間歇日記

世界Aの始末書


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98年10月中旬

【10月20日(火)】
▼毎年、いまごろの気候には困る。なにが困るかというと、シャワーに困るのである。うちのシャワーは風呂釜のユニットに内蔵されている簡易型のもので、火力の切り換えが三段階しかないのだ。湯の温度の微調整は、単位時間あたりに釜を通加する水量を変えることで行うようになっている。したがって、勢いよく出すと水温は下がり、ちょろちょろ出すと水温は上がる。「あ、うちのも同じ仕組みだ」という方も多いだろう。これでも「うちにシャワーがある」というだけで、最初はブルジョワになった気がしていたものだ。むかし使っていた簡易シャワーときたら、ラジエータみたいなものを湯舟の中に沈める方式のものであった。曲がりくねったパイプの中を水が通過するあいだに、湯舟の湯から熱をかすめ取るのだ。真冬など、水の勢いを相当弱めないと適当な温度にならない。あれに比べれば、直接ガスで水を熱して、火力の切り換えまでできるいまのもののほうがはるかにましではあるが、基本的な弱点は同じなのである。すなわち、水量と温度が反比例するため、適温がカバーできない時節が一年のうちに何度かやってくるのだ。
 たとえば、夏のあいだは、火力を“小”にし水量を最大にすると、ちょうどよい加減になる。水道水の温度が最初から高いからだ。これが晩夏になり初秋になると、水量を少し落とさないと冷たくて浴びられなくなってくる。が、あまり水量を落とすと、シャワーとして使いものにならなくなるので、そろそろ火力のほうを“中”に切り換えようかという頃合いがやってくる。でもって、火力を“中”にすると、今度は熱すぎるのだ。あわてて水量を最大にしても、まだ熱い。つまり、“火力・小−水量・少”と“火力・中−水量・最大”とのあいだに、シャワーとして実用に耐えるちょうどよい状態がないのである。もう少し気温が下がればすぐ具合よくなるのだが、さらに寒くなってくると、今度は“火力・中−水量・少”と“火力・大−水量・最大”とのあいだのギャップに遭遇することになる。帯に短し、たすきに長しだ。ビジネスホテルなんかに泊まると、“熱くてしかも勢いのあるシャワー”という世にも珍しい文明の利器が使えるので、おれはここぞとばかりに湯水のように湯を使う。宿泊料はどうせ同じだ。社用だったら、シャワー代は丸儲けである(せこい)。水量で従量制課金されたりしたらたまらんが、あまり景気の低迷が続くと、いずれそういうホテルも出てくるのではないかと心配している。
▼それで、だ。風呂の中でアニソンからポップスまで、思いつくかぎりの歌を口ずさんでいると、また考えなくてもいいことが気にかかりはじめる。歌詞というやつは、なにしろ歌として唄うための流れがあるから、ある程度はヘンは言葉があってもしかたがないものだ。だが、あまりにもヘンだと、これがひじきの中に小石を噛み当てたかのような不快感をもたらす。みんな思っていると思うが、『デビルマン』のテーマソングの二番に出てくる「デビルチョップはパンチ力」とは、いったい全体、どういう意味なのであろうか? 『ゲッターロボ』のテーマソングの「百万パワー」とは、はたしてどのような力の単位なのであろうか? なにやらだんだん人生幸朗師匠みたいになってきたが、さらに続けると、『侍ジャイアンツ』のエンディング・テーマソングも違和感がある。文字遣いはよく憶えてないが、主人公の番場蛮は意気揚々と唄うのである――「威張ったやつは嫌いだぜ/そっくり返ったでっかい面の/鼻をあかしてやるのが趣味さ」 って、番組の中でいちばん威張ってたのは、おまえじゃ、番場蛮。おれはこの歌を聴くたびに不思議と朝日新聞を連想するのだが、はて、なぜだろう?
 それはともかく、ヘンな歌詞のある歌を片っ端から思い出しては唄っているうち、やはり The Sound of Music Do-Re-Mi(「ド・レ・ミの歌」)が王者であるという結論に達した。これは知ってる人が多いからみーんなヘンだと思っているにちがいないのだが、ジュリー・アンドリュースがうますぎるので、ヘンだと指摘することが憚られているだけである。もうおわかりであろう。La - a note to follow so(ラはソの次の音符)とはなにごとか。そりゃまあ、適当な言葉がないから苦しいのはわかるけれども、ほかの語呂合わせがいいだけに、なんぼなんでもあんまりやないかと思わされる。
 と、風呂場で鼻歌を唄っていたおれの背中に、天啓が天井からぽたりと落ちてきた。冷てえな、ハハハン。すばらしい替え歌の歌詞が、しかも英語の歌詞が、一瞬にしてできあがってしまったのだ。替え歌とはいえまるまる掲載するのは著作権保護上あまりよろしくはないが、子供の音楽教育と英語教育に多大な貢献をする作品だと自負するものであり、なにとぞご寛恕いただきたい。さあ、よい子のみんな、「ド・レ・ミの歌」のふしで元気に唄おう!

Do - a note to follow ti
Re - a note to follow do
Mi - a note to follow re
Fa - a note to follow mi
So - a note to follow fa
La - a note to follow so
Ti - a note to follow la
That will bring us back to do.

 われながらすばらしい。音節足らずも余りもなく、ぴったりと唄える。ここ数年に作った替え歌の最高傑作と言えよう。これで、小さな子供たちも、すぐにドレミが覚えられること請け合いだ。ああ、ひとついいことをした。おれの死後も、この作品だけは残ることであろう。

【10月19日(月)】
▼背中から肩、首筋にかけてが鉄板のようになっている。あんまり肩が凝ると、吐き気すら催してくるものだ。妹夫婦がどこかの温泉で買ってきた“ツボ押し器”で、固いところをぐいぐい押しまくる。あまりの気持ちよさになかなかやめられない。ほれ、あのでかい釣り針みたいな道具があるでしょう。これを発明したやつは天才だ。皮も破れよ肉も裂けよとばかりに、力一杯ツボを押す。あんまり力を入れるため肩が凝ってきて、いったいなにをやっているのかわからないが、それでも続けてしまう。猿にこの道具を持たせたら、死ぬまでツボを押し続けるのではあるまいか。もっとも、猿が肩が凝るかどうかはよく知らない。
 ゾウとかカバとかはいかにも肩が凝りそうだが、よく考えると、どこが肩なのかわからない。むちゃくちゃ肩が凝りそうで気の毒なのは、なんといってもヒマワリである。あれは太陽を追って首を回しているのではない。あまりに肩が凝るので、首を回してほぐそうとしているのだ。その証拠に、耳を澄ましていると、ときどきヒマワリからは、バキバキ、ベキボキという音が聞こえてくる。
 というわけで、本日は体調絶不調のため、あまり長い日記は書かずに、さっさと寝ることにする。その前にもうひと押ししよう。いてててて。でも、気持ちがいい。血液の循環をよくするには、火のついた蝋燭の蝋を肩に垂らしたり、鞭で打擲したりするのもよいかもしれない。人はこうやってMの道にハマってゆくのだろう。誰か調査してみてほしいな。マゾの人には絶対肩凝り症が多いはずだぞ。

【10月18日(日)】
林譲治さんから、ヘンなもの売り情報――というか、これは“もの買い”とでも言うべきだなあ。神奈川県大和市“ナイフ回収業”のトラックに遭遇した可能性があるとのこと。UFOじゃあるまいし、遭遇した“可能性がある”とはなにごとか? じつは、スピーカーの音質が悪く呼び声が不明瞭で、よく聞き取れなかったそうだ。軽トラックで「不用になった○イフを回収いたします」と流していて、「あ段の音+イフ」だったのはたしからしい。となると、やはりナイフか? サイフを回収してしまったのでは、引き換えたお金を入れるものがなくなってしまう。「不用になったワイフを回収いたします」だったら喜ぶ人もいるかもしれないが、それなら回収するだけでは不親切で、新しいのと交換してくれなくてはあまり便利なサービスとは言えない。もしかすると、不用になったライフを回収する妖怪変化の類かもしれぬ。回収したライフは、東京で“人魂売り”が売って歩くのだ。なんのことかわからん人は『東亰異聞』(小野不由美、新潮社)を読もう。
 このように論理的に熟考してみて、おれもこれは現実的にはナイフしかあるまいと結論づけた。少年のナイフによる傷害事件(少年ナイフによる、ではない)が頻発したせいで、こんな商売が現れたのかもしれない。

「なあ、うちの息子もなんか最近ヘンだから、あの肥後守、捨てておいたほうがいいんじゃないか?」
「そうねえ、そういえば、あなたの釣り用のバタフライナイフなんか、いかにも危ないんじゃなくって?」
「……ううむ、しかたがない。この際だから処分するか。このところ釣りもご無沙汰だしな」
「いつだったか買ってきた登山ナイフだって。登山なんかしたこともないくせに。まったく男ってどうして――」
「わかったわかった、捨てる、捨てます。みんな私が悪うござんす」
「でも、ナイフなんて、そこいらに捨てたりしたら余計に物騒よ」
「たしかになあ。どうしたものか」
「古新聞みたいに引き取ってくれないものかしら……」

「ぇ、毎度おなじみのナイフ回収でございます。ご家庭でご不用になりましたナイフを回収させていただいて、ぇ、おります〜」

「おお、いいところにワイフ――いや、ナイフ回収屋が来たぞ」
「助かるわあ」
「助かるなあ」

 うーむ、いかにもニーズがありそうである。“包丁研ぎ”というのはここいらにもよく来るが、ナイフ回収業とはねえ……。目のつけどころがシャープである。べつに従来の屑鉄回収だと呼ばわってもかまわないはずだが、ナイフをあえてアピールしているところがなかなかのマーケティングセンスだ。不況だ不況だとは言うが、頭と要領のいいやつは、逆にチャンス到来だと思っているのやもしれんな。あやかりたいねえ。

【10月17日(土)】
喜多哲士さんから、ウィリアム・シャトナー『刑事コロンボ』の旧シリーズでも犯人役をやっていたとご指摘をいただいた。そうだそうだ。言われてみてようやく思い出した。『ルーサン警部の犯罪』ってのがありましたね。犯人は、テレビドラマでコロンボみたいな刑事役をやっている役者というメタな話で、シャトナーが灰汁の強い“ルーサン警部”をやっていた。あんまり印象に残らなかった作品なので、コロリと忘れておりました。
 コロンボついでに(?)書いてしまうが、スピンアウト・シリーズの『ミセス・コロンボ』ってのはひどかったね。目を覆うばかりというのはあれのことで、それなら観なきゃいいのにと思うのだが、コロンボ関係の新事実が飛び出すかもしれんと、やっぱり観ていた。ウィリアム・ゴールドマン(ゴールディングじゃないよ)の『マジック』(早川書房/訳者がどなただったか失念)をまるまるパクった回があったのには、はなはだ呆れたものだ。いやしくもコロンボの名を冠した番組で、あんなことやってはいけませんねえ。
 映画化された本家の『マジック』は、おれ、大好きである。何度観てもいい。監督がリチャード・アッテンボローで、原作・脚本がウィリアム・ゴールドマンで、音楽がジェリー・ゴールドスミスっちゅうだけで渋いでしょ。しかも、主演がアンソニー・ホプキンズで、おまけに(おまけどころじゃないが)アン・マーグレットバージェス・メレディスが脇を固めているってんだから、いま思えば観ても観なくてもバチが当たりそうな渋さだ。が、おれが観にいったときには劇場はガラガラだった。高校生のころだから、七十年代だったはず。有能なエージェント(メレディス)に見出されて一躍人気者になった腹話術師(ホプキンズ)が、やがて人格が分裂して人形を黙らせることができなくなってしまい、人形の命ずるまま殺人を犯してゆくという話だけど、当時の日本はこういうサイコ・サスペンスがウケる雰囲気ではなかったんだな。いまならけっこうウケると思うよ。ビデオ化されてるかどうか知らないけど、観てない方は、機会があればぜひご覧ください。名画と呼ぶには地味すぎるが、個人的に偏愛する映画のひとつだ。なかなかにせつないラヴ・ストーリーでもあります。
▼ガイアという名前と“影”のウルトラマンが出てくるらしいと聞いた時点でなーんとなくそんな気はしていたのだが、『ウルトラマンガイア』(TBS系)は、どうやら『もののけ姫』であるらしいという骨格がはっきりしてきた。最終回でどうまとめる(あるいは、まとめない)かが、いまから楽しみになってきたな。
▼ポリフェノール・ブーム便上対決というわけで、「チョコレート効果」(明治製菓)、「ポリフェリッチ」(森永製菓)、「カカオの恵み」(ロッテ)を食べ比べてみる(よい子のみんなは真似しちゃだめだよ)。「チョコレート効果」は甘みがおれ好みでない。「ポリフェリッチ」はなかなかいける。が、やっぱり「カカオの恵み」がいちばんうまい。だいたい、明治や森永はネーミングがまずい。薬じゃねーんだから。おれは薬が食いたいんじゃなくて、チョコレートが食いたいのだ。参考までに、ポリフェノールの含有量は、各社自己申告を信用するなら、百グラム中、「チョコレート効果」が二千ミリグラム、「ポリフェリッチ」が二千三百、「カカオの恵み」が二千二百である。各社ともたいして変わらん。「うちのは二千五百入ってます!」なんてのが出てきても、あまり魅力は感じないだろうな。やはり、第一義的に食いものなんだから、食ってみてうまいかまずいかですよ。

【10月16日(金)】
▼昨日献血の話を書いたところだが、今日は体調最悪。人に血をあげるどころか、誰か元気そうな人の首筋に食らいついて血でも吸いたい心境である。食欲もあまりない。チョコレートならいくらでも食えるのだが。
 本も読まにゃならんが、マグロのように横たわって、ひさびさに『新刑事コロンボ・4時02分の銃声』(日本テレビ系)を観る。こう見えてもおれは、刑事コロンボ・フリークだったころがあり、むかしのコロンボなら全作観ているし、二見書房新書版ノヴェライゼーションも全巻持っているくらいだ。“新”がつくようになってから作品の質が落ちたのがありありとわかり、最近のコロンボはあまりよく知らない。新シリーズの文庫版ノヴェライゼーションも最初のころはいちいち読んでいたが、いまでは買いもしないというありさまだ。むかしのコロンボにもたしかに愚作はあった。『愛情の計算』やら『アリバイのダイヤル』などは、屁のような作品だと思う。『殺人処方箋』『溶ける糸』『二枚のドガの絵』『パイルD−3の壁』『別れのワイン』『ロンドンの傘』『意識の下の映像』『祝砲の挽歌』『野望の果て』『5時30分の目撃者』『殺しの序曲』などが、おれはとくに好きである。唯一倒叙形式でなかった『さらば提督』も悪くはないが、やっぱり倒叙じゃないと本来のコロンボ的な面白さが出ない。
 今日の『4時02分の銃声』、犯人役はウィリアム・シャトナーレナード・ニモイはずいぶんむかしに犯人をやったから(『溶ける糸』)、これでUSSエンタープライズは船長と副長を失ったことになる。作品そのものは凡庸の感を拭えないが、新シリーズにしては、まだましかなといったところ。いくらなんでも、あのアリバイ工作は最初から穴がありすぎるだろう。ウィリアム・シャトナーがアホに見えるようではいけない。やはりコロンボ・シリーズの犯人は、むちゃくちゃに頭がよさそうでなくてはいかんし、言動でそれを示さねばならん。ロジックで闘い、それを崩されたら、潔く負けを認めねばならん。まあ、新シリーズのほうが好きだという人もいるんだろうけど、なんだか寂しいなあ。
 コロンボの楽しみかたはいろいろあるだろう。トリックを楽しむ人、ゲストスターの演技を楽しむ人、作劇を楽しむ人、エピソードや小ネタを楽しむ人、映画界の楽屋オチ的遊びを楽しむ人と、さまざまだろう。どれかが著しく劣っているとほかの面までチャチに見えてくるもので、畢竟、バランスのよい作品の評価が高くなることになる。おれの場合、ミステリにはあまり詳しくないのでトリック点は低く、演技点、作劇点が高くなってしまう。だから、あえてベストを選ぶとすれば、いまだに『別れのワイン』なのであった。まあ、「こんなのありか!?」と度肝を抜かれた点では、『二枚のドガの絵』には脱帽だけども、あれはラストの飛び道具的証拠にひっくり返るだけで、途中経過は凡庸だよね。
 往年のファンのために、旧シリーズを全作セットにしたレーザーディスクでも発売してほしいものだ(おれはLDデッキを持ってないけども)。できれば、日本語トラックと英語トラックを両方入れてほしい。小池朝雄のコロンボも懐かしみたいし、英語のほうは英語のほうで、吹き替えにはない緊迫感や面白みがある。
 「これは英語じゃないと、なんのことやらわからん」といまだに覚えているのは、『殺しの序曲』のラストでIQがやたら高い犯人がコロンボに出題する知能テスト。asphalt, uncle, delight, leave のうち、仲間はずれはどれでしょう?」というやつだ。これだけですぐにわかったら、英語力も知能も相当高いかも。コロンボはいとも簡単に答えてみせる――Dutch uncle, Turkish delight, French leave は、こんなふうに国籍をくっつけられるから、答えは asphalt 。これには翻訳者も相当苦労なさったはずで、吹き替えのほうでも似たような日本語の問題を作って健闘しておられたけれども、やはりどうしてもキレの悪さが残った。柳瀬尚紀氏に協力を要請するべきであったかもしれない。もし、中核となるトリックにこんな言語の壁が立ちはだかったらと考えると、翻訳者は冷や汗ものだろう――いや、じつは一作だけ、そういうのがありましたねえ。ミステリ作家が犯人で、被害者のダイイング・メッセージ解読が決め手となる『死者のメッセージ』ってやつ(『古畑任三郎』中森明菜が本歌取りしてたな)。ネタばらしをせずに言語構造の壁を超えなければならないのは至難の技だったとみえ、ラストがさっぱり冴えなかった。逆に考えると、わが国のミステリも、日本語のダイイング・メッセージが中核になるものは、いかに優れたものでも海外で翻訳紹介されにくいということになる。
 さらに突っ込むと、こういうギャップはなにも言語にかぎったことではない。SFだと、物理法則をどうこうするといったアイディアは世界のどこでも(宇宙のどこでも?)通用するが、ミステリの場合、人間の“一般的行動”ですら、各国の文化によって左右されてしまうだろう。「こういう状況に置かれたら、ふつうの人はこんなふうには動かんでしょう?」「いや、ドイツ人なら、こうするのが一般的だろう」なんてことになりかねない。してみると、翻訳家というのは、つくづく空恐ろしい仕事をなさっているものだと、尊敬の念を新たにするのである。

【10月15日(木)】
▼あっ、なんてことだ。もう来年のカレンダーが店頭に並ぶような季節になってしまっているではないか。なかなか買いに行けない。“字もの”は、十数年来愛用している『御教訓カレンダー』(PARCO出版)として、“絵もの”をなんにするかだな。今年も葉月理緒菜で行くか。
学生売血とはまた懐かしい活字を目にするものだ。が、よく考えたら、おれの年齢で懐かしがるのはおかしい。でも、おれの子供のころにはたしかにまだよく聞いた話で、血を売るというのがなにか豪傑の行為であるかのように大人たちが話していたのを憶えている。「血ィが増えるさかい、レバー食べなさい」などと親に言われ、「増えたぶんの血を売ったら、このレバーの価格以上のお金がもらえるのだろうか?」などと、子供心にヘンな疑問を抱いていたものである。
 長じてのち、献血はおれの趣味になった。大学生になってから、ものは試しと初めて献血し、おやまあ、世の中にこんなお得な話があったのかと味をしめてしまったのだ。なんの能力もない、社会貢献度なんぞゼロに等しい学生風情が、血を採ってくれと言うだけで何度も礼を言われ、タダで血液検査までしてもらえる。血を抜いたら抜いたで、なにやら身体が軽くなったようで(なっているのだが)爽快な気分になる。おまけに、終わったらジュースやらコーヒーやらをくれるのだ。至れり尽くせりである。昼飯を二百二十円に抑えていたころであるから、ドリンク一本もらえるってのは大きい。大学四年間、体調が悪いときを除いては、許されるかぎりの回数、献血をした。
 献血が気持ちいいというのは、ほんとうである(あくまで、健康な人の場合だよ)。短時間で血液の量が減るため、それに反応して心悸亢進が起こり、少しく酒に酔ったような心持ちになるのだ。いつまでも酔ってたら困るだろうなどと心配する必要はない。うまくしたもので、血液の量は小一時間ほどで元に戻る。そのための水分を補う意味でドリンクをくれるらしい。もちろん、血球の量が戻るにはひと月くらいかかるのだが、健康な人なら生活にはなーんの支障もない。しょっちゅう血を出してたら、なにか身体に悪いのではないかなどと気味悪がる人もいるらしいけれども、むしろ逆である。かえって造血能力が高まって、抵抗力がつくのだ。ときおり血を出したら身体に悪いのであれば、女性は生まれつき身体に悪い身体の構造をしている(?)ことになってしまう。
 事故や手術などで大量に失血しても、女性は教科書どおりには死なないと、渡辺淳一がことあるごとに書いているけれども、毎月血を出してるのだから出血に強いのは当然と言えよう。まあ、そう頭ではわかってはいても、医師は女性の不気味なほどの生命力を実感することが多いらしく、渡辺氏以外にも医師が同じようなことを述懐しているのを何度か読んだことがある。同じ話で何度も原稿料を取るなと怒ってはいけない。医師修行時代に遭遇した“血を半分失っても死なない女性”の事件は、渡辺文学の原点のひとつとも言える、ことほどさように強烈な体験なのだ。これが医学的に正しい事実なのかどうか、おれは知らない。渡辺氏自身もひとつの可能性として自己分析しているが、経験の浅い医師が大量の出血に動転したために実際よりも多く出血したように思えただけなのかもしれない。それが事実か錯覚かはともかくとして、象徴的な事件として作家の心に深く突き刺さった、そのことに意味があるのである。まあ、女性が非常に(ときには異常に)出血に強いというのは、医師のあいだでは体験的常識とされているのはほんとうらしいね。なにやら渡辺淳一を、婚外恋愛の話ばかり書いているポルノ作家かなにかと認識している人が最近増えているらしいのだが、自伝的青春小説の『白夜』シリーズ(中央公論社・中公文庫)なども、若い人たちにはぜひ読んでほしいと思うな。
 と、強引に本の話に引っ張ったところで、健康な人たちには献血をお勧めする。血液を臓器と呼ぶのは乱暴かもしれんが、おれは“手軽にできる臓器提供”などと、勝手にキャッチフレーズを作っている。ま、絶対採用してくれないだろうけれども……。「いいことをしている」とかなんとかいった不純な(?)気持ちになることなんてない。あれはどう考えても、献血するほうにお得な制度である。病院であれだけの血液検査をやってもらったら、いくらかかる? 病院ではジュースなんかくれないぞ。血の気が多くて失敗ばかりしている人は、どんどんやったんさい(そういう問題か?)。
 おれはここ数年献血ができなくて寂しい。慢性病を抱えてしまったので、おれの血液になんらかの薬品が溶けていないときがないからだ。怪しげなニセ医者に売るくらいなら、献血したほうがずっといい。今回の竜岡門クリニックの医師法違反事件は、買うほうも買うほうだが、売るほうもいたから起こったわけだろう。こんな怪しい診療所では、注射針の使いまわしすらしていないとはかぎらない。金もらっても、健康を失ったらアホらしい。タダで献血して、ジュースもらうほうが気持ちいいと思うぞ。

【10月14日(水)】
▼もしかしたら来るかもしれんな、来たら日記が一回分稼げるな――と思っていたメールがようやく来た。98年9月26日の日記で話題にしたワープロソフトのCMに出てくる例文“入れ立てのお茶”についてである。『こんなふうに変換されるのだとしたら、どうもおれには「一太郎」(というか、ATOK)は合わない。おれなら“煎れたてのお茶”と表記するだろうからだ』と書いたところ、“煎りたて”ならともかく、“煎れたて”まちがいではないかというご指摘をいただいた。むろん、“煎れたてのお茶”などという表記が“正しい”ものではないことは、おれとてよく知っている。試験に書いたりはしないだろう。どうも、9月26日の日記の文脈を離れて、“煎れたてのお茶”の部分だけが独り歩きしているようなのだが、おれは“入れ立てのお茶”がまちがいだとも、“煎れたてのお茶”が正しいとも、ひとことも言っていないところに改めてご注意いただきたい。メールをくれたのが知り合いなので、少々遠慮なくものを言うが、おれは「おれなら」こう表記するとしか言っていない。おれの美意識の話をしているのであって、正誤の話をしているのではないのだ。だからこそ「結局、日本語FEPというのは、使う人に合うか合わないかで評価するしかない」と、言わずもがなのことを駄目押ししているのだ。おれの日記をすべて読んでくれなどと厚かましいことを言うつもりはないが、この日の日記の主題は、98年6月22日「日本語の面白いところは、どんな文章でもタイポグラフィーであることだ」というおれの基本認識に通底する。“流行る”は使うが“凝視める”は使わないのがおれ流だというのと同じで、“煎れたてのお茶”もおれ流の当て字である。ただ、おれはこの当て字が、いかにも茶がうまそうに見え、しかも、急須から湯呑みに注ぐという一動作だけではなく、茶を飲もうと準備をはじめるところからのすべてのアクションを包含するように感じられ(あくまで、おれには感じられ)て“好きである”というだけの話をしているわけだ。学生諸君はまちがっても“煎れたてのお茶”などと、学校への提出物には書かないように。
 学校を出てせいせいしているおれは、丸をもらうためにではなく、自分を表現するために文章を書いているので、読みにくくないだろうと思われる範囲で意図的な当て字は自由に使う。いくらなんでも意図した音で読んでもらえそうにないものも、使えるところであればルビを使ってでも、漢字で表現したいことだってあるだろう(「あかん」と言われたら、ケース・バイ・ケースで引き下がるけどね)。それを意識的にエスカレートさせたものが、黒丸尚の手になる『ニューロマンサー』(ウィリアム・ギブスン、ハヤカワ文庫SF)などの訳文であり、秋津透“秋津ルビ”であるわけだ。もっとも、こうした試みは彼らにはじまったことではなく、少しむかしのところでは、筒井康隆「トーチカ」(一九六四年/『筒井康隆全集1』新潮社・所収)を思い浮かべる人も多いだろう。捜せばいくらでも先達が見つかるはずだ。
 いくらなんでも、もともと漢語である“呉越同舟”だの“臥薪嘗胆”だのを、“後悦洞臭”とか“芽芯掌探”などと書いてはまずいが(なにやら妄想をかき立てる字面ではあるが)、“いれる”、あるいは、古語の他動詞“いる”は、われらが古来から使ってきた大和言葉である。それ自身、本来は漢字などではとても書き表わせぬ広い意味領域とダイナミズムを持つ語だ。それに無理やり“入”などという外国の文字を当てて表記しているにすぎない。逆に、中国人に言わせれば、“入”は本来は大和言葉などではとても言い表わせぬ広い意味領域とダイナミズムを持つ文字であるはずで、まったく別の語である両者の、たまたまうまく重なりそうな部分を掬い取って、われわれは“入(い)る”“入れる”と書くことにしているだけである。もしかすると、ある官能小説作家は、「入れて」などと書かず「挿れて」と書くことで己の感性を表現しているやもしれない。「嘗めて」よりも「舐めて」のほうが、よりいやらしいと感じているやもしれない。
 まあ、あまり例がよろしくないが、おれの言わんとするところはおわかりいただけるかと思う。大和言葉を漢字で表現しているものは、もともとがすべて“当て字”なのである。基本となる標準的な表記は、誰もが義務教育で厭というほど叩き込まれるはずだし、またそれは共通の認識として必要なものだ。が、大和言葉のダイナミズムを決められた漢字のみで縫い留めてしまうことに、おれは抵抗を感じる。それが許される場所では、自分の感性を表現したい。表意文字と表音文字とを混ぜて使っている、世界に誇るべきユニークな表記法のうまみを絞り出したい。たとえば、先ほど「厭というほど」と書いたのもおれの流儀である。おれはおれの文章では「嫌というほど」という文字遣いを好まないからだ。もし、おれの日記をすべて読んでいるという酔狂な方がいらしたとしたら、おれが“藝”“芸”とにそれぞれ別の意味を乗せて使い分けていることにすら、あるいは気づいておられるやもしれない。まあ、そんな熱心な読者がいたら、おれのほうが驚いてしまうが……。
 あたりまえのことだけれども、作家はみんなこうしたこだわりを持っている。媒体や読者層によって制限を受けていながらも、どうすれば自分の表現したいことを最大の効果で表現できるだろうかと、それぞれの知性と感性とでおれたちにプロの藝を見せてくれるのだ。作家でもないおれがこんなことにこだわっても、誰も気にも留めないかもしれないのだが、こういう苦しくも楽しいことを作家たちだけに独占させておくのはもったいないじゃないか。あなたもやってみよう。そりゃ、試験でやっちゃいけないよ。会社の書類でやっちゃいけないよ。でも、あなたの表現力を存分に発揮してもよい場所があるはずだ。あなたが好む当て字が多くの人を唸らせるならば、もしかすると、それはやがて日本語に定着してゆくかもしれないのだ。将来、足で蹴りつけると熱いお茶が出てくる装置がどの家庭にもあるという世の中がやってきたとしたら、そのころの日本人は“蹴(い)れたてのお茶”と表記するのをあたりまえだと思っているかもしれないぞ。

【10月13日(火)】
▼話題の林真須美容疑者の顔って、誰かに似てるよなあと、おれも思っていたのだ。新聞に載っていた「FLASH」の広告に、その答えが書いてあった。そうだそうだ、たしかに神田川俊郎そっくりだ。これはひさびさの大ヒット(なにが?)である。ロバート・K・レスラーレスリー・ニールセン((C)我孫子武丸)以来の傑作と言えよう。そうか、神田川俊郎であったか。奥様向けの料理番組なんて、ふだん見ねえもんなあ。林真須美容疑者をテレビで初めて見たときおれが抱いたイメージは、「おや、この人『AKIRA』(大友克洋)で、ゲリラの武器調達やってたおばさんじゃないのか?」というものであった。この日記の読者には、ぶんぶん音を立てて肯いている人も少なくないだろう。顔はそれほど似てないが、割烹着姿でバズーカ砲とか担ぎそうな雰囲気はあるよね。まあ、もはやここまで来ればほぼナニなアレだとはいえ、まだ容疑者なのであるから、あんまりおもちゃにしてはいかんな。三浦和義氏の例もある。
 罪刑法定主義なんて言葉は日本のマスコミの辞書には載っていないらしいのだが、どんなにマスコミの期待はずれであろうが、三浦和義氏はおれとまったく同じ基本的人権を保証された、大手を振ってお天道様の下を歩ける日本国民のひとりである。なんとなく釈然としないものを感じている人もいるだろうし、もしかするとおれも感じていないでもないのかもしれないのだが、そんなことは三浦氏の権利とはまったく関係のないことだ。氏の権利を平気で犯すやつは、自分自身も罪刑法定主義によって護られていることがわからない、想像力の欠如した人間である。自分が買ったこの缶ジュースに毒が入っているかもしれんと想像することができるのに、自分が身に覚えのない犯罪の下手人としてマスコミのターゲットになることが想像できないのだとしたら、それはあまりにも身勝手な想像力ではなかろうか。
 なに? おまえは松本智津夫さんを何度も呼び捨てにして罪人呼ばわりしてるだろうって? それはもちろん、おれの責任でやってるのだ。おっしゃるとおり、罪刑法定主義に立てば、あれらは非常に不適切な発言であり、おれの身勝手にほかならない。松本智津夫が無罪で帰ってきたら、この場で謝罪する覚悟だよ。松本が名誉毀損でおれを訴えるというなら、法廷でおれの罪を認めよう。マスコミさんたちも、いつもそういう覚悟で報道なさっているのだろうと信じたいのだが、どうもそうではないらしいから苦言を呈したくもなるのだ。はて、三浦氏にきちんと謝罪した新聞・週刊誌・テレビ局等々が、いったいいくつあるんだろうね?

【10月12日(月)】
田中啓文さんの「ふえたこ日記」平成10年10月11日)を読んでいて驚いた。世の中には自分に似た人が二人はいると、たぶんロアルド・ダールが言ったのだと思うが、この日記によれば、「有名書評家・かえる関係者・とんぼ関係者・妙な食べ物創作者」「Fさん」という人がどこかにいるらしい。有名書評家という部分を除いては、すべておれとそっくりだ。おれは、人が呼んでくださるぶんにはありがたいことだから、赤面しつつもあえて訂正したりはしないにしても、あまりにおこがましいので、みずから書評家などとは絶対に名告らない。そもそも、書評らしい書評などしていないのだ。おれがやってるのは、本の紹介に毛の生えた程度のことである。万が一にも“有名”であったとしても、それはネット藝人として一部の人に多少は名が知られているだけであって、けっして書評で有名なのではない。おれも、このどこかのFさんに一歩でも近づくベく、日々精進せねばなるまい。
 それにしても、肩書きというのは恥ずかしい。他人に「おまえは何者か?」と問われたとき、照れも衒いもなく肩書きが名告れる人を、おれは羨ましく思う。それだけの自信がないとできないことだからだ。おれなど「会社員です」と名告るのすら恥ずかしい。会社に所属しているのだから会社員であるのは事実なのだが、そう名告るからには、なにやら会社のために懸命に働いている人でなければならないような気がして、はなはだうしろめたーい思いを抱く。いわんや“家”のつく職業に於いてをや。“家”なんてのは、いかにも一家言持った一国一城の主、世界でワン・アンド・オンリーの才能の持ち主といった感じで、地獄が凍りついたって、おれには縁のない文字である。おれは我慢強くないから吝嗇家にもなれないし、あっちのほうも強くないから艶福家にもなれない。仮におれに音楽の才能があり、CDの一、二枚も出していたとしても、とても恥ずかしくて“音楽家”などとは名告れないだろう。せいぜい“ミュージシャン”とか(なぜかカタカナ言葉のほうが恥ずかしくないのだ)、“ギター弾き”“歌うたい”などでお茶を濁すと思う。あの森岡浩之氏ですら、ついこのあいだまで、自分で肩書きをつけるときには“SF作家見習い”などと書いておられた。森岡氏が客観的には押しも押されもせぬSF作家であるのは明白だが、肩書きが板についたと主観的に感じられるようになるまでには、照れ臭さが拭えなかったのだろうと思う。
 もうひとつ“者”ってのも、こっ恥ずかしい文字だ。「なにをなさっておいでで?」「はい、科学者です」などと名告る人はおらんだろう。やっぱり恥ずかしいにちがいない。科学者でない人が眼前に現れた場合、それと対比するためにはじめて「私は科学者ですから……」といった使いかたをする。大槻義彦教授だって、初対面の人を前にして、いきなり「私は科学者です」とは言わんと思う。「大学で物理の研究などしております」くらいにしているはずである。
 待てよ。でも「私は医者です」ってのは、いかにもふつうだ。“家”や“者”の前につくのが二文字以上だと恥ずかしいのだろうか。一文字だと“家”や“者”と強く融合しているので、かえって意味が軽くなって、さりげなくなるのかな。「歯医者です」ってのは、医者の一種だから二文字でも大丈夫なのだろう。「私は作家です」――ふつうだよなあ。「私は忍者です」――ほら、恥ずかしくない。なにやらきわめていいかげんな法則だが、たいていのケースには適用できそうな気がしてきた。
 あっ。おれが思いつくかぎりで、唯一の例外があった。「私は宗教者です」と自分で言う人はよくいて、不思議なことに、これは全然恥ずかしくなさそうなのだ。というか、恥ずかしく思える人には、宗教者になる素質がないらしい。必然的に、「宗教者です」と名告れるメンタリティーの持ち主だけが宗教者になることになる。おお、大発見だ。おれの宗教嫌いはこのあたりにも原因がありそうである。

【10月11日(日)】
▼気温が下がってきたせいか、チョコレート中毒が本格的に頭をもたげてくる。最近、とくに頻繁に貪り食っているのは「カカオの恵み」(ロッテ)ってやつ。小分けにされているひとかけらに天然ポリフェノールが赤ワイン一杯分含まれているなどと盛んに宣伝しているのだが、チョコ中毒者にとってそんなことはどうでもいい。いやらしい甘みがなくカカオの風味が濃厚で、ただうまいから食っているのである。「○○は身体によい」などと話題になると、すぐにブームに便上した商品が出たりするけれども、そういう不純な動機の食いものは、どうせたちまち忘れ去られるに決まっている。え、あなた、まだ紅茶キノコ飼ってるんですか? それは失礼いたしました。
 たとえば、みのもんたが身体にいいと言うものを律義にみんな食っていたら、健康になるどころか栄養過多で寿命が縮むのではなかろうか。長年食い続けてゆくものは、うまいと思うから食うのだ。ロッテさんに於かれては、ポリフェノールのブームが終わっても、「カカオの恵み」は売り続けていただきたいものである。これは傑作だ。こんなのを作る技術があるなら、もっと早く作らんかい!
 というわけで、同じくチョコ中毒の水玉さん、今年はこれですぜ――っつっても、もうハマっておいでかもしれませんが……。
▼またまた出ました“オートバイ買い取り竿竹屋”98年9月23日の日記など参照)、今度のは新種である。ちょっと前にいただいていた情報なのだが、公開の期を逸していた。以前にもタレ込んでくださった大阪府枚方市マヘルさんによれば、「ご不要になったオートバイ、ミニーバイク、テレビはありませんか」と呼ばわる業者が登場したそうである。“ミニーバイク”ってのは呼び声口調でそうなるのだろうが、姉妹品に“ミッキーバイク”でもありそうな風情が感じられてよい。テレビを買い取るところが新種の新種たる所以だな。
 それにしても、テレビを買い取ってどうしようというのだろう。筐体の使える部分を再利用に回したり、電子部品の基盤から貴金属や希土類でも回収しているのだろうか。そうした目的なのであれば、電器店が回収しそうな気もする。竿竹屋がどこでどう関係してくるのかが、いまだにわからない。現代の日本では、映らなくなるまでテレビを使い倒して、ようやく新しいのを買うやつはあまりいないだろうから、竿竹屋が買い取ったテレビは、やっぱりどこか海外へ売るのかもしれないな。そのほうが儲かりそうだ。それにしても、なぜ竿竹屋なのだ? そもそも、ふつうの竿竹屋にしてからが、いったいどこからやってくるのだろう? そりゃ、家からだろうけどさ、全日本竿竹屋連盟とか、そういうのがあるのかねえ?
パイレーツほど藝のないタレントも珍しい。“藝のないタレント”とは、はて、はなはだわけのわからない言いまわしではあるが、日常会話で耳にしたら自然な表現として聞き流してしまいそうである。それほど一般的な存在なのだ。
 で、おれはパイレーツが嫌いなのかといえば、じつはそうでもないのだった。存在自体が他愛なくて、どんな番組にでも、いてもいなくてもいいところがなかなかよい。つまり、座敷童のようだ。座敷童がいると家が栄えるらしい。パイレーツにしても、少なくとも、おれなんかよりはよっぽど日本経済に貢献している。彼女らは、将来本格的に女優になるのよとか、歌手で食ってゆくのよとか、コメディアンになるのよなどとは、ゆめゆめ思っていないだろう。自分たちがほかの誰とでも代替可能な徒花だと、醒めた目で認識しているように見える。そのあっけらかんとした姿勢がなんとなく快い。「使い捨てられるだけでしょ?」という見かたは一面では正しいだろう。が、彼女らのほうでも、芸能界を使い捨てようとしているのかもしれないのだ。だとしたら、両者の利害は一致しており、じつにけっこうなことだっちゅーの。
 ちなみに、どっちかを取れ(?)と究極の選択を迫られたら、おれは向かって左側のほう(浅田好未)がよい。なぜそう感じるのかと考えていて、簡単な理由に気がついた。たぶん、カエルに似ているからだろう。


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