間歇日記

世界Aの始末書


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99年7月下旬

【7月31日(土)】
▼アンコロモチの大王はとうとう降ってこなかった。「降る〜、きっと降る〜」と唄いながら待っていた方々、ご苦労さまでした。おれにも“リセット願望”とでも呼ぶべきものがないわけではない。スイッチを切るように人類がきれいさっぱり滅びるところが見たいという気持ちはある。どっこい、現実はそんなに甘いものではないようだ。
 これでまた、ノストラダムスの予言の新解釈が雨後の筍のように出てくるに決まっている。次の節目(?)はいつだということになるのだろう。一応、直近の節目は、おおよそ五十六億六千九百九十九万七千五百年後あたりになっているようだが、そもそもひとつの生物種がそれだけ続いた例はまだ確認されていない。その節目よりもずっと早く、マイトレーヤを僭称するあの男が娑婆に出てくるはずで、そっちのほうがよっぽど気にはなるな。
▼いやあ、『ウルトラマンガイア』(TBS系)が面白くなってきた。話は面白くなってきたが、今週の“ガイア突っ込みアワー”は、突っ込みどころがありすぎて困る。巨大なモノポール怪獣なんてものが地球に迫ってくるのはいいとしよう。そりゃあ、十分に強力なモノポールなんぞが迫ってきたら、地球の電場や磁場に影響がないわけはないだろう。電場や磁場が影響を受ければ、それらを生み出している地球の核内での良導体の流れが力を受けて変わることもあるかもしれん。だけど、だからといって、どうして大陸が見るみる移動したりすることになるわけ? どうも、地磁気の発生メカニズムとしてのダイナモ作用とプレートテクトニクスに於けるマントル対流とをごっちゃにしているとしか思えない。まだ大森望さんの“マントル対流”99年5月2日の日記参照)のほうが、考えかたとしては科学的だと思うんだが……。百歩譲ってそれに目をつぶるとしても、今回の脅威がモノポールであることの必然性が、これまたわからない。べつに、超強力磁界発生怪獣でもいいんじゃないの? ひょっとすると、文学部出のおれには想像も及ばぬ高度な科学考証が背景にあるのだろうか? 「あれはこういう深い意味があるのだ」とおわかりになる方がいらしたら、ぜひご教示を賜りたい。実在の術語やら理論やらを「なんだか“らしく”てかっこいい」という理由だけで奇天烈な文脈で使うのは、かえってかっこ悪いよ。でたらめをやるなら、でたらめ用の勝手な術語をでっちあげたほうがいい。ウルトラマンが“科学的”である必要はまったくないけれども、嘘のつきどころをまちがえているような気がするんだよね。
 ちなみに、モノポールは発見されていないが、極が三つある磁気鼎極子というものはすでに発見されていて、便器の汚れがよく落ちるそうだ。ハイ、もうおわかりの方は、ここから先は読まんでよろし。え? 言わないかんか? おれにみなまで言わせるんか? そんなに人が恥かくのがおもろいか? 鬼っ!

【7月30日(金)】
▼あれあれ? 今日オープン予定の e-sekai(株式会社アスキーイーシー)は、オープンが遅れているようだ。先日「リンクのお願い」というメールが来ていて、“「厳選HP」コーナー”からリンクを張るから不都合があれば返信せよということだったのだ。むろん不都合などあるものか。メールをもらって見にいってみると、なにやらやたらものものしいカウントダウンページがあったんで、これはどえらいところからリンクを張っていただけるものだと期待していたら、おやまあ、とうとう準備がまにあわなかったみたいだな。「統合ポータルサイトを目指す」などと書いてあったから、よほど凝ったことをやるつもりなのだろう。関係者はいまごろてんやわんやで夏休みどころではなかろうと想像すると、なんともお気の毒ではある。
 それにしても、“言いわけ”のページまで凝っているところがすごい。カウントダウンページとのギャップにずっこけつつも笑ってしまった。商売で絡んでいる人は怒っているかもしれないが、「大げさにカウントダウンまでやっちゃいながら、なんと!のびちゃいました」ってのがお茶目でいいじゃん。しかも、『e-sekai延長工事早く終わろう委員会』なんてものまでできている。さらに、青木光恵のバニーガール(青木光恵の描いたバニーガールという意味であって、青木光恵のバニーガール姿という意味ではない)まで出てくるとあっては、少々遅れようが、まあ気長に待とうという気にもなりますな。これだけの謝罪ページを短期間に作っちゃうんだから、内容はさぞやすごいのだろうと余計に期待してしまう。まさか、遅れたのも広告戦略の一部なんてことはないでしょうね。

【7月29日(木)】
▼以前から書いているように(97年6月16日98年6月21日)、たしかにおれはソーテックのファンである。いまこれを書いているパソコンもソーテック製だ。スペックが渋い。デザインが渋い。細部のこだわりが渋い。性能のわりに価格が低い。日本のメーカだ。サポートがしっかりしている。電話しても総会屋担当者にまわされたりしない。いや、滅多に電話などする必要がない。とにかくおれはソーテック贔屓なのである。
 しかし、だ。田中哲弥さんも99年7月27日の日記「iMacそっくり」で書いてらっしゃるが、あの「e-one」ってのはなにごとだ。ソーテックらしくない。地味ながらも、使った人にはわかる渋〜いマシンを出してこそソーテックではないのか。あれは、誰がどう見たって「iMac」ではないか。ちがうちがうといろいろ言ったって、やっぱり「iMac」である。せめて「iMac」にはない色にできなかったものか。田中さんと同じく、おれもあの新聞一面広告にはひっくり返ったものである。こんなメジャーな舞台に躍り出るなんて、ソーテックじゃない。そりゃまあ、営利企業なんだからして、大きくなるのはソーテックの勝手である。新聞に一面広告を打つなどソーテックらしくないとおれがほざいても、それは大きなお世話というものだ。いつまでも場末のライヴハウスで無名のまま一流の演奏を聴かせてほしいというのは、ファンのわがままではある。だけど、なんだか寂しいな。
 度胆を抜くというか腰が砕けるデザインは別として、なるほど初心者向けの Windows マシンとしては、さすがソーテックと言えるスペックと価格にはちがいない。Windows マシンが欲しいと初心者の知り合いに相談されたら、うっかりすると薦めてしまいそうですらある。ひょっとすると、実際に使ってみたらソーテックらしい細部の渋いこだわりに惚れてしまうのかもしれん。だが、それにしても、このデザインだけはなんとかならんかったのか。頼むから「e-book」(?)だけは出さないでくれよ。出してもいいが、あのすばらしい WinBook シリーズ在野精神は忘れないでくれ。ぱっと見と口あたりのいい、イカニモイカニモ一般ウケしそうな話題性のある製品で流行に弱い浮動票の一見さんからしこたま金を吸い上げて、それをこだわりまくった一級品の開発に注ぎ込んでくれれば文句はない――って、なんとなくなにかのアナロジーとして取られるとやばいような気もしないでもないが、もちろんそういうつもりで書いているのだ。流行りものに釣られるだけの客は、しょせんそれだけのものであって、長続きはせん。次から次へと、もっと刺激をくれ、もっと目新しい刺激をくれ、とただただ口を開けて待っているだけの浮気者にすぎない。連中は、なにかを長く愛することなどないのだ。

【7月28日(水)】
▼このところなにやら身体が欲しがるので、先日コンビニで目に留まった乾燥梅干しをちびちび食っている。おや。ヘンだぞ。ヘンだがヘンじゃない。だが、そこがヘンだ。おれはいま、なんのためらいもなく“乾燥梅干し”などと言ってしまった。乾燥とは干すことだ。忘却とは忘れ去ることであるのと同じくらいあきらかなことである。干した梅干しとはなにごとか。トートロジーではないか。しかし、じゃあ、干した梅干しをほかにどう呼べばよいのであろう? 困った困った。そもそも、ふつうの梅干しがおかしいのだ。湿っているじゃないか。
▼仕事で『48億の妄想』筒井康隆、筒井康隆全集2・新潮社所収)を再読している。じつにひさびさに読むのだが、改めて驚愕の連続だ。こ、これが三十四年前の作品なのであろうか……。薄気味が悪い。ということは、筒井康隆は三十一歳でこれを書いたことになる。いや、あのですね、十代で読んだときには「ああ、むかし筒井さんが三十代のときに書いた作品か。そのころおれは三歳か。まだカラーテレビすら珍しかった時代に、すごいなあ」とただただ素直に面白がることができたのでありますよ。三十代なんて、自分から見ればすごいおじさんだからね。しかし、いま読むと、「げげげ、おれより五歳若いときにこんなものを書いたのか」ってことになり、徒に馬齢を重ねている己がとんでもない阿呆に思われてくる。年齢の計算だけで、己と天才とを比べようってのがそもそものまちがいなんだけどもね。
 うむ。これは、いまこそ再読すべき作品だ。SF作家の仕事は未来予測ではないけれども、筒井康隆ですら洞察し切れなかった部分、怖ろしいほどにいまの社会を言い当てている部分が、このネット時代に生きているおれたちの眼には、いっそう際立ったコントラストを帯びて見えてくるのである。え? 再読どころか、まだ読んだことがない? そりゃ、いけない。コンピュータ・ネットワークの話など出てこないにもかかわらず、インターネットを使っている人、ウェブページを構えている人にとって、これは必読の書と言ってよい。とくに筒井康隆が当時では想像し得なかったもの、この作品の“欠落”こそが、いまおれたちの思索を猛烈にかき立ててくるのだ。たぶん、文春文庫版もまだ入手できるはずだ。意外と忘れている人が多いけど、筒井康隆の第一長篇なんだよね。ため息が出ますな。

【7月27日(火)】
▼ほとんどの報道機関は、おたくハイジャックの実名報道を控えている。なんでも、産経新聞だけは実名を出したそうだ。でも、そうと聞いてもわざわざ産経新聞を見てみようという気にならない。「えっ、まさか……」と心配になるような知人がおれにあれば名前を確かめておきたくもなるかもしれないが、べつにあのハイジャック犯が田中一郎だろうが鈴木二郎だろうが佐藤三郎だろうがディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・勅使河原だろうが、おれの知ったことではないのである。
 人はなぜ犯罪者の名を知りたくなるのだろうか? 不思議といえば不思議なことだ。これから悪いことをするやつの名前がわかればけっこうなことだけれども、すでに悪事を働いてしまったやつの名前がわかったところで、第三者にはなんのメリットもない。とはいうものの、なあんとなく名前を知らないと落ち着かないような心理は、たしかにおれにもある。なんなんでしょうな、これは?
 あとで事件に言及する際に、犯人の名前がわかっていたほうが多少は便利かもしれない。それにしたところで、よほど社会的インパクトが強かった事件なら「オズワルドが……」「大久保清が……」と言うだけで誰にでも通じるけれども、十数年前に夕刊の片隅にでも載ったパンティー盗難事件について、「ほらほら、川野四郎の事件だけどさ……」などと言い出すやつはまずいない。「ああ、川野四郎ね。水玉専門の……」などと打てば響くように返ってきたら、それはパンティー盗難事件研究会の例会かなにかでの出来事だろう。
 犯罪者に名前がないと落ち着かないのなら、いっそどこかの団体が適当に名前をつけて、報道にはその名を使うように申し合わせてはどうか。「昨夜東京都港区で若い女性を刺し現金を奪って逃走したキャサリンは……」とか、「十八日午後三時ごろ、作家の筒井康隆さん宅に侵入し庭に水を撒きはじめたジェーンは、その後各地に水を撒き散らしながら室戸岬沖を時速45キロで東北東へ進んでいます。中心付近の気圧は960ヘクトパスカル、最大風速は……」とかいった具合に報じれば、なかなか面白かろう。面白ければいいのか。

【7月26日(月)】
23日に書いた“飛行機おたく包丁一本ハイジャック事件”(『土曜ワイド劇場』でも、このタイトルはねーよな)の詳細がどんどん報道されている。いやはや「シミュレーションゲームで訓練を積んでいるので自信がある(から着陸させろ)」には腰が砕けたね。またまた「現実と仮想現実の区別がついていない」などというお定まりのコメントがマスコミを賑わすに決まっているが、何度も言うように(97年6月29日など)、それは問題がちがうってば。仮想現実が十分に高度で、現実の状況で脳が受容する情報を十分に密に含んでいれば、このキチガイ犯人の論理にも正当性が出てくるわけだが、現実の技術レベルはまだそこには届いていない。要するに、ゲームとして売られている程度のシミュレーションに、実物の旅客機の操縦に必要な情報がことごとく盛り込まれていると考える幼稚さが真の問題なのである。「この参考書さえきっちりやっておけば大丈夫」とか「この方法でやれば成功まちがいなし」みたいな教育ばかり受けてきたのだろうな、こいつは。このキチガイは、ヴァーチャル・リアリティー論のようなたいそうな切り口で語るには及ばない。「どんなものにも誰かが成功を保証してくれているマニュアルがある」と信仰している、幼稚な阿呆だというだけの話である。
 だけど、こんなやつがあちこちに現われたら厭だなあ。病院に押し入って医者を脅し、「シミュレーションゲームで訓練を積んでいるので自信がある」と脳腫瘍の手術をはじめるやつとか、「シミュレーションゲームで訓練を積んでいるので自信がある」とどこぞの市長選挙に立候補するやつとか、動物園の飼育係を人質に取り、「シミュレーションゲームで訓練を積んでいるので自信がある」とワニに文明を持たせて宇宙に進出させようとするやつとかが、明日、あなたの町を襲わないとはかぎらない。「シミュレーションゲームで訓練を積んでいるので自信がある」とのたもうて電車を乗っ取る中年男――なんてのがいちばん現実味(?)があるかもな。
 だけどですね。「シミュレーションゲームで訓練を積んでいるので自信がある」というノリで資産運用をはじめるやつは、ほんとうに儲けてしまうかもしれませんぞ。貨幣経済の世界ばかりは、現実そのものが最初から本質的にヴァーチャルなんだもんねえ。それでも“現実”という名のシミュレーションゲームのほうがはるかに複雑で、井の中の蛙が痛い目にあうのは、いずこも同じなんだろうけど。

【7月25日(日)】
▼ひさびさに、マダム・フユキの宇宙お料理教室である。今回の料理は、まったくの出来心から誕生した(いつもそうだけども)。
 昨日の深夜というか、今日の朝というか、しこしこと原稿を書いていると腹が減ってきた。例によって納豆を椀に入れてパソコンの前で練っていたおれの目は、なんとはなしにそばのペットボトルに釘づけになったのであった。べつにおれは『スター・ウォーズ』キャラクターのキャップを集めているわけではない。魂の底から創作意欲が迸ったかと思うと、次の瞬間、おれはよく練った納豆にペプシコーラをふりかけていた。しょわああああ。なにやら凶々しい化学変化が起こっているかのような音がする。が、泡が引くと、椀の底にはなんの変哲もない納豆があるだけだ。納豆のねばねばとコーラの泡はたいへんよく似ている。ただの納豆もコーラをかけた納豆も、おそらく見ただけでは区別できまい。納豆に砂糖をかけて食う人もいるくらいだから、納豆に甘みが合わないわけでもないはずだ。おれは食った。
 ぐえ――。なぜか、はなはだ苦い。コーラとも納豆とも似ても似つかぬ味だ。不思議なことである。まずくて食えないほどではないが、お世辞にも成功した料理とは言えない。もっとコーラを入れれば少なくともコーラ寄りの味にはなるだろうと思い、納豆がどっぷり浸るくらいにコーラを注ぎ足して、お茶漬けのようにして流し込んだ。日本人は、やっぱりお茶漬けである。げふ。

【7月24日(土)】
▼日記の更新サイクルが乱れていることからお察しかもしれないが、このところなにやらバタバタと忙しく、頂戴したメールのお返事も遅れがちである。ちゃんと読んでいますので、あしからずご了承ください。
 書きたいこと、書きたいものは山のようにあるし、一時的に頭が真っ白になっていても、ひとたびキーボードに向かうとよしなしごとが湯水のように湧いて出てくるのだが、如何せん時間と体力は有限だ。夏休みには、このウェブサイトもちょっとは拡充したいものである。まあ、人間、出力がボトルネックになっているくらいのほうが充実感があるし(焦りもあるけどねえ)、樽の中で醗酵してくるネタもあるだろう。腐敗してたりして。
『ウルトラマンガイア』(TBS系)は、テンカイ(天界)エンザン(炎山)に続く、三体めの自然コントロールマシン“シンリョク”(深緑)が登場。一応、あれらがいったいなんであったのかの説明は為されましたね。一週遅れで放映される東海地方の方にネタを割ってはいかんので詳しくは書かないが、ああいうことなのであれば、根源的破滅招来体そのものが必ずしも地球外の存在ではないかもしれない線もあり得るな。『ターミネーター』なんだろうか?
 『ウルトラマンガイア』では、怪獣やウルトラマンの重量感にこだわっていると誰もが気づいている点に触れたことがあるが(99年6月12日)、今回はその点に関して、ともするとワンパターンになりがちな手法を“自己申告”して笑わせるという高度なギャグで攻めてきたぞ。先週のエピソードに、テレビ局のクルーと風水師のねーちゃんがサンドイッチを食っている場面で突如地響きが起こり、そばの自転車が倒れて籠の中の果物が散乱するというシーンがあった。風水師のねーちゃんはやたらその自転車を気にしていたのだが、はて、あの演技にはいかなる意味があるのだろう、単に風水師のねーちゃんの心やさしさをアピールしているのであろうかと首を傾げていたら、今回またもや自転車が倒れた。チーム・ハーキュリーズの戦闘車輌スティンガーがピースキャリーから投下されて着地するときの衝撃を表現するカットだ。倒れる自転車の籠に「スティンガー被害者の会」という貼り紙がしてあったのには大笑い。そうか、先週の地響きも、スティンガーが着地するときのものだったのか。スティンガーが落とされるたびに自転車を倒されている人々が、いつのまにか〈スティンガー被害者の会〉なるものを作っていたのだ。わははははは。これは「毎度毎度、巨大なものの重量感の表現に自転車を倒してばかりですみません」という製作者たちの照れ隠しの混じった自己言及である。このヒネリで、ワンパターンの手法が楽しみどころに変わってしまう。うまいね。「どうせブラック・ジャックが治すんでしょ?」って台詞みたいなもんですな。
 今後の展開がどうなろうとも、少なくともふたつは楽しみどころができた。スティンガー被害者の会の活動は報われるのか、佐々木敦子(橋本愛)はあと何本ペンを折るのか、である。

【7月23日(金)】
▼全日空61便のハイジャック事件には、さすがに驚き呆れた。飛行機を乗っ取って政治思想をアピールしたり犯罪者の釈放を要求したりするのは、もはやむかしの話。日本で起きるハイジャックは、きわめてせせこましい個人的動機によるものが主流になりつつあるようだ。刺されて亡くなった機長には敬意を表する。キチガイに操縦桿を握らせるくらいなら、刺されてもかまわんとお思いになったのであろう。おれなら「はい、どうぞ」と機長席をあけ渡して、彼奴が操縦に夢中になったところを手近な工具箱かなにかで殴り殺そうとする(手加減している場合ではない。この状況下では、殺すのが最も合理的だ)だろうが、何百人もの乗客の命を一瞬でもキチガイに委ねることが許せない性格の人だったのだな。命を委ねるに足る人物である。惜しい人を亡くしたものだ。最敬礼。
 さっきからキチガイキチガイと平気で言っているが、この日記はおれの媒体だからおれの責任下で使いたい言葉を使う。このハイジャック犯みたいな輩をキチガイと呼ばずしてなんと呼ぼう。人権思想に欠けるやつだと謗られてもかまわん。おれはこいつをキチガイと呼ぶことにいささかも良心の呵責を感じない。こういう輩のためにこそ“キチガイ”という言葉を残しておくべきだと思う。
 それにしても、報道で知るかぎりに於いて不思議に思うのは、旅客機のセキュリティーの甘さだ。女性乗務員に刃物を突きつけたくらいで、あまりにも簡単に中に入れてしまうのはどうかと思う。旅客機のコックピットは、いわば原子力発電所の制御室のようなものではないのか。キチガイが入ってきてそこいらをいじりまわしはじめたら、何百人、何千人、何万人、何十万人の健康や生命に影響を及ぼしかねない重要な場所である。素人に下手に操縦されたらどこに墜落しないともかぎらないし、上手に操縦されたらされたで、意図的にどこかに突っ込まれるかもしれないのだ。原発に体当たりされたらどうする。北朝鮮の領空に入って、それを理由に常軌を逸した反撃(?)でもされたらどうする。機長や副操縦士には然るべき武器を携行させ、不穏な侵入者を殺傷する権限を法的に与えるべきだ。むろん、飛行機の中で銃器を用いることは乗客の生命を危険に晒すことになりかねないから、飛び道具は最後の手段として、接近戦で確実に侵入者の機能を一時的・恒久的に停止させ得る武器が望ましい。常識で考えれば、旅客機のコックピットに押し入ろうとしただけで、何者であろうとも間髪を入れず射殺されても文句は言えないのではあるまいか。スチュワーデスはもちろん、乗務員には全員スタンガンの携行を義務づけてほしい。それで運賃が少々高くなっても、おれならセキュリティーの堅固なほうに乗る。
 犯人の命もひとつしかないが、乗客の命もひとりにひとつずつしかないのだ。どんなにきれいごとを言っても、おれの、あなたの命を考えた場合、結局はコスト論に帰着する。

【7月22日(木)】
▼昨夜、江藤淳氏が自殺したそうだ。じつは、偉い人が自殺するたびにいつも困る。こういう場合、“自殺なさったそうだ”と書くべきなのだろうか。なんとなくおれは、自殺に敬語表現は似合わないような気がするのだ。“自殺なさる”は日本語としてちっともおかしくはないのだが、どこかやっぱり気色が悪い。“お殺せになる”みたいな感じで、太宰治にボロクソに言われそうだ。
 それはともかく、じつに意外だ。江藤淳に自殺は似合わないと誰もが思うよね。人の自殺をこれほど意外に思ったのは、伊丹十三の自殺97年12月21日の日記)以来だ。奥さんの後追いだとかなんだとか陳腐な意見がいろいろ出るんだろうけど、人の自殺の理由なんて他人にはわからん。本人にだってわからんものなのかもしれない。
 人の自殺の理由はわからないが、おれが自殺を快く感じない理由なら、だいたいわかる。手前の頭の中の話だからだ。99年4月8日の日記で述べたように、おれは人間を“よくできた機械”以上にも以下にも感じていないため、おれの中には自殺を禁ずる“道徳”がまったく存在しないのが自分でよくわかっている。だから、うっかり自殺という魅力的な概念にとり憑かれでもした日には、機械のスイッチでも切るように簡単に自殺してしまいかねない。それでは命がいくつあっても足りん。だものだから、問答無用で自殺を忌み嫌う美学を、おれの生きものとしての本能が培ってきたのだろうと思う。みずから命を断つのは、道徳的にはさほど悪いことではない(としかおれには感じられない)。だが、それは美しくない。要するにおれは、道徳ではなく美学のおかげで生き延びてこられているようなものである。
 江藤淳ともあろう人が、いかな理由があろうともそういう美しくない最期を選んだのは、繰り返すがまったく意外だった。自殺したのは評論家・江藤淳ではなく、病身の老人としての江藤淳氏であったのだろう。不道徳なおれにも、そう考えてさしあげるだけの惻隠の情はある。

【7月21日(水)】
▼このところ世間を賑わせている噂のサイト「東芝のアフターサービスについて」が閉鎖された。なくなってしまったのではなく、閉鎖した旨を記すページだけが当該URLに残っている。べつに東芝に圧力をかけられたわけではなく、匿名の厭がらせメールに耐えかねたのだそうだ。一個人が大企業をも慌てさせることができたのはインターネットを使ったればこそではあるが、不特定多数の人々に影響を及ぼすことができるということは、その多数の中にある割合で含まれるにちがいない根性のねじ曲がった卑怯者にも影響を及ぼしてしまうということである。ウェブマスターの会社員には気の毒なことだけれども、インターネットを武器として用いるのなら当然そうしたリスクを伴うだろう。たしかに、メリットとデメリットとを秤にかければ、彼は“勝った”ということになるだろう。だが、この諍い、双方とも傷だらけになっているのだから、件の会社員に勝ってよかったですねとは言いにくい。おれたちには双方の言いぶんが読めた(聴けた)だけであって、結局、ほんとうのところはわからない。今回の事件がイベントとして“消費”されただけである。たとえば、筑紫哲也の言う“便所の落書き”の最たるものであるこの日記の話題になっているのも、その一例だ。
 むかしエイプリル・フールの前日に書いたように(97年3月31日)、なにが嘘でなにがほんとうやらさっぱりわからないのは、サイバースペースもリアルワールドも同じである。筑紫哲也だろうが久米宏だろうがウォルター・クロンカイトだろうが、彼らの言うこと言ったことも、定性的には便所の落書きのひとつにすぎない。テレビも新聞も書籍も、言うなればすべて便所の落書きである。ただ、より洗練された便所の落書き、より信頼性の高い便所の落書き、より気の利いた便所の落書き、より面白い便所の落書きがあるだけだ。おれたちはウンコをきばりながらその落書きを読み、自分の“便所の落書き”を持つことを求められている。そんなことはあたりまえなのだが、ともするとおれたちは、情報というものの本質を忘れがちで、ついつい権威に依ったりしてしまう。そのほうが効率的だからだ。なにごともいちいち自分の頭で考えるのは、現代社会に於いてはとてつもなく非効率的なことである。効率を優先して、適当なところでものごとを“信じ”なければ、日常生活に支障を来す。なにかを“暫定的に”信じざるを得ないのだ。以前、血液型性格診断を揶揄したときに書いたとおりである(97年11月7日)。だが、しかたなく“信じるという愚行”を繰り返しているうちに、それが愚行であること、暫定的になにかを信じているにすぎないことを忘れてしまいそうになる。インターネットというやつは、おれにとってそのことを常に思い出させてくれる刺激的な媒体だ。そういう意味で今回の事件は、とても面白い題材じゃなかろうか。「いったいなにが、誰の言うことがほんとうだかわからない」などと嘆く必要はない。どこでだってそうなのだ。その気持ち悪さを抱えてゆく精神力を、おれは捨てたくはないね。


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