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2000年4月中旬 |
【4月19日(水)】
▼体調が悪いぶん、今日はなにやら頭が冴えわたっているなあ……と思っていたら、やっぱりやってきた。天啓が稲妻のようにおれを打ち、「はに丸・レクター」というのをなんの前ぶれもなく思いつく。前ぶれがあったらあったで怖いにちがいないが、ともかく、われとわが才能に罪悪感すら覚える。「はに丸・レクター」とはなんなのかさっぱりわからないが、ヴィジュアルに想像するとそこはかとなくおかしい。鼻を齧られたりしたら、ますます画になりそうだ。
【4月18日(火)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
うわー、またプルーフ版を読めないうちに頂戴してしまった。しかも上下巻だ。出る出る出る出るSFが出る。どこが“SF冬の時代”であるものか。次から次へと面白そうなSFが出るではないか。
しかし、下巻の腰巻にある本文からの引用は、ちょっとネタばらししすぎではあるまいか。こんなに書いちゃっていいのか。あるいは、これくらいは気前よく明かしておいたところでなにほどのこともない大ネタが用意されていると匂わせている、余裕の腰巻なのであろうか。わくわく。
▼――などと言いながら、仕事で『幻詩狩り』(川又千秋、中央公論社――ひひひ、おれの持ってるのはC★NOVELSの初版だぞ――と、一応年寄りが嬉しがってみる。中公文庫でも出てますよ)を嘗めるように再読している。あーっ、面白い。ひーっ、すごい。不朽の名作とは、こういうのを言うのだ。読んでるとイキそうになる。いや、そういうイキかたじゃなくて、あっちの世界に行きそうになる。仕事がこんなに楽しくていいのか。なに、それでは内容がさっぱりわからん、小学生の感想文じゃ、それでも紹介屋かじゃと? そんなもん、ここで書いてしまったら仕事の原稿に書くことがなくなるじゃないか(とか言ってるが、けっこう日記を使って考えを整理していることもあるな)。
【4月17日(月)】
▼食いものの話が続く。それも豪華な食いものではなく、どことなくしみったれた食いものばかりである。マダム・フユキは、滅多に食えないものにではなく、身近な食材にこそこだわるのだ。
会社の帰りに発作的な選択的飢餓に襲われた。なぜか、突然「ハイチュウ」(森永製菓)が食いたくなったのである。小便がしたくてたまらぬ人がトイレを捜すのにも似た切実さが、おれに駅の売店を捜させる。あった。慌ててハイチュウのグレープ味を買い、売店の前で包み紙を引きむしって二個食う。うまい。あの妙な食感がたまらない。どうやらおれは、ハイチュウの味などどうでもよくて、ひたすらあの食感に飢えていたようだ。ガムなんだかキャンデーなんだか判然とせぬ、あのエロチックな歯ざわり舌ざわりに酔う。それにしても、なぜ突然こんなものが欲しくなったのか、よくわからない。どこかにサブリミナル広告でも仕掛けられていたのだろうか。
【4月16日(日)】
▼「キーマカレーヌードル」(マルちゃん)に感動する。概してマルちゃんのカップ麺にはハズレが少ないのだが、これはハズレでないというよりは、率直にうまい。カレー味カップ麺の権威であらせられるところの我孫子武丸さんには、ここでお薦めしておかねばなるまい。まあ、おれはキーマカレーが好きだから、点が甘くはなるんだけどね。
そういえば、「あ!あれたべよ」(大塚化学食品部)には「キーマカレー&サフランライス」というのがあって、以前は近所のコンビニで売っていたのだが、いつのまにか姿を消してしまった。うまかったのに。なくなったのは、おれんとこの近所だけなのかな?
【4月15日(土)】
▼どうやらiモードでは、メールの誤配が起っているらしい。このところ調子が悪いのは報道されているとおりだが、先日から、身のまわりのiモードユーザの複数の人が、身に覚えのないヘンなメールが届いたと気味悪がっている。SPAMやいたずらメールではなさそうで、どうも誤配らしい。これは由々しきことである。まったく使えないより悪いではないか。まあ、この不景気にこれほどオーバーシュートするサービスも珍しいとはいえ、このままじゃあ、ユーザの信頼を失いかねないなあ。最近、相手がiモードだと、「届いてますか?」などとメールの最初に書いたりする。「ハリガミ貼るな」というハリガミみたいで面白いじゃないか。
【4月14日(金)】
▼じっと座ってものを読んだり書いたりしていると、身体がしこってくる。ときおり立ち上がり腕を振りまわしたりするわけだが、最近、思わず「イチ、サン、プワァーッ!」などと藤原紀香の真似をしてしまう。人に見せたくない光景だ。テレビに毒されておるなあ。でも、やっぱりアレ、どきっとしませんか? 初めて観たとき、「やられた」(なにがだ?)と思ったぞ。第二弾は、本上まなみにやってもらいたいと思っているのはおれだけではあるまい。
【4月13日(木)】
▼まだ昭和三十七年対談の余韻が残っているのかもしれないが、おれが実世界で見るものというのは、その第一印象に著しく汚染されている。世の中に新幹線というものがあると初めて知った幼いころの記憶が、新幹線を見るたび、いまだに甦ってくるのだった。新幹線とは、おれにとって、第一義的に、モグネスに踏み潰されるものである。同様に、大阪城にアンギラスやゴモラがいないのは、あり得べからざる欠落と感じられる。東京タワーにはモスラが繭をかけなくては画竜点晴を欠く。ジャイガーがいてこその万国博である。きっと、死ぬまでそう思い続けることだろう。楽しい人生だ。
【4月12日(水)】
▼“ネアンデルタール”って言葉を聞くといつも思うんだが、英語国民がこれを罵倒語あるいは侮蔑語として使うのは、文字どおり、というか、これが本来の意味であるべき“人種差別”なのではあるまいか。“野蛮人”とか“粗野で不器用な人”とか、そういった意味で使ってるよね。“性的抑制心がない”というニュアンスを伴うことも多いようだ。野蛮人イコール性的抑制心がないってのは、文化人類学的にひどく誤った認識であるが(そもそも“野蛮”なんて概念を文化人類学者は持たない)、そういう連想をする人が多いんだろうね。また、性的抑制心がないのは、それ自体、悪いことでもなんでもあるまいに。むしろ、生物学的には有利なことだ。そうでしょう、石田純一さん? 抑制心のなさをあまり発揮しすぎると社会生活に支障を来たすので、プラグマティックな観点からは、ほどほどに抑制したほうがよかろうけれども……。それはともかく、「あの Neanderthal と一緒にディナーなんてまっぴらよ!」ってなことを英語圏の小説や映画では、たしかに言ったりしている。クロマニョンだったらいいのかよ。
もっとも、翻訳や吹替えでは、単に“野蛮人”としているケースが多いみたいだ。そりゃそうだわな。痴漢にお尻を撫でられた女性が、「きゃーっ! なにすんのよ、このネアンデルタールっ!」などと叫んだりしたら、「このねーちゃん、考古学者か人類学者かいな」と痴漢のほうが面食らうわ。
▼どうもおれは、乗りものやら食堂やらで隅のほうへ隅のほうへと行く癖がある。とても落ち着くのだ。コーナー席なんかとくに好きである。歳食ったら、毎日喫茶店の隅でホットミルクでもちびちび嘗めながら、新聞記者の持ってくる難事件をたちまち解決してやろうかと思う。
【4月11日(火)】
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
つい先日プルーフを頂戴したばかりだと思っていたら、あららら、読まないうちにもう発売されてしまった。じつにプルーフの送り甲斐のないやつで、不甲斐ないことである。以前に出た『ネアンデルタール』もこのたび文庫化されたとのこと。こちらも読んでいなかったから、まことにありがたい。それにしても、このところ、やけにネアンデルタール・ネタの作品が多い。「べつにアイディアがかぶっているわけではないよ」といったことは、それらを全部読んだ人が内容を比較したうえで結果的に言えることなのであって、同じようなキーワードで表現されてしまう本が同時期にあまり出ていると、「さてと、なに買って読もうかな」と平積み台を漫然と眺める“ふり”の客は迷ってしまいそうだ。文庫しか買わないなんて人はざらにいるわけで、『ネアンデルタール』だって新刊みたいなものである。今回はいろいろタイミングが悪かったんだろう。だったらおまえがとっと読んで内容を的確に教えてくれよって? はい、すみません。
もっとも、この情報化時代、小説を書くほうも、同じ学術情報、同じ時事ニュースなどを、ほぼ同じ時期に遅かれ早かれ手にするのだから、多かれ少なかれ同じ題材に触れてしまうのは避けられまい。インターネットなどの力で、作家と読者の情報収集力の差が、潜在的にはどんどん小さくなってきている。ということは、作家の勝負どころは、情報ではなく“ものの見かた”の提供だということにますますなってくるだろう。作家は学者じゃないのだから、もともとそうなんだけどね。「小説は、話題になっている難しいことをわかりやすく説明してくれる」と考えて、小説に“おもしろくてためになる”学習マンガみたいな役割を期待している読者も少なからずいるとは考えられるし、また、かつてはそんな役割も事実あったけれども、いまは“わかりやすい説明”になど、文庫・新書・雑誌・ネットでいくらでも触れられる。どこまで事実でどこから虚構かわからない(わかりにくい)小説を、わざわざアテにする人は多くはなかろう。それどころか、「この小説の説明はおかしくないか?」と、専門的な事柄に関してすら、突っ込まれる可能性のほうが大きくなっているだろう。たとえば、作家Aが日本の学者Bに取材したホットな自説C'を、こりゃ面白いやとばかりに小説の重要なファクターとして半年後に出た本で使ったところ、学者Bも多大な影響を受けているアメリカの学者Dの論敵であるイギリスの学者Eは三か月前に学者Dの学説Cに重大な欠陥があることを明示する学説Fを発表しており、その結果、学者Bの自説C'も根底から覆っているのを、二か月前に学者Eのウェブサイトを直接読んだライターGが書いた電子メール雑誌の記事を読んで、読者はすでに知っている――なーんてことにもなりかねないわけである。ネタの新鮮さでは、小説はほかの媒体にはけっしてかなわないのだ。むかしからそうだけど、最近ではとくにそうだ。「わはははは、つるかめ算をこんなふうに使うとは」とか「なるほど、フレミングの左手の法則でこうくるか」とか、そういうふうに感心させてくれるのを、おれは小説に期待している。
でも、作家ってのもたいへんな仕事だよね。いくら勉強しても「この作家はよく勉強しているなあ」とはあまり感心してもらえないのに、あまり勉強してないと「この作家はこんなことも知らないんでやんの」と“どこかの誰かには”突っ込まれる。作家はひとりだが読者は大勢で、その大勢の中には、いろんな分野に関して作家より詳しい人がいっぱいいるのだ。なんと精神衛生に悪い仕事だろう。作家の仕事は、勉強・研究じゃなくて、受信・思索だと思うから、少々(少々だよ)妙なことを書いてしまっても気にする必要はないとは思うのだけど、やっぱり精神衛生には悪いだろうね。
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