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2000年2月上旬 |
【2月9日(水)】
▼先日電子メールでも通知が来ていたのだが、NTTプリンテックの ComKet が三月十日でサービスを終了する旨、改めて封書で通知が来た。電子クーポンというプリペイド方式の仮想マネーに残があれば払い戻してくれるという。「第一回インターネット文芸新人賞」の受賞作と入選作を買うためだけにやたら面倒な手続きを経て買ったクーポンの残がほんの少しあることはあるが、いちいち払い戻し手続きをするのも面倒くさい。やれやれ、またひとつ電子モールが潰れるか。♪ Another one bites the dust. インターネット文芸新人賞はどうなるのだろう?
いやしかし、タコな電子モールは数々あれど、中でもここはタコさ加減が群を抜いていたよなあ。誰があんな面倒なことをして、わざわざデジタル・コンテンツを買うものか。まあ、何人かの作家志望者に世に出る機会を与えた功績だけは評価しよう。サービスの終了が確定したためか、第一回、第二回のインターネット文芸新人賞受賞作と入選作は、すでに無料でダウンロードできるようになっている。読んだこともない新人の作品(あたりまえだ。試し読みコーナーくらい作れよ)に金を払う気になれなかった人や、面倒だから買わなかった人(初回の買いものには、パソコンに慣れた人でもまず三十分はかかったろう)、買おうとしたがうまく買えなかった人(けっこういると思うぞ。「プロキシってなに?」とか)、マッキントッシュを使っている人(電子クーポンを貯える“電子財布”には Windows 版しかなかったのである)は、三月十日までにダウンロードしておこう。PDF版とプレーン・テキスト版あり。将来大活躍することになるかもしれない作家のデビュー作がタダで入手できるチャンスですぞ。受賞作・入選作を目にした編集者はごくごくわずかだろうと思われるので、これはと思う人へのアプローチはお早めに。
【2月8日(火)】
▼会社から帰ると、うちのワイドショー監視係から報告あり。やはり、ワイドショーでは小学生男児殺害事件の容疑者のことばっかりやっているそうだ。なんでも、自殺したあの男が行っていた高校というのは、おれの出た高校だったらしい。いくら当てにならない母でも、息子の出た学校名を聞きちがえたりはすまい。どうやら妹もテレビでそう聞いたようなので、たぶんまちがいはないだろう。
それにしてもヘンだ。おれが先日観た番組では、たしか“地元でも有名な進学校”だと言っていたぞ。学区からして「もしかしたら……」という気は少ししていたのだが、有名な進学校だと言うから「あ、おれの後輩ではないな」と思っていたのである。いったい、いつのまにそんなたいそうな高校になったのだ。おれたちの在校中は、大学受験対策に関して「あまりにも呑気すぎる」と一部の教育熱心な(というか、受験熱心な)親から文句が出ていたくらいで、中学でフツーに勉強してきたフツーの生徒であればさして苦もなく入れて出られたな〜んの変哲もない公立校だったのだ。入るのが難しい大学にバカスカ卒業生を送り込んだなんてことも全然なかった。じつにのどかな、その点ではたいへんいい思い出ばかりの学校である。二十年のうちに、後輩たちが名門にしてくれたらしい。出てしまった学校の評判などにはまったく興味がないものだから、そんなことになっているとはつゆ知らなんだ。こりゃあ、いいや。せいぜい地元の人相手には、出身高校を言いふらすことにしよう。安く買ったベンチャー株が、忘れているうちにえらく上がっていたような気分である(って、株なんて買ったことないけどね)。
【2月7日(月)】
▼林真理子が大阪府の知事になったらしい。似てませんか?
▼京都市伏見区の小学生男児殺害事件の被疑者を逃走・自殺させた件で、警察が大いに叩かれている。叩かれるわな、そりゃ。よく考えてぞっとしたのだが、殺人犯である可能性が非常に高いあの若者は、捜査員たちに任意同行を求められ追い込まれ、公園で捜査員たちを振り切って、ショッピングセンターのほうに走っていった。犯人である疑いが十分に濃厚だったのだから、そのような人物が目の前で逃走したら、あなたが捜査員ならまずなにを心配するだろうか? そう、追い詰められヤケになった容疑者が、通りすがりの人に危害を加えることを心配するにちがいない。リュックを投げ捨てて行ったからといって、凶器を携行していないとは確認できていない。実際、ショッピングセンターで誰にも危害を加えなかったのは不幸中の幸いとしか言いようがないだろう。あそこで容疑者の若者は誰かを殺傷するかもしれなかった。というか、誰かを殺傷しないと判断するに足る材料はなにもなかったはずだ。
となると、公園で容疑者が逃走したとき、捜査員にできたかもしれなかったことはなにか。警告を発したのち、彼を撃つことだ。むろん、殺すためではない。逃走を封じるためである。逮捕状が出ていなくとも、そうしていい状況だと思う。公園にいる市民に当たる可能性はむろん考慮すべきだろうが、容疑者はさらにたくさん人がいるであろう方向へ逃走したのだから、誤射で公園の市民を殺傷してしまうよりも、彼を逃がすほうがリスクが大きいと考えざるを得ない。また、仮に狙いが外れて容疑者を撃ち殺してしまったとしても、それは容疑者の側が取ったリスクであって、捜査員が責められるべきではない。このあたりのおれの考えかたは、以前書いたとおりだ(1998年2月3日・11日)。
おれは市民が自衛のためと称して銃器を所持することには反対だ。人はそんなに強くない。アメリカのようになってしまうに決まっている。しかし、最後の手段としての暴力の行使を国民に委託された存在が、暴力を行使すべきときにそうしないのにも反対だ。今回の事件では、ほんとうにあのとき撃てなかったのだろうか?
【2月6日(日)】
▼カラムーチョ(湖池屋)を食っていて気がついた。袋に描いてあるキャラクターのヒーおばあちゃんこと森田トミと、ヒーヒーおばあちゃんこと森田フミは、現在満年齢にして百二十二歳と百四十三歳という計算になる。カラムーチョがいつ発売されたのか知らないが、そんなにむかしからある菓子だとは思えない。当初から相当無理な設定をしていたのではあるまいか。カラムーチョは、依然湖池屋の看板商品のひとつであるから、このままだと、十年後、二十年後にも森田トミと森田フミは「ヒー」「ヒーヒー」と言い続けることになりそうだ。いくらなんでも無理があるのではないか。そろそろ森田トミの娘の森田アミかなにかが出てきて、森田トミがヒーヒーおばあちゃんに昇格するのではないかと睨んでいる(森田フミは死んでしまうのだ)――のだが、それもなんだかおかしい。森田トミとフミが同じ姓であるからには、トミは結婚しなかったか、偶然別の森田氏と結婚したか、別の姓の男と結婚したが森田姓を名告ることにしたか、結婚したが離婚したかのいずれか、あるいは、それらを重ねて経験したかであろう。その娘がずっとまた森田を名告る確率は非常に低いと思われる。しかし、ヒーおばあちゃんとヒーヒーおばあちゃんは、やはり森田でなくてはならないようなイメージができあがっている(いるか?)。今後、ヒーおばあちゃんとヒーヒーおばあちゃんが代替わりしてゆきつつ、ずっと森田であり続けるとすれば、これはきわめて不自然な事態と言わなければならない。湖池屋はこの大問題に気がついているのか? 気がついているとすれば、それをどう切り抜けるのか。刮目して待とう! そんなの待ってるのは、日本中でおれだけかもな。
▼行かないと怒った大魔神がやってきそうなので、京都市長選挙の投票にゆく。近所の小学校の体育館が投票所なのだが、どうもあの雰囲気がおれは苦手だ。予防注射を思い出すからである。おれは子供のころからあまり身体が強いほうではないので、注射などは慣れたものであった。だが、ああやって体育館にずら〜と並んで順番を待っていると、ひときわ痛そうに思えてくるから厭だったのである。よくマンガなどにはやたらぶっとい注射器が出てきて、そのほうが痛そうであるかのように表現されているけれども、あの感覚がわからない。シリンジが太い注射などさほど痛そうではないではないか。あの、なにやら青くて細い注射器のほうがずっと痛そうに見えた。大人になってからも、シリンジや針が細い注射器のほうが苦手である。太いやつはたいてい痛くないのだ。献血の針なんて、まるで平気である。おれの感覚はおかしいのだろうか? 「注射は好きか?」と一度女性の友人に訊いてみたことがある。「入ってくるときより、抜けてゆくときのほうが好き」などと言うておったが、おまえ、なに考えとるんじゃ?
【2月5日(土)】
▼昨日の日記をお読みになった林譲治さんから、面白いお話。
「本に書いてあることと、実際の実験結果は違うという話。これはたぶん本州に住んでいる方にはよくわからないと思いますが、北海道に住んでいると昆虫図鑑の世界と自分の周囲の世界のギャップの大きさに打ちのめされます」林さんは、いまは大阪にお住いだが、以前はずっと北海道にいらしたのである。『「早朝のクヌギやナラの木にカブト虫がいる」と図鑑に書いてあるので、何度も林の中に入ってみたがいない。図鑑には北海道にはいないことまで書いていないわけですね。カマキリもそうですし、ゲンゴロウなんかも全長一センチくらいの小さい奴しかいない』うーむ。これは少年にとってはショックでありますなあ。おれの場合、早朝に林の中に入ってゆくと、ちゃんとクヌギやナラの木にはカブトムシがいた(ハズレのほうが多かったが、それでも団地から自転車で少し行ったところにいたのだ。あれは木の当たりはずれがすべてですな)。カマキリなんてあなた、いくらでも捕まった。少年時代の友だちと言ってもいいくらいだ。虫籠にシジミチョウやバッタと一緒に入れて、食うところを観察したりした。シジミチョウやバッタには気の毒であるが、こういうこと、あなたもやりませんでしたか? ゲンゴロウもけっこういた。あれは池や沼に獲りにゆくものではない。魚のように釣れるわけでもないから網で掬うことになるが、透明度の低い池や沼では発見すら難しい。危険な場所も多い。でも、夜、公園の街灯の下にゆくと、飛んできたゲンゴロウがしばしば裏返しに地面に落ちてはもがいていたりするのだ。池や沼が近くにある公園ならベストだろう。とまあ、とにかく京都のおれが育ったあたりでは、ほぼ図鑑どおりに虫がいたものである(いまはどうだか知らないよ)。
「図鑑には奇麗なカラー写真も多いのですが、北海道でそんな光景を観ることはほとんどない。これで完全に一致しないなら図鑑を疑ったでしょう。でもアゲハチョウの類いは観かけることもあるので、現実が一致する数少ない点が図鑑への疑いをいだかせなかった」アゲハチョウはいるのか。やっぱり、飛行に特殊化しているから海峡がバリアにならないのかな。カブトムシだのカマキリだのゲンゴロウだのは、あんまり長距離をバテずに飛ぶようにはできていないよね、見るからに。そういえば、子供のころ海の上で迷子になったとき、色とりどりの蝶が空に帯を成してアフリカへの道を示していたものである――って、おれは何者だ?
「それでも図鑑と現実の食い違いの多さに、なんか自分はまがい物の日本に住んでいるような気がしていました。津軽海峡を越えたら植生が激変することを知ったのはずっと後のことでした(^^;)」おおお、「まがい物の日本」ってのがいいですね。じゃあ、どこが“ほんものの日本”なのかというと、どうもそんなところはないような気もする。みんな多かれ少なかれ、「私の住んでいるところは、まがいものの日本なのかなあ」と思って暮しているのではなかろうか。以前、「日本のフィクションの工場出荷時の“既定値”は、“東京”に設定されているのだ」なんてことを書いたけれども、おれも子供心にフィクションに於ける描写とわが身の日常生活とを比べて、しばしば後者にまがいものっぽさを感じていた。妙な話である。“作られた東京”と自分が紛れもなく体験している現実とを比べて、現実のほうがまがいものっぽく思えたのだから。でも、考えてみると、東京ってのはそもそもが“作られている”街なのだから、土着の東京人というか、東京原住民にとっては“作られた東京”がまがいものに見えているのかもしれない。京都に住んでいる大半の者にとって、舞妓さんがうようよ歩いている“いわゆる京都”のイメージが嘘臭く見えるのと同じか。その一方で、“作られている”ことこそを現実として生きている種類の東京人もいるのだろう。『東亰異聞』(小野不由美、新潮社)ってのは、深い小説だよね。
▼近所の本屋になんとはなしに入ったら、なにやらむらむらと姪どもに本を買ってやりたくなってきた。姉妹に年齢差があるので厄介だ(念のため言っておくと、双子でもないかぎり、ふつう姉妹には年齢差がある)。上はそろそろ六年生だから、あまり国語が得意そうではないが少々背伸びをさせてもよろしかろう。一年生の下の子のほうが本好きなので、姉が放り出した本でも読むにちがいないやつと見て、いろいろと企みが働く。おれはこの姪どもにやたら人気があって、影響力が大きいのである。しかし、いざ子供向けの本を選ぶとなると、意外と難しいのを痛感。おれ自身が最近の子供向けの本を読んでいないからだ。結局、どうしても自分が多少なりとも知っている分野に向かっていってしまう。というわけで、『タイムマシン』(文:眉村卓、原作:H・G・ウェルズ、痛快 世界の冒険文学(2)、講談社)などをすごすごとレジへ持ってゆく。悪いおじさんを許せ。
子供に与える本を自分が読んでいないってのはなんなので、まずおれが読んだ。いまとなっては科学的に妙な描写が原作にもあるんだが、そこはそれ眉村氏も残すべきところは残して苦渋のリライトをなさっているし、ちゃんと補足説明もしてある。SF作家ならではのこだわりが感じられるいいリライトだと思う。
さーて、『タイム・シップ(上・下)』(スティーヴン・バクスター、中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)はいつくれてやろうか。けけけけけ。その前に原作かな。
▼京都市伏見区の小学生殺人事件の被疑者が、任意同行を求められている最中に逃走して飛び降り自殺。なんとまあ、捜査員が五人も六人も雁首を揃えてこんなことになるとは、捜査本部の想像力の貧困もここにきわまれりだ。「公園でなら話をする」などと言われて、のこのこ広いところに出てゆくとは、素人が考えたってドジである。三百六十度どこへでも逃げられるではないか。捜査員はよほど脚に自信があったのだろうか。
それにしても、また母親と二人暮しの男かよ。そりゃまあ、たいへん精神衛生に悪いのはわかりますけどねえ。おれがなにかで任意同行を求められる日も近いな。ある日、おれの家の前に消防車風の妙な車がやってきて、「書籍を隠し持っているだろう?」とか。逃げも隠れもできん。なにしろ、隠し持っているどころか、おれのほうが書籍に隠し持たれているようなありさまだ。
【2月4日(金)】
▼今日は卵が立つなんてことをまだ言ったりするのだろうか。最近では「あんなものはいつでも立つ」とすっかり人口に膾炙しているせいか、今日にかぎって耳にすることが減ってきたように思うのだ。ご存じのように、コロンブス流にぐしゃっとやらなくても(だいたい、あれだと生卵ではできないではないか)、卵の殻の表面には微小な突起がたくさんあるので、落ち着いて時間をかけて立てようとすればちゃんと立つ。コツがわかってくると、短時間でもじつに容易に立つ。
――ということをなにかで読んで知っている人は多いだろう。とても多いだろう。しかし、だ。ほんとうにやってみたことがある人はどのくらいいるだろうか? 俄然少なくなるような気がする。未経験の方は、ぜひやってみていただきたい。お子様がいらっしゃる方は、ご一緒にやってみていただきたい。立春でない日にもやってみていただきたい。手間がかかるとか、費用がかかるとか、面倒な準備が必要だとかいうことはまったくない実験なのである。なにも精子を顕微鏡で観察しろとか、手間のかかりそうなことを言っているわけではないのだ。あれはそもそも立たないと観察できないが、卵のほうは立てるのが目的であるから、それだけ手間は少ない。とにかく、面白そうなことは、たとえくだらなくても、いやくだらなそうなことほど、とりあえずやってみるように子供たちを教育すべきである。立派な好事家や野次馬に育てるための第一歩だと思う。ナイフで鉛筆が削りたいと子供が言うのなら、削らせればよい。手を切らせればよい。血を流させればよい。痛い思いをさせればよい。なあに、鉛筆削るくらいで指が落ちたりはせん。
むかしは子供雑誌やらに、しばしば「やってみよう」とかなんとかいう、簡単な科学実験の例がよく載っていた。材料が揃わないものは代用品(になりそうだと勝手に判断したもの)を用いて、片っ端からやってみたものである。手を切ったり刺したり火傷したり悪臭を撒き散らしたりそこいらを水浸しにしたりしながら、親にどやされながらも性懲りもなくやっていた。うまく行くと面白い。うまく行かなくてもそれなりに面白い。べつにジャイナ教徒じゃあるまいし、虫眼鏡でアリを焼き殺してみたっていっこうにかまわない。それくらいのこと、みんな子供のころにやったろう? そんな経験すらない子供が増えているのではないかと思うと、とても怖い。
面白いのは、「こうなります」と本に書いてあるとおりの結果には、往々にしてならないことである。たとえば、「コップの水に氷を浮かべて、コップの縁ぎりぎりのところまで水を注ぎ足します。さて、氷が融けたらどうなるでしょう?」という“じっけん”がある。「浮かんだ氷の水面から出ているぶんが水が凍ることによって体積が増えたぶんだから、水はこぼれない」というのが優等生的回答になるが、実際にやってみると、こぼれることのほうが多いくらいだとわかる。まず「コップの縁ぎりぎりのところまで水を注ぎ足す」が第一の関門だ。横から見てぎりぎりのところまできちんと注ぎ足すのは、たいへん難しい。少々多めに注ぎ足してしまうのだが、表面張力で水面が盛り上がり、ぎりぎりのところで持ちこたえていたりする。これだって、ぎりぎりのところまで水を注ぎ足している状態だ。この状態で氷が融けると、まずたいてい水はこぼれる。なぜかというと、最初に浮かべた氷によって、水は冷やされるので体積がわずかに減る。やがて氷が融けてゆくにしたがって水温が上がり、水は膨張する。水が冷えた状態でぎりぎりまで注ぎ足されていれば、氷が融けきるころには水温が上がってきて、膨張した水はこぼれる。氷が融けきったときにはこぼれていなかったものが、しばらく置くと、こぼれたりもする。室温による膨張のせいだ。じっと見ているのもたいへんなので、しばらくほかの遊びをしていて、やがて台所に戻ってくると、ずいぶんたくさんこぼれていたりもした。母親が食卓のテーブルの脚に蹴つまづいたのだ。やり直しである。
要するに、現実の世界でなにかを証明・確認するには、証明・確認したい事実以外のさまざまなことどもがどうしたって実験を“汚す”のだ。それこそが現実というものである。実験を汚している要素を考えること、それを排除するために知恵を絞ること、それでもうまく行かないときは「ここに書いてある考えかたはおかしいのではないか」と本を疑うこと――こういうことどもを学ぶためにも、子供は“じっけん”遊びをすべきなのである。まかりまちがって科学者にでもなってしまったら、最初に「やってみよう」などと書いてある本などないのだ。なにをどういうふうに“実験”するのか、自分ですべて考えなくちゃならない。まかりまちがわずに科学者にならなかった子供にも、「現実とはこういう性質のものだ」という基本認識は、一生しばしば役に立つことだろう。少なくとも、「シミュレーション・ゲームで練習したから飛行機を操縦させろ」なんてバカには育つまい。
【2月3日(木)】
▼豆を三十七個食う。それから、残った豆をどうするかというと、やっぱり食う。たいていの人はこうしてるんじゃないか?
▼帰宅してコートを脱ぎ、ソファーベッドの上に投げかける。テレビを点けると、なにやら野球のニュースをやっている。おれは野球には興味がない。もう一度コートに目をやる。人間が着ていない状態のコートというのは、いかにも情けない。ふにゃふにゃと力が抜けたような感じだ。そのとき、まるでそれを見ていたかのようにテレビがおれに話しかけたので、たいへんびっくりした――「ベタンコート」
見ると、ブラウン管の中でなにやらむさい外国人の選手がバットを振っていた。
▼ダイニング・キッチンで晩飯を食いながら、隣の部屋で母が観ているテレビドラマをなんとはなしに観ていた。『京都迷宮案内』(テレビ朝日系)ってやつだ。橋爪功が出ている。そういえば、学生時代、この人が主役の『ハムレットQ1』を観に行ったな。じつに個性的ないい役者で、おれは好きである。このところ、ますますいい味が出てきた。二代目赤かぶ検事もなかなか板に着いてきたよな。フランキー堺の後任ってのはずいぶんやりにくかったろうに、すっかり新たな橋爪検事の味を作り上げてしまったな――などと思いながら、カキフライを食いつつ橋爪の挙動をちらちら目で追う。はみ出し新聞記者の役らしい。上司や同僚に無断で単独行動ばっかりする。だからあちこち歩きまわる。京都が舞台だから、見知った場所がしばしば出てくる。
歩きまわる橋爪功が事務所の的場浩司に電話をかけるシーンがあった。ろくろく連絡もせずに単独行動している橋爪に的場は怒っている。が、橋爪は必要なことだけ告げると、ぶっきらぼうに電話を切ってしまう。的場はそれに顔を顰めるってシーンなんだが、おれは爆笑した。なぜかというと、橋爪のほうは携帯電話なのに、固定電話で受けている的場の側の画で「ガチャッ」という音で電話が切れたからである。どう聴いてもあれは、固定電話(公衆電話のように受話器をフックにかける方式のものではない)を乱暴に切るときの音だ。このシーンには女子高生も大笑いであろう。しかし、“相手が乱暴に電話を切った”ということを示すテレビドラマ的文法としては、たしかにあの音を出したくなるのはわからないでもない。あまりにも急速にわれわれの生活に入り込んだ携帯電話というものと、伝統的なテレビドラマ文法のステロタイプとのあいだで齟齬が生じているのが感じられ、笑いながらも考えさせられた。表現行為に於いて、誰しもステロタイプに頼っている部分はあるからだ。もっとも、苦渋の末にあの音を使ったのではなく、そんなことにすら気づかずにテレビドラマを作っているだけなのかもしれない。だとしたら、それはそれで哀しいものがある。以前にも『失楽園』の携帯電話をお題に“映像の嘘”ネタで一日ぶんの日記を稼いだことがあったが、はたして今回のは“映像の嘘”だったのか、単なるポカなのか。
▼日記ジェネレータというのが巷で流行っている。これはいい、これから毎日これで日記を書けばいいではないかと、さっそく試してみた。最初に一人称を選ぶのだが、なんてことだ、ひらがなの“おれ”がない。“オレ”はあるんだけど、おれは“オレ”を使わない。しかたがないので“オレ”を選び、ジェネレータを起動する。お、出てきた出てきた――
2000年2月3日
今日はアニキとデート。以前からアニキが行きたがっていた香港の闇市場に出かけた。きらびやかなバロック様式の豚バラ200gや極端な多機能リモコンを見たり、悪夢のような納豆定食を食べたり… 楽しそうにつまらなそうな顔をしているアニキを見ていると、オレも幸せな気分になった。…思い出の1ページにしよう。
森奈津子さんにウケそうな日記だなあ。“バロック様式の豚バラ”ってのは、なかなかシュールでいいが、文字遣いがよくない。この文脈では“豚薔薇”とすべきだ。“楽しそうにつまらなそうな顔をしている”にはびっくり。いかにもおれが使いそうなレトリックではないか。さらに驚いたのは――読者の方々も驚いているにちがいないが――“悪夢のような納豆定食”である。なんでわかったのだろう。日記ジェネレータおそるべし。
【2月2日(水)】
▼“陽根”と“陰茎”とが同じものを指しているのは、じつに不思議なことである。陽なのか陰なのか、根なのか茎なのか、日本語を学習している外国人ははなはだ混乱するのではあるまいか。
▼A・E・ヴァン・ヴォクトの訃報がネットを駆けめぐっている。というか、おれがふだん見るサイトにこうしたニュースに言及するところが多いから、“駆けめぐっている”ように見えているわけだが……。
それにしても、いつのころからか、こういうニュースはまずネットで知るようなライフスタイルになってしまっているよなあ。おれはもはや新聞というものを、インターネットのハードコピーくらいにしか思っていない。紙の新聞を読むとインクで手が汚れるから厭だ。とっとと全面を携帯用情報機器の類で読めるようにしてしまえばいいのに。
ビンボーなせいもあるのだが、一時は四紙とっていた紙の新聞を、いまでは一紙しかとっていない。もう、いつやめてもいいくらいに思っている。だが、最後の一紙はやはりどうしても必要なのだ。母がテレビ欄を見るし、第一、紙の新聞がないと、爪を切るときに不便である。
▼国会はいったいどうなっているのだ? ここはほんとうに法治国家か。野党はなにをしている。自自公に不満があるなら、国会に出て、国会で闘え。言論で闘え。国会議員が、ほかにどこでどうやって闘うというのだ。野党議員には自分の選挙区に帰ってしまっているやつまでいるというのだから、開いた口が塞がらない。アホか、おまえらは。議会制民主主義がそんなに嫌いか? そりゃあ、公約にない連立を組むようなやつらは、その時点で有権者をバカにしているのはたしかだが、野党まで議会制民主主義を冒涜するか。おれが小学校で習った議会制民主主義はどこへ行った?
国会で闘って負けたとしても(負けるに決まっているが)、その言葉が国民に届けばそれでいいではないか。おれたちは投票で闘い、あんたらは言葉で闘う。それ以外に議会制民主主義に必要なものがなにかあるか?
【2月1日(火)】
▼「おれは痴漢じゃない」という昨日の日記を読んだ悪太さんから、不安を訴えるメールが届いた――『痴漢行為よりも、女の子を隠していないか心配です。「母親と二人で暮している三十代独身男観察法」が成立して家宅捜索してもらわないと安心できません』
ぎくっ。どうしてわかったのだろう。じつはふたりほど隠している。ひとりは蔵の地下に監禁して育てているんだが、最近色気づいてきて困る。もうひとりは、できものを繋ぎ合わせて作った。こっちはこましゃくれているが成長はしない。どれ、たまには相手をしてやるか――奇子ぉー、ピノコぉー、おじさんだよー。
それにしても、とんでもない事件が起こるよなあ。よくいままでわからなかったもんだ。人間一人を九年間も隠しておくのは、ずいぶんたいへんだと思うんだが……。殺すほうがよっぽど簡単だろう。被害者には気の毒なことだけど、手記を書いて出版すれば、一応の社会復帰はできるだけの費用は得られるにちがいない。どういう扱いを受けていたのかがよくわからないけど、心の社会復帰はなかなか難しいだろうなあ。
待てよ。もっとも、小学校の、いや幼稚園くらいのころから、ガチガチのスケジュールと他人が仕組んだ人生設計の中に精神的に監禁されているにも等しい子供はかなりたくさんいそうだから、さほど特殊な育ちかたをしたとは言えなかったりするかもね。
▼“貧困な発想”と“貧乏な発想”とは、似ているようでビミョーにちがう。夕食のおかずが思いつかず、「まあいいや。今日も松阪牛のサーロインステーキにしておくか」というのは貧困な発想であって、貧乏な発想ではないだろう。同じように夕食のおかずが思いつかないにしても、「そうだなあ。今日は納豆にインスタント・コーンポタージュでもかけて食ってみるか」となると、貧乏な発想ではあるが貧困な発想ではないと思う。ああ、貧困な発想をしてみたいものだなあ。なに? おまえのはいつも納豆だから、貧乏で貧困な発想だ? そうだよなあ。
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