title.gifBarbaroi!
back.gif第1巻・第3章


Hellenica



第1巻






第4章



[1]
 さて、パルナバゾスと使節団とは、冬の間、 プリュギア〔大プリュギア〕の ゴルディオンにいたが、ビュザンティオンでの出来事を耳にした。

[2]
それでも、彼らは、春になって〔BC 407〕、大王のもとへと赴こうとしていたところ、遭遇したのが、下ってくるラケダイモン人たちの使節団―― ボイオティオスとその同行者たち、および、その他の報告者たちで、ラケダイモン人たちは要求したものをすべて大王から手に入れたと言った。

[3]
さらには、 キュロスが、沿海地域の住民すべてを支配し、ラケダイモン人たちと共闘するために、低地帯の住民にあてた大王の印章つき書簡を携えており、その中には、「朕はキュロスを カストロス地域の集結者のカラノス(karanos)として派遣せり」という件まで含まれていた。

[4]
カラノスとは主宰者の意味である。さて、これを聞いて、アテナイ人たちの使節団は、キュロスを眼にしたこともあって、一番に大王のもとに参内することを、それができなければ、家郷へ引き上げることを望んだ。

[5]
しかしキュロスは、パルナバゾスに、使節団を自分に引き渡すか、さもなければ、しばらくの間、家郷へ送り届けないようにするか、どちらかにするよう言いつけた。アテナイ人たちが事態の成り行きを知ることのないよう望んだのである。

[6]
そこでパルナバゾスは、時には使節団を大王のもとへ参内させようとか、時には家郷へ送り届けようとか称して、しばらくは彼らを引き留めたのであるが、それは自分が非難を被らないためであった。

[7]
しかし、3年がたつと、彼らを解放するようキュロスに要求し、大王のもとへでなければ海に送り届けると誓いをたてていたのだと称した。かくて、〔彼らはアテナイの使節団を〕 アリオバルザネスのもとに送還して、これを護送するよう命じた。そこで彼は、 ミュシアキオス(2)に送り届け、〔使節団は〕ここからその他の陣営のもとに帰帆の途についたのであった。

[8]
 ところで、アルキビアデスは、将兵たちといっしょに家郷へ帰帆することを望み、ただちにサモスに向けて船出した。そこからさらに艦船20艘を率いて、カリアの ケラメイコス湾へ航行した。そこにおいて100タラントンを集めてサモスへもどった。

[9]
トラシュブウロスの方は、30艘の艦船とともにトラケに赴き、その地でラケダイモン人たちの方へ寝返った他の地域ばかりか、タソス――戦争と党争と飢饉とによって悪い状態にあった――を奪回した。

[10]
またトラシュロスの方は、その他の軍勢とともにアテナイに帰帆した。だが、彼が到着する前に、アテナイ人たちは将軍団として亡命中のアルキビアデス、および、不在中のトラシュブウロスを、さらに、家郷にいる者たちの中から、 コノンを第三位の者として選出した。

[11]
そこで、アルキビアデスはサモスを発って、財貨を携えて艦船20で パロスに帰帆し、そこからまっすぐに ギュテイオンへ向けて船出したが、それは、ラケダイモン人たちがそこで三段櫂船30艘を準備していると耳にしたので、それを偵察するためのみならず、家郷へ帰帆した場合、国が自分に対してどう応対するのかを見るためであった。

[12]
しかし、自分に好意的であること、しかも、自分を将軍に選んだのみならず、個人的にも親友たちが呼びもどしの使いをよこしたのを見て、ペイライエウスに帰帆したが、それは国が プリュンテリア祭を開催している当日で、アテナ女神の像が〔覆いで〕隠されたところだったので、一部の人たちは、これを彼にとっても国にとっても不吉なしるしと信じた。というのは、アテナイ人たちの中には、この日に何か真面目なことにあえて手を出そうとするような人は誰もいなかったからである。

[13]
 さて、彼が帰帆すると、ペイライエウスからも市域からも群衆が艦船に押し掛け、感嘆し、アルキビアデスを一目見ようと望み、ある者たちの言うには、彼こそは市民たちの中で最も優れた者であり、追放されたのも彼だけは義しくなかった。彼は、彼よりも無能な連中――よこしまなことを発言し、おのれらの個人的な利得目当てに為政した連中――によって謀られたのであって、彼は常に、自分のものによっても国家の権力によっても、共同体を拡張させようとしてきたのだ。

[14]
だから、件の時も、秘儀に対して不敬を働いたとの嫌疑がかかったとき〔415年のヘルメス神像毀損事件を発端とする秘儀冒涜事件のこと。詳しくは アンドキデス第1弁論参照〕、ただちに裁判に訴えようとしたけれども、敵対者たちは〔彼の〕権利だと思われていた訴訟を延期し、彼が不在の時に祖国を奪ったのである。

[15]
この間、せんかたもなき隷従の身の上になって、最も憎むべき者ども〔ラケダイモン人やペルシア人〕に奉仕せざるを得なくなった。日々、破滅の危機に絶え間なくさらされながら。かくて、最も親愛なる同市民たち、同族、国家全体が過ちを犯すのを眼にしながら、追放の身の上に妨げられて、いかようにも裨益することかなわなかった。

[16]
だが、新体制、まして革命を求めるような真似は彼のような人物のよくするところではない、と人々は主張した。なぜなら、民衆の支配下にあって、同輩たちよりも幅を利かせる〔pleon echein=より多く取得する〕ばかりか、年長者たちにも引けを取らぬことが彼の天性であるのに反し、彼の敵対者たちときたら、〔彼の亡命後も〕それまでと同じような人物と思われ、後に権力を握ったが、最善者たちを破滅させ、自分たちだけは生き残ったものの、〔アテナイ人たちが〕登用できるようなもっとより善い人物が他にいないという、たったそれだけの理由で、同市民たちに歓愛されているにすぎない、と。

[17]
 しかしながら、自分たちにとっての過去の害悪の責任は、ひとえに彼にあり、また、国家にふりかかるおそれのある種々の恐怖があるなかで、これの嚮導者とな危険性があるのも、ひとり彼のみであると〔主張する〕人たちもいた。

[18]
 そこで、アルキビアデスは、岸壁に係留しても、すぐには下船しようとはしなかったが、それは、敵対者たちを恐れたためである。そうして、甲板で伸び上がって、自分の親友たちがそこにいるかどうか観察した。

[19]
そして、 ペイシアナクスの子で、自分の従兄弟の エウリュプトレモス(2)や、その他の親類や、親類といっしょに友たちを望見したうえで、初めて下船して町へ上った。襲いかかる者あらば捨ててはおかない用意のある者たちといっしょに。

[20]
そして、評議会と民会とにおいて、自分は不敬を働いたことはないと弁明し、さらには不正されたのだとまで言いつのり、他にも同様なことが述べられたが、誰一人抗弁する者もなく――さもなければ、民会が容赦しないであろうから――、国家のかつての権勢を回復することのできる者として、全軍の全権指揮官と布告された。そして、先ず第一に、戦争のせいで海路を使っていたアテナイ人たちの〔エレウシスにおける〕秘儀の祭列を、将兵全員を嚮導して陸路で実行した。

[21]
その後で、兵員を登録したが、〔その数〕重装歩兵1000と500、騎兵100と50、艦船100であった。かくて、帰帆後、4ケ月目に、アテナイ人たちから離反していた アンドロスに向けて船出した。彼といっしょに アリストクラテス、および、 レウコロピデスの子 アデイマントスが、陸上における将軍に選ばれて、いっしょに派遣された。

[22]
 アルキビアデスは、アンドロス領の ガウリオンに軍隊を上陸させた。そして救援に駆けつけてきたアンドロス人たちを背走させ、都市に押し込め、多くもない何人かを殺害し、当地にいたラコン人たちをも〔そうした〕。

[23]
そこでアルキビアデスは勝利牌を立て、数日間そこにとどまった後、サモスへと航行し、そこを発進基地にして戦争を続けた。
forward.gif第1巻・第5章
back.gifHellenica・目次