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2000年2月下旬 |
【2月28日(月)】
▼新潟県の女性長期監禁事件で、被害者が保護された当日に、新潟県警本部長や特別監察に来ていた関東管区警察局長が温泉宿で呑気に麻雀をやっていたことが発覚。いやあ、しかし驚いたなあ。新潟の警察のヒトは、図書券で賭け麻雀をするのかあ。はははは、は。笑わせてくれるじゃあありませんか。さすがはキャリアの人たちはちがう。目を覆わんばかりのギャグセンスである。どうせなら“おこめ券”を賭けていたとでも言っておいたほうが、まだ土地柄が感じられ愛嬌があって面白いのに。とにかく、出版関係者は新潟に足を向けて寝てはいけませんぞ。おれはさっき、新潟のほうに向けて屁を一発ひっておいたけどね。おっと、“屁をひる”ってのは関東風であるな。どうも屁のパワーが弱い感じがしてよくない。ガスの圧力が拡散しているみたいで、指向性に欠けるような気がする。この場合は、“屁をこく”と関西弁で言うのがテッテ的に正しい文法だ。
▼四月に開学予定の広島県立保健福祉大学が行なった入学試験で、「ケイタイ電話」を漢字で書かせるという国語の設問があったのに、受験票の裏に「携帯電話禁止」と書いてあった――って“出題ミス”の話を一昨日にウェブで読んだのだが(なんて日記だ)、このニュース読んで驚いた人はけっこう多いんじゃなかろうか。出題ミス自体は笑えもしないんだけど、この設問の正解率は七割程度だったというのには、ヒジョーに複雑な気持ちになりますなあ。だってさ、この七割のうちには、受験票に正解が書いてあることに気づいてしめしめと書き写したやつだっているはずだろう? てことは、“携帯電話”も漢字で書けずに大学に入るつもりの受験生が三割以上だったわけですよね。うーむ……。いやまあ、入るのは簡単なほうがいいとはおれも思うよ。出るのが難しいのが、あるべき姿だ。それにしても、限度ってものがあるだろう。中学校の漢字の書き取りじゃないんだからねえ。“携帯電話”が書けなかった受験生の中に、そもそもそれが読めないやつがいないことを祈るばかりだ。これから最高学府で学ぼうという若者の中にそんなのが何割もいた日にゃ、SFどころか、日本語で書かれた小説が崩壊しちまうよな。作家は「しおしおのぱー」とでもつぶやいて、屁ぇこいて寝るしかない。
大学側は、「若者が日常的に使う言葉を問う良い出題だと思ったが……」などとコメントしているそうだが、わかってねーなー。すでに“携帯電話”と“ケータイ”とは、指し示す意味領域がちがう別の言葉になっているじゃろうが。“携帯電話”のほうをしばしば使う十代の若者は少数派だと思うぞ。え? どうちがうんだって? そうだなあ、持たされて不安になるのが“携帯電話”、持ってないと不安になるのが“ケータイ”。おわかりか、出題者のおじさん? ま、ほかにも定義はある。電話なのが“携帯電話”、電話じゃないのが“ケータイ”。現代の日本でふつうに生活してたら、これくらいのことはおれの小学生の姪でもわかっているぞ。ハズしまくってないか、おじさん?
【2月27日(日)】
▼仕事はあれど、なにやらどっと疲れが出てなにをする気にもならないので、思いきり退行モードで過ごす。買ってはおいたが観る気にならなかった『コンタクト』(製作・監督:ロバート・ゼメキス、主演:ジョディ・フォスター)など掘り出して、ゆっくり観てみる。安売りしてたときに買ったのだが、値札を見ると、いまロードショー観るより安い。むかしはVHSの映画でも一万円以上してたものだがなあ。なんともいい世の中になったものだ。ところで、いつの映画だっけな、これ――と、この日記を調べてみると、1997年9月16日にネタにしていた。なんだか、ずいぶんと遠いむかしの映画のような気がする。それだけ世の中の回転が速いということだよなあ。せわしないこっちゃ。観察はしていたいが、巻き込まれないようにしなくては。おれはおれのペースで生きる。文句あるか?
いやあ、それにしてもジョディ・フォスターはいいなあ。そういえば、ジョディ・フォスターも昭和三十七年――いや、あっちではそうは言わんか――一九六二年生まれである。それみろ、犯罪者ばっかりじゃないぞ。猟奇犯罪を追う側だっているじゃないか、ってあれは映画の中の話か。
原作とは似ても似つかぬ話になってはいるが、脚本がよくできていて楽しめた。だけど、宗教との絡めかたが気に食わない。しょせんは、Do you believe in God? という質問に人前で堂々と No. と答えにくい連中の妥協の産物って感じだ。こういうのを観るたび、ああ、日本は住みやすい国だなあと思う。日本では、特定の宗教を信じている人間のほうがよほど変わり者扱いされますからな。かといって、完全に宗教的なものを無視すると、これまた変わり者扱いされる。なあなあなのである。この“なあなあさ”が、おれのような敬虔な無宗教者や健全な懐疑主義者や不可知論者にも生きやすい隙間を与えてくれる。おれには、まだわからんことをなぜまだわからんままにしておけない人々がいるのか、あるいは、定性的にわかりようがないことをなぜわかりようがないと認められない人々がいるのかが、まったく理解できない。じつに多様な人々がこんな小さな土くれ球の上で暮しているのだから、なにかを信じない自由は信じる自由以上に尊重されるべきである。Aを信じる人々を仮想敵に設定した人々が、Aを信じないことを率直に表明するのではなく、プラグマティックな理由から別のBを信じることで安易に団結しては不毛な対立を繰り返してきたのが人類の歴史だとしか、おれには思われない。いったい、いつになったら人類は、宗教などという必要悪から卒業できるのであろうか。おれは日本の“なあなあさ”をある意味で非常に高く評価している。そこにオカルトがつけ入っているのには困ったものだが、この“なあなあさ”は、うまく使えば人類の精神的指針のひとつともなり得る潜在的可能性を秘めているのではあるまいかとすら思っている。
ま、カタい話はともかくとして、少女時代のアロウェイ博士(ジョディ・フォスター)を演じている子役は、むちゃくちゃかわいいですな。賢そうだし。あまりかわいいので全裸に剥いて手術台の上に乗せバラバラに切り刻んで頬肉や胸肉をソテーにして食いたいくらいである。こういうこと言ってるから、昭和三十七年生まれのやつが迷惑するのだ。でも、そういう衝動がおれの中に(あなたの中に?)現に存在することは否定しようのない事実であり、それがそこにあること自体は善でも悪でもあるまい。現にあるものをないと言ったところで、なにも生まれないだろう。あるものはあるんだからしようがない。その衝動のままにストレートに行動してしまうと、おれが社会的に生きてゆく上で著しい不利益を被るという純プラグマティックな理由から、おれはかわいい少女を捕まえて食ったりしないだけである。そうした衝動は、社会的な存在としてのおれにもう少し利益をもたらすような形で利用できるにちがいない。なぜなら、そんな衝動を覚えることができるのはひとつの立派な能力なのであって、少なくともそういうものを感じられない人よりは、感じられる能力を持った人のほうが、豊かな内面世界を持つことができるはずだからである。
【2月26日(土)】
▼十七個めのワークユニットが終わったところで、SETI@home のソフトをヴァージョンアップする。はじめたのが昨年の5月16日だったというのに、十七ユニットしかこなしていないとは、じつにのんびりしたペースだ。常時解析モードでやっていたら一度熱暴走したことがあったため、夏場はスクリーンセーバモードだけで解析させていた。だから、ほとんどのユニットが冬場になってからの成果である。ま、ノートパソコンだからねえ。気長にやることにしよう。
しかし、塵も積れば山となるとはよく言ったもので、いま現在で解析時間は七百八十七時間を超えている。丸一か月強だ。これだけの計算時間が、ふつうにパソコンを使っている副産物として有効利用されているのだから、たいしたものである。こういう数字を見るとすぐ思いつくのが、このソフトを人間の脳にインストールできないかということだ。そりゃ、そのままではインストールできないに決まっている。ふだんは使われていないという脳の大部分(ひょっとすると未知の用途に供されているのかもしれないけれども)を利用できないものかと言いたいわけ。仕事の合間にぼーっとしていて、頭の中でラインアートやらフライング Windows やらリボンやら花見やらが走っているとき、“裏”でなにか有益な処理がさせられれば儲けものである。脳の一区画をデジタル処理に特殊化させるべく“フォーマット”し、そこを処理領域および外界とのインタフェースとして利用するのだ。まあ、アイディアとしては新しくもなんともないよな。記憶に新しいSFだけからでも、基本的に似たようなアイディアが出てくるものといえば、リンダ・ナガタのアレやら藤崎慎吾のナニやら、ネタばらしになるのでとくに名を秘す某海外作家のドレソレやらがすぐ思い浮かぶ。え、全部わかるって? さてはあなた、SFファンだな。
▼〈SFマガジン〉2000年4月号を手にする。三月三日発売予定の4月臨時増刊号「SFが読みたい! 2000年版」の予告ページに爆笑。凄い。凄い。凄すぎる。○森望さんの「にやり」がいいですなー。じつは、原稿依頼があったとき、「へえ、例年のベスト企画を増刊号として別冊で出すのか。はて、どういうノリで書いたもんかな……」と一瞬頭の中でとまどったおれに、編集長は先手を打ってこう言ったものである――「水玉さんが表紙だと言えば、どういうノリかおわかりになると思いますが……」
あいわかった。たしかにわかった。たちまちにしてすべてがわかった。まるで目の前に現物があるかのごとくわかった。これ以上ないくらいの的確な説明である。それでわからせてしまう水玉螢之丞画伯もえらいが、そう説明してしまう編集長もえらい。わざわざ増刊号にするわけだから、当然、通常号の読者以外のカタギの――じゃない、ふりの方にも手にとってもらえるようなものに仕上がってくるはずである。「SFはまったく知りませんが、日記はいつも読んでます」というお便りをくださる方々にはお薦め。税込定価六百二十円。水玉さんの表紙が目印。水玉の表紙ではないので気をつけるように。誰もまちがえませんかそうですか。
【2月25日(金)】
▼偶然にも携帯電話の話が続く。今朝、電車の中で、聞き覚えのある着メロが鳴り響いた。あれれっ? おれのはバイブにしてあるはずだ。しかし、ま、まさかこのメロディーは他人のケータイではあり得ない。着メロ本じゃなく、ウェブページの楽譜を見ながら、わざわざ打ち込んだのだぞ。バイブにし忘れてたか、それともケータイが故障したか。おれがコートのポケットからケータイを取り出そうとしたそのとき、着メロがやんだ。見ると、二メートルほど離れたところで、二十代くらいの男性がケータイを耳に当てて話しはじめたではないか。なかなか苦みばしった顔をした勤め人らしき風体の男である。
な、なんてやつだ。その顔で「ポリンキーの秘密」なんか着メロに使うんじゃない。ややこしいじゃないか。じゃあ、おれは「ポリンキーの秘密」にふさわしい顔をしているのかと問われれば返す言葉もないが、こんな変わった趣味のやつと同じ電車の同じ車輌のごく近くに乗り合わせるとは、まことに気味が悪い。ちなみにおれのケータイは、電話番号簿のグループごとに着信音が変えられるようになっており、たとえば会社関係者からの電話では「必殺仕事人のテーマ」(「怨みつらみが悲しくて〜♪」の仕事人“出撃”ヴァージョンである)が鳴り、文筆業者・出版関係者からのは「鉄腕アトム」が流れる。直感的にわかりやすい。「ポリンキーの秘密」は、ほかのグループに入っていない人々、親族姻族や幼なじみ等からの電話を示す。そのほか、いくつかの曲がいくつかのグループあるいは個人に割り当てられている。好きだね、おれも。もっと多くの曲がさらに細かく割り当てられると、より便利なのだがな。なにがどう便利なのかは説明が難しいが、電話が鳴り出してディスプレイを見るまでのあいだに、なんとなく心の準備ができるではないか。電話というやつは、いつも突然鳴り出すので(予告して鳴り出すわけがない)、心臓に悪いのである。もっとも、おれは外ではたいていバイブにしているから、こうした機能が役立つのは主に自宅にいるときだ。
いやあ、しかし驚いたなあ。よもや「ポリンキーの秘密」がプリインストールされている機種があるとは思えないので、やっぱりあいつも好きなんだろうなあ。なに、あなたのもポリンキーですか? 湖池屋、おそるべし。
【2月24日(木)】
▼EmCm Service を使っていくつかのニュースメールを携帯電話に転送している。うまく設定すれば、ネットに繋がなくても最新ニュースを手短かに知ることができてたいへん便利だ。おれのはiモードじゃないからネットに対して能動的なアクションは起こせないが、メールはいくら受信してもタダなので気楽に転送できる。プロバイダにわずかな転送手数料を払っているだけで勝手にニュースが入ってくるのはじつにありがたい。ケータイに転送したくないメールは EmCm service のほうでたいていフィルタリングできるから、言うことなしである。
ただ、ひとつどうにかならんかなあと思っていることがあるのだ。携帯電話では、英語のメールがめちゃくちゃに読みにくい。なぜかというと、行末でふたつに切らざるを得ない単語を、ブラウザや英文ワープロのように次行に追い出したりしてくれないからである。ひとつの単語が行をまたがってしまう。b
ut だの an
d だの pr
esident だの i
n だの w
ith だのと、妙なところで改行されてごらんなさい、そりゃあ読みにくいぞ。これはまあ、電話機のほうの機能の問題ですな。一通あたりの情報量が多少減ってもかまわないから、英文メールをきちんと英文らしくレイアウトしてくれる携帯電話を作ってもらえないものだろうか。CNN.com の e-mail services なんか、ケータイで受けてるとすごく便利なのだが、腹立つことに、とてつもなく読みにくい。おれの場合、ケータイで音声通信をする頻度はきわめて低く、完全にメール送受信端末(ほとんど受信だ)として使っている。そういう人はとてもとても多いと思う。英語を第二公用語なんかにしなくていい、先にこっちをなんとかしてくれー。
【2月23日(水)】
▼BookPark(富士ゼロックス)で注文した『虚無回廊III』(小松左京「オンデマンド版小松左京全集」/発行・イオ/印刷・富士ゼロックス BookParkサービス)が届く。“オンデマンド版”というのは、電子データの形で保存されている本を受注のたびに製本して送り出す形態である。割高ではあるが、絶版になった本や入手困難な本が読めるので、たいへん便利。紙も無駄にならない。1999年11月20日の日記の京都SFフェスティバルレポート「活字消失 〜 印刷と出版の未来」でも触れているので、よくご存じない方はそちらも参照してください。
『虚無回廊III』の場合は、さらに特殊である。これは、かつて紙の本として発行されたことがない。『虚無回廊I』『虚無回廊II』は徳間書店から出たのだが、『虚無回廊』が連載されていた〈SFアドベンチャー〉が休刊になり、その後執筆が止まっている。『虚無回廊III』は、雑誌には掲載されたが単行本にはなっていない部分の原稿を本にしたものだというわけだ。オンデマンド版は百八十ページ。ふつうであれば、単行本としては出しにくい分量だろう(芥川賞受賞作+第二作なんてのが、スカスカのレイアウトで本になることはあるにしても)。これが二千百円であるから、『虚無回廊』を続けて読んできた人以外は、まず買わないにちがいない。逆に言うと、『虚無回廊』の読者の中には、高くても買う人がいるということだ。近未来のひとつの出版形態を先取りしていると言えよう。というか、これはもう、現在おれの目の前で起こっていることである。なんと面白い時代に生まれ合わせたものか。
さて、現物であるが、さすがに書店で売られているピカピカの“本”のイメージからはほど遠い。安価なソフトウェアのマニュアルによくある感じの製本だ。質素だがしっかりしているので、読むぶんにはなんの問題もない。コピー&製本機にデータを入れると、ぼこっとこの形で“本”が出てくるというのだから、美しいカバーだのなんだのを期待してはいけない(そのうち、そんなのも出てくるかもしれないが)。
とりあえず買ってはみたものの、『虚無回廊I』『虚無回廊II』の細かいところをすっかり忘れてしまっている。なにやら『宇宙のランデヴー3(上・下)』(アーサー・C・クラーク&ジェントリー・リー、山高昭訳、ハヤカワ文庫SF)の豪華版みたいな感じになったところで終わっていたような気がするのだが……。もったいないから I と II を再読するときに続けて読むことにしよう。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
『彗星パニック SFバカ本』が出たのがつい先日のことだったのに、早くも次が出た。今年に入ってから“月刊SFバカ本”状態である。じつはまだ『彗星パニック』を読んでいる最中で、あと一篇を残している(細切れに読むもんでねえ)。この調子で毎月出たらたいへん嬉しいことであるが、《異形コレクション》(井上雅彦監修、廣済堂文庫)とダブルで毎月出された日には、追いついてゆくのがたいへんだ。もっともっとたいへんにしていただきたい。中短篇市場の拡大が作家の生活の安定、ひいては作品の質の向上に繋がるにちがいない。まあ、作家は生活が安定すると堕落するという議論もあるにはあるが、そういうのはあくまで人それぞれであろう。五大栄養素と必要なカロリーと睡眠も取れないほどに貧乏では、脳細胞の活動も鈍ろう。じっくり構想を練る時間だって減る。やはり、精神はギリギリのところでは肉体に勝てないのである。この宇宙は、すべて物理的基盤の上で動いているのだ。また、贅沢させればさせるほど、ふつうの勤め人にはとてもアホらしくて買えないようなものをバカスカ買って、われわれを楽しませてくれる作家だっているのである。バカスカ買うから貧乏になってしまうケースもあるだろう。「そういうのは貧乏とは言わん」とふつうの人は言うだろうが、彼らはそういうふうに呪われているのであって、それはそれで主観的には苦しいはずである。それにしても、超ビンボーであることがネタになっている人はいるが、超金持ちであることをネタにする人はあまりいない。すればいいのに。もっとも、金があろうがなかろうが書いちゃうからこそ作家なのだろう。結果として売れようが売れまいが読者の知ったことではないのだが、死んでしまっては書くことはできないという事実は厳然としてある。住みにくい宇宙だ。
『リモコン変化』は今日頂戴したばかりでまだ読んでないので、『彗星パニック』に触れたついでに、東野司を絶賛しておこう。「つるかめ算の逆襲」はすごかった。『電脳祈祷師 邪雷幻悩』(東野司、学研 歴史群像新書)の算数ネタの副産物という気もしないではないが、“『羊たちの沈黙』フォーマット”で呆れるばかりのバカをやりながらも、じつに苦い教育風刺にもなっている。文部大臣必読。このままの中途半端な教育改革では、“ゆとりの教育”と称してアホを大量生産することは必定、やるならまず大学に手をつけろ。算数の苦手なおれが言うのだから、おれ以下のアホを大量に生み出したくなかったらそうしろ。風刺というのは風刺が前に出すぎるとたちまち厭らしく陳腐になってしまうのだが、「つるかめ算……」は第一義的にバカ話として一流だからいいのだ。
牧野修の「電撃海女ゴーゴー作戦」もすばらしい。“バカ本”だけ読んでいる読者はご存じないと思うので紹介しておくと、これは「月世界小説」(〈SFマガジン〉1997年7月号)にはじまる《月世界小説》シリーズの一篇、あるいは外伝と読むべきものでありましょう。話が繋がっとらんやないかとおっしゃる向きもあろうが、「電撃海女……」が《月世界小説》の戦争の描写、あるいはそこで使用される兵器そのものでないと誰に言えよう。それくらい《月世界小説》シリーズは怖い小説なのである。
【2月22日(火)】
▼最近、コンビニで「甘栗 むいちゃいました」(カネボウフーズ)という、なんとなく卑猥な名の製品(おめーだけだよ、そう思うのは>冬樹)が売られている。要するに天津甘栗なのだが、ご丁寧に渋皮まで剥いた甘栗をきちんと八個だけアルミパウチに封入したものだ。パッケージの絵がうまそうなうえ、中身が天津甘栗だとわかっており得体の知れない食いものが出てくる心配もないので、おれも二、三回買って食ったことがある。じつは、今日も食った。味はまあ、そこそこだ。あの赤い紙袋に入ったおなじみの天津甘栗よりは甘みが薄いけど、こちらはこちらで上品な甘みが栗らしくてよい。
しかし、だ。おれはこれを食うたびに罪悪感を覚える。なるべく買わないでおこうと思う。無駄をしまくって生きているおれでさえ、これはいくらなんでも過剰包装だと思うぞ。八個しか入ってないのだ。たったそれだけのものを、風味を逃がさぬためとはいえ、一個一個(というか、八個八個)いちいちアルミパウチで包装するのはいかがなものか。アルミニウムの精錬にはやたら電気が要るはずである。発電まで含めた系でこの製品の一生を考えると、系外のエントロピーをあまりにも不当に高めているような気がしてならない。しかも、食ったあとで捨てたこのアルミパウチは、その後有効利用されそうにもないのだ。こんな製品は、たとえばドイツであれば、まず市場に出ることはないだろう。そもそも商品企画すら通るまい。ゴミを処理して再利用可能な資源があれば回収するコストは、めぐりめぐって製造者にかかってくる仕掛けになっているからだ。それに、これほどの過剰包装製品であれば、法律に引っかかって出せないのではなかろうか。
おれはことさら神経質なエコロジストではない。だが、こういうことをうっかり考えてしまった以上は、おいしい甘栗を皮を剥く手間をかけずに八個だけ食うなどという度の過ぎた贅沢を、罪悪感を覚えてまで味わいたいとは思わない。やめたやめた。じつは母がこの製品が大好きなのだが、少なくともおれはやめた。カネボウフーズの営業妨害をするつもりはない。ボイコットを勧めるつもりもない。「FRISK」はしばしば食っているしな。おれの日記を読んで「ほう、そんなのがあるなら食ってみようか」と買う人だっているだろう。
資本制の下で、電位差のある複数の点を結んで電流を流す、すなわち、利益を得る仕組みを作ることが非難されるいわれはない。むしろ、奨励されるべきである。過剰包装云々は行政が考えることだ。ただ、おれ自身は、商品を見て企業の品格は推し測るけれどもね。品格で飯は食えんから、自由にやってくださってけっこうだよ。その自由は保証されている。その自由が保証されているのと同じくらい、おれが購買行動を通じて意志表示をする自由も保証されている。資本制というのは、なかなかどうして優れた仕組みだとおれは思うよ。そこでは、生き残る企業の品格に、消費者たるおれ自身の品格がほんのわずかながら、しかし確実に反映されるからだ。しょせんおれたちには、己に見合った質の政治家しか持てないのと同じことである。
【2月21日(月)】
▼以前からNTTがISDNのCMに『天才バカボン』のハジメちゃんを使っているが、あの声を聞くたびにタイムスリップしたような気になる。いったい全体、あの声優、貴家堂子氏は、失礼ながらおいくつなのであろうか? だってあなた、『リボンの騎士』のチンクや『ハクション大魔王』のアクビや『サザエさん』のタラちゃんの声を子供のころ――ほんとうに子供のころから聞いて育ってきたおれが三十七のおっさんなのだぜ。じつに息の長い声優さんだ。これからも末長くがんばってほしい。「サファイアー!」などと大むかしはよく真似をしたものだなあ。いや、知ってる人は笑うだろうが、おれは声変わりする前には、それはそれは可愛らしい声を出せたのだぞ。それを買われて、小学校の学芸会で小さな男の子の役をやったくらいだ。それが、いつのまにか高校では『マクベス』の“幻影”になってしまったのだが……。いまチンクの真似なんかやったら、日テレの福澤アナみたいになってしまうにちがいない。どれ、やってみようか――と思ったが、これ以上身内に狂人扱いされるのもなんだからやめておく。なにしろ三十七歳であるから、李下に冠を正さぬほうがよい。
▼2月17日の日記に書いた車のナンバープレートの話に、SF・科学関係翻訳家の岡田靖史さんからメールが来た。なんでも、京都でも去年の春くらいから「京都500」という分類番号の車が走っているとのこと。ひょえー、知らなかったなあ。なにしろ岡田さんの自宅は、世界中の人が知っている京都の観光名所にあるうどん屋さんなのである。居ながらにして全国各地から訪れる多種多様の車を目にしてらっしゃるわけだ。下手をすると、狭い地域を行ったり来たりしているだけのドライバーよりも、よほどいろんなナンバープレートをご覧であろう。おれの日記を読んでから、ご自分が運転中にも気をつけて見ていると、ほかにも「熊本700」「京都300」「京都400」「大阪100」などなど、けっこう見つかったそうだ。なーるほど。なんか三桁のほうがかっこいいな。「007」とか「009」とかがあればいいのだが、これは先日ご紹介したサイト「ナンバープレート」の解説によれば、あり得ない番号らしい。「品川008」なんてのがあったら、まさにTOKIOは空を飛ぶって感じかも。そんな名のホテルがありそうにも思える。
あっ。そういえば、岡田さんは昭和三十八年生まれだっけ。が、たしかおれと同学年ではなかったか。としたら、もう三十七歳になっているのではなかろうか。あっ。京都在住で思い出した。我孫子武丸さんも三十七歳だ。ミステリ作家ではあるが、十分に“SFゆかりの人”と言ってもよいであろう。あな怖ろしや。やっぱり、あの年、誰かがなにかを散布したのだ。
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