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2000年2月中旬 |
母 「“とらうま”てなんや?」
おれ「(おお、珍しく向学心があるな)精神的外傷のことや」
母 「?」
おれ「ココロのキズや」
母 「それをなんでそんなふうに言うんや?」
おれ「なんでて、ドイツ語でそない言うからや」
母 「ドイツ語なんか。なんで“虎と馬”なんかいなと思うた」
どっしぇー。おれはコケた。あんたは浅田彰か。
こんな古典的なネタを独自に再発明するとは(本人はギャグのつもりではないのである)、さすがと言えよう。そら、こんな息子ができるわ。
【2月19日(土)】
▼関西のSFの人たちが突発的に企画した宴会に参加する。出がけにバタバタしてしまい、いかん遅れると思って最寄り駅まで車で行こうとタクシーを呼んだら、不運なことに思わぬ道路工事のためかやたら渋滞していて焦った。結局二十分ほど遅刻して到着。それらしい宴会はないかと店の人に訊いたが要領を得ない。自分で店の中を見わたすと、あっ、真正面にそれらしい宴会があった。それだった。
恐縮して席に着くと、隣席の小林泰三さんも到着したばかりだという。どうやら同じ京阪電車の急行に乗っていたらしい。なるほど、京都から京阪で梅田のビアホールに行くには、京橋でJRに乗り換えて大阪で降りたほうが、淀屋橋から地下鉄で梅田に行くのよりもわずかに早いわけか。今度からそうしよう。
いらっしゃるかもしれないとは聞いていたが、堀晃さんがビールを注いでくださってさらに恐縮する。しょっちゃこばって「いや、堀先生に(お酌など)――」などと口走ってしまうと、「“先生”はやめましょうや」とにこやかにおっしゃる。そりゃそうだ。酒の席である。しかも、ここに集まっているのは、自分の読者には先生と呼ばれることも少なくない人々ばかりだ。それでもやはり、おれの超自我がかしこまってしまい、内心めちゃめちゃアガる。十代のときからその人の作品を読んで育った作家と、自分と同年輩の作家とでは、面と向かったときの心理的距離というものがまるでちがうのである。こここの人が『梅田地下オデッセイ』を書いたのだ『太陽風交点』を書いたのだ『恐怖省』を書いたのだ『エネルギー救出作戦』を書いたのだ『マッド・サイエンス入門』を書いたのだ『バビロニア・ウェーブ』を書いたのだ日本のハードSFを作ってきたのだしかもサラリーマン兼業の超人なのだ筒井康隆と並んで関西SF界の二大美男といわれたのだ酔っ払ってかんべむさしにそそのかされてゼブラパンツ一枚になって生きた仔猫を食いかけたり大声でかわいい奥さんと坊やの名前を遠い夜空にむかって呼ばわったりしたと小松左京が書いていたのだと思うと、これがアガらいでか。
とはいうものの、ご本人はじつに気さくな方なのであって、ほどなくおれもリラックスする。いや、じつは堀さんとは初対面ではない。もう六、七年前になるかとは思うが、以前にパソ通のオフ会だったかコンベンションだったかで大迫公成さんにお引き合わせいただき、堀さんにお名刺まで頂戴しているのだった。その後、何度かメールを交わしたことすらある。おれが商業誌に文章を書いたりする以前のことだ。それにしても、どんなものすごい作家や翻訳家や評論家やマンガ家やエッセイストやその他各種クリエイターにお会いしても、みんな一様にヒューマノイドなのである。そら地球人やからなと頭では理解できても、いまだにおれには不思議に思える。
気色の悪いことに、いまなにかと世間を騒がせている昭和三十七年生まれが十三人中七人もいる宴会であった。堀晃、牧野修、野尻抱介、おがわさとし、喜多哲士、北野勇作、小林泰三、田中啓文、林譲治、冬樹蛉、堺三保、田中哲弥、都築由浩(生年順>五十音順・敬称略)のうち、名前が斜体の人が昭和三十七年生まれだ。田中哲弥さんは三十八年だが、すでに三十七歳なのである(ひょっとして堺さんもそうだったっけ?)。“三十七歳”の話題に首を傾げた堀さんに、みながその場にいないあの人もあの人もと、SFに所縁がある昭和三十七年生まれの名を挙げてゆく。「森岡浩之、山岸真……小浜徹也、三村美衣……添野知生、藤崎慎吾……SFじゃないけど、佐藤亜紀」って、デビューが日本ファンタジーノベル大賞だからSFゆかりと言えないこともあるまいが、無理に増やしてどうする。「グレッグ・イーガンは一九六一年(昭和三十六年)だから、世界的な現象である」おいおい。
これは偶然の一致ではあり得ない。絶対あの年、一九六二年付近にはなにかあったにちがいないという、おなじみの話になる。一説には、筒井康隆が指揮をとった第一回日本SF大会〈メグコン〉のせいらしいが、メグコン自体がなにかの大きな陰謀の一部であったとも考えられる。とりあえず、「誰かがなにか悪い、いや、よいものを世界中に散布した」という説と、「散布するのをあの年だけ忘れた」という説が有力(?)になった。
さて、二次会は途中で日付が変わるので、次回に続く――。
【2月18日(金)】
▼以前からずっと気になっているのだが、マクドナルドのコーラのMとLは、それほど分量が変わらんのではなかろうか? たしかにLのほうが多い。多いが、カップの大きさの差ほどには、コーラの分量には差がないような気がしてしかたがないのだ。要するに、Lは氷が多いのではなかろうか。量ったわけではないから正確なところはわからないけど、あなたもなーんとなくそう思いませんか? いや、もしそうだとしても、それが悪いとは言わん。コーラの量が増えたぶん、適温で飲むためには多くの氷を必要とするのかもしれん。MとLの味が変わらないようにするため研究に研究を重ねた結果、あのようなコーラ対氷の比率が導き出されたのかもしれん。一度持ち帰って調べてやろうかと思うも、よく考えたら、持ち帰るころには氷がかなり融けているはずだから、真実は隠されたままになるだろう。そうだ、氷が全部融けるまで待って飲み干せばわかるにちがいない。むかしからよう言いまんがな、「真実は底にある」て。
【2月17日(木)】
▼会社のそばを歩いていると、ヘンな車が停まっていた。いや、どこがどうヘンというわけでもないふつうの乗用車に見えたのだが、なにやらヘンだと表層の意識に上ってこない違和感を覚えた。あっ、そうか。ナンバープレートがヘンなのだ。「名古屋500 ○○−○○」と書いてある。なんだこれは? 名古屋500? こんなの見たことないぞ。おれは自動車の運転免許を持っていないし、濃いミステリファンでもないから(ふつうの人が気にも留めないあの手のコード体系にやたら詳しい人はいたりするのだ)、名古屋500の意味するところなどわからない。「なんだか見慣れないものを見ているぞ」と、おれの脳のパターン認識機構が機械的に反応しているのである。はて、あそこにはたいてい、なにわ44とかなにわ44とかなにわ44とか書いてあるものなのではないのか? いくらおれが車に乗らないといっても、地名の横の数字が車の種別を表わしていることくらいは知っている。どれがなにだかさっぱりわからないけど、それにしても500なんてのはとにかく見たことがない。
こういうときこそインターネットと思い、帰ってから調べてみると、やっぱりあるんだねえ、「ナンバープレート」なんてサイトが。ふむふむ、あれはやはり分類番号というのか。あっ、「分類番号の3桁化」について説明してあるぞ。なーるほど、そういうことか。名古屋ナンバーがいちばん「払出し」とやらが多いので、二桁じゃ足りなくなったわけね。“名古屋”の部分にも意味があったのだな。恥ずかしながら、○○−○○の部分を好きな番号にできるようになっていることは知っていたが、三桁の分類番号が出現しているとはとんと知らなんだ。車に乗る人にとっては常識の範疇に属することなのだろうな。名古屋ではああいうのがすでにうようよ走っているのだろうか。それとも、名古屋でも実際に現れたのは最近なのだろうか。
今日の日記は、「おまえ、そんなことも知らなかったのか」と笑われそうだな。いや、たいへん勉強になった。今度名古屋に行ったら、気をつけて見てみることにしよう。
【2月16日(水)】
▼NHKの小野文惠アナが好きである。ほれ、「ためしてガッテン」の人ね。アナウンサーとして抜群の技術を持っているわけでもなく、とびきりの美人というわけでもないのだが、しゃべりかたがコロコロしていて、たいへん耳に心地よい。もっとしゃべれもっとしゃべれ、いつまでも聴いていたいぞと思わせる妙な魅力の持ち主だと思う。なにかこう、聴いていると頭がすっきりする。小野文惠をさしおいて、久保純子になぜあんなに人気があるのか、おれにはさっぱりわからない。小野アナをもっと引き立てろよ、NHK。しかし、テレビ朝日の丸川珠代といい、おれは東大出身の女性アナに弱いのであろうか。
▼たまには読んだ人にしかわからない話をしよう。『エンディミオン』『エンディミオンの覚醒』(ダン・シモンズ、酒井昭伸訳、早川書房)の主人公ロール・エンディミオンなんだが、どうもこういうキャラクターには見覚えがあるなあ、どこかに同じようなやつがいたなあと、ずっと気になっていたのである。やっとわかったぞ。『蒼白の城XXX(トリプルエックス)』『慟哭の城XXX』(田中啓文、集英社スーパーファンタジー文庫)の主人公ブルーじゃないか。「なんでおまえにだけ、これがわからへんかね?」「とっとと気づかんかい、あかんタコ」と思わせるあたりがそっくりである。基本的に同じような単純な男なのに、エンディミオンのほうは愛すべき人物で、ブルーのほうはただのアホだということになってしまう(もちろん田中啓文は、意図的にただのアホにして喜んでいるわけだが……)。やっぱりナニですな、惚れた女次第ですな。エンディミオンが田中啓文ワールドに放り込まれたとしたら、けちょんけちょんにいじめられるような気がするぞ。おれも惚れる女には気をつけなくては。もっとも、気をつけようがないから“惚れる”と言うのであろう。惚れるという字は惚けると書くのだ。
【2月15日(火)】
▼リンダ・ナガタさんのウェブページがリニューアルされているので、一応書いておこう。先日、『極微機械(ナノマシン)ボーアメイカー』(中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)と『幻惑の極微機械(ナノマシン)(上・下)』(中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)のカバーアートは誰の仕事か教えてくれとメールがきて、「機械を描かせたらピカイチのショージ・ハセガワの作品である」と、長谷川正治氏のウェブサイトも併せてご紹介しておいたら、ちゃんとリンクを張ってらした。ナガタさんは日本語版のカバーアートがお気に入りなのだそうだ。ちなみにオリジナルのバンタム版のカバーを描いたのは、ナガタさんも絶賛する Bruce Jensen 氏である。ここでリンクを張ったサイトはジェンセン氏自身が作っているものではないが、作品をご覧になれば「あっ、あれもそうなのか」と思い当たられる方も少なくないと思う。ジョー・ホールドマンの Forever Peace のカバーもジェンセン氏の手になるものだ。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
まだ出ていない本なので、念のため。四月十日発売予定だ。送ってくださったのはプルーフ版である。
紹介資料を眺めると、クローンもののテクノスリラーらしい。もっとも、ダーントン自身は、自分の作品を“サイエンス・アドベンチャー”と呼んでいるそうである。まあ、呼ぶのは勝手だが、定着はせんと思うぞ。どこの国にも似たような人がいるものだ。書評を読むかぎりでは、SFと呼んでもよさそうな内容なのだが……。
ぱらぱらと中を覗くと、臓器移植がどうのテロメラーゼがどうのいった語が躍っているので、つまり、すなわち、たぶん、そういう話なのであろう。けっこうハードなSFなのかもしれない。面白そうだから、手が空いたら優先的に読もう。
【2月14日(月)】
▼チャールズ・M・シュルツ氏の訃報が入ってくる。Peanuts の最終回、作者のお別れの挨拶が新聞に掲載されたのは、奇しくも亡くなった翌日だったのだそうだ。なんというドラマチックな人生の幕引きであったことか。しかも、今年は「ピーナッツ」がはじまって五十年めだ。いやあ、こういうとき、つくづくクリエイターというものが羨ましくてたまらなくなる。チャーリー・ブラウンとその仲間たちは永遠に不滅であろう。中学生のころ、あの紙質の悪い対訳版(意図的にペーパーバックの雰囲気を出してあったのだろうが)を買ってきては、辞書を引きひき読んでいたものである。訳はご存じ谷川俊太郎だ。学校の教科書がいかにもくだらないものに思えた。
などとエラそうなことを言いながら、四コママンガを辞書引きながら読んでもなにが面白いのかよくわからないこともしばしばで、ああ、なるほど面白いなと自然に思えるようになるまで十年はかかったろう。外国語で“コマ間”が読めるようになるには、小説や戯曲をどっさり読んで、映画やテレビドラマをたっぷり観る必要があったのだ。シュルツの「ピーナッツ」は大爆笑を狙うようなものではなく、ほんわか、くすっと笑わせるタイプのマンガだから、空気が読めなくては楽しめない。論理を読めば笑えるタイプのマンガは、異文化圏の人間にとっても比較的簡単なのだ。そういう意味で「ピーナッツ」は、おれにとってひとつの壁であった。「キャラクターが可愛いのはわかるが、なんでこんなものが面白いのだ?」と正直言って悩んでいたこともあったくらいだ。映画館でおれたちが笑わないところでガイジンが笑っているのを聞くと癪に障るような感じを抱いていたのである。
ああ、なにもかもみな懐かしい。ときおりおれは、パソコンの前で呻吟していると、スヌーピーになったような気になる。毎度毎度の rejection slip をものともせず、彼もいまごろあの屋根の上でタイプライターを叩いていることだろう。もちろん、書き出しはこうだ―― It was a dark and stormy night...
ありがとう、シュルツさん、いや、チャーリー。お疲れさまでした。
【2月13日(日)】
▼007のテーマソングを日本人が唄わんものかと2月10日の日記で言ったところ、今度の『ワールド・イズ・ノット・イナフ』(もう一度言うが、日本語版のかっこいいタイトルをつけんか?)のエンディング・テーマ曲「Sweetest Coma Again」を LUNA SEA が唄っていると、それなりさんと伊藤正一さんが教えてくださった。おお、長生きはするものだ。知らなかったのは日本中でおれだけだろう。メインテーマ曲でなかったのは残念。ともかくいっぺん聴いてみないとな。映画観に行くのがいちばん早いか。行けるかなあ。
先日、ソフィー・マルソーのかっこいい写真でもないかと、公式サイトの James Bond.com は観ていたんだが、LUNA SEA の話はどこにも出ていなかった。ドイツ語版やらフランス語版やら八か国語で作られているのに、日本語版がないのはけしからんと思っていたら、日本語版のサイトは日本で別に作っているのね。なるほど、こっちでは LUNA SEA がエンディング曲を唄うことが大きく取り上げられている。こ、この温度差はなんだ? 「日本版エンディングテーマ」とか「日本公開版のエンドロールにLUNA SEAの文字 が流れることになる」とか書いてあるのがよくわからん。海外では流れないってことなの?
さて、話は変わって、007のタイトルである。以前にも、“明日はけっして死ぬな”に文句をつけたことがあるが、今回も妙だねえ。邦題を考えるのが面倒でそのままにするんなら、なぜ『ザ・ワールド・イズ・ノット・イナフ』にしない? 日本語には冠詞なんてないからだって? じゃあ、“イズ・ノット・イナフ”は日本語なのか。わけがわからん。
ところで、007のタイトルには、英語を第二公用語にすることも考慮しているという小渕首相の「21世紀日本の構想」懇談会は喜んでいるだろうか、悲しんでいるだろうか。英語第二公用語化とは、おれはまたずいぶんとたわけたことを言い出したものだと思うね。英語の必要性は、すぐ翻訳が持ってきてもらえたり通訳してもらえたりする英語音痴の政治家先生たちよりも、自分で情報を取りに行かなくちゃならない民間のほうがずっと切実に感じているので、必要とあらば民間で勝手にやります。必要な人が勝手に勉強します。ちゅうか、せざるを得ません。ほっといてちょうだい。それよりも、政治家先生たちはまず、一日も早く日本語が日本の第一公用語になるよう、言葉を言葉として使うことに努力してください、ハイ。
【2月12日(土)】
▼近所のショッピングセンターのそばを歩いていると、自転車の籠に荷物をたくさん乗せた女性と目が合った。美人というほどでもないが、きりりとした顔だちの若い女性で、一瞬どきりとする。自転車にまたがり、いまにも発進しそうなのだが、なにやら向こうのほうを気にしている。見ると、小さな子供が本屋の店頭で遊んでいた。と、突然、女性がものすごい形相で大音声で呼ばわった――「はよ、こいっちゅーねん、どついたろか、おまえは!!」
子供があわてて女性のほうへと駆けてきたかというと、そんなことはまったくない。まだ遊んでいる。慣れているのだろう。あの迫力で怒鳴られて親を無視するとは、なかなか肝の座ったガキだ。というか、あれは、いくら怒鳴られても殴られることはないと安心しきった反応である。昨今、ああいうガキをよく見るのだ。この女性は、口こそ悪いが、口だけなので子供にナメられているのだろう。これくらいの言葉遣いの女性は、ここいらにはうようよいる。「どつけ、どつけ」と腹の中で思いながら通りすぎた。親がどつかんかったら、誰がどついてくれるか。
よく病院などで子供が騒いでいると、「ほら、そこのおっちゃん怒らはるえ」などと叱っているつもりの親がいる。“そこのおっちゃん”とは、ほかならぬおれのことなのである。「それでは、お言葉に甘えて……」と立ち上がり、悪ガキを張り倒してやろうかと思ったことは一度や二度ではない。おれはよく病院に行くので、そうした場面に遭遇することも多いのである。あなたもどこかで“そこのおっちゃん・おばちゃん”にされてしまったことはあるでしょう? もし、おれがほんとうに悪ガキをどついたとしたら、まずそういう親はうろたえて、「うちの子になにするんですかっ!」と怒り狂うに決まっているのだ。前にも同じことを書いたような気がするが、なあに、かまわん。おれは何度でも言うぞ。そういうガキは、お・や・の・お・ま・え・が・ど・つ・け。穏やかに口で言うだけで子供が育つもんなら、親稼業ってのはずいぶんと楽なものにちがいない。なんなら、おれが代わりに電子メールで育ててやろうか?
【2月11日(金)】
▼二月十四日が楽しみでしかたがない。チョコレートがもらえるということもあるが、今年はちょっとちがう。ご存じのように、マクドナルドのハンバーガーとチーズバーガーが半額になるのだ。いままでのように期間限定ではない。定価が半額になるのである。日本の夜明けだ。ハンバーガーを三個食っても消費税乗せて二百四円である。これだけで十二分に昼飯になるではないか。妙なものを食うより、よっぽど栄養もある。すばらしい。会社のそばにマックがないのがじつに残念だ。
暗い話題ばかりの昨今、こんな嬉しいニュースもない。とうとう、おれの時代がやってきた。なにを大げさなとお思いになる方には、「迷子から二番目の真実[17]〜 ファーストフード 〜」を読んでいただきたい。おれのファーストフードへの愛情に共感を覚えてもらえることと思う。
▼『ネットワーク社会の深層構造』(江下雅之、中公新書)読了。こういうネタの本にはなんとなく親近感を覚えて、つい手を出してしまう。はたと膝を打つようなことは書いてないけれども、さすがに実体験が豊富な著者だけあって、ネットワーカーが雑然と頭の中に持っている知識や漫然と抱いている感想が、網羅的に整理されている。こういう本が一冊あると便利だ。触れられている文献にはおれも目を通しているものが妙に多く、いちいち頷きながら読んだ。ネット関連の事件が起きるたびに“識者”とやらが出てきていろいろと誰にでも言えるようなコメントを吐くことが多いが、パソコン通信やインターネットやその他の新しいコミュニケーション・メディアを体感してものを言っているとは思えない人が相当数ある。ヴァーチャルとリアルなどという単純な二分法で好き勝手をほざく手合いはたいていそうである。かつてなかったメディアで現に人間関係が生じているのだから、それそのものはリアルであるに決まっているではないか。メディア論と人間関係論とを混同して安きに流れるから、あの手のことが平然と言えるのだ。
本書の視点はそのあたりをきちんと分けていて、各メディアの特性を押さえつつ、あくまで現象として人間関係が拡張され特殊化されるさまを醒めた目で論じている。ヴァーチャルな人間関係なんてものはない。本書に言う“「薄口」の人間関係”のさまざまな形態が発生してきているだけである。現場べったりでもなく、象牙の塔べったりでもない、ありそうでなかった本なのではなかろうか。ネットワーカー必読――っつっても、遠からずほとんどの人がネットワーカーになるに決まってるんだよな。
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