第4巻・第2章
第3章[1] 他方、アゲシラオスの方は、アシアから救援に駆けつけようと急いでいた。が、 アムピポリスにある彼にデルキュリダスが、このたびはラケダイモン人たちが勝利したこと、そして戦死者はわが方は8人だったが、敵はあまた多数であったことを報告した。また、同盟者たちのうち斃れた者は少なからずあったことをも明らかにした。 [2] するとアゲシラオスが尋ねた。 「それでは、おお、デルキュリダスよ、将兵をわれわれにつけて派遣してくれた諸都市が、この勝利をできるかぎり速やかに聞き知ったなら、好都合だろうな」。 デルキュリダスが答えた。 「たしかに、それを聞いたらもっと元気になるでしょう」。 「それではそなたが、現場に居合わせたのだから、伝達するのが最美ではないか」。 彼はこれを聞いて喜んで――というのも、彼は外遊が好きであったから――言った。 「あなたの仰せなら」。 「もちろん、わしの言いつけだ」と彼は言った、「そして、伝達に付け加えるよう頼む。この一件がうまく運んだら、われわれは再びもどるつもりだ、われわれが言っていたとおり、と」。 [3] そこでデルキュリダスは、真っ先にヘレスポントスへと進んだ。 他方、アゲシラオスの方は、マケドニアを通過してテッタリアに到着した。ところが、ラリッサ人たち、 クランノン人たち、 スコトゥサ人たち、パルサロス人たち――彼らはボイオティア人たちの同盟者であった――、および、テッタリア人たち――ただし、そのうち、このときにたまたま亡命していた者たちを除いて――の全員が、彼を追尾して仇を成した。 [4] そこで彼は、しばらくは方陣をしき、騎兵の半分は前衛に、後の半分は後衛につけて軍を率いた。が、テッタリア人たちは殿に襲撃をかけて進軍を妨害しつづけたので、側近の者は除いて、前哨に立っている騎兵隊をも後衛に増派した。 [5] かくして、お互いに戦闘配置について睨み合っているときに、テッタリア人たちは、重装歩兵に騎兵戦を挑むのは得策でないと考えて、そろそろと向きを変えて後退しようとした。対して相手は、きわめて慎重に後についていった。 [6] しかしアゲシラオスは、両軍とも過ちをおかしていると悟って、側近の非常に屈強な騎兵たちを遣わして、他の者たちに下知をまわすとともに、自分〔騎兵〕たちも、できるかぎりすみやかに追撃し、もはや相手に向き直る機会を与えないようにせよ、と命じた。 [7] テッタリア人たちは、思いもかけずに〔相手が〕疾駆してくるのを眼にして、そのある者たちは逃亡し、ある者たちは向きなおり、ある者たちはそうしようと努めたが、騎馬の方向転換をしようとする矢先をとらえられた。 [8] しかしながら、パルサロス人の騎兵隊指揮官 ポリュカルモス(2)は、向きなおると側近の将兵たちとともに闘ったが戦死した。とにかく、こういうことが起こったために、テッタリア人たちの雪崩をうった敗走がはじまった。その結果、彼らのある者たちは戦死し、ある者たちは捕らえられた。かくして、 ナルタキオン山に達するまでは、とどまらなかったのである。 [9] このとき、アゲシラオスは プラスとナルタキオン山との中間に勝利牌を立て、その地に駐留して、この業績を大いに喜んだ。騎兵にかけて大いばりの相手を、みずからが集めた騎兵隊を率いて勝利したからである。そして次の日、 プティアのアカイア山脈を越えて、残りの全行程は友邦を通ってボイオティア人たちの国境まで行軍した。 [10] しかし彼が侵入をめざしているとき、太陽が三日月形になったように思われた〔前394年8月14日〕。そして、ラケダイモン人たちが海戦に敗れ、艦隊指揮官のペイサンドロスが戦死した〔 第3巻 第4章 29節〕報告を受けた。さらに、海戦の模様も語られた。 [11] すなわち、艦船の衝突が起こったのは クニドス付近で、パルナバゾスが艦隊指揮官で、ポイニケ〔フェニキア〕の艦船を率い、また、コノンがヘラスの艦隊を率いてその前衛に布陣したということ。 [12] 対して、ペイサンドロスも対抗布陣したが、わが方の艦船はコノン麾下のヘラス艦隊のそれよりもはるかに少ないことは明らかで、左翼の彼の同盟者たちはすぐに敗走し、彼は敵と交戦したが、三段櫂船に体当たりを食らって陸に打ちあげられた。そして、陸に打ち上げられた者たちは、その他の連中は船を捨てて何とかクニドスに無事のがれたが、彼は船上で闘って戦死したということ。 [13] アゲシラオスはこれを聴いて、初めは不機嫌になった。しかしながら、自分の軍隊の大部分は、善きことが起こるなら悦んで〔それに〕参加するが、何か困難なことを眼にすれば、彼らの参加には強制のないことに思いを致して、これがために気持ちを変えて、ペイサンドロスは命終したが、海戦には勝利したと報せるよう言いつけ、 [14] これを言いつけると同時に、吉報であるかのように雄牛を〔生け贄に〕屠り、多くの者たちにその生け贄を配った。その結果、敵と小競り合いがあったときも、アゲシラオス麾下の制するところとなった、――ラケダイモン人たちは海戦に勝利したとの言葉のおかげで。 [15] さて、アゲシラオスに対抗布陣したのは、ボイオティア人たち、アテナイ人たち、アルゴス人たち、コリントス人たち、アイニアン人たち、エウボイア人たち、両ロクリス人たちであった。対して、アゲシラオスの側には、コリントスから渡ってきたラケダイモン人たちの軍団、 オルコメノス(2)からの軍団の半分、なおそのうえに、ラケダイモンからの新平民たちが彼に共同出兵し、かてて加えて、ヘリッピダスが隊長を務める傭兵部隊、なおそのうえに、アシアのヘラス諸都市からと、彼が押し通るさいにわがものに加えたエウロペの諸都市からの〔将兵たち〕がついた。また地元からは、オルコメノスとポキスの重装歩兵が味方についた。ところで、軽楯兵は、アゲシラオス麾下の方がはるかに多かった。が、騎兵は逆に、その数、両軍ともに釣り合っていた。 [16] 以上が両軍の戦力であった。だが、戦闘をも、いかにして、それがわれわれの時代の戦闘の中で、他に類例のないものとなったのか、をも説明しよう。すなわち、遭遇したのは コロネイアの平原で、アゲシラオス率いる軍勢は ケピソス河(2)から、テバイ人たちの率いる軍勢は ヘリコン山からであった。そして、アゲシラオスは自分の部隊の右翼を受け持ち、オルコメノス人たちは彼の左翼を受け持っていた。対して、テバイ人たちはこぞって右翼に位置を占め、アルゴス人たちは彼らの左翼を受け持った。 [17] かくして、〔双方が〕遭遇したとき、しばらくは深い沈黙が両軍に漂った。が、双方の隔たりが1スタディオンになるや、鬨の声をあげてテバイ人たちが駆け足で突進した。しかし、間合いがまだ3プレトロンあったとき、アゲシラオスの密集隊の中から反撃の突撃をしたのは、ヘリッピダスが隊長を務める傭兵隊と、彼らといっしょにイオニア人たち、アイオリア人たち、ヘレスポントス人たちで、これら全員が一丸となって突撃して、投槍の届く地点に達し、自分たちの相手部隊を背走させた。アルゴス人たちに至っては、アゲシラオス麾下の将兵〔の攻撃〕を受けるまでもなく、ヘリコン山の方面に逃走した。 [18] ここにおいて、外人部隊の何人かは早くもアゲシラオスに花冠をささげたが、テバイ人たちがオルコメノス人たちの戦列を分断して、輜重隊に達していると彼に報告した者があった。そこで彼はすぐに密集隊を展開させて、相手勢への攻撃に引率した。対してテバイ人たちの方は、同盟者たちがヘリコン山の方面に背走したのを眼にしたので、自分たちの仲間の方へ突破しようとして、集束して強力となった。 [19] アゲシラオスを男らしい男と異論なく言うことができるのは、じつに次の点においてである。少なくとも、彼は安全な道を選ぶことをしなかった。すなわち、突破せんとする相手をやり過ごして、追尾して、その後衛を手中にすることも彼にはできたのに、そうはせず、テバイ人たちに真正面からぶつかった。そして、楯を楯にぶつけて押し出し、闘い、殺し、殺されたのである。最後には、テバイ人たちの一部はヘリコン山方面に突破したが、多くは後退しつつ戦死した。 [20] かくして、勝利はアゲシラオスのものとなったが、みずからは傷ついて密集隊に運び込まれたところ、何人かの騎兵が馳せ参じて、敵のおよそ80人が武装したまま神殿の庇護下にあると彼に言い、どうしたらよいかと尋ねた。彼は、深手を負っていたにもかかわらず、それでもやはり、神を忘れることなく、望むところへ撤退するを許すように命じ、不正することを禁じた。さて、このときには、すでに暗くなっていたので、夕食をとってやすんだ。 [21] 翌朝、〔アゲシラオスは〕、軍令官 ギュリスは軍隊に攻撃態勢をとらせ、勝利牌を立てるよう、そして、全員で神に花冠をささげ、笛吹きたちはみな笛を吹くように、と命じた。彼らはそれを実行した。一方、テバイ人たちは、伝令官を派遣して、屍体を埋葬するために休戦を申し入れた。かくのごとくにして休戦条約が成立し、アゲシラオスはデルポイに到着して、掠奪によって得た戦利品の「十分の一」税として100タラントンを下らぬ金額を奉納した。他方、軍令官のギュリスの方は、軍隊を率いてポキスに退却し、そこからロクリスに侵入した。 [22] そして、日中は、将兵たちは村々から道具類も糧食をも掠め取った。が、夕方になって、最終的にラケダイモン人たちが退却する段になると、ロクリス人たちは彼らに追尾して飛び道具攻撃・投槍攻撃を仕掛けた。そこでラケダイモン人たちは向きなおって追撃し、何人かを打ち倒した、そのおかげで、〔相手勢は〕もはや後衛を追尾することはなくなったが、右上方から飛び道具攻撃した。 [23] そこで彼ら〔ラケダイモン人たち〕は山上までも追撃を企てた。が、暗くなって、退却中に、ある者たちは難所のために斃れ、またある者たちは前方に何があるかも予見できないために、またある者たちは〔相手の〕飛び道具によって〔斃れ〕、かかる状況で、軍令官のギュリスと、戦友の ペッレス、さらにスパルテ兵たちのうち、全部でおよそ18人が戦死した、――ある者たちは飛礫に撃たれ、ある者たちは矢傷を負って。もしも陣地で食事をとっていた者たちが彼らの救援にこなければ、全滅の危機にさらされたのであった。 |