ホーム | プロフィール | 間歇日記 | ブックレヴュー | エッセイ | 掌篇小説 | リンク |
← 前の日記へ | 日記の目次へ | 次の日記へ → |
99年7月中旬 |
【7月19日(月)】
▼仕事で金融関係のサイトをあちこち覗いてまわっていたおれは、一瞬わが目を疑った。ひどい乱視と近視と疲れ目で、さほど信頼性の高い目ではないが、そんな目でも疑った。こんな文章が目に跳び込んできたのだ――「証券アナリストが金融データを解脱しています」
もちろん、よくよく見ると“解脱”ではなく“解説”だったのだが、証券アナリストが空中浮揚している絵が即座に浮かんでしまい、吹き出しそうになった。いかんなあ。これから、また思い出して笑いの発作が襲ってくるにちがいない。「解脱を一本お願いしたいんですが……」なんて電話がかかってきたらどうしよう――って、音じゃまちがわねーよ。
【7月18日(日)】
▼人間が対応する銀行の窓口を、おれは密かに“ゆうじんくん”と呼んでいる。
▼金属のパイプでできていたり樹脂製の板でできていたりしても、列車についている“アレ”は、いまだに“網棚”としか呼びようがない。吊り革がいまだに“吊り革”である(99年6月23日、27日の日記参照)のと同じようなものだろうか。言葉というのは、なかなかどうして保守的だ。外来語は意外とあっさりほかの表現に入れ替わってしまったりするけれども、大和言葉はしぶとい。やはり日本人の深層に訴えてくるパワーがちがうのだろう。“トルコ風呂”なんか、あっというまに“ソープランド”に取って替わられてしまったもんなあ。おれはいまから予測しているのだが、映画館や劇場などの入口で磁気カードやICカードをスロットに差し込むだけの時代になったとしても、その装置はやはり“もぎり機”とかなんとか呼ばれることになるのではなかろうか?
▼土曜の深夜――ってのは、この日記のルールでは今日なのだ――に、OVA版の『ブラック・ジャック』(監督・出崎統)をよみうりテレビが突発的に放映。新聞をチェックしておいてよかった。深夜欄のこととて新聞には『ブラック・ジャック』としか書かれておらず、実写版の映画なのかVシネマなのか劇場公開されたアニメなのかOVAなのか、てんでわからない。一応録画の準備をしておいたら、OVA版の「KARTE5 サンメリーダの鶚」(このタイトルに使われている“ふくろう”の正しい字が第二水準までにない)と「KARTE6 雪の夜ばなし、恋姫」の連続放映だった。これは儲けものである。ちょうど観てないやつだ。これで出崎版BJで観ていないのは「KARTE4 拒食、ふたりの黒い医者」だけだな。
なんだか『あしたのジョー』みたいな画面がおれには少しうるさいのだけれども、けっこう出崎版は好きである。脚本に原作への愛がある。原作を相当丁寧に読み込まないと、ああいうホンは書けないだろう。基本的にはオリジナル・ストーリーでありながら、いろんなエピソードからのネタがうまくちりばめられていてファンには嬉しい。かといって、けっしてツギハギではなく、手塚BJの屋台骨を踏襲しながら、オリジナリティーを発揮している。枚数の制約がなかったら手塚治虫もここまで描きたかっただろうと、ファンに納得させるほどにテーマやディテールを深化すらしているのである。たとえば「サンメリーダの鶚」の機銃掃射のシーンなどは、あきらかに手塚の「カノン」を意識しているのがわかるのだ。つまり、「さあ、マンガをアニメにしましょう」と『ブラック・ジャック』だけを表面的に読んで作っているのではなく、手塚治虫という作家を徹底研究したうえで、自分の『ブラック・ジャック』を再構成しているわけである。
声優もいい。いままで、いろんな人がブラック・ジャックをやったが、おれの中では大塚明夫の声がいちばんしっくり来るようになった。伊武雅刀や野沢那智も悪くはなかったが、いささか声が甘すぎるような気がするのだ。宍戸錠と加山雄三は忘れよう。
【7月17日(土)】
▼忙しいので、いきなり“ガイア突っ込みアワー”である。そろそろ『ウルトラマンガイア』(TBS系)も風呂敷を畳みはじめ、残してある謎に関する情報がぽこぽこ出てくる段階だ。
千葉参謀の言葉遣いに、ちょっと違和感を覚える。「いままでの宇宙怪獣とちがって、敵は情報と高い知性を持っているようだ」などと言っていたが、GUARDの施設を狙ってきたくらいで高い“知性”があるかどうかわかるものか。高い“知能”はあるかもしれんが……。
でも、“知性”と“知能”がどうちがうかといわれると、説明が厄介ではあるよな。なんとなくわかっていて使い分けてもいるんだが、厳密に定義するのはなかなか難しい。「知性があれば知能もあるが、知能があるからといって知性があるとはかぎらない」という感覚は、だいたい万人に了解されそうな気はする。ということは、知能は知性の必要条件であるが十分条件ではないと、おれたちはなんとなくわかっているわけだ。じゃあ、知能になにが加われば知性と呼ぶに足るのか? これが難しいよね。「彼は知性を感じさせる人だ」といえば褒め言葉だろうが、「彼は知能を感じさせる人だ」となると、あんまり褒めているような感じではない。“知能犯”ってのはあるが“知性犯”ってのはない。うーむ。
みずからの知能をモニタする能力があるかどうかで使い分けているのだろうか? つまり、知能を使うべきかどうかの状況判断ができるかということか? いや、それはおかしい。その状況判断ができるということは、すなわち、より知能が高いことを意味するにすぎないからだ。
字を見て考えれば、やはり“知”が“性”(さが)になっているのか、そうでないのかあたりに基準があるんじゃないかな。そうでないってのは、どういう状態を指すのか? 知が性ではないが知ヲ用フルコト能フさま、なんだろう。マイクロフォンのプラグをヘッドフォンのジャックに差し込むと(形状が合えば)スピーカーとして使えることは使える。つまり、マイクロフォンにはスピーカーとしての“能”がある。が、それはマイクロフォンの“性”ではない。
そうか、知能になにかが加われば知性になると考えるからおかしくなるのだ。知能を持つ存在の“在りかた”そのものが“知”と分かち難く結びついているさまそのものを指して、“知性”と言っているのではあるまいか。こう考えれば、AさんはBさんより知能は低いが、Bさんより知性的であるということがあり得る。実際、おれたちはそのように使い分けていると思う。
英語だと、おれたちが使い分けている“知能”も“知性”も、intelligence になっちゃうよね。知が扱う情報そのものを指したりもする。 intelligence のほうが広い概念だというよりも、“知”というものの“切り取りかた”がちがうのだろう。でも、連中におれたちのような感覚がないわけではなく、ちゃんと smart や wise や clever を使い分けている。 smart がニュートラルに“かしこい”って感じで、 clever は“知能”の匂いをより強く感じさせる(時として悪い方向にも)。おれたちが言う“知性”のニュアンスを持つのは wise だ。intelligent ってのは、アングロ・サクソンたちにとっても元々外来語なので、血の通った価値判断が捨象されてるんだよね。
してみると、小松左京の『虚無回廊』(未完)に出てくる“人工実存”(Artificial Existence)ってのは、みごとな造語だ。“知能”は情報処理能力の一形態にすぎないが、“知性”と呼ぶべきものには、存在様態の関与が不可欠だというわけですな。
【7月16日(金)】
▼会社の帰りに本屋に寄ると、『買ってはいけない』(「週刊金曜日」増刊、船瀬俊介ほか、金曜日)が山と積まれていた。話題になっているらしいので、どんな本だろうとしばらく立ち読み。な、なんだ、これは……。この日記を続けて読んでくださっている方には自明のことであるが、この本はどうやら、おれに「なにも食うな」と言っているらしい。面白ければ買おうと思っていたが、おれにとっては精神衛生に悪いだけの本なので、ひととおり高速スキャンして山に戻した。そりゃあ、いくら呑気なおれだって日々ろくなものを食って生きていないことはよくよく承知しているよ。だが、まっとうな警告や批判ならともかく、どう見ても特定の商品に難癖をつけているとしか思われぬところがこの本にはある。「お説ごもっとも」とおれがこの本を熟読したとしても、たぶんおれの生活は昨日までといささかも変わることなく、「カカオの恵み」を貪り食い「ラ王」を啜りながら明日もあさっても続いてゆくことであろう。この本の成功は、タイトルの勝利なんだろうな。『この商品が危ない!』とかなら、こんなに売れてないだろう。『買ってはいけない』って傲慢なタイトルは、たしかにインパクトはある。だけど、おれに言わせりゃ、大きなお世話だよ。あくまで情報を提供して、判断は読者に任せるというのなら話はわかるが、なにも赤の他人に生活指導をしてほしくはないわい。それともなにかな、こういう傲慢なもの言いのほうが「頼り甲斐がある」「信憑性が高そうだ」と思う人が多いのかねえ? この本に載っている商品の悪いところが、まあ一応全部ほんとうだとしようか。だったら、次はぜひ『買いなさい』という本を出して、著者たちが太鼓判を押す安全商品を紹介してもらいたいものである。賭けてもいいが、そういう本が『買ってはいけない』ほどのベストセラーになることはないだろう。
【7月15日(木)】
▼十年くらい使っている目覚まし時計が壊れてしまったため、会社の帰りに百貨店の時計屋に寄って新しいのを買う。バーゲンの季節のこととてちょうど豪華賞品が当たる抽選会などというものをやっていた。時計を買って一回ぶんの抽選券がもらえたから、あまり期待せずに抽選所へと向かった。おれはこの手のくじ運はまったくないのである。
閉店も間近で人も少なく、抽選所には六十は超えているだろう老婦人がひとりいるだけで、すでにあの“ガラガラ”を回していた。そのうしろに並ぼうと、おれが近づいていったそのときである。老婦人の出した玉を見た係員が「えっ」と顎を落とした。彼は玉をつまみ上げるとしげしげと眺め、「うわあ」と叫びながら為すべきことを為した――カラン、カラン、カラン、カラン!
【7月14日(水)】
▼99年6月21日の日記でご紹介した「第一回 輝け!日本変格書評コンテスト」の結果が出ていた。「月とナイフの方法論」の結果速報をご覧ください。おれもバカな選評を書いている。そもそもがギャグ企画だから文体はバカなノリだが、選考そのものはきわめて真面目に行なった。なかなか楽しかったですよ。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
『この冊子は第三十八回日本SF大会「やねこん」内の自主企画「SF創作講座」の印刷教材です。その証拠に印刷してあります』と、まるで豊田有恒のコミカル短篇のような書き出しの「はじめに」に、にやりとする。これは商業誌ではなく、アマチュアの方々が作品を寄せた同人誌、というか、自主企画の“教材”である。四百字詰め原稿用紙にして千二百四十枚、二十九篇の作品が収録されている。
もらっておいてこんなことを言うのもなんだが、とてもすぐには読めそうにない。書店で売っている本ですら満足には読めず、積ん読ばかりが山のように溜まってゆく。サラリーマン兼業のつらいところだ。おれの本業は本とはなんの関係もない。おれがまちがっても“書評家”を名告らないのは、大量に読むことができないからである。これだけ本が出ている世の中であるから、“書評家”を名告ろうとすれば、最低一日一冊、欲を言えば二冊以上、つまり月に六十冊以上は網羅的に読んで、端倪すべからざるものはさらに再読、三読、熟読吟味して評を書くくらいでなくてはならないであろう。そんなことをしようとすると、読むのに精一杯で評を書いている時間がなくなる。感想文くらいなら書けるかもしれないが、ほんとうはそんなもので金をもらってはいけないのである(もらっているが……)。よって、ちゃんとした書評家は専業であるべきだと思うのだが、専業で食えている書評家などというものがいまの日本に存在しているのかどうか、おれはよく知らない。いたとしても三人はいないだろう。
作家や翻訳家や評論家やエッセイストは、一作商業的媒体で作品を発表すれば半永久的にそう名告れる(世間が認めるかどうかは別として)けれども、書評家は常に新しい本の書評を書いていないと、たちまち書評家でなくなってしまうのである。おれには逆立ちしてもなれないものがあるとすれば、それは書評家だ。ただ、こんなおれでも、自分が読んだものに限れば、楽しみどころを発見したり紹介したりすることはできる。自分がなぜ面白いと思ったか、つまらないと思ったか(をわざわざ書くことは滅多にないが)を、まだ読んでいない人々に伝える程度の能力はあると思う。だからおれは、あくまで“紹介屋”のつもりなのである。せっかく金払って本を買うんだから一緒に楽しみましょうと、歌って踊る程度の藝しか持ち合わせていない。
さて、もらったばかりで全然読んではいないのだが、ぱらぱらと眺めただけでも、かなり高水準なのだろうということはわかる。なんでわかるとかいうと、もうおれくらいのロートルになると、字面を“絵”として眺めただけで、ど素人か高水準のアマチュアかプロか、識域下に訴えてくるタイポグラフィカルな効果だけからでも、ほぼ判断がついてしまうのである。「ああ、わかるわかる」と頷いている方もいらっしゃると思う。基本ができている人ってのは、不思議なことに字面にある種の美がある。どんなにノリの軽い文体でも美がある。なんなんだろうね、これは? アマチュアの作品を読む場合、まずおれは字面で「おっ」と思い、さらに“音”で「おおっ」と思い、ほぼ数十行のあいだにどのくらい注力して読むべきものか見当をつけてしまう。ちなみに、おれは“音”の点が高い読者である。遅読の最大の原因なのだが、おれは頭の中で音に変換しないと小説を読んだ気がしない。ひどく魅せられて読んでいるときなど、音読したくてたまらなくなる。「ずばばばばばば」「わははははははははは、わはは、わははは」などといった表記も、単なる効果音と認識して跳ばしてしまうのではなく、必ず音節の数をきちんと読んでいる。これもまた不思議なことに、字面に美があるものはたいてい音楽的にも美があるものなのだ。言葉が頭に流れ込んでくるリズムは、一種性的ですらある快感を生じさせる力を持っている。むろん、お話が面白いことは大切なことだけれども、言葉を読むという行為に伴う生理的快感を考慮していない文章は、とても疲れるのである。あまりにも字面や音に淫してはいけないだろうが、おれはタイポグラフィカルな、また、ミュージカルな側面を高く評価するタイプだ(手前の文章は棚に上げる。あたぼうよ)。同意してくれる人は少ないけれど、そういう意味でアーサー・C・クラークや堀晃は名文家だとおれは思っている。最近の人気SF作家で、タイポグラフィカルにもミュージカルにも、ことにセクシーな文章を書く才人といえば、牧野修だろう。描写がセクシーだというのではない。絵として、音としての文章で読者に快感をもたらす、独特の文才を持っている。
おっと、いただいた本とあんまり関係ないお喋りをしてしまった。この『でならひ草子 やねこん号』、豪華付録もあるのだった。「感想メモなど」と題した久美沙織氏の講評である。SF大会って、こんなにためになる企画をタダでやってるのだねえ(大会の参加費は要るけど、この企画が別途有料ってわけじゃないもんね)。応募者の中には、じつはおれも名前をよく見かける人が何人かいるし、会ったことがある人すらいる。将来、この中からSF作家が出てくるかもしれないと思うと楽しみだ。「あっ、あのとき『でならひ草子』に載ってたあの人だ――」と、いつの日か驚かせてください。
【7月13日(火)】
▼虫の話が続く。先日姪どもに買ってやった昆虫図鑑に、小学校に上がったばかりの下のほうの姪がすっかりハマっているという。連日どこかから虫を捕まえてきては、図鑑で調べているらしい。ひひひひ、おれの思うつぼ――いや、好奇心旺盛でよろしいことである。次は宇宙の本かなにかを買ってやろう。このまま下の姪が虫愛づる姫君になって、家の中で毛虫やらなにやらを放し飼いにしはじめると、余計なものを買い与えやがってとおれが妹夫婦の顰蹙を買うやもしれぬが、なあに、そんなことでめげていたのでは悪いおじさんはやっていられないのである。おれがもっと金持ちなら、顕微鏡やら天体望遠鏡やら電子顕微鏡やら電波望遠鏡やらを買ってやれるんだが、そこまでの余力はない。手塚治虫漫画全集をぽんっとひと揃い買ってやれたら、悪いことを教える手間が省けていいのだがなあ。
▼「ファンタジーの森」という応援サイトがある。なにを応援しているのかというと、プランニングハウスから出ているファンタジー専門の新書シリーズ《ファンタジーの森》を応援しているのだ。おれはまだ『風の名前』(妹尾ゆふ子)と『スバル星人』(大原まり子)しか読んでないけれども、特定の新書シリーズの応援サイトというコンセプトがなかなか興味深い。篠崎砂美氏が作成・管理してらっしゃるのだが、篠崎氏自身はべつにこのシリーズに書いているわけではないのである。個人として応援したいから応援しているのであろう。
また、「SFバカ本ホームページ」というサイトもある。こちらは、廣済堂文庫の《SFバカ本》シリーズ(大原まり子、岬兄悟編)の宣伝サイトだ。管理者は、同シリーズの編纂者、岬兄悟氏である。
そろそろ日本でも、作家が自分の個人ページで宣伝をする初歩的段階から、ゆるやかな結びつきの作家集団や特定のブランドをPRする段階へと進んできたようだ。むろん先駆者としての「JALInet」を知らないわけではないが、「JALInet」には、まずASAHIネットという商業的な後ろ楯があった。参加している作家一人ひとりは、おれも好きな作家が多いとはいうものの、なんとなくゲリラ活動としてのダイナミズムを欠いているように思うのである。「ファンタジーの森」や「SFバカ本ホームページ」とは、似ているようで性格がまるでちがう。「日本SF作家クラブ」のサイトもダイナミズムを欠く点では「JALInet」と似たり寄ったりで、資料としてはありがたく利用しているのだが、読んでいて面白いというものではない。なんなんだろうね、これは? 単にパソコンの普及率のちがいなのだろうか? ただのリンク集やウェブリングにしても、SFWA (Science Fiction and Fantasy Writers of America)のウェブリングには、いわく言い難い活気があるような気がする。まず容れものを作り、それを分割して成員に割り当てるといった発想をすると、ウェブページというやつは途端に面白くなくなるものだ。業界団体やら自治体やらにはこれをやっているところが多く、じつにつまらないサイトになる。最初に個人があり、それらが塵が集まって惑星になるようにルースな小集団を形成すると、これが独特の持ち味を醸し出したりする。要するに、WWWの媒体特性は、ゲリラ活動にこそ適しているのだろう。
「ファンタジーの森」や「SFバカ本ホームページ」のようなサイトは、本来出版社が作るのが筋だとついつい考えがちだが、それは古い発想なのではなかろうか。作家は手前の書いた本の宣伝を出版社にのみ頼ることはないはずだ。アンソロジーの大きな効果のひとつに、「好きな作家の作品が載っているから読んだところ、いままで知らなかった作家が気に入った」というものがある。現在、個々の作家が立ち上げているウェブページも、リンク集や日記によって、こうした“アンソロジー効果”が出ているのは否定できないだろう。おれのところにすら「冬樹さんのページで知った作家を初めて読んでみたら面白かった」といったメールが来たりするくらいだ。おれはちゃんとした書評をほとんどしていないに等しいから、おれがここのバカ話で引き合いに出す作家・作品のことを言っているわけである。いちばん嬉しいのは、「こういうヘンな発想をする人がSFファンなのだとしたら、自分もSFを好きになるタイプかもしれないと思ってSFを読んでみた」という主旨のお便りだ。バカ話をしているだけでSFファンを増やすのに貢献できているとしたら、なんともありがたいことである。「SFを読んだことがないのですが、初心者にはどういうのがお薦めですか?」なんてのも、このところ月に一通くらいは来る。もっと偉い書評家や評論家の先生に訊けよとは思うものの、仲間を増やすのは嬉しいので、きちんとお答えしている。ちなみに、初心者にはなにがいいかという質問には、相手の好みがわからないと厳密には答えにくいけれども、近年おれは、ロバート・J・ソウヤーの名は必ず入れることにしている。
おっと、話が逸れた。べつにおれのサイトは人気があるぞと自慢したいわけではなく、おれ程度のサイトですらなにがしかの紹介効果があるのだから、小説観を、利害を、志を同じゅうする作家たちのサイトが共同戦線を張れば、バカにならないPRができるはずである。
おれが注目しているのは、膨大な資金を投じ、メディアミックスでとにかく知名度を上げようとする角川商法的マーケティングではない。99年5月17日の日記で少し触れたように、“大衆”や“分衆”の属性を分析し、そのニーズを満たすと考えられる枠組みを仮想して提供者側からいわば“押しつける”マーケティング手法は、そろそろ終焉を迎えつつある。すでに「セグメンテーションがうまく効かない」と言われはじめて久しいのだ。ここへ来て、コンピュータの普及と発達が、文字どおり一人ひとりの顧客の属性管理を可能にした。オンライン書店の amazon.com がやっているのは、まさにそれである。彼らは、おれが過去にどんな本を買ったかを知っている。また、任意の書籍Aを買った顧客の集合が、ほかのどの書籍を買った顧客の集合とどの程度重なるかを、顧客の購入履歴からたちどころに弾き出すことができる。マイクル・コーディを買おうとすると、向こうからデイヴィッド・ショービンを薦めてくるのだ。ロバート・J・ソウヤーを買おうとすると、「ソウヤーを買った人は、ジャック・マクデヴィットやジョー・ホールドマンも買っていることが多いですよ」と薦めてくるのだ。これは「たぶんそうだろう」というデータではない。実際にそれらの本を買った顧客から導き出されたデータなのだ。膨大なデータを多面的な角度から管理・分析するデータウェアハウスが背後にあってこそできることである。
こうしたことは、いまはまだオンライン書店にしかできないわけだが、小売店での電子決済が普及し個人情報管理と融合すれば、物理的な書店にも――近い将来、出版社にも――可能になるはずだ。短冊と読者カードをかき集めて読者の属性を“想像”している状態が、いつまでも続くわけがない。二十年も三十年も続くとは、おれには到底思われない。十年以内に、出版社はおれがどの本屋でどの本を買いどの銀行の口座から金を払ったかを知ることになるだろう。おれの書籍購入履歴と似たような履歴を持つ読者のデータを統計的に分析し、近いうちに出る新刊の中からおれが食指を動かしそうな本を高確率で的中させ、その案内を電子メールで送ってくるだろう。ことによると、おれが好んで読む本からおれの好む音楽を推測し、CDの案内を送ってくるだろう(アマゾンは、すでにウェブページ上で不気味なほどにこれを当てる)。そんな時代のマーケティングで、当てずっぽうのセグメンテーションがどの程度意味を持ち続けていられるものだろうか……。“マス”や“セグメント”を対象にした広告は滅びはしないにしても、より効果的な広告はどんどん“個”を対象にしたものにシフトしてくるにちがいない。
まあ、このような姿は、ほんの少し未来の話だとしても、現在のウェブページがすでに“個”を対象にした広告効果を持ちはじめているのはたしかである。「ファンタジーの森」のサイトから妹尾ゆふ子のサイトを知り、妹尾ゆふ子のサイトからおれのサイトを知り、たまたまロバート・J・ソウヤーの名を知った読者が『スタープレックス』(内田昌之訳、ハヤカワ文庫SF)を読んでSFも読むようになる――なんてことが、個別事例としてはあり得るのだ。個別事例も積れば山となる。そして、彼なり彼女なりは、自分のウェブページで、出版社の広告ではまず並んだことのない妹尾ゆふ子とロバート・J・ソウヤーとを並べて感想を書くかもしれない。それを読んだソウヤーファンは、妹尾ゆふ子とはどんな作家だろうと関心を持ち……さて、今度は誰のどんな作品を発見することになるだろうか?
これからのマスは、顔のないマスではない。一人ひとりの顔が見える“個”の集合体となってゆくのだ。例の“東芝アフターサービス事件”に、いまいちばん注目しているのは、企業のカスタマサポート係ではなく、マーケターなのではないかとおれは思っている。
【7月12日(月)】
▼岐阜県に登場した“カブトムシの自動販売機”とやらに「なんだかなあ……」と苦笑していたら、母が意外なことを言った――「手に入らへんよりはましやで」
年寄りにしてはなかなか画期的なことを言うではないかと、珍しく感心する。カブトムシやらクワガタやらが、何千円、何万円、何百万円で売り買いされていることについて、年寄りの口からは「嘆かわしい」といった意見が出てくるだろうと予測していたのだ。なるほど、どのみちそこいらにはいないのだから、子供を実物に触れさせてやるという観点からは、売りものであろうがなんであろうが、手に入るに越したことはない。
カブトムシの自動販売機と最初に聞いたとき、おれは不条理にも煙草の自動販売機のようなものをイメージしてしまった。硬貨を入れると、ガッチャン、ボトッなどと取出し口にカブトムシが出てくる画が浮かんだのだ。のちに映像を見て、生花やらパンやらの自動販売機に近いものだとわかったが、ガッチャン、ボトッのほうが、より殺伐としていて面白いと思いませんか?
そのうち、ほんとうにそういうタイプのカブトムシ自動販売機が出現しないともかぎらない。
「もしもし」
「はい、むしむし販売サービスです」
「昨日、お宅の自動販売機でカブトムシを買うたんやが、なんやヘンやねん」
「どういった点がでございましょうか?」
「なんか角が短いような気ぃがする」
「はあ、そうですか。弊社では遺伝子の塩基配列につきましては厳格な品質管理をしておりますが、やはり実際の発現形質となりますと、発生過程でのさまざまな外因から多少のばらつきが生じることがございます。弊社の“昆虫のタネ”自動販売機は、きわめて防塵性の高い設計にはなっておりますけれども、たとえばメンテナンスなどの際にわずかに紛れ込んだ放射性核種の微粉末が、ごくまれに製品の品質に影響を及ぼす事例が報告されております」
「そんなちゃちなもんなんかいな?」
「自動販売機そのものは、たいへん堅牢で密閉性も高うございますですよ。そういうことが起こるのはごくごくまれなのでございます」
「うーん、フィルムの引っ張りかたが悪かったんかなあ。説明書どおりにやったんやが……。えーと、カプセルからちょろっと出てるフィルムを引き抜くだけで、超加速発生とやらがはじまるようになってんにゃろ? ちょっともたついたんで、それが悪かったんかもなあ」
「おっしゃるように、あのフィルムを引き抜くのには、ややコツが必要ではございますね。強すぎず弱すぎず、カプセルをやんわりと握りながら、ゆっくりフィルムを引き抜くとうまく行きます。焦ると海苔が破れてしまったり、米粒がはみ出してきたりします」
「……なんかようわからんが、とにかくそれが原因かもしれんわけやな。もうちょっと、やり易いように作らんかいな」
「貴重なご意見をありがとうございます。改良を重ねてまいる所存です」
「まあ、角の件はええわ。それほど不格好でもないさかいな。そやけど、このカブトムシ、えろう光沢が悪いで」
「その代わり、やや毛深いのではございませんか?」
「うん、そういうたら、細かい毛ぇがようけ生えてるわ」
「ああ、それはそういう製品なのでございます。まるでプラスチック製のロボット昆虫のようにてかてかしているよりも、細かい毛がたくさん生えているほうが、いかにも生きものという感じがして逞しげだとおっしゃるお客様も多うございますよ」
「そんなもんかいな。言われてみたら、たしかに強そうに見えるわ」
「ありがとうございます」
「よっしゃ、それもええとしよう。あと、些細なことやが、気にかかってることがあるねん」
「はい、どういったことで?」
「脚が八本あるんやが……これはこいでええんかいな? じつはわし、ほんまもんのカブトムシて見たことないねん。うちの古〜い図鑑を見たら、脚は六本みたいな絵ぇが描いたあるんやけどな」
「……ふ、ふつーそれをいちばんにおっしゃいませんか? いやまあその、それはたしかに、図鑑のほうがより一般的だとは申せますね。でも、昨今流行の、風情を欠くロボット昆虫とちがって、それも“ほんまもん”のカブトムシにはちがいございません。脚が二本くらい多くても、かえって希少価値が出るくらいのものですよ。お客様は運がおよろしいのでは?」
「ほお、珍しいんか? 高う売れるか?」
「マニアの方々のあいだでは、そういう畸――いやその、属性に関してなにがしかの過剰や欠落を具えた個体がたいへん珍重されているそうでございます」
「そうか。ネットで売ったろかな」
「おおっぴらにはご遠慮ください。遺伝子コーディングの著作権侵害になります。ただ、お客様にだけこっそりお教えいたしますが、あまり一般的でない形質を偶発的に発現した場合、会社のほうもたいていは大目に見ているようでございます」
「ほう、あんた、なかなか話がわかるやないか」
「内緒でございますよ。それから、売りかたにはお気をつけになったほうがよろしゅうございます。お客様は公務員の方ではございませんよね? 先日、私どものオオクワガタを、勤務時間中に公の設備を用いてネットで販売していた公務員の方が処分を受けておられます。この件に関しては、会社も著作権侵害の訴訟を起こしております」
「そら悪質やな。まあ、気持ちはわからんでもない。オオクワガタ売ったほうが儲かるやろからな。でも、税金で買うた設備使うて個人的に儲けられたらかなわんわな」
「私立大学の教授などは、クイズ番組はおろか、味噌汁のコマーシャルに出てまで研究費を捻出しているそうですのにね」
「ああ、あの人かいな。大学の先生もたいへんやな。そやけど、国立大学も金には困ってるみたいやないか。いろいろネット通販とかやっとるやろ? あれも研究費の捻出かいな?」
「はて? 国立大学がネット通販なんかやってましたでしょうか?」
「クロロホルムとか」
「あれはべつに大学がやってたわけではないんじゃないかと……」
「そうか? まあ、ええわ。わけのわからんネット通販が多いさかい、誰がなに売ってるんか、いちいち憶えてへん」
「怪しげな健康食品やらドラッグやらも多うございますね。じつは、私どももひどい業者の被害を受けておりましてね。私どもの即席カブトムシを違法に大量養殖してミキサーですり潰し、健康飲料と称してネットで通販していたとんでもない業者が捕まっております。これも内緒でございますが、多少の知識と設備があれば、弊社の特許技術を悪用してカブトムシを短期間に大量に作り出すことができます。まったく、特許や著作権をなんだと思ってるんだか……」
「えっ……そんな事件は知らんぞ……」
「あまりマスコミには大きく出ませんでしたからね。絶倫飲料〈サンバイダー〉ってご存じありませんか? 三倍どころか、ぜんぜん効きゃしません。そりゃ、ただのカブトムシの絞り汁ですから。私どもの業界では“ビートル・ジュース”って呼んでるんですがね」
「……ちょ、ちょっと気分が悪うなってきたんで失礼するわ。いろいろおおきに。ま、またわからんことがあったら電――おぇ、おえええっ」
【7月11日(日)】
▼葉月里緒菜の誕生日。だからどうした。
いやしかし、いいですねえ。じつに頭のよさそうな女性である。おれははっきり言って変態なので、知性にセックス・アピールを感じる。おれと同程度か(ということは、あまりたいしたことはないわけだが……)、おれより頭のいい女性に惹かれることが多い。なんというか、おれは峰打ちでチャンバラをやるのは疲れるから嫌いなのだ。意識して刀を峰に反すこと自体に、はなはだいやらしいスノビズムを見てしまう。蚊でも蠅でも蛆虫でも、叩っ斬るときは刃の側で叩っ斬らないと気色が悪い。「あ、おれはいま“手加減して”話しているな」などと自分で意識してしまうや、そのいやらしさに自己嫌悪に陥る。それが疲れるのである。かといって、蚊やら蠅やらをいちいち真剣で両断している姿というのも、あまりみっともいいものではない。要するに、蚊や蠅は相手にしないのが精神衛生にいちばんいいのだろう。峰打ちの必要がない相手と真剣で斬り結んで、お互いに前髪を一房落とされたり頬の皮を切られたりしているときに、おれはほとんど性的快感に近いものを覚える。いわば、会話でセックスしているようなものだ。葉月里緒菜とは、そんな機会はあるまいが、サシでお話ししてみたいと思うね。あと、ぜひお話ししてみたい頭のよさそうな女性というと、小林聡美だな。生理的にはおれのタイプではないが、一緒に飲みたいとは思う。
▼7月5日の日記で触れた“東芝アフターサービス事件”は、大新聞にまで取り上げられてえらい騒ぎになってきているようだ。とうとう東芝の公式見解「VTRのアフターサービスについて」が同社のウェブサイトで発表されていた。ウェブで情報発信する姿勢は評価したいが、おれには不可解な点がふたつある。
まず第一に、「以上のとおり、当社は一貫して誠意を持って対応いたしましたが、 お客様ご本人からの度重なる電話、 FAXによる要請やVTR本体を一方的に当社及び製造子会社の社長に送付されるというような経過がある中で、 お客様ご本人との会話に一部不適当なやりとりがあり、 事情をご存知ない一般のお客様に誤解を招きかねない状況にあることにつきましては、残念に存じております」というのが、謝罪なのかなんなのかよくわからない。件のウェブページを読んだ人々が、音声ファイル化されている例の「一部不適当なやりとり」のみを以て、詳しい事情も知らないくせに東芝に悪感情を抱くのは東芝として残念である、と言っているのであろうか。だとすると、誰に対しても東芝は“申しわけない”とは思っていないわけで、そう解釈していいのだろうか? あるいは、非常に好意的に判断すると、国際的に活動している東芝のことであるから、この公式見解の原文はじつは外国語で作成されていて、それを日本語に翻訳するときにややニュアンスのずれが生じたということなのかもしれない。おれの知っている言語なら、英語の sorry (regretful や regrettable ではなさそうだ)か、ドイツ語の Es tut uns leid, dass 〜 あたりを、筆者の意を汲まずに誰かが直訳してしまったかのような感じを受ける。「事情をご存知ない一般のお客様」とはたぶんおれを含む人々のことを指していると思われるが、事情をご存じであろうがなかろうが、あれが「不適当なやりとり」どころでないことくらいは、誰にでもわかる。どうも、クリントン大統領は世界中に悪影響を与えているようだ。あのやりとりを聴いた(東芝ユーザを含む)人々が抱く不快感や不安について、東芝は「ごめんなさい」と言うのが筋であるようにおれには思われるのだが……。あのやりとりをしたことが“残念”なのではなくて、それを聴いた人々が“誤解”を抱きかねない状況が“残念”なだけなのか? ウェブで反論する気になったのはいいけれども、こういうわかりにくい文章を発表しては逆効果だろう。東芝の家電製品のマニュアルは、こういう言語で書いてあるのだろうか? だったら、もう少しPL法対策を練ったほうがよいと思う。
第二に、上記「VTRのアフターサービスについて」のページからは、当然、問題の「東芝のアフターサービスについて」というサイトにリンクを張るべきだろう。でないと、東芝のページを先に見た人には、そこに書いてあるのがなんのことやらわからない。これは、おれが過去(98年2月22日の日記参照)に米田淳一氏とやりあったときに、大森望さんに批判されたのと同じ過ちである。要は“ふりのお客に双方の言い分が読めるように紹介する”のが合理的かつフェアなやりかただということだ。言い替えれば、“ウェブページを読んでいる人はたいていバカであって、たかが一箇所に書いてある、たかがひとりの見解を鵜呑みにするものである”などということを前提にしたようなページ作りは品がないのである。判断は読者がする。だからこそ、ふつうの読解力の持ち主がどう読んでもおかしいと思うようなことをのべつ書き散らしているバカがおったとしても、そういう輩は良識あるサイレント・マジョリティーによって自動的に“みんなの笑いもの”として片づけられるメカニズムに巻きこまれてゆくため、大局的には笑っていられるのである――などと書いているこの文章自体が“みんなの笑いもの”になる可能性を孕んでいるところが、インターネットの面白みであり可能性であるだろう。民主主義と衆愚政治は見かけは同じものなのだ。インターネットがどちらへ転がってゆくかは、個々の利用者の知性と品格にかかってくる。この媒体はこれからが見ものだ。おれがどちらへ転がしているかはわからないが、願わくば民主主義のほうへ転がしたいものではある。
余談だが、米田淳一氏とおれとのあいだには、その後個人的にやりとりがあり、上記の事件の禍根はもはやない。彼がバカをやったらおれはこれからも笑うだろうし、おれがバカをやったら彼が笑うだろう。つまり、敵でもお友だちでもない、ありふれたインターネット・ユーザ同士の関係である。作家もどきと書評家もどきという点では、案外、眼高手低の似た者同士なのではあるまいかとも思う。
さて、東芝事件の話だ。5日の日記で、東芝に似たような目に会わされたと主張する人々が「あちこちで同じようなサイトを立ち上げ、ウェブリングを組んだり、メーリングリストをはじめたり」したらどうするといったことをほざいていたら、ありゃりゃ、もうすでにちゃんとあるのね、「東芝問題WEB RING」なんてのが。かの有名な「悪徳商法マニアックス」(98年4月27日の日記参照)で知った。さらに、これも有名かもしれない「インターネット総会屋」でも、東芝に関する発言が活性化していた。きっと、おれの知らないところでも、あれやこれやと話題になっているのだろう。燎原の火のごときありさまだ。
いやはや、なんと申しますか、いろんな意味ですごい媒体ですな。
↑ ページの先頭へ ↑ |
← 前の日記へ | 日記の目次へ | 次の日記へ → |
ホーム | プロフィール | 間歇日記 | ブックレヴュー | エッセイ | 掌篇小説 | リンク |