせいもあるだろう。前にひとりで入ってえらい目に会った。
 つまり、おれは“いまにも潰れそうな店が好きな客で流行っている店”が好きなのである。そこのあなた、この感じ、よくわかるでしょう? おれの日記を愛読してくださっているような人には、そういう素質があるはずだ。

【12月24日(木)】
▼高校二年生で大学に入れるという“飛び入学”で有名な千葉大学の理学部と工学部の入学試験で、「タケコプターなどのドラえもんの道具は実現できるか」という主旨の問題が小論文の必修テーマに出たと知り苦笑する。まさかとは思うが、千葉大学の先生がおれの日記(98年9月11日)とか野尻抱介さんの掲示板(48)とか、読んでたりするんだろうか。まあ、架空のものの原理や挙動を大真面目に考えること自体はよくある遊びだから、たまたまそういうことを考えた時期が一致してもまったく不思議はないけれども、読まれている可能性が皆無とは言えない。なにやら不気味だ。そういえば、おれの知人の女性にも、千葉大学出身の濃いSFファンが二人もいるなあ。そういう学風なのやもしれん。千葉大学は「空想から出発したものでも実現可能かもという積極的な姿勢が必要だ」とコメントしているそうだが、それだったら、積極的かどうかは知らんけどSFファンは日々呼吸するようにやっていると思うが……。問題もさることながら、この問題が回答のほうがぜひ読みたいよ。まあ、まず入試の回答を公開したりはしないだろうけど、読みたいなあ。
 もし来年、「どこでもドアでトランポリンを作った場合、重力はどうなるか」とか、「無重量状態でスパゲッティを食べるときの注意点を述べよ」とかいった問題が出たら、これはかなり怪しい。千葉大は菓子折りくらい提げてきてくれてもいいはずだ。来年が楽しみだなあ。「納豆が腐るとどうなるか?」だったりして。

【12月23日(水)】
▼体調最悪。布団に仰向けに寝転がって、しばし上目遣いでテレビを観ていると、やたら健康そうなおじさんが、なにやら分厚いガラスの向こうでにこにこと手を振っている。あ、そうか、今日は天皇誕生日だったかとなんの日かわからずに休んでいたことに気づき呆然とした。いや、どうもおれは、いまだに今上天皇が“天皇”だという実感が湧かないのである。なにしろ、“天皇”といえば、あの棒を呑んだように立っている老人の映像が反射的に頭に浮かび、それでいっぱいになってしまうのだ。おれが生まれてから大人になるまで、ずーっとあの姿だったような気がする。あの人以外の何者も“天皇”ではあり得ないと刷り込まれているのである。そういう意味では、じつに“キャラの立った”人であったなといまさらのように思う。“キャラ萌え”している人も、まだまだたくさんいるんだろう。
▼胃がむかむかする。食欲がない。性欲と物欲はどうやらまだあるようだから、まかりまちがって解脱してしまったりはしないだろう。それにしても、最近、HブロッカーのCMがぱったりなくなったなと思っていたら、事故が多いので自粛しているとのこと。97年11月4日の日記で、おれの心配したとおりになったらしい。そら、薬局・薬店での薬の売りかた見てたら、誰でも心配にはなるわなあ。良心的なところだって多いだろうとは思うけど、薬屋さんも慈善事業じゃないから、丁寧に説明するぶんの時間がお金になって返ってくるようでないと、アホらしくてやってられないだろう。

【12月22日(火)】
▼子供の犯罪者がやたら増えたと警察庁が発表したのが新聞に出ている。殺人・強盗殺人(未遂を含む)・傷害致死の「死に至らせる犯罪」で逮捕・補導された少年は、統計数字のある過去二十七年間で最悪の二百五十七人に上るということだ。テレビのニュースなんかを観ていて、「最近、犯罪者はたいてい子供だ」などというむちゃくちゃな印象を抱いていたものだが、なるほど子供が減っているのに少年犯罪が増えているのだから、無理もないことであったのか。
 おれなどは発想が単純なものだから、ついつい子供が減っているから少年犯罪が増えているんじゃないかとすら考えてしまう。子供の数と少年犯罪の発生件数を安易に結びつけるのは乱暴にすぎるアホな発想だということはよくよく承知しているが、一応アホなことを考えてくだらないことをほざいてみるのが、この日記の方針である。
 おれが思うに、もしも子供が減って少年犯罪が増えるなんてことがあるとすれば、それは子供をかまいすぎるようになるからではあるまいか。いや、これが正しいかどうかは調べたわけじゃないから知らんよ。思いつきで言ってるのだ。検証は時間と能力のある人がやってください。子供をかまいすぎるというのは、なにも親だけにかぎった話じゃなかろう。マスコミだって、やたら子供を取り上げる。流行は子供が作る。商売は子供に媚びる。カネは子供を中心にまわる。子供はますますかまわれるようになる。
 おれみたいな性格の人間がこういう時代の子供だったら、たぶんまともに育ってないだろう(そうじゃなくても、まともに育ってないけれども)。気が狂いそうになって、あるいは、きちんと気が狂って、「ほっといてくれ」と叫びたくなるにちがいない。社会全体が表層では子供をかまいすぎてるかと思えば、一方では、どう考えてもほんとうに子供をほったらかしにしているとしか思えない個々のケースも多々耳にする。極端だ。むかしの大人は子供を“見守って”くれたものだが、いまでは手取り足取り目を取り耳を取りおちんちんを取って、着せ替え人形かロボットのように子供を“作って”ゆこうとする。あるいは、なぜか大人としての能力を欠いた(あたりまえだ)厄介な小さな他人としてほったらかす。子供にしてみれば、「大きなお世話だ」「産んでおいて、それはないだろう」である。おれには子供がいないから実感としてはわからないが、もしいたら「大きなお世話」を焼いてしまいそうな気はする。強く自戒したい。子供を見守ってはやるが、ほっておいてやれる大人になりたいものだ。
 前から何度も書いてるが、いまの日本はひどい“お子様社会”だ。そんなに寄ってたかって子供をかまってやったら、子供のほうで煩わしくてノイローゼになっちまうってば。だいたい、やつらを大事にしすぎる。自分で稼いで子供を育ててやっている大人のほうが、育ててもらってる子供より断然偉いのだ。子供に権利ばかり行使する悪知恵をつけて、つけあがらせるんじゃない。憲法上の権利だけで十分である。税金払ってないやつらに、おれたちと同じ権利があってたまるものか。子供が「ああ、ちきしょう。早く大人になりたいな」と思うのが健全な社会というものだ。おれがいま子供だったら、絶対大人になんかなりたくないと思うだろう。子供でいるほうがずっと得だからだ。あれ、さっきと言ってることがちがうぞ。あ、そうか。この矛盾に問題があるのだな。子供でいると、かまい倒されて「ほっといてくれ」と言いたくなるが、じゃあ大人になりたいかといえば、「そんな損でしんどいものにはなりたくない」のである。キャッチ22だ。
 こう考えると、気が狂わない子供がいることのほうが、むしろ不思議に思えてきた。子供とは、なんと気の毒なやつらであろう。せめておれは、おれに火の粉が降りかからないかぎりは、ほっておいてやるように努力しよう。「これ、○○ちゃん、騒いだらあかん。そこのおっちゃんが怒らはるで」って、いーや、べつにおれは不快だけれども怒らんよ。おれは怒らんけどさ、ニコニコしながら子供にそんなこと言ってる暇があったら、親のおまえがさっさとどつき倒せよ!

【12月21日(月)】
「SFオンライン」の原稿を書いていたら、指がもつれて“おおまらまりこ”と入力してしまう。変換キーを押したらどうなっていたことか。人様のお名前で遊ぶネタは失礼ではあるが、ジェンダーが撹乱されているさまがあまりに作風にふさわしく、非礼を承知であえて公開する。大原まり子さん、ひらにご勘弁を。なんとなく、山藍紫姫子さん森奈津子さんに秘かにウケそうな気もしないではない。
 下ネタでお名前を出した罪ほろぼしに書くというわけではないのだが、そういえば、先日紀伊國屋書店『カサブランカ革命』(明智抄、大原まり子、図子慧、高瀬美恵、ひかわ玲子、麻城ゆう、森奈津子山藍紫姫子/イーストプレス)を注文したのだった。まだ来ない。面子を見ると、もしかしてSFのアンソロジーなのではないかと思われる方もあるだろうけど、百合小説のアンソロジーなのである。いや、はっきり言って、おれには百合小説はよくわからん耽美はわからんでもない。やおいは最近ちょびっとわかるかもしれんような気にはなってきた。あと、JUNEやらなにやらいろいろな世界があるらしいが、まだまだ明確に弁別できるほど勉強できていない。おれも「ダメよ! あんなものはもぉぜーんぜん、SFじゃないわ!」((C)ファンシーミホ<(C)水玉螢之丞)みたいな思いを抱くことがあるように、きっとああいう小説(と十把一絡にしてはいかんのだけど)に思い入れのある人々にも、「あんなものはもぉぜーんぜん、百合じゃないわ!」とか「耽美じゃないわ!」とか、余人には推り知れぬ微妙な判断基準があるにちがいない。なまなかな勉強ではうかつなことは言えないのである。
 そのよくわからんものにどうして興味があるかというと、『カサブランカ革命』のメンバーを見てもおわかりのように、なぜかSFの息のかかった、というか、SFに息をかけた女性は、この種の小説にも同様に関心を寄せていることが多いからである。男性でも「やおいに目覚め」た野阿梓さんなどがいらっしゃる。おれの友人・知人を見ても、そういう女性は少なくない(男性はあまり知らない)。おれとしては、その“現象”に興味がある。そこにはなにか、不明にもおれにはぼんやりとしか見えていない重要なものがあるような匂いがするのだ。たしかに、栗本薫(中島梓)、野阿梓、小谷真理らの“論”を読めば、“理”で“解”しているにすぎないレベルの“理解”はできないでもないのだが、やはりまだまだ「ああ、わかる」という境地に達することができない。「これはもう、そういう“血”がないとわからんのよ」と言われればそれまでなんだけど、ひょっとすると、触れているうちに、おれにも“血”が目覚めないともかぎらないしね。たとえば、「クラークがわからん」「ティプトリーがわからん」という人に「“血”がないとわからん」ではミもフタもないじゃないか。いやまあ、ほんとは“血”がないとわからんのだけどね。
 そうそう、この『カサブランカ革命』には“裏プレゼント企画”がある。おれのような生活をしている者にとってはちっとも“裏”じゃなくて、むしろ“表”なんだが、世間一般的にはなるほどまだ“裏”かもしれん。え? なんのことかわからん? 今日の日記はいつもとリンクの張りかたがちがうという点にヒントがあるので、“裏企画”に興味のある方は見つけてみてね。


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