間歇日記

世界Aの始末書


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2000年3月下旬

【3月31日(金)】
▼実写の『ブラック・ジャック』をテレビの二時間ドラマでやっていたので、ついつい観てしまう。ブラック・ジャックは本木雅弘なのだが、なんと、これが意外に似ている。いまひとつ鋭さに欠けるけれども、基本的に顔立ちが似ている。少なくとも、宍戸錠加山雄三よりは似ている。面白い配役だ。モックンのブラック・ジャックなど、考えてもみなかったなあ。もっとも、似ているのは正面顔だけであって、うしろ姿ははなはだまぬけである。ブラック・ジャックはちゃんとうしろ髪もばさばさに伸ばしているのに、モックン・ジャックはきちんと短く切り揃えてあるのだった。
 ピノコを双子にしてみたのは、なかなか面白いアイディアだと思う。実写にせよアニメにせよ、いつもピノコは持て余されてしまうものである。とくにテレビだと、まさかピノコがどういう存在であるかを原作どおりに明示するわけにもいかないだろう。『どろろ』を地上波で放映しようとするようなものだ。ピノコの“異人性”とでも言うべきものを、常に完全にシンクロしてしゃべる不思議な双子という設定でできるかぎり出そうとしたのだろうな。
 ストーリーは、悪しき優生思想と臓器売買とを絡めた、まあ、ありがちなもの。とはいえ、かなり原作を研究している努力は見える。『ああ、これは「瞳の中の訪問者」と「魔王大尉」のチャンポンだな』とか『「焼け焦げた人形」を意識しているな』とか『この台詞はもろに「おばあちゃん」やんけ』とか、深読みすれば十数個のエピソードからのディテールや設定がツギハギされていた。それがわかるほうもどうかしているかもしれないが、なにしろ二十数年間にわたって何度も何度も読み返しているからねえ。ネームを諳じられるシーンがいくつもあるくらいだ。二度も自分から企画を持ち込んで『ブラック・ジャック』をドラマ化したジェームス三木が、「しかし私が、特に衝撃を受け、強い嫉妬を感じたのは、卓抜したドラマツルギーであり、天馬空を行くがごときストーリーテリングであった。なまじの脚本家が束になってもかなわないほど、見事な構成であった。これからシナリオを勉強しようという人がいたら、ドラマの教則本や解説本を百冊読むよりも、手塚作品を読破したほうがずっとためになるといいたい」(〈朝日ジャーナル〉臨時増刊・1989年4月20日号「手塚治虫の世界」)とまで言うのは、雑誌の追悼企画へ寄せた社交辞令ではなく、心の底からの正直な実感であろうと思う。
 まったくもって、こんなものを週刊誌に連載するなど人間業ではない。しかも、読み返すたびに驚かされるのが、一本あたりのページ数の少なさだ。マンガと小説とをページ数で比べるのは無茶だが、三百ページも四百ページも使って『ブラック・ジャック』一本にすら遠く及ばないドラマしか描き得ていない小説などざらにあるぞ。それを一回あたりわずか百二、三十円だったかでリアルタイムで読めたとは、この件に関してはたいへんラッキーな時代に生まれ合わせたものだと確率のいたずらに感謝している。
 今後もマンガ以外の媒体で手塚『ブラック・ジャック』を超えようと、『ブラック・ジャック』に挑むクリエイターたちが現われるのだろうなあ。あんまりイメージ壊してほしくないけど、やっぱりその都度、観たり読んだりしちゃうだろうね。田中哲弥さんの好きな「死ね」「この空と海と大自然の美しさのわからんやつは――生きるねうちなどない!!」(「宝島」)ってのも、いつか誰かが演ってくれるかもよ。

【3月30日(木)】
有珠山が噴火。不謹慎かもしれないが、ああいう光景を見ると、なぜかおれの頭の中には“伊福部マーチ”が鳴り響く。大八車に家財道具を積み、防空頭巾をかぶって逃げ惑う人々が画像で浮かんでしまうのである。おれの世代の人には多い条件反射なんじゃないかなあ。
▼毎年書いてるような気もするが、今日はもうひとつ大事な(?)条件反射があるんだなあ。「フランシーヌの場合は〜♪」

【3月29日(水)】
▼ケータイを乗り換えた。3月21日に書いていたとおり、DDIポケット「-H"」(エッジ)にしたのである。“ハイブリッド携帯”とかなんとか言っているが、要するに、高速移動が可能なくらいにアンテナの切り替えが速いPHSである。以前の携帯電話もまだ並行して使っているが、徐々に「-H"」をメインにするようにあらゆる環境を切り替えていっている。おれの計算どおりにゆけば、いままで携帯電話に払っていたのとほぼ同じかいくらか安い料金で、ずっと快適になるはずなのだ。
 自宅での受信状態を調べるため、ありがたいことに販売店が土日のあいだ貸出し用の端末を持ち帰らせてくれたので、思う存分実験することができた。なんてことだ。室内アンテナもなにもないのに、おれがいまパソコンを叩いている部屋の隅っこ(窓からいちばん遠い)で、アンテナのゲージが二本立っている。通話を開始すると、たちまち三本立つ。これが「移動中の電話を追いかけ、周波数有効利用率を2倍以上に向上させ」るという最新鋭指向性“アダプティブアレイ・アンテナ”とやらの威力であろうか。ここいらのような田舎にそんなものが立っているのだろうか? まあ、理屈はわからんが、通話をはじめると俄然受信状態がよくなるのは事実である。歩きまわってみると、驚いたことに、家中で通話できない場所はない。狭いとはいえ、鉄筋コンクリートの団地なのだぞ。いったい、いままで使っていたツーカーはなんだったのだ。きっと、運よく近くにアンテナがあるのだろうが、それにしても受信性能に差がありすぎる。まあ、携帯電話は携帯電話でよいところもたくさんあるのだけれど、行動範囲が狭くビンボーなおれには、総合的には「-H"」が向いているにちがいない。
 たいへん気に入っていたソニージョグダイヤル付き端末と別れねばならないことと、メールの受信に金を取られるようになったこと(いわゆる“スカイ系”のショートメッセージは、受信は無料だ)はつらいが、それを補って余りあるメリットが享受できる。いままでどおり EmCm Service を併用すれば、余計なメールをフィルタリングできるうえ、便利な使いかたがいろいろできてありがたい。EmCm の設定をし直すのがはなはだ面倒だが、まあ、いたしかたあるまい。
 「-H"」の端末は、まだヴァリエーションがあまりないのでどれにすべきか悩んだが、結局、ケンウッド「Hyper XIT ISD-E7」にした。サンヨー東芝松下京セラも悪くはない。サンヨーのは抜群にカッコイイし、機能も洗練の極み、評判も上々、人気も根強いのだが、指の長いおれにはなんとなく持ちにくいうえ、メールを格納するメモリが少ない。ヘヴィーなメールユーザよりも、音声通話を主とするユーザ向きであろう。東芝のはなかなかいいが、おれは東芝という会社があまり好きではない。京セラのはやたらでかいうえ、ボタンがふにゃふにゃしすぎていて押しにくい(が、けっこうカッコイイ)。おれ流の総合評価で、松下とケンウッドで最後まで悩むも、メールまわりの機能がなかなかよいので、最終的にケンウッドにする。まあ、松下でもよかったかなといったところだ。端末に興味のある方は、エッジUser's Homepage というサイトからリンクを辿れば、各社の宣伝ページを直接見てスペック比較ができるので、ご参考まで。DDIポケットが配っている総合カタログよりも詳しい。
 使いはじめてみると、やはりいろいろ長所短所がわかってくる。ケンウッドの端末でいちばんタコな点は、液晶のバックライトである。細かい音響機器作ってるくせになんでこんなに下手くそかねと思うほど、バックライトにムラがある。念のため、ほかの同機種も見せてもらったのだが、みーんな同じようにムラがあるのである。ケンウッドはケータイのバックライトは下手くそだと結論を下す。液晶そのものはすっきりと見やすいんだけどねえ。まあ、文字が読みにくいほどではないので実用上問題ないレベルではあるのだが、ディスプレイに美を求めるユーザにはお薦めしない。ボタンの配置やソフトウェアは非常によい。とくに、メールの文中に出現するメールアドレス、URL、電話番号を自動的に抽出し、ワンタッチで電話帳に登録できたり電話がかけられたりする(iモードみてーだな)機能が嬉しい。
 なーんだかんだで、これで四台めの端末になるなあ。キャリアを替えたのは初めてだ。どうせまた一年から二年のうちには端末は乗り換えることになるのだろう。なにしろ、機能がどんどん洗練されてくるうえに、新しいサービスが次々と出現するものだから、同じ基本料払うんなら最新型に乗り換えたくなるのが人情である。いま、いちばん陳腐化が急速なのは、パソコンではなく、もはやケータイなんだろうなあ。

【3月28日(火)】
〈SFオンライン〉「SFオンライン賞」が発表されている。おれがわかる分野に関しては、至極まっとうな結果になっていた。とはいうものの、総投票数が圧倒的に少ないのは問題だなあ。一応関係者だから遠慮していたのだが、べつに賞の選出にタッチしているわけでもないのだから、おれが投票してもよかったのだ。もう少し日記でも宣伝しておけばよかったなあ。来年からそうすることにしよう。

【3月27日(月)】
▼第一回日本SF新人賞受賞作「M.G.H. 楽園の鏡像」三雲岳斗、徳間書店〈SF JAPAN〉に掲載)をようやく読む。同誌に掲載されている最終選考会で山田正紀小谷真理が述べているように、“SFミステリ”であって“ミステリSF”ではない。おれもそう思う。ミステリの太いレールと並行にSFの細いレールが走っていて、最後まで交わらずに終わってしまったような感じである。面白くないわけではなく、エンタテインメント小説としてソツなくまとまっているのだが、SFとしてはもの足りない。科学手品風トリックのミステリでしょう、あくまで。そのトリックも、高校生程度の科学知識のある人なら、ヒントが出た時点で大枠はわかっちゃうしね。
 おれは「SFとしてはもの足りない」と言っているのであって、「SFでない」と言っているのではない点に注意されたい。この作品が与えてくれる楽しみも、SFの楽しみの一部ではあるのだ。しかし、その一部にあまりにも特殊化した“安全牌”新人賞にぶつけてきたことに関しては、作者の悪い意味での“書き慣れ”が見えて残念に思う。ふつー、新人賞に応募する作品って、読者に「なんじゃこりゃー!」と思わせるワイルドさがあるんじゃないのかなあ? 「これをおまえらの存在を賭けて評価してみろ」と選考委員に挑戦するくらいの、選考委員の器のほうが問われるくらいの、青臭い未知のエネルギーがあるものでしょう。その点でこの作品は、プロっぽすぎる。まあ、この方、プロなんですけど。
 もっとも、考えさせられた点も多い。どういうわけか日本の小説では、生物についてはそこそこ専門的なことを書いてもよいのに、物理については中学を出ていれば誰でも知っているはずのことでもいちいち説明しなくてはならないという暗黙の了解がある。いや、それどころか、そうした説明が必要であるような物理現象を描写してはならないという不文律すらあるような気がする。「M.G.H.」では、これでもかこれでもかとばかりに中学校レベルの物理が描写の端々で丁寧に説明されており、いわゆるハードSFファンはいらいらするにちがいないのだが、なるほど、たしかに、カッコよさを犠牲にした説明過剰のこういう書きかたが、いまの日本では求められているのではあるまいかとすら思わされた。サイバーパンクの対極にある書きかたである。例えて言うなら、「冬樹は右手で傷口を押さえると、よろめいて膝をついた。指のあいだからどくどくと血が流れ出している。たいへんだ。人間は大量に血を失うと死んでしまうのだ」などと書いたら、ふつう読者は「アホか。喧嘩売っとんのか」と思うだろうが、こと物理に関しては、これと同等の説明をしなくてはならないらしいのである。作者は、そう割り切ったうえで、いけしゃあしゃあと過剰な説明をしている。強かな人であろう。
 それにしても、神林長平のこの作品の読みかたが、意外な角度からの深読みでむちゃくちゃに面白かった。『完璧な涙』(ハヤカワ文庫JA)を書いた作家だけのことはある。たしかに、主人公はすげー悲劇的なキャラではあるんだけど、そこまで表現しきれているとは思えないんだがなあ、やっぱり。

【3月26日(日)】
▼昨日届いた〈SFマガジン〉2000年5月号をぱらぱらと見ていたら、「読んでみたいハヤカワ文庫の名作 アンケートのお知らせ」(103ページ)が目に留まる。『ハヤカワ文庫30年の歴史のなかに多数ある名作のなかからあなたがぜひとも読んでみたいと思うハヤカワ文庫作品を教えて下さい。投票数の多い作品を9月に全国の書店で開催する「30周年記念フェア」でお届けします』ということである。これは読者側から見れば、なかなか画期的な企画だと思う。葉書と電子メールとで投票できるそうなので、葉書代を払って投票したいという酔狂な方は〈SFマガジン〉の当該ページを、電子メールで投票なさる方は早川書房のウェブページをご覧になって、投票要領を確認のうえどしどし送ってあげよう。長年古本屋を捜しまわって見つからなかったあの作品が新刊で読めるようになるかもしれないぞ。なに? 古本で読むから価値があるんだって? そ、そーゆー趣味も理解できなくはないが……。
MI5の情報員だったかが国家機密の入ったノートパソコンを盗まれたとのニュース。呑気だなあ。まあ、情報員だって、ゴルゴ13じゃあるまいし、そうそう気を張りつめ続けていられるものではないだろう。こういう事件が頻発すると、コンピュータを体内に埋め込むなんて話がいよいよ現実味を帯びてくる。いや、もうすでにやっているのか? 堀晃“情報サイボーグ”みたいになるのには、まだまだ時間がかかりそうだが、盗難防止のために、ただただ単にデータ記録媒体などを体内に埋め込むんなら、それほど難しくはなさそうだよね。

【3月25日(土)】
『無重力チョコ ポフ』明治製菓)なる奇妙な名の菓子を発見。つい買ってしまう。はて、“無重力チョコ”とはいかなるチョコであるか? “無重力状態”と言うべきか“無重量状態”と言うべきかはしばしば話題になるところだが(ケース・バイ・ケースだが、どっちでもいいじゃん)、“無重力チョコ”ってのはなあ……。ふつうのチョコを宇宙空間へ持って行けば、これは自動的に“無重量チョコ”になるであろう。しかし、“無重力チョコ”となると、さあたいへんだ。チョコがそこにあるからには時空になんらかの影響があるはずで、チョコを中心にチョコの質量に見合うだけの重力場ができているのがふつうであろう。それがないというのであるから、時空と没交渉の、質量もエネルギーも持たないなにものかでできているチョコであるにちがいない。当然ノンカロリーだろう。身体によさそうだ。食ってみると、たしかに不思議な食感である。以前食った『焼きチョコ?』よりは歯応えがあるものの、ひと箱食ってもやはりなーんにも食った気がしない。なんだか損した気分だ。まずくはないんだけどね。

【3月24日(金)】
▼《スコーリア戦史》第二弾、『稲妻よ、聖なる星をめざせ!』キャサリン・アサロ、中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)を買ってくる。うぐぐぐ……そ、そろそろ腰巻の「アメリカ版《星界の紋章》」ってのはやめませんか? いやまあ、マーケティングに関しては、おれが口を出すところじゃないですけど。巷ではすっかり、第一弾の『飛翔せよ、閃光の虚空(そら)へ!』(同文庫)を「飛翔せよ、なんたらかんたら」と呼称することになっているから、これも「稲妻よ、なんたらかんたら」と呼ばれるはずであるが、考えてみれば、もはや“アサロの《スコーリア戦史》なんたらかんたらシリーズ”として認知が促進されている感すらあり、うまいと言えばうまいやりかたなのやもしれない。かくなるうえは、「次はどんな“なんたらかんたら”になるのだろう?」と読者をわくわくさせる戦術に出れば面白い。早川書房はそれも織込み済みなのかな? 便利だから、おれも日常会話じゃ「なんたらかんたら」って呼んでるもんなあ。
 次はたぶんあの人だろうと思っていたら、やっぱり解説は小谷真理さんだった。以前、巽孝之さんも〈SFマガジン〉で触れてらしたアメリカの地方SF大会〈 WISCON20 〉でのエピソードが面白い。「女性のハードSF作家はいないという一般仮説の検証に進んだ瞬間」って、アメリカのSFファンはこんなくだらない議論をギャグではなしにしているのか。そりゃあ、ナンシー・クレスでなくたって怒るわな。
 あっ、そうだ。そういえば、あの“whom”の箇所はどう訳されているだろうと、そこだけチェックする……なあるほど、さすがはプロだなあ。

【3月23日(木)】
「DASACON3」の事務局から、『DASACON文化セミナー春季特別講座 第4回「○○と××くらいちがう」大賞 in DASACON3』の応募作の一部が送られてきた。もうこんなに来ているとは……みんな、好っきゃねえ。中には目を見張るようなものもあり、「○○と××くらいちがう」の作家が育っている手応えを感じる。困るのは、なんのことやらわからない言葉が出てくる作品だ。おれの無知無教養のせいもあるだろうが、やはり文化圏や世代の差によるところが大きいと思う。これは「○○と××くらいちがう」大賞にかぎったことではないが、誰にでもすぐわかり、しかもインパクトのある作品が生まれることは稀である。それだけに、限られた人々にのみ通じるネタならではの深みも捨て難い(おれがわかる作品に関してはね)。まあ、わからないものは当日若い人たちに説明してもらいながら評価することにしよう。考えてみれば、このヘンな遊び、マーケティング論やジャンル論についてまわる諸問題が端的に浮き彫りになるところがあって、なかなかどうして洒落にならない面もあるのである。

【3月22日(水)】
▼やたら菓子が余る。この日記の常連読者の方々はよっくご存じだと思うが、おれは自分が食う菓子は自分で買ってくることが多い。だというのに、母が妹の家に遊びに行くと、なにやらいろいろと菓子を持って帰ってくる。食えないから要らないというのに、とにかくやたら持って帰ってくる。妹の家でも食いきれないのだ。おれはスナック菓子は大好きだが、いわゆる“銘菓”が苦手である。やたら甘い。食えないことはないのだけれど、好きなスナック菓子がそばにあると、ついついそちらを先に食ってしまう。じつに経済的な人間だ。要するに、舌がビンボー人なのである。だものだから、妹が気を遣って母に持たせてくれているのであろう菓子のほうは、結局食いきれずに母に押しつけ、母も食いきれずに賞味期限がすぎてゆくという羽目になる。もったいない。だからといって無理に食ったら、さしものおれもぶくぶく肥るにちがいない。などと、論理的に理由を説明しても、やっぱり妹は母に毎度毎度菓子やらなにやら山ほど食いものを持たせて帰すのである。妹もおれとつきあいが長いのだから、おれが「くれ」というときにはそれは「くれ」という意味であり、「要らん」というときは「要らん」という意味であることなど百も承知のはずなのだがなあ。
 まあ、菓子のことなどは、わかりやすいほんの一例にすぎない。おれが身内のあいだでものを言うと、一事が万事、この調子なのだ。こんなわかりやすい人間なのに、なぜ身内にだけは理解されないのだろう? おれにとって最も異質なもの、それは身内である。どういうわけか彼らのコミュニケーションに於いては言葉の比重がはなはだ軽く、言葉人間であるおれはどうやって意思疎通を図ったらよいものか、途方に暮れてしまうのである。おれはたぶん、彼らがコミュニケーションに用いているらしいなんらかの暗黙のコード体系を学習し損ねてしまったのだろう。それがよかったのか悪かったのかは、いまだにわからない。そういう意味では、ダニエル・キイスの言うことがおれにはわがことのようによくわかる。もっとも、誰にでも「わがことのようによくわかる」と思わせるところが、キイスの才能なのだが……。
 まったくのところ、言葉を言葉として使ってくれる他人とコミュニケートするほうが、おれにはずっと容易だし、気が楽だ。案外、幼少時から鬱積している「言葉を言葉として使いたいなあ」という欲求が、おれに益体もない文章を垂れ流させるのかもしれない。

【3月21日(火)】
▼最近、DDIポケットの“ハイブリッド携帯”「-H"」にかなり惹かれていて、乗り換えを検討している。以前にも書いたように、いわゆる“スカイ系”のショートメッセージに慣れた人間には、どうもメールを受けるのに金が要ることが理不尽に思えてしかたがないものの、やはり EmCm Service を使って長いメールを細切れにして受け取るのにも限度がある。ツーカーホン関西の過去の利用明細と「-H"」の料金プランを睨みながら、どっちが便利で得か思案する。たしかにiモードのパケット課金は、電話のサービスとしては画期的だが、従来の回線交換方式でも通信速度が十分に速いPHSであれば、総合的に料金でもいい勝負をするのである。バンキングなど、インタラクティヴィティーが高くデータ通信量が少ないサービスの利用にはやはりパケット課金が有利だろうが、メールをまとめて落とすなどの、データがぎっちりつまった通信には、いまのところPHSが向いているだろう。おれはたしかに出すときには細切れのメールも出すが、ある程度まとまったデータをケータイで受けることのほうが圧倒的に多い。なにより、PHSは基本料が安いし、「-H"」の料金プランと性能はなかなかの魅力である。最近、会社で法人契約している連中にも、「-H"」派が増えているのだ。少なくとも、おれが長時間過ごすエリアの街中では、携帯電話に劣る点など見当たらない。「新幹線の中からふつうに話せた」と褒める人までいる。まあ、ひかりやのぞみが最速で走っていたときではないだろうが、時速百キロくらいまでは使えるらしい。おれがいちばん速く走れたときでも百メートル十三秒台であったから、必要にして十分な性能と言えよう。なにか話が微妙にずれたような気もするが、まあいいや、もう少し研究して、よく考えてみることにしよう。


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冬樹 蛉にメールを出す