間歇日記

世界Aの始末書


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99年3月中旬

【3月20日(土)】
▼女子高生の持ってるケータイとかPHSとか見てると、やたら飾りが多くて感心する。おれなんかはおじさんだから、できるだけ嵩張らないほうがいいとついつい思ってしまうのだが、たぶん連中の発想はちがうんだろうな。機械が洗練されてきて小さくなるほど、「アクセサリをたくさんつけても嵩張らないじゃん」ということになるのだろう。ああいう遊び心は存外に重要である。彼女らの趣味の悪さを見習いたい。おれ自身は、機能をとことん追求したデザインにエロチシズムすら感じ、そういうものが最も美しいと考えるタイプだ。だから、世の中でなにが美しいといって、人殺しの道具ほど美しいものはない――というのは、むかし「迷子から二番目の真実[27]〜 銃 〜」で書いたとおりだが、ほんとうに新しいものはというと、じつは無駄の中からこそ生まれることも多く、その点では女子高生たちの粗削りで粗野な美意識の中にも、なかなかどうしてたいしたものがあると思うのである。
 とはいうものの、あんなにいろいろくっつけてほんとに邪魔じゃないのかね? アンテナの先にはどでかいマスコットが乗っかっていて、喋りながらケタケタ笑うたびに細いアンテナがびよよんびよよんと首を振り、いまにも折れそうである。ストラップなんぞ一本では足らんらしく、何本もぶら下げている。九尾の狐のようだ。
 先日のことだが、電車の中で女子高生がケータイを取り出して他愛もないことを喋りはじめた。よく見るとおかしい。彼女はストラップに付いているアクセサリを耳に押し当てて喋っている。なんと、携帯電話にぶらさがっているアクセサリのほうがじつは電話の本体で、おれが本体だと思っていたものは携帯電話型のアクセサリだったのだ――というのは嘘だが、近々こういう洒落商品が出ないともかぎらない。いや、もうどこかに存在するのではなかろうか……。見るからにおどろおどろしい巨大な妖怪だかロボットだかを操っている“本体”は、じつはその肩にとまっている使い魔風の小さな弱々しいやつだった――って黄金のパターンは、適切に使えばいつだって通用するのである。
▼さてさて、土曜日恒例(でもないけど)“ガイア突っ込みアワー”だが、今週の『ウルトラマンガイア』(TBS系)には、この日記流に突っ込んで面白いところはあまりなかった。強いて突っ込めば、我夢の実家にあったiMac。前回、我夢のお母さんがiMacと格闘して電子メールを書いているシーンが出てきたせいか、これ見よがしに部屋に置いてあったけれども、あそこにああいうふうにまるでテレビのように置いてあるのなら、キーボードやマウスを操作するスペースがないのではないか。使うときだけ、あれをひょいと書きもの机かなにかに運んでいってキーボードとマウスを接続するのだろうか。あっ、そうか、ことほどさようにiMacは手軽なのだという高度な宣伝なのかもしれんな。
 それはそうと、“ヴァージョンアップ”してからのガイアの決め技(なんと呼ぶのかは知らんけど)は、なかなかかっこいい。スペシウム光線で育ったおれは、やっぱり決め技のビームは腕から出してほしいので、今度の腕系の光線は非常によろしい。ヴァージョンアップ前にガイアが決め技にしていた頭から出る光線であるが、あれはちょっと滑稽な感じがする。経験的に言うと、ああいうものは子供が真似してポーズを取ったときに「ああ、いま光線が出ているんだぞ」と空想しやすいものがいいと思うのだ。以前のガイアの“頭光線”は、テレビ画面で見ているぶんには特撮でほんとうに光線が出ているからいいようなものの、子供が“ごっこ遊び”をしている姿を想像すると、はなはだまぬけである。本人は敵に向けて突き出した自分の頭から光線が迸っていると懸命に想像しているかもしれないが、傍目にはぼんち・おさむが怒っているようにしか見えないにちがいない。
 ヒーローの光線技を哲学的に考察した場合(大きく出たな)、遠隔対象に作用する身体像の延長のようなものだと言えよう。つまり、子供たちにとって、あれは一種の“逆幻肢”とでも言うべきものなのだ。事故などで腕や脚を切断した人が、失った部分があたかもまだそこにあるかのように生々しい触覚などを覚えたりする現象が“幻肢”だが、ヒーローごっこに没入している子供は、言わばその逆、みずからの腕から放たれた光線が離れた場所にあるなにかに当たる“手応え”のようなものを実際に感じている。子供の頭の中を見てきたように言うけれども、これはおれも子供であったことがあるからわかるのである。
 空想の中でも身体像の延長がしにくい光線技は、子供たちも「なんかやりにくいな」と感じるだろうと思う。光線技ではないが、おれにとっては、ウルトラセブンアイ・スラッガーがそうであった。あれはやりにくい「ジュワッ」と頭から外して投げるポーズを取るまではいい。そのあと、空想のアイ・スラッガーが怪獣まで飛んでゆくのを目で追い、怪獣のまわりを飛び交って切り刻む動きのとおりに顔を動かし、また戻ってくるのをまた目で追い「ジャッ」と言って再び頭に装着するまでの“間”がとてつもなくまぬけである。子供によっては、投げたあとの空想のアイ・スラッガーの動きを手で表現していたやつもいた。もちろん、相手のところまで黒子のように走ってゆくわけである。で、敵を八つ裂きにしたあと、また元のところまで駆け戻り、そこでなにごともなかったかのように黒子からウルトラセブンに戻るのだ。まぬけである。美少女魔女だってそうだ。頭を突き出して魔法をかける魔女っ子はいない(と思う)。やはり、指先なりバトンなりから、その力が迸るのである。
 もっとも、男の子の場合、ウルトラマンのようなヒーローには性的なものも嗅ぎ取っていると思うから、そういう面の効果も無視できない。性徴していない年齢でも、やっぱりそういうものはあるのだ。巨大化し、短時間に繰り返し闘うことはできず、身体から決め技を迸らせたあとは、ケロリとなにごともなかったかのように去ってゆく。カラータイマーの音がだんだん盛り上がってくる(?)あたりなんて、男性の性感に訴えるものがあるではないか(『宇宙戦艦ヤマト』“波動砲”もそうだよな)。ウルトラマンが大人の男性にも人気があるのは、こういうわけなのであった。

【3月19日(金)】
▼第一回「DASACON賞」「読んで面白いサイト部門」受賞の記念品が送られてきた。MAXELL の8インチ・フロッピィディスク「第一回 DASACON賞 面白いサイト部門 A Ray of Hope」と個性的な金文字が記されてある。商売柄、8インチFDはいまもたまーに見ることがあり、むかしは持ち歩いたりもしていたものだが、さすがに自宅で使ったことはない。面白い記念品をありがとうございます。
 改めてしげしげと眺めると、あたかもソノシートを手にしたかのような奇妙な感慨がある。子供のころ、擦り切れるほど聴いていた『悟空の大冒険』だの『パーマン』だの『ウメ星デンカ』だののソノシートはどこへ行ってしまったのであろうか。
 たとえば、三十年前のソノシートを現代のコンピュータでデータ記録媒体として使えるようにしてみたら、洒落としては面白かろう。「Pentium III搭載、外付ソノシートドライブ(33回転)が使えるモバイルコンピュータは当社だけ!」とか「業界初! 45回転ソノシートドライブ内蔵!」とかね。Windows98 を当時のソノシートに無理やり記録したとしたら、いったい何枚くらい必要なんだろうね。インストールに何日かかるか見当もつかんが、暇な人は概算してみてください。平均的ソノシート一枚の記憶容量がどのくらいなのかを推定するのは、けっこう難しそうだ。同じ曲が収録されているCDを手がかりにしてみたとしても、音質の問題があるからねえ。ソノシートの溝の突起数と、コンピュータ用・紙テープの穴の数を、レコードプレーヤー(当時はこう表記したはずだ)と紙テープリーダの読み取り速度を考慮のうえ比較して算出するほうがいいかもしれない。
 現代のコンピュータに用いられている要素技術の一分野だけが、なんらかの要因で極端に遅れていた(あるいは、進んでいた)としたら……と思考実験をしてみると、いろいろと面白いかもしれない。『ディファレンス・エンジン』(ウィリアム・ギブスン&ブルース・スターリング、黒丸尚訳、角川書店)という不朽の名作がすでにあるけれども、あれは歴史の交響楽の中から“電子工学”のパートを試しに引いてみた“マイナス・ワン”のレコードみたいなもので、ちょっとスケールがでかすぎる。ここで言っているのは、完全に一パート引いちゃうんじゃなくて、そのパートに出てくる和音を全部 diminished あるいは augmented にしてみるというのに近い。そのことによって、交響楽全体の印象は当然まるでちがったものになる。
 現代の技術の延長を外挿によって空想する手法は、SFにとってあたりまえだ。extrapolated future を描くわけである。だが、augmented future ってのはあり得ない。参照対象としての確定した未来というものはないからだ。ところが、時制を丸ごと過去にずらすと、オーグメンテーションやディミニュションの面白みが出てくる。未来人が落としていった機械を分析した結果、分子生物学だけが一気に百年ぶんくらい進んでしまった現代の擦った揉んだを描く――なんてのがあったら、言わば augmented present だろう。その未来人は何千年も未来からやってきたのだが、現代人になんとか理解できるのはせいぜい百年ぶんくらいの技術だったのだ。未来の分子生物学を育んだ他の技術や思想や社会に関する知識を現代人はまったく欠いているから、当然、理解したと思った百年ぶんの知識も根本的な誤解に基いたものであり得る。まあ、相当陰惨な話になるか、荒唐無稽なドタバタになるかだろうなあ。
 舞台は過去なのに、どういうわけか特定の科学技術分野の知見だけが現代に匹敵するほどに進んでいる――なんてのは augmented past とでも呼べるだろう。高野史緒が得意とするところだ。SFにいわゆる“改変された歴史”alternate(d) history)ものは、歴史の転轍機を切り替えることに面白みの重点があるが、おれがここで言う augmented past は、その線路を走っている列車に使われている技術を問答無用で進めてしまうことのほうに重点がある。両者にはオーバーラップする部分もあるが、似て非なるものだと思う。おれが高野史緒の方法を“歴史改変SF”ではなく“歴史変調SF”と呼ぶゆえんだ。
 おれはミステリに疎いのでよくわからないのだが、高野史緒みたいな方法をミステリに用いてみた人はいるんだろうか? たとえば、江戸時代の人は“指紋は一人ひとりちがう”という知識を欠いていただけであって、指紋の検出・保存・参照は、当時なりの技術でも不完全ながらも可能であったはずである。江戸時代どころか、鎌倉時代や平安時代、いやいや、もっとむかしでも、その時代その時代の工夫で検出くらいはできただろう。なぜか指紋による科学捜査手法だけが確立している捕物帖なんてものがあったら、それなりに不思議な味が出そうな気もする。なんでもありの擬似歴史小説とかにはありそうだよな。「これぞ、蜻蛉流忍法“血定め”――人血に振りかければ妖光を発する南蛮渡来の仙薬を用いる秘術であった。今の世に言うルミノール反応である」なーんてのは、山田風太郎(“やまだふう・たろう”ではない)あたりがどこかでやっていてもまったく不思議ではない。
 もっとも、坂口安吾によれば、「そこで指紋も鑑識科学もない江戸時代に題材をとらざるを得ないのは、チョンマゲの捕物帖は時代錯誤だという一部の説は根本を見あやまっているのである。チョンマゲ時代に題材をとらないと、短篇で面白い探偵小説は書けない時代になったのである。トリックが複雑になったから現代を舞台にすると短い枚数では切り廻しのつけようがないせいである」(『明治開化安吾捕物帖(全三巻)』第一巻序文の当時未発表部分より。ちくま文庫の『坂口安吾全集12 明治開化安吾捕物帖(上)』の関井光男による「解題」に未発表部分が収録されている)ということになるんだが、“捕物帖が時代錯誤だというのは誤り”はいいとしても、だからといって“現代が舞台だと面白い短篇探偵小説は書けない”ことにはならんでしょう。たしかに、科学技術が制約になっちゃう面はあるとは思うけど、そこを現代の作家は、科学捜査ができない状況や、お約束として不信の停止を余儀なくする設定を工夫することで回避していると思うんだが……。この文章、そもそも日本語がおかしい(まあ、安吾にはよくあることだが)し、たぶん安吾はなにかに挑戦するつもりで気負いすぎて書いたんじゃないかなあ。言いたいことの本質はわかるような気はするんですけどね。SFファンとしては、科学捜査ありの捕物帖ってのも、読んではみたい。
 おっと、8インチフロッピィ一枚から話が飛びまくったが、SF的手法としてのオーグメンテーションやディミニュション(って、おれが勝手に言ってるだけだよ)の可能性について“ひとりブレーンストーミング”をやってみた。
 こう考えてみると、日本という国(国家かどうかは、ともかくとして)は、明治維新の時点から、すでに augment された現実を生きている高野史緒的な国だと見ることもできる。そういう意味で、高野史緒という人は『東亰異聞』(新潮社)の小野不由美と相通じるものを持っているだろうと思う。現代の日本は、なにかが augment または diminish されている“いびつさ”こそがアイデンティティーになっているような気がする。いいも悪いもない。それが日本なのだし、おれはそういう国で育った。死刑を廃止してないのも、脳死を心情的に人の死と認めにくいのも、国旗や国歌が法律で決まってないのも、他国との比較でガタガタ言われる筋合いのものではない。おれたち自身が自分で考えて決めてゆけばよいことだ。西欧型の近代国家とやらの偏見を勝手に押しつけてもらっては困る。だって、ここは日本であって、西欧型の近代国家じゃないんだもん。クジラを食おうがイルカを殺そうが、おれたちよりよっぽど血生臭い食生活を送ってるやつらに非難されたかねーよ。おれ自身は、魂の相当部分を西洋文化に売り渡した人間だが、自分たちが“ augmented 日本人”であることを忘れて、「世界では……」「欧米では……」と尻尾を振ってばかりいるやつを見ると気味が悪くなる。いっそのこと、「国旗や国家を法制化しないのは、わが国の伝統的文化である」と、そこに積極的価値を見い出し、オリンピックで白旗を掲げ、自分を育んでくれた国とその歴史に無言で感謝を捧げるのを“日本流”だということにして、「おれたちにはよく理解できないが、自分の意志を持つ侮れない国だ」とガイジンどもに一目置かせてやってはどうか。やっぱりおれは、愛国心溢れる人間であったのだな。どうも、そうじゃないかという気はしていたのだ。

【3月18日(木)】
▼駅の立ち食いうどん屋できつねうどんを食っていると、うどん屋のおばちゃんが常連客らしいおばちゃんと話している――

おばちゃん客「今日は○○はんは休みか?」
うどん屋おばちゃん「お嫁さんが赤ちゃん産むんやて」
おばちゃん客「へえ。そうゆうたら、あんたんとこの息子さんは?」
うどん屋おばちゃん「孫どころか、まだ独身や」
おばちゃん客「そもそも、結婚する気ぃがないんやな、あれは」
うどん屋おばちゃんあんななってしもうたら、もうあかんわ」
おばちゃん客「いくつやったかいな?」
うどん屋おばちゃん「三十六や。いや、五やったかいな」
おばちゃん客「ええ歳や」
うどん屋おばちゃん「あんななってしもうたら、もうあかんわ」

 おれは三十六である。カウンターの隅できつねうどんを啜っていたおれは、なんだか手前が呆れられているかのようで、はなはだ居心地が悪かった。もしかすると、テレビや新聞がおれに関する噂を流しているのだろうか。
 それにしても、うどん屋おばちゃんの息子さんは、いったい全体、どんななってしもうたのだろう? 他人事ながら気になる。おれはいろいろと想像をめぐらせた。

(1)オタクになった。
(2)性転換をした。
(3)フェミニストになった。
(4)会社人間になった。
(5)透明人間になった。
(6)液体人間になった。
(7)電送人間になった。
(8)ガス人間になった。
(9)東京に現われた。

 マタンゴにだけはなっていてほしくないものだが、他人の家庭の事情はよくわからない。おれが推理するに、このおばちゃんの息子さんは、引っ込み思案で照れ屋でまぬけの複雑な性格の持ち主なのであろう。コーヒーベーカリーでも経営すれば、適当な女性が釣れるかと思うぞ。もっともおれみたいに、結婚する気がないとなると、そりゃ「いつまでも待ーつわ」と待ってみたところで無駄なことである。
 それはそうと、今日は書くにこと欠いて、いちいちネタが古いな。

【3月17日(水)】
▼できたばかりのジュンク堂書店大阪本店(大阪市北区堂島1−6 堂島アバンザ1〜3階)に行ってみる。で、でけえ。あまりに売り場面積が大きすぎて、入った途端にゲップが出そうになった。たとえばそれは、東京ドームに全国各地の納豆がおれひとりのために並べられているかのようでもあれば、地球最後の男になったおれと交わるべく東海道線の枕木の代わりに選りすぐりの妙齢の美女が全裸で横たわっているかのようでもあり、全世界のアリが突然ことごとくカエルになったかのようでもある。
 今日、おれは本気で大阪への移住を考えた。この近くに安い部屋はなかろうか――いや、この堂島アバンザというビルには、個人の居住区はないのだろうか。もしあれば、このビルに住むことをこれからの人生の目標にして生きてゆこう。いまのおれの収入では夢の夢であるが、もしもあり余る金を手にしたら、冗談抜きで、おれはここに住むだろう。
 この怖るべき書店を呆気に取られて見てまわるうち、おれの中にむらむらと黒い衝動が湧き起こってきた。ここはせっかく膨大な数の本があるというのに、余計なものでいっぱいだ――人間である。おれは人ごみが大嫌いだ。満員電車に乗っているとき、駅の通路を歩いているとき、マシンガンを腰だめに構えて三百六十度に乱射したくなってたまらない。絶対やってしまうにちがいないので、おれは駅の売店で百円ライターの横にマシンガンが吊るしてあっても、見て見ぬふりをしてカロリーメイトだけを買い、逃げるように立ち去ることにしている。
 この書店は怖い。うじゃうじゃいる人間どもを全員消し去ってしまいたくなるのだ。図書館でそんなふうに感じたことはないのだが、大きな書店ではいつもその黒い衝動と闘わねばならない。ゆっくり見てまわりたいという気持ちと、一刻も早くこの人間地獄から抜け出したいという気持ちがおれの中で伯仲し、たいへん精神的に疲れる。やはりおれみたいなやつは、インターネット書店が向いているようだ。でも、実物を手に取ってみないと“勘”が働かないことも多いよねえ。

【3月16日(火)】
▼あちこちの「DASACON」レポート(DASACON参加者サイト一覧がサーフィンに便利)を読んでいると、おれの祝電がウケたみたいで嬉しい。いや、元はといえば、「DASACONに祝電メールを打ったらどうかと思うが、なにか面白いアイディアはないか。架空の人物から出すといいのでは」と呼びかけてくださったのはタカアキラ ウさんで、「それはおもろい、やろうやろう。メールもいいが、調べてみると会場の旅館にはファックスがある。また、インターネットから電報も打てる」と調子に乗って助言をし、陰謀を進めておったのであった。媒体と内容は各自で工夫するとして、とにかく祝電風のメッセージを寄せることに落ち着き、当日を楽しみにしていたのだ。そりゃ、あなた、おれたちの世代で“祝電”といえば、連想するものはアレしかない。じつは、かねてより一度でいいから「ヤマトの諸君……」の祝電を打ってみたかったのだが(97年7月13日の日記参照)、そんなアホなことが許される状況というやつはそうそうない。まさか、会場が『大和の間』であったとは知らなかった。天はおれのバカさ加減に味方した。これで、三つの夢のうち、ひとつが叶って満足である。あとふたつはって? まず、無能でおべっか使いのやつを捕まえて「ヘス君、君はバカかね?」と氷のような声で言ってみたい。次に、声ばかりでかくて無神経でつまらないことばかり言うやつをボタンのひと押しで消し去って、「ガミラスに下品な男は不要だ……」とニヒルにつぶやいてみたい。問題は、バカや下品な男をいちいち始末していたら、真っ先に始末されるのはおれにちがいないという点なのであるが……。
▼喫茶店で昼飯を食っていると、腰のあたりにズズズズズ、ズズズズズという振動を感じた。「おや、電話かな――?」と一瞬思うも、はて、ここは地下だから圏外だったはずだ。中継アンテナでも取り付けられたのだろうか……。バイブにしてある携帯電話を確認しても、着信した気配はない。するとまた、腰のあたりでズズズズズ、ズズズズズ……。
 なんと、腹の中のガスが移動するときに、おれには携帯電話そっくりの振動に感じられたのだった。ややこしいな、もう。おれの持っている携帯電話は、バイブがやや弱い。同機種を使っている人がどこかのウェブページで「バイブが弱い」と書いていたのを以前読んだことがあって、「そのとおりだ」と細かい製品評価に感心した。バイブが多少弱くてもいいのだが、もう少しメリハリのある振動にしてくれれば、それとわかりやすいのにな。べつに、スラストとか回転とかは要らんからさ。これでは、ほんとうに着信しているときに「あ、また腹が鳴っている」と無視してしまいそうだ。

【3月15日(月)】
▼びっくりだ。このサイトが、「DASACON賞」「読んで面白いサイト部門」一位に選ばれてしまった。ウソみたいなホントの話である。なにしろ読者投票であるからして、いやじつにこれはどうも、率直に嬉しい。ウェブの上にも三年とでも言おうか。投票してくださった方々はもちろん、日ごろ読んでくださっている方々すべてに篤く御礼申し上げます。ありがとう。
 それにしてもである。「DASACON賞」とはなにかを知らず、たまたま「DASACON賞を受けた“読んで面白い”サイトらしい」と見に来てくださった“一見さん”の方があったとしたらと想像すると、慚愧に堪えぬものがある。あくまで“SF系のネット者”の方々が「読んで面白い」と支持してくださったのであって、これは世間一般に言うところの「読んで面白い」とは、当然かなりかけ離れているだろうと思うからだ。「面白いというから来てみたら、なんじゃこりゃ?」とずっこけている方がもしいらしたら、ここはそういうサイトですのでお許しをば。もし、多少なりとも面白いと思ってしまったあなた――そう、そこのあなたです――あなたにはSFの血が流れている可能性がある。理屈っぽいですか? 理屈っぽいくせにバカ話が好きですか? ときどき、自分がなぜ“こんなところ”にいるのか、あたりを見まわして愕然としますか? おれたちはどこから来てどこにいて、そしてどこへゆくのかなどと湯舟の中でつぶやいたりしませんか? 機械が生きものに見えるときがありますか? 逆に生きものが機械に見えるときがありますか? そんなもん、どっちでもええやんと思いますか? 「そういえば、ついこのあいだ……」などと一億二千万年前の話をいきなりはじめたりしますか――?
 いずれかに該当するなら、騙されたと思って、一度“SF”というやつを読んでみてください。それがあなたにとってしあわせなことかどうかは保証しませんが、“SFの血”が目覚めるかもしれません。
 さて、そちらのあなた、やさしい宇宙人が地球を見守っていると思いますか? ときどき誰かが耳元で指令を出したりしますか? みんながあなたの悪口を言っているような気がしますか? 自分の身体が常時耐えがたい異臭を放っているように感じますか? 「ちょっと塩取って」と食卓で言われて、いきなり相手の腕を掴むやクレーンのように塩の瓶のそばに持っていったことがありますか? 仕事中、突然意識を失ってヘブライ語で叫んだりしますか? 排便後いくら尻を拭いても汚れが残っているような気がして、トイレットペーパーのロールを一本使ってしまったことがありますか? 日記をつけていて、昨日と一昨日のぶんは誰が書いたのかわからないことがしばしばありますか? 人と話すとき、相手の身体を透視するようにしてそのうしろの壁に向かって話しますか? いま緑色の小人がディスプレイの上に座っていますか――? SFを読む前に、一度専門医の診察を受けましょう。
▼例の“七の月”まであと三か月、書店には予言書のコーナーができていて、あちこちで寄ると触るとノストラダムスが話題に上る。同じ予言者だというのに、あいつばかりが話題になって、おれが顧みられないのはいささか癪に障る。おれも先日天啓を受けて、絶対当たると確信している予言のストックがふたつほどあるので、気前よくここで公開してしまう。
 まず、西城秀樹が六十歳になる年に、それは起こる。必ずや、どこかのスポーツ新聞か芸能誌が「ヒデキ、還暦!」という見出しの記事を載せるであろう。ふたつめは――もうネタを読まれたような気もするが――確実にその事件のあとに成就する。松本伊代が還暦を迎える年、必ずや、どこかのスポーツ新聞か芸能誌が「伊代はまだ六十だから」という見出しの記事を載せるであろう。ゆめ疑うことなかれ。

《ご恵贈御礼》いつもいつも、まことにありがとうございます。

『SFバカ本 だるま篇』
岬兄悟大原まり子編、井上雅彦・大原まり子・岡本賢一・梶尾真治・かんべむさし・難波弘之・牧野修・松本侑子・岬兄悟・山下定、廣済堂文庫)

 あっ、いまごろ気がついた。ジャストシステム版では“たわし編”“白菜編”など“編”の字が使われていたのに、廣済堂出版移籍してからは“篇”になっていたのだった。言及するときには気をつけよう。

【3月14日(日)】
▼国歌候補の投稿がまたあった。めんちかつさんの推薦曲は「花」(作詞・作曲:喜納昌吉)。「泣きなさい 笑いなさい/いつの日か いつの日か/花を咲かそうよ」というリフレインは一度聴いたら忘れられないから、歌手の名を忘れていても「ああ、あの曲か」とほとんどの人にはピンとくるだろう。たしかにいい曲だよね。「赤蜻蛉」とはまた別の“血に流れている記憶”が呼び覚まされるような歌だ。
 しかし、ある意味でこれはたいへん過激な提案である。ご存じのように、喜納昌吉の音楽は、琉球文化圏にそのルーツを持つ。大和朝廷にさぶらわなかった文化の流れを汲むわけで、いろいろな意味で「君が代」の正反対の極にある音楽だと言ってもいい。これを国歌にしようというのだから大胆なご意見である。当然、アイヌの音楽も考慮に入れねばならないだろう。日本が一民族一国家だなんてのは大いなる幻想にすぎないから、特定の(日本国内の)文化圏の影響を色濃く落とした曲を国歌にしようとすれば、さまざまな反対意見が予想される。しかし、そもそも文化圏の影響を受けない音楽なんてものが存在するはずがなく、そう考えると、世界的な生物学的・文化的混血がどんどん進行している現代に於いて、“国歌”などというものを“ひとつ”に定めようとすることに無理があると言えよう。
 もっとも、喜納昌吉の曲がベタベタの(?)琉球音楽かというと、そんなこともない。それこそ、彼の率いるバンド名にあるように、世界各国のさまざまな音楽の“チャンプルー”(ごった煮)なのである。だからこそ、世界的に(とくにアジアで)ウケるのだろう。そこまで考えれば、なるほどこれからの国歌なんてものを定める必要があるとすれば、“ごった煮”性を重視すべきではあるまいかとも思う。
 おれは多様性を好む。“ごった煮”性こそ、SFの最大の武器のひとつでもあるわけで、とかくSFファンというやつは、目の前になにかが複数あると混ぜこぜにしたがるものなのである。それらが一見かけ離れていればいるほど“燃える”のだ。それがまたSFというものをわかりにくくしている一因でもあるのだが、できた“ごった煮”を“スカラー量”として見るとSFとはなんだかさっぱりわからないが、“ごった煮”を作ろうとする“ベクトル”を注視すれば、そこに紛れもない“SFなるもの”が浮かび上がってくることも多いのである。あれ、いつのまにSF論になったんだ?
▼まだ風邪が治らず、重い本を読む気になれないので軽い本を読む。『慟哭の城XXX(トリプルエックス)』田中啓文、集英社スーパーファンタジー文庫、集英社)を量ってみると、百七十グラムだった。よし、ちょうどよかろう。
 前篇の『蒼白の城XXX』に“ケロのジョー”とロボットが出てきたときから、そのうちやるぞやるぞとわくわくしていたら、やっぱりやりましたなー、「おんにょごにょん」 読者の期待を裏切らない小ネタに、おれははらはらと落涙した。なに? 落涙してるのはおっさんおばはんばっかりで、中高生にはわからん? 中高生は、作者の特異な言語感覚が生んだオリジナルの奇声だと思っていればよいのだ。さすがに「アッチョンブリケ」を使ったら手塚プロがうるさいかもしれないな。
 それにしても、『蒼白……』と『慟哭……』の書体がちがうのはどうしたことだろう? さては『蒼白……』で風呂敷を広げすぎて『慟哭……』が予定より膨れ上がっために字を詰めたのかなと思い、一ページあたりの字数を数えてみると、これが同じなのである。どうも『慟哭……』のほうが字が細かく詰まっているかのような印象を与える版面になっている。不思議なことだ。これは出版社に言うべきことだろうが、二冊もののシリーズなんだから、やっぱり書体は揃えたほうがいいでしょう。
 いやあ、しかし、二冊完結のヤングアダルトでここまでやるかと呆れるほどのネタの嵐に、風邪のときに読むべきではなかったかもしれんと途中で後悔しながらやっぱりやめられず読んでしまった。近来稀に見るさわやかなさわやかなさわやかな結末で、この表紙絵はいったいなんやってんと大爆笑。おれもこの小説が終わるように人生を終えたいものだが、こんなのヤングアダルトでやってもいいのか? ほんまはあかんのやろな。生活かかっとるというのに、その“あかんこと”をいけしゃあしゃあとやるところが、やっぱりこの作家は真正の“いちびり”なのでありましょう。こういう作家には、もっといろんなフィールドで、存分に“いちびって”ほしいものである。しかし、こういうものがヤングアダルトの“要求仕様”を満たしているのかどうかとなると、さすがにYAに弱いおれでも首を傾げざるを得ない。場ちがいなんじゃないかと思う。
 ネタばらしになってはいかんので詳しくは書かないが、田中啓文の作品に、おれはすごく“手塚治虫的”なものを感じる。『蒼白……』『慟哭……』にしても、「ああ、このネタは手塚のアレを捻って発展させたんだな」と否応なしに連想してしまう箇所がいくつかある。表面的なネタを模倣しているにすぎないと言っているのではない。「こういうキャラ配置でシチュエーションがこう来ると、次はこう来るな」といった“体捌き”が手塚的で、田中啓文はその手塚流武術の“体捌き”を内在化している――すなわち、自家薬籠中のものにしているのが、おれには“匂い”でわかるのである。女性像がいびつなところまで手塚的だ。ご本人は照れくさいのと畏れおおいのとで“諸星大二郎と半村良”みたいなことしか言わないかもしれないが、『水霊 ミズチ』(角川ホラー文庫)なんて、『きりひと讃歌』(手塚治虫)へのオマージュ、あるいは、狙いを変えた挑戦だということがありありとわかる。アホな「あとがき」に騙されたらあきまへんで。この人はけっこう怖い。どこか、田中啓文に「どんなものでもいいから千ページまでで長篇一冊書いてくれ」と注文する出版社は現われないだろうか?

【3月13日(土)】
▼朝方「DASACON」に祝電を打つ。完全ペーパーレスの「DASACON」に電報などという旧態依然たる媒体は似つかわしくないかもしれないが、そこはそれ「D-MAIL」を使ってインターネットから手配したのでよしとしよう。これはほんとうに便利である。キティちゃんのぬいぐるみは、おそらくクイズの臨時賞品にでも使われていることであろう。
▼うーむ、我夢のお母さんはiMacを使っているのか。ますます『ウルトラマンガイア』(TBS系)の時代背景がわからなくなってきたが、おそらくiMacは、リパルサーリフトが発明されるころにも生き残るロングセラーになるのだろう。iMacにも驚いたが、我夢のお母さんが水沢アキだったのにはもっと驚いた。そうだよなあ、おれも歳食ったということだよなあ。ちなみに、翻訳家の岡田靖史さんがテレビのリポーターをやってた水沢アキに会ったことがあるのは、ごく一部ではたいへん有名な話である。SF周辺業界は狭い(って、そういう問題か)。
 それはともかくとして、今日のガイアはずいぶん力が入っていた。特撮もいい。石橋けいの出番も多い。「ヴァージョンアップ・ファイト」だからだろうが、今回だけで通常の二、三回ぶんの予算を使っちゃったんじゃないかと心配になる。パワーアップしたガイアがどのくらい強くなったのかを最もわかりやすく子供に見せるには、なるほど、むかしのガイアと闘わせればいいわけで、その“ニセ旧ガイア”が出現する過程もうまく考えてある。常時このくらいのレベルだと大人の鑑賞にも耐えるんだけど、やっぱり予算がアレなんでしょうね。
 根源的破滅招来体に汚染されていた光量子コンピュータ“クリシス”が断末魔に放ったプログラムがネットワーク上を逃げまわり、エリアルベースやジオベースのシステムに侵入してくる――なんて設定が子供にわかるかというと、これはもう、わかるでしょうね、最近の子供には。厳密には、ああいう動きをするものはコンピュータ“ウィルス”じゃなくて“ワーム”なんだが、そこはやはり子供番組だから“ウィルス”でいいでしょう。エリアルベースのコンピュータシステムがデュアル化してあるところの見せかたなんかも、子供番組とは思えぬほど的確。我夢が「ワクチンを自己進化させるんだ」などと、これまたSF的に的確な台詞を吐くに至っては、いったいどうしたんだと妙に感心してしまった。ちょっと気になったのは、ワクチン・プログラムのディスプレイ上での表示が、どうして Vakzin とドイツ語になってるのかね? ほかは全部英語なんだから、vaccine とすべきでしょう。藤宮が設計したんならわからんでもないけど、そんなはずないよね。おそらく、このディスプレイ上の表示を書いた人は、特定の商品が念頭にあったんだろうな。まあ、映画『さよならジュピター』 Black Hall よりはましですが……。
 いつも怪獣に名前をつけてるだけかと思ってたコマンダーの名台詞もいいすね――

千葉参謀(ガイアとニセガイアの対峙をモニタで見ながら)「データが完全なら、両者の力は互角だ。ほんものは勝てるのかね」
コマンダー「命あるものは、常に前に進みます。昨日までのデータなど――」

 いやあ、子供番組だからこそ、これくらいわかりやすくかっこいい台詞を言ってほしいものだ。文部省なんかより、よっぽど教育的だぞ。
 このところのウルトラマンシリーズは、ウルトラマンの正体が途中で誰かにばれる(ばれていたことがあとでわかる)パターンが定着しつつあるが、ガイアの場合も、すでにコマンダーにはわかっていることを随所に匂わせてるよね。よく観てる子供なら気づいているだろう。ただただ正義の味方がインフレを起こし、意味もなくパワーアップを繰り返すだけの“セーラームーン化”を怖れていたのだが、今回くらいのものを見せられると、なかなかどうして今後の展開に期待が持てる。ヴァージョンアップしても、哲学的に深みのある骨格は変えてほしくないな。
「だんご3兄弟」(作詞:佐藤雅彦・内野真澄/作曲:内野真澄・堀江由朗/編曲:堀江由朗/うた:速水けんたろう・茂森あゆみ、ひまわりキッズ、だんご合唱団)が手に入ったので、ゆっくり聴いてみる。ひたすら耳につくだけで、なんとも深みのない歌だ。(だんご3兄弟が生まれ変わってくるときは)「できればこんどは/こしあんの/たくさんついた あんだんご」なんてあたりに、哀感を深読みしようと思えばできないこともないが、あんだんごにはあんだんごの苦労があるわけで、主観的幸福度はあんまり変わらんと思うぞ。
▼火星で撮影された“ニコニコマーク”型クレーターの写真を CNN interactive("Mars' happy face: Have a nice planet!")で見て大爆笑。しかし、惜しい。上下が風化して、こんな形のクレーターになってたら、もっと面白いのに――(^_^)

【3月12日(金)】
▼国歌ネタが続いているが、風邪でふらふらでネタを考えるのがしんどいので、今日もやる。『「君が代」の問題点は時代に合わないことだと思います。これは歌詞を読めば一目瞭然』とおっしゃるのは、林譲治さん。おれもまったくそのとおりだと思う。
 林さんの解釈によれば、「さざれ石の巌となりて」というのは、宇宙空間の微細な塵が重力で互いに引きつけ合い、岩、つまり惑星になることを意味しているのである。「千代に八千代に」とは、そうなるにはたいへん時間がかかるということだ。そうしてできた惑星に「苔のむすまで」となると、せいぜいが生命が発生して苔程度に進化するまでのことにしか触れていない。つまり、歌詞がすっかり時代遅れになっている。これからを考えるのであれば、「苔のむすまでをせめて電波人間(「継ぐのは誰か」参照)までくらいに延長する必要があるはず」というのが林さんの主張である。
 それにしても、だ。先のことを考えるとなると、はたして国家なる制度が人類の歴史に於いていつごろまで続くかが最も大きな問題である。国家がなくなってしまえば、国歌なんてものももちろん要らない。SFにはしょっちゅう“世界連邦”みたいな全地球的連合体が出てくるが、運よく将来そういうものができたとしたら、今度は“星歌”をどうするかが問題になろう。そもそも歌詞を何語にすればよいのだ?
 そのうち、宇宙空間や太陽系の他の惑星、それどころか、他の恒星系の惑星で生まれ育つ人類が出てきたら、彼らはいったいなんに対して帰属意識を持つことになるのだろう。人類という“種”に対してだろうか? しかし、いずれ人類はみずからのハードウェアの設計図に手を入れ、徐々にホモ・サピエンスとはちがう種に変わってゆくだろう。“種”すらも、はなはだローカルな概念になるときが来るかもしれない。つまるところ、“この宇宙の中で「私はここにいる」と意識できる存在”同士の連帯感みたいなものが最後まで残るんじゃなかろうか。そういう意識を持っているのなら、相手がたとえ異星起源の生物であろうが、あるいは人工物であろうが、親近感を覚えることができるにちがいない。茫漠と広がる圧倒的な虚無の中で生まれ、「おれはなぜこんなところにいるのだ?」という問いを発することができる存在同士、お互いに“戦友”みたいな気持ちを抱けるような気がするのだ。

【3月11日(木)】
昨日の日記「赤蜻蛉」を国歌にしたらどうかと書いたところ、さっそく国歌候補がふたつ舞い込んできた。
 松浦晋也さんは、「上を向いて歩こう」(作詞:永六輔/作曲:中村八大)がいいとおっしゃる。なるほど、これも捨て難い。なんたって、世界中で最も有名な日本の曲のひとつであろう。『ブラスの和音と共に、ちょっとゆっくり目の演奏の「上をむいて歩こう」が、オリンピックで演奏される様を思い浮かべて下さい』か……ううむ、たしかにいいな。スローな「上を向いて歩こう」といえば、おれはすぐさま、原みどりヴァージョン(『アマロ・ジャバロと言えた日』所収)を思い浮かべる。いや、いいんですよ、これが。うむ、この曲は、ふだん唄うときには軽快に、式典などの際には厳かにゆっくり演奏するという使い分けができそうだ。
 マイソフさんは、「最初から国歌用に作られたような名曲」として、「故郷」(作詞:高野辰之/作曲:岡野貞一)を挙げられている。じつは、これはおれも考えた。「赤蜻蛉」と双璧を成すだろう。「志をはたして/いつの日にか帰らん」ってあたりが、おれには地方分権の時代に逆行するような気がしてちょっと抵抗があるのだが、「取調室の容疑者すら泣かせる抜群の感化力と、ポールに日の丸が三本揚がっていても位負けしない重いメロディーラインは、国歌としての風格十分でしょう」などと推されると、いかにも国歌にふさわしい気がしてくる。
 「赤蜻蛉」にもひとつ困った点があるにはある。「ああ、いい曲だなあ」と涙ぐみそうになりながら聴いていると、なぜかおれの頭の隅のほうで「シューカンシンチョーハ、タダイマハツバイチューデス」という間の抜けた声がするのだ。若い人はわからんでしょうね。
 宇宙時代の国歌としては「月の砂漠」(作詞:加藤まさを/作曲:佐々木すぐる)なんてのも面白いかもしれない。これはすごいぞ。SFだ。なにしろ、月の砂漠をはるばると旅の駱駝がゆくのである。ラクダ用の宇宙服を着ているのか、バイオテクノロジーやナノテクノロジーが生んだ宇宙ラクダなのか、いずれにしてもSF的に絵になる光景だ。
 そういえば、元々日本の軍歌だったものを動物の歌にしてしまった例もあったな。三十代以上のSFファンはたいてい唄える英語の歌である。おれはどうも軍歌というのは好かんが、この歌の英語版は好きだ。え? もったいぶらず教えろ? 「ゴー・トゥ・ザ・シー・ヒポポタマス(海ゆ河馬)」(訳詞:小松左京)という有名な歌である――「ゴー・トゥ・ザ・シー・ヒポポタマス(海ゆ河馬)/ウォーター・スティック・ヒポポタマス・スリープ(水づく河馬寝)/ゴー・トゥ・ザ・マウンテン・ヒポポタマス(山ゆ河馬)/グラス・スティームド・ヒポポタマス・ルート(草むす河馬根)」
 原典は小松左京の短篇「タイム・ジャック」筒井康隆「日本以外全部沈没」の返礼として書かれたバカSFだ。知らない方は、捜し出して読んでみてください。
 あれ、国歌の話はどこへ行ったんだよ。


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