間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


99年6月上旬

【6月10日(木)】
▼おっと、昨日の日記で“猫の日”2月2日などと書いてしまったが、2月22日のまちがいである。タカアキラ ウさんからご指摘をいただいて、気がついた。にゃんにゃんにゃんだもんな。直しておきました。
 もしかすると、“ポルノの日”の話をしていたので、“にゃんにゃん”というのが頭にあったのかもしれない。典型的錯誤行為というやつか。いつのむかしだったか、男女が性交することを“にゃんにゃんする”などと猫も杓子も言っていたころがあったが、あの言葉はついに定着しなかったなあ。
 じゃあ、なにが定着したのかと考えてみると、性交を自然に表現する美しい言葉がない。いま、よく使われているのは“えっち(エッチ)する”だと思うが、おれはまず使わない。せいぜい“セックスする”くらいだ。これにしても外来語なので、なんだかしっくりこない。癪に障ることに、われわれが“えっちする”だの“セックスする”だのとぎこちない外来語を使っているというのに、当の英語国民どもは make love という自然な口語表現を持っている。まあ、べつに愛がなくてもいくらでもセックスはできるにしても、なかなか風情のある表現ではないか。羨ましい。
 同じようなことを、永井路子『万葉恋歌』(角川文庫)の中で書いている。あのころは、“寝る”という日本語が、男女の肉体の交わりを指す自然でおおらかな表現だったのに、現代語では同じ性交を指す“寝る”にしても、なにやら品のよくない猥雑な感触がつきまとってしまったと永井氏は嘆くのだ。「私も現代語訳のために、いろいろな言葉を捜してみたのだが、どうも適切な言いまわしがなかった。そういえば、そのことをやさしく甘美に言える日本語は今、なくなってしまったのではないか」 いや、ほんとにないよね。永井氏も指摘しているが、言葉がなくなったというよりも、万葉のころの“性”に関するおおらかな通念そのものが、日本では途中で失われてしまったのだな。だけど、よく考えてみると、再びそれは取り戻されつつあるような気もしないではない。おやじ同士が電車の中で「いやあ、こないだ秘書課の葉月くんと寝ちゃってねえ」などと話していたとするとなんとなくいやらしいが、女子高生が友人ときゃあきゃあ騒ぎながら「とうとう、レイくんと寝ちゃったんだ」なんてことをさらりと言うのは、一種清々しい健全な感じがある。以前、おれが薬局で栄養ドリンクを立ち飲みしていると、昨日高校を出たばかりのような若いOLがにこにこしながら入ってきて、「おばちゃーん、マイルーラちょうだい!」とマクドナルドでコカコーラを注文する口調で言った。すぐ横にかっこいい若い男がいるのにである。あれには素直に感動したね。あのようでありたいと強く思ったことである。おれは、そういう点では、最近の若い女性の感性に味方したい。“寝る”に、万葉のころのあっけらかんとした意味を取り戻そうではないか。
 おれが“セックスする”よりもさらに抵抗を覚えるのが、性交を指す“愛し合う”という表現である。とくに、「冬樹と里緒菜は、その夜二回愛し合った」(なぜかこの手の小説では、地の文でも男は姓で女は名で呼ぶ。不思議だ)などと、愛し合う回数を勘定しているのを読むとげんなりする。そもそも、なにを基準に数えておるのだろう? 男のほうは二回愛し合ったつもりかもしれんが、女のほうは一回だけだと思っているかもしれん。男が三回愛したつもりが、女は一回も愛されていないと内心不満かもしれん。回数が増えてくるにしたがって、男のほうが圧倒的に不利になってくるだろう――って、なんの話だかわからなくなってきたが、ともかく奇妙な表現であることはたしかだ。
 えーと、言葉の話だったな。あなたは、ふだん性交をどう表現してます? そんなもの、日常会話で表現したりしないって? そこに問題の根があるんだろうなあ。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

東北大学SF研究会会外個人誌『糸納豆EXPRESS 31』
東北大学SF研究会会外個人誌『糸納豆EXPRESS 32』
東北大学SF研究会会外個人誌『糸納豆EXPRESS 33』
(編集/たこいきおし

 電脳版もペーパー版もある老舗個人誌なのであった。とくに、32号の「原田知世 LIVE!! with 鈴木慶一」は嬉しいなあ。いやあ、ほんっとにいまの原田知世はいいですよ。むかしもよかったけど、歌手として、女として、べらぼうに魅力的になって、なにもかもよろしい。自然体ですな。やっぱり女は三十から――って、いつも同じことばかり言ってるな。

【6月9日(水)】
御教訓カレンダー(PARCO)をめくると、なんでも今日は“ポルノの日”なのだそうだ。はて、いかなる高邁な制定主旨があるのだろうと一瞬首を傾げたおれがバカだった。そうか、そういうことか。ヒジョーにわかりやすい。少なくとも2月22日“猫の日”よりは捻りが利いている。しかし、これだと“ポルノの日”は年に二回あってもよいのではなかろうか? 9月6日もまさか“ポルノの日”ではあるまいな――とカレンダーを繰ったところが、こいつが“妹の日”だという。はてさて、これこそいったいどういう理由で定められたのか、さっぱり見当がつかない。
 こういう瑣末事を調べるのには、WWWが威力を発揮する。案の定、ありましたねえ、解説してるページが……。「NIFTY-Serve 占いフォーラム」サイトの「おこよみ焼き」なるコーナーの説明によれば、「妹の日は1991年マンガ家の畑田国男が提唱しました」ということで、詳しい説明は当該サイトへ行っていただくとして、早い話が『妹の可愛いさを象徴する乙女座の期間の真ん中の日付を取って、9月6日を「妹の日」と定めたもの』なのだそうである。いやあ、勉強になりました。でも、だからどうだというのだ? シックス・ナインの日のほうが、やはりよっぽど説得力があるぞ。

【6月8日(火)】
▼わわわ、なんてことだ。田中哲弥さんの99年6月5日の日記を読んでのけぞる。よせばいいのに大学の卒業アルバムなど引っぱり出して、よせばいいのにおれの写真を見つけて爆笑したとな。田中さんとおれとは、同い年で同じ大学で、卒年も同じなのだ。いま思えば、学部はちがえど絶対に生協の書籍部で会ってるよな。『むさしキャンパス記』(かんべむさし、徳間文庫/ヒューマガジン版は『上ヶ原・爆笑大学 〜 新版むさしキャンパス記』と改題)がなぜか平積みになっていた妙な書籍部である。筒井康隆全集を全巻買い、『梅田地下オデッセイ』堀晃、ハヤカワ文庫JA)を一冊だけ取り寄せさせた、思い出深い書籍部である。いまは田中哲弥やら最相葉月やらが平積みになっているのだろうか。
 「今とまったくおんなじ顔が写っていた」って、そらそうや、十四年のあいだに目がひとつ増えたりするかいな。しかしまあ、田中さんが笑うのも無理もない。自分で鏡を見ても、大学生のころとまったく見た目が変わっとらんもんなあ。当時から老けていたのか、いまが若々しいのか。そりゃあもう、後者にちがいない。
 かくなるうえは、わが家に代々伝わる妖かしの秘法“真言アルバム返し”をかけることにした。こちらもアルバムを引っぱり出して、笑ってやろうという危険な術である。ところが、ありかはわかっているものの、引っぱり出すのにたいへんな労力を要するのが判明し、今日のところは諦めることにした。田中さんは命拾いしたわけだ。近いうちにアルバムを掘り出して術をかけるので、田中さんは覚悟するように。

【6月7日(月)】
▼おっと、東京創元社に遅れること二か月、満を持して早川書房のウェブサイトがデビュー。これでSFの二大老舗がネット上に揃ったわけだ。二大老舗なんて言いかたをすると反発を覚える方もあるかもしれないが、国内・海外のSF作品、また、SF関係の書籍を地道に出版し続けてきた代表といえば、おれの意識ではこの二社しか挙げようがない。そりゃあ、ほかの出版社のSFにもたいへんお世話になった。それに、率直に言って、二社ともけっして大きな出版社ではない。零細ではないにしても、弱小出版社と言えよう(もっとも、数にすれば、出版社のほとんどすべてが弱小・零細である)。が、こつこつこつこつと賽の河原に石を積むようにSFを出し続けてくれ、いまも出し続けてくれているこの二社には、少なくともおれと同年代以上のSFファンは足を向けて寝られないはずだ。ネット上でもがんばってほしい。
 かと思うと、山野浩一氏のオフィシャルサイトがオープンしていたのには、ひっくり返って驚いた。こんなことを言うと失礼だけれども、SF作家・評論家の中で、最もウェブサイトを持ちそうにない方々のひとりというイメージがあったのは否めない。晴天の霹靂だ。Fate steps in and sees you through だ。When you wish upon a star, your dreams come true だ。レミドドソー。
 小説と競馬の二本立てサイトというコンセプトが面白い。「謝罪のコーナー」ってのがすごいね。「ここのコーナーは山野先生のお書きになったコラムや発言等に対する間違いを指摘する斬新かつ前向きな謝罪系ページです」というのだが、これで紙媒体でのうっかりミスのフォローができると同時に、読者と有益なコミュニケーションが図れることになる。ほんとに斬新だ。作家やライターが運営しているサイトの掲示板が、事実上そのように機能することもあるが、「謝罪のコーナー」とおおっぴらに謳っちゃうところが愉快だ。
 十年以上前だったろうかなあ。東京に出張に行ったとき神保町をうろつき、《ハヤカワ・SF・シリーズ》(いわゆる“銀背”というやつだ)の『鳥はいまどこを飛ぶか』(山野浩一)を三千五百円で買った。初版だ。発売時の定価は四百三十円である。いま、いったいこの本は古書店の相場でいくらくらいなのだろう? もっとも、売る気は毛頭ないぞ。
 あ、ひさしぶりに「○○と××くらいちがう」の新作ができたぞ。「なんじゃ、それは?」という方は、98年8月12日の日記あたりからリンクをたどってください。「中野浩一と山野浩一くらいちがう」ってのはどうだ? 競輪と競馬の対比の妙がミソである、って自分で解説するなよ。

【6月6日(日)】
▼世も末な話をしていたら、いつのまにか6月6日、いやあ、これはますます世も末だ。しかし、6月6日が不吉だということになってしまっているのもなにやら妙な話で、映画の影響力というのは怖ろしい。「ヨハネの黙示録」には、獣の数字として Six hundred threescore and six (KJV)の記述があるだけで、6月6日6時にろくでもないやつが生まれるというのは、あくまで『オーメン』が作ったネタですわな。そういえば以前から不思議に思っているのだが、ダミアンの頭にある“666”の痣(かなんか知らんが)を、いったいなにを根拠にわれわれは“666”と読まされてしまっているのであろうか。べつに「こっちが上」と示した痣が隣にあるわけでもないのだから、あれは“999”かもしれんのである。つまりダミアンは、悪魔と偽預言者と反キリスト者の象徴を背負った不吉な子ではなく、ことによると銀河鉄道の申し子(なんじゃ、それは)である可能性もないではない。あるいは、あれは“ののの”でないと誰に言えよう。“ののの”とはなんぞやと、おれに訊かないでほしい。こういうのは田中啓文さんに尋ねたら、たちまち数多の実在・架空の古文書を繙いて、凶々しい獣の文字“ののの”の伝説をでっちあげてくれそうな気がするが、原稿料は出せないので、“ののの”の謎には読者各々で迫っていただきたい。
 と、ここまで読んだ方は、ははあ、今日はネタに困っているなと思っていることだろうが、そのとおりである。やたら蒸し暑くなってきたせいか、ひときわ体調が悪く、朝から寝酒を食らってひたすら眠っていた。テレビも『燃えろ!! ロボコン』(テレビ朝日系)くらいしか観ていない。ロビーナちゃん(加藤夏希)は、こう言ってはなんだが、むかしのロビンちゃん(島田歌穂)より可愛いぞ。あれで十三歳だとは、末怖ろしい。というか、末が楽しみだ――というくらい、もののみごとになにもしない日というのを、たまには作ってもよかろう。
 とはいえ、ほんとうになにもしなかったわけではない。ロッテ「トッポ」を食った。ただそれだけのことでも、こうして言葉で書き記すとなにやらたいそうなことをしたように見えるところがテクストの快楽というやつだ(そうか?)。最近「トッポ」にハマっていて、CMに出てるコが可愛いせいもあるが、あの“ノッポトッポちゃん”がとても欲しいのである。欲しいのだが、考えてみればあんなでかいものが当たってしまっては置く場所に困るだけなので、まだ一度も応募したことはない。ああいうものが欲しくて「トッポ」を食っているとしたら動機が不純だ。でも、一応うまいと思って食っているのだし、応募したことがないのだからいいじゃないか。「法律的には問題ありません」と別のCMで筒井康隆も言っている。めでたし、めでたし。
▼サンフランシスコ(略してSF)の総合科学博物館 Exploratorium カエルの企画展 frogs をやっているとの情報が松永洋介さんから寄せられた。いくらカエル好きでもアメリカまで見にゆく暇も金もないが、ウェブページを読んでるだけで楽しい。読んでるだけで楽しいのだから、行ったらなお楽しかろうと思わせるページの作りはすばらしい。日本の博物館だと、多くの場合、こういうのは告知だけだよねえ。カエル展やるからといって、イクチオステガからカエルの歴史を語る解説ページを、図解や写真入りで作ってくれるとは思えない。ページのデザインもじつに“クール”だ。あちこちのイベントを見てまわるのがご趣味らしい松永さんも、「日本の博物館だと、市や県のサイトの片隅に、やたら立派な建物の写真と地図だけが載ってる、みたいなところも多くて、悲しくなってしまいます」とおっしゃっている。がんばれ、日本の博物館! 松下幸司さんの「博物館の博物館」のほうが、紹介されてる当の博物館よりすごかったりするんだよな、これが……。

【6月5日(土)】
6月1日の日記ノストラダムスの予言を揶揄していたら、渋谷伸浩さんから面白いご提案があった。「世も末ですね」というのを時候の挨拶にしてはどうかというのである。これはいい! 「今日も梅雨空ですね」みたいな感じで、さしたる意味もなくにっこりと言うのだ。朝、ゴミを出すときに近所の奥さんに会ったら、「やあ、世も末ですね」とにこにこ頭を下げながら言ってみよう。すると、奥さんも「ほんとうに。昨日も世も末でしたが、今朝はことに世も末ですね」と応えてくれるはずだ。それがきっかけでその奥さんと仲良くなり、「奥さん、世も末ですから、ちょっといけないことをしてみませんか?」「まあ、いけませんわ、世も末ですわ」「ええ、世も末ですから」「そうですわね、世も末ですわね」などと、話がスムーズに進みそうな気がする。いいな、これ。流行らせよう。
▼今日の『ウルトラマンガイア』(TBS系)は、なにやら懐かしい感じがした。望まずして怪獣になってしまった人間とか、現代にもまだまだ残る先の大戦の爪痕とか、まるで金城哲夫が書いたような脚本である。おれくらいの歳だと、こういう作りの話はゲップが出るほど観て育ってきているものだからついつい陳腐に感じてしまうのだが、あとから繰り上がってくる子供たちには初めて触れる類の話だったりするのだ。たまにこういう“お約束”を繰り返すのは、子供番組には必要なことだろう。だから大人には面白くなくても、今回は突っ込まない。ラストは『ゴジラ vs.ビオランテ』ですね、って突っ込んどるやないか。

【6月4日(金)】
▼二日に中央薬事審議会経口避妊薬を正式に承認してから、あちこちでピルの話題が出ている。まあ、これって、間接的にはバイアグラが発明されたおかげなわけで、皮肉といえばじつに皮肉だ。でも、どうして薬局でふつうに売らないのかね? バイアグラに処方箋が要るって話はわかるが、ブロッカー配合の胃薬よりはピルのほうが、素人目にはよっぽど安全な気がするんだが……。どのみち売薬というものは、飲むほうも最低限のことは勉強して己のリスクで飲まねばならないに決まっている。なぜピル程度の薬を特別扱いする? どうも、女性に“力”を持たせてはならないという陰謀の匂いを、そこはかとなく感じないでもないね。
 とはいえ、女性が避妊の主導権を自分で握ることができるようになったのはめでたいことである。男性がずっとやってきたように、女性にも恋愛とセックスと生殖と結婚とを切り離してマネジメントすることが認められて当然である。ピルの解禁はそれへの第一歩だ。これでおれの大嫌いな奴隷根性の染み着いた女が少しは減るだろう。もっとも、そういう女をもてはやして改良家畜のように育ててきたのはこの男社会なのであるからして、男社会の恩恵に不当に浴しまくっているおれも、そう大きなことは言えない。おれは自分が男であることがそれほど好きではないが、いまの社会で女になるよりはよっぽどましであると思っている。そう生まれちゃったので消極的に男でいるけれども、二択を迫られたら、女は損だから厭だというのが正直なところだ。
 さて、ようやくピルが解禁された社会で、おれたち男は、これからどんなことに気をつけてゆけばよいのだろうか? テクノロジーの進歩(っつっても、先進国じゃ、なにをいまさらであるが)には、往々にして人間側の心構えがついてゆかない。精神的に自立した女性がピルを使うのにはなんの問題もないのだが、おれの大嫌いな奴隷根性の染み着いた女(しつこいな)がピルを悪用するおそれは充分にある。どういうことかと言うとですな、男性諸氏よ、「あたし、ピル飲んでるから大丈夫よ」という言葉を絶対に信用してはならないってこと。しめしめとうまく妊娠した女性に、それをネタに結婚を迫られるという最悪の事態を招く可能性があろう。その相手が、結婚願望だけで膨れ上がった、あなたのような優秀な男を“釣り上げる”ことに一生を賭けているような奴隷根性の染み着いた女であった場合、えらい目に合うのはあなたなのである。避妊を女性任せにしてはいけません。かよわい受身の性である男のほうから避妊を言い出すのははしたないことなのではないか、彼女に嫌われてしまうのではないか、などと考える必要はまったくないのですよ。あとで傷つくのはあなたなのです。可愛い男でいたいという気持ちはわからないではありませんが、やはりこれからの時代は、男性といえどもきちんと避妊を考えるべきです――あやや、なにやら『フェミニズムの帝国』(村田基、早川書房)みたいになってきたが、冗談抜きで、法律上の配偶者という地位だけが欲しいバカ女に釣り上げられないよう、くれぐれもご注意いただきたい。ほら、そこ、メンズ・エステとやらで、頭の外側だけ磨くのに夢中になっている軟弱なキミのことを心配しているのだ。

【6月3日(木)】
▼ひさびさにゴキブリの幼虫を見かける。おれは成虫のゴキブリはなかなかかっこいい昆虫だと思っているのだが、なぜに幼虫はあんなにおぞましいのであろう。
 むかしは、この団地にもずいぶんとゴキブリがいたのに、昨今めっきり減ってしまった。喜ぶべきか悲しむべきか。いればいたで煩わしいが、いないとなるとなんとなく寂しい。以前住んでいた団地やアパートでは、夏の夜ともなるとゴキブリがパラパラ音を立てて飛びまわっていて、それはそれで風情があったものなのだ。自治会で日を決めて一斉に殺虫剤を焚いたりしておきながら寂しいもへったくれもあったものではないが、ゴキブリに親しんで育ったおれは、やつらが見えないとちょっと不安なのである。
 それでもやはり、最近再びゴキブリが出没しはじめたため、硼酸団子の類などが仕掛けてある。“硼酸団子3兄弟”ってのを出せば売れるのに。もうブームも下火だからダメかな。子供のころは、ゴキブリホイホイの組立て、設置計画の立案、釣果(?)の確認はおれの仕事だった。あれはけっこう楽しいのだ。いっぱい獲れていると、うきうきしてくる。このごろ流行の、薬物で一網打尽にするようなやつは風情を欠いていかん。合理的ではあるが、スポーツマンシップが感じられない。ゴキブリというやつは、一対一で対峙し、闘ってこれを滅ぼしてこそストレスの解消にもなるのである。むかし、おもちゃのエアーライフルを持っていたころは、狙い撃ちしたりしていた。あれは面白かった。いまひとつ威力に欠けるので、よほどうまく命中しないと仕留めることはできない。うまく当たりすぎると、今度は後始末がたいへんである。
 最近現われるのは幼虫ばかりだから、おれが腰を上げるまでもあるまい。おれは、きちんと羽の生え揃った堂々たる成虫と対決したいのだ。伝説の人食い熊を追うマタギのような、モービィ・ディックを追うエイハブ船長のような心境だと言えばわかってもらえるだろうか。だが、ゴキブリを殲滅してしまっては、これまたつまらない。ジェリーを追うトムのような、ルパン三世を追う銭形警部のような感じと言えば察してもらえるだろうか。
 おっと、ゴキブリで愉快なことを思い出したぞ。高校生のとき、国語の先生が授業中に武術の達人の話をはじめた。なんでも達人ともなると、天井裏でカサっと音がするや、ひょうと肩ごしに火箸を投げ放ち、ゴキブリを串刺しにすることができるとかいう話であった。ほんとうだとしたらたいしたものだと思ったのかどうか知らないが、凡庸なおれたちは黙って聴いていた。と、クラスの剽軽者がぽつりと言った――「天井裏、びっしりゴキブリがおったりして……」
 大爆笑が巻き起こったことは言うまでもない。道はちがえど、こいつのほうがよっぽどの達人だ。関西人というやつは、こうやって鍛えられてゆくのだ。京都ですらそうなのだから、大阪の学校でどのようなギャグの鍛錬が行われているか、推して知るべしである。
 いまにして思えば、はて、あれはネズミだったかなという気もしないではないが、ゴキブリのほうが話が面白くなるから、そういうことにしておこう。あー、やっぱり、おれも関西人や。

【6月2日(水)】
▼先日(99年5月17日“お釈迦様の鼻糞”という奇妙な言いまわしについて書いたところ、琴子さんが情報をお寄せくださった。ありがとうございます。
 琴子さんは、随筆家(どうも“エッセイスト”とは呼びにくい)の大村しげ氏の文章にその言葉があったとご記憶であった。大村しげ氏は祇園の料理屋の娘さんであるから、あるいは京都言葉なのかもしれない。おれの婆さんは京都出身ではないが、一生のほとんどを京都で過ごした。京都言葉を聞き覚えていたとて不思議はないのだ。琴子さんの読んだ大村しげ氏のエッセイ(掲載誌:『おやつぱれえど』1980年9月1日発行/千趣会)によれば、大村氏は少女時代、釜についたご飯のおこげを水でふやかして取り陰干ししたものを、砂糖と醤油で甘辛く味つけした“ほっしん”(乾飯の意であるらしい)というおやつが好きだったのだそうな。その中に、煎った黒豆が入っていることがあり、それを“お釈迦様の鼻糞”と称したとのことである。“ほっしん”は涅槃会のおやつだったそうで、陰暦の二月十五日、つまり今の暦で三月十五日に寺では法会を行う。寺の表記では“はなくそ”ではなく“花供御(はなくご)”であったという。
 なーるほど。かようなおやつの中の煎った黒豆のことであったのか。いかにも、鼻糞っぽい。どうでもいいけど、いくらお釈迦様のものでも、食いものを鼻糞と呼ぶのは抵抗があるなあ。しかも、おれは仏教徒じゃない。
 この大村しげ氏のエッセイにある記述を基に、琴子さんは、さらに“お釈迦様の鼻糞”について考察をしておられる。学問的に証明されたものではないが、たいへん説得力があるので、琴子さんの推論と仮説をご紹介しておこう。
 日本国語大辞典によれば、まず“花供(はなく、はなぐ)”というものがある。“花供”とは、「(1)奈良薬師寺の会式に際し、仏前などに諸種の色彩の造花を供えること。(2)高野山金堂で、毎年四月二一、二二日に行われる法会、古くは日の定めはなかった。高野の花供。」なのだそうだ。また“供御”という言葉もある。これは、「(1)天皇を敬って、その飲食物をいう語。時には、上皇、皇后、皇子にもいい、武家時代には将軍の飲食物にも用いた。お召し上がりもの。(2)召し上がりものをいう女房詞。ごはん、めし。」ということになっている。いやあ、勉強になりますねえ。
 でもって“お釈迦様の鼻糞”を、琴子さんは“花供御”から“鼻糞”への転訛だと推理しておられるのだ。こんな具合である――

『春の法会に用いた仏への供物(お仏飯)を、花供御と呼び、そのお下がりを乾飯にして、おやつにしたものも花供御と呼んだ』
『「花供御」というのは一般人(特に子供)には馴染みのない言葉なので乾飯の形状から「はなくご」「はなくそ」となった。仏様へのお供えなので「お釈迦さんの」が付いた』
『乾飯の中に煎り黒豆が入っていた場合、そちらの形の方が「鼻くそ」に似ているので、煎り黒豆だけを一般的に「お釈迦さんのはなくそ」と呼ぶようになった。(大村しげさんの場合)』
『煎り黒豆が入っていない場合、乾飯、およびそれに類するもの(玄米茶の中の煎り米など)を「お釈迦さんの鼻糞」と呼ぶようになった。(冬樹さんの場合)』

 うーむ。いかにもありそうなことだ。すっかり感心してしまった。絶対にこれが正しいとは言えないけれども、積年の疑問が氷解したような気がする。少なくとも、おれの婆さん以外に“お釈迦様の鼻糞”なるものを知っている人がたくさんいるらしく、これだけでもおれにとっては大発見だ。婆さんの発明ではなかったのだな。いや、ほんとにありがとうございました。
 しかも、だ。琴子さんのメールはこれだけでは終わらなかった。彼女は元SFファンと自称してらっしゃるのだが、少女時代にとんでもない体験をなさっているのであった。なんでも、琴子さんが中学生のとき、〈SFマガジン〉の発売日に風邪をひいて、お婆さんに「SFマガジンを買ってきて」と頼んだのだそうだ――って、ここまで言えば、オチはわかりますね。神代のむかしからSFファンのあいだで語り継がれてきた実話ともジョークともつかぬ“アレ”である。そう、琴子さんのお婆さんが買ってきたのは〈SMマガジン〉だったのだった。
 いやまあ、おれも本屋でうっかり手に取って、あわてて棚に戻したことはあるけれども、お婆さんが買ってくるとは、まるでコントのようである。あまりに面白いので、ご本人の許可は得てあるから、そのまま引用しよう――『人口5万人の地方都市で、本屋のおじさんも顔見知りなのに祖母も本屋のおじさんもどういう了見で女子中学生が「SMマガジン」を読むなんて思ったのでしょう。せっかく買ってもらったSMMでしたが、表紙のおどろおどろしさに、まだ純真だった私は中身も見ずに返品したのでした。あのとき読んでいたら、私は今頃SM者になっていたかもしれません』
 いまの女子中学生なら〈SMマガジン〉を買ってきてくれと頼んでも不思議はないような気もするが、「まだ純真だった」(自己申告が潔い)琴子さんは、さぞやびっくりなさったことであろう。〈SMアドベンチャー〉〈SMイズム〉が売ってなくてよかったことだ。〈SM宝石〉ってのは、なんだか実在しそうだよな。
 もっとも、まかりまちがってSM者になっていたとしても、それほど遠まわりではないような気がしないでもないぞ。

【6月1日(火)】
▼あとひと月で七の月ノストラダムスの予言とやらが当たれば(そして、その一部の解釈が正しいとすれば)、あと二か月以内にどえらいことが起こるわけだ。わけのわからないカルト教団やら、集団ヒステリーに駆られた人々やらが今月あちこちで自殺したりするのではあるまいかと、いまからげんなりする。おれの子供のころ、ノストラダムスの大予言がブームになったとき、ほんとうに将来を悲観して自殺したやつがいたものである。ノストラダムスがいい迷惑だと思うね。そんなやつは、べつにノストラダムスの予言がなくたって死んだに決まっている。適当な理由が欲しかっただけだろう。
 それはそれとして、もしほんとうに来月人類が滅びてしまうとでもいうのなら、それはそれで一種清々しいものがあるとは感じるね。いま滅びたら“もったいない”という気持ちはある。せっかくここまで来たのだから、せめて他の天体に植民するくらいのところまでは進んでから滅びたいとは思う。でも、なんらかの原因で、きれいさっぱりあっという間に滅びてしまうというのなら、それほどじたばたする気は湧いてこない。子供のいない者の気楽さなのだろう。
 いや、たぶんおれみたいな人間は、仮に子供がいたとしても、未来永劫おれの子孫たちが続いていってくれることに、さほど喜びを見いださないだろうと思う。よくできた機械としてのおれ自身の遺伝情報など、数世代のうちにはおれとはなんの関係もないくらいに拡散してしまう。どのみち、そんなものはハードウェアの情報にすぎない。それに、おれはべつに曽祖父母やら曽々々々祖父母などのことを、ふだん考えて暮らしたりしていないよ。せいぜい婆さん止まりである(おれはいずれの方も生身の爺さんを知らない)。前にも書いたが(99年1月18日の日記)、おれは血縁にはまったくなんの興味もない。婆さんより前の先祖の話など、親や親類縁者に尋ねたこともなければ、調べてみようとしたことすらない。自分が先祖に興味がないのに、子孫たちにおれに興味を持て、忘れないでいてくれなどと願うのは虫がよすぎるであろう。どのみち、個人としてのおれのことなど、死後五十年もすれば、世界中の誰も憶えちゃおるまい。先祖が何者であったかなどという話を得意気にしている人がたまにいるが、おれにはそういう人々がなぜ先祖を誇らしく感じたりするのかが、さっぱり理解できないのだ。価値観が根本的にちがう。あなた、コアセルベートを誇らしく思えますか?
 仮に、今後機械知性が人間に取って替わったり、人類が宇宙人に征服されたりするようなことがあったとしよう。そして、そのころの人類は、遺伝的には人類のハードウェアを受け継いでいても、おれの知っている人類とはまったく別のなにものかになってしまっているとしよう。機械知性や宇宙人たちがおれの美しいと思うものを美しいと思い、おれが価値あると思うものに価値を見い出すやつらだったとしたら、おれはきっと遺伝的な人類の子孫よりも、機械や宇宙人のほうに親近感を覚え、そいつらにおれたちのことを憶えていてほしいと思うにちがいない。
 いずれ人類が滅びるというのなら、滅びてもいっこうにかまわない。ただ、人類が生み出したよきもの・悪しきものを、機械知性なり宇宙人なり人類が作った別の生物なりが、少しでも受け継いでくれればいいなとは思う。もっとも、そいつらだってやがては滅びるのだろう。あとになにが残ろうが残るまいが、おれがいまここにこうして生きたことは紛れもなく宇宙史の一部であるし、それはおれにとっての真実だ。それ以上のなにを望む?
 まあ、ノストラダムスの予言が気になるような人がもしいらしたら、「ノストラダまス」の大予言でも読んで、笑い飛ばそう。両者は本質的にまったくちがわないのだ。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す