間歇日記

世界Aの始末書


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99年12月中旬

【12月20日(月)】
「洛陽の紙価を高からしむる」などという言いまわしがある。本が好評を博す、今風に言えば、ベストセラーになるという意味だ。
 さて、この表現は、いったいいつごろまで生き残るものであろうか? 生き残るもなにも、すでに日常生活で使ったりはしないわな。使ったりはしないが、一応、独創的なレトリックを駆使できない人間が、しゃべる時間を稼ぐために用いる古臭いクリシェとしてはかろうじて生き残っているとは言えるだろう。
 いまなら、いくら本が売れたとて、それによって紙の値段が変動したりするはずがないが、やがて紙がたいへん貴重なものになり、本を紙に印刷することがとてつもなく贅沢だという時代がやってきたら、こんな表現が再び日常に甦る可能性はあるよね。先日の京都SFフェスティバル「活字消失 〜 印刷と出版の未来」って企画で、「中国ではわれわれが想像する以上に紙が手に入りにくいため、切実な要請として電子出版が発展する可能性がある」という話があって、面白い話だなあと思いつつ聴いていたおれの頭の片隅に「洛陽の紙価を高からしむる」というフレーズが浮かんだのであった。
 あるいは、さらに書物の電子化が進行して、そもそも古の時代には本なるものは紙を束ねたものだったことすら忘れ去られたとしたら、洛陽の紙価云々など、なんのことやらさっぱりわけがわからない表現になってしまうかもしれない。
 いやしかし、言葉ってのはしぶといから、意味など意識しなくなっても、「とにかく、そういうもんだ」と使い続けられるとも考えられる。たとえば、恒星間宇宙船の核融合エンジンの“燃料”(なにを“燃やす”んだ、なにを)が切れたときなど、機関士はコンソールを蹴飛ばしながら、“Shit, we're out of gas!”などと悪態をつくのかもしれない。バサード・ラムジェットでも、やっぱり言うかもな。このあたりのリアリティーを醸し出すのは、なんといってもクラークがうまいよねえ。あの人は、紙と鉛筆と数式の作家じゃなくて、半田の焼ける匂いのする作家だからだろう。そういう意味で、堀晃谷甲州の系譜に正しく連なる作家は、やはり野尻抱介なのだろう。
▼最近お気に入りのグッズ。カエル型の(これは基本だ)スナック・クリップ。“スナック・クリップ”なんて道具の名前が正式にあるものかどうかよく知らないが、食べかけのスナック菓子などの袋をパチンと留めて空気が入らないようにしておくためのクリップなのである。おれにとっては必需品。
「針のようなことを棒のように言うとマスコミになる。針のようなことを丸太のように言うとSFになる」
 締まらないアフォリズムだなあ。わけのわからないアフォリズムを“アホリズム”と名づけて流行らせようと企んでいるのだが、なかなかいい例ができないので、まだ企画段階なのである。正月休みでにも酒食らいながら考えよう。

【12月19日(日)】
▼よく小学校に置いてある二宮金次郎の像に、iモード端末を持たせるというプラクティカル・ジョークを思いついた。だって、最近街を歩けば、iモード二宮金次郎がいっぱいいるじゃん。だけど、このネタって、いかにもヒトコマ・マンガ向きだから、どこかで誰かがすでに描いているような気がしてきた。きっと描いているだろう。おっと、よい子のみんな、こんないたずら、ほんとにやっちゃだめだよ――って、iモード端末持ってる小学生はあまりおらんか。せいぜいPHSだな。
 待てよ。二宮金次郎の像は、たしか両手で本を持っていたっけか。だとすると、なにを持たせるのがいちばんハマるかというと……HP200LXだよな、やっぱり。
 そういえば、偉人ってのは、なんとなく照れ臭い。おれが子供のころには、小学校の教室やら図書室やらには、必ず偉人の伝奇、じゃない、伝記がたくさん置いてあったものである。いまでもそうなのだろうか。あ、いいコマーシャルを思いついた。「野口英世でも使えるiモード!」不謹慎だな。あ、意味不明のフレーズを思いついた。「ひらかたパークの魔術師」なにを発明するんだ、なにを。
 それはともかく。小学校の図書室に、ガロアの伝記ってあったっけ? ランボーの伝記もなかったような気がするな。オスカー・ワイルドもぜひ欲しいところだ。文部省のこういう手落ちは、家庭の教育で補わなくてはな。正月には、また例によって姪たちが遊びにくるはずだ。いひひひひひひ。

【12月18日(土)】
▼公私にわたりめちゃくちゃに忙しい。さすがは師走である。なにがさすがなんだかさっぱりわからないが、師走とはそういうものだ。忙しいのはわかっていて、事実忙しいのだが、なかなか身体と頭がついてゆかず、もうなにやらわちゃわちゃになっている。わてほんまによいわんわ。いろいろ面白いメールやら嬉しいメールやらを頂戴しているのだが、なかなかお返事が書けなくて申しわけない。お便りくださっているみなさま、ありがとうございます。ちゃんと読ませていただいております。
ツーカーホン関西が少し前からしきりに宣伝しているのだが、スカイメッセージEメール送信がすべて一通一円になるというとんでもない新料金プランが登場。受信は従来どおりタダである。こりゃもう、おれのためにあるような料金プランであるからして、むろんすでに申し込んだ。このせち辛いご時世に、なにかの料金が一気に七分の一になるとは、にわかに信じ難い。月に千四百円をメール送信に使っているとすれば、そいつが二百円になるというのだぞ。おれは音声通信のための電話を自分の携帯電話からかけることがほとんどないから、おれにとっては通話料が七分の一になったにも等しい。来月から一通一円だと思うと、ショート・メッセージを出しまくりそうな気がする。従来の七倍使うようになったりしてな。
 「どこにそれほどメールを出す相手がおるのか」と思うでしょうが、じつのところ、自分宛にメールすることが非常に多いのである。道を歩いているときになにかを思いついたとする。HP200LXでメモしたいが、歩きながら入力するのは面倒だ。片手が塞がっているとなおさら面倒だ。携帯電話なら片手で入力できる。HP200LXにはバックライトがついていないから(改造してつけている人もいるようだが)、夜道では入力できない。携帯電話なら完全な暗闇でも入力できる。思いついた内容によって、会社のアドレスと個人のアドレスに分けて送る。家に帰って、さあ日記でも書こうかとメールを受信すると、「スカルノ夫人」「サンタ・プレイ」「6Pチーズ」などと、他人が見たのではなにがなにやらわからないメールが届いているという次第だ。べつにわざわざメールを送信しなくとも、携帯電話のメモ機能で保存しておけばよさそうなものだが、それだとメモを見るのを忘れてしまうことがあるのである。
 寝床の中でなにかを思いついたときにも、よく自分宛にメールする。いちいち布団から身を起こしたり電灯を点けたりするのが億劫だからである。会社関係の用事であれば会社の自分のアドレスに送るし、個人の用事であれば内容に応じていくつかある個人アドレスのいずれかに送る。要するに、七円払ってものぐさをやっておるわけであるが、それが一円となれば、ますますコストパフォーマンスのよいものぐさができる。
 それにしても、ツーカーホン関西、ほんとにこんなに安くして大丈夫か? 安いのは個人的にはありがたいが、もしもそれでパフォーマンスや信頼性が落ちてきたりするようでは、まだ高いほうがましなのである。まあ、勝算があるからやっているんだろうけどね。つまり、メールを受けるのに金が要るというiモード(NTTドコモ)の致命的欠点を突く戦法だろう。もっとも、iモードはパソコンでインターネットに繋いでいるも同然、というか、あれはパケット通信機能付き携帯コンピュータ以外のなにものでもないのだから、受信に金が要るのは“欠点”というよりは至極あたりまえの“仕様”である。だが、受信無料のショート・メッセージに慣れたユーザの目には欠点以外のなにものでもない。パソコンで書いた長くて中身の濃いメールを受けるのなら、iモードは圧倒的に便利だが、「あれOK?」みたいなショート・メッセージを“受ける”のに金が要るかと思うと、心理的に理不尽なものを覚える。また、パソコンで使うのを主としている他のメールアドレスに来たメールを、受信通知代わりに気軽に携帯電話に転送しているユーザには(おれだおれだ)、iモードの料金体系はつらい。
 しかし、単体の携帯電話から送信する場合を考えると、じつは「あれOK?」に一円も取られているほうが損なのである。iモードのパケット課金なら、「あれOK?」くらいなら約0.3円のはずだからだ。だが、二十文字を超えるあたりから、iモードは一円以上になり、ツーカーホンのショート・メッセージが送信でも有利になる。そうなると、受信が有料というiモードの料金体系が俄然理不尽に見えてきてしまう。ショート・メッセージはメールではなく、メールはショート・メッセージではないというところに、ツーカーホンやJ-PHONE(送信二円をはじめた。受信は以前から無料)は攻めどころを見い出したのだろう。結局、いずれもどこかで金を取られてはいるのだから、いかに安く見せる(用途が偏ったユーザには実際に安くなる)料金プランを提供できるかが闘いどころになろう。
 いやいや、なかなか面白くなってきましたね。どの電話会社も知恵を絞っている。とんでもないアイディアがこれからもどんどん出てくるにちがいない。ユーザとしては安く便利になってくれればそれでいいのだが、電話会社生き残りバトルの観戦もじつに面白い。

【12月17日(金)】
▼あっ。大事なことを書くのを忘れていた。先日、晩飯を食いながら『ためしてガッテン』(NHKテレビ)を観ていたら、チビ太のおでんの具はなんであるかという“あのアレ”〈SFマガジン〉1999年7月号「SFまで10000光年」水玉螢之丞と、99年6月14日のこの日記を参照のこと)をずばり取り上げていて、箸が止まってしまった。しかも驚いたことに、チビ太のおでんの具が三つあるうち、いちばん下のアレはなんなのかという世紀の謎が、まさに問題として出題されたのであった。あの番組のスタッフには、〈SFマガジン〉を読んでる人がいるにちがいない。『つかぬことをうかがいますが…』(ニュー・サイエンティスト編集部編、金子浩訳、ハヤカワ文庫)なども嬉々として読んでいるのだろう。隠してもだめだ。いまのうちに武器を捨てて出てきなさい。君のお母さんは泣いているぞ。家へ帰って奥さんの温かい味噌汁が飲みたくはないのか。息子さんとキャッチボールをしたくはないのか。どうだ、カツ丼でも食うか?
 それはさておき、あのいちばん下の具は、水玉説では「スジ」「ちくわぶ」説も有力)だということであったが、赤塚不二夫本人が出演してあきらかにしたところによれば、「鳴戸巻き」なのだそうである。そ、そうだったのかー。真横から見た図であれが鳴戸巻きであることを明確に示すには、和田誠“コップ”みたいな特殊なパースペクティヴが必要だと思うが、はて、赤塚はそういう描きかたをしていたっけな? どうも記憶にない。探求心旺盛な方は、チビ太のおでんの変遷を研究してみていただきたい。京都精華大学マンガ学科だったら、正式なレポートとして認めてもらえるのではあるまいか。
 こうしてわかってしまうと、なんか夢が破れたような(なんの夢だ)複雑な心境である。いきなり作者に訊いちゃうところが、あの番組の小設問の制約だよなあ。民放だったらもう少し大問題にして、まず街頭インタヴューから入り、各界の識者(当然、水玉さんにも出てもらおう)や「サークルK」の担当者からコメントを取り、さらにクイズにしてお笑い系の出演者からボケを引き出して、さて、正解は……と、十分から十五分くらい稼いだかもしれんよなあ。
 おれはじつは、おでんはあまり好きではない。嫌いでもないが、食ってうまいと思えるのはダイコンとクジラの“コロ”くらいである。子供のころは、おでんといえばコロばっかり食っていた。いまではまずお目にかからない。将来、クジラの組織を部分的に大量に発生させられるようにでもなったらまた食えるようになるかもしれない。「クジラのコロが食べたいので分子生物学者になりました」なんて人が現われたら、おれ、すげー愛してしまいそうだよ。少なくとも、とりあえず学者になってみましたなんてのよりはましだよね。

【12月16日(木)】
NORAD(北米航空宇宙防衛司令部)が今年もサンタを追跡するそうなので、やはりサンタはかなり危険な存在なのであろう。インターネット時代に入って、このおふざけ企画もすっかりグローバルになってしまい、今年は日本語でも読めるありさまだ。こういうのを税金の無駄遣いだと責めたりしないところが(責めてる人もおるでしょうけど)、アメリカの粋なところだよなあ、ヴァージニア。
 この国は、アホをやるときにも半端じゃないね、まったく。いけしゃあしゃあと本気で遊んでいる。おれはこういうのは大好きである。本気でやるからこそ遊びなんだけども。それにしても、CF−18ホーネットまで発進させるか。なにかのついでじゃないのかとふつう思うが、ほんとにこれだけのためにやるんだろうなあ。
 このサンタ追跡サイトのよくできてること。アニメーション冒頭の『スーパーマン』からの名台詞は、日本語版ではそれだとわからない珍妙な訳だし、中身も全体的に直訳調丸出しの読みにくい文章ではあるが(トナカイの名前もヘンだ)、これはまあ大目に見ましょう。「サンタさんはY2Kに対応できるの?」には爆笑。いやあ、コンピュータの普及しておる国はちがうわい。教育的と言おうかなんと言おうか。サンタさんはY1Kを経験しているから大丈夫なのだそうだが、そのころコンピュータなんてあったんかいと言うなかれ。つまり、アメリカとしては、Y2Kをコンピュータのみの問題ではなく、千年紀末に伴う社会的混乱一般と捉えていることが窺える。単に西暦の千の桁が切り替わるだけのことに過剰な意味づけをして奇ッ怪かつ不穏な行動を企てていると目される宗教団体やカルトもあるし、木を隠すなら森の中とばかりに、コンピュータの誤作動と解釈され得ることを幸いにテロ活動に打って出ようという連中の動きも警戒されている。サンタさんは、そういう混乱をY1Kのときに体験したのだというわけでしょう。日本の防衛庁もこれくらい遊ばないか? 七夕があるんだしさ。
雪印乳業「6Pチーズ」というロングセラーがある。まあ、たいていの人は食べたことがあるだろう。こいつを食うたび、おれの脳裡にはなぜかナポレオンが五人の裸女に取り囲まれぜえぜえ言っている図が浮かぶのだが、これはきっとおれだけじゃないと思う。あっ、あなたもそうですか。やっぱりね。でも、こんなアホなことをことさら他人に尋ねて確認しようという気にならなかったって? そうでしょうそうでしょう。『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送)に調査依頼を出しても、まず採用されないにちがいない。おれがこうして書くと、「あ、やっぱりそうだったのか」と安心するでしょう? 人々に精神の安寧をもたらすことができて、おれもたいへん嬉しい。こんなおれでも人様のお役に立てているのかと、ウェブページを構えている喜びをひしひしと感じる。
 ところで、こういう些細なことで喜んでおるいい歳をしたおっさんだっておるのである。おれは三十七だ。だから、死ぬなよ、子供たち。いくら子供でも、サンタを本気で信じてたらアホだとおれも思うが、サンタがいたらいいなと思う気持ちは紛れもなくほんとうのものだ。はなはだおれらしくないことを書いているが、子供の自殺が昨年度比で四十四パーセント増とは、あまりといえばあんまりだ。サンタはいない。だが、サンタがいたらいいなと思っている人は、けっこうたくさんいるんである。わかるか? だから、死ぬなよ。

【12月15日(水)】
▼解説を書いた『終わりなき平和』(ジョー・ホールドマン、中原尚哉訳、創元SF文庫)ができあがり、今日送られてきた。配本は明日だそうである。加藤直之氏のイラストが渋い。なあるほど、遠隔操作戦闘ロボット“ソルジャーボーイ”は、こういう姿をしていたのか。一流イラストレータの映像的想像力には、いつもながら度胆を抜かれる。小説を読んでいるときには、おれなどは「こういう姿なのだろう」などと細部まで想像したりはしない。なにかこう、もっともやもやしたなにか、しかし描写されている細部だけは鮮明ななにかを頭に描いている。たとえば、おれが“蟹”というものを知らず、小説で初めて蟹を知ることになったとすると、なにやら脚がたくさんあってハサミを振り上げているあたりは鮮明に画像として思い浮かべるが、イボイボやら毛やらなにやらカニやらの細部は、そこにあることはわかっているが見えていないなにか、なのである。ちょうど夢の細部のような感じだ。たとえおれに画才があったとしても、“パペッティア人”だの“ラーマ”だの“閃光グラヴ”だの“ジャスペロダス”だのを「絵に描け」と言われて描けるとはとても思えない。しかし、《星界の紋章》シリーズ(森岡浩之)を読んでいるとき、ラフィールをあのイラストでイメージしているかというと、そんなこともないのである。イメージというやつは、じつに不思議なものだ。
 いやしかし、このソルジャーボーイはインパクトあるなあ。今後ずっと“これ”でイメージしちゃうにちがいない。どれだって? それは書店でご覧ください。カバーデザインは岩郷重力+WONDER WORKZ。もちろん、中身も面白い。どうも、最近おれが褒める作品は世間で評価がまっぷたつに分かれるようなのだが、それはそれでけっこうなことだと思う。レーザービームが当たる人と当たらない人がいるのだろう。『終わりなき平和』は、海外でも極端に評価が割れているから、日本でどう受け止められるかが楽しみだ。

【12月14日(火)】
日曜日にハチに刺されたところがまた痛むが、酢酸デキサメタゾン塩酸クロルヘキシジングリチルレチン酸酢酸トコフェロール配合の軟膏を塗っているうちに、少しはましになってきた。こう書くとなにやらたいへんありがたいものを塗っているかのように思われ、おれの身体が本来持っている自然治癒力がアップするにちがいない――と無理やり思い込むのがこういうときのコツである。まちがっても、どこにでもある虫刺され軟膏だと思ってはいけない。
 えらいもので、靴下を履くときに警戒している自分に気づく。ぱんぱんぱんと靴下を叩き、異物が入っていないかどうか確認してから恐るおそる履く。おれはめったに手袋をしないが、このぶんではいつか手袋をするときにもあの忌まわしいアシナガバチが思い出され、やっぱりびくびくしながら装着することになるだろう。なにが怖ろしいといって、コンドームにアシナガバチが入っているという事態ほど怖ろしいものはない。が、よく考えてみると刺されたときの利点もなきにしもあらずではなかろうかと不埒な想像をしてみたりもする。まあ、めっきりご無沙汰であるから、そんなことはどうでもよいとしても、羮に懲りてペニスを拭くなどというフレーズを思いついて喜んでいるようでは出世はせん。
 話は変わるが、討入りである。ほんとに話が変わったな。おれは子供のころ京都市山科区に住んでいて、家からちょっと行ったところに大石神社なるものがあった。十二月十四日には綿菓子やらカルメ焼きやらの店が立ち、赤犬を殺して揚げているなどと噂のあった串カツ(どういうわけか、この伝説はどこにでもあるらしい。ミミズバーガーみたいなものか)やらリンゴ飴やらを食い、なぜか毎年、針金でできた輪ゴム鉄砲を買っては、翌年までには失くしていた。店が並んでいるのは山の麓のほうだけで、そこから子供の足ではけっこうつらい山道をせっせと上ってゆくと、やがて開けたところに神社があり、その境内では魔女がイモリの尻尾だの胎児の肝だのを煮ていそうな巨大な釜が据えつけられていた。そこまでゆくと、甘酒をタダで飲ませてもらえるのである。繊維がザクザクと音を立てるくらいに豪快に擦りおろした生姜がたっぷり入っている熱い熱い熱い甘酒で、毎年それを飲むのが楽しみであった。いまはもうそういうこともしていないらしいと何年か前に聞いた。べつにこの歳になって出かけてゆこうとは思わないものの、なにやら寂しい気がする。おれはいまだに“討入り”と言われると“甘酒”を連想してしまうのだ。あそこいらへんに住んでいた子供は、みんなそうなのではなかろうか。
 おれはほとんど観ていないが、『元禄繚乱』(NHKテレビ)の討入りの回はすごい視聴率だったらしい。おれたちの子供のころは『元禄太平記』であったな。おれには討入りの美学というやつが、いまだによくわからない。なんでこんなに日本人に人気があるのかね? 丸谷才一やらの言うことも、頭では理解できても身体ではわかったという気にならない。日本人というやつは、おれたちの世代ですでにして、自分がどう日本人であるのかを意識的に学習せねばならない、まさにそのことが日本人たるアイデンティティーになっている人々なのではなかろうか。それはそれでおもろいやないか。まあ、日本語を駆使しているからには日本人じゃと開き直りゃいいとは思うんだけどね。今日はちょいとむかし話でありました。

【12月13日(月)】
『ニュースステーション』(テレビ朝日系)の渡辺真理が、最近妙に可愛くなったように感じているのはおれだけであろうか。おれだけだろうな。

▼解任解任とあちこちで騒いでいるのでこりゃまたどこかの大臣だか政務次官だかが自分では失言だとまったく思っていない失言でもして物議を醸しているのかとよくよく聴いてみると雅子という人が懐妊したかしていないかつまり言い換えると換言するとパラフレーズすると雅子という人が皇太子という人といつまぐわったときに受胎したのかというきわめてプライベートな事柄を日本中のマスコミが血道をあげて知りたがっているらしい。そんなもんほっといたれやあほやと田中哲弥風日記にすると好き勝手が書けるのでまことに便利だ。すぐ移ってしまう文体である。あんまり安易に真似ばかりせんように自戒せねばと思うのだがけっして次回せねばと思っているわけではないので抗議のメールなどよこさないように。よこしませんかそうですかいつまでやっておるか。
 一個人としての雅子氏が妊娠したのだとすれば、これはまあ一般的にはめでたいことであろう。お父ちゃんがリストラされたので、いま子供が生まれたのではとても食っていけんとか、もう子供が二人もおるので、三人めはちょっと経済的にきついのではないかとか、そういった問題はなさそうなので、たぶん本人たちもめでたいと思っているにちがいない。子供が喜ばれて生まれてくるとは、じつにめでたいことである。
 だからとゆうて、なにもあないに大騒ぎせんでもええやろう。めでたい(かもしれん)ときに験の悪いことを言うけれども、ご懐妊ご懐妊とほんまはさほどめでたいとも思うてへん人までもがいっせいにめでたそうにしているのを見ると、あの人の義理の爺さんが亡くならはるときの自粛自粛の大騒ぎを思い出して複雑な気持ちになる。だんご3兄弟やないんやからね。発表しとうなったら勝手に発表しはるやろうから、もうちょっとそっとしといたげへんか。と、喜多哲士風日記にするとやっぱり好き勝手が書けて便利だ。
 では、いつもの冬樹蛉風日記では好き勝手を書いていないのか、なにかセーヴしているのかと言われると、そんなことはまったくなく、やっぱり好き勝手を書いているのである。

【12月12日(日)】
▼いやあ、びっくりした。風呂から上がってテレビを点けると、劇場版の『X−ファイル』などやっている。「ほお、『X−ファイル』か……」と別段『X−ファイル』に興味のないおれは(ジリアン・アンダースンにはそこそこ興味がある)、テレビの副音声を聞きながらバスタオルで身体を拭き、下着をつけた。スカリー捜査官の声は、やはり吹替えよりもアンダースン本人の声のほうが、冷たい知性が感じられてよい――などと思いながら、左の靴下を履いた。しかしモルダーのほうは、ギャグすれすれに肩に力が入った熱血漢の感じが出る点で、風間杜夫のほうがよい――などと思いながら右の靴下を履いたときに異変は起こった。突如、右足に火箸を押し当てられたような激痛が走ったのである。たいていの人は火箸を押し当てられたことなどないはずだが、こういう痛みはなぜかそう表現することになっている。煙草の火玉を足に落としたとて、これほどの激痛ではない。なにごとだ!
 ほとんど反射的に靴下をかなぐり捨てると、右足の人差し指の付け根あたりに、なにやら翅のある物体が付着している。それを瞬時にハチだと認識したおれは、靴下で払いのけ、叩き潰してしまわないように、傍にあった煙草のカートン箱で痛めつけ動きを封じた。すぐに激痛が生じたあたりを見たが、なんの異状も見受けられない。しかし、痛い。ものの三十秒もしないうちに刺されたスポットが赤く腫れてきた。傷口が特定できたため、消毒用アルコールをふりかけ、絞ったり吸ったり(吸うためにはヨガの行者のようなポーズを取らねばならない)しているうち、ハチがもぞもぞ動き出す。またもや動きを封じる。なぜ叩き潰してしまわないかというと、毒のある生物に刺されたり噛まれたりしたときには、そいつの正体を特定する必要があるからだ。いくら慌てていても、それくらいの常識は働く。
 母を呼び出し、殺虫スプレーを持ってこさせて、まずはハチの形態を保ったまま息の根を止めた。スプレー式のアルコールをかけて傷口をティッシュペーパーで拭いているうち、1mm ほどの黒いものがティッシュに付着した。だ。おれが払いのけたときに折れたらしい。ミツバチであれば針に“返し”が付いているから、引っこ抜くと毒の袋や内臓が一緒にぞろりと抜けるはずだが、これはどう見てもミツバチではない。証拠保全(?)のため、ファスナー付きのビニール小袋にハチの死骸を入れる。落ち着いてよく観察すると、アシナガバチ、おそらくセグロアシナガバチである。こんなものがおれの靴下に潜んでいようとは、スカリー、真実から目を背けてはいけない。
 てなことを言っている場合ではない。ハチに刺されたのは生まれて初めてである。アシナガバチはさほど強い毒を持ってはいないはずだが、おれはいろいろアレルギーを持っているから、おれの身体がどういう反応を示すか、冷静に経過を観察し記憶しておかねばならない。生まれて初めてであれば抗体もなかろうし、アナフィラキシー・ショックを心配するには及ばないかもしれないが、幼いころに刺されたことがあって忘れている可能性だってあろう。念のため、病院に運ばれてもよいようにきちんとパジャマを着ておく。
 三十分ほどしても刺された部位はあまり腫れ上がらず、とくに全身症状も出ない。どうやらひと安心である。箪笥の中にほぼ一日閉じ込められハチが弱っていたことと、すぐさま払い落としたことが幸いしたらしい。さほど毒液は注入されていないのかもしれない。
 いやはや、靴下にハチが入っているとは、まるで陳腐なマンガのネタのようであるが、笑いごとではない。アシナガバチだったからよかったようなものの、エラブウミヘビでも入っていたら、昨日の日記が最終回になっていたところだ。みなさんも気をつけてください。だけど、正直なところ、ハチを払いのけながら、「しめた、今日の日記のネタができた」と頭の隅で考えたのも事実である。業と言わざるを得ない。

【12月11日(土)】
▼おっと、昨日の日記で触れた“赤鼻のトナカイ”だが、うっかり綴りをまちがえておりましたので直しておきました。Rudolf じゃなくて Rudolph であります。Adolf につられてしまったようだ。まったく英語の綴りというやつには、人をまちがわせるためにできているかのような悪意を感じる。音があってりゃいいじゃんと思うのだが、それだと精薄のころのチャーリイ・ゴードンの文章みたいで読みにくい。厄介きわまりない。英語が言語として激しく変遷した時代に、タイミング悪く余計なもの(?)を発明したグーテンベルクが悪いのだ。『火星人ゴーホーム』(フレドリック・ブラウン、稲葉明雄訳、ハヤカワ文庫SF)の火星人も揶揄していたではないか――「それに、君たちは言葉を書きあらわすのに、なんという馬鹿げたやり方をするんだい。君たちのアルファベットを分析して、発音と文字の関係をみつけるのに、たっぷり一分間はかかったぜ。一つの音を三種類のちがった表記であらわすなんて言語が、どこにあるだろう――まったく徹頭徹尾くだらない」
 火星人が英語の綴りのどの三種類を指してこう言っているのか、すぐおわかりになるであろうか? fphgh である。さらにしばしば揶揄されるものとしては、ough の組み合わせがありますな。この綴りには、いったい何種類の異なる音が対応しているのだろう? 暇な人は数えてみていただきたい。十いくつかはあったはずだ。それも、滅多に使わない言葉にあるのではない。日常語に含まれているのである。まあ、英語国民のほうでは、われわれの漢字を見て同じように思っているだろうけれども……。
▼外出したついでに水を買って帰る。一度に買うと重いので、手荷物の少ないときにニリットル入りのペットボトルをちびちび買い溜めているのだ。もちろん、西暦二千年になったとたんになにかが起こった場合に備えてである。ライフラインが何日も機能を停止するというのは考えにくい事態ではあるが、なにが起こるかわかったものではないのはたしかだ。起こりそうにないことに備えるからこそ危機管理なのである。先日も、イギリスの The Times が、Japan woefully behind in race to beat the millennium bug と、日本のY2K対策の遅れを糞味噌にこき下ろしていた(99年11月19日付)。Sun あたりのお気楽娯楽タブロイドに言われても「はあ、さよか。で、ダイアナと宇宙人の関係はわかったか?」と笑ってすませられるが、タイムズにこうまで言われてはさすがに痛い。当たっていることも多いだけに腹が立つ。一つの音を三種類のちがった表記であらわすような言語で書かれている新聞に、そこまでは言われたくはないわ。でも、なかなか鋭い論評なので余計に腹が立つ。腹は立つが、やっぱり準備しておいたほうがいいよ、ホント。わが国は、いまありとあらゆるところで箍が外れて来ているのだ。「次はなにが壊れるのだろう」と、あまりの不安に半ば自虐的な引き攣り笑いの発作に襲われそうになる。車が空から降ってくるという『日本沈没』の描写を「小松さん、あんたはやっぱり素人や」と笑った専門家がいたそうだが、“あの朝”、テレビから飛び込んできた阪神高速道路の映像をおれは一生忘れない。膝が笑ったぞ、あれは。
 まあ、願わくば、すべてが杞憂で終わってくれますように。


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冬樹 蛉にメールを出す