ホーム | プロフィール | 間歇日記 | ブックレヴュー | エッセイ | 掌篇小説 | リンク |
← 前の日記へ | 日記の目次へ | 次の日記へ → |
99年6月中旬 |
【6月19日(土)】
▼ひさびさの“マダム・フユキの宇宙お料理教室”である。今回の料理は、題して「ニンニク納豆の逆襲」。なぜ“逆襲”なのかというと、99年3月21日の日記で紹介した「ニンニク納豆」が大失敗であったからだ。ニンニクを入れすぎたのが敗因ではないかと当初は思っていたのだが、どうやらおろし生ニンニクを使ったのが悪かったらしい。そこで、今度は“ニンニクチップ”を使用したのだ。わが家では、ニンニクを油で炒めてポテトチップス状にしたものを保存し、適当な料理の薬味に使っている(ステーキとか)。こいつを納豆に混ぜてみてはどうかと思い立ったわけである。
やってみると、これがじつにすごい! 大成功だ! うまいうまい。納豆の粘りとニンニクチップのサクサクとした歯ごたえが絶妙なハーモニーを醸し出す。歯ごたえだけではない。双方とも個性的な匂いを持つ食材であるが、それらの匂いがブレンドされると、まことに食欲をそそる芳香を放つのである(これはまあ、人によって激しく好みが分かれるとは思うが……)。しかも、見るからにヘルシー。夏バテの季節には持ってこいの料理(?)である。ただ、平日はあまり大量に食わないほうがいい。ニンニク食ったときの口臭って、自分ではなかなかいい匂いなんだが、他人にはそうではない。なんでだろうね、あれは? 自分の大便はさほど臭くないが、他人のは臭いのと同じだろうか。自分で自分自身のことを書くと楽しいのに、頼みもしないのに他人が自分自身のことを書いていると、相当藝がないと面白くないのとも同じかもしれん。毎日手前のことを書いているやつがよく言うよ。
▼さてさて、もう説明の必要もない“ガイア突っ込みアワー”がやってまいりました。今回の『ウルトラマンガイア』(TBS系)は、ウルトラマンアグルが復活。ヘンなロボットが現われて我夢を体内に取り込んでしまってたけど、あれを見たおじさん・おばさんたちは、みなテレビの前でいっせいに「おお、ロボット刑事K!」とつぶやいておったことでありましょう。
それはそれとして、今日のエピソード、可愛い我夢君たちにスレた胸をときめかせる奥様方を中心とする、一部のやおい系ガイアファンは狂喜乱舞しているにちがいない。ふらふらと誘われるように海に入ってゆく藤宮を抱きかかえて救う我夢――ああいうシーンでは、ふつう助ける方が助けられるほうをうしろから抱きかかえるものでありますが、対面で抱きかかえるって演出がすごい。よろめきながら砂浜に上がってくる我夢と藤宮の唇がいまにも触れそうだ。こりゃもう、製作者側も“やおい系”の楽しみかたをしている女性ファンがいることをはっきりと意識しているとしか思われない。怪ロボットが放つ火球に攻撃され気を失った藤宮。「藤宮ーっ!」と叫ぶ我夢の声に反応してか、倒れたままの藤宮が「我夢……」とつぶやく。しかも、そのとき藤宮の口元がどアップになる。あのなー、大きいお友だち(って、おばちゃんたちだが)を意識しすぎだぞー。面白いけど。
とにもかくにも、これで再びアグルが出てくるようになったわけだが、我夢に託したほうのアグルの“光”は、いったいどういう扱いになっているのだろうか? もうひとりぶんのアグルのパワーが地球から分泌されたのか? これは子供だって「あれあれ?」と思ってるだろうから、説明を求む。
以前(98年11月28日)アグルのアクションを必殺シリーズの三味線屋勇次だと指摘したことがあったけれども、今回も作り手たちがアグルで遊んでますねー。『十戒』のパロディは、面白いけど子供にはわからんぞ。キリスト教徒の子供にはわかるか……。決め技の光球を放ったあと、「おまえはもう死んでいる」とばかりに敵に背を向け悠々と立ち去るアグルの背後で一拍遅れて怪ロボットが爆散するシーンなんかは、時代劇やマカロニ・ウェスタンのノリである。形式美ってやつですな。こういうのは形式を知らない子供にも、かっこよさがわかるだろう。主役のガイアで遊ぶとあざといが、アグルには遊べる余地がある。準主役級のキャラには、わざとらしさが許せるところがあるのだ。『人造人間キカイダー』のハカイダーみたいな感じですわな、アグルは。今後もこの手の遊びを期待する。
コマンダーがガイアの正体に気づいているのを、今回ははっきり心内発声で表明しましたね。そろそろ大詰めに向けてディテールを詰めてゆくフェーズかな。突っ込み甲斐のある“ヘンなところ”も少しは欲しいが(見つけたら笑うくせに)、骨太なウルトラマンシリーズとして、今後の展開にマジで期待しているのもたしかだ。
【6月18日(金)】
▼おれはこの日記で、よく電車の中で見かけたヘンな人を話題にする。世にヘンな人のタネは尽きまじ。いちばん書きやすいネタではあるよね。もっとも、おれ自身が「今日電車の中で見かけたヘンな人」などと、どこかの日記でネタにされていないともかぎらない。お互いさまである(なにが?)。
今日も今日とて、かなりヘンな人がいた。おれの隣に座っていた二十代後半くらいの男性。じっと自分の左手を見ている。石川啄木関係の人(なんだそれは?)だろうかと、こちらもわくわくしながら横目で見ていると、左手の指を二、三本ずつ開いたり閉じたり、鉤のように曲げたりまた伸ばしたりしながら、いろいろな“型”を決めては、それをまたしばらくじっと見ている。マッサージ師だろうか。ギター弾きの人かもしれん。あるいは、女性の悦ばせかたを研究しているのやもしれず、磁界の中で電流が受ける力について考察をめぐらせている可能性もなきにしもあらずだ。結局、この人はいったいなにをしているのか、さっぱりわからずじまいであった。
そういえば、中学だったか高校だったかすらもう忘れてしまったが、電磁誘導が出題範囲にある理科の試験ってのは面白かったね。空間把握能力に優れた頭のいいやつは、たちまち頭の中でわかってしまうのだろうけど、おれなんぞ、方向音痴なうえに頭が悪いから、いまだに指を使わないと磁界と電流と力がどう絡み合っているのか把握できない。だものだから、理科の試験のときなども、当然試験中に“西部劇ごっこ”をやっていた。意地悪なことに、試験問題に描いてある実験装置は、人間の手の解剖学的構造に配慮したものでないのが常であった。「えーと、磁界の方向はN極がこっちだからこっち向きで……電流はこっちからこっち……う、むむ、ふぎゅぎゅ――」などとやっていると、手首を脱臼しそうになる。ふと、己のバカさ加減に我に返って試験中に目を上げると、教室のそこかしこでインド舞踊に興じているやつが何人もいる。それははなはだ不気味な光景であった。
いったいこんなことがなんの役に立つのか、おれはべつに科学者にも技師にもなるつもりはない、こんな暇があったら英単語のひとつも覚えたいものだ――と思わないでもなかったが、あにはからんや、高校までに習う科学知識は、社会に出てからむちゃくちゃに役に立っている。「本格ハードSF!」などと謳われているような作品でも、なにもそれほど専門的なことが書いてあるわけではなく、たいてい高校出てりゃ理屈はわかる程度のものだ。えらく専門的なことが書いてあるように見える小説でも、それが小説であるかぎりは多くの読者(要するに、高校生程度の知識を持つ読者)がついてこられるように説明してあるのが常で、怖気づくことなどなにもない。「そりゃ、おまえがSF読みだから役に立ってるのかもしれんが、やっぱりふつう文科系の人間には科学知識なんぞ要らんでしょう」と思ってる学生さんがおったら、それは大まちがいだ。科学・技術と社会とを切り離して考えることなど到底できない世界にわれわれは住んでいるのではないか。自分の払った税金が値打ちのあることに使われているかどうかをチェックするのには、最低限、専門家たちがなにをどうしようとしているのか程度は理解できる見識が必要だろう。自分たちの暮しや健康を防衛するのにも、専門家たちがごまかしをやっていないか、既得権保持のために妙な論理を展開していないかに目を光らせる必要があるだろう。
しかし、高校までの時間には限りがある。たしかに、なんでもかんでも教えている時間はない。だから、わからんことがあれば自分で調べりゃいいのである。そのための高度情報化社会だ。義務教育ってのは、自分で調べる能力をすべての国民に与えるのが本来の姿だろう。「高校までで習わんことは、高校生の能力以上の高度なことなのだろう」と思っている人がたまにいるみたいだが、全然そんなことはない。高校までで習わないことは、単に高校までのカリキュラムに入っていないことだというだけだ。トートロージーなのである。高校までに習わないが、高校生程度の能力があれば誰にでも理解できることが、専門的で高度に“見える”ことの中にもうようよある。“ややこしい”だけで“難しい”わけではないことを、高級な知識、高度な知識だと勘ちがいしてはならないのだ。金と暇があれば誰にでも身につけられる知識や技能と、然るべき才能がなければ身につけられない見識や能力とを混同してはならない。似非専門家を見破るのは簡単である。自分自身がそれらを混同している連中が、似非専門家なのだ。おれは、従来の学校教育もこれらを混同してきたと思っている。よって、当然のことながら従来の学校教育は、見識や能力がないのに知識や技能だけで専門家ヅラをする連中をスクリーニングする機能を欠いている。オウム真理教の事件はまことに象徴的だとおれは思う。
まあ、幸いなことに、鋭い若者たちはちゃあんとこうしたことを見破っているようで、大学の権威などというものはすっかり地に墜ちている。優れた能力を持ちながら、とくに大学に進学するつもりはないという若い人も増えてきている。まことに健全なことだ。おれもお勧めしたい。どのみち勉強しなきゃ生きていけない世の中なんだから、とくに大学教育が必要だとは思えない分野に進みたい人は大学なんて行くことないよ。その間、自分で勉強したほうが能率が上がるだろう。ことに、勉強する気のないやつは絶対に行くな。ほかの学生に迷惑だ。勉強する気があるのなら、行けば行くだけのことはあると思う。あれ、いつのまにかむかし書いた日記(97年4月13日)の焼き直しになってるな。毎日書いてりゃ、こういうこともあるわさ。ま、ともかく、なにを勉強すべきかなどと他人が課題を与えてくれていた学生のころがいちばん楽だったと、大人はみんな日々思い知っているのだぞ。
【6月17日(木)】
▼6月6日がいつしか不吉な日扱いされているのは映画のせいだろうと書いた当の6月6日の日記に応えて、原稿料は出せないというのに田中啓文さんから新説が寄せられている。今日はネタもないことだから、これ幸いと紹介してしまおう。なに? 日記の手抜きだ? そんなことはない。獣の数字に関する伝奇SF作家の見解があなたも聴きたいでしょうが。おれだけで読んでいるのはもったいないから、ご本人の許可を得て公開するのである。なお、文中の太字は、読みやすいように冬樹が施した。
『6月6日というのは、不吉な反キリストが生まれる日であると同時に「雨がざあざあ降ってくる」日でもありますわなあ。ということは、6月6日に生誕したと巷間伝えられるあの「かわいいコックさん」こそが反キリストであることは言うまでもありますまい。私はかねてからあの「コックさん」の正体を見極めようと努力していたのですが、最近やっとそれをつきとめました。いや、もしかしたら私は一番そのことを伝えてはいけない本人に伝えようとしているのかもしれません。何しろ、あのコックさんは「はっぱじゃないよ、蛙だよ」などと「蛙好き」であることを暗にほのめかしているうえ、「コッペパン二つくださいな」などとジャンクフード好きであることも示唆していますし、そういえば冬樹さん、6月6日生まれでしたっけ……。』
はなはだ説得力のある論理展開であるが、残念ながらおれは6月6日生まれではない。だが、田中さんの鉄壁の論理にかかると、ひょっとするとじつはそうで、おれの親がわざと出生届けの提出を半年ばかり遅らせたのではあるまいかとすら思えてくるから、プロのお笑い藝人――じゃない、作家というのはすごいものである。だからといって、おれの過去を調べようなどと思ってはいけない。いままで何人かそういう輩がいたのだが、みな、十字架に串刺しにされたりガラス板に首を落とされたりエレベータのケーブルで身体をまっぷたつにされたりビル解体用の鉄球に押し潰されたり竹串で延髄を貫かれたり三味線の弦で首を吊られたりエレキテルで感電死させられたりしているのだ。
『私は、頭の髪の毛を剃ると、666という文字が出てきたとしても、それだけでは納得しません。もっとよく探せば、もう一つや二つ6が見つかるかもしれない。そうしたら、66666だ。脇の下や背中や口の中にも6があるかもしれない。そうしたら6666666666だ。足の裏や包茎の包皮をむいたあたりも怪しい。そうなると、66666666666666666かもしれない。これは、最近発見された「黙示録」の改訂版に「反キリストの数字は前著では666と書いたが、実際は6666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666であることがわかった」とヨハネ自身が書いているためにこうまでこだわっているわけで、この新版「黙示録」は、あまりに数字が並ぶのでヨハネが「もういやだ、こんな本書くのは」と叫んだことが知られ、一名「ヨワネの黙示録」とも呼ばれているそうです。ちなみに、私の「慟哭の城XXX」も冒頭にやたらと目次が並んでいるところから「目次録」と呼ばれています。嘘です。』
「嘘です」などとあわてて言い足してあるが、おれは密かにそう呼んでいたから、ほんとうである。どちらかと言えば、『蒼白の城XXX』(田中啓文、集英社スーパーファンタジー文庫)の目次のほうが感動的だ。章番号に零や負数を導入したこの作品は、数学史に残る試みと言えよう。有理数に留まっているのにはテーマの掘り下げが不徹底ではないかとのそしりもあろうが、そこにおれはこの作家の将来性を見る。ちなみに虚数は、すでにほかの多くの作家が章番号に用いているので、新しさがない。あなたも「i」という章番号を見たことがあるはずだ。おそらく、作家・田中啓文が無理数を発見するのは、そう遠い日のことではないだろう。これほど6の羅列にこだわりを持っているのだから、あと一歩である。え? なんでやて? むかしからよう言いまんがな。ルート66て。
【6月16日(水)】
▼13日の日記に、子供たちがおまけのカード目当てで仮面ライダースナックを買い、お菓子を食わずに捨てる現象が社会問題化した――と懐かしい話を書いたところ、奥村真さんから一撃必殺のライダーキックみたいなメールが来た――「私、捨ててあった仮面ライダースナックを食ってました」
いやあ、笑った笑った。こうやって需給のバランスが取れていたとは、げに経済学とは奥の深い学問だ。「実家の近所に神社があって、床が結構高くて床下に潜るのが簡単だったんですが、そこによく開封済みの、時には未開封の(謎)仮面ライダースナックが落ちてました」ということなのである。奥村さんがこういうことをしていたころは、すでに青酸コーラ事件なども発生しており、いまの物騒な社会の萌芽が見えつつあった時分なのだが、青酸コーラ事件自体がまだまだ“珍しい”からこそ騒がれていた平和な時代でもあったのだ。
いくらおれたちの子供のころでも(奥村さんはおれより若いが)、さすがにそこいらに落ちているものを食うのはよくないことだと教えられた。しかしそれは、はしたないとか、腐っているかもしれないから危ないという、牧歌的な理由によるものだ。実際、どう見ても大丈夫なものなら、おれも菓子のひとつやふたつ食ったことがあるように思う。だけど、いまのよい子は絶対に真似しちゃだめだよ。そのへんに落ちている食いものは、誰かが毒を入れてわざと放置したものである確率がおれたちの子供のころなどよりはるかに高いのだ。つまり、子供たちよ、常に誰かがキミを殺そうとしている世の中なのである。下手すると、キミを殺そうとしているのは、キミの親である場合すら少なくない。冗談じゃないよ、まったく。
未開封のスナック菓子が落ちていたら、「おい、これ“サラ”やんけ。食えるんとちゃうか?」「ほんまや……うん、大丈夫みたいやぞ」という方向に思考する子供たちと、「絶対、毒入ってるわ」などと反射的に考える子供たちと、はたしてどちらがいいのだろうか――。おれにはわからん。「むかしはよかったなあ」とも思えないのだ。その時代その時代で、子供たちも懸命に生きている。経済的にせよ、知的にせよ、肉体的にせよなんにせよ、強者の発想というやつには、絶望的に鈍感な部分があるものだ。おれは自分が総合的には弱者の部類に入る半端者だと自覚してはいるが、はっきり言って弱者の発想は嫌いである。みみちい。せせこましい。意地汚い。おれは強者になりたい。しかし、強者の鈍感さを忘れてしまうほどの強者になるくらいなら、みみちく、せせこましく、意地汚く生きてゆくほうがよっぽどましだとも思っている。弱者であることに満足している弱者は、美しくないから嫌いだ。鈍感な強者は、醜いからもっと嫌いなのだ。自分の美意識に忠実に生きてゆくのは、つくづく難しい。
大人でいるということは、子供から見れば自動的に強者であるということであり、子供の前にいるとなんとなく居心地が悪い。おれが子供嫌いなのは、こんなところにも根があるのかもしれない。
【6月15日(火)】
▼朝、駅で電車を待っていると、ヘリコプターが三機編隊を組んでバラバラと飛んできた。編隊なのかバラバラなのかどっちだって? いや、バラバラというのは擬音である。
昨日の“あのアレ”と似ているかもしれないが、“ヘンな条件反射”ってないですか? おれの場合、ヘリコプターのバラバラバラバラバラバラバラバラという音を聞くと、たちまち頭の中でドアーズの The End のイントロが流れはじめる。もちろんコッポラの『地獄の黙示録』よりもこの曲のほうがはるかに古いのだが、もはやおれには切り離して思い浮かべることができない。梅に鴬、柳に蛙、紫陽花に蝸牛、水戸黄門に印籠みたいな感じだ。こういう条件反射を植えつけられてしまうのは、迷惑と言えば迷惑だ。だが、他人が同じ条件反射を共有しているのをふとしたことで知ったりすると、ヘンな親近感を覚えて嬉しくなってしまう。たとえば、サザエさんの絵が目に入るとする。否応なしに「明日を作る技術の東芝」というフレーズがくっついて出てくる(「E&E」ってのは、おれの中にそれほど根深く食い込んでいないのだ)。また、夏の夜、公園で親子連れが花火をしているとする。会社の帰りにそうした微笑ましい光景に遭遇することもあろう。若い父親が打ち上げ花火の導火線に火を点けるのを目にしたが最後、おれはまったく自覚のないうちに『スパイ大作戦』のテーマを口ずさみながら家路を急いでいる羽目になる。あるいは、電車の中で見知らぬビジネスマンたちが「今週のご予定は?」「ええと、明日は大阪……」などと会話していたら、すぐさま「よみうりテレビ」と突っ込みを入れたくてたまらなくなる。これを条件反射と言わずしてなんと言おう。
この類のくだらない条件反射は、誰もが山ほど身につけているはずである。この日記の読者には、なにかの拍子にテレビやラジオからリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラかく語りき』が流れてくると、無性に棒状のものが握りしめたくなりそこいらを捜しまわっている自分に気づく――なんて人が少なくないにちがいない。少ないですかそうですか。
【6月14日(月)】
▼〈SFマガジン〉99年7月号「SFまで10000光年」(水玉螢之丞)の“あのアレ”だが(わからない人は読んでね)、あちこちの日記で“私のあのアレ”を目にするので、おれも遅ればせながら表明しておこう。
まず、顕微鏡を覗いて目を見開き息を呑み、「こ、これは――」と絶句してみたい。この場合の顕微鏡は、必ず接眼レンズがふたつあるやつでなくてはならない。
道路によちよち歩み出た子供がダンプカーに轢かれそうになるのを見つけ、飛び出して助けたい。子供を抱きかかえて、ごろごろと道路を転がったほうが感じが出る。ありがた涙にかきくれる母親に「なあに、あたりまえのことをしただけです」とほざき、さりげなく手帳を落として疾風のように立ち去りたい。
よせばいいのに人気(ひとけ)のない断崖に殺人犯人を呼び出し、そいつ以外誰も聴いていないのに、快刀乱麻を断つおれの推理を朗々とまくし立てたい。そして、往生際の悪い犯人と崖の上で揉み合いたい。犯人は妙齢の美女がよい。揉み合いたい。あれ、ちょっと“あのアレ”からずれてきたな。あるいは、そういう場面に現われて、「そこまでだ」と言ってみたい。
なんともはや、みみっちい“あのアレ”ではあることよ。
【6月13日(日)】
▼うーむ、さすがにこれは公の場には書けんなあ。ちょっとした好奇心で試してみたところ、あっさりうまくいってしまったのだ。
ほら、いまペットボトル(500ml)入りのペプシコーラで、『ペプシマン サウンドビッグ ボトルキャップ プレゼント』ってのをやってますわな。「飲むとその場でアタリがわかる!!」ってやつ。ボトルに腹巻状に巻きつけてあるラベルの一部に透明な窓があって、そこからボトルの向こう側(つまり、そこから円筒のボトルを半周した部分のラベルの裏側)を覗くと「アタリ」か「ハズレ」かが見える仕掛けだ。中にコーラが入っている状態では、コーラの透明度が低いため、まず「アタリ」か「ハズレ」かはわからない。買って飲まなきゃならないわけですね(あたりまえだ)。
そういえば、むかーし、カルビーのスナック菓子に仮面ライダーカードがついていたころ、カードだけを目当てにする子供たちが菓子を食わずに捨てるという現象が社会問題化したことがあったよなあ。稲葉振一郎さんのサイトのリンク集にも、この懐かしい話が出てくる。「仮面ライダースナックをおまけのライダーカードのためだけに買い、お菓子は捨てるという子供たちの行為が問題になっていた時代、爆弾のようにまずかった(まるでカードではなくこちらの方がおまけだというくらいまずかった)お菓子を捨てるに捨てられず、一所懸命全部食べていたという涙なくして語れない美談の持ち主」と稲葉さんに紹介されているのは加藤秀一さんなのだが、そんなにまずかっただろうか? けっして、おいしくてたまらないというものではなかったけど、ふた袋くらいなら立て続けに食っていた。さすがに三袋めともなると、カードを楽しむための苦行だと思わねば食えたものではなかったのはたしかだ。でも、おれもお菓子のほうを捨てたことは一度もなかったなあ。「お百姓さんが一所懸命作ったお米をひと粒でも粗末にしては目が潰れる」などと婆さんや母親に言われて育ったためか、菓子を捨てるという行為には、超自我のただならぬ抑圧を感じた。いまの子には、そんな抑圧はあまりないだろう。おれとて、そういう殊勝な子供だったくせに、いまはまずいものはかなり気楽に捨てている。じつはなにを食わされているかわかったものではない時代であるからして、身体を壊すよりはましだろうという計算が働くようになったせいかもしれない。思えば、おれたちくらいの年代の人間は、“目が潰れる”といった感性を一部に持ちながらも、記号を消費する時代へのジェットコースターに乗って多感な時期を過ごしたわけだ。仮面ライダースナック現象ってのは、存外に象徴的なものをおれたちの中に残しているのかもしれないよな。稲葉さんや加藤さんにも、「おれたちは菓子を買っているのか、記号を買っているのか」という問題意識が仮面ライダースナックによって無意識に刷り込まれたのではあるまいか。こういう人々が経済学者や社会学者になっているのは、じつに興味深いことである――ってのは、こじつけがすぎるな。
なんの話だっけ? そうそう、ペプシコーラである。おれは「アタリ」を見分ける方法を発見してしまった。べつに、キリコの絵(玖保キリコではない)から抜け出てきたような銀色の怪人型ボトルキャップが切実に欲しいと思ったわけではない。ああいうものを見ると、不正アクセス(?)してみたくなる純然たる好奇心である。「おや、もしかしたら、この方法でうまくいくかもしれん……」と思いついてから、わずか二分で成功してしまった。コーラという飲みものの性質をちょっと考えれば、この方法に思い当たる人も少なくないはずだ。やろうと思えば、ボトルに手を触れずとも見分けることすらできる。完全な非破壊検査だ。ある道具と、ちょっとしたコツが必要である。もっとも、これを店頭でやったりすれば、たちまち怪しまれること請け合いなので、実用性はまったくない。買って帰ってから、コーラを飲む前にアタリハズレを調べて個人的に楽しむくらいの役には立つな。
あたりまえのことだが、その方法をここに書くわけにはいかないし、問合わせにも応じない。非常識なことはするまいとおれが信頼できる友人たちにだけ教えて、話のタネとしてだけ楽しむんだもんね。ペプシコーラに教えて差し上げれば粗品くらいはもらえるかもしれないが、面倒くさいのでこちらからそんなことをするつもりもない。ペプシコーラの然るべき筋の方からお問合わせがあった場合は、メール以外の方法で認証してから、安全確実と思われる方法で情報提供するのにやぶさかではありません。
それよりも、これも夏休みの自由研究にどうでしょうね? 道具を買わなくちゃならないが、最近の子供は金持ちだから、十分に買える範囲のものである。もっとも、なぜこれがコーラならうまくゆくのかを説明するのには、少なくとも高校生以上の知識が必要だと思う。「ぼくは中学生ですが、ぜひやりたいと思うので教えてください」という問合わせにも、もちろん応じない。その方法をあれこれ考えることこそ、たとえ失敗してもいちばんの理科の勉強なんだよ、キミ。
【6月12日(土)】
▼ようし、引っぱり出したぞ。なにをって、あなた、大学の卒業アルバムですがな。6月8日の日記で予告したとおり、田中哲弥さんに“真言アルバム返し”をかける。田中さんを捜すのにちょっと手間取った。先日の日記には「学部はちがえど」などと書いてしまったが、おやまあ、同じ学部だったとはびっくりである。おれはなにをどう勘ちがいしていたのか、社会学部か経済学部だろうと思い込んでいたのだ。そりゃあ、まちがっても神学部でないことはわかる。聖書の教えに忠実であるなら、脚のきれいな女性が通るたびに、田中さんは目を何個抉り出して捨てても足らないだろうからだ。しかし、文学部出て作家になっているとは、田中さんにしてはヒネリが足らないような気がする。意外だ。
それはともかく、若き日の作家・田中哲弥を卒業アルバムの中に発見したおれは、激しく驚愕した。なんと、田中さんは倉田雪乃ではなかった――と、いったん驚いてはみたものの、よく考えたら田中さんは最初から倉田雪乃ではなかったわけで、これは驚きどころを外していると言えよう。それにあのドラマは、葉月里緒菜目当てで三回に一回くらい細切れに観ているだけであって、この際、菅野美穂は関心の中心ではない。
気を取り直したおれは、もう一度アルバムに対峙した。「わははははは、おんなじ顔やないか」と笑ってやろうと思っていたのに、なんと、そこに写っていたのは、一週間くらい下痢をしたあとの時任三郎のような、凛々しい青年の姿であったのだったのだった。時の流れとは、じつにすさまじい力を持つ。少なくとも、時任三郎が犬を裏返すおっさんに変わるほどの力だ。もしかすると、このころから裏返していたのかもしれず、われわれはいま犬の祟りを目のあたりにしているのかもしれないのであるが、なにはともあれ、卒業アルバムというやつは面白い。ついつい一人ひとりの写真に見入ってしまった。いまこうしておっさんの目で見ると、こんな可愛い女子大生がまわりにうようよおったというのに、いったいおれはキャンパスでどこを見て歩いておったのだろう。脚ばっかり見とったんとちがうか?
▼土曜日の日記で理由もなく『ウルトラマンガイア』(TBS系)に言及しないと、見知らぬ方からも励ましのメールが来てしまうという“ガイア突っ込みアワー”であるからして、今週も性懲りもなく続ける。でもねえ、今週はアレでしょう、視聴者サービスでしょう。そりゃまあ、テレビ番組なんだからいつだって視聴者サービスなんだが、視聴者を出演させるってことね。今回XIGに体験入隊してた子供たちは、以前CMでやってた“ウルトラマンガイア出演権”ってのを獲得した連中なんだろうな。ファイターEXに乗り込んじゃう子だけはプロの子役かな。千葉参謀が甥の天文少年に空への夢を捨てるなと励ましていた以前のエピソード(99年2月6日の日記参照)と、今回の子供体験入隊企画を無理なく関連づけてるのはうまいですね。
今回は突っ込みというより、うまいところの指摘になっちゃうな。空から降ってきた怪獣が着地する瞬間、画面手前を走って逃げている人々が地面の振動でばたばたと倒れるカットも藝が細かい。着地した怪獣の足元から、あまり意味があるとは思われぬ火花が一瞬上がっていたが、おそらくあれは、走っている役者の倒れる演技と怪獣の画像を合成するためのキューに使っているんだろう。『ウルトラマンガイア』には、ウルトラマンや怪獣の重量感にこだわる姿勢が最初から顕著で、今回みたいな細かい藝もポリシーが一貫していていい。ああいうシーンで安易にカメラを上下にブラせるなんてのがよくあるけど、あれは安っぽく感じるよね。谷啓の「ガチョーン!」みたいに思えてしかたがない。「ガチョーン!」は、その場の状況を一気に鷲掴みにするような形の手を、ぐいっと引いてそこで止めるのが正しい作法とされている。手を前後させているように見えているのはカメラワークによるものなのだ。つまり「ガチョーン!」は谷啓の単独藝ではなく、谷啓とカメラマンとの協調作業ではじめて可能になる技なのである。「えっ?」と思った方は、今度気をつけて見てみてください。
それはともかく、カメラがじっとしていても、細かい工夫でああいう重量感も出せるってことですね。べつにおれは特技監督になるつもりはないが、たいへん勉強になる。文章にも応用が利くにちがいない気の遣いかただからだ。
【6月11日(金)】
▼梅雨だというのに、毎日燦々と太陽が照りつけている。駅への道を歩いていると、舗装道路脇の叢に咲く花から花へと蝶が飛びまわっていた。と、モンシロチョウとモンキチョウがまるで求愛するかのように、お互いのまわりをくるくる舞っている。ケッタイなやつらだと思いつつ、しばらく歩いていると、またべつの白と黄色がいちゃいちゃしている。なんなんだ、こいつらは。同じ餌場で競う敵だと認めて闘っているのか、それとも、ほんとうに勘ちがいして番おうとしているのか。
たしかこいつらは、紫外線でものを見ることができたはずだ。舗装道路は白っぽい色で、照り返しもかなり強い。もしかすると、人間が作った環境は彼らのものの見えかたに影響を及ぼしているのではあるまいか。ガラス張りのビルが近接して林立するところでは超音波が効率よく乱反射するため、エコーロケーションに失敗したコウモリがビルにぶつかってしばしば死んでいるという。レーダーがホワイトアウトするような感じだろう。蝶にだって似たようなことがあっても不思議ではない。紫外線が下から照り返してくるような環境で進化したわけではない蝶たちには、舗装道路は“紫外線が明るすぎる”なんてことはないのだろうか。ことによると、同種や雌雄を誤認するほどの影響があるのかもしれない。これはあくまでおれのほんの思いつきにすぎないから、小中学生諸君、夏休みの自由研究なんかにどうだろうね? 近傍に紫外線を効率よく反射するような人工環境のある叢と、自然に近い状態の広い草原とで、あきらかに種類のちがう蝶がいちゃいちゃしている数を調べてみるとかさ。
紫外線の照射量や照射される方向によって蝶の配偶可能個体の誤認率が変化するとしたら、オゾン層の破壊と誤認率に相関が出てくることすら考えられよう。もっとも、一口に紫外線といっても帯域幅があるから、オゾン層によって効果的に遮られている帯域と、蝶が配偶者識別に主に依存している帯域とを調べてから仮説を構築する必要があるだろう。おれが思いつくくだらない疑問をいちいち調べていたら、おれには寿命がいくらあっても足りないので、勤勉な子供たちに期待したい。おれは勤勉という言葉とは無縁なのだ。思いつきだけで生きているグータラである。偉大な科学者たちは、着想ももちろん鋭いが、ほんとうに必要な局面では愚直なまでの勤勉さも発揮するものだ。検証とはそういう地道な作業である。おれは科学者には向かない。
向かないから、無責任にいくらでもいいかげんな思いつきを口にできる。さらに想像をたくましくすると、紫外線環境が蝶の総個体数に影響してくる可能性すら考えられないか。なぜなら、同種の誤認率が上がれば、蝶どもが禁断の愛に溺れてしまうことによって、子孫を残すための機会損失が生じるだろうからだ。蝶が生殖行為に振り向けることのできる時間とエネルギーは当然有限である。共同で子を作れない相手を口説いている時間とエネルギーは、種の繁栄の観点からはまったく無駄になってしまう。まあ、人間なら、それを楽しむこともできるわけだが……えっと、そういう話じゃないな。
こういう適当な思いつきとはちがい、幾年にも及ぶ継続的な調査と検証実験で、紫外線の生物への影響をあきらかにしているほんものの科学者たちもいる。おれはとくにカエルに関心があるので、新聞なんかを読んでいても“カエル”という活字が立ち上がって見えてきてしまうのだが、ここに94年5月7日付の讀賣新聞夕刊の記事がなぜか保存してあるんだな。オレゴン州立大学の両生類学者・遺伝学者の混成チームが、90年から四年間の調査で、紫外線がカエルの激減に寄与していることをつきとめたときの記事だ。オゾン層の破壊によって照射量が増えた紫外線B、化粧品の広告でおなじみの、波長の短いUV−B(波長280〜315ナノメートル領域)がカエルの卵の遺伝子を傷つけ、孵化する前に殺してしまったり、奇形を誘発したりしているという。木の陰や深い水底に産卵するカエルは(まだ)大丈夫なのに、浅い水底に卵を産む種が狙い撃ちされているかのように数を減らしているところから着想した研究だそうだ。紫外線との関係を思いつくには、まず種々のカエルの習性に通じていなくてはならないだろう。着想は生態学者が得たのかもしれない。さらに紫外線フィルタを使った実験装置で何千個ものカエルの卵を人工孵化させるノウハウも必要だ。激減している種のカエルは、浅い水底に卵を産むばかりではなく、傷ついた遺伝子の修復能力もとくに弱いものだったというから、こうしたメカニズムを解明するには分子生物学者の力を借りねばならなかったろう。また、紫外線量との相関はカナダ環境研究所が公表した観測データによって見つけたというから、気象学者の貢献もあるわけだ。野外を歩きまわって毎日カエルと格闘していた学者もいたろうし、朝から晩までカエルの卵を数えていた学者もいただろう。実験機器や観測機器にも数えきれないほどの専門家のノウハウが注ぎ込まれている。さらにたどってゆけば、ずっと前から学者がいくら警告していても一般の人々にはピンとこなかったオゾン層の破壊を、差し迫る危機としてインパクトのある画像やデータで人類に突きつけてくれたのは、宇宙開発技術だ。二十年前に「あ、私はいまカエルを減らしているな」などと思いながらヘアスプレーを使っていた人はおるまい。「オゾン層の破壊でカエルが減る」というだけのことをあきらかにするのに、いったいどれほどの人間の叡知と技術が必要であったかを考えると、なかなかどうしてホモ・サピエンスも捨てた種じゃあないと思えてくる。
オゾン層とカエルの減少との関係をきちんとした科学的な調査であきらかにしたのはオレゴン州立大学が最初だが、その後、エール大学をはじめさまざまな大学や研究機関から同様の研究が次々と発表されている。むろん、嚆矢となったオレゴン州立大も、調査対象をほかの両生類にまで広げ継続的に研究をしている。オゾン層を壊している阿呆はおれたち人間だ。でも、阿呆とは阿呆のままでいるやつのことなのであって、少なくともホモ・サピエンスは、名前負けするほどに阿呆ではない……と思う。が、まだまだわからんぞ。
↑ ページの先頭へ ↑ |
← 前の日記へ | 日記の目次へ | 次の日記へ → |
ホーム | プロフィール | 間歇日記 | ブックレヴュー | エッセイ | 掌篇小説 | リンク |