間歇日記

世界Aの始末書


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99年7月上旬

【7月10日(土)】
▼今日は“納豆の日”なのだそうだ。理由はあえて考えないことにする。ええ、考えませんとも。
▼複雑に入り組んだ『ウルトラマンガイア』(TBS系)に鋭いメスを入れ、さまざまな謎や疑問を徹底的に究明する“ガイア突っ込みアワー”がやってまいりました。私がガイア突っ込み局長の冬樹蛉です。岡部まりみたいな秘書は欲しいけどいません。
 まず、今回なによりも驚いたのは、強い電荷を作り出すだけでワームホールが発生するばかりか、四十四光年彼方の惑星と地球とをワームホールで繋ぐことができるという、アルケミースターズのわけのわからない理論である。下手に実在のタームを使って奇天烈な説明をするくらいなら、とにかく天才集団が超技術を開発したことにしておくほうがまだましだ。
 ウルトラマンが変身前のキャラクターの声で心内発声するのは、過去のウルトラマンにもあったし、まあ許せる。だが、「ガイア、変身だ!」などとアグルがぬけぬけと喋ってはいかん。ウルトラマンは喋らないからいいのである。仮面ライダーやなんかと一線を画するところだ。
 当初はずいぶん大根だと思っていたチーム・クロウ稲城リーダー(川嶋朋子)が、だんだんうまくなってきた。子供番組の呼吸には独特の慣れが必要なのかもしれず、大人向けのドラマではうまい人なのかもしれない。おれはほかの作品で見た憶えがないんだが、きっとどこかで見てはいるんだろうな。
 先週の絶滅動物の話が、宇宙怪獣に対する人類の対応と無理なく繋がっているのは評価できる。いきあたりばったりで話を作っているわけではないのが見て取れるのは好ましい。脚本家によってカラーは変わっても、屋台骨はきちんと通そうとしているのだ。千葉参謀は、子供に夢を持って空を見上げてほしいとあいかわらず主張している。ちょっとくどいような気もしないではないが、子供番組と新聞連載小説には、これくらいのしつこさがあってもよろしかろう。微妙なバランスだよねえ。たとえば『ウルトラマンガイア』全話をぶっ通しで観たとすると、こういうところはくどく思えるにちがいない。毎週、細切れに観るからいいのである。

【7月9日(金)】
〈SFオンライン〉坂口哲也プロデューサーが仕事で京都に来るというので、夜に南座の前で待ち合わせて焼き鳥屋で歓談する。なんとなく坂口さんとはしょっちゅう話をしているような気もするのだが、物理的に肉体を同じ場所に運ぶことは非常に少なく、年に一、二度なのだ。先ごろ誕生したばかりの娘さんの写真を見せてもらう。めるへんめーかー先生直筆の龍が描かれた扇(扇子・オヴ・ワンダーというのだそうだが)の傍らで、私はどうやらとても“濃い”両親のあいだに生まれてきたらしいと早くも腹をくくっている風情の赤ちゃんであった。二十年後が楽しみである。
 やがて、焼き鳥屋に京都在住の柴田よしきさんがやってきた。坂口さんは京都に着いたら柴田さんのお宅に寄ってゲラを手渡す予定だったのだが、時間が取れなかったために焼き鳥屋で仕事ということになったのである。おれは柴田さんとは初対面。じつに気さくな方だ。たちまちSF話やらネットの掲示板話やら、その他諸々のここにはとても書けない話やらで盛り上がる。柴田さんはずいぶんとネット歴の長い方で、八十年代の半ばからすでにワープロ専用機でパソコン通信に手を染めていらしたそうだ。坂口さんやおれが知っているようなネット話は説明不要でびしばし通じるばかりか、あれやこれやの事件のおれたちの知らないような経緯までよくご存じなのである。ネット話はともかくとして、こんなにSFの話がすいすい通じる方だとは思っていなかったので嬉しくなってしまい、閉店の午前二時ころまで三人でのべつ幕なしに喋り続けた。
 焼き鳥屋を出て柴田さんと別れ、今度はソニー・コミュニケーション・ネットワークのプランナー、飯田克比呂さんが合流。「いま、東宝行楽の前にいるんですが……」「ああ、だったら、われわれは角の向こう百メートルほどのところにいますんで、いま歩いて行きます」などと携帯電話でお互いを捜しながら、深夜の河原町で無事ランデヴー。ほんの数年前なら、こういういいかげんな待ち合わせかたはできなかったはずだ。まったくもって人間が科学技術の恩恵に慣れてしまうのは早いものである。
 しばし三人で夜の京都をぶらついて、なぜかしょっちゅう行ってるような気がするカラオケ・ボックス〈満天星〉に入る。結局、五時ころまで唄いまくってしまう。飯田さんが新居昭乃などリクエストするものだから、訊いてみるととても濃いbiosphere recordsな人”だと発覚。zabadak のライヴには、一度を除いて(どれだったか聞いたのだが忘れてしまった)すべて行っていると聞きびっくり。おれも京橋のIMPホールと新大阪のメルパルクホールの二回(近場ばかりだ)は行っている。〈SFオンライン〉やソニー・コミュニケーション・ネットワークが影も形もないころ、おれはすでに飯田さんと同じ場所に居合わせて上野洋子の歌声に耳を傾けていたのだ。なんとも世界は狭い。坂口さんも zabadak はご存じで、そんなこんなで「二月の丘」「遠い音楽」を立て続けに入れ、飯田さんのリードで息も絶えだえに唄う。「二月の丘」のイントロ中、「これは、めるへんめーかーの世界ですよ」とおれ。「うむむ、わしもそう思う」と苦笑する坂口さんであったが、「二月の丘」を聴きながら「なんか(奥さんに)会いたくなってきた」などと惚気ている。それにしても、どうしてSFファンにはこんなに zabadak ファンが多いかね? まあ、おれは上野洋子がソロになってからは、あんまり熱心じゃないんだけども。
 大発見。「スーパースリー」は、野郎三人で一緒に唄うととても楽しい。若い人は知らないだろうから、この“野郎三人”は当然三十代も半ば以上のおっさんばかりということになる。「ラリホーーー、ラリホーー、ラリホー!」とハモって(?)いるうちに朝が来て解散。長浜ラーメン食って京阪の駅で別れる。楽しかった、楽しかった。

【7月8日(木)】
光瀬龍氏の訃報を聞く。月並みな言いかただが、またひとつ、巨星が墜ちたという感じだ。おれが光瀬龍なる作家を知ったのは、小学生のころ京都新聞夕刊の子供欄に掲載されていたSF掌篇を通じてだった(98年1月30日の日記参照)。そのころはあまりSFをSFとして意識していなかったため、すぐに長篇に跳びつくということもなく、学習雑誌などに頻繁に登場なさる“なんだかかっこいい話を書く作家”くらいにしか思っていなかった。のちに、あの萩尾望都によるマンガ版『百億の昼と千億の夜』のインパクトで小説版を読む気になり、そのあまりのスケールのでかさと抽象的な思弁、否、思惟がそのままエンタテインメントになっているすごさ(それこそがSFの王道なのかもしれない)に驚愕したのであった。おれは小説に関しては、ずいぶんと晩稲だったのだ。
 光瀬SFを東洋的だと言ってしまうと、これまた月並みで無難な感想になってしまう。光瀬龍の場合、西洋で生まれたSFを日本風、あるいは、東洋風に消化したというよりも、たとえば大原まり子がサイバーパンクを日本で独自に並行発生させたのと同じように、“日本製”ではなく“日本原産”のSFを西欧の伝統とは個別に作り出していたような気がしてならない。
 おれはいま、無性に『百億の昼と千億の夜』を読み返してみたくなっている。例によっておれは、人の“冥福”を祈ったりはしないが、日本人として、SFファンとして、光瀬龍が遺した作品群とこれからも折にふれ対峙してゆくことだろう。なーんにも考えずコカ・コーラのようにスカッとさわやかに読めるだけが取り柄の“消費されるための小説”“消耗品としての小説”の傍らで、光瀬作品は常に「おまえら、なにか忘れてないか?」と不気味に聳え続けるにちがいない。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『parasite eve DIVA [N.Y.死の歌姫]第2巻』
藤貴紀子、あすかコミックス、角川書店)

 この“ご恵贈御礼日記版”をプレスリリースの意を込めてはじめたのは今年になってからで(99年3月5日の日記参照)、じつは第1巻も昨年ご恵贈いただいている。改めて御礼申し上げます。
 『パラサイト・イヴ』(瀬名秀明、角川ホラー文庫)を原作にしたRPG(スクウェア)のコミック版である。おれはゲームのほうはプレイしていないので、『パラサイト・イヴ』の孫みたいなものだと思って楽しんだ。惜しいことに、当初は三巻の予定だったものが二巻に縮まってしまったそうで、第2巻は相当端折った憾みが残る。雑誌連載のマンガには、いろいろと厳しい諸般の事情があるのだろう。第1巻で広げまくった風呂敷を、不本意とはいえ、よくぞ一冊でなんとか畳めたものだ。やたら話がスピーディーに進むという怪我の功名はあるものの、おれとしてはやはり残念である。端折られた部分にこそ、伏線としてのSF的ディテールが描かれるはずだったのだろうと容易に想像できるからだ。結末は、ある程度予想に近いものだった。リチャード・ドーキンスを一度でも読んだことがある人なら、『パラサイト・イヴ』の播いた種を“こちらの方向”へ育てる選択肢もアリだと気がつくはずだ。
 ちなみに、コミック版には、こちらの“ディーヴァ”のほかにも、原作をかなり忠実にマンガ化した『パラサイト・イヴ』(しかくの、原作:瀬名秀明、角川書店)もある。変わったペンネームだが、絵は色気があってなかなかいい。
HP200LXが製造中止になるというニュースが入ってくる。なんてことだ。おれの持っているのは二台めなんだが、これほどの名機にもついに来るべきときがやってきたか。一台めの2MB・RAM機のほうは、あちこちガタガタになっているが、まだ一応コンピュータとしては動作する。四年弱は使い倒したろうか。もしものときのための代替機として待機中である。いま使っている4MB・RAM機も、あと数年は酷使する予定だ。しかし、形あるものはいつかは壊れる。いずれは、ほかのPDAに乗り換えねばなるまい。どうもおれは、スタイラスでペタペタ画面を叩いて操作するようなやつが苦手なのである。プチプチとキーボードを叩くほうが使いやすい。
 まだまだMS−DOSで十二分に快適なことも多いのだがなあ……。いまの愛機を大事にすることにしよう。それにしても、世界中にHP200LXファンは星の数ほどいるはずだ。いまに暴動が起こったりするんじゃないかと心配である。使い手にとっては、ほとんど“副脳”PAB((C)『帝王の殻』神林長平)みたいになってしまうのが、このマシンの怖ろしいところだからだ。

【7月7日(水)】
▼先週の金曜日にやたらくしゃみが出るので不思議に思っていたら、大森望さんや関西SF作家“マンガカルテット”といった凶悪な人々が、SF大会の宿で「冬樹蛉と小林泰三ではどちらがより邪悪であるか」【狂乱西葛西日記291◆佐竹雅昭とM:TG対決から白馬まで編:6/26〜7/2】7月2日付)などという話をしていたらしい。そりゃあ、簡単なことだ。冬樹蛉のほうが邪悪である。小林泰三は悪魔なので、ことさら邪悪などと呼ぶ必要もない。冬樹蛉などは、文章にも人物にも邪悪さがおのずから滲み出ていて、まだまだ極道としての修行が足りぬように思われる。ヤクザでもそうだが、それとわかるようでは三下なのだ。冬樹蛉がテレビ版『悪魔くん』のメフィストフェレスだとすれば、小林泰三は映画『エンゼル・ハート』のメフィストフェレスと言えよう。喋りさえしなければ二枚目で通る外見も、彼の悪魔ぶりをいっそう引き立てている。苦みばしった表情で鋭い視線を横に投げている著者近影には、胸をときめかせる女性ファンも多いことだろう。はっきり言って、あれは詐欺ではないかと思う。あの顔でどんなギャグを連発するかを目のあたりにしたら、少女ファンは「うそっ、うそよっ!」と泣きながら走り去るにちがいない。罪な人物である。おれも、あのようなさりげない悪魔になりたいものだ。

【7月6日(火)】
“ヘンな条件反射”シリーズ。『君が代』を聴くと、テレビのリモコンを捜してしまう。 風にはためく“日の丸”の旗を見上げていると、ついつい視線がポールの下のほうに降りてゆき、チキンライスを捜してしまう。
7月2日の日記で、〈ひらかたパーク〉のことを「みずから真面目に“ひらパー”と呼んでいる人にはあまりお目にかかることがない」と書いたのだが、例外があったらしい。枚方市マヘルさんによれば、「地元ではもう普通の固有名詞になって」いるのだそうだ。さすがに“マクド”“ケンタ”ほど人口に膾炙しているわけではないとのこと。「なんだそれ? そんなもの人口に膾炙していないぞ」という方は関西圏外にお住いなのだと思う。“マクド”というのは、“マクドナルド”の関西風の略称で、若いやつはみんな言っている。東京人は“マック”と呼んでいるようだ。律義に辞書を引けば Mac・Don・ald と、分かち書きをするときの切れ目が示してあるはずだが、関西人はそのようなガイジンの言語の決めごとなどは意に介さない。標準的な関西弁では、語末の母音が無声化するようなことはあまりないのだ。東京弁では「です」[des] などと、語末の[u]を落として発音することが多いが、関西弁は[u]をきちんと発音するばかりか、ご丁寧にも伸ばしたりもする。これが、東京弁が歯切れよく、関西弁が粘り着くように聞こえる最大の原因である。東京人が“マック”と言うとき、日本語であるにもかかわらず語末の“ク”は無声化している。関西人はこれを「言いにくい」と感じるのだろう。よって、“マ・ク・ド”と三音節で発音する略称を無意識に採用しているのにちがいない。東京人は“マック”を、一音節、あるいは二音節で発音する。慌ただしい。雅やかでない。“マクド”といった略称の作りかたの西限・東限はどこになるのか、おれは詳しくは知らないが、少なくとも富山県は関西風であるらしい。sci・ence fic・tion を基にした梅原克文氏の造語“サイフィクト”は、“マクド”とまったく同じ感覚で造られた言葉である。これは、関西弁を母語とする人々には親しみやすいはずだ。東京人なら“サイフィック”にすることだろう。ちなみに、“ケンタ”は、言わずと知れた“ケンタッキー・フライドチキン”のことであって、著名なミステリ評論家とはなんの関係もない。
 おっと“ひらパー”の話だよな。いまでは地元では定着しているらしいが、マヘルさんにしてからが、やっぱり「当初は口にするのも気恥ずかしい感じでありました」と漏らしていらっしゃる。そうでしょう、そうでしょう。おれも、テレビのCM口調で「ひっら、パー!」とおどけるのなら恥ずかしくないのだが、すました顔で“ひらパー”などと、とても口にできるものではない。地元では、いつしかその一線を超えてしまったのだろうな。〈ひらかたパーク〉への道がわからず煙草屋のお婆ちゃんに訊いたりすると、「ああ、ひらパーなら、そこをまっすぐ行って……」と教えてくれるのだろうか。不気味な光景だ。
▼同じく2日の日記でご紹介した、大阪が誇る最強の脱力広告(?)京阪モール〈モール・ザ・バーゲン〉のコピーに、いよいよ新作が登場している。今回の作品は「燃える・ゼ・バーゲン」 もえる・ぜ・ばーげん……もぇる・ぜ・ばーげん、もぉる・ざ・ばーげん、もーる・ざ・ばーげん、モール・ザ・バーゲン! ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい――と電車の吊り広告を見ながら叫んでいる人を一日に四、五人は見かける。それにしても……もう少し、ヒネリなさい、ヒネリなさい。
▼ローカルな話題が続く。京阪電車淀屋橋駅真上にあるショッピング・ゾーン〈NEX・T1〉(ネクスト・ワン)2階の「いけだ書店」にびっくり。『玩具修理者』『人獣細工』『肉食屋敷』『密室・殺人』(いずれも角川書店)のハードカバーが表紙を客側に向けて四作横に並べて立ててあり、大々的に別格扱いしてある。いや、そりゃ、小林泰三作品は面白いが、失礼ながら、こんなに売る気になっている本屋はここいらで初めて見た。つい三か月ほど前、「『人獣細工』のハードカバーは、もう手に入りにくくなっている」と、小林さんご本人から聞いたばかりである。それが目の前に並んでいる。しかも、

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 などと、手書きの札まで棚に貼りつけてある。はて、この本屋の店員は、小林さんのファンなのであろうか。それとも、京都府在住の作家と知っての狼藉か。
 というわけで、『人獣細工』のハードカバーが欲しい人は、いま行けばまだ残ってるかもよ。それから、小林さんは淀屋橋に足を向けて寝ないようにしましょう。

【7月5日(月)】
▼なんのCMだかよく見ていないのだが(乳酸菌飲料かなにかだったと思う)、最近テレビから突然ハイドン『時計』が流れてくる。この曲がおれに入力されると、6月15日に書いた“ヘンな条件反射”がたちまち発動される。「おっと『百万人の英語』がはじまるぞ」と思ってしまうのであった。まだやってるのかね、あの番組は?
 そういえば、6月15日の日記では“ヘンな条件反射”の一例として、サザエさんの絵を見ると「明日を作る技術の東芝」というフレーズが浮かぶってのを挙げたが、近ごろ“東芝”という文字を見ると、思わず“RealPlayer”とつぶやきそうになる。えっ、なんのことかわかりませんか? いまネットのあちこちで、いや、紙媒体の雑誌でも話題騒然の「東芝のアフターサービスについて」ってサイトをご存じない方は、まあ、とにかくご覧になってください。
 おれはこのサイトを立ち上げている方をまったく知らないし、そこに書かれている文章や公開されている音声から事情を推察するのみであって、この方の味方でも東芝の味方でもない。だが、個人がこれだけの情報を世界に向けて公開し、なんの関係もないおれがそれを読んで(聴いて)東芝に対して十二分に悪印象を抱くというのに、当の東芝はこの件に関してウェブでなんの情報も発信していないのには、大きな驚きを覚える。東芝は「法的措置を執ります」などと言っているそうだが、仮にそれで法的に“勝った”とて、このままでは事実上完全に東芝の“負け”である。少なくとも、おれは気色が悪いし、気色の悪い会社の製品はできるだけ避けたいと思ってしまうにちがいない。おれの携帯電話は東芝製だけれども、次のアップグレードの際には、ほかのメーカのにするだろう。こういう事態は、企業にとってどえらいことだと思うのだが、東芝はどうやらそう思っていないらしい。ウェブを見ている大勢の人(件のサイトは、開設わずか一か月でカウンタが百万を超えているのだ)は、争っている二者の一方からしか情報が与えられないことに苛立ちを感じているのではなかろうか。東芝は、このユーザの主張が正当なものであろうがなかろうが、なんらかの情報を同じ土俵のウェブでおれたちに提供すべきだろう。というか、「おいおい、提供しなくてほんとに大丈夫か?」と、おせっかいながら心配になってしまうよ。コンピュータやらなにやらたくさん作って売ってるくせに、媒体としてのインターネットがな〜んにもわかってないんじゃないかと思うね。もし、件のサイトの主のような目に会ったと主張する人々が「おれも」「いや、じつはあたしも」「そうか、ぼくだけじゃなかったのか」とあちこちで同じようなサイトを立ち上げ、ウェブリングを組んだり、メーリングリストをはじめたり、“怒れるユーザの情報交換ページ”みたいなものを作ったりしたら、それでも東芝はネット上で黙っているのだろうか。
 今回の事件はインターネットの“両刃の剣”を考えるうえで、とてもよい題材だとおれは思う。この怖ろしい媒体を使えば、力ない一消費者が大企業を蒼ざめさせることもできるし、悪意を持った外道が力ない企業の営業妨害をすることもできてしまうのだ。来る日も来る日も、くだらないことをウェブに書き散らしているのが怖くなってくる。でも、やっぱりおれは書き続けるだろうけどね。

【7月4日(日)】
▼ひょっとして気になっている人もいるかもしれないので念のために書いておくが、「[間歇日記]世界Aの始末書 〜 目次 〜」にある「ひとっ跳びカレンダー」が一応“7月”で終えてあるのは、単なる洒落というものである。
99年6月11日の日記で触れた“禁断の愛に溺れる蝶”について、その後、デモステネスさん始祖鳥さんが情報をお寄せくださった。モンシロチョウモンキチョウがいちゃいちゃしている理由は、じつに簡単なことだったのである。モンキチョウはオスはみな黄色だが、メスには白と黄色の二種類があるのだそうだ。なんとねー、これだけ生きてて初めて知った。デモステネスさんによれば、「日記にあるような、モンキチョウとシロチョウがからんでいる、という状況には3通りあって
1 白色型のメスだった
2 モンキチョウ(オス)の縄張りにモンシロチョウが侵入してきたので追い払いに行った。
3 モンシロチョウをモンキチョウの白色型メスと間違えた
があり、私の経験ではどれもよく発生します」
ということなのである。だと、まちがえたとわかるとすぐにちょっかいを出すのをやめるのだそうで、おれが見たのはであるらしい。なるほど、これでひとまず納得だ。お二方とも、ありがとうございます。
 ところが、話はまだ終わらない。蝶にお詳しいデモステネスさんがおっしゃるには、モンシロチョウの翅は「低緯度地方ほど紋や柄が大きくなって黒っぽくみえる。高緯度ではこの逆」であり、また「同じ地域でも、春型と夏型では夏型の紋や柄が大きく、全体的に黒っぽい」ということだ。これらの事実から、デモステネスさんも紫外線量と翅の紋や色とのあいだには、なんらかの関係がなきにしもあらずではないかと推測していらっしゃる。まあ、たぶんおれが見た白い蝶はモンキチョウのメスなのであろうが、連中の翅の紋や色が紫外線量に影響を受けるのだとすれば、ある地域にしては“不自然な”紫外線環境が急に出現した場合、やはり種や雌雄の識別になんらかの影響を与える可能性は完全には否定できないだろう。なんとなく不気味さは残る。
 また、ハンドルのとおり鳥にお詳しい始祖鳥さんは、蝶の話と関連があるかどうかはよくわからないと前置きなさったうえで、「セキレイ(Motacilla grandis)とハクセキレイ(Motacilla alba)のカップルは珍しくないといわれていますし、有名な皇居のカルガモ(Anas poecilorhyncha)もマガモとの雑種ではないかという指摘もあります」「ニュージーランドでも、在来種のGrey Duck(Anas superciliosa)と狩猟鳥として移入されたマガモ(Anas platyrynchos)との雑種化が問題になっています」と、鳥類に於ける“異種間カップリング”の発生を挙げられた。本来生活圏の重なることのない近縁種が、人為的に同じ一箇所に集められてしまったためだろうと始祖鳥さんはお考えである。雑種が可能な種同士なら、こういうことも起こってしまうのだなあ。
 こうした事例や推測からだけでは、はっきりしたことはなにも言えないけれども、どんな生きものの場合でも、なんらかの人為的な要因が彼らの性生活に予期せぬ擾乱をもたらしてしまう可能性は、やはり考えておいたほうがいいのだろう。だが、大陸移動をはじめとする自然現象や、まったくの偶発的出来事だって生物の生殖や進化に影響を与えてきているわけだから、「人間が自然に手を出すとろくなことがない」などと考えてしまうのも、また傲慢である。おれたちはついつい“人為”“自然”とを対義語のように捉えてしまいがちだが、それ自体が度し難い思い上がりだと考える視点も必要だろう。“人為”は“自然”と“タイマンが張れる”ほどたいしたものではないのかもしれない。しかし、たしかに“人為”が“自然”に対して、非常に短期間に大きな影響を及ぼすことも、事実としてある。あくまでバランスの問題だ。“地球にやさしい”などといういやらしい言葉がある。じつのところ、人間が他の生物をバカスカ滅ぼしてしまおうが、めぐりめぐって自分の首を絞めようが、そんなもの地球の知ったことではないのである。結局は、自然を過大評価してもいかんし、過小評価してもいかんという、至極あたりまえのことを肝に銘じてゆくしかないのだろう。あれ、似たようなことをむかし書いたぞとディスク内を検索してみたら、97年12月12日の日記で、SFと絡めて同じこと言ってるぞ。成長がないのか、思想が一貫しているのか。単にマンネリになってるだけってのが、いちばん当たっているだろうな。
 そういうわけで、『ウルトラマンガイア』(TBS系)は、このあたりの問題をきわめて深く掘り下げ得る秀逸な枠組みを持っているんだから、うまくすれば『もののけ姫』に迫れるはずなのだ。あらら、またもやウルトラマンの話か。おれも好きだねえ。

【7月3日(土)】
▼いまごろ長野県では、第三十八回・日本SF大会「やねこん」が開催されているはずだ。おれは今年も行かない。べつに嫌いじゃないんだけども、まとまった休みでもないかぎり、土日で長野と京都を往復というのは体力的にあまりにきつい。金もない。近場が巡ってくるまでは、SF大会には出ないことだろう。あちこちにアップされるであろうレポートを楽しみに待つことにしよう。それにしても、関西SF作家“マンガカルテット”(小林泰三、田中哲弥田中啓文、牧野修)は、SF大会への参加も含めて五日間も行動を共にするらしい。想像するだに体力の要りそうな強行軍だ。なにしろこの四人、アンデス山中に飛行機が墜落して四人だけ生き残ったとしてもひたすらバカ話をし続け、やがて力尽きて一人が笑顔のまま死ぬと残りのメンバーでその死体を食いながら「思えば、あいつは食えんやつやったな」「食うとるやないか」「人を食った話や」「この食わせ者めが」「ところで、もしかしたら死ぬかもしれんさかい、あんたに貸してた金返しといてもらおうか」「なんでや、みな死んだら一緒やないか」「これがほんまのアンデスの清算」「それが言いたかっただけやな」などと玉石混淆のギャグを飛ばし続けるにちがいないので誰もおちおち先に死ぬわけにはいかず結局気力で全員生き延びてしまうような人々だからである。そういえば、以前、田中哲弥さんは日記(99年4月1日付)の「質問にお答えする」の巻(?)で、『「マンガカルテット」の東京での講演予定を教えてください』という質問に対して『しません。「マンガカルテット」というユニットで活動しているわけではありません』と答えていらしたのだが、やっぱり最近はユニットで活動しているらしい。『SFバカ本・外伝《マンガカルテット篇》』という企画はどうか。あの四人が二篇ずつ書いたら、アンソロジー一冊分くらいにはなる。むろん巻末には、マンガカルテットによる座談会(“大喜利”とも言う)をつけるのである。あきませんかそうですか。
▼さて、今日の『ウルトラマンガイア』(TBS系)は、根源的破滅招来体が地球の絶滅動物を怪獣に仕立てて人間の罪悪感に訴える戦法に出た。人間の手で絶滅させられた動物にとっては、人間が破滅招来体みたいなものに見えていたのかもしれんという視点を子供に与えるのはいいことだ。初代『ウルトラマン』の吸血怪獣“ケロニア”が出てくるエピソードのラストに、「人間の血を吸って生きる文明は、もはや文明とは呼べないのです」(正確には憶えてないけど)といった名台詞があって、小学生のころだったか再放送を観たおれは、この台詞になにやら重層的な批判が込められているらしいことを印象深く感じ取った憶えがある。子供にだって、そういうことはわかるものなのだ。子供に“知識”よりも“視点”を与えることが子供番組の重要な使命だとおれは考える。その点で、今日のエピソードはなかなかよかった。
 とはいえ、映像はちょいといただけない。虎が化身した怪獣だから虎のような動きをさせようという意図はわかるが、いまの特撮水準を以てしても、あのような不自然な動きしかさせられないのだろうか。虎が獲物に跳びかかるようにジャンプする怪獣の動きが妙に作りものめいていて、おれはゲキメーション猫目小僧かと思ったくらいだ。
 えーと、お若い方のために解説いたしますと、そのむかし、楳図かずお『猫目小僧』をアニメ化(というべきかどうか)した『妖怪伝猫目小僧』という番組があって、その手法がすばらしくぶっ飛んでいた。セルアニメじゃないのである。“切り絵”を動かしていたのだ。アニメというよりは、紙芝居“実写”しているようなものだ。とはいえ、一応“特殊効果”は随所に駆使されていた。たとえば、崖崩れなどの場面では、静止した“絵”の上に、ほんものの土をばらばらとふりかけているところを“実写”していた(さしものILMもここまでは考えつかんだろう)。猫目小僧が妖怪と闘うシーンなどが、またすごい。なにか割り箸のようなものの先に猫目小僧がジャンプしている“切り絵”が貼りつけてあって、そいつが画面をぴょ〜〜んと横断するのである。テレビのことを“電気紙芝居”などとボケる古典的な漫才のネタがあるが(あれは、いとし・こいしだったろうか)、この新手法“ゲキメーション”(劇画+アニメーション)は、まさにテレビを電気紙芝居化した奇抜なアイディアであった。最初観たとき、あまりのことに大笑いしたけれども、なんとも言えぬ不思議な味わいがあったことも事実である。まさかあるまいと思ったら、ウェブは広いね、ちゃんと「ワコープロアニメファンクラブ」というサイトに「妖怪伝猫目小僧」の詳しいデータがあった。もの好き――いや、映像技術に興味のある方は、そちらをご参照ください。そこを見て二度驚いた。なんというタイミングか、七月三日からケーブルテレビで放映しているらしい。二十三年前の紙芝居アニメ、いまの子が観たらやたら新鮮に感じたりしてね。
 で、話を戻すと、今日のガイアに出てきた虎怪獣の動きは、そのゲキメーションを髣髴とさせるものだった。テレビの前で「あっ、猫目小僧!」と叫んでいたおじさん・おばさんはきっといたはずである。夫婦で大笑いしている家庭もあったにちがいない。目に見えるようだ。見えてきた、見えてきた。大阪の家庭らしい。おお、表札が見える。喜多哲士・真理と書いてあるように見えるが、おれの透視能力ではここまでが限界だ。

【7月2日(金)】
▼関西のローカル広告には、腰がくだけるほどバカバカしいものがよくある。むろん、バカバカしいというのは言葉の綾であって、次はどんなものにめぐり合うかと、日々期待に胸を膨らませているのだ。
 今日もまた、すさまじいやつを見た。その車内吊り広告は、食卓の風景を描いている。もう若くない夫婦と、味つけ海苔の缶が写っている。食事中の夫がうっかり缶に手をぶつけてしまったらしく、写真は味つけ海苔の缶がいままさに倒れんとする瞬間をロバート・キャパを思わせる緊迫感でしっかりと捉えている。缶の中から海苔の小袋が投下直後の焼夷弾のように飛び出してくるさまが、缶を覗き込む方向の食卓面やや下方からアオる構図で収められている。「あっ!」という声が聞こえてきそうな夫婦の表情もいい。味つけ海苔の缶が倒れるということが、いかに重大な事態であるかが生々しく伝わってくる写真だ。
 関西の広告に慣れていない読者は、ここまで読んで「味つけ海苔の広告かな」と思うであろう。ちがうんだな。これは〈ひらかたパーク〉の広告なのである。“ひらパー”の愛称でおなじみの、大阪府枚方市にある遊園地だ。フリーパスというお得な券があるらしく、それを買えばいろんな乗りものに乗り放題なのだそうだ。この広告の簡にして潔をきわめたコピーが、すべてを物語っている――「のりたおす。」
 田中啓文は、こんなところで小遣い稼ぎをしているのか」などと思ってはいけない。〈ひらかたパーク〉の広告は、たいていこんな感じなのだ。今回のはなかなかのヒットだが、トーンは同じである。ついでに言うと、これくらいで驚いていては関西には住めない。〈京阪モール〉のバーゲンの広告はベタネタ度に於いて〈ひらかたパーク〉をはるかに凌ぎ、バーゲンの季節が来るたび、京都・大阪の人々は〈京阪モール〉の広告に頬を引き攣らせ失笑を浴びせるのを楽しみにしている。どのくらいバカバカしいかというと、例を挙げようにも、あまりのバカバカしさにひとつも憶えていないくらいバカバカしいのだ。一回性に賭ける清々しさがよい。関西人の友人がいらしたら、訊いてみるといい。「〈京阪モール・ザ・バーゲン〉のいままでの広告で、どれが好きですか?」と。きっと誰もが“バカバカしい”というエッセンスだけを強烈に刷り込まれているにもかかわらず、ひとつも具体例を挙げることができないはずである。用がすんだらきれいさっぱり忘れさせるのだから、たいした藝と言える。
 〈ひらかたパーク〉がこういうノリになったのは、そんなにむかしのことではない。数年前までは、菊人形くらいのイメージしかない影の薄い遊園地だったのだ。メジャーにはまずなれないが、マイナーというには大きすぎ歴史がありすぎる中途半端さが禍いしていたように思う。そこで、その中途半端さにこそ親しみを持ってもらうイメージ戦略を打ち出して成功した。いや、数字的に成功しているのかどうかおれはよく知らないが、“ひらパー”なる奇ッ怪な新愛称は、もはや完全に関西人の基本語彙に組み込まれている。不思議なことに、“ひらパー”と言われればみながみな〈ひらかたパーク〉のことだと認識はするのに、みずから真面目に“ひらパー”と呼んでいる人にはあまりお目にかかることがないのである。人々が“ひらパー”と口にするときには、“ひらパー”と呼んでほしがっている〈ひらかたパーク〉につきあってやっている戯れ言なのだぞというニュアンスをいつも伴っている。そのこと自体が、まさに“ひらパー”の狙っているところなのだ。つまり、“背伸びしてかっこよく見せようとしている姿がもののみごとにスベっている(と自分でわかっている)イメージ”が、“ひらパー”の売りになったのであった。〈としまえん〉自虐広告の一歩手前あたりのノリで方向性は同じだと言えば、関東の方にもわかりやすいだろう。その“一歩手前”のところの綱渡りが“ひらパー”は絶妙で、よほどやり手の広告ブレーンがついたのだろうなと窺わせる。〈宝塚ファミリーランド〉やら〈奈良ドリームランド〉が、“たかファミ”だの“ならドリ”だのと言い出したとしたら、これは絶対にそっぽを向かれるはずだ。あざとさが先に立ってしまう。〈パルケ・エスパーニャ〉に至っては論外である。人々が己をどう捉えているかを的確に把握し、それを強みに転じた“ひらパー”には学ぶべきものがある。
 はてさて、ところで“SF”なるものは、いったい世間にどう思われているのだろうか? これを的確に把握するのは、簡単そうでなかなか難しい。少なくともおれの母や妹や親類縁者は、おれのことを、いい歳をして“『スター・ウォーズ』や『ウルトラマン』みたいなもの”に夢中になっている幼稚な変人あるいは狂人だと思っている。会社でも多少SF好きなやつらしいということがばれているだけで、いい歳をして“なにやらアニメみたいなもの”に詳しい(おれはアニメには疎いってば!)変人と思われている空気をびりびり感じるし、そういう扱いを受けることもある。ともかく、おれがふだん顔を合わせるような人々は、まちがってもSFを“インテリが読む前衛的な文学”だなどとは思っていない。ところが、SFは世間に前衛文学だと思われてしまったので信用(?)を失って衰退したなどという説も一部にはあったりするのだ。いったいどこの“世間”がSFに対してそんな好ましいイメージを抱いてくれているのであろうか。もしそうであったら、おれもいくらか生きやすいだろうと思う。「あの人はあんな高級で難解な前衛文学を理解するばかりか、それを好んで読むのか。すごいなあ」と、一度でいいから身内や職場の人間に尊敬の眼差しを浴びせられてみたいものである。しかし、待てど暮らせど、そんなことはまず起こりそうにない。おれの住んでる世間が、よっぽど特殊なのであろうか。この広い世界のどこかに、あるいは別の世界に、SFが難解な前衛文学だということになっている町や村があるのであろうか。そうか、きっとウクバール((C)『ウルトラマンガイア』)では、SFがそういうものとして人々に仰ぎ見られているにちがいないぞ。ああ、ウクバールに還りたいなあ。

【7月1日(木)】
▼さてさて、いよいよ七の月がやってきた。最近、知り合いのネット者のあいだでは、「世も末ですね」と前置きして話をはじめ「失礼しましたー」で終えるのが作法になっている。「失礼しましたー」はともかく、「世も末ですね」は順調に流行っているようだ。よしよし。どのみち、今月、大王が降ろうが人呑鬼が降ろうが、降ったらそれはただ降っただけであり、降らなかったらそれはただ降らなかったというだけの話だ。くだらん。
 そんなことはともかく、今年も半分終わってしまったのである。もう夏だ。そろそろチューブ河内家菊水丸が土の中から出てくる季節だ。夏は心の鍵を甘くすると唄っていた本人は妙な宗教に入信したそうだから、夏にはご用心である。それが証拠に、油断していたら、この日記のカウンタの“222222”自分で踏んでしまった。こういうキリのいい数字を踏むと無意味に嬉しくなるもので、その喜びを読者の誰かに味わっていただきたかったのに、なんとも無粋なことよ。“333333”のときは気をつけよう。現在のペースだと一日でほぼ500上がるから、これが維持できるとして、あと111111カウント上がるには約222日強を要する。来年の二月八日前後が狙い目だ。ゾロ目マニアの方は、そのころ頻繁に来てください。もっとも、そのころまだ人類が存続しているかどうか、おれにはまったくわからない。わかったら面白くないじゃないか。


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