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99年3月下旬 |
【3月30日(火)】
▼SFセミナーの案内が届く。最近とんとウェブページをチェックしておらず、昨夜〈SFマガジン〉編集長と長電話していて、はじめて昼企画のゲストを知ったというありさま。篠田節子氏と神林長平氏か。押しも押されぬ実力と実績を持つ正真正銘の大衆エンタテインメント作家がふたりもいらっしゃるとなれば、これはぜひおれも行きたいものだ。はっきり言って、おれは有名人に弱い。ただ有名なだけな人ならどうということはないが、抜きん出た才能のゆえに有名な人の前に出ると、むちゃくちゃにアガる。みずからも才能に恵まれた人なら、ほかのそういう人に対して敵愾心やらライバル意識やら嫉妬心やらを燃やしたりもするのかもしれんが、おれはただ単にきゃあきゃあ喜ぶ。要するに、ミーハーである。まあ、財布と体調に相談だな。
しかし、こうして神林長平の全著作リスト(そういうのがセミナーの案内状に載ってるのだ)を眺めてみると、再刊はわざわざ買っていないにしても、やっぱり全部持っていて読んでいるな。じつはおれにとって、こういう作家はそんなに多くない。好きな作家でも、著作が多すぎていまさら全部集められないというケースはあるが、まだ著作が二、三冊といううちから、次になにが出るか、次になにをやってくれるかとわくわくしながら一冊一冊買い集め、気がついたら全部揃っていたなんて幸福な例はあまりない。著作が数冊ならともかく、三十冊を超えるような作家の場合、よほど気に入らないかぎり、途中で買わなくなっちゃうか、少なくとも出るたびに買うようなことはなくなってしまう。おれが飽きっぽいってこともあるが、本というものはタダではないという単純明快な理由によるところが大きい。少なくとも神林長平は、おれの対書籍有効可処分所得圏(なんて言葉はいまできた)から、ここ二十年近く一度も出たことがなかったわけだ。おれはお世辞にも高額所得者ではないから、これはすごいことである(妙な作家の褒めかたもあったものだ)。おれが自分の愛機(パソコンだが)を“カーリー・ドゥルガー”(98年7月19日の日記参照)と名づけているのも、ゆえなきことではないのであった。
▼昨日書いた天然痘の話だが、さっそく野田令子さんが見解を寄せてくださった。野田さんはべつに天然痘の研究をしておられるわけではないが、国立遺伝学研究所で日夜遺伝子と格闘なさっているのだから(「院生生活とは、ATGCとお友達になることと見つけたり」とおっしゃる)、この手のことは歯を磨くように調べてしまわれるのであった。
でもって、DDBJ(DNA Data Base Japan)で調べてくださったところによれば、variola virus (痘瘡ウィルス、天然痘ウィルス)のDNA塩基配列が合計10KB(10000塩基対)足らず、近縁の cowpox virus (牛痘ウィルス)の塩基配列が20KB(20000塩基対)ほど判明しているそうである。近縁なのでオーバーラップしている可能性もあるから、実際には、天然痘ウィルスの決定されているDNA塩基配列はもう少し少ないかもしれないとのことだ。variola virus のゲノムサイズ自体は200KB(200000塩基対)くらいだそうで、つまり、およそ一割近くは解析されていることになる。
「塩基配列の決定は、既に一部の塩基配列が決定しており、全部で200k程度のサイズであれば、技術的に困難とは言えないと思います」というのが野田さんのご見解である。「問題になるのは、試料(ウィルスもしくはウィルスのDNA)が限られた場所にしかない事だと思われます。封じこめレベルの高い区域で扱わねばならないので、実験自体も大変だと思いますし、バイオハザードの危険をおかしてまで実験する価値があるかどうかの判断が難しいのでは、と推測するのですが」ということで、やはりコスト論に帰着するようである。もっともなことだ。
しかし、おれがなんとなく気にかかるのは、天然痘ウィルスは人類が設計して作り出したものではないという点なのだ。つまり、ゼロから作れなかったものがせっかく天然に存在しているというのに、それが怖ろしい病原体だからといって、ほんとうに葬り去ってしまっていいものかどうか――なんとなく、もったいないという気がするのである。テロだの生物兵器だのという軍事的な観点は別にして、この地球で進化してきたウィルスの遺伝情報に、いまはまったくわからないが、なにか将来とんでもなく重要な意味を持つ情報が含まれている可能性はないのだろうか? 直接なにかの役に立たなくとも、もしかしてひょっとして、学問的なブレークスルーのきっかけになるような秘密が隠されていないとは誰にも言えまい。「そんな呑気なことを言ってる場合か。危ないものは消せ」という意見はよくわかる。現実の世の中は、学者や一SFファンのナイーヴな知識欲やロマンとはちがう論理で動いている。でも、やっぱり、もったいないと思いませんか? おれは、絶対に政治家と軍人にだけはなれない性格なんだろうな。
そこで、おれは邪推した。あくまで邪推だからね。一ウィルスの遺伝情報が万が一にも持つやもしれぬ価値を、広く世間に理解してもらうのはたいへんに面倒だ。不可能かもしれない。そこで米国科学アカデミーの科学者たちは、ものすごくわかりやすい国家安全保障上の問題を前面に押し出すことで、天然痘ウィルスの遺伝情報の温存を図ろうとしているのではなかろうか……。いや、あくまで絵空事の好きな男の邪推ですよ、邪推。
【3月29日(月)】
▼先月末ごろから、天然痘関係のニュースがぽつりぽつりと目に留まるよね。一九八○年にWHOが根絶宣言を出した天然痘だが、アメリカとロシアの二箇所の研究施設だけがウィルスを保存してきた。九○年には、WHOが九三年までに廃棄しろと呼びかけていたが、廃棄は結局先送りとなった。このころちょっと一般紙などでも話題になり、面白いので「廃棄すべきかどうか?」とNIFTY-Serve・SFファンタジーフォーラムの雑談会議室で話を振ったところ、いろいろ興味深い意見が出たのを憶えている。おれもそのとき出した意見だけど、“遺伝情報を解読して保存し、実物は破壊する”というのはどうだろう? この作業のコストや技術的難易度はおれにはよくわからない。でも、比較的単純な生物の中には、DNAの全塩基配列が解読されているものもあるのはご存じかと思う。新しいところでは、この日記でも最近話題にした梅毒スピロヘータ(99年2月21日)なんかも、昨年百十万個の塩基配列がすべて決定されている。天然痘ウィルスで同じことをするのは難しいのだろうか。技術的には十分できるが、その労力をほかのもっと役に立つ生物のゲノム解析に振り向けたほうがいいということなのかもしれない。このあたりは、専門家の方々のご意見をお伺いしたいところである。
九三年を生き延びた天然痘は、WHOが九六年に廃棄処分決議を採択し、今年の六月三○日には今度こそこの世から姿を消すはずだった――が、ソ連崩壊後のごたごたで管理も杜撰だったであろうロシアから、すでに天然痘ウィルスが第三国へ持ち出されている可能性も浮上してきて(イスラエルが持っているという報道もある)、米国科学アカデミーは、テロに使用された際のワクチン開発に必要だと、保存を強く要請する報告書を先日まとめたと報じられている。おそらく、天然痘は今度も生き延びるだろう。
ほんとうにアメリカとロシアしか持っていないのかどうかには、おれはあまり興味はない。面白いのは、ここへ来て、天然痘ウィルスが人類にとって怖ろしい病原性を持っていることが、彼らの生存価になっているという現象である。ちょうど、人間に可愛がられる性質が犬の生存価になっているようにだ。人類を悩ませてきた病原体たちは、やがて次々と自然界では根絶されてしまうにちがいない。しかし、最後の最後で、天然痘と同じように、やっぱり生き延びはするだろう。『パラサイト・イヴ』(瀬名秀明、角川書店)じゃないが、一人前の生物とも言えないようなちっぽけな存在たちに操られているのは、じつは人類のほうなのではないか――なんて気がしてくる。
【3月28日(日)】
▼沖田浩之が自殺。同い年の人間にポイと人生を投げられると気色が悪い。なにがどうしてどうなったのかさっぱりわからんが、芸能人ってのは最初があまりにトントン拍子だと、そこから下へ行くのがおれたちの想像も及ばぬほど怖ろしいものなのだろう。たとえば、「いやあ、おれなんか一生一階の人間だと思っていたのに、三階まで来られた。もったいなやもったいなや。バチが当たらんか心配だ」というのがふつうの人の感覚だと思うが、気がついたら十階にいたような人間だと「ああ、九階に降りるなんて、もうおれは終わりだ。怖いよ怖いよー」って感じなのかもしれない。げに、生きがいというやつは個別的・相対的なものだ。それにしても、ずいぶん簡単に死ぬねえ。娘も小さいというではないか。カッコイイことが既定値になってる人間ってのは、存外に脆いものなんだな。とはいえ、城みちるだって、あいざき進也だってがんばって生きているぞ。彼らはどこかでなにかをふっ切ったにちがいないが、沖田にはそれができなかった。ひとごとながら、なにやら腹立たしい。
▼むちゃくちゃに眠く身体がだるい。ほとんど寝てばかりの週末。で、寝たからといって清々しくなるかというと、そんなことはまったくないのである。ああ、時間を無駄に使ってしまったと後味の悪い思いをするばかりだ。死んでたんならともかく、ちゃんと眠っていたんだから時間をまったく無駄にしたわけではないのだが、どうも悪いことをしたような気になるのがよくない。おれほどの呑気な人間でも、常になにかをしていなくてはならないという、いかにも現代的な強迫観念に毒されているのがよくわかる。こういうときは、眠って夢を見るとどんどん頭がよくなるとか、寝る子は育つとか、寝ているあいだは金を使わずにすむとか、適当に都合のいいことばかり考えるのがよろしい。悪いことばかり考えていると、沖田浩之みたいになるのである。
「なんでこんなにあくせくしているのだろう」とわけもない焦りに囚われかかっているとき、おれは一枚のCDを取り出し、バカのように繰り返し流す。「やつらの足音のバラード」(ムッシュかまやつ)である。おじさん・おばさんには説明の必要はないだろうが、アニメ『はじめ人間ギャートルズ』のエンディングテーマだった名曲で、作詞はマンガの原作者・園山俊二、作曲はかまやつひろし、当時はちのはじめという人が唄っていた。「なんにもない なんにもない まったく なんにもない」ってやつね。三年ほど前、焼酎のCMにムッシュかまやつ本人が唄う新ヴァージョンが使われて、おれはあのCMを観たときに涙がちょちょ切れたものである。この曲、意外と好きな人が多いみたいだよ。大河の如き悠久の時の流れがあるばかりで、ドブ川のように慌ただしい人間の尺度での“時間”というものがまだなかった時代――そんな“憶えているはずのない思い出”を呼び覚まされる感じで、SFファンにはとくに“クる”ものがあるのだ。いつぞや、十数人で京都SFフェスティバルを抜け出してカラオケに行ったとき、北野勇作さんがこの曲を唄って、「いかにもいかにもだなあ。やっぱり好きなんだなあ」と思ったことであった。あ、北野さんがいらしたのだから、山岸真さんが“さなぎ”をやった年か――って、おれひとりで納得しても、わからない読者のほうが多いってば。小泉今日子も唄っているそうなのだが、おれはまだ聴いたことがない。いっぺん聴いてみないとな。なるほど、いかにも彼女は好きそうだ。午後の紅茶でも飲みながら唄えば、たいへんに気が休まるであろう。小泉今日子ばかりでなく、おれもカラオケでたまに唄う(一緒にするんじゃない)。
ま、ともかく、「なんにもない なんにもない……」と唄っていれば、あくせくしているのがアホらしくなってくるのである。
【3月27日(土)】
▼妹の家に遊びに行った母が、妹一家と食べてうまかったと、ケーキ屋の箱を持って帰ってきた。ショートケーキかなにかだろうと思って箱を覗くと、中には小ぶりのシュークリームが三個。ここで厭な予感がしたわけだが、よく見ると、案の定、串に刺さっている。ここまでやるかー。世の中、なんでも三個並べて串に刺せばよいという状態になっているらしい。このシュークリーム、それぞれにまったくちがうものであればまだ藝があるのだが、どこにでも売っているミニ・シュークリームに強引に差異を作り出すため、“長男”と“三男”にはチョコとイチゴのクリームが間に合わせのようにかけてあるだけ。“次男”は、さすがに「自分がいちばん」だけのことはあり、長男や三男のように姑息な媚は売らず、厳然としてただのシュークリームである。失笑しながら食いましたけどね。やっぱり、ただのシュークリームであった。串に刺さったシュークリームなどという奇ッ怪なものが食えるのだから、人間、長生きはするものだ。
思い出した。昨日会社の帰りに小腹が空いたので、行きつけのたこ焼き屋(のひとつやふたつ、大阪のサラリーマンは持っているはずだ)のカウンターに座った。たこ焼きが焼けるのを待っていると、みごとな手捌きでたこ焼きを転がしているいつものおばちゃんが、隣でやっぱりたこ焼きを転がしている兄ちゃんに、「たこ焼きで三兄弟作ろうか」などと冗談まじりに声をかけていた。「やめてくれー」と心の中で叫んだことは言うまでもない。“放射能よけうどん”(97年6月12日の日記参照)を発売した大阪人のことだ。ちょっとした思いつきを、ただただ“おもろい”という理由だけで実行に移してしまいかねない。なにしろここは“おもろい”か“儲かる”かのいずれかであれば、なにをやってもいい土地である。もちろんこれは誇張ではあるが、あなたが思っているほどの誇張ではない。大阪ゆかりのSF作家が多いのも頷ける。まちがってもSFで儲かりはせんだろうが、おもろいことはたしかやからね。
「インデペンデンス・デイ・イン・オオサカ(愛はなくとも資本主義)」(大原まり子/『SFバカ本 白菜篇プラス』廣済堂文庫・所収)をフィクションだと誤解している人が多いのには、いつも驚く。関西のほうではみな、あれは多少尾鰭のついた“ドキュメンタリー”だと思っているよ。大阪弁を喋る蟹など珍しくもなく、誰もが毎朝二、三匹は踏み潰して歩いている。いま、たこ焼きの化身が知事で、いろいろ問題はあるものの、それなりに誠実に仕事をしている。その知事をたかが芸能人と心中バカにして議会で下品な野次を飛ばしてばかりいたプロの政治家連中が、知事選にろくろく候補も立てられんという醜態を演じているのも非常に大阪らしい。このプロの政治家さんたちにとっては、数合わせ、すなわち算盤勘定がすべてなのであって、「自分ならこうする」という主義主張・信念・政策はどうでもいいことなのである。ノック知事の政策は穴だらけかもしれんが、少なくとも「こうしたいから、こういうふうに協力してくれ」と辛抱強く説明する政治家本来の仕事をちゃんとしている。プロの政治家さんたちが、ノック現知事は芸能人だから不当に強いと考えているのだとしたら、大きなまちがいである。生え抜きの政治家たちが商人の論理でばかり動いており、元々は政治家でなかった人物が正真正銘の政治家らしいことをしているのを、大阪の人はちゃんと見ているだけの話だ。野次を飛ばしているエラい政治家さんに、「ほんなら、おまえが出ぇよ。おまえの仲間が出ぇよ」とあたりまえのことを言っちゃうのが大阪の人である。「ノックなんぞしょせん芸人、ど素人」とふだんボロクソに言っている人が、いざほかの誰に票を投じようかとあたりを見まわしてみたら、なんとエラい先生が山のようにいらっしゃるはずの大政党が候補者をよう立てん。いかにもお笑いのメッカにふさわしい現象だ。吉本新喜劇よりも面白い。こういう街であるから、大阪でドキュメンタリーを書くと、それはそのままSFになってしまうのであった。
【3月26日(金)】
▼風野春樹さんの「読冊日記」(99年3月25日)に面白い話が出てきた(いつも面白いけど)。風野さんは「メールを打つ」という表現に違和感があるとおっしゃる。メタファーとして手紙をイメージしているので、メールというものは“書く”か“送る”かするもので、“打つ”ものではないというのが風野さんの感じかたである。
おれもほぼ風野さんと語感を同じゅうするが、物体としての郵便物でも“打つ”と自然に言う場合があるので、風野さんの違和感は物理メールか電子メールかによるものではなく、その内容・目的と日本語の動詞との心理的齟齬からもたらされるものではないかと思うのだ。
たとえば、「いつまで待っても梨のつぶてなので、昨日督促状を打っておきました」なんてのは、郵便物であってもごく自然である。だが、「憧れの冬樹蛉さんに、とうとうファンメールを打ったの」というのはかなり奇妙である。おれに憧れるのも十分奇妙だが、“打つ”という言葉の用法が奇妙だ。つまり、手紙であっても電子メールであっても、出す相手をあたかも関数/機能/ファンクションとして捉えて、それにパラメータなり刺激なりを与えることに重点がある場合は“打つ”を用いても不自然ではなく、人間としての相手とコミュニケートすることに重点がある場合は、やはり“出し”たり“書い”たりするべき――というのが、おれの語感だ。
こうしたふつうの日本語としての用法に、電子メールなるものを最初に使いはじめた人々、主に技術系の人々のジャーゴンが混血しているのが現状なのではなかろうか。たとえば、ネットワーク上のノードが生きている(機器が機能しているものとしてネットワークに認識されている)かどうかを調べるため信号を出す「PING」というソフトウェアがある。「PING を打ってみたら、あのルータが死んでた」などと言うわけだ。この PING なる妙な名前は、一応 Packet InterNet Gopher のアクロニムだが、潜水艦が攻撃目標などとの距離を測定するのに発する音波と使いかたが似ているため、洒落でつけられたものである。つまり、なにかを発して、跳ね返ってきたものから情報を得るのは同じという次第。これはおれの推測だが、相手の反応を見るのが主目的のメールを出すのは、ほとんど「ピンを打つ」ような感覚だから、「メールを打つ」という表現が自然に生まれたのではあるまいかと思う。夜中に仕事をしていて、やはり締切に追われているだろう友人に「おい、起きてるか?」なんてメールを出し、別の友人に「いまあいつにメールを打ったんだけど、どうも寝てやがる」などという具合に、おれも使うだろうと思う。
こうした混血用法に、さらに“キーボードを叩く”という意味での“打つ”が混じってくる。おれの経験では、“キーボードを叩く”という意味で「メールを打つ」という人は、まだキーボードで文章を書く行為に慣れておらず、メールを作成するにあたって打鍵行為が強く意識されてしまう人に多いように思う。コンピュータに慣れた人なら、文章を書いている最中には“打鍵している”という感じは意識の隅に追いやられている。ペンで手紙を書くとき、“ペンで紙の表面をひっかく”という意味で「かく」と言う人はいないだろうが、文字を書きはじめたばかりの子供なら“掻く”意味も込めて「かく」と言っているかもしれない。大和言葉としては、同じ言葉なのだろうけれど。
そんなこんなで、同じ「メールを打つ」という表現でも、使う人のバックグラウンドによって、ちがう意味が乗っているのであろう。従来の日本語の敷延として捉える人、技術用語がかったニュアンスを込める人、初心者の実感を素朴に述べる人――面白いことに、みんなが同じように“打つ”と言っているのだ。
【3月25日(木)】
▼スーパーホップスという発泡酒のCMで“地球一周”って言葉を連発していて、なんとなく時代の変化を感じる。なんでもスーパーホップスで“地球一周”が当たるらしいのだが、おれの子供のころには、こういうのは“世界一周”と言っていたものだ。もはや“世界”すなわち“地球”ではなくなったわけね。そりゃまあ、むかしから誰でも“世界一周”とは“地球一周”のことだと理屈では認識していたが(あたりまえだ)、旅行などに関して日常言語でわざわざ“地球一周”と言う人は少なかったように思う。先日の気球による快挙の報道では、まだマスコミは“世界一周”って言ってた(ジュール・ヴェルヌの小説の影響もあるだろうけど)。CMのほうがニュースより進んでるかもね。「ペプシを飲んで宇宙へ行こう」って時代だもんなあ。宇宙空間のコロニーや月に大勢の人が住むようになったら、従来の意味での“世界一周”という言葉は完全に滅ぶことだろう。「いつでも人々を変えるものに/人々は気づかない」(「VOYAGER〜日付のない墓標〜」松任谷由実)
▼電車の中で、誰かが携帯電話で話しはじめたとしよう。すると、必ずと言っていいほど「あ」と思い出したような顔をして自分のケータイを取り出し、電話をかける人がいる。面白いほどだ。これをおれは“携帯電話伝染効果”と勝手に名づけている。
西垣通氏は、電車の中での携帯電話の使用が、団体客の騒がしさに比べればなにほどのこともないにもかかわらずあれほど嫌われるのは、「共同性をめぐる文化の問題」なのだと面白い分析をなさっている。同じ客車に他人同士が乗り合わせて共同の「場」を作り出し、一時的にせよ他人ではなくなる汽車の時代への郷愁がわれわれの中にはまだ残っていて、携帯電話はそういう郷愁を打ち砕くというのだ(「電車でかける携帯電話」/『メディアの森 オタク嫌いのたわごと』朝日新聞社)。
西垣氏の分析に倣えば、おれの言う携帯電話伝染効果は、一種のホームシックなのだろうな。誰かが“電車の外にいる誰か”と勝手に共同体を作っているのを眼前に見せつけられ、自分も親しい人になんとなく電話してみたくなるわけだ。まあ、単に人が電話しているのを見て、自分の仕事の用事を思い出す人も少なくないだろうけどね。
【3月24日(水)】
▼怪しい船の追跡はまだ続いていた。防衛庁長官が海上警備行動の発動を海上自衛隊に発令するに至る事態。「過剰反応だ」「やりすぎだ」だなんて声もあるようだが、なにが過剰なものか。勝手に人の家に入ってきた得体の知れぬやつに「どつくど」と鉄棒を振り上げてなにが悪い。そりゃあ、政治的思惑もあろうし、文字どおり“渡りに舟”と思っている人もあるやもしれないが、べつに政治家があの船を手招いて入れたわけじゃあるまい。国内政治と眼前の不届き者とは、結果的に結びつくことがあったとしても、別の問題として考えるべきだ。
今回の政府の対応は、現行法の下での適切なものであったとおれは思う。取り逃がしたことも含めて、である。得体の知れんやつを追いかけさせられる巡視船の乗組員の身にもなってみろ。まかりまちがって追いついてしまっていたらと考えると、ぞっとする。向こうが本格的に武装しておったら、巡視船などギタギタにされて、最悪、撃沈されてしまったかもしれない。自衛隊があっちを簡単に撃沈できていたとしても怖ろしい(できるに決まっているが……)。いずれに転んでいても、いまの日本が独自に対処できる範囲を超えた事態になってしまっていたろう。あまりにもふてぶてしい不法侵入者が続出するようなら、鉄棒でとは言わんから、せめて張り扇でくらいなら、どついてもいいようにしておかねば。もちろん、一足飛びにではなく、然るべき過程を経てだが……。その然るべき過程がまどろこしいと思う人もあろうが、おれたちはその然るべき過程に守られていることも忘れてはならない。
それはともかく、ニュースを観ていて不謹慎なネタを思いついた。べつに偵察船でもなんでもないチンケな密輸業者の船が海上保安庁に見つかって、船の性能だけは分不相応によかったものだから、巡視船と長時間の追跡劇を演じる羽目になったとする。とうとう追いつかれた怪しい船はまったく武装などしておらず、泡を食った密輸業者は船に積んであるものを手当たり次第に巡視船に投げつけてきた。怪しい船からなにやら赤いものが飛んできたかと思うと、巡視船の甲板をへこませてごろごろと転がった。乗組員は、その状況を無線で報告する――「国籍不明の船が消火器で抵抗してきました」
で、誤解が誤解を呼び……って話なんだが、やっぱりくだらねえよなあ。
【3月23日(火)】
▼帰宅すると母が「怪しい船が現れて、追っかけてるそうや」というので、すわ、アダムスキー型か葉巻型かと期待してテレビのニュースを観ると、おや、当然ウルトラホークが出動していなければならないはずが、海上保安庁の巡視船などが映っている。なんだ、怪しい船とは水に浮かぶ船か。つまらん。
それにしても、いやに速い漁船だな。テレビの画像では怪しい船が立てているはずの音が聞こえてこないけれども、あの泡の立ちかたや波紋を見るかぎりでは、きっとものすごい轟音がしているにちがいない。どこの国の船だかまったくさっぱりとんとぜーんぜん見当もつかないが、いかにも力業という感じで、その粗野で死にもの狂いの迫力が不気味である。もっとも、泡も立てず音も立てず、海面を滑るようにあの速度で走っていたら、不気味どころかほんとうに怖いだろうから、その点ではまだましと言える。いやしかし、じつにふてぶてしい。むかしテレビの“どっきり”系の番組で、“突然おまわりさんに追いかけられたら、なにも悪いことをしていなくとも人は逃げる”という現象の実験をやっていて、たしかにかなりの人が逃げてはいた。いきなりやられたら、もしかするとおれも逃げるかもしれん。きっと「おれの知らないあいだに、SF禁止法が国会を通っていたのか」などと思うだろう。が、どうも、この怪しい船はそうではなさそうだ。反射的に逃げてしまったにしては、あまりに長いあいだ逃げすぎる。なにかうしろめたいことがあるにちがいない。なんだかキナ臭くなってきたなあ。おれは自分から他人の住居に侵入したり他人を殴ったりはしないが、誰かがおれの家の鍵を壊して入ってきたら、やっぱり鉄棒をもって身構え、必要とあらばぶん殴るだろう。相手が刃物でも持っていた日には、おそらく殺すつもりでぶん殴る。武道の心得でもあれば、相手を殺さず動きを封じるなどという高度なこともできるかもしれんが、おれはそんなことを考えている余裕など持てないだろう。鉄棒で頭蓋骨を砕こうとしても不思議はない。あたりまえの話である。おれは、自分が殺されそうになっても相手の人権とやらを考慮するほどには人間ができていない。国と国とのあいだの話となると、そのあたりまえのことがなかなかできないのが難しいところだ。そこが日本のいいところではあるが、そこにつけこんでおちょくってくるやつを目の当たりにすると、さすがに腹が立つね。
【3月22日(月)】
▼えーと、うちの掌篇小説コーナー「十月は立ち枯れの国」の「電子メールがやってきた」「自動販売機」「東海道戦争1995」にご感想をくださった masumura さん、お返事を差し上げようとしたのですが、メールが不達でエラーメッセージが返ってきてしまいます。もしそちらのプロバイダ環境に不具合があったり、ローカル環境の設定がまちがっていたりした場合、ほかの大事なメールを受け損ねてしまわれるおそれもありますので、ご確認なさったほうがよろしいですよ。一度ご自分に向けてテストメールを打って、それをご自分に向けて返信してご覧になると手がかりが得られるかと思います。とにもかくにも、励ましのお便りありがとうございました。この場で御礼申し上げます。今後とも、なにとぞご贔屓に。
▼〈ニフティ SUPER Internet〉(5月号)って雑誌が送られてくる。まあ、購読オプションを設定してるから送ってくるんだけども。以前の〈NIFTY SERVE MAGAZINE〉が新装されただけかと思っていたら、これがけっこう読める。というか、おれが読んで「ああ、ありがたい、面白い」という雑誌ではないが、インターネット初心者にとってはたいへん役立つだろうと思われる編集だ。ちょっと慣れればあたりまえになってしまうが最初は躓くはずの事柄が、わかりやすくまとめられている。《特集 1999脱ビギナー宣言!! インターネットの特効薬》なんて記事はこんな具合だ――『Q24 メールの返事を早く書いて送るにはどうすればいい?』『A オフラインで書いてみよう』、『Q31 ホームページの表示が遅くてイライラしてるんです!』『A 画像表示を止めてみよう』、『Q32 いつまで待ってもページが表示されない』『A 「中止」して「更新」してみる』――って、いや笑うけどね、まわりに教えてくれる人がいないと、こういうことって意外と調べにくいんだよな。さすが、伊達に膨大な会員を抱えているわけではないな。ちょっと見直した。「設定は友だちにしてもらってなんとかインターネットを使っているけど、わからないことだらけ」という方がもしいらしたら、この雑誌(とくに今月号)はお薦め。一度立ち読みしてご覧になってはどうだろう。NIFTY-Serve の会員なら、定期購読しちゃってもいいと思うんだけどね。470円だし。
【3月21日(日)】
▼♪きむらかずしさんのの「ウクレレ日記」(99年3月20日)に画像で紹介されている「納豆マカロニ」を見て、いたく食欲を刺激される。むちゃくちゃうまそうだ。こんな猥褻な写真をウェブで公開してもよいのであろうか。
この写真に劣情を刺激されたおれは、ひさびさに“マダム・フユキの宇宙お料理教室”に取りかかった。当然素材は納豆であるが、さて、なにと混ぜてやろう……。冷蔵庫に瓶入りのおろし生ニンニクを発見。今日はこいつで行こう。
スプーン一杯のおろし生ニンニクを納豆2パックに放り込み、がしがしと練る。食ってみたところが、これがじつにまずい。マダム・フユキも失敗することはある。が、作ってしまったものは食わねばならぬ。それが冒険者の宿命だ。あまりの奇ッ怪な匂いに息を止めながらなんとか半分食ったが、さすがに胸が悪くなってきた。なんとかしようと、さらに冷蔵庫を漁る。「ポッカ100レモン」が出てきた。レモンを混ぜればなんとなくさわやかになりそうな気もして、とにかく振りかける。ぐえ。いっそうわけのわからない味になったぐちょぐちょの納豆(のようなもの)を、えずきそうになりながらもお茶で流し込み、ちゃんと全部食った。味はひどいが、たいへんヘルシーな食いもの(のようなもの)であったことはたしかである。良薬口に苦し。新しい料理に挑戦して失敗したときは、薬だと思って食うのが基本だ。敗因は、ニンニクを入れすぎたことのような気がする。そもそも納豆とニンニクは合わないのかもしれない。次は(次があるとすれば)、もう少しニンニクの量を減らして試してみよう。
口直しに冷凍庫から「モナ王」(ロッテ)を取り出し、あわてて食う。テレビのCMでやっている食いかたを真似してみようと口の中に押し込もうとしたが、どうやっても入らない。あれをやるには一度顎を外さないと難しいようである。実際にああやって丸ごと口に入れたとしたら、まず咀嚼するのは無理だろう。“自分の能力で処理できない課題に手を出してしまう”といった意味の bite off more than one can chew という表現が英語にあるが( My Way の歌詞にもあるよね)、あれは実感としてわかるよなあ。子供のころ、丸かじり系のものを食っていてよくやった。行儀の悪い話である。いかにも肉食のやつらが思いつきそうな言いまわしだ。もっとも「モナ王」なら、CM風に丸ごと頬張ったとしても、しばらくじっとしていればモナカの皮とラクトアイスが体温と唾液で軟らかくなり、咀嚼が可能な状態になってくるはずだ。やはり、難関は口に入れるときだな。「真似しないでください」なんてテロップで出てるけど、必死で真似しているやつが絶対あちこちにいるってば。ちょっと口の大きな人なら、無理やり押し込めば入りそうだもん。ちょうど挑戦意欲をかき立てるくらいの大きさしてるんだよ、あれが。きっと何人かは病院に運ばれているにちがいないぞ。
それはそうと、食いものの話ついでだけど、大原まり子さんの「ものかき日記」(99年3月6日)にさりげなく書いてある「北京ダックおどり食い」とは、いったいどういう意味なのだろう? たいへんに生命力の強い北京ダックで、ローストして肉を削ぎ落としても、まだそいつがぴくぴくと動いているような珍品なのだろうか? それとも、あまりのうまさに踊りながら北京ダックを食ったというのだろうか? あるいはSF作家のことだ、文字どおり京劇かなにかのように踊っている北京ダックというものがあって、それを食ったということなのかもしれん。大原さんの食生活がいかなるものか、おれは文章で知るのみである(一度だけ“ふつうの”中華料理はご一緒したことがあるが……)。あちこちの文章を読むかぎりでは、大原さんはたいへんな美食家なのか、怖るべきゲテモノ食いなのかよくわからない。もっとも、美食家とゲテモノ食いは表裏一体のものであるからして、やはり真の美食家なのだろうと思う。「北京ダックおどり食い」……うーむ、なんなんだ、これは??
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