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99年5月中旬 |
坂口安吾の「ジロリの女」とはなんの関係もない。「はっきりポルノグラフィをめざして書いた短編を五本と、セクシュアリティを探求した短編を二本」収録したという、大原まり子の最新短篇集。あるいはSFファンの方であれば、収録作品の半分くらいは、あちこちの作品集で読んだことがあるかもしれない。まだ読んだことのなかった最初の二篇を読んだが、うーむ、わかるようなわからんような。大原まり子のSF作品にも、さりげない、しかし、はっとさせられるようなエロスが匂い立つことがままあるが、それはどちらかというとセクシュアリティーの擾乱による妖しさから来るものだ。ところが、「はっきりポルノグラフィをめざして書いた」らしい作品では、男性の性感に――などと一般化してはいかんな――おれの性感に近いものが感じられる。大原まり子は、ほんとうは男じゃないのか? けっこうクるものがあるので、ちびちびと楽しませてもらおう。
それにしても、腰巻の近刊(七月刊行)予定にある島村洋子作品の仮題には笑った。『前戯なき戦い――島村洋子の恋愛相談』というのだ。いやあ、これは仮題なんてこと言わず、このタイトルで出してほしいなあ。おれにはウケた。タイトルだけで読みたくなってしまうではないか。
【5月19日(水)】
▼おかげさまで当「[間歇日記]世界Aの始末書」のカウンタが、本日二十万を突破いたしました。注意深い読者諸氏は、おれが会社へ行く以外はほっとんど外出していないことにお気づきでございましょうが、それでも日記らしきものは書けるんですなあ。もはや日記とは名ばかり、毎日ろくでもないことを書き散らしているだけの落書き帳と化している。一応、「その日に考えたことはその日に起こったことだから、それを書けば日記である」という都合のよいポリシーで続けておりますゆえ、今後ともご贔屓にお願い申し上げます。杉田かおるが『すれっからし』(小学館文庫)の「はじめに」で、「読んでくださる人が、杉田かおるは、こんな人生を歩いてきたのか、これに比べれば自分の人生のほうがずっとまし、と思ってくだされば、それで十分である」などと書いてるけど、この「世界Aの始末書」の読者の方々には「冬樹蛉はこんなつまらない日常を送っているのか、これに比べれば自分の日常のほうがずっと変化に富んでいる」と思っていただければ幸甚であります。とは申せ、猥褻が見る者の目の中にあるように、変化だの面白みだのというものも、見るほうがその気になりゃどんなくだらないことにも見い出せるのもまた、どうやら事実のようでございます。ありがとう。
▼毎年毎年書いてるが、今年も一応書いておこう。今日は、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアが死んだ日だ。おれが死ぬときは、なるべくこの日を狙って死ぬことにしよう。かといって、自殺して日を合わせるのは反則(なんの反則だ?)なので、西行みたいに合うとかっこいいんだがな。西行もほんとは前後賞(だから、なんの?)なんだし、プラスマイナス一日くらいはオーケーということにしておこう。
▼Lycos Japan がディレクトリサービスを強化したとのことで、ありがたいことにおれのサイトを「コンテンツの充実した優良サイト」としてディレクトリに入れてくれたとの知らせが来た。ひょえー。充実していたとは知らなかった。さっそく見に行ってみると、「芸術と人文科学 > 文学 > SF・ホラー・ファンタジー」のところに入っている。どうやら未訳海外SFの紹介が最も評価されているようで、複雑な心境ではある。最近、全然更新してないもんねえ。
それにしても、うちはともかくとして、ここに入っている錚々たるサイトと説明文を見るに、これを選んだ人は堅気の人間ではないな。適当に連れてきた人間がこれらを選び得たとはとても思われぬ。「この分野が得意なやつ、やってくれ」などと適材を適所に配置したのだろうか。説明文も的確で、ちゃんと中身をチェックしている。気合い入ってますね、ライコスさん。
【5月18日(火)】
▼〈AX〉(ソニー・マガジンズ)99年6月号を買ってくる。谷田貝和男さんの「夢の島から世界を眺めて」(99年5月15日)によれば、水玉螢之丞画伯描くところの、おれが載っているらしい。あっ、なんてことだ。「裏日本工業新聞」(99年5月10日)でも報道されているじゃないか。おれとしたことが、読み落としていた。
ふだんアニメ誌はまったく読まないものだから、はて、なんの関係があっておれのような外道なSF者がメジャーなアニメの雑誌などに登場しているというのか。わくわくとページを繰ると、あ、あったあった。「ホンのお読見」という山岸真さんと水玉螢之丞さんの連載だ。ぎゃははははは、これがおれの全身像か。なんて似てるんだろう。〈SFマガジン〉に出た似顔絵はアリだと思っていたのだが、これはどうやらキリギリスであるらしい。うむ、おれはアリよりキリギリスのほうが好きだ。潔い。おれの人生哲学といいライフスタイルといい末路といい、キリギリスほどおれを端的に表現している昆虫があろうか。すばらしい。まあ、ライフスタイルとなると、キリギリスよりはオサムシのほうが的確かもしれないが、オサムシは聖域だ。触れてはならぬ。あまりにも畏れ多い。
「わかりにくすぎるネタ」ってキャプションがついてるけど、そりゃそうですわ。いったいこの雑誌の固定読者のうち何人が、おれなんぞを知っているというのだろう。そういうところへなんの脈絡もなく登場させてもらえるとは、まことにありがたい。「いったいなんなんだ、こいつは」と検索エンジンでこのサイトを見つけてきてくれた人だって、二、三人くらいはいるかもしれない。いやあ、ありがたいありがたい。でも、こういう字ばっかりのサイトはお気に召さないかもしれないな。もし〈AX〉で「このキリギリス、誰?」と思って、ここへたどり着いてくださったかたがいらしたら、こんなところですみません。
▼やたら手塚治虫の話が続くが、やたら本が出るんだからしようがない。SFセミナーでお会いしたとき、喜多哲士さんが面白いとおっしゃってた〈COMIC CUE〉(Volume Six 特集:手塚治虫リミックス)を、遅ればせながら〈AX〉と一緒に買う。
いやあ、笑う笑う。吉田戦車の「三つ目がとおる」やら、おおひなたごうの「七色いんこ」やら、本家に優るとも劣らぬ独特の味を出している楽しい“リミックス”満載である。「アポロの歌」の喜国雅彦は、絶対性格が悪いと思う。おれ、こういうの大好きだ。そうとも、マンガというのは、こういう“悪いもの”でなくてはならない。医学博士という肩書きと文部省推薦風のイメージでうまく大人どもをだまくらかしながら、おれたち子供にあーんなことやらこーんなことやら、とんでもない鬼畜なことをいっぱい教えてくれた悪のヒーローが手塚治虫なのだから、喜国のこの小品はトリビュートとして正しいのだ。
島本和彦の「マグマ大使 地上最大のロケット人間の巻」ときたら、まさにこういうお祭り企画にふさわしいノリで、やたらマニアックなディテールに大笑い。手塚ファンほど笑えるにちがいない。手塚マンガのヒーローの中でもとくに不遇をかこっているマグマ大使が、ほかの手塚ヒーローを倒してまわるという話なんだが、そうか「手塚漫画史上一番怖ろしいロボット」は、やっぱりあいつだったか。たしかに破壊力が大きいからな。
しりあがり寿の「火の鳥 in 弥次喜多」には、マジで感動した。お祭りギャグ作品はお祭りギャグ作品で嬉しいのだが、これはほんとうに『火の鳥』の一篇であってもいいくらいに渋い作品である。手塚眞が、まだ一部のマニアにしか認められていなかったころのしりあがり寿を手塚治虫に読ませたところ、大手塚は「この人はすごい」と興奮し激賞したという話が残っているよね。いま、こんな企画でこんな作品が描けるとは、しりあがり本人も感慨無量だろう。
いやはや、たまーにこういう企画があるのは嬉しい。しょっちゅうやるとつまらないんだ、この手のは。SF作家でやるとしたら、やっぱりクラークかなあ(まだまだご健在ではあるが……)。〈SFマガジン〉別冊/アーサー・C・クラーク・リミックスなんてね。火浦功の「楽園の泉」とか、森奈津子の「宇宙のランデヴー」とかを読んでみたい気もするぞ。意外性があったほうが面白いので、谷甲州や野尻抱介などは、かえってどの作品にアサインするかが難しい。とはいえ、トリはやっぱり堀晃に取ってもらわなくちゃね。
【5月17日(月)】
▼茶を煎れていて、むかし婆さんが言っていたことを、ふと思い出した。玄米茶やなんかの中に、なにやらポップコーンみたいなものが入っておりますわな。あれをおれの婆さんは“お釈迦様の鼻糞”などと呼んでいた。どうやらおれだけが聞いた表現らしく、母に訊いても知らないと言う。だいたい大人の記憶力というのはいいかげんなもので、おれの子供のころの事件などは、たいていおれのほうがよく憶えている。マンガで言えば、コマ割りやネームの再現ができるくらいに憶えている。だから、子供のいる人は気をつけたほうがいい。大人がすっかり忘れていることでも、子供は十年も二十年も三十年も憶えているにちがいないからだ。
それにしても、あのポップコーン(?)を誰かが“お釈迦様の鼻糞”と呼んでいるのを、おれは金輪際聞いたことがない。婆さんの発明だったのか、婆さんが子供のころにどこかで聞いた表現なのか。“お釈迦様の鼻糞”を聞いたことがあるという方がいらしたら、ぜひ情報をお寄せいただきたい。といっても、べつに宇宙旅行や黒豚ジャケットが当たったりはしないので、あしからず。
▼某社編集者・細田さんの人気サイト「hosokin's room」名物「備忘録」(99年5月15日)に、なにやら気になる仮名が出てきた。『高校生や大学生・社会人で梅原克文とか神林長平とか(SF者でない人間には、この二人は似たようなものです)を読んでたりするような人間は、「冬樹(仮名)くん? 確かにバカじゃないけど、なんかよく分からない本読んでたりして、なんかオタクっぽい? みたいな」と友人知人などから言われてるはずです』
わははははは、世の中には、よくよく同じような人生を歩んでいる人がいるものだ。この冬樹(仮名)くんには同情を禁じ得ない。まあ、小説を必要とする人間などほんのわずかで、そもそも小説を必要とする人間が考えているほどには、小説なんてものはこの社会で重要な存在ではない――という基本認識がまず必要であると考える点で、おれは細田さんと意見を同じゅうする。この日記でも何度もそういうことを書いてきた(97年7月3日とか、99年4月10日とか)。この文脈で光栄にも“冬樹(仮名)くん”が出演しているのは、細田さんがここをチェックしているからであろう。そういえば、細田さんがおれのサイトに言及した最初は、例の“クズSF”事件に関するコメント(97年4月1日)だったな。なにもかもみな懐かしい。
どうも最近、梅原克文氏の“サイフィクト”構想に対して賛成か反対かの姿勢を明確にせねば人に非ずみたいな雰囲気を広げたがっている人などが出現して、黙っていると知らないうちに梅原氏の敵か味方かに分類されてしまいそうな気配である。はなはだ迷惑だ。おれはどの作家の敵にも味方にもなるつもりはない。個々の作品が面白いかつまらないか、優れているか劣っているか、個々の作品が好きか嫌いかにしか興味はない。まあ、おれがなにを言おうが、どの方面にも蚊が刺すほどの影響しか及ぶまいから、そういう意味では好き勝手が言える立場ではある。一度は蚊は蚊なりにまとまった意見を表明しておいてもよかろうとは思うので、時間ができたらいずれ日記に書くことにしよう。
梅原構想に関しては、おれ自身が勝手に分類されるのは面白くないので、さしあたり一足跳びにスタンスだけはあきらかにしておこう。サイフィクト構想を文藝思潮なり文藝運動として捉えるとすれば、なんにせよ新しい動きが出るのはいいことだ。それが出てきた立論過程には同意しないが、運動としてはどんどん推進していただきたい。マーケティング構想として捉えるとすれば、実際に動き出すのはかなり先なんてことを言わず、いますぐやらないと意味を失うことになりかねない。日本の小売マーケティングが遅れているうちにやらなければならない。なぜなら、提供者側が顧客のセグメントを仮想して見込み売りをするセグメンテーション・マーケティング、いわゆる“分衆”をターゲットにしたマーケティングは、小売業ではすでに一世代前の(日本では現役の)方法論であり、来るべき“個衆”に対するインディヴィジュアライズド・マーケティングの足音は、すでに海の向こうから聞こえてきているからである。
え? 抽象的すぎて、なにが言いたいのかわからん? まあ、いずれ詳しく意見を述べようと思うが、百聞は一見にしかずであるから、興味のある方には実験をお勧めしておきましょうか。とりあえず、amazon.com に行って、『イエスの遺伝子』(マイクル・コーディ、内田昌之訳、徳間書店)の原書を“買おうとしてみて”ほしい。実際に買わなくてもいい。サイトを利用するのは無料だ。検索窓に「The Miracle Strain」(原題)と入力して検索を実行する。いろんな版のリストが出てくるから、まあ、いちばん上に出てる書名をクリックしようか。すると、ようやく書影が出てくるページになる。そのページをじっくりと眺めて、おれの言わんとするところを推測してみてほしい。そして、アマゾンにはなぜこんなすごいことができるのかを考えてみてほしい。さらに、その方法論が一書店の売上増進に留まらず、やがては出版社のマーケティングにも影響を及ぼし得るだろうと思いを馳せてみてほしい。Imagine と、ジョン・レノンもフレドリック・ブラウンも言っている。おれはオンライン書店や電子出版の話をしているのではない。物体としての書籍を売る書店と出版社のマーケティングの話をしているのだ。おそらく英語圏の賢い書店は、すでにこのサイトを棚割りの参考にするためのデータベースとして無料で用いているだろうことが推測できる。日本が追いつくのはいつごろかな。
それはさておき、おれは日記を落書き帳のように使って好き放題言っているため、この日記は特定の話題をあとから検索しにくいという欠点がある。たとえば、梅原克文氏の“法則”やら“構想”やらに関して、過去にどういうことを書いたかなんてのは、自分でも検索しにくい(もちろん主旨は憶えちゃいるけれども)。過去の日記に言及するときは、ローカルディスクで文字列検索をかけたりしているありさまだ。いずれ風野春樹さんのところみたいに、トピック別のインデックスでも作ったほうがいいかな。それも面倒だ。サイト内検索窓でもつけようか。
▼〈文藝別冊[総特集]手塚治虫〉(河出書房新社)を買う。すぐ読まないくせに、やっぱり買っちまうなあ、くそ。執筆者を眺めていて、石坂啓がいないのに気づく。こういうのには、しょっちゅう出てくるはずなんだが、さすがに同じような面子ばかりではまずいか。最近は育児エッセイストとしても活躍している石坂啓、おれはけっこう好きである。一見清潔そうでいて、そこはかとなく劣情を刺激される手塚治虫のエロチックな丸っこい画線を直系で受け継いでいるマンガ家だからだ。手塚治虫のマンガを読んでいると、とくに扇情的な絵でもないのにものすごく“エロい”線があったりして、どきっとすることがしばしばある。石坂啓は、あの“どきっ”を感じさせてくれるのだ。手塚治虫とはちがう画面でありながら、タッチの随所に“手塚ミーム”が蠢いているところに、ほんわかとした親しみが湧いてくる。こんなことを言うと、独立したマンガ家としての石坂啓氏に失礼かもしれないのだが、まあ、好きなんだから許してくださいよ。
【5月16日(日)】
▼さてさて、あちこちで事前に報道されているので、あまり宇宙に興味のない方もご存じかもしれないが、SETI@homeがいよいよ本格的に始動、スクリーンセーバの配布がはじまった。
などといきなり書いても、この日記の読者にはSFにも科学にもご興味のない方がけっこういらっしゃるので、ちょっと説明しよう。SETIってのは、Search for Extraterrestrial Intelligence 、つまり、地球外に知的存在がいるものかどうか探査しようという計画。故カール・セーガン博士がこれを強力に推進したのは“ノンケ”の方でもおそらくご存じだろう。宇宙にわれわれ以外の知的な存在がいたとしたら(そもそも、われわれが知的かどうかという問題はさておくとして)、たぶん電波を出しているだろう。自然界にも電波を出す天体はたくさんあるが、地球外の知的存在が出している電波には、なんらかの意味のある情報が乗っているはずだ。われわれが出しているテレビの電波みたいなものですな。テレビの電波はただ垂れ流しているだけだが、もしかしたら、膨大なエネルギーを使ってでも、ほかの知性に呼びかけている種属だってどこぞにいるかもしれん(そういう種属は当然エネルギー問題を解決しているのだ)。いずれにせよ、電波を出しているだろう。ま、重力波かもしれんし、まだわれわれの知らない波動か、それ以外のものを出しているかもしれないが、そういう進んだ段階に達するまでには、電磁波を利用する段階を経たはずだ。じゃあ、それに耳をすませてみようじゃないか――というので、電波望遠鏡で宇宙からの電波を受けて、そいつを解析するプロジェクトがいままでいくつも行われており、現在も進行中だ。
ところが、電波のデータを蓄積するのは簡単だが(金はかかるけれども)、解析するのはたいへんだ。研究機関のコンピュータだけではとても処理しきれず、“積ん読”になっている“宇宙からの声”が山ほどある。そいつをなんと、個人が家庭で使っているパソコンの空き能力を使って人海戦術で解析しようという計画が、SETI@home である。とんでもないことを考える人がいるものだ。
これを読んでいるということは、あなたもパソコンを使っているはずだ。使っているといっても、常時パワー全開でぶんぶん音がするほど使っているわけではないだろう。たとえば文章を書いたりゲームをしたりしていて、ちょっとコーヒーでも飲もうと、いちいち電源など落とさずパソコンの前を離れることだってあるだろう。そういう時間をほんの少し貸してくれというわけだ。SETI@home のサイトに行くと(日本語ページもある)、スクリーンセーバがダウンロードできるようになっている。そのスクリーンセーバが解析プログラムなのだ。これを落としてインストールし(全自動でとても簡単)最初にインターネットに接続すると、アレシボの電波望遠鏡が受信したデータの“ひとかたまり”(ワークユニットと呼ぶ)が送られてくる。ややこしい操作は無用。すぐさまスクリーンセーバは、データの解析を開始する。あなたが本来の仕事にパソコンを使うのに支障を来たさないよう、基本的にはスクリーンセーバが動いているときだけ解析をするようになっているが、パソコンの能力に余裕のある人は、解析プログラムを常時動かすこともできる。スクリーンセーバには、なにやら難しげな英語やら数字やらが表示されはするものの、あなたはなーんにもしなくてよいので、天文学には疎いという方でもまったく気にすることなくプロジェクトに協力できるようになっている。まあ、ほんの少し英語が読めたほうがソフトの設定はしやすいと思うが、ふつうにパソコンを使っている人なら英語が読めなくても十分見当はつくだろう。
さっそくスクリーンセーバをダウンロードして、インストールしてみた。いまこれを書いているあいだも、おれのパソコンは着々と宇宙からの電波を解析している(いまは常時解析モードだ)。なんかこう、初めて献血をしたときのような愉快さがある。ちょっとでも興味のある方は、ぜひ参加しよう。メールのやりとりをしてウェブを見てまわってしこしこと文章を書くといった程度では、パソコンのパワーがあり余っているなんて方は少なくないでしょう。もしかしたらもしかして、あなたのパソコンで解析するデータに、ほんものの地球外知性からの信号が混じっているかもしれないぞ。まあ、それを判断するのは、データを送り返した先の研究者たちだけども、もしあなたが幸運なら、ちゃんと協力者として名前が残るのだ。ソフトの設定画面によると、ハンドルでもニックネームでもいいらしい。おれはペンネームで登録した。ETのメッセージを発見したら、「地球外知性体発見者の協力者のひとり 冬樹蛉」と名刺に刷ってやろう。
研究者A「おおお、この日本からのワークユニットに、あきらかに知的存在が発したと思われる有意信号が認められます!」
研究者B「ついに出たか!」
研究者A「驚いたことに、あっさり意味まで解読できてしまいました」
研究者B「なんだと! 円周率か、ピタゴラスの定理か、プランク定数か? それとも、連中の遺伝子構造か!?」
研究者A「いえ、日本語です。“あたり”と……」
【5月15日(土)】
▼持病の薬をもらいに通院。産婦人科のそばのトイレで用を足し、ふとトイレの横の奥まったところを見ると、なにやら大きな装置が置いてある。壁からハンドルが生えていて、どうやらそれを掴んで引っ張ると折り畳み式のベッドかなにかが出てくる仕掛けらしい。おや、ハンドルの下に説明が書いてあるぞ――「引き出すとおつむが交換できます」
おおお。現代医学はここまで来ていたのか。ドウエル教授か『メタリック』(別唐晶司、新潮社)か、いや、これはすでにそんなものを超えている。ハンドルを掴んで引き出すだけでおつむが交換できてしまうのだ。しかし、知能が増強されるというならともかく、おつむを交換してしまったら他人になってしまうのではあるまいか。それでもいいという人が使うのだろうな。まったく、医学というやつはわれわれの知らないあいだに、庶民感覚を置き去りにしてどんどん進んでゆくものだ。
▼『ウルトラマンガイア』(TBS系)突っ込みアワーがやってまいりました。今週もあまり愉快な突っ込みどころは見つからなかった。藤宮がひさびさに登場ってことで、我夢とリポーターの吉井玲子が絡んだ三角関係が気になるところ――って、いいかげんにその視点を捨てんか。
さて、一応疑問点にいくつか突っ込む。その1。海から現われてノルウェーの洞窟を調べはじめた藤宮だが、潜水装備を用意しているくせに、暗い洞窟内を調べるのがわかっていながら、なぜか懐中電灯すら用意していない。そこいらの木ぎれに火を点けて明かりに用いるのだ。可燃性のガスでも溜まっていたらどうする。それに、あんなところに都合よく木ぎれが落ちているとは思われない。落ちているとすれば湿っているだろう。なにしろ『ノルウェイの森』というくらいだから、洞窟の中にも木がたくさん生えていると藤宮は思っていて、電灯を持ってこなかったのかもしれないな。まあ、ああいうシーンでは、壁画が炎に照らし出されたほうが感じが出るのはたしかですけどねえ。
その2。GUARDの戦力が13パーセントもアップするような新兵器“対空間レーザーシステム”を管理している施設の廊下に、「侵入者の方、どうぞこちらへ」と言わんばかりに“対空間レーザーシステム”などと案内板が出ているのはどうかと思うぞ。あれはよくギャグに使う手だ。テロかなにかを目的に秘密施設に忍び込んだ侵入者が施設内で道に迷い、「くそっ、中枢コンピュータはどこなんだっ!」と悔しそうに壁に拳を叩きつけると、拳の横に[中枢コンピュータ室 →]と案内板が掲げてある――なんての、けっこうあるじゃないすか。
【5月14日(金)】
▼駅の立ち食いうどん屋で“ジャンボ”というのを初めて注文してみたら、うどん屋のおやじ、両手でうどん玉を二個掴むや湯切り用のざるに放り込み、二丁拳銃のように両手にざるを構えると、チャッチャッチャッとみごとな手捌きで湯を切った。そのさまがまた、とてつもなくカッコイイ。宮本武蔵のようであった。
両手でひとつの物体に対してなにか動作をしても、そんなもん、あたりまえで、全然かっこよくない。だが、物体がふたつになったとたん、俄然超人じみて見えてくるのはなぜだろう。こういう人を見ると、いまだに水森亜土を思い浮かべてしまう。アドちゃん、最近見ないね。
両手にサインペンを持ってアクリル板の前に立ち、左手で萩尾望都風、右手で岡田あーみん風に小渕首相の似顔絵かなんかを描いてみせる超人とかがおったらおもろいのにな。
アドちゃんみたいに両手が同じように自在に操れるさまを、英語では ambidextrous などと形容する。ambi- はまあ“両”にあたる語だと誰でもすぐわかるだろうが、はて、dextrous とはなんぞや? これは dexter (右側の)から来ていて、つまり ambidextrous とは“両方とも右手みたいに使える”ということですな。考えてみれば、左利きの人に失礼な言葉と言えないことはない。じゃあ、dexter の反対はといえば、現代英語ではもはや“左側”という元々の意味がほとんど意識されていないであろう sinister (不吉な)がこれにあたる。ウラジミール・ナボコフの『ベンドシニスター』(加藤光也訳、サンリオ文庫)なんてのを連想する人もおられましょう。西洋の盾に入ってる帯線模様で、向かって右上から左下に引いてあるやつを bend sinister と呼ぶ。これは“非嫡出子”の印だ。要するに“左”ってのは、洋の東西を問わず、ろくな意味を結びつけられていないらしい。左利きの人は面白くないだろう。
“政治的に正しい”言葉遣いなんてものがあるけれども、ほんとうに徹底しようとすれば、これはじつに難しい。言葉には歴史が刻まれているわけだから、いまから思えばおぞましい、忌まわしい、思い出したくない概念が含まれていたとしても、「じゃあ、新しい言葉を作りましょう」などとひょいひょい変えられるものではありませんわな。あきらかに現在も悪意を込めて使われている醜い言葉は潰していってもいいとは思うが、天然痘ウィルスじゃないけど、絶滅させてしまうのは考えものだ。醜い言葉でも、過去の哀しい歴史を憶えておくために残してはおくべきだろう。小説家などは“悪意が込められた醜い言葉を使うような人物”を創り出して書いたりしなきゃならないわけだ。そういうのはやっぱり、部分部分を見ればひどい言葉が使われていても、あくまで文脈で柔軟に判断してあげなければいかんと思う。テキストエディタで“文字列置換”でもするように、機械的に言葉狩りをしてゆくのは愚の骨頂だろう。汚いものも、歴とした文化の一部だ。
なにも“ジャンボうどん”ひとつからここまで思いをめぐらせることもなかろうに、まったくおれは健康に悪い精神構造をしているな。
【5月13日(木)】
▼昨日の日記でサイバーパンクの話を出したついでだから、くだらない話を書いておこう。サイバーパンクの作家といえば、わりといい共作をするよね。ウィリアム・ギブスンとブルース・スターリングの『ディファレンス・エンジン』(黒丸尚訳、角川書店)なんてのは、最も実り多い例だろう。
じつは、絶対面白いはずだとかねてから考えている共作がある。ブルース・スターリング&小林泰三のゴールデンコンビが送るサイバーパンク・ハードSFホラー「自転車修理者」なんてのはどうだろう? どんな話になりそうかは、自分で考えてみよう。
▼〈通販生活〉夏の特大号(No.193)をぱらぱらと読む。ナンシー関の「記憶スケッチ展覧会」、今回のお題は“カエル”とあっては読まずばなるまい。“記憶スケッチ”とはなんぞや? ま、とにかく「お題になったものを記憶だけを頼りに描いてみましょう」という投稿企画である。ナンシー関氏のサイトに「記憶スケッチ・アカデミー」としてバックナンバーが掲載されているので、どういうものかはそちらをご覧ください。見るとわかるのだが、人間の記憶とはかくもいいかげんなものであるのかと、実存の嘔吐に襲われること必至である。投稿者にひときわ画才がないだけなのかもしれんが……(それを楽しむ企画だってば)。おれも画才がないことにかけては自信がある。記憶だけで“らしい”ものが描けちゃう水玉螢之丞さんなんかを見ると、同じ人間とはとても思われない。だけど、さしものおれも、「記憶スケッチ・アカデミー」の“鉄腕アトムの巻”を見たときには、ことごとく「勝った」と思ったね。世の中、下には下があるものだ。
【5月12日(水)】
▼『SFに関する純朴な基準は、SFは単純に「よくできて」いて、「生き生き」としており、「面白く読め」なければならない、というものだった。しかし、いざ実践に移すとなると、そのようなクオリティを実現するのは生やさしいことではなかった』――って文章を読んで、吹き出しそうになる。「ああ、あの……」っつってる人、なんか勘ちがいしてませんか? これは「80年代サイバーパンク終結宣言」(ブルース・スターリング、金子浩訳/〈SFマガジン〉九九年六月号)からの引用だ。この“純朴な基準”は、サイバーパンクの勃興期に重要なアジビラの役割を果たしたニュースレター〈チープ・トゥルース〉が掲げていたものである。この歳になると、陽の下に新しいものなど滅多にないことを痛感する。だからこそ、新しいものを求めたくなるもんでござんす、と鶴田浩二のようにつぶやく冬樹であった。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
ティプトリー・ファンには、無条件に食指の動く邦訳タイトルですなあ。原題は Lost in Space : probing feminist science fiction and beyond 。著者はフェミニズムSFの批評を専門とする気鋭のSF評論家で、そういえば名前は見たことがあるが、不勉強なことに著書は読んだことがない。翻訳が出て幸いだ。やっぱり日本語のほうが読みやすいからである。残念ながらすぐには読んでいる時間がないので、楽しみに本の待ち行列に入れさせていただくこととする。
ぱらぱらと中身を見ると、“フェミニストSF”という語が目についた。おれはふだん日本語では“フェミニズムSF”という言葉を使う。どうも両者は同じようでちがうような気がする。出てくる人間がとにかく全部フェミニストで、思想信条とはまったく関係なく、宇宙空間でドンパチをやるだけの話だったら、それはフェミニストSFだがフェミニズムSFではない――って、そんなわけねーだろ。
最近ちょっとフェミニズムのお勉強から疎遠になっているので、こういう本をいただけるのはありがたい。そういえば、加藤秀一さんの『性現象論 差異とセクシュアリティの社会学』(勁草書房)も、面白そうだと思って買ったままで、まだ読めていないなあ。もっと本を読まねば。
【5月11日(火)】
▼あっ、なんてことだ。留守禄をセットしておいた『古畑任三郎』(フジテレビ系)のお尻が、野球の延長のせいで切れているではないか。腹立たしいことに、古畑がはじまる時間にはおれは家に帰っていて、野球が延びる可能性を忘れて飯を食っていたのであった。いくらおれが貧乏性でも、さすがに録画されている部分だけを観る気にはなれない。まあいいや、どうせそのうち再放送するだろう。それに今期の古畑にはいまのところたいしたものがなかったしな。なんとなく“酸っぱいブドウ”の心理防衛機制を感じないでもないが、まあよろしい。ちなみに、“酸っぱいブドウ”は誰に言っても通じるが、逆はご存じだろうか? 「ほんとはキムタクと結婚したかったんだけど、なりゆきで結婚したいまのダンナも悪い人じゃないわ。キムタクなんかと結婚したら、不幸になっていたにちがいないわ」みたいなやつは、“甘いレモン”の防衛機制と呼ばれる。これはこれで自然な心理の働きなので、とくに自分でカサブタを剥がすような真似をして新たな血を出すこともないかと思う。世の中、“酸っぱいレモン”を掴んで嘆いている不幸な人もたくさんいるのだ。
それにしても、癪に障る。おれがいちばん嫌いなスポーツは、言わずと知れた野球だ。ビデオ時代になってからはもちろんのことだが、子供のころから好きな映画などの時間が狂い、厭な思いをすることが数えきれないほどあった。おれと同じ理由で野球が嫌いな人もたくさんいると思うぞ。
▼あっ、一冊、ご恵贈の御礼を忘れていた。先日、SFセミナーの会場でサインをもらうためと帰りの新幹線で読むために買ったのだが、出版社からも頂戴したので、改めてご紹介する。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
不朽の名作『戦闘妖精・雪風』の待望の続篇である。前作を読んでいなくてもさっぱりわけがわからんということはないけれども、やはり『グッドラック 戦闘妖精・雪風』だけをいきなり読むのはあまりにももったいない。未読の方は、ぜひ『戦闘妖精・雪風』を読んでから、本書をお読みいただきたい。十五年前の、日本の、文庫の、SFが、いまもふつうに手に入るという事態は、哀しいことだが、きわめて珍しいと言える。ことほどさように面白い作品だ。あまり詳しくは語るまい。
というのは、今月二十五日発売の〈SFマガジン〉七月号は、神林長平特集だからだ。石堂藍による全作品解題、川又千秋、牧野修らによるエッセイほか、神林ファン必携の豪華特集である。冬樹蛉とかいう人の作家論だか“かんそうぶん”だかよくわからないものもおまけについているらしいので、焼肉屋で腹一杯食ったあとレジで口臭防止ガムをもらえた程度にはお得な気分になれるはずだ。神林ファンはカレンダーに印をつけておこう。
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