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Bauddha

仏教入門 -仏教とは何か-

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はじめに

仏教とは?

「約2500年前、インドの釈尊によって開かれた宗教で、日本をはじめ東アジア・東南アジアに広く信仰されている。キリスト教・イスラム(教)と並ぶ世界三大宗教の一つ。」

義務教育程度ならそう答えればいいだろう。そして多くの人たちはその程度の認識しかないのかもしれない。しかし、仏教は他の2宗教と大きな違いがある。宗教については別の文書を用意する予定だが、ここで少し宗教全般から仏教について考察してみよう。

宗教について

宗教と言う言葉

先ず、「宗教」と言う言葉は、明治時代に至って英語のreligionの訳語として使われるようになった。それ以前にも「宗教」と言う言葉はあったが、それは「宗の教え」と言う意味で、仏教各宗のそれぞれの教え「教学」の事を意味していた。

そして「仏教」と言う言葉もまた、明治になって現行の意味を与えられた言葉である。それまでは「仏法」「仏道」あるいは中国などでは「仏家」等と呼ばれていた。七仏通戒偈等に見られる「仏教」とは後述する「仏の教え」の意味であり、宗教という概念の導入により、仏教という言葉にも新しい意味が与えられたのである。

宗教とは何か

通常、我々は宗教と言うことばを漠然としたイメージで用いているが、そもそも宗教とは一体何なのだろうか?詳しくは別の文書で述べるとして、今ここで必要な定義をしておこう。

宗教とは道徳、死生観、世界観で、その答えを論理的ではなく、聖なるもの、即ち絶対者や超越者、またそれらに起因する超越的理論に求めるものである。従って宗教では聖なるものに関する事は超越的・超経験的・超論理的に扱われ、論理的思考は停止せざるを得ない。

仏教やインドの宗教全般ではそういった時でも経験的・論理的議論を行おうとする。なぜなら、インドでは元々宗教と哲学との区別があいまいで、宗教的な命題でもその原因を神の絶対性に委ねてしまわない。また、仏教では経験によって論ずる事ができない形而上学的な問いかけにおいては、それに対しては何も語られない(無記)、と言う立場をとる。これは特に経験論的な姿勢と言える。

これゆえに仏教は哲学であり、宗教ではないとする説もある。しかし後述するが、悟りの完成の確認において超経験的認識に拠る以上、仏教もまた宗教である。と筆者は考えている。

従って、西洋哲学はその論理性から宗教の対極に位置すると言える。(西洋哲学は一般的に、論理的で合理的な原理に従う事を旨とする。)

ここでは宗教の範疇を以下のように細分する。

なお、以下の分類では最も広義の宗教を非常に広く取っている。これは筆者が「イデオロギー(政治思想としての)もまたある種の宗教である。」と考えていることに起因する。

マルクスは「宗教は、逆境に悩める者のため息であり、心なき世界の心情であるとともに、精神なき状態の精神である。それは民衆の阿片である」Wikiquoteより)と言ったそうだが、多くの共産主義国家では共産主義思想が教義となり、マルクスや各国の共産党指導者、革命家などが神格化されて個人崇拝の対象となっている。旧ソ連のレーニン廟などはその代表例であろう。

最も広義の宗教

ある程度論理的で一部の人々にに支持され認知されているが、決定的な根拠や論理性を欠き、その部分を超越的思考で補うような道徳観など。一般に「宗教的」と表現されているような事柄。

たとえば、過去には明らかに反道徳的であったが、現在では明確に反道徳的とは言えないにもかかわらず、一部の人々によって強く嫌悪されるようなこと。多くの社会的習慣など。

また多くのイデオロギーを含む。

広義の宗教

自らは宗教を自称しないが、明らかに論理的でない思考を行いそれを超越的理論で補うもの。

たとえば一部の自己啓発セミナーや、団体など。

狭義の宗教

明確に聖なるものを立てた思想・哲学体系や新興宗教。

最も狭義の宗教

広く一般に知られる既成の伝統宗教。

宗教の分類

狭義の宗教は幾つかの分類方法によって分類する事ができる。そしてそれによって各宗教の特徴が顕になる。以下に3つの分類方法によって各宗教を分類してみよう。

なお、啓典宗教とは啓典、即ち最高教典(正典)を擁する宗教をいい、一般的にこれはアブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム(教))のみを指す。厳密にはこれら以外の啓示に基づく新興宗教などは指さない。

このようにして見ると、仏教は釈尊によって創唱された「創唱宗教」で、神の啓示に拠らない「非啓示宗教」の中で唯一「世界宗教」に発展した。と言える。

仏教を考える上で重要なのは「非啓示宗教」の部分であろう。他の世界宗教であるキリスト教やイスラムは、神の啓示を受けた預言者(キリスト、ムハンマド)によって創唱され、唯一絶対の聖典を戴く宗教であり、その点で仏教とは大きく異なる。

キリスト教やイスラムでは「神」は絶対である。この場合、信仰とはただ神を仰ぎ信じ従う事を意味する。神は全知全能であり、救済は神によってのみもたらされる。人々は神の意に沿うように生き、祈りによって信仰の意思を示す。人々に祈り以外の手段はない。換言すれば、敬虔な祈りは必ず神に届き、救済が行われる。

では、仏教ではどうだろうか?詳しくは後で述べるが、原始仏教では救済は自らの行為によってのみ得られる。誰か、超越者の力によるのではない。したがって、ただ祈るだけでは救済は得られない。また、仏教では神を絶対者とみなさない、それどころか神は仏陀の遥かに低い地位しか与えられていない。救済(解脱)において、仏教では神は重要性を持たない。

このように、仏教は「非啓示宗教」であるが故に「啓示宗教」である他の2大宗教とは、「神」と「救済」に対する立場に大きな違いがある。

仏教とは何か

仏教とは何か?ここでは仏教という言葉の意味を見ていきたい。

仏とは

そもそも、仏とは何なのだろう?

仏とは、サンスクリット(パーリ)語で「目覚めた人」を意味する、ブッダ(s, p. बुद्ध buddha)の漢訳である。初め「浮図」「浮屠」と音写していたが、後に「仏陀」と音写されるようになった。

仏教の視点において仏陀と言えば、第一義的には釈尊を指す。しかし仏陀は本来固有名詞ではなく、一般名詞であり、尊称でもある。仏教では阿弥陀仏や毘盧遮那仏、五仏なども仏陀である。また、仏教を離れれば、ジャイナ教でも、その事実上の教祖ヴァルダマーナ(尊称、マハーヴィーラ)(仏典ではニカンダナータプッタ)をはじめとする最高の聖者をブッダと呼ぶ。1)

では「目覚めた人」ブッダは、一体何から目覚めたのであろうか?

古代インドでは「輪廻」(サンサーラ s, p. समंसार sa[./m]s[-/a]ra)と言って、業(おこない:カルマン s. karman p. kamma)に応じて(因果応報)我(たましい:アートマン s. [-/a]tman p. attan)(なお、ここでは仮にアートマンを便宜上「我=たましい」と言う簡単な説明にしているが、その本質は非常に難解で、簡単な言葉で言い表せるものではない、詳しくは後述する。)は様々に生まれ変わって、終わることはない。と信じられていた。それは永遠に生死が続く苦しみ、と理解され、この輪廻から離れることを目指す思想が現れた。その輪廻を離れる事を解脱といい、その状態になった事を涅槃という。

そういった「輪廻」「業」「アートマン」「解脱」と言う思想的背景を持つ時代のインドが、仏教誕生前後の舞台である。

仏教以外の古代インドの思想

インド文明最初期のインダス文明のころ、あるいはそれ以前から、農耕先住民は農作物の年間の変化、種蒔き―発芽―実り―枯死そしてまた種蒔き、と廻ることを、死と再生の繰り返しと思想を発展させ、それが輪廻思想の萌芽となったようである2)

そこへ新しい宗教「リグ・ヴェーダ」(s. ऋगवेद [r/. ]g veda)に始まるヴェーダの宗教がもたらされた。3)最も初期のヴェーダの宗教では死霊はヤマ(s. yama)の支配する死者の国に赴く、そこは最高天にある楽園で、死者は新たな身体を得て、祖霊(ピトリ s. पितऋ pit[r/. ]))と出会い、共に過ごし自身もピトリとなる。と考えられていた4)。さらにその世界では生前に行った祭式と布施、と言った地上での功徳の果報を享受できるとした。

その後、ヴェーダ後期、古ウパニシャッドの頃になると、「五火・二道説」に代表される、輪廻思想に発展する。5)

五火説とは、輪廻の過程を祭火と関係付けて5段階で説明する。5段階とは次のようになる。

  1. 火葬された霊魂はに入る。
  2. そしてとなった地上に降る。
  3. 雨は植物に吸収され食物となる。
  4. それを人(男性)が食して精子となる。
  5. そして母体に入り胎児となる。

ここで上記1の前段階において2つの道に分岐する、これが二道説である。

荒地(森林)において(出家)、苦行が信であるとして信奉する者は祭火(火葬)の炎となり月の満ち欠けと太陽の運行をめぐり1年を経て太陽へ行き、太陽から月へ、月から稲妻へと移行し、やがてブラフマンへと到達する。これが「神への道」(デーヴァヤーナ)である。

もう一つは、住地において(在家)、祭祀と善行を布施としてその果報を信奉する者は祭火(火葬)の煙となって月へ赴く、すなわち五火説の1に到る。これが「祖霊への道」(ピトリヤーナ)である。

さて、祖霊への道を行く者は、生前に好ましい善い行いを行った者は好い母体に入る事が保証される、また汚らわしい行いを行った者は汚らわしい母体に入る事が保証される。

ここで言う善い行いとは先ず第一には、正しい形式で遂行された祭式・儀礼の行為である。

このように、初期のバラモン教では祭祀によって功徳を積み、来世の幸福を得ようと考えていたが、ヴェーダの宗教の発展により、宇宙の根本原理である梵(ブラフマン s. brahman)に到達し、梵(ブラフマン)と我(アートマン)は火と火花のように本来一つのもので、その正しい智恵を得たならば我は梵と一体となり、その状態を解脱とする。と言った、梵我一如と言う思想に変化していった。

さて、この梵我一如と言うものは、なかなか現代日本人が理解するのは困難であるが、近代インドの修行者、ラーマクリシュナの説明が非常に解りやすい。森本(2003)からの孫引きではあるが以下に引用しておくので参考にしてほしい。

ここでラーマクリシュナは、人間の魂を塩でできた人形にたとえている。あるとき、塩人形が海の深さを測ろうと、海岸へ行き、海水に足を浸す。と、たちまち塩人形は大海とひとつになって海水に消えてしまった。それは、人形を形づくっていた塩の分子が、そもそも海からとれたものであったからである。人間の魂と宇宙霊ブラフマンも同じである。個々の魂がふたたび普遍的な大きな魂と一体化できるのはこのためである。

森本達雄「ヒンドゥー教」 pp.372-373.

さて、ここにおいて「輪廻」「業」「アートマン」「解脱」と言う、仏教誕生前後の思想的要素が揃ったのである。

  1. 中村・三枝(1996)pp.26-28.
  2. 宮元(1995) p.21.
  3. 一般にヴェーダの宗教とアーリア人侵入説(以下、アーリア人説)は一組として語られる事が多い。しかし、近年アーリア人説には様々な疑問が呈されている(長田(2002) pp.136-166., pp.181-187. 及び 津田(1990))、もちろんそれらは玉石混交で、ヒンドゥーナショナリズム一辺倒のものから、考古学的なものまで様々である。

    いづれにしても、言語的、神話的類似性を、人種的、民族的因果関係に結び付けるのは妥当ではない。よって、ここではヴェーダの宗教が外部からもたらされた事は認めるが、それをアーリア人説と結び付けることはしない。

  4. 井狩(1988)p.278.また、RV. 10.14.8, 10.15.14, 10.16.5 参照
  5. ibid.pp.280-296.

仏の教え

「仏教」という言葉を字義通りに見れば「仏の教え」となる。では「仏の教え」とは一体何なのだろうか?これにはいくつかの解釈を与えることができる。

仏によって説かれた宗教

「仏の教え」である仏教は、ブッダである釈尊によって初めて説かれた。仏によって説かれた教えであるから「仏の教え」、「仏教」なのである。

前述した通り、元来ブッダは固有名詞ではない、しかし実在したブッダは釈尊のみである。従って釈尊によって説かれた宗教、すなわち仏教なのである。

ちなみにジャイナ教の事実上の教祖ヴァルダマーナもブッダと呼ばれ得るが、ジャイナ教においてジナ(勝者)という呼称が与えられ、ジナの宗教、すなわちジャイナ教と呼ばれる。従って、「ジナによって説かれた宗教」同様、以下に挙げる「仏を信仰する宗教」「仏になるための宗教」は「ジナを信仰する宗教」「ジナになるための宗教」に置き換えられる。

仏になるための宗教

仏教徒の最終目標は解脱する事、すなわちブッダになる事である。釈尊が説いた教えは正にそのための方法であり道程であった。出家した仏教徒はもちろん、一般の信者も究極的には解脱を目指している。それぞれに応じた様々な方法が示されるが、山の頂上に至る道が1本でないように、解脱に至る道も1本だけではないのである。釈尊はそれを弟子達の資質に応じた方法で示し導いた。

現在の様々な仏教各宗派も、1つの頂上を目指す、さまざまな道なのである。

このように、仏教本来の姿から仏教は「仏になるための宗教」と言える。1)

仏を信仰する宗教

仏教徒の最終目標は解脱しブッダとなる事であるが、一般の仏教徒(信者)にとって解脱に至ることは極めて困難である、また出家者であっても結果的に解脱に至れない者もある。彼等にとっては仏を信仰し、礼拝し、布施したりすることによって功徳を積み2)(出家者ならば修行生活全体が功徳となる)、更には多くの人々の数々の功徳を廻向し、幾度もの転生を重ねた後の、遠い未来世において解脱する事に望みを託す。

一般の仏教徒にとってはただ仏を信仰することが仏教徒としての勤めとなる。実際、仏教徒の多くがこのカテゴリに入るであろう。

このように、一般仏教徒から見れば仏教は「仏を信仰する宗教」と言える。

  1. 詳しくは後述するが、後代の部派仏教では釈尊以外の解脱者はブッダにはなれず、アルハット(阿羅漢)で止まるとする。
  2. ブッダに対して、礼拝、布施する事が功徳を積む。と言う考えは原始仏教の頃からあったようである。Sn. 82, 481, 485, 486 など参照。

次章釈尊について