間歇日記

世界Aの始末書


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99年5月下旬

【5月31日(月)】
NIFTY-Serve「SFファンタジー・フォラーム」「本屋の片隅」の仕事で、ひさびさに再読した『タウ・ゼロ』(ポール・アンダースン、浅倉久志訳、創元SF文庫)を紹介する原稿を仕上げてアップロードする。翻訳が出てからまだ日も浅いような気がしていたのだが、なんと、もう七年も経っている(ということは、原書が出てから二十九年経っている!)。嘘みたいだ。七年ってのはでかいぞ。あとから繰り上がってきた若い読者には、『タウ・ゼロ』を知らない人がいても不思議ではないだろう。もしお読みでない方がいらしたら、これはもう、めちゃくちゃに面白いから、ぜひぜひお読みください。宇宙船が止まらなくなるだけの話といえばミもフタもないけれども、ただそれだけの話で「うおおぉお、SFを読んだなー!」と満腹になるのだから、すばらしい作品と言わざるを得ない。
▼気がつくと、クラシック音楽に歌詞をつけて唄っていることがある。「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」第二楽章のフシ「ぎーりぎーりまでがんばって、ぎりーぎりーまでふーんーばって」などと知らずしらず鼻歌を垂れ流していたりする。うかつにこういうことをすると、後遺症が残ってしまう。つまり、せっかく頭を休めようとクラシックを聴いているのに、いったんつけてしまった歌詞が亡霊のように甦ってくるのだ。忘れようとしても忘れられない。ちっとも言語優位脳の休息にならないのだ。絶対音感を持っている人というのは、万事こういう感じなのだろうか。クラシックに限らず、インストラメンタルの曲は要注意である。不用意に歌詞をつけてはならない。
 いつも苦笑するのは、ヴァンゲリス End Titles from "Bladerunner"だ。映画『ブレードランナー』をおれはもう何度観たか憶えていないほど観ていて、ロイの最期を演じられるほどであるが、いつもいつも最後にあの曲が流れてくると、頭の中で勝手に“歌詞”がついてしまうのだった。どういう歌詞かと言いますとですね、いや、じつはいつだったかスパゲッティを食った日に『ブレードランナー』を観たのが悪かったのだが……ううむ、お教えするべきかどうか。これを読んだ人は、今後あの曲を聴くたびに、おれと同じように頭の中で唄ってしまうにちがいないから、恨まれちゃうんじゃないかと怖れるのである。いいですか? 厭な人はここから先は読まないでね。
 あ、まだ読んでるということはいいんですね? じゃあ、しかたがない。おれは、あの曲に「ボンゴレボンゴレボンゴレボンゴレ、ダンドンダンドンダンドンダンドン、ボンゴレボンゴレボンゴレボンゴレ……」と歌詞をつけて唄っているのだ。どうだ、まいったか。

【5月30日(日)】
▼先日、博報堂から電子メールで案内が来ていた「ペタろう」というソフトをインストールしてみる。複数のユーザでメッセージをやりとりする“デスクトップ伝言メモ”が本来の用途なのだが、家庭内でLANを張っているわけもなく(張っている知り合いはいるが……)、ひとりでは単なるメモとして使うしかない。ただそれだけのものなら、使ってみようという気にもならなかったろう。だが、サイトを見にいってみて、おれの胸はときめいた。カエルのキャラがあるのだ。一も二もなくインストール、追加キャラ(最初はウサギなのだ)のカエルをダウンロードして、ふだん使うキャラに設定する。表情が変わったりしてかわいい。なるほど、こりゃあ女性にウケそうだ。二次配布も自由だと書いてある。
 メモの下部には広告主企業のサイトに跳ぶためのハイパーリンクが埋め込んであり、メモの“裏”にはバナーが貼ってある。なるほど、博報堂はこいつをばらまいて、広告収入を得ようというわけか。ポストペットほどブレークするとはとても思われないが、あちらが個人ユーザ狙いで、企業内で使うと嫌がられる(あるいは使わせてもらえない)のに対し、こちらは企業内LANでの使用を前提にしていて、実用的価値もあるところがミソだな。全員がチャットでもするようにバカスカ使い出したら多少はトラフィックに影響が出るかもしれないけれども、五百文字までの短信に限り、あくまでクライアント間を直接文字メッセージだけが行き交う方式(キャラクタの画像はネットワーク上を流れない)だから、ネットワークにかかる負荷など知れているだろう。まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、〈SFオンライン〉でお世話になっているソニーコミュニケーションネットワークさんには悪いが、キャラにカエルがあるだけで、すでにポストペットを超えていると言えよう。

【5月29日(土)】
▼さてさて『ウルトラマンガイア』(TBS系)突っ込みアワーであるが、今日はなかなかいい話だった。小さなお友だちにはウケないだろうけど、おじさんたちはウルトラマンがろくに闘わないエピソードがけっこう好きである。ジャミラやらシーボーズやらに刷り込まれているんだろうな。
 しかし、あの“地底貫通弾”というやつは、いったい全体どういう仕組みになっているのだろう。予め怪獣のいるところまで穴を掘っておいて発射するのだろうか。それとも、地底貫通弾はただただその推進力だけで地底深くまで穴を穿つのだろうか。前者だとすると、穴を掘っているあいだに怪獣に気づかれてしまうし、後者だとすると、いくらなんでも無理がある。ふつう、ああいう兵器は、洒落でもいいから回転くらいしているものだ。なんか“らしさ”がなさすぎるぞ。
 ウルトラマンといえば、最近やってる“黒酢のジュース”のCM、大笑いだよね。黒部進吉本多香美を起用したCMをいつかどこかがやるにちがいないとは思ってはいたけれど、ほんとうにあのネタでやるとは、単純すぎていっそ清々しい。バカバカしくていいわ。
 吉本多香美にしてみれば、黒部進は文字どおり“ウルトラの父”なんだよなあ。晩飯にカレー食いながら、スプーンを掲げて変身ポーズを取ったりするお父さんだったのだろうか。家で仕事はせんかな。でも、ちょっとくらいはやっていただろう。以前、山田まりや「だって、ウルトラマンが家に遊びに来るんですよぉー。もう、弟、大喜びですよ」などと言ってたのが、妙に微笑ましかったものだ。芸能人の密かな楽しみというやつが、多少はあるだろう。もっとも、サンダーマスクが家に遊びに来ても、喜ぶ子供はもはやおらんだろうなあ。あ、まだ〈COMIC CUE〉“手塚治虫リミックス”99年5月18日の日記参照)が尾を曳いているぞ。

【5月28日(金)】
▼ソファーベッドにガタが来ていたため、先週、ついに新しいやつを入れたのだが、こいつが前のよりでかい。ソファーにしているときはいい。ベッドにすると、かなり横幅が増えたものだから、いままで本を置いていたあたりまで端っこが飛び出てきて、部屋がますます狭くなった。いまこれを書いている六畳間は、ほとんど本とベッドでできているようなありさまになってしまった。歩きまわるのにコツがいる。いままでですら、ときどき妹一家がやってきたりすると、「あっ、そっちの部屋は、素人は入ったらあかん。怪我するぞ」などと言っていたのだ。要するに、贅沢な独房とでもいう状態であって、とても人なんぞ呼べるものではない。
 こういう部屋に閉じこもって暮らしていると、ついついここが地球上であることを忘れてしまいがちだから、ベッドの枕元には、いつも地球儀が置いてある。転がしてあると言ったほうがいい。あのビーチボールみたいに空気を入れて膨らませるやつなのだ。おれはなぜか、部屋に地球儀がないと不安である。ときおりベッドに寝転がっては地球儀を両手に抱え、ただただ漫然と眺めたりする。書いてある文字を読んでいることは少ない。なんというか、圧倒的な虚無の中にこの球体がぽっかり浮かんでいて、そこにうじゃうじゃと細菌のように人間が貼りついているという感じをイメージするわけだ。すると、なにごとのおわしますかは知らねども、バカバカしさに気分が落ち着く。トランキライザーみたいなもんである。きちんとした地球儀ではダメで、スタンドに固定されていないただのボールだからいいのだ。むかしは、小学校入学のときに伯母と婆さんが買ってくれたちゃんとした地球儀を持っていたのだが、台に固定されているうえに、ご丁寧にも二十三・五度傾いている状態が我慢できず、そのうち台から取り外してしまった。蛍光燈の紐に吊るしていたこともあった。やがて、そこいらに無造作に地球儀が転がしてある状態が最も心地よいと発見し、いまに至っている。
 もしあなたの家に地球儀がなく、しかもお子さんがいらっしゃるようなら、ビーチボール式のものを転がしておくことをお勧めしたい。千円くらいで買える。いかめしく台に固定された、どこかよその星みたいな高級なものを飾っておくより、おもちゃのように投げたり蹴っとばしたり転がして遊んだりできる地球儀のほうが、これからの子供たちには、情操教育上、絶対いいと思うのだ。

【5月27日(木)】
▼マドリッドで象が街なかを逃げまわって大騒ぎになったなんてニュースをやっている。スペインは遅れているな。日本じゃ、屋上で象を飼ってる家がいっぱいあるぞ。
 それはともかくとして、近所の池にワニがいるのを見たとか、アライグマが日本原住の動物を脅かしているとか、近ごろどんな動物がどこから入ってきてそこいらに棲息しているかわかったもんではない。なにやら大ぶりの段ボール箱に入った“捨て象”が家の前でパオパオ哭いていても不思議ではない。「ごめんなさい。可愛がってやってください」なんて置き手紙が入っている。象の名前はどこにも書いていない。そこであなたは象に尋ねる。ちょこざいな子象っ、名を、名を名告れっ! おや、今日はなんだか田中哲弥風日記になっているぞ。
 このままでは、いまに捨てカンガルーやら捨てウォンバットやら捨てコモドオオトカゲやら捨てガラパゴスゾウガメやらステゴザウルスやらが野生化し、日本の生態系はむちゃくちゃになりそうな気がする。そういえば、最近駅の通路や高架道路の下に“捨てヒト”が増えてきた。明日はわが身だ。

【5月26日(水)】
〈SFマガジン〉7月号が届く。神林長平特集である。つっても、まだ手前の書いたところしか読んでないのだが、まあ、馬子にも衣装とでも申しましょうか、紙に印刷された状態で読むと、与太を並べているだけでもなにやらたいそうなことが書いてありそうに見えるところが怖い。牧野修さんが二ページで書いていることを、うだうだと理屈を捏ねて十ページ書いているような作家論である。作家論を書けという注文だったので一応作家論ということになっているが、“論”と呼ぶにはかなりおこがましいような気がする。“作家論”などと言うと、おれは大学の紀要に載っているようなものをまずイメージするので、そこに違和感があるんだな。あんなふうなものを娯楽商業誌に書いても、面白くもなんともない。ibid.だの et al.だのがうようよ出てくる“論文”が〈SFマガジン〉に載ったら、さぞや気色が悪かろう。
 というわけで、論と言えば論だが論文ではないくらいのモードで書いた。おれというフィルターを通った神林長平なるものを“語った”だけの読みものに近い。作家論なのだから、神林長平の読者のみを対象にしてもまったく問題ないはずだが、そこはそれ、神林作品を読んだことのない人にも「なんだか知らんが面白そうだ」と思わせたいという助平根性が混入している。そうよ、面白いよ。読んだことない人は、これを機会にぜひどうぞ。
 なんでも神林長平は、梅原克文氏によれば“大衆に嫌われている作家”らしいのだが、こんなわかりやすい大衆エンタテインメントがなぜそんなふうに思われるのか、おれにはさっぱりわからない。おれは大衆のひとり以外の何者でもないんだけどね。スティーヴ・エリクソンが大衆に嫌われているというのなら、おれにもわからんでもない。あれは少なくとも頭痛のときにはおれは読みたくないな。梅原氏がどうかはおれにはわからないけれども、「大衆が……」だの「大衆というものは……」だのと人が言うとき、たいていその人は自分を大衆のひとりだとは思っていないことが多い。自分の思惑で操作が可能な“ひとかたまり”の対象として客体視しているのだ。そういう意味での“大衆”なんてものは、もはやおれはどこにもいないと思う。“ふつうの人”というのが、じつはどこにもいないのと同じだ。おっと、これは先日(99年5月17日)の日記の続きね。

【5月25日(火)】
『古畑任三郎』(フジテレビ系)を観る。なんじゃ、これは。大ざっぱな人が大ざっぱな犯罪を行い大ざっぱなミスをして大ざっぱに刑事に受け答えしてあっさり捕まるという話。これだけ大ざっぱな人を犯人にするところに一種実験精神を感じないでもないが、話そのものはどうということもない。まあ、おれは田中美佐子が好きだから許す。話としてはつまらなかったが、動機はなかなか面白かった。ああいう女性はたーくさんいそうだ。夫に携帯電話を持たせてもらえないため、着信履歴が残ることさえ知らないなどというディテールはうまい。
 そういえば、先々週、おれが観のがした(というか、録画が切れたので観ていない)回は、我孫子武丸さんの「ごった日記」(99年5月11日)によれば、たいそうな傑作だったそうだ。くそー、コロンボの『さらば提督』的作品だったのか。道理でアンザイさんアンザイさんと気を持たせていたわけだ。おれはなんと運の悪い人間なのだろう。
▼コンビニで売ってたので、ついつい懐かしくなり買ってしまった「お好み焼きせんべい」とかいうわけのわからないものを食う。ご丁寧にマヨネーズまで付いている。むかしは、青のりをふりかけソースを塗ったせんべいを縁日の出店などでよく売っていた。あれが妙にうまいんだな、たいしたものじゃないくせに。最近なぜかあまり見かけない(そもそも縁日に出かけてゆくことなどないのだが)。あのソースつきせんべい、食うほうはうまいが、人ごみの中であれを持ったガキが近づいてくるとひやひやさせられる。知らないうちに服にソースをつけられそうなのだ。ひょっとしたら、もめごとが多発するため、人出の多い祭などでは自粛しているのだろうか。最近、どこかの祭でソースつきせんべいを見た(食った)方はいらっしゃいますか?

【5月24日(月)】
▼元MI6の人間がスパイ名簿をばらまいた事件をあちこちで報道しているが、ちょっと気にくわない。たいてい「007で知られる……」とかなんとか書いている。「ジャック・バンコランで知られる……」と報じている媒体がひとつくらいあってもよさそうなものだ。美しさは、罪〜。
 じつは、アニメの『パタリロ!』は、おれにとってちょっとしたトラウマになっている。声フェチの幼い胸をときめかせた『W(ワンダー)3』ボッコちゃんが、どうしてこんな潰れ大福のような少年と同じ声なのだ。当初は激しい違和感を感じ、ボッコへの淡いときめきが汚されてゆくような気がしていたものである。それがまあ不思議なもので、次第にパタリロは白石冬美でなくてはならないとまで思えるようになってしまった。人間は慣れる動物ですな。
 おっと、話が逸れた。バンコランである。バンコランといえばマライヒ。この日記の読者にはご記憶の方も少なくないはずだが、あの日、おれは新聞のテレビ欄を見て大爆笑し、一日中思い出し笑いが止まらなかった。マライヒが活躍する回の「マライヒ! マライヒ!」ってサブタイトル、憶えてますか? なんと、その日の新聞には「マラ化! マラ化!」と書いてあったのだ。どうもおれの家でとっていた新聞だけではないらしい。いやあ、あれはすごかった。いったい、なにがどういうふうに“マラ化”するというのだ。その文字を見たとたん、おれの脳裡を吾妻ひでおの絵が乱舞した。そういえば、黒木香氏はどうなさっているのであろう。いろいろあったようだが、最近とんと名前を聞かないな。
 あのサブタイトルを見て、世の親御さんたちは「これは教育上よくない番組だ」と誤解なさったにちがいない。了見の狭いことである。やはり、タイトルだけで判断せずに、きちんと番組を観てほしかったな。いっそう納得されそうな気もするが……。

【5月23日(日)】
▼以前、ジャストシステムの日本語変換システム「ATOK」のテレビCMに使われた「入れ立てのお茶」というフレーズを話題にしたことがあったが(98年9月26日10月14日)、ジャストシステムがこの件に関して説明をしている文章があるとH2さんから情報をいただいた。「ATOKの作り方 〜「入れ立てのお茶」のナゾ 〜」がそれである。これによると、おれの好む表記は田山花袋流であるらしい。まあ、主旨としては、結局おれと同じことを言っているわけだ。さすがロングセラーだけあって、わかっておられますね(でも、おれはATOKはあまり好きじゃない)。
 また、katayama さんからも「今月号のASCIIにATOK開発者のインタビューが掲載されていた」とメールを頂戴した。実際の記事はまだ見ていないのだが、月刊アスキーは18日発売のはずだから、今月号というのは六月号のことだろう。お二人とも、ありがとうございます。
 それにしても、日本語変換システムの開発というのは厄介なものなのだろうな。いろんな商品があるけど、それぞれに癖があるから、使うほうでもポリシーを持たないと容易に振りまわされてしまう。かくいうおれも、使うソフトで文字遣いに影響を受けない自信はない。とくに急いで書いた文章など、うっかり己の美意識に反する文字遣いを放置してしまうことがある(この日記とかね)。そういうことでは、まだまだ修行が足りないわけだ。
 ちなみに、おれは最初 MS-DOS 時代にはATOKがけっこう気に入っていたが、やがてデービーソフトDFJが好きになり(まだあるのかね、あれは?)、エー・アイ・ソフトWXIIに落ち着いた。Windows 時代になってからも、ずっと Windows 用のWXIIを使い続けていた。いまは同社のWXGを愛用している(おれのはまだ Ver.3 だけど)。おれにとっては、たいへん快適だ。WXシリーズは元々はフリーソフトだったんだよな。たしかパソコン通信用の顔文字辞書を標準添付したのもWXシリーズが最初だったように思う(ちがってたらごめん)。どうもおれは、根がフリーソフト好きらしい。商品になってもフリーソフト的・シェアウェア的なフィーリングを残しているものに好感を持つ。じゃあ、そのフィーリングってのはどういうものかと問われると、なかなか簡単には説明できないんだよね。ちょっとしたユーザインタフェースとかに、「おお、これこれ、この感じ」みたいなものを感じるときってありませんか?

【5月22日(土)】
▼あれれれ、先週(5月16日)の日記でご紹介した SETI@HOME だが、常時解析モードでがしがしやらせていたら、急にパソコンの動きがヘンになって、再立ち上げを余儀なくされてしまった。どうやら熱暴走したらしい。ノートパソコンだからなあ。いくらデスクトップに劣らぬプロセッサを搭載しているからといって、構造上、放熱の悪さからは逃れられない。浮動小数点演算を長時間連続で行うようにはできていないのだ。ワークユニットの四十六パーセントまでできていたのに、データが失われたらしく、四十二パーセントまで逆戻りしてしまった。常時解析モードにしているときは、ファンの音に気をつけて、ときどき休ませて冷やしながらやったほうがよさそうだ。これからは気温も上がるので、あまりパソコンに無理をさせてはまずい。空き時間を用いてちびちび計算させるのが本来の主旨なのだから、愛機が熱を出してへたばるような使いかたをしては本末転倒だ。気をつけよう。

【5月21日(金)】
▼駅への道を歩いていると、アスファルトの路面にスズメがぺしゃんこになって死んでいた。自動車が通れる広さの道ではない。おそらく自転車に轢かれたのだろう。子供のころ、「おれは自転車でスズメを轢いた」と言っていた友人がいたのを思い出した。それを聞いたときおれは半信半疑だったのだが、自分でも轢きそうになったことがあってから信じるようになった。そういうことって、たしかにあると、スズメを見てると、そう思う。スズメといえば、おれは鋭敏な鳥の最たるもののひとつだと思っていた。ところが、おれが長ずるにしたがって、なにやらそこいらのスズメがめきめきと“どんくさく”なってきているのをはっきりと感じるようになった。まさかおれのほうが鋭敏になったわけではないだろうから、これはやはり化学物質かなにかの影響であろうか。気味が悪い。
 しかし、だ。スズメも“どんくさく”なったのだろうが、道路や自転車のほうがよくなったのかもしれない。むかしは、自転車がうしろから走ってくると、かなり遠くからでもそれとすぐわかったものである。なにかしら音を発していたからだ。「キーコキーコ」だとか「カシュンカシュン」だとか「ギチギチギチギチ」だとか「ガコッ、ガギコッ、ガコッ」だとか「ガガガ、ガキッ、シュカ、ガガガ、ガキッ、シュカ」だとか「ガガガ、ガガガ、ガオガイガー」だとか、とにかく一台一台個性的な音が出ていた。友だちの自転車など、音を聞いただけで誰が走ってきたのかわかったくらいだ。
 ところが、最近の自転車ときたらどうだ。舗装された路面を滑るように走ってくる。背後でブレーキの音がするのであわててふりむくと、眼前に自転車が迫ってきているなんてことがざらにある。ベルを鳴らせ、ベルを。なぜか鳴らさないやつが多いのだ。きっとスズメたちにも、あのようなものが高速で迫ってくるという事態が理解できないのだろう。舗装道路を走っている自転車は路面に対してあまり上下動しないので、脅威と判断するだけの振動をスズメたちも感じないのではあるまいか。ベルを鳴らすのが面倒なら、せめて鈴かなにかをつけておいてほしいと思うのだが、よくよく考えてみると、速度(速さではない)の変化がほとんどない安定した走行状態であれば、鈴だって鳴りようがないのである。
 自転車に乗っている人間は風を切って走っているため、常に音が聞こえている。当人はなんとなく音を立てながら走っているように錯覚しているものだから、歩行者(やスズメ)がいかに自転車の存在に気づきにくいかが実感されないのだろうな。あなたも自転車に乗るときには気をつけてほしい。とくに高級車は要注意である。多少、油の足りないような音がしていたほうが、歩行者にとっては安全だ。「私の自転車は自慢じゃないがボロだから、いつも音がしている」などという方、安心してはいけない。マッハ1以上で走るときには、ことに注意が必要だ。前を歩いている歩行者には、あなたの自転車が迫っていることがわからない。ぎりぎりのところで歩行者をかすって走り去るあなたには、「アホんだらぁ! どこに目ぇつけてけつかんねん!」という歩行者の怒りの叫びもついに追いつかず、虚しく減衰してゆくばかりである。いや、その前に衝撃波が歩行者を襲い、彼か彼女かの鼓膜を破ったり、内臓を破裂させたりしているかもしれない。くれぐれも安全運転を心がけていただきたいものだ。


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