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99年1月下旬 |
【1月30日(土)】
▼『ウルトラマンガイア』(TBS系)にまたまた新ファイターチーム登場。海上・海中のミッションを専らとするらしいチーム・マーリンってのが出てきたのだが、長音記号の位置からして、これは marine ではなく marlin (マカジキの類)なのでありましょう。『老人と海』でサンチャゴが闘ったやつね。松方弘樹も闘ったりするが、最近はべつのあれこれと闘うほうが忙しいらしい。
さてこのチーム・マーリン、マットサブ(懐かしー)よりはいくらかかっこいい潜水艇“セイレーン”に乗って出撃するのはいいけれども、あれもやっぱりふだんは六角柱の状態でどこかに格納されているのだろうか? 出撃シーンを見せてほしかったなあ。まあ、あの手の潜水艇はどのみちあまり出番がない。サンダーバード4号のように影の薄い存在なのである。金をかける甲斐がないということだろうな。それにしても縁起の悪い名前の潜水艇だ。そういえばXIGの司令はよく「ターゲットは○○と呼称する」などと、怪獣やらなにやらに名前をつけることがさも重要な仕事であるかのように宣言している。コピーライター的才能がないと務まらない、たいへんな仕事にちがいない。先週の“ゲシェンク”は藤宮がつけてくれたから手間が省けたろう。「ドイツ語で“贈りもの”という意味だ」などと、藤宮はまるでどこかから彼らを見ている誰かに説明でもするかのように我夢の前で自分のネーミングの才能をひけらかしていたが、大学では量子物理学を研究していた我夢が、どんなドイツ語日常会話入門書にも載っているような基本的な単語を知らないはずがないと思うのだがどうか。しかも、我夢も藤宮も、お互いが天才であることを知っているはずである。それとも、この世界では相対論や量子論を研究するのにドイツ語の基礎の基礎すら学ばなくてもすむようになっているのだろうか。そういえば、エリアルベースに通信してくるアルケミースターズの連中は、みながみな日本語を喋る。翻訳機が自動的に翻訳しているとすれば下手な日本語だから、やっぱり彼らはみな外国語も達者なのだろう。あ、そうか、この『ウルトラマンガイア』の世界では、日本語が科学の世界でいちばん幅を利かせていると考えれば筋が通るな。きっと日本が世界の科学をリードしているのだ。
だったら、「稲妻隊、出撃します」とか「ロンドンの錬金術精鋭隊から通信が入っています」とか「おお、超人大地、来てくれたか」とか言っていてもよさそうなものだが……。科学は日本語が支配的でも、軍事は英語が支配的なのかな。
【1月29日(金)】
▼田中哲弥さんの99年1月26日付の日記「キーハンター」に驚く。爆笑したのだが、笑いながら驚いていたのだ。たしかにこの「キーハンター」のネタは日常会話でのジョークとしてはむかしからあるし、おれも何度か使ったことがある。だが、それはあくまで言葉の上だけでのジョークだから、何度も使っているうちに飽きてしまった。ところが、だ。この田中さんの日記はむちゃくちゃ面白い。途中でオチがわかってしまっているのに、なにやら妖かしのものにでも魅入られたかのごとく、来るぞ来るぞ来るぞと思いながら最後まで読み、のたうちまわって笑ってしまう。こんなまるで絵に描いたような事件が、田中さんの身近な人物の身の上に降りかかるというのがすごい。人間にはどうやら、自分にふさわしい事件を呼び寄せてしまう能力があるらしい。おもろい人のまわりではおもろい事件が、怖い人のまわりでは怖い事件がよく起こる。そういえば、SF作家はよく宇宙人と出くわすそうだし、ミステリ作家がいるところではしょっちゅう殺人事件が起こるという。え? あれはみんなフィクションでしょうって? いや、おれもむかしはそう思っていた。ちがうのである。やっぱり、そういう事件を呼び寄せる力が強い人が作家になっているようなのだ。ひとつ屋根の下にSF作家がふたり住んでいたり、ミステリ作家とホラー作家が暮らしていたりするような家が、仮に、もしかして、万が一あったとすれば、堅気の人はあまり近寄らないほうが身のためだと思う。彼らは夜な夜な凶々しい儀式を執り行っては、小説のネタになるような常軌を逸した事件を呼び寄せようと呪文を唱えているはずである。そういう家の近所に住んでいる人は、少なからず怪異を体験するものなのだが、すっかり慣れっこになっているため、とり立てて騒いだりしないのである。だから、なにが起こってもニュースになったりするようなことはない。顔だけで三メートルくらいありそうな“外国人”の奥さんが回覧板を持ってきても、彼らは「あ、またか」と思うだけなのだ。“エンゲル係数”と言えば、ふつうは一家の生計費に比して人がどのくらいものを食ったかを示す数値だが、小林泰三さんのお宅では、家の生計費に比して家がどのくらい人を食ったかを示す。おや、ご存じなかったですか? 京都では有名な話なんだが……。また、いやがらせの郵便物に剃刀の刃や汚物が入っているのはふつうの作家の話で、井上雅彦氏宛のそれには、よく小さな十字架やニンニクが入っているらしい。おやおや、これも知らなかったですか? おっかしいなあ。
【1月28日(木)】
▼あっ、そうだ。こないだ小林宣英さんから、すごいタレコミを頂戴したのだった。林雄司さんという方が運営しているサイト「Webやぎの目」のコラムコーナー「やぎコラム」のバックナンバーに、その怖るべき情報は記載されていた。なんでもこの方のお父様は、「暇にまかせて無段変速電動モーターで納豆撹拌機を作成した」のだそうである(99年1月25日15時46分付のコラム)。ほんとに暇だな(失礼)。「Webやぎの目」に、そのうち写真を載せる予定だそうだ。これは目が離せないぞ。
しかし、世の中には野尻抱介さんみたいな人がいっぱいいるんだなあ。
【1月27日(水)】
▼以前、「アクセスカウンタの2000番踏みましたよー」などというくだらないメールを出してから(97年9月14日・15日)、ときおりリンダ・ナガタさんとメールのやりとりがある。
先日も、彼女のウェブページにハヤカワ文庫版『極微機械(ナノマシン)ボーア・メイカー』(中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)の書影が掲載されていたので、「貴殿のその小説のハヤカワ版巻末解説を書く栄誉を受けたのは小生である。かかるグッドなSFがUSAでは out of print だとはなんとも嘆かわしい。『極微機械ボーア・メイカー』のような小説をジャップとポーラックが楽しんでいるというのに、アメリカンたちにはシャロウな dragons and kingdoms や cloak and daggers を与えてよしとしておるのを、バンタムは shame と思わないのであろうか」などと、ファンレターなのか出版社への挑発なのかよくわからん好き勝手をほざいたメールを出した。ナガタさんの苦笑に満ちたお返事を勝手に公開するわけにはいかないから、あちらの状況とナガタさんのご意見はおれだけで秘かに楽しむこととするが、まあ、リンダ・ナガタのような作家がマーケットとの闘いで苦労しているのは、こちらもあちらもさほど変わらぬようだ。
今度、折を見て“ザ・ロー・オヴ・カツフミ・ウメハラ”をリンダ(って、相手がアメリカ人だと、一度メールを交わせば、もうリンダとレイなのだ)に輸出して、思うところを伺ってみようかな。どうもアメリカ人相手には説明に苦慮するような気もするので、いま迷っているのである。「その作家がマーケットの冷徹な分析から what he is obliged to write と思っているものはなんとなくわかったが、ところで、 what he wants to write はどういうものなのだ? ワタシはそちらのほうにより興味がある」と切り返されそうな気がする。激しくする。やはりやめておこう。
もっとも、ナガタさんは迷惑かもしれんが、日本の頼もしい状況は、どんどん勝手に報告しているのである。SF作家のマリコ・オオハラとケイゴ・ミサキのカップルや、ホラー作家のマサヒコ・イノウエらは、作家たちがショート・ストーリーを発表する場を創出すべくアンソロジーを企画し、マーケットで善戦している。彼らは、what they had wanted to write and read が発表できるマーケットを、作家みずから cultivate したのだ。if-we-don't-have-a-Gardner-Dozois-let's-do-it-ourselves spirit(「ガードナー・ドゾワみたいなんがおらんかったらわしらでやったろやないけ精神」――ヴォネガット流の造語は便利だよなあ)を持ったガッツのある作家たちである――なーんてことをいけしゃあしゃあとタレ込んでいるのだ。アメリカの作家同士の雑談やなにかの機会に、「日本のSF作家はがんばっている」ということが伝わればいいとおれは思う。「ドラゴンをもう一匹と巨乳の美女をもうひとり出したほうがいい」などとアホ編集者に言われながら、悶々と生活のための紙屑を生産している志の高い作家の耳に入れば、励みにもなるだろう。星の数ほどいるそんなペーパーバック・ライターの中から、第二、第三のフィリップ・K・ディックが出てきてしまうのが、あの国の怖るべきところだ。多様性は必ず勝つ!
昨日、ふと思い立って、「SFマガジン」の「ベストSF1998」に『極微機械ボーア・メイカー』が海外部門五位にランクインしたことをナガタさんに教えてさしあげたら、たいへん喜んでおられた。作家だって人間である。たしかにいろいろな意味で人間離れしている人もいないではないが、やっぱり人間である。自分の国で版元品切になっている作品が海の向こうで――しかも、ご夫君の先祖の国で――高い支持を受けたと聞いて、嬉しくないわけがあろうか。
そこで海外SFファンの善良な少年少女に提案。ウェブページでメールアドレスを公開している海外作家に、どんどんファンメールを出そう! 「えー、そんな畏れ多い」なんて尻込みする必要はない。当の作家が「メールちょうだい」っつってアドレスを公開してるんなら、なんの遠慮がいるものか。英語で書けば、英語圏以外の作家でも通じるはずだ。作家というのは、たいていインテリなのである。あなたがたが学校で退屈を我慢して英語を習っているのは、なにもくだらない試験に丸をもらうためではない。こういうことをするために習っているのだ。多少英語が苦手でも気にすることなんてあるもんか。もちろん、礼を失せぬように気配りをするのは大切だが、あなたにそういう気持ちがあれば、少々拙い英語でもそれは伝わるだろう。作品を読んで感動した。わあ、すごい。作家に感想を伝えたい――相手が日本の作家なら、ファンレター送ったりするでしょう? このインターネット時代だ。海外作家でもまったく同じことである。ちょっとむかしの映画ファンは、向こうがわが透けて見える海外文通用の便箋に拙い英語で銀幕のスターへの熱烈な想いを綴り、ことによると事務所が機械的に返送したのかもしれぬ直筆サイン入りモノクロブロマイドなんぞを手にして狂喜していたようだが、いまはあなたの憧れの海外作家のパソコンに、あなたが自分の机から出した電子メールがほんとうにちゃんと届くのである。もしかすると返事がもらえるのである。こんなものすごい時代の魔法を享受せずしてなんとしよう。外国の少年少女に「面白かった」とメールをもらって怒る作家などいるものか。雲の上にいるように見える作家だって、きっとあなたの感想や励ましを待っている。さあ、学校の宿題なんぞあとまわしにして、メールを書こう!
ただし、返事がもらえなくても落胆しないようにね。むしろ、もらえなくてあたりまえだと思えばいい。相手はたいへん忙しい人で、すべてのメールに返事を書くのは物理的に不可能なのかもしれないから。でも、感動させてくれた海外作家にあなたの想いを手軽に伝えられる、伝える手段が身近にあるということは、ほんとうにすごいことだよ。あなたは人類が史上初めて経験する、とんでもない大コミュニケーション時代に運よく生まれ合わせているのだ。
おっと、なにやら検索エンジンでアドレスを捜しているそこのキミ、H・G・ウェルズにメールを出すのは、いくらなんでも無理だと思うぞ。
【1月26日(火)】
▼ウルトラマンの変身道具は落としにくいものがいいのではないかと書いた一昨日の日記に、まったく同じ反応がふたりの方からあった。
まずはおなじみ、林譲治さん。ああいうものは、しょせん人間が使うのだから『「落とした時に捜しても不自然でないもの」を道具とすべきだと思う』とのご意見。ごもっともである。コンタクトレンズやカツラみたいに、大事にしても怪しまれず、落として捜しても怪しまれないものがよい、と林さん。その理論に基き、林さんは究極の変身アイテムを提案する――すなわち、現金である。ううむ。いまはいいが、現金など持っていたらかえって怪しまれるような世の中になったら、変身しにくいような気がするがなあ。となると、クレジットカードのほうがいいかも。
岡田靖史さんも「たとえばなくしたからといって交番に届け出ることもできないし、またもし拾ったひともそれを届けられた交番のお巡りさんも、書類にどう書けばいいのか」と、旧来のウルトラマンの変身道具が持つ問題点を指摘する。たしかに、エスプレンダーを落としたら、おまわりさんに説明しにくいよなあ。「それ、なんに使うもんですかね?」とか訊かれたら、「いやまあ、ちょっと」としどろもどろにならざるを得ない。運よく届けがあって交番に取りに行っても、「念のため、開けてみせて」などと不審尋問を受けること請け合いである。
「まず落とさないようなものに」というおれの発想はフールプルーフであり、「落としたときに(正体がばれるなどの)ダメージが少ないようなものに」という林さんや岡田さんの発想はフェイルセーフと言える。そう考えるとやはり、日常生活でバランスよく自然にフールプルーフとフェイルセーフを意識している、現金やクレジットカードが最も適切ということになりそうだ。待てよ。1月20日の日記で触れた携帯電話なんてのもいいのではないか。もし落としたらウルトラの星に紛失届を出し、拾った人がうっかりウルトラマンに変身してしまわないように失効させてもらうのである。現金でこれをやったら不自然だが、クレジットカードや携帯電話なら怪しまれない。おや、なにやら微妙に論旨がずれてきているぞ。
待てよ待てよ。でも、XIGの隊員が携帯電話なんか持ってたら余計に怪しいよな。XIGナビとかいう腕時計型の通信機を持ってるもんね。よし、クレジットカードに決まりだ。次のウルトラマンは、財布からクレジットカードを抜き出して頭上にかざし、虚空に自分の名前を書く。すると、ホログラムの鳩が光芒を放ち――おっと、特定の金融機関の宣伝をしてはいけませんな。スポンサーの系列がちがったら厄介なことになりそうだしね。『人造人間ゼロダイバー』が、その問題で『人造人間キカイダー』になっちゃったこともあるのだ。
【1月25日(月)】
▼今週は呪われたように忙しくなるので、この日記がまるで日記のようになってしまうかもしれないから、日記らしくない日記を期待している方々にはまことに申しわけない。
性懲りもなく昼休みに喫茶店でカレーを食っていると、隣に座っているふたりのOLのうちひとりが、なにやら国際情勢を熱心に語っている。リビアだのボスニアだの北朝鮮だのアメリカの覇権主義だのと、明日にも核戦争が起こってもまったく不思議ではないと、もうひとりのOLに滔々と訴えているのであった。たしかに彼女は正しい。だが、なにが起こっても不思議ではないのは、この世のはじめ以来、いつだってそうに決まっている。あまりにも正しすぎる言説は、言説としての意味がないのではあるまいか。とはいえ、真剣に語るそのOLの姿はなかなか昼休みの喫茶店で見られる類のものではなかったため、おれは興味深く聴き入ってしまった。じっと聴いているとだんだん説得されてきて、おれはこんなところで呑気にカレーを食っていてよいのだろうか、店の外に出ると一面焼け野原になっているのではあるまいかと、不安になってくるほどである。なかなか語りのうまいOLだ。次はなにを言い出すのだろうか。期待と不安に顫えるおれの耳に、オチが飛び込んできた――「ほら、ノストラダムスが――」
はらほろひれはれ。今年は何回このオチがつくんだろうなあ。
【1月24日(日)】
▼昨日『ウルトラマンガイア』(TBS系)のことを書き忘れたので、今日書く(こういうのもアリなのがこの日記だ)。
以前からおれは、エスプレンダーを使った変身シーンがかっこわるいかっこわるいと繰り返し感想を述べているのだが(98年9月26日、11月28日)、その声が届いたのか、製作者側も自覚しているのか、今日の変身シーンにはそれなりの工夫があった。藤宮(アグルに変身する若者ね)に縛り上げられエスプレンダーを取り上げられてしまった我夢。エスプレンダーを少し離れた机の上に置くと、藤宮は去ってしまう。地球を、人類を守りたいと必死で叫ぶ我夢の念に反応してか、我夢が手を触れないにもかかわらず、突如画面いっぱいにどアップになったエスプレンダーは目も眩むばかりの光芒を放ち(おお、スポンサーの玩具メーカが喜ぶところだ!)、我夢はガイアに変身する。
これはなかなかいいかも。おれの好きな『帰ってきたウルトラマン』方式(道具が要らない)を、道具を使った変身シーンに応用したものと言えよう。だったら最初から道具なんていらんじゃないかと思うわけだが、やはり手で握ってポーズを取ったほうが、人類を守りたいという念が多少弱くてもちゃんと変身できるのであろう。
今回、我夢はあっさりエスプレンダーを奪われてしまうのだが、実用性から考えると、やはりヒーローの変身道具というものは、簡単に落としたりしない装身具を象ったもののほうが優れているのではあるまいか。ウルトラマンAの指輪やウルトラマンタロウのバッジなどである(かっこいい、わるいはまた別の話だ)。ウルトラセブンのウルトラアイは一応眼鏡なので装身具ではあるけれども、ふだんかけているわけにはいかない。やはり、落としやすくてよくないだろう。おれの母も狭い家の中でしょっちゅう老眼鏡を捜している。
まず落とすことはないだろうと思われるのは、下着類である。ウルトラパンツのゴムをぐいっと横に引っ張ると、たちまちあそこいらへんが光に包まれウルトラマンに変身するなんてのも、実用的観点からは合理的かもしれない。女性のほうが身に着けているものが多いので、女性が変身するウルトラウーマンもいいのではないか。ウルトラブラジャーのフロントホックを外すと弾力でカップが左右に弾け飛び、もう少しで見えそうなところであそこいらへんが光に包まれて変身するなんてのも、大きなお友だちは喜びそうだ。まず落とさなくてよさそうなのは、ウルトラタンポンである。当然、糸を引っ張って変身する。ウルトラナプキンも最近は高性能で位置ずれのないものが出ているようで、怪獣が多い日も安心だ。「男にだってウルトラコンドームがある」と指摘している読者がいかにもいそうだが、どういうアクションで変身するんだ、それは?
いったいなにを書いているのかわからなくなってきた。ともかく、あの手の変身道具は、紛失したり敵に奪われたりすることで話を稼ぐ回が必ずあるから、結局、ある程度落としやすくなくては実用的ではないとも言えよう。いわば、小林少年みたいな役割を担っているのだ。
【1月23日(土)】
▼またしてもマクドナルドでハンバーガーを食う。だって、いまダブルチーズバーガーとダブルバーガーが半額なんだぜ。これが食わずにおらりょうか。うちにもっとでかい冷凍庫があれば、買いだめするんだがなあ。
食いながらいつもついつい丁寧に読んでしまうのが、あのトレイに敷いてある紙である。どうでもいいようなことばかり書いてあって、マクドナルドのはあまり面白くない。その点、ミスター・ドーナッツのはなかなか読み応えがあってよろしい。だが、おれはマクドナルドのほうが好きだ。世の中うまく行かないものである。あの紙に毎週ショートショートを連載し、あとで単行本にまとめたら面白いだろうな。最後に初出媒体が紹介してあるページになんと書けばよいのだろう。「初出:マクドナルドのトレイに敷いてある紙 一九九八年三月 〜 一九九九年二月」とか。そもそもあの媒体には名前があるのか(ミスター・ドーナッツのやつは、たしかちゃんとあった)?
くだらないことを考えながら食っていると、すぐに食いおわってしまう。このあと、おれはいつももっとくだらないことで悩むことになる。トレイを返すとき、まずゴミをどさどさっとあの箱の中に入れますな。この際、さっきの紙がなかなか落ちてくれなくて、ゴミ箱の蓋に手を挟まれながらトレイをゆさゆさと打ち振っている人をよく見かける。それはまあ、いいとしてだ。ようやく空になったトレイをゴミ箱の上に乗せるときが問題である。先にトレイが置いてない場合は、なにも悩まなくてよい。自分の好きなように置けばよいのだ。ところが、すでにトレイが置いてある場合、自分の使ったトレイをそれに重ねて置かねばならない。あのトレイの底には、よくよく見るとマクドナルドの「M」の字をデザインしたロゴが書いてある。前の人がこのロゴを逆に置いていたりすると、おれははなはだ苛立つ。これでは「W」ではないか。ここはワクドナルドではないぞ。そこでおれは、自分のぶんはちゃんと「M」になるように置く。しかし、だ。これでは、前に置いた人のトレイと文字の方向が変わってしまう。それもなんだか気持ちが悪くて、ここはやはり、たとえ前の人がまちがっていても、あえて文字の上下を揃えて重ねたほうがよいのではないか――と、一瞬ためらってしまうのである。どちらにしても、なんだか気がすまない。そこまで気になるなら、前の人のトレイの「M」を正しい向きに直してから自分のを乗せればいいのだ。だが、さらにその前の人、その前のその前の人、その前のその前のその前の人がトレイをどう置いたかを確認したくなってくるのが人情というもの。二、三枚なら確認して直したことはあるが、十枚くらいあったらどうしよう。もう食い終わって出てゆくばかりの客が、なにやらゴミ箱のところで十数枚のトレイを次々に重ね直していたら、店員もほかの客もいったいなにごとかと怪しむにちがいない。一種の強迫神経症ではないかと思う。しかし、気になるものは気になるよねー。
おれは財布の中のお札の裏表と上下がきちんと揃っていないと気色が悪い。こっちは、おれと同じ症状の人も少なくないと思う。そんなあなた、マクドナルドでは、できればトレイの底など見たりしないほうがいい。この世の中、ただでさえ、憂うべきことが山ほどあるのだ。
【1月22日(金)】
▼天気予報で“氷点下”という言葉が出るたび、おれの頭の中で島倉千代子が唄い出す――「氷点下ぁ〜、氷点下〜」
同じ病気の人っているよね? いるいる、きっといるっ。あっ、そこで「おれはそんな病気とは関係ない」とそっぽを向いている田中啓文さん、田中哲弥さん、あなたがたのことですぞ。なにやら最近、我孫子武丸さんに病気を移そうとしているようすではないですか。
▼やたら忙しいうえに体調最悪で、ストレスが増大している。ストレス解消に納豆を食おうと思い立ち、ついにアレをやってみた。先日「ためしてガッテン」(NHK総合)で紹介していた“究極の納豆”である(98年1月13日の日記)。なにしろ、四百回かき回さなくてはならず、とてもやっておられんと思っていたが、野尻抱介さんの掲示板であまりみながうまいうまいと言うものだから、好奇心が抑えきれず実行してしまったのだった。
なるほど、これはうまい。手はだるいが、うまい。念のため、おれは約五百回かき回した(数えているうちにこんがらかってくるから、多めにかき回したのだ)。これほど風味がちがうものなら、野尻さんのおっしゃるように“電動納豆撹拌機”が出現してもよさそうなものである。ふつうのミキサーでやってみてもいいかもしれん。だが、想像するだに、あとがたいへんそうだなあ。洗いにくいことおびただしいにちがいない。後始末がしやすい納豆専用機が必要だ。電機メーカの方、そこいらへんを工夫した製品をぜひぜひ開発してください。小林泰三さん、該当部署の方を唆してくださらんかなあ。
【1月21日(木)】
▼この日記をはじめた当初は、「日記などというものは、ホームページが曲がりなりにも頻繁に更新されていることを示すための“書き捨て”雑文である」と考え、特定の日付の文章がよそからリンクされるとか、よそで言及されるといったことをまったく想定していなかった。ところが、自分の日記の中でよその日記にリンクつきで言及することが増え、また、よそからもリンクされることが増えてくると、やはり被言及性を考慮したユーザ・インタフェースを工夫すべきであるなと思うようになってきた。要するに、おれの日記にリンクしてくださる方々がリンクしやすいように便を図るべきだと考えるようになってきたのである。
最も単純な方法は、日記のメインページをインデックスにして毎日のぶんを別ファイルにするという手だが、これだといちいちインデックスにアクセスしなければならず、ユーザに一ファイルぶん多くのアクセスを強いることになる。そんなふうに改造しては、「間歇日記 世界Aの始末書」にダイレクトにアクセスすればすぐ最新日付の日記が読めると思っている(また、そのつもりでリンクしてくださっている)方々を苛立たせたり、迷惑をかけてしまうおそれがある。また、徒にファイル数ばかり増やすと実質読者数のわりにページヴューが増大してしまい、プロバイダのランキングの中で“悪目立ち”してしまう(京都iNETのランキングは総ページヴュー順というケッタイな方式なのだ)。世のため人のためになるようなサイトならともかく、SF好きのおやじがただただ戯れ言を垂れ流しているだけのサイトがあんまり上位に来てはおかしいではないか。「我孫子武丸のページが上位にあるのはわかるが、はて、こんなに上位にある聞いたこともないやつの個人ページとは、どんなところだろう?」などとアクセスしてみた人が、騙されたような気になり不快に感じるにちがいない。商売でやるなら、そういうテクニックもプラグマティックな観点からは必要になることもあろうが、いまのところ、ここはべつに金を取ってやっているわけではないから、SFと戯れ言が好きな人だけが見てくださればいいのだ。
そこで、今日からご覧のような方式にしてみた。つまり、最新十日ぶんをデュアル化したのである。一見したところでは、いままでとまったく同じく“diary.htm”に直接アクセスしていただければ、最新の日記が読める。でもって、「お、今日の日記には随分とバカなことが書いてあるから、おれのサイトですぐさま笑い者にしてやろう」という方は、日付部分の【1月21日(木)】を試しにクリックしてくだされば、次に十日毎のインデックスに入るべく裏で待機しているファイルの当該日付にジャンプするようにしてある。このURLは今後も不変(極力そうするつもりだ)であるから、リンクしてくださった方々にご迷惑がかかることはない。おれのほうの手間もほとんど変わらない。
しばらくこれで運用して様子を見ることにする。「使いにくいぞ」という方は、どんどんご意見をください。
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