間歇日記

世界Aの始末書


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99年6月下旬

【6月30日(水)】
▼冷蔵庫にあまりメモなどを貼りつけるのはよくないと古畑任三郎は言っていたが、会社から帰って冷やした茶を飲もうと冷蔵庫を開けるとき、いつも否応なしにクレヨン画が目に入ってくる。いや、幼い姪が描いた“おばあちゃん”の絵を、当のお婆ちゃん、つまりおれの母が嬉しがって冷蔵庫に磁石で貼りつけているのだ。「貼っておかないと(姪たちが)遊びにきたときに怒る」などと母は言っているが、なんのことはない、手前が嬉しいから貼っているのである。他愛のない婆さんだ。はっきり言って下手な絵であるが、虚心坦懐にじっくり見ると、なかなかたいした才能の片鱗が感じられる。早くも、ダリマグリットキリコエッシャー砂川しげひさしりあがり寿谷岡ヤスジの影響が見られるあたり、わが姪ながら天才ではないかと思う。とくに、おれを描いた絵がすばらしい。
 それはともかく、せっかくクレヨンで描いていながら、あまり色を使っていないのはどうしたことか。なにか心理的な問題でもあるのだろうかと、要らぬ心配をしてしまうのを自戒する。
 おれが幼稚園児のころ、紫色のクレヨンだけが劇的に減った。あとで聞いた話だが、ほとんど紫で塗り潰したような絵ばかり描いていたため、母は「お宅のお子さんは、なにか心にわだかまりがあるのではないですか?」と幼稚園の先生に言われたというのである。ほんまかいな。だとしたら単純な先生だ。おれはただ、当時は紫色がいちばん好きだったから、好きな色ばかり使っていたにすぎない。なに? そこに問題があるのだって? そんなもん、幼稚園の先生の知ったことか。本人が好きな色を思いきり使ってなにが悪い。なに? そう思うところに問題があるのだって? うーむ、そう言われればそうかもしれんが、べつに誰に迷惑がかかったわけでもない。いま思えば、おれが家で絵を描いていると(おれはやたら絵を描くのが好きな子供だった)、しきりに母が「もっと明るい色を使いーな」とむきになって、おれの絵に横から手を出していた時期があったな。あれは幼稚園の先生の影響だったのか。おれの絵に勝手に手を入れる母に激怒し、画用紙をびりびりに破いたりクレヨンを投げつけたりしていた。いかにも健やかな子供が描きましたぁみたいな絵を病的な子供に無理やり描かせたところで、それにいったいなんの意味があると言うのだろうか。先生も迷惑な先生だが、絵を直せば性格が治る(?)とでも思うほうもどうかしている。母はおそらく先生にそういうことを言われるのが“かっこ悪い”と思ったのだろう。なるほど、おれは人生で必要なことをすべて幼稚園で学んだような気がするぞ。おせっかいな幼稚園の先生には感謝せねばなるまいな。
 そうだ、クレヨンだ。あれもなかなかにトラウマになるというか、人生を教えてくれる文房具であったことは否めない。みんながだいたい十二色のクレヨンを持っているのに、二十四色だの三十六色だのを持っている子がひとりやふたりは決まっていたものである。いわゆる“え〜とこの子”というやつだ。ビジリアンだのセルリアンブルーだの、聞いたこともないような色が入っているクレヨンを、みんなが珍しがって見る。おれとしては紫色が十本くらい入っていてくれたほうがありがたいので、さほど羨ましいという気持ちはなかったが、なにやら“ちがう世界”を垣間見たような気はしていた。そういう豪華なクレヨンを持っているほうは持っているほうで、なにやら逆に仲間はずれにされているような気がしていたのやもしれない。この世界は住みにくいところだ。
 いまの子も、やはりクレヨンの色数に複雑な思いを抱いたりしているのだろうか。「うぉお、すげぇな、おまえの二十四色かよ」「あら、あたしのは三十六色よ」「パンダ組には六十四色のやつがいるぞ」「おまえら甘いぜ、おれのなんか二百五十六色だ」「ああら、あたしのお兄さんのなんか、一千六百七十七万七千二百十六色よ」――とかなんとか、やってそうだよな。

【6月29日(火)】
▼体調最悪。体調が天気に左右されるというのは、本格的に老人力がついてきた証拠なのだろう。いや、それにしてもすごい雨だ。
 前々から疑問なのだが、今日みたいなえらい土砂降りを表現するのに、It's raining cats and dogs.などという有名な表現が英語にありますわな。なぜ犬と猫なのか? いままで聞いた説でなんとなく納得しそうになるのは、むかしイギリスの都市は水捌けが悪く、大雨が降るとそこいらの犬猫が大量に溺れ死に、雨が上がったあとは、まるで空から降ってでもきたかのように犬や猫の死骸が散乱していたから――というものである。
 ほんまかいな? 犬は泳げるはずだ。猫だって、たいてい水を嫌うけれども、水に放り込まれりゃ泳げないわけではない。道が川のようになったとて、はたして、そんなに簡単に犬猫が溺死するだろうか? 繋がれていた飼い犬や飼い猫(繋ぐかなあ?)なら溺死するだろうけど、だとすると、彼らの死骸が転がっていても、空から降ってきたようには見えないだろう。やっぱり、眉唾な感じがするよなあ。
 犬どもと猫どもが入り乱れて喧嘩をしているかのようなすさまじさで雨が降るという意味だったのではないかとも思うのだが、これもなんとなくこじつけ臭い。これぞ決定版という語源をご存じの方がいらしたら、ぜひご教示を賜りたい。
 ほんとうに犬や猫が降ってきたら、なかなかのスプラッタになりそうだ。ビシャッ、グシャッと地面に叩きつけられた犬猫が血飛沫を散らし、あたり一面ぐしゃぐしゃの毛皮と肉塊だらけになる。象やサイが降ってきたら、それはそれは豪快な眺めだろう。もっとも、豹はときどき降ってくるよねって、ベタベタなネタやな。

【6月28日(月)】
「飲むとその場でアタリがわかる!!」ってプレゼント・キャンペーンをやっていたペットボトル(500ml)のペプシコーラだが、いつのまにか『ペプシマン サウンドビッグ ボトルキャップ プレゼント』のほうは終わってしまい、『スター・ウォーズ キャンペーン』に統一されていた。『スター・ウォーズ』に出てくるキャラクターのボトルキャップが当たるらしい。こちらはシールを剥がして切り取らないと当たりはずれがわからない。
 さて、いまはもう店頭に並んでいない「飲むとその場でアタリがわかる!!」ボトルの当たりはずれを“非破壊検査”する方法を発見したと6月13日の日記で書いたところ、何人かの方から「この手だろう?」と独創的な方法が寄せられた。お一人だけ、おれとまったく同じ方法を考えついた方がいらっしゃったが、そのほかの方々の中にも独自の方法で実験して成功なさっている方があったりして、いやはやこの日記の読者には、よくよくもの好き――いや、好奇心旺盛な人がいるものだと感心させられた。なにごとも正解はひとつではない。いろいろ面白い方法を教えてくださった方々、ありがとうございました。
 あの方式のプレゼント・キャンペーンが終わっちゃったからといって、やっぱりおれの見つけた方法は書かないでおこう。どこでまた似たような仕掛けのプレゼントがあって、知識を悪用されないともかぎらないからだ。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『リメイク』
(コニー・ウィリス、大森望訳、ハヤカワ文庫SF)

 九六年ローカス賞ノヴェラ部門受賞作品。今日届いたばかりでまだ読んでいないのだが、「デジタル化された俳優を使ったリメイクばかりが製作される近未来のハリウッド」って、カバーのアオリ文だけで食指が動く人がたくさんいるはずだ(近未来のハリウッドじゃなくたって、すでにそうじゃないかという声もあるような気がするが……)。当然映画の題名がうようよ出てくる作品なのだが、巻末に添野知生・大森望のお二方による、二段組三十ページ弱の「映画題名一覧」がついているのはおいしいサービスである。原題や製作年もきちんと入っている。小説を楽しんだあとは、参考書としても使えそう。映画ファンの方は、とくにSFファンでなくとも書店で手に取ってご覧になってはいかがか?

【6月27日(日)】
6月23日に世に問うた「吊り革は、なぜ吊り輪でなく、吊り革なのか」という哲学的問題に、さんから重要な手がかりが寄せられている。
 秀さんは、おれの問題提起を読んだその日に、『鳩の翼』という映画をご覧になった。一九一○年ころの英国を舞台にしたラブ・ロマンスだそうである。その映画の冒頭で、当時のものを再現したと思しき列車の車内が出てきたとおっっしゃるではないか――。おおお、もしや……。そう、そのシーンの吊り革は、『まさに「環になった皮紐(だろうと思うのですが)」だけ。「吊り革」と呼ばれてもしかたのない、なんとも情けない状態』だったということなのだ。吊り革は、最初はほんとうに“吊り革”だったらしい。日本の列車もそうであった可能性は非常に高いだろう。いやはや、ひとつ賢くなった。アホなことを漫然と考えるのも、そうそう無駄なことではないようだ。この話は、秀さんの「いわゆる日記」(99年6月25日)にも取り上げられているので、そちらもぜひご参照ください。
 それにしても、映画を作る人ってのはたいへんだ。こんなことまで調べ抜いておかねば、おかしな映像を作ってしまいかねない。一九一○年ころの英国が、今後『ウルトラマンガイア』(TBS系)の舞台になるようなことがあったら、列車の吊り革に“輪”がついているかどうか、眼を皿のようにしてチェックすることにしよう。ついていたら、もちろん“ガイア突っ込みアワー”のネタにする。
 きっとテレビの時代劇なんかは、むかしの風俗に詳しい人が見ると、おかしなところがいっぱいあるのだろうな。杉浦日向子みたいな人には、さぞや精神衛生に悪いにちがいない。いや、テレビの前で突っ込みを入れるのを楽しみにしているかな。風俗ならば、ちゃんと調べてさえいれば大道具小道具で手の打ちようもあるだろうけれども、自然環境はなかなか厄介なのではあるまいか。江戸時代の旅人が草っ原に寝転んだりするシーンなんかは要注意である。流れゆく雲にわが身の境遇を重ねているのか、空を仰いで草に寝転ぶ天涯孤独のヒーローの顔がアップになる――と、その横でヒメジョオンの花が揺れている、なんてことになりかねない。いまでこそ、あんなものはそこいらじゅうに生えている雑草だが、あれは明治の初期に日本に入ってきた外来種だ。え? そんなことを気にするやつはいないって? いやあ、そうでもないぞ。小野不由美『東亰異聞』(新潮社)では、このヒメジョオンが、明治時代のさりげない情景描写の中にテーマにも絡む形で使われていて、緻密さを緻密さだと感じさせないこの作家の怖るべき象徴操作技巧に舌を巻いたものだ。
 まあ、小説の場合は、なにもかも書かなくてよいことがかえってリアリティーを増したりもするけれども、映像はそうはいかないよねえ。うっかり、その場にあり得べからざるものが写っちゃったりする。嘉門達夫が唄うように、人跡未踏のジャングルに住む知られざる人々の「腕には時計の痕がある」とかね。

【6月26日(土)】
〈この文庫がすごい!〉'99年版(別冊宝島編集部編、宝島社)を拾い読み。「あの人がススメル文庫本3冊」中谷美紀『脱走と追跡のサンバ』(筒井康隆、角川文庫)を挙げているのがなかなか興味深い。この人はけっこう“濃い”んだよな。推薦の理由も頷ける。なるほど、現代の日本で女優という“虚業”に就いていれば、この作品に切実なリアルさを感じられることだろう。どんな事件の現場中継であろうがレポーターのうしろに現われてVサインをやってるアホガキどもには、中谷美紀の言っていることはわかるまい。
▼さて、『ウルトラマンガイア』(TBS系)だよね。99年4月24日の“ガイア突っ込みアワー”で話題にした子供番組に於ける鬼門“外国人の会話”が、今回はやけにスマートに処理されていた。まさか、関係者がこの日記読んでるんじゃないだろうね。そうそう、二言三言で状況から子供にも推測ができそうな会話なら、字幕も吹替えもなしに、ナマでやっちゃったほうが自然だよ。
 99年1月30日の日記で、天才物理学者の我夢「どんなドイツ語日常会話入門書にも載っているような基本的な単語を知らない」のだろうかと重箱の隅をつついたものだけど、今回のエピソードで初歩的な会話はできるらしいことが判明した。ドイツに飛んだ我夢が、地元のおばさんに道を尋ねる。Wo ist der Schloss?(お城はどこですか?) おばさん答えていわく、Gehen Sie nur denn bergauf.(坂を上って行けばいいわ) 我夢は礼を言い、そのとおり坂を上っていった。おお、ドイツ語がわかるくせに、カナダではあんな簡単な英語がわからなかったのか、我夢。だけど我夢、おせっかいかもしれないが、das Schloss が正しいのではあるまいか? まあ、おれだってドイツ語は苦手だ。カフカの名作のタイトルだから、たまたま名詞の性も憶えているだけである。今回の話の(錠前の意の)“カギ”das Schloss)が“城”にあるという深い意味もあるのだと思うぞ(ってのは、ちょっと読みすぎだよな)。
 しかし、これは突っ込みでもなんでもなく、我夢にわざと名詞の性をまちがわせているのだとおれは思うのである。だって、我夢が道を尋ねるおばちゃん役と、あとで出てくるパン屋役の人はどう見ても(というか、聴いても)ドイツ人なので、台詞がおかしければ指摘してくれるはずだからだ。我夢のドイツ語がカタコトであることを示すための意図的なものだろう。というのは、そのあとのキャサリンのドイツ語もヘンだったからだ。Vier Broetchen, bitten.などと言っている。bitte でしょう、ふつー。じつを言うと、最初聴いたとき Broetchen (プチパン)がわからず、ビデオを何度か聴き直して、文脈からなんとか見当がついたのだった。キャサリンには、ここでは無理やり oe で表記したオー・ウムラウトがうまく出せず、ふたつの母音に分離してしまっているうえ、-chen の硬口蓋破擦音が全然出ていない。彼女は英語が母国語だろうから、いかにもありそうな訛りかたである。いったい、なにを四つ注文したのだろう? まさか海老ではあるまいな。パン屋の店員には「ふたつで十分っすよ」とぜひ言ってほしかったなと、どんどんちがう世界に入っていってしまった。
 でも、こんな会話が子供にわかろうがわかるまいが、ちっともかまわないのだ。「やあ、ドイツではなんだかああいう言葉を喋るらしい。ガイジンが喋るのは“えいご”だけじゃないのか」と子供が思えば、それでいいじゃないか。
 余談だが、上記 das Schloss みたいな、短母音の直後のエスツェット(“β”みたいなやつね)を ss とする新正書法は、英語偏重のインターネット向きではあるかもしれないけど、ドイツ語でないみたいで気色が悪い。bergauf はどうなるのだろう? Berg auf とでも書かねばならないのだっけ? 副詞はいいのかな? あんまり勉強してないのでよくわからん。ただでさえカタコトの言語なのに、途中でこういうことをされると、ややこしくてかなわない。もっとも、いまさらドイツ語を勉強し直したところで、おれにはどうしてもドイツ語で読まねばならん文献があるわけでもなし、時間を捻出する労苦に見合うとは思われない。なに? ペリー・ローダンがあるだろうって? い、いや、それはちょっと、ますます時間がなくなりそうだから遠慮したい。
 で、ウルトラマンガイアだ。ライトセーバー(?)でのチャンバラやら怪傑ゾロやらで遊んでいるなあと思ったら、なんとトドメの一撃は『あしたのジョー』かよ。いやあ、笑った笑った。アグルばっかりじゃなく、ガイアも遊ぶのね。あと、橋本愛「ちょー激ムカ!」はよかった。橋本愛、プラス5点。

【6月25日(金)】
▼梅雨らしく雨が降っている。金を下ろそうと銀行に立ち寄り、預金通帳を取り出すと、なんと、いつのまにか右手が血にまみれている。な、なんじゃ、こりゃあ――と松田優作ごっこをしている場合ではない。ATMの前で血に濡れた手で金を下ろそうとしているおれの姿は、当然ビデオに録画されているはずだ。なにやらとてつもない悪事を働いているかのような気になり、機械に血が着かぬようハンカチで拭いながら、あわてて金を下ろし銀行を出た。あとで怪しまれたりしなければよいのだが……。
 手を見ると、鋭利な刃物によるかのような切り傷が中指にできていた。あっ。折り畳み傘を畳むときに、傘の骨で切ったにちがいない。あぶねーなー。これがそれなりに上等の傘であれば骨が塗料でコーティングされているもので、手を切るようなエッジが剥き出しになっていることはないのだが、生憎おれのは安物である。いつどこで置き忘れないともかぎらない折り畳み傘などに金をかける趣味はおれにはない。趣味以前に、そもそも金がない。とはいえ、やはり安かろう悪かろうだ。肉を切らせて骨を断つとはよく言うが、骨に肉を切られるとは珍しい体験をしたものである。
『カエルの不思議発見 「四六のガマ」の科学』(松井孝爾、講談社ブルーバックス)が本屋で目に留まり、一も二もなく買う。カエル本はいろいろあれど、この著者にはとくに思い入れがあるのだ。もう二十三年前の本になるが、松井氏の『カエルの世界』(平凡社カラー新書43)で、おれはカエラーとして開眼した。この本、百五十ページ弱のうち半分近くがカエルのカラー写真という値段のわりに豪華な内容で、本文もたいへん面白い。
 おれの子供のころは、カエルなんぞ家の近所にうようよいて、ちょっと十匹ばかり捕まえてきて遊ぼうと思えば、さほどの苦労もなく集まってしまったものだ。ときには子供らしく残酷な遊びもしたが、ああいう遊びはどうも後味が悪いもので、基本的には一日の遊び相手にして逃がしてやっていた。家で飼おうにも、まず家族が激しく厭がるし、考えてみれば、カエルと遊びたいときにはそこいらですぐ手に入るのだから、なにも飼う必要はなかったのだった。
 その、あまりにありふれた存在だったカエルが、じつに面白い生きものであることを教えてくれたのが、『カエルの世界』だったのだ。世界の珍しいカエルの写真がふんだんに使われているのもさることながら、みごとなカラーイラストには驚かされた。イラストレータが描いているのではなく、松井氏ご本人の手になるものなのである。絵の腕前もすごいのだ。むろん第一義的には、科学者としての観察眼を感じさせるニュートラルなイラストなのだが、それでいて、おれの見たこともないカエルの“質感”が伝わってくる。根幹にある科学性からおのずと滲み出る藝術性を感じるのだ。岩崎賀都彰のスペースアートにも通じるものがある。現在、日本両棲爬虫類研究所研究部長でいらっしゃるが、カエラーたる者、カエルアーティストとしての松井孝爾も要注目である。
 『カエルの不思議発見』にはカラーページこそないが、松井氏のすばらしいイラストが随所に入っている。「はじめに」に「本書の刊行は著者の両眼の外傷性障害によって大幅に遅れ」だとか「隻眼ながらどうにか字がかけるようになり」だとか書いてあって、たいへん驚いた。眼を怪我なさっていたとは……。ご不自由ではあろうが、カエルの先生、カエルの画家として、松井氏にはまだまだ健筆を揮っていただきたいものだ。

【6月24日(木)】
▼誰が言い出したのだか知らないが(おれの知るかぎりでは大森望さんのはずだ)、《異形コレクション》シリーズ(井上雅彦監修、廣済堂文庫)に書いている作家たちを、世に“異形作家”と呼ぶようになってきている。精神的な異形の者でなくては作家などやっているはずがなく、たしかに言い得て妙ではあるのだが、それにしてもすごい表現である。“異形作家”という言葉を聞くたびに、おれの脳裡には『エル・トポ』(監督/アレハンドロ・ホドロフスキー)のフリークたちが町へ押しかけてゆくシーンが浮かんでしまうのだ。精神的な異形や畸型が透けて見える眼鏡などというものがあり、そいつをかけて《異形コレクション》作家たちのパーティーにでも出かけていったら、さぞや壮観であろうな。
 もっとも、そんな眼鏡があったら、少しでも異形に見えない人間はおらんだろう。ただ、“陳腐な異形”ってものはたしかにある。いかにもありふれた屈折のしかたをしている月並みな異形、年は二八か二九からぬと言わず語らず物思いのあいだに寝転んでいる異形、此日や天気晴朗とくると必ず一瓢を携えて墨堤に遊ぶ異形で、これはじつにつまらない。なんの才能もないやつにかぎって、奇天烈な風体をしてみたり、いかにも奇妙に見えるあざとい言動を取ったりしているケースはままあるよね。十代のころは、多かれ少なかれみんなそうだろう。少なくともおれの知っている作家やマンガ家たちは、みな自然体の異形である。そりゃ、見るからに自由業だとはわかる人はいるけど、単に服装やら髪型やらからそう思うにすぎない。その世界で一国一城を構えている人たちというのは、才能なんぞあってあたりまえなのだから、ことさら言動に奇を衒う必要などないのだろう。というか、自分がじつはどうしようもなく呪われて異形であることが身に沁みているから、ふつうにしていられる領域では極力ふつうでいたいと渇望するものなのかもしれない。トマス・マンじゃないが、一歩舞台を降りると何者でもなくなる素顔の俳優のように生きている藝術家に、おれはとてつもなく不気味なものを感じる。

【6月23日(水)】
▼バスに乗っていて考えた。智に働けば……ってのは、お約束の軽いジャブね。“吊り革”なるものがありますわな。あれがなぜ吊り革なのか、おれは子供のころから不思議に思っているのである。だって、あれは“革”“吊っている”のではない。“革”が“輪”を吊っているのではないか。どう見ても“輪”のほうが主役なのに、あれは頑に“吊り革”と呼ばれ、人々が輪に言及する気配はない。輪にしてみれば理不尽なことだ。しかし、あれを“吊り輪”と呼ぶわけにはいかないのだ。バスの中で体操をはじめなくてはならなくなる。われわれは輪の存在を強く意識しながらも、しかたがないので準主役であるところの革を無理やり昇格させてアレを呼んでいるのかもしれぬ。人はあのモノの名を呼ぶたび、輪にすまなく思いながらも、“かわ”の中に“わ”が入っているからいいじゃないかと、心の中でそれとなく弁解しているのではあるまいか。
 待てよ。そもそも、吊り革の“吊り”とは、なにがなにを“吊っている”のであろう? 革が輪や人間を吊っているとも取れるし、革が鉄棒から吊られている状態を指して“吊り”と言っているとも解釈できる。だが、後者だとすると“吊られ革”とでも呼ぶのが正しいのかもしれぬ。
 こういう混沌とした状況であるから、最初のころはアレをどう呼んだらいいのかわからない人もいたのではなかろうか。ある日、初めてアレの話をしようとした人がなんと呼んだものか一瞬言葉に詰まり、「吊り輪か?」と自信なげに言ったところが、語り継がれているうちに訛って“吊り革”になったなどということはないだろうか。
 あるいは、もしかすると、むかしはほんとうに革だけが吊られていて、輪はなかったということも考えられる。それでは持ちにくいので、あとから輪をつけたのかもしれぬ。きっとそうだ。たぶん、持つところに輪をつける画期的アイディアを最初に取り入れたのは、京都の市バスであったろうとおれは推理する。なぜかって? むかしからよう言いまんがな。輪を持って京都市と成す、て。なんか、今日のはよその日記みたいだぞ。

【6月22日(火)】
▼目が霞むというので眼科へ行ってきた母が、白内障だと言われて帰ってきた。まあ、齢だからいたしかたあるまい。余命半年などという大病でもなく、おれが白内障になったらどっちの商売にも困るが、母はまったくといっていいほど文字を読まないから実害はない。水晶体が濁っておったら本人にしてみりゃ鬱陶しいだろうが、テレビを観たりするにはまだまだ困らないようだ。眼科で撮ってもらったという水晶体の写真を見ると、なるほど素人にもわかるくらいもののみごとに三分の一ほどが白濁している。霞むと言い出したのは最近のことだが、興味深いことに、「ここ何か月かのうちに視力がぐんぐん上がって、目医者が驚いている」などとおれに自慢しておったのだった。なーるほど、これは素人にも想像がつくな。水晶体に白濁した部分ができてきたために、ちょうどピンホールかスリットを通してものを見るのと同じような現象が母の眼球の中で起こっていたのだろう。ほら、近視の方はコツをご存じでしょう。人差し指を丸めて小さな穴を作り、そこから向こうを覗くとものがはっきり見える。詳しい原理は知らないが、回折や屈折で焦点距離が変わるのと、水晶体の全部を使わないで見るために歪みが出にくいためだろう。テレホンカードのパンチ穴から覗く流派(?)もあるようだ。ピントは裸眼よりも合うのだが、光量が少ないから、もちろん網膜に写る像は暗くなる。おそらく母には、目が“よくなった”のと引き換えに、世界が暗く見えているはずだ。これはあくまでおれの理科的推理にすぎないけれども、当たっているとすれば、六十を超えた婆さんが「急に目がよくなった」と喜んでいた時点で、眼科医なら水晶体の疾患を疑ってもよさそうなものだ。あるいは、こういう症例は珍しいのだろうか?
 老齢による白内障は避けがたいものだろうから、べつにそうと聞いても驚きはしないが、白濁の進行状況によっては将来の外科的措置も考えておかねばなるまいなと思い、ひさびさに吉行淳之介『人工水晶体』(講談社文庫)などを引っぱり出して、表題作の「人工水晶体――移植手術体験記――」だけ読み返してみる。読んでいるうちに、白内障のことなどどうでもよくなってしまう。なんという文章だろう。すばらしい。怖ろしい。吉行淳之介の文章がうまいのはポストが赤いようなものだとはいえ、このエッセイは、小説でないからこそ余計に吉行の至藝が光るのである。人が聞いたら笑うだろうが、おれは吉行淳之介の文章を、およそ到達し得ないと知りながら、心のお手本にしている。おれが三百年生きたって、こんな文章は書けまい。それでも一歩でも近づきたい、究極の憧れなのだ。ああ、どうしてこの文章でSFを書いてくれなかったんだろうね、まったく。『人工水晶体』などを読んでいると、SFでも十二分に持ち味を発揮する文体だと思うのにな。
 あれ、白内障の話はどうなったんだっけ? まあいいや。たまにこういうものを読み返すと、脳を水洗いしたかのようで、とても気持ちがいい。

【6月21日(月)】
▼いてててて。首が回らん。首と右肩が繋がっているあたりの筋肉がこわばって、首を回すと痛い。少なくとも、おれが把握しているかぎりに於いては水子の霊に憑かれる覚えはない。貧乏ではあるが、それほど多額の借金もない。しかたがないので、低周波治療器でほぐす。こいつは気持ちいいにはいいが、いつ使ってもそこはかとなくヘンテコな気分になる。自分の身体の一部が不随意に動くというのが、面白いやら気味が悪いやらで、ついついハマってしまうのである。おれとて男性であるから、自分の身体の一部が不随意に動く(というか、巨大化する……というか、見栄を張るな、膨張する)のには慣れているとはいえ、やっぱり人間の身体は機械なんだなあと感動する。
 おれがおれだと意識しているおれ自身の意識すら、ただ複雑なだけで早い話が電気パルスのパターンなわけで、そう考えるとなおさら感動する。“おれ”が“霊魂”やらなにやらわけのわからん超自然的なものであってみろ、そんなものちっともありがたみがない。ここにこうして存在して、くだらんことをあれこれ考えている“おれ”が、海やら風やら星やらといささかも変わらないものでできている(おれを構成している鉄などの金属元素は、かつてどこかの恒星の内部でできたものだ)とは、なんと感動的なことであるか。超自然現象、糞食らえである。超自然現象とか呼ばれているものは、人間に都合のいい現象ばっかりだ。要するに、「こうだったらいいな」と考えた人間が作ったものだと考えるのが妥当な推論というものであろう。超自然現象なんぞにかまけている暇があったら、自然現象に目をやったほうが、よほど驚きに満ちていて感動的である。現代人はブラックボックスになってしまった科学技術に取り囲まれすぎて、そういう素朴な感動を忘れているのではないか? 科学者にも理科の先生にもSF作家にもがんばってもらいたいところだ。磁石に釘がくっつくだけのことにも目を見張っていた心を、いつの時代の子供たちも持っているはずなのだ。
「月とナイフの方法論」というサイトで行われている「第一回 輝け!日本変格書評コンテスト」なるものの特別審査員になってしまった。“変格書評”とはなんぞや? まあ、実物をご覧いただくのがいちばんわかりやすいから、まず当該サイトを見てきてほしいのだが、早い話が「世間一般の感覚では書評に向いていないとされている文書、たとえば取り扱い説明書や就職資料などに対してなされた書評」を言う。「龍角散ののど飴」の説明書やら「日めくりカレンダー」やら「離婚届記載例」やらに対して大真面目で書評を行うという、人をバカにした――いや、愉快な試みである。こういうのは大好きなんだよなあ。まともな書評もろくろくやってないくせに変格書評の審査員をやっている場合か、と、いささか忸怩たるものもあったが、エントリー作品はそれほど多くないし、なにより悪ノリ好きの血が騒いで引き受けてしまった。だいたい、この日記自体、変格書評みたいなものだ。審査員どころか、おれが応募したいくらいの企画である。審査員くらいなら、やろうやろう!
 しかし、おれは曲がりなりにもこのペンネームで仕事をしているセミセミプロである。ここでこういうことしてるのが編集者や同業者にばれたら失笑を買うのではあるまいか――などと一瞬でも心配したおれがバカだった。依頼を受けて二、三日してから返事してみると、なんてこった、小林泰三さんやら近藤史恵さんやら我孫子武丸さんやら東雅夫さんやら福井健太さんやら河内実加さんやら、錚々たる面々が特別審査員になっておられるではないか。おれがいちばん知名度が低い。ちょっとでも遠慮して損したわい。それにしても、みなさん、こういうの好っきゃなー、ほんまに。なんだか DASACON みたいなノリですね。
 誰でも投票できる「読者賞」の投票は6月30日まで受付けているそうなので、この奇妙なコンテストを楽しみたい方は、ぜひ投票してみては? なかなかの力作が揃ってますよ。


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