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back.gif第4巻・第4章


Xenophon : Hellenica



第4巻






第5章



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 やがて〔BC 390〕、ラケダイモン人たちは〔コリントスの〕亡命者たちから、国内の連中は、家畜はすべて* ペイライオンに保持・温存していて、多くの者はそこから〔の支給で〕生活していると聞いて、再びコリントスに出兵したが、この時も嚮導したのはアゲシラオスであった。そして先ず第一に イストモスに進撃した。というのも、そこで イストミア祭が挙行されるからであり、たまたまアルゴス人たちもこの時、この地でポセイドンに生け贄をささげていた、――あたかもコリントスがアルゴスであるかのように。しかし、アゲシラオスが接近中と察知して、彼らは供犠の終わった生け贄もすっかり準備の整った朝食も後に残して、深甚の恐怖にとらわれて、 ケンクレイアイに向かう道を市域へと退却した。
 *コリントス地峡の北西端に、広大な丘陵地帯が半島状に突き出ている。これがペイライオンであり、この西端にヘラ神殿があった(5節)。この近くに小さな湖があった(6節)。半島の北東部にはオイノエの砦があった(5節)。

[2]
しかしながらアゲシラオスは、彼らを眼にしていたが追撃せず、神域に幕営して、自分はその神に供犠しながら、コリントス人たちの亡命者たちが、ポセイドン神に供犠と競技とをささげる間、待機していた。そして、アルゴス人たちも、アゲシラオスが引き上げるや、もう一度初めからイストミア祭を挙行した。したがって、この年は、競技者たちのおのおのは二度打ち負かされた場合があり、他方、同じ人物が二度勝利宣告された場合があったのである。

[3]
 しかし、4日目に、アゲシラオスはペイライオンに軍隊を引率した。しかし、多くの人たちによって守備されているのを眼にして、朝食の後、市域に引き上げた、――あたかもその都市が売り渡されたかのように。そのため、コリントス人たちは、都市が何者たちかによって売り渡されたのではないかと恐れ、軽楯兵たちの大部分とともにイピクラテスを呼びにやった。しかしアゲシラオスは、夜の間に彼らが通過したのを察知して、夜明けと同時に転進してペイライオンに引率した。そして、自分は海沿いに進軍し、一軍団は尾根伝いを登らせた。そしてその夜は、彼は温泉のほとりで宿営し、軍団は高みを占拠して夜を過ごした。

[4]
アゲシラオスがささやかな、しかし時宜を得た発明によって評判を得たのは、まさにこの時であった。つまり、軍団のために糧秣を運んでいる者たちのうち、誰ひとり火を運んでいた者はいなかったが、非常な高所にいたためのみならず、雨が降り、夕方ころには霰となったために寒かったので――しかも、彼らは夏服のようなものだけを身につけて登っていた――、彼らは震えながら、闇の中で意気消沈し、食事にも向かわずにいたとき、アゲシラオスは10人をくだらぬ者たちを派遣して、火を土器に入れて運ばせたのである。そして、彼らが次々と登り、火は多くにも大きくにもなったので――燃料はあたりに多くあったからである――、全員が塗油をほどこし、また、多くの者たちが初めて食事にありついた。また、ポセイドンの神殿の焼けるのが見えたのもこの夜であった。しかし誰によって火をつけられたかは誰も知らない。

[5]
さて、ペイライオン市内の者たちは頂上を占拠されたのを察知すると、自衛のために立ち向かう気ももはやなく、男たちも女たちも、奴隷たちも自由人たちも、家畜の大部分までもが ヘラ神殿に逃げ込んだ。他方、アゲシラオスの方は、軍隊を率いて海沿いに行軍した。軍団の方も同時に高みから降りてきて、 オイノエ(2)の建造の終わっていた城壁を破壊し、内にあるものを取得したが、将兵たち全員が、この日、必需品を多くこの地から取得したのであった。そこで、ヘラ神殿に逃げ込んでいた者たちが出てきて、自分たちについて好きなように決めてくれとアゲシラオスに一任した。そこでアゲシラオスが決定したのは、殺戮者たち〔 本巻 第4章 2節〕の仲間の者は、これを亡命者たちに引き渡し、その他の一切は売り払う、ということであった。

[6]
このような次第で、ヘラ神殿からおびただしい数の戦利品が出てきた。さらに余所からの使節団たちも多く現れたが、とりわけボイオティアからは、和平に与るには何をすればよいか尋ねにやってきた。だがアゲシラオスは、大いに尊大に、その連中には会おうとするようにも思われなかった。保護役(proxenos)のパラクスが彼らに並び立ち、紹介の労をとったにもかかわらずである。そして〔アゲシラオスは〕池のそばの円形の建物に座して、多くの運び出されるものを見張っていた。また陣からはラケダイモン人たちが長柄を持って戦利品の番人として付き従っていたが、居合わせた人たちには非常な見物であった。というのは、幸運に恵まれ制覇した者というものは、いつもなにがし見物の価値あるように思われるからである。

[7]
しかし、アゲシラオスがいかにも勲功を誇らしげにまだ座しているときに、一人の騎馬兵が、それもひどく汗をかいた馬で突進してきた。多くの人たちに、何の報せかと尋ねられても、それには答えず、アゲシラオスに近づくと、その馬から飛び降り、彼のところに駆け寄って、沈痛の面もちで、レカイオンでの軍団の受難〔 本章 11-17節で述べられる〕を話した。これを聞くや、〔アゲシラオスは〕すぐさま座を起ち、長柄をとって、軍令官たち、50人隊長たち、傭兵隊長たちを呼ぶよう、伝令官に命じた。

[8]
この者たちが馳せ参じるや、その他の者たちには、――まだ朝食をとっていなかったので――何でも可能なものをかき込んでできるかぎり速くやってくるように言いつけ、自分は幕僚たち(hoi peri damosian skene)とともに朝食抜きで指図した。槍持ちたちも武装すると急いで随行したが、その間に、彼は指図し、〔幕僚たちは〕指図に従った。かくして、彼がすでに温泉場からレカイオンの平野にまで通過してきたとき、騎兵3騎が疾駆してきて、死体は収容し終わったむね報告した。彼はこれを聞くと、武器を置くよう命じ、しばし停滞したあと、再び軍隊をヘラ神殿へと引きもどした。そして、次の日、戦利品を売りさばいた。

[9]
 その一方で、ボイオティア人たちの使節団が呼び寄せられ、何のためにやってきたのかと尋ねられると、彼らは和平についてはもはや言及せず、支障さえなければ、市域の自分たちの将兵たちのもとに帰りたいと申し立てた。すると彼は笑い飛ばした。
 「いや、よくわかっている」と彼は言った、「おまえたちは将兵たちに会いたいのではなく、おまえたちの友たちのありついた幸運がいかほどになるかを見物したいのだってことはな。だが、まあ待て」と彼は言った、「わしがおまえたちを自分で連れていってやろう。わしといっしょにいれば、どんなことが起こるか、よくわかろうから」。

[10]
 じっさい彼は虚言することなく、次の日、生け贄をささげてから、その都市に向けて軍隊を引率した。そして、勝利牌は打ち倒さなかったものの、樹木のようなものが残っていたなら、切り倒し、焼き払い、迎撃に出て来る者など一人もいないということを証明してみせたのであった。そしてこれを実行した後、レカイオン近辺に宿営した。しかしながら、テバイ人たちの使節団は、市域へは帰さず、海沿いに クレウシスに送り届けた。ところで、ラケダイモン人たちにとって、このような災禍は不慣れであったので、深甚な悲しみがラコニケの軍隊に広がった。ただし、現場で息子とか父親とか兄弟を喪った者たちは例外である。彼らは、あたかも勝利をもたらした者のように、みずからの受難に輝かしくも誇らしげに歩き回ったのであった。

[11]
 ところで、この軍団の受難が生じたのは、以下のようにしてであった。アミュクライ人たちは、 ヒュアキントス祭には〔アポロン神に〕讃歌をささげるために帰国するのを常としていた。たとえ出兵中であろうと、何か他の理由で外地にあったとしてもである。この時も、全軍から成るアミュクライ人たちをアゲシラオスはリュカイオンに残留させていた。ところでこの地で守護していた軍令官は、同盟者たちからの守備隊は城壁を守備するよう配置し、自分は重装歩兵たちの軍団ならびに騎兵たちの軍団とともに、コリントス人たちの都市を通ってアミュクライ人たちを転進させた。

[12]
そして、シキュオンから20ないし30スタディオンだけ離れたところで、軍令官はおよそ600の重装歩兵とともに再びリュカイオンにもどろうとし、騎馬総督には、騎兵の軍団とともに、アミュクライ人たちが命ずるところまで、彼らを送り届けてから、〔自分の〕後を追うよう命じた。もちろん、コリントスには軽楯兵たちも重装歩兵たちも大勢いることを知らなかったわけではない。先頃の幸運のおかげで、自分たちと事を構える者はいまいと侮っていたのである。

[13]
ところが、コリントス人たちの市域から出撃してきたのは、 ヒッポニコス(1)の子 カリアス(2)――アテナイ人たちの重装歩兵たちの将軍であった――と、イピクラテス――軽楯兵たちの指揮官――とで、相手の数が多くもなく、軽楯兵も騎兵隊も付いていないのを眺望して、これなら軽楯兵部隊で攻めかかっても安全だと考えた。なぜなら、道を行軍してくるなら、相手は無防備な裸の側面を投槍攻撃されて撃滅されるであろうし、たとえ〔相手が〕追撃を企てたとしても、最軽量の軽楯兵たちなので、重装歩兵たちの手を逃れることは容易であろう。このように判断して、彼らは出陣した。

[14]
そして、カリアスは都市からほど遠からぬところで重装歩兵たちに戦闘態勢をとらせ、イピクラテスは軽楯兵たちを引き連れて〔相手の〕軍団に攻めかかった。対して、ラケダイモン人たちは、投槍攻撃を浴び、ある者は深手を負い、ある者は落命したので、楯持ち(hypaspistes)たちにこの者〔深手を負った者〕たちを収容してレカイオンに運びさるよう命じた。そして、この者たちだけが、この軍団の中で真に助かったにすぎなかったのである。他方、軍令官は、兵役10年の層に、肉薄する連中を追い散らすよう命じた。

[15]
そこで彼らは追撃したが、重装歩兵であるからして、投槍の射程外にいる軽楯兵は一人としてつかまえられなかった。というのも、〔イピクラテスは〕重装歩兵たちが接近する前に、これから遠ざかっているよう命じていたからである。しかも、追撃するさいに、各人ができるかぎり速く追撃したために、ばらばらになって引き返してくるときに、イピクラテス麾下の者たちは向きなおって、再び正面からだけでなく、他の者たちは側面にも走り寄って、相手の無防備な裸の側面に投槍攻撃をあびせたのである。たちまちのうちに、この最初の追撃で彼らの中の9ないし10人が投槍に倒された。しかもこのことが起こるや、にわかにより大胆に攻め立ててきた。

[16]
かくして、仇を成される一方なので、軍令官は兵役15年層の者たちに再び追撃を命じた。だが、引き返してくるときに、彼らの中から最初よりももっと多勢が斃れた。もはや最善の者たちが亡くなったため、騎兵たちが彼らに助太刀し、彼らといっしょになってもう一度追撃を実行した。だが、軽楯兵たちが総崩れとなったところで、このときの騎兵たちの襲撃が悪かった。というのは、相手の何人かを殺害するまで追撃するのではなく、散兵を相手に互角の形勢で且つは追撃し且つは退却したのであった。そして、これと同じ様なことを何度も繰り返して実行し被っている間に、自分たちはその都度少数となり弱まったの対し、敵はより大胆になるばかりか、攻撃者はその都度多人数となった。

[17]
ついに困じはてて、とある小高い丘の上に集結したが、そこは海からはおよそ2スタディオン、レカイオンからはおよそ16ないし17スタディオン離れていた。そこでレカイオンからの者たちが察知して、商船に乗船して来航し、丘の向かい側に到着した。もはや困じはてた者たちは、被害をこうむり、戦死するだけで、為すすべもないばかりか、かてて加えて重装歩兵たちまでが進撃してくるのを眼にして、総崩れとなった。そして彼らのある者たちは海に飛び込み、わずか数人が馬とともにレカイオンに救出されたにすぎない。この戦闘の全体と敗走とにおいて、戦死者はおよそ250人に達した。

[18]
この事件は以上のような結末に終わったのであった。
 こういう次第で、アゲシラオスは、敗軍の方はこれを率いて退却し、レカイオンには別の軍団を残置した。そして家郷に至る道すがらは、〔途中の〕諸都市にはできるかぎり夜おそくに到着し、できるかぎり朝早くに進発した。しかし、 オルコメノス(1)から マンティネイアに接近したときは、夜明け前に起き、まだ闇の中を通過した。それほどまでに将兵たちは惨めな状態にあるように思われた、――マンティネイア人たちがこの不幸を見物したら、悦ぶくらいに〔 本巻 第4章 17節参照〕。

[19]
これから以降は、イピクラテスがその他においても大いなる戦果をあげた。すなわち、プラクシタス指揮下の守備隊が、シデュウスやクロムミュオンに駐留していたが、この時に彼はこれらの城壁を占領し、さらに、アゲシラオス指揮下の〔守備隊が〕オイノエ(2)に〔駐留していたが〕、まさにその時にペイライオンを陥落させ、これらの領土をすべて占領したのである。それでも、レカイオンをラケダイモン人たちとその同盟者たちとは守備していた。が、コリントスの亡命者たちは、軍団のこの不幸によって、もはや陸路でシキュオンから接近できず、レカイオンに航行して、そこを発進基地にすることになり、面倒なばかりか、〔コリントス〕市内の者たちにも面倒をかけたのであった。
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