富翁の歴史 日本酒の歴史 伏見の歴史 日本の歴史 1813年(文化10年) 七代目 北川三右ヱ門 襲名 1828年(文政11年) 八代目 北川三右ヱ門 襲名 1840年(天保11年) 九代目 北川三左衛門 襲名 1846年(弘化3年) 製成数量240石(伏見全体では6,724石) 1869年(明治2年) 製成数量430石(伏見全体では7,340石) 江戸時代 1806年(文化3年) 勝手造り令豊作により届け出をすれば誰でも酒つくりができるようになった 伏見の酒蔵数:28 1837年(天保8年) 宮水の発見山邑田座衛門(やまむらたざえもん)西宮で発見したとされる、この水を売る水屋という商いも存在した 伏見の酒蔵数:28 明治時代 明治前期 山田穂の品種固定山田錦の原種 1894年(明治27年) 吟醸酒という言葉の登場新潟岸五郎という酒蔵が「酒のともしび」で使ったのが最初といわれている 伏見の酒蔵数:38 1899年(明治32年) 自家製酒税法廃止どぶろくの製造が禁止される 伏見の酒蔵数:43 1864年(元治1年) 長州藩が兵を率いて伏見に入る。幕府軍に敗れ長州藩伏見屋敷焼失。 1866年(慶応2年) 寺田屋事件 1月24日未明、薩長同盟を締結した坂本龍馬が、長州藩の三吉慎蔵と寺田屋に潜んでいるところを伏見奉行配下の役人に取り囲まれる。 風呂場にいたお龍が、不穏な気配を察知して2階の龍馬に危機を告げたので、龍馬はピストルで応戦。三吉は槍を構えて戦いましたが乱闘になり、龍馬は両手首を切られてしまう。 負傷した龍馬を肩に掛け、裏口の物置を抜けて、隣家の戸を破り小路(現在の龍馬通り)に出て逃走した三吉は途中の寺に探索者がいるのに気付き、方向転換して川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、龍馬をその小屋に置いて濠川沿いの伏見薩摩藩邸に駆け込んだ。 この事件の顛末の詳細は「三吉慎蔵日記」に記されており、龍馬が潜んだとされる西浜の材木小屋は濠川の左岸南方(現在の北川本家瓶詰工場)にあったといわれている。 せんなり屋出版 吉田酔痴著「逸話と伝説 伏見の酒」より引用。龍馬の逃走経路と逃げ込んだ先が現在の当社の敷地であった事が記されている。 この石碑と看板は大手筋沿いの濠川に掛かる大手橋西詰北側に設置されている。説明が書かれた板に「是より南東約50mの対岸」と書かれているが、それを地図上で確認すると正に当社の敷地にあたる事が分かる。 1867年(慶応3年) 伏見奉行が廃止される。 1868年(慶応4年) 薩摩藩・旧幕府軍による鳥羽・伏見の戦いが始まる。後の戊辰戦争へ 1879年(明治12年) 郡区町村編制法により伏見区が設置される。 1881年(明治14年) 伏見区が廃止される。 1889年(明治22年) 町村制施行により紀伊郡伏見町が発足する。 1895年(明治28年) 京都で路面電車(京都市電伏見線)が開業する。(東洞院塩小路下ル(京都駅の近く)~伏見下油掛(京橋)間(昭和45年廃止) 1802年(享和2年) 十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」完成 1821年(文政4年) 伊能忠敬による日本地図「大日本沿海輿地全図」完成 1831年(天保2年) 葛飾北斎の「富獄三十六景」完成 1837年(天保8年) 大塩平八郎の乱 1867年(慶応3年) 大政奉還近江屋事件(近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺される) 1868年(慶応4年) 明治政府が五箇条の御誓文(政府の基本方針)を示す 1869年(明治2年) 東京~横浜間で電信(公衆電報)が開通する東京奠都(首都を東京に定める) 1871年(明治4年) 廃藩置県 1872年(明治5年) 福沢諭吉「学問のすすめ」完成新橋~横浜間で鉄道(蒸気機関車)が開業群馬県富岡市に富岡製紙場が開業 1874年(明治7年) 板垣退助らによる自由民権運動が開始警視庁が設立する 1882年(明治15年) 日本銀行が開業する 1885年(明治18年) 伊藤博文が初代内閣総理大臣になる 1889年(明治22年) 大日本帝国憲法制定。国号も大日本帝国となる。東海道線が全線開通する 1890年(明治23年) 森鴎外「舞姫」完成 1893年(明治26年) 小学校の祝祭日の唱歌として「君が代」が選定される