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2000年3月上旬 |
【3月9日(木)】
▼むちゃくちゃ寒いので、肩に使い捨てカイロを四つも貼る。などと言うと、外出するときに貼ったように聞こえるでしょうが、なんと会社から帰ってきてから貼ったのだ。おまえの家は暖房がないのか、それほど困っておるのか、だったらアタシがストーブくらい送ってあげるわとほんとうに送って来られたらこれ以上置く場所がなくて困る、まあ、待ちなさい、いま説明する。ちゃんとストーブはある。エアコンもある。しかしそれでも、肩は冷える。それになにより、カイロを貼ると気持ちがいい。第一、暖房もないほどに困っているなら、自宅で使い捨てカイロを肩に貼るような贅沢をするわけがないではないか論理的におかしいではないか。どうも最近、田中哲弥日記文体に毒されているような気がするが、おれの文章を一行読めば誰にでもわかるように、おれには骨の髄まで筒井康隆が染み着いて脱けないので、内在化されたリズムがきわめてよく似ている田中哲弥文体にも容易に影響を受けてしまうのである。あっ、なんてことだ。まだ筒井−田中路線の文体で書いているぞ。もういいですかそうですか。とは言うものの、筒井康隆の文体には、字面を眺めるかぎりでは、じつはそれほど際立った特徴があるようには思われない。むしろ、作品の必要に応じていちいち文体を作っている。なのに、やっぱり筒井的としか言いようのないリズムが感じられるのである。こういうのを真に文体と言うのであろうな。田中哲弥は筒井的な“表現”を上っ面だけ引き写しているのではなく、その文体のエッセンスを正しく受け継いで制御し得ている“筒井の子”なのである。
おっと、カイロの話である。さきほど“使い捨てカイロ”と書いたが、いまは“使い捨てカメラ”を“レンズ付きフィルム”と言わねばならんように、“使い捨てカイロ”にも“使い捨て”ない呼びかたがあるのであろうか? レンズ付きフィルムのほうは、ちゃんと再利用されている部分もあるから使い捨て扱いされてはかわいそうだけど、カイロはといえば、ほんとうに使い捨てである。だが、なぜかパッケージでは“使い捨て”という表現を忌避している。ただの“カイロ”だ。これでは口頭で言ったときに、ベンジンやらを使う懐炉なのか電気回路なのかそのほかなのか、よくわからないではないか。使い捨てカイロにも適切な呼びかたを与えてやるべきであろう。でも、なかなかいい呼び名を思いつかない。暇なときにでもじっくり考えることにしよう。それにしても、もう少しましな脳の使いみちはないのか。
【3月8日(水)】
▼会社の昼休みに近くの喫茶店のカウンタでスパゲッティを食っていたら、若いサラリーマンの二人連れが入ってきて、おれのそばに腰かけた。例によって会話を立ち聞きして楽しむ。どうやら自分たちの会社のある人物について、生活がたいへんそうだといった話をしているらしい。その人物は独身らしく、大阪に転勤してきて間もないというストーリーが呑み込めてきた。
サラリーマンA「あの人もたいへんやろう。食事とか」
サラリーマンB「いや、独り者ですから、もともとみだらな食生活をしてたらしいです」
おれは呼吸困難に陥り、必死に笑いをこらえた。鼻からスパゲッティが出てくるかと思った。立ち聞きという趣味は、こういう危険を伴う。むせそうになりながら引き続き耳を聳てていると、件の若いサラリーマンは、何度も何度も、転勤してきた人物の「みだらな食生活」を嘆く。あきらかに彼は“乱れた食生活”の意で言っているのだが、不運なことに“みだらな”という言葉を覚え損ね、しかも訂正してくれる人にいままでめぐり合わなかったらしい。サラリーマンAはといえば、なにごともないかのように相槌を打っている。おいおい、訂正してやったらどうだ。いや……もしかして、ブルータス、おまえもか?
いやいや、早とちりは禁物だ。転勤してきた独身者氏が、夜な夜な女体盛りや男体盛りに興じていないと、誰に言えよう。だけどなあ……。若者のみだらな言語生活がちょっと心配になる今日このごろなのだった。
【3月7日(火)】
▼駅の売店で鶏の唐揚げを食いながらグリーンティーを飲んでいると、傍に流れるような栗色の長い髪を揺らしたすらりと背の高い女性がこちらに背を向けて立っている。おお、かっちょええとは思ったものの、こういうのは振り向くとたいてい期待を裏切られるのが世の習いである。しかしそれでもスケベ根性で彼女の後頭部を観察し続けていたら、そこに妙なものがにょきりと突き出ているのに気づいた。側頭部からアンテナが生えている。いやあ、こういう光景には無条件で萌えますな。ケータイで話すときには、ぜひあのようにしてSFファンを喜ばせてもらいたいものである。
▼プロバイダが提供しているアクセスログを見ていたら、はてどうしたことか、昨日から掌編小説コーナー「十月は立ち枯れの国」に置いてある「悪魔の飽食」へのアクセスが妙に多い。おれは主にウェブ日記者、次にSF関係紹介風雑文屋として世間に認識されているはずであり、わざわざおれの小噺を読みにくる人がそんなにいるわけはない。しかも、数値から察するに「十月は立ち枯れの国」のメニューを経由せずに、直接「悪魔の飽食」にアクセスしているようなのだ。ヘンだなあ、なぜだろう、どこかの酔狂な人がリンクでも張ってくださったのかなあと首を捻っていたのだが、やがて原因に思い当たった。おととい、新聞のテレビ欄を眺めていたとき、ちらと目に留まった文字があったのだった。おれの大嫌いな「知ってるつもり!?」(日本テレビ系)のテーマは、たしか七三一部隊だったぞ――古新聞を確認すると、はたしてそうである。なるほど、おれは番組は観てないが、きっと森村誠一の『悪魔の飽食』を取り上げたのだろう。それでもって、初めてあの本を知った人などが、検索エンジンで調べてみたのにちがいない。えらいもんだな。二十人近くがうちの「悪魔の飽食」を見にきていたのだぞ。テレビの影響力もすごいが、検索エンジンもすごい。インターネットの利用者がほんとうに増えてきていることを、こういうときに実感しますな。
それにしても、まちがってうちに跳んできた方々には、まことに申しわけない。あのようなシリアスなドキュメンタリーについての情報を期待してクリックしてみたら、バカ話が出てきたのだからなあ。「紛らわしいタイトルをつけるな」と怒って帰った人もいることだろう。え? おとといからこの日記の読者になってしまった? それはそれはありがとうございます。
【3月6日(月)】
▼一昨日に書いた“止まっているエスカレータに乗ったときのヘンな感じ”について、藤澤邦匡さんからメールを頂戴した。「停まっているエスカレータというのは階段としてはとても変なもので、始めは段差が小さくて、だんだん大きくなり、また終わりに近づくと段差がだんだん小さくなるものです。そうであるがゆえに違和感が生じるのではないかと思います」
あっ、そうか。「止まっているエスカレータなんて、べつにふつうの階段だ」などとほざいていたが、ちっともふつうじゃないじゃないか。アホである。
しかし、だ。やはりこれが違和感の原因のすべてであるとも思えないのである。なるほど、止まっているエスカレータを昇り降りする序盤と終盤には、段差が変化していることによる違和感が大きいのはたしかだが、段差が一定である中盤の大部分を昇降しているときにも、やはり身体がうまくコントロールできないのを感じるからだ。長いエスカレータだととくにそう感じませんか?
とにもかくにも、止まっているエスカレータは、存外にいろいろな感覚が狂わされてしまう非常に危険なものであるらしい。
▼日本SF大賞20周年記念「SF Japan」(徳間書店)をようやく買う。お、おおお。「柔らかい闇」(堀晃)は、じょ、《情報サイボーグ》シリーズだったのか。おおおおおお。これはタイトルからすぐわかるが、「あしびきデイドリーム」(梶尾真治)は《エマノン》シリーズだったのか。な、懐かしい。なんだか二十年ばかり時計が逆戻りしたようで、感傷に浸ってしまう。この二十年、いったいおれはなにをしてきたのだろうか。精神年齢が全然変わっとらんような気がするぞ。
すぐにでも読みたいところだが、仕事が重なっており、『ブラッド・ミュージック』(グレッグ・ベア、小川隆訳、ハヤカワ文庫SF)を再読しながら恩田陸の新作のゲラを読みながら疲れたら〈SFマガジン〉4月号を読むというありさまで、とても手がまわらない。どうしてこんなにみんな面白いのだろう。おれはもしかしたら「つまらない」と感じる能力を失ってしまったのではあるまいか。だとしたら、人生勝ったようなもんであり、それはそれでたいへん喜ばしいことである。
それでも、とりあえず作家の一ページ・エッセイだけ拾い読みする。筒井康隆が「マニアックであることを恐れるな」と檄を飛ばしているのが頼もしい。大賛成である。だいたいが、むかしの読者というものは、ああこの作品がおれにはさっぱりわからないおれがアホなのだおれの知能が低いのだおれが勉強不足なのだおれが悪いのだと愕然とし、これがわかるためにはどうすればよいのかきっとおれの知らない手法を学ばねばならんのだ哲学を知らねばならんのだ音楽を聴かねばならんのだ映画を観ねばならんのだ絵画を鑑賞せねばならんのだ外国語を嗜まねばならんのだ科学知識が必要なのだああなんとおれは未熟者であることか十年早いのだすみませんごめんなさい許してくださいしかしなにくそこいつだって人間ではないかデパートの布団売り場で朝まで寝ていたのではないかカステラの裁ち屑を食っていたのではないかキンタマを風呂の排水口に吸い込まれたのではないかなんの見ておれおまえの書くものくらいいつか理解してやるぞと闘志ばかり燃やしてはうだうだと時間を無駄遣いし、やっぱりああこの作品がおれにはさっぱりわからないおれがアホなのだおれの知能が低いのだおれが勉強不足なのだおれが悪いのだ……と繰り返していたものである、あなた、そうとちがいますか? マニアック万歳!
とはいうものの、実際問題として、生活がかかっている作家がそうそうマニアックなものばかり書いているわけにもいかないにちがいなく、現実は厳しいし天才の事例というのは凡人の参考にはならないものなのであるが、せめて客観的には天才でなくともおれの書くものはおれにしか書けないワン・アンド・オンリーのものなのだおれが書かねば誰にも書けないのだという矜持を捨てるな、まちがっても世間のやつらはみなアホやからアホに合わせて手の決まったぬるいぬるい駄菓子を与えておけばセンセセンセと奉ってもらえてベストセラーリストにも載るのだ長者番付にも載るのだパーティーにも出られるのだ資本主義社会に貢献できるのだなどと思ってはいかん、でも金はないよりはあったほうがいいに決まっているぞと筒井御大は後進を励ましていらっしゃるのであろう。
【3月5日(日)】
▼こないだ安売りしていたので買っておいたビデオ、Carpenters : Interpretations - A 25th Anniversary Celebration を観る。カナダ製の直輸入版で、一応海賊ビデオではなさそうだが、いかにもちゃちい作り。なんか、こんなのばっかり衝動買いしてるような気がする。たしか千九百八十円だった。カーペンターズはすでに結成三十周年を超えているから、五年以上むかしに出たものだ。
中身はそんなに悪くない。しかし、カーペンターズってのは、つくづくヴィジュアル媒体向きでないグループですなあ。はっきり言って、カレンはそれほど美人というわけでもなく、容姿に関するかぎりはどこにでも転がっているおねーちゃんだ。ただでさえそうなのだから、晩年のものなどとても観ていられない。病人だと素人目にもわかる。おれは、カレンがドラムを叩きながら唄っている初期の映像が好きなんだよ。ファンでない方はあまりご存じないようなのだが、カレン・カーペンターはもともとドラマーである。歌を唄わせたところが天賦の才能を発揮してしまったために、次第にリード・ヴォーカルとしてマイク一本で前に立つように仕向けられ、スター性を要求されるようになってしまったのだ。カレンからドラムを取り上げなければ、カーペンターズの歴史はいま少しちがったものになっていたかもしれない。こうしてカレンの映像を観ていると、カーペンターズの看板としてマイクを握っているときにも、とてもドラムを叩きたそうにしている様子が窺われる。なんだか手もち無沙汰な感じで、しきりとビートを刻んでいるのだ。歌手としてリズムを取っているというよりも、自分の身体やら舞台装置やらをおそらくは無意識にドラマーのつもりでチャカポコチャカポコ叩いている。
懐かしかったが、なんだか悪いものを観ちまった気もする。痛々しい。やはり、カーペンターズは音だけ聴くのがよろしい。
【3月4日(土)】
▼あっ、3月1日に書いた「不自然な視覚情報を与えるだけで平衡感覚は簡単に撹乱することができる」に絡んだ格好の例を思い出した。午前様あるいは朝帰りのときなど、止まったエスカレータを昇り降りした経験のある方は身に覚えがありましょう。意識の上でこのエスカレータは止まっているのだとわかっていても、身体が言うことを聞かない。足が空を切ったりつんのめったりして、うまく昇り降りできないのである。エスカレータのステップの縦縞模様も影響しているのだろうが、「エスカレータに乗っているときには、このような運動状態であるはずだ」と脳が学習してしまっていることによる混乱が大きな原因だろう。止まっているエスカレータなんて、べつにふつうの階段だ。なのに、カラダが混乱するのである。あれは面白いよね。エスカレータに擬態したふつうの階段を作ったら、さぞや愉快にちがいない。怪我人が続出する。たいていの人は、傷口から血が出てくる。ワインじゃなくて。あ、ネタが古すぎてわからんか。
▼〈SFマガジン〉4月臨時増刊号「SFが読みたい! 2000年版」をゆっくり読む。目立つ表紙だなあ。
『ベストSF座談会「SFはいま、なにを考えているのか?」[海外篇]』でのティプトリーに関する発言がおれには面白かった。ふつうに読めば誰もが感じているだろうことを、各発言者が異なる角度から表現しているため立体感があって、己の考えが那辺にあるのかを測るよい座標になるのだ。文字になった座談会ってのは、こういうところが便利である。大森望さんの言う「わたしのほんとうの居場所はここじゃない」というのも、牧眞司さんの言う「自分の中に自分じゃない衝動がある、だけどそれは自分だ」というのも、ティプトリーが本質的に抱える疎外感を表現するものとして、どの読者も感じていることだろうと思う。おれも感じている。この代表的なふたつの見かたをこうして並べてみると、どうもこれらは根底では同じことを言っているんじゃないかなあという気がする。“私”と“世界”とのあいだにある界面の、外側がひりひりするのが「わたしのほんとうの居場所はここじゃない」であり、内側がひりひりするのが「自分の中に自分じゃない衝動がある、だけどそれは自分だ」だということになろう。じゃあ、ほんとうの“私”なるものはいったいどこにあるのだ――ってあたりまで自己を相対化しちゃってるのがティプトリーのせつなく怖ろしいところだと思う。
むかしパソ通のフォーラムで書いたことがあるのだが、タマネギのようなセンザンコウがティプトリーだって感じがするんだな。センザンコウは外敵から身を守るために鱗状の鎧を纏っている。鱗を剥がしてゆけば、中から“ほんとうの”センザンコウが出てくるのかと思いきや、剥がせど剥がせど下から鱗が出てくる。とうとう、このセンザンコウは全部鱗でできていた――ってわけ。この“鱗を剥がす”行為は、すなわち自己相対化という作業にほかならない。これを極限までやれば、必然的に自己はバラバラになってしまうのだ。自分というセンザンコウを剥いていったら、とうとう鱗しか出てこなかったことに気づく怖ろしさ。ティプトリーは、鱗剥きの行き着く先を見てしまった人なんだとおれは思うのね。いや、それを見てしまって、いわゆる“人間”でい続けられるものかどうか……。自己相対化に挑む精神は、自分の中に自分じゃないものを必ず見つける。さらにその由来を追ってみると、ほんとうの居場所じゃないはずの“この世界”の一部が自己を形成する不可欠な成分として忍び込んでいたのを見つけることになる。この驚きと絶望は、社会化の過程で自己の中に“男社会”の忌々しい成分が内在化されていることに気づくフェミニストたちも共有するものなのだろう。だから、ティプトリーは取り立ててフェミニズムSFを謳うわけでもないのに、フェミニストの関心の的になるのではないかと、おれは思っている。フェミニズムが核にあるわけではないのだが、ワン・アンド・オンリーの己のSFを書いていたらフェミニズムを包含してしまっていたとでも言おうか。
「わたしのほんとうの居場所はここじゃない」と「自分の中に自分じゃない衝動がある、だけどそれは自分だ」との、どちらにウェイトを置いてティプトリーを読むかで解釈に豊かなスペクトルが生じるのも、ティプトリーの面白いところだ。また、「わたしのほんとうの居場所はここじゃない」んだけど、「自分がいるべき場所がどこかにほんとうにあると思っている」と読むのか、「そんな場所はどこにもないと知りつつ、それでも焦がれている」と読むのかという問題もある。以前、伊藤典夫氏のご意見を直接お伺いする機会があり、この疑問をぶつけてみたところ、前者だと本気で信じていた可能性が非常に高いというお考えだった。テクストとデータとを前に虚心坦懐に読めばそうなのかもしれないとおれも思うのだが、どうしようもなく後者だと思いたい気持ちがおれには捨て切れないんだなあ。前者だとしても後者だとしても、とてもせつない。このせつなさがたまらんのですよ。SFだのフェミニズムだのといったものを超えた普遍的せつなさだ。なに、読んだことないって? ええよぉ〜。読みましょう。
ちなみに、おれが〈SFマガジン〉の「マイ・ベスト5」に、今回ティプトリーやディックを入れなかったのは、嶋田洋一氏や中村融氏と同じ理由によるものである。ほかに推したいものが見当たらない年ならいざ知らず、功なり名遂げた別格を入れることで、いわゆる“活きのいい”作品の順位が下がってしまうのも忍びない。でも、率直にいいものを推すというスタンスも重要であると思うしなあ。ふらふらしている未熟者のおれは、いつも悩みに悩むのよ、このあたり。ほっといても買う人は買うんとちゃいますのん、ディックとティプトリーは?
【3月3日(金)】
▼おれがヘンな占いや“診断もの”の情報源にしているヒラノマドカさんの日記(いや、そりゃ本の感想も読んでますけど)「ざぼんの皮」(2000年3月2日付)に、「死に様占い」ってのが紹介されていた。おれは占いなるものをまったく信じないが、面白そうだとついやってしまう。こういう結果だ――
死亡した状況:有名になりたいと思ったあなたは、得意だったスポーツの分野で偉業を成すことにする。世界初、62段の跳び箱を飛び越えるも、着地に失敗。頭から着地して、首の骨を折る。
死因:頚椎骨折
死因の種類:不慮の外因死
死亡した場所:陸上競技場
あなたの死に様は、 残念ながらCランク
なんじゃこれは。スポーツと名のつくものを最後にやったのはいつだったか憶えてもいないおれがこのような状況で死ぬことはまずあり得ないが、象徴的な表現として捉えれば、案外似たような状況で死にそうな気はする。「62段の跳び箱」ってのは、最初に入力を求められる生年を使ったのだろうな。“62年”と入れたときから、早くも悪い予感はしていたのだ。ええ、どうせ昭和三十七年ですとも虞犯者集団ですともSFファンですとも。
▼会社の帰りに小腹が空いたので、マクドナルドに入る。この書き出しをいままで何回使ったであろうか。チーズバーガーとコーラのMで、驚くべきことに二百六十二円だ。そう、今日は平日だ、チーズバーガーは半額だ。嬉しいねえ。チーズバーガーを三個に増やしたとしても四百三十円ではないか。ちょうど駅にあることだし、いっそのこと毎日マクドナルドで晩飯をすませてやろうかとすら思うが、チーズバーガーばかり食っていたのではいくらなんでも身体に悪そうだ。ポテトもつけたほうがいいにちがいない。とすると五百円を超えてしまうことになり、おトク感が激減する。おのれマクドナルドめ、うまく考えたな。性格が悪いのではないか。SF作家にも、イアン・マクドナルドという、いかにも性格が悪そうなものを書く男がいるからな。やたらうまいので、なおさら性格が悪そうに思える。
なにもこの日記を無理やりSFの話にすることもないと気づき、とにかくチーズバーガーを食う。トレイに敷いてある紙をついつい読んでしまう。どこぞの女子短大の広告である。「めざせ! 21世紀のカリスマガール」って、あのなー、カリスマというのは“めざし”てなったりできるものなのか? どういう言語感覚だろう。これが大学の広告なのだから、どんな教育をしてくれるものか、推して知るべしだ。まあ、最近では意味が軽〜く軽くなっちゃってるのは、いくら若者言葉に弱いおれでも知ってますよ。石を投げればカリスマに当たるらしい。“カリスマ的存在”くらいなら、実際にはカリスマを感じなくても、それほど妙な言葉遣いだとは思えないのだが……。昨今濫造されているカリスマは、“カリスマ風存在”とでも呼べばちょうどいいのかもしれない。
【3月2日(木)】
▼体調が悪いので、ひさびさにゆっくりと風呂に入る。“ひさびさに”は“ゆっくりと”にかかるのであって、風呂に入るのがひさびさなのではない。また、ふだんは浴室の扉を目にも止まらぬ速さで開けるや中に駆け込み矢のように浴槽に飛び込んでいるという意味でもない。日本語は難しい。
で、ゆっくり入っていると、手の指先の腹がしわしわになってくる。皮膚が水分を吸ってこうなるのだろう。ゆっくり入っていればいいものを、ここでまた余計なことを考える。このしわしわは、いつも同じ模様になるのであろうか? 皮膚の表面積が増えたぶんを文字どおり“皺寄せ”するためにしわしわができるはずだが、とすると、応力に負けて皺ができる部分には癖がありそうな気がするではないか。ふだんの指の使いかたによって変わってくるのだろうか。指紋も関係あるかもしれないな。そうだ、皺が寄った状態を撮影しておき、次回またゆっくり風呂に入ったときに比べてみればいいのだ。デジタルカメラでもあれば手軽でいいのだが、あいにく持っていない。気になる人はやってごらんになってはどうか? 毎回ちがったらちがったで面白いし、同じなら同じで面白い。ピアニストやタイピストなど特殊な指の使いかたをする人では、それとわかるパターンが出現するのかもしれない。風呂に入った人の指のしわしわを見て職業を当てる名探偵――なんてものがすでにいるのかどうかおれは知らないが、いてもいいかも。
などとくだらんことを考えながら風呂に入るのは、はたしてゆっくり入っていることになるのか、ちっとも頭の休養になっていないのか、それを考え出すとますますリラックスした状態から遠のくような気もする。こういうことが気になるのは、なにかの病気なのであろうか。
まあ、そんなことはどうでもよろしい、と、湯舟の中で揺れる腕の毛を見ていると、くだらない思考は昨日書いた人体の加速度感知機構のほうに流れてゆく。ああいう耳石系みたいな仕組みは、むかーしむかしおれたちのご先祖様が海底や潮だまりなどで波に揺られていたころに作り出したであろう水の動きを感知する構造の設計図がおれたちの遺伝情報の中にも受け継がれていて、それをこれ幸いと加速度の感知に利用しているのかもしれないなあなどと、SF的なことを考える。ひょっとすると当たっているのやもしれんが、なんの確証もない。環境と能力とに恵まれた人々が、いつか解明してくれるだろう。
さらにアホな思考は勝手に進む。耳石系の設計思想が太古の偶然の産物だとすれば(おれたちの指が五本ずつあるのは、のっぴきならぬ事情に裏打ちされた必然だとは考えられていないという)、まったく異なった条件で進化を遂げた生物たちには、おれたちのとはまるでちがった加速度感知機構が備わっていてもよかろう。耳石系のような仕組みは、いかにも水の中で進化した生きものが作ったって感じがする。「いかにもソニーが作りそうな……」とか「いかにもトヨタっぽい……」とかいうのにも似た漠然とした印象である。たとえば、濃密なガスの中に浮かんで高度な進化を遂げた生物なら、体表に加わるガスの圧力で加速度を感知するかもしれない。磁場の中に浮かんで進化したやつらは、体内の導体に流れる電流を測定して己の運動状態を知るようになっているかもしれない。
地球の生物が、一部のバクテリアを除き、回転する部分構造を進化させなかったことの不思議は、よく話題になるところである。SFファンの方は、車輪生物が進化した惑星を描く名作「ハイウェイ惑星」(石原藤夫)や、小松左京の『はみだし生物学』(「オンデマンド版小松左京全集」で買えるようになったよ!)の中の考察などを連想なさるだろう。むろん栄養供給やガス交換の問題が第一の障害として考えられるのだが、これは必ずしも克服できない障害ではなかろう。まさに耳石系などは、“石”という“死んだ部品”を不可欠のものとして利用しているではないか。石を適切な形にあつらえて、それを利用する生体組織があるのなら、石を回転させてなんの不都合があろうか。摩擦熱の廃熱や摩耗が問題になるが、摩擦熱はまさにそれを利用することだってできようし、摩耗するのなら、サメの歯のように次々といくらでも予備が形成される仕組みだって悪くはなかろう。まあ、いろんな問題を克服して、回転する部分構造をあたりまえのように採用している生物がどこかにいたとしようや。彼らの加速度を感知する組織、というか、姿勢を制御する仕組みは、もしかするとジャイロになっているかもしれないぞ。
などと考えているうち、のぼせて目が回ってきたので風呂から上がる。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
四月十日発売予定の本のプルーフ版である。ということは、『エクスペリメント』(ジョン・ダーントン、嶋田洋一訳、ソニー・マガジンズ) と同じ日に出るのか。ソニー・マガジンズはSFに気合い入ってますね。
シンクロニシティとでも申しましょうか、じつはいま仕事上の必要があって『ブラッド・ミュージック』(グレッグ・ベア、小川隆訳、ハヤカワ文庫SF)を再読している最中だったのである。SFファンの方はご存じでありましょうが、当時“八十年代の『幼年期の終わり』”と称された名作だ。いま読んでも、むちゃくちゃ面白い。そこへ飛び込んできた『ダーウィンの使者』の惹句には、「進化の次なる段階 それは人類という種の終焉!」とある。『ブラッド・ミュージック』の惹句にもそのまま使えそうではあるが、ベアがわざわざ同じような話を書くとは思えない。「名作『ブラッド・ミュージック』をも凌ぐ新たなる人類進化のヴィジョン」とも惹句にある。惹句だけでもこうなのだから、ベティがいたらどれほどすごいことか、などと古典ネタをかましている場合ではなさそうだ。なんでも、ネアンデルタール人のミイラが発見されて、そいつはホモ・サピエンスの子を宿していたのだそうである。時を同じくして、性交渉によって感染する奇病が世界に広がるそうなのである。それは確実に流産を引き起こす怖ろしい病気なのだそうである。そんなこんなの背後には、ヒトゲノムに隠されたあるレトロウィルスが存在が……ということなのだそうである。おお、こりゃ面白そうだ。なにしろベアだからね。毎年、春ごろになると、ベアベアと必ず新聞を賑わすほどの作家だ。さっきから基本ネタばっかりやってますな。
それにしても、「巨匠グレッグ・ベアが、マイクル・クライトンのストーリーテリングと、アーサー・C・クラークの科学的思弁をもって描きだす」とあるのでありますが、ソニー・マガジンズさんは梅原克文氏になにか言いたいことでもあるのでありましょうか(「小説家:青山智樹の仕事部屋」の2000年2月19日付「近況」と、同サイト「梅原克文の言いたい放題」参照のこと)。これもシンクロニシティだよなあ。
【3月1日(水)】
▼1999年1月31日の日記で、「人間は左右方向の加速に対しては相当に鈍感なのではあるまいか」と、おれの主観的な思いつきを書いたところ、辻健太郎さんからある仮説が寄せられた。「内耳にある加速度に対する感覚器の構造によるもの」ではないかというのである。つまり、「センサーの役目をする感覚毛が横向きに生えているため、横Gに対しては毛のたわむ度合いが小さく、結果として感覚が鈍くなってしまう」のではあるまいか、と。感覚毛が横向きに生えているのかどうかは辻さんにも確たる知識はないとのことなのだが、なるほど、ありそうな話ではある。おれも耳の中のことをそんなに詳しくは知らない。そこでインターネットで情報を漁ってみた。
まずは、九州大学医学部耳鼻咽喉科の「ばーちゃる耳鼻咽喉科 検査ページ」にある「平衡機能検査」の項に、人間の平衡感覚についての平易な説明を見つけた。これによれば、加速度を感じる内耳の前庭には耳石系と三半規管系があり、水平方向・垂直方向の加速度を耳石系が、角加速度を三半規管系が感じるとある。辻さんのおっしゃるのは、耳石のほうだろう。おれの記憶が正しければ、たしかこいつは液体に浸した歯ブラシみたいに生えている柔らかい感覚毛一本一本の上に砂粒が乗っかっているような構造の感覚器である。ぐいっと頭が水平方向に加速されると、ちょうど屋上に錘を乗せた制震構造のビルのように、慣性のため砂粒の動きには頭(毛の根もと)の動きに対して遅延が生じ、それが毛に与える刺激が加速度として感知されるのだ。
じゃあ、頭に対して垂直方向の加速はどうなるんだろうと素朴な疑問が湧いたのだが、「宇宙飛行士を悩ませる宇宙酔い」というページにさらに詳しく書いてあった。「耳石器官には石が縦になった球形嚢と石が横になった卵形嚢があり,立位姿勢のときは球形嚢が,臥位では卵形嚢が重力方向を検出すると考えられています.もちろん重力だけでなく,頭の直線的な動き(直線加速度)も検出します」ってことらしい。地球上で立ったり横たわったりすることを例に挙げているから、わざわざ重力なんて言葉を使っていてややこしいが、ご存じのように物理屋さんたちは重力と加速度とを(いまのところは)まったく同じものと考えて世界を解釈しているゆえ、要するに、頭に加わる加速度の水平方向・垂直方向の成分の検出をそれぞれ担当する耳石系があるということですな。「検出すると考えられています」という支配的解釈が正しいとすれば、斜め方向の加速は、球形嚢と卵形嚢とがそれぞれ検出した加速の成分をベクトル演算(といってもデジタルなプロセスではないにちがいないが)して弾き出しているのだろう。基本的には石の慣性を利用したセンサーなのだから、たとえ無重量状態であっても、慣れないうちこそ情報処理系が混乱するかもしれないが、仕様上は宇宙空間でも使えるということになる。じつにまあ、よくできてるもんだ。あのホンダの二足歩行ロボットなども、おれは中身のことはまったく知らないけど、原理的には同じようなセンサーを内部に持って姿勢制御に役立てているにちがいない。
さて、当初の思いつきの話に戻るが、辻さんの仮説が正しいのかどうかは、おれにはまだ十分調べられていない。しかし、高度な情報処理機構を持った生物の感覚が、センサーの器質的な構造や性能のみで大きく左右されるとは、どうも思えない。学習によって小脳や大脳が発達させた後天的な情報処理回路に負うところも非常に大きいだろう。たとえば、遠近感ひとつとっても、左右の眼球の輻輳角(どのくらい“寄り目”にしているか)や水晶体の厚さを制御する筋肉群からのフィードバック信号というメカニカルな刺激に加えて、「遠くのものは小さく見える」とか「複数の物体が重なって見えている場合、輪郭が切れていないほうが近くにあるはずだ」とか「自分が上下左右に動きながら見ている場合、視野の中でより大幅に動く物体は近くにあるはずだ」とか、さまざまなロジカルな要素も中枢神経系は併せて学習しており、それらを総合的に判断しているわけである。加速度だって、同じようなものだろう。もし、おれの憶測どおり、人間は左右方向の加速に対しては相当に鈍感なのであったとしても、その鈍感さは非常に状況依存的なものなのではなかろうかと思う。遊園地にある“ビックリハウス”みたいに、不自然な視覚情報を与えるだけで平衡感覚は簡単に撹乱することができる。
あ、むかし堀晃の『バビロニア・ウェーブ』(徳間書店)を読んでいて唸った箇所を思い出したぞ。スペース・コロニーで生まれ育った主人公が、ある条件で“酔う”シーンだ。彼が参加したある会議では、地球育ちの参加者もいるために、会議室を回転させて擬似的な重力(遠心力)を作り出していたのだが、会議中のプレゼンテーションで室内に星空が映し出されたとき、彼は気分が悪くなってしまうのである。なぜなら、身体に重力がかかっている状態で静止した星空を見るなどという状況は、宇宙育ちの彼にとってきわめて馴染みのないものだったからだ。加速中の宇宙船から外を見てでもいないかぎり、そんな状況は彼の“身体”には“考えられない”。つまり、彼の脳には、床へ向かって引っ張る力を感じながら止まった星空を見ている状態は、上に向かってぐんぐん加速されている状態として認識されてしまうのである。これはうまいなーと思ったね。なんというか、等身大の日常と宇宙とが同一フレーム内に絶妙にブレンドされた、SFの醍醐味の見本みたいな描写だ。
おっと、あまりSFにばかり走ってはいけない。そういうわけで、加速感覚もセンサー部分だけを見るわけにもいかないだろうと思うのだ。もっとも、おれには辻さんのご推察が正しいかどうか判断するだけの知識がないので、今後も頭の隅にこの疑問を置いておいて、情報が網にかかるのを待つことにしよう。
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