間歇日記

世界Aの始末書


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2000年7月中旬

【7月20日(木)】
▼暑さのせいか、はなはだ体調悪し。箪笥の上のぬらりひょんも、なんだか元気がない(元気そうだったら、それはそれで不気味であるが……)。そこへ、「bk1」ができる前に「ネットダイレクト 旭屋書店」に注文していた『山尾悠子作品集成』(山尾悠子、国書刊行会)が届く。最近、ジュンク堂大阪本店のようなでかい本屋をゆっくり嘗めてまわる暇がないので、なんでもかんでもネットで買うようになってしまっている。物理的本屋を見てまわるのは好きだし、手に取ったときの本のオーラみたいなものに惹かれて買うという感覚は大事にしなくてはならないと思うのだが、ネット書店が圧倒的に便利なのだからしかたがない。おれが物理的書店が好きなのは、本の顔と触感が味わえるからであって、特定の立地条件の本屋がどういう品揃えをしていて、そこではどういう本が売れているかなどは、ほとんど興味の埒外にある。おれはすべてにおいてはなはだ小乗的(などと言うと、一部の仏教徒の人に叱られるのだろうが)である。他人がどう思っているかなどという些事には、社会生活に支障を来たしかねないほどに無関心である。自分が自分なりにどう納得できるかにしか興味がない。世間のマジョリティー(そもそも、そんなものがあるのか?)とやらが、どういう本をもてはやしているか、どういう本が売れているかになど、新聞の天気予報ほどにも注意を払わない。おれにとって大事なのは、おれ自身の感性だけだ。それを他人に伝えようとするとある程度の知性が必要になるが、べつに感性だけで閉じてしまったって、個人的にはまったく問題はない。おれをよく知らない人は冗談だと思うらしいのだが、おれは主観的には感性第一で生きていて、えも言われぬ己の直感を最も優先する思考をする。他人とコミュニケートするためにしかたなくあーでもないこーでもないと理屈を考えているだけなのだ。だから、自分が言語化できていないことを他人がみごとに言語化しているのに出会うと、もう、無性に嬉しくなってしまうのである。だが、言語が感性に響いてこないと、いくら論理的であっても、それはただそれだけのゲームのようなものにしか見えない。
 それはともかく、『山尾悠子作品集成』の腰巻を見て、一瞬とまどう――「二千年の眠りから目覚める幻の作品群」
 はて、山尾悠子ってそんなに歳食ってたっけとよくよく見ると、「二十年の眠りから目覚める幻の作品群」であった。そうだよなあ、「DASACON3」で遠くからお見かけしたぶんには、小便臭くなくおばはん臭くなく、じつに楚々とした美しさを湛えていらっしゃったもんなあ。でも、この腰巻、やっぱり“二千年”でもよかったかも。あの高貴な雰囲気は時間を超越してましたよ、ほんとに。
 さて、こいつを電車の中で片手でページを繰りながら読むわけにはいかん。じつに上品な体裁の、さりげない魔術書かなにかのような本である。週末に美酒(焼酎かビールだけど)を傾けながら、ちびちびと読み進むことにしよう。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『隠し部屋を査察して』
(エリック・マコーマック、増田まもる訳、東京創元社)

 おやおやっ。これはSFではないぞ。だが、おれのところに送ってきてくださったということは、手配してくださった方がいかにもおれが好みそうだと判断なさったのだろうか。腰巻を見る。『「語り」の快楽、「騙り」の驚愕。 カナダ文学の奇才が演じる物語の“はなれわざ”20篇』――な、なるほど、これは「いかにもおれが好きそうだ」とおれ自身ですら思う。おれは短篇が好きだ。騙すのも騙されるのも好きだ。人を食ったものが好きだ。奇才が好きだ。わくわくわくわく。ジョン・スラデックのようなサキのようなロアルド・ダールのような筒井康隆のようなものであるのだろうか。ひょっとしたら、トマス・ピンチョンの短篇みたいなものであるような匂いもそこはかとなくする。ああ、そうか、『パラダイス・モーテル』(増田まもる訳、東京創元社)を書いた人だったか、といっても、不勉強にもおれはまだ読んだことがない。人の書評を読み、はあ、クリストファー・エリクソン、じぇねーや、スティーヴ・エリクソンみたいな感じかいなぁ〜と興味を覚えた記憶があるだけだ。これはもう、なんと申しましょうか、本の面(つら)と触感とが、おれを差し招いているかのような気がする。楽しみに読ませていただきます。

【7月19日(水)】
▼会社のそばの銀行に二千円札をもらいにいこうかと思ったが、おれは人ごみと行列が大嫌いなので、アホらしくなってやめる。こういうものは、自然に回ってくるのを待つほうが風情があってよいのではないか。そういえば、前回紙幣のデザインが変わったときには、婆さんはまだ生きていたよなと、妙な感慨に耽る。
 しかし、だ。二千円札があまり回ってくると、いまのところ迷惑以外のなにものでもないような気がする。とくにおれのようなライフスタイルの者には迷惑だ。自動販売機を多用するからである。自動販売機にはかなり愛着があり、「自動販売機」などというバカな小説を書いてみたことがあるくらいだ。これから暑くなる。ますます自動販売機を使うことが増える。外を歩いていて喉がカラカラになり、眼前にオアシスのように自動販売機が現れたとしよう。誘拐犯が身代金を確認でもするかのように財布を開いたら、二千円札がぎっしりと……などという事態はあまり想像したくない。

【7月18日(火)】
先日ご紹介したサイト「ブック・レビュー・ガイド 本の評判」に関して、郡悦郎さんから詳しいデータがさらに届いた。株式会社エビデというところが運営していて、現在対象になっている調査媒体は、雑誌が約二百誌(今月から来月にかけて、さらに十〜二十誌増やす予定だそうだ)、新聞が九紙、月間の取扱いデータ件数は、約五千五百だということである。むろん、これだけのサイトが出版社の協力なしにできるわけがなく、現在、約百八十の出版社の協力を得ているという。
 「作家の方は、ご自分の本がどんな媒体で取り上げられたか、一度、調べてみてください」などと書いておきながら、よく考えたら、おれ自身がデータベースに入っているのかどうか調べていなかった。評者の名前でも検索できるのだ。やってみると、一件出てきたのではなはだ驚いた。〈SFマガジン〉2000年5月号掲載の『月の裏側』(恩田陸、幻冬舎)評だ。べつに驚くことはないんだけれども、主観的には驚きなのである。紙媒体ではたまにしか仕事をしないからだ。公開データベースなどというものにおれの名前が入っているのは初めての体験なので、なんだか気色が悪い。手前のペンネームがそこいらで売っている雑誌や本に出たりすることもあるといった事態に、まだおれは慣れてしまうことができない。なにかのまちがいではないかという非現実感が常につきまとっているのである。だからといって、誰だ、そこで「なにかのまちがいだ」と言っているやつは。まあ、なんの世界でも同様のなにかのまちがいは非常にしばしば観測されるから、おれの場合のなにかのまちがいがそれほど目立つことはあるまい。

【7月17日(月)】
▼近所にヘンなものがあるのに昨日気づいた(この日記ではよく使う手だ)。バスの窓から外を見ていたら、“パーティ・ドラッグ”なる看板が目に飛び込んできたのである。げげげ、これはもしかしたらそーゆー用途に供するナニなアレを堂々と売っている店であろうか、まあ、ここいらへんであればそーゆー店が絶対にないとは言えまい――と、少し驚いてよく見ると、それは“ハーティ・ドラッグ”なのであった。
 hearty drug のつもりだろうか。どんなドラッグじゃろう? たぶん、この drugstore が“心のこもった”売りかたをしてくれるという意味で言っているのだろうが、それでもなんだか妙な感じがする。hearty ってそんなふうに使うか? たとえば、welcome だとか care だとか support だとかの“対応”が hearty だったりはするだろうが、“店”だの“人間”だのをそういう意味で形容したりはせんと思うのだが……。“人間”が hearty だなどと言われると、hale and hearty みたいに、爺婆が矍鑠としていたり病人が思ったより元気だったりという感じになるだろう。おれの語感がおかしいのかもしれんけれども、こういうときにどうもヘンな感じを受けるってのは、無意識に蓄積されているシチュエーションに言葉がそぐわないという警告信号が脳のバックグラウンド処理から発せられているからだろうと思う。「この場所には以前に来たことがあるが、どうもこんな景色じゃなかったように思うんだよなあ」みたいな、きわめてアナログな違和感とでも言おうか。
 さっきの老人や病人の例で言うと、up and about だったら、(こないだまで病気や怪我で寝ていたが)もうかなり回復して日常生活に支障がなくなっているといった感じで、これは老人には使わん(老人がしょっちゅう伏せっているなら使うかもしれんが)。alive and kicking だったら、病人や怪我人なら“すっかり回復してピンシャンしている”、あるいは、老人なら“(もう少しおとなしくしてくれてもいいくらいに)矍鑠としている”、あるいは、老人でも病人でもなかったら、“(生気があり余っていると感じさせるほどに)やたら元気である”くらいの感じになるだろうと思う。要するに、病人にも老人にも若くて健康な人にも使えるが、“形容される主体が通常期待されている以上の過剰を抱えているさま”を表現したいわけだから、病人なら“回復の度合”が強調され、老人なら“若さ”が強調され、若くて健康な人なら“元気溌剌の度合”が強調されるいった効果の差が生じ、シチュエーションで微妙にニュアンスが変わることになろう。老人や病人の場合は hale and hearty で代替可能だと思うが、若くて健康な人には hale and hearty はおかしい……といった“感じ”から逸脱する使いかたをされると、「おや?」という“感じ”がする。でもこれはあくまで“感じ”なのであって、こうやって無理やり言葉で説明しようとすると一応説明はできるが、必ずこのルールどおりに使うか、天皇陛下が決めたんか、国会で青島幸男が決めたのかと詰め寄られると、「まあ、例外もあるんちゃう?」としか言いようがない。だから、どこまでも“感じ”なのである。
 言葉というのは、なにしろ世界を無理やり切り取るわけだから、本質的にデジタルなものであるはずなのだが、それによって受け手の中に生じる“感じ”は、きわめてアナログなものである。デジタルなものでアナログなものを操作しているわけだ。その非効率的な行為(といっても、ほかにどうしろというのだ?)が生む“ずれ”が面白いといえば面白い。だからまあ、hearty drug にもそれなりの味わいというものがあっていいかもしれない。
▼今日は、街で見かけたヘンなものが続く。もっとも、こっちはそれ自体ヘンじゃないのだが、見るほうの都合で勝手にヘンに見えるのである。電車の壁に貼ってあった広告を、なんの気なしに見る――「スーパーハイデッカーで行く 東京ディズニーリゾートへの旅」
 なにやら、東京ディズニーリゾートで存在と時間に思いを馳せねばならないみたいで肩が凝る。凝りませんかそうですか。

【7月16日(日)】
▼どうも喜多哲士さんにすっかり行動パターンを読まれているような気がする今日このごろ、みなさまいかがお過ごしでいらっしゃいましょうか。
 そうか、喜多さんは「牛鬼」「ぬっぺっぽう」をお求めであったかー。もちろん、いま話題騒然の(喜多さんとおれ以外に話題にしている人は知らんが)「百鬼夜行 妖怪コレクション」フルタ製菓)の話である。じつはおれも「ぬらりひょん」にしようか「ぬっぺっぽう」にしようか迷ったのだが、やはり「ぬらりひょん」という語感に勝てず(どういう理由だ)、そちらになびいたのであった。それにしても、どうでもいいが、「ぬらりひょん」って、ただの爺いではないか。ただの爺いではないかと思いつつ買い、ただの爺いではないかと思いつつ組み立て、できあがりをしみじみ眺めて、やっぱりただの爺いではないかと思っていたら、多田克巳の解説にまで「“ぬらりひょん”はちょっと見ただけではただのお爺さんにしか見えない」と書いてあり、おれは膝を打った。「さては“ぬらりひょん”とは、ただの爺いであったか」 妖怪研究家がそう言うのだから、ただの爺いなんだろう。よーし、次は「ぬっぺっぽう」を買おう。これは見るからに妖怪だ。ただの爺いなんてことはない。でも、よーく見るとなんだか大人のおもちゃみたいである。いや、冗談抜きで、妖怪の造形があそこいらへんと関係があっても、さほど不思議ではなかろう。むかしの人の素朴な感性は、ああいう造形に生命の不思議さとゆーか神通力とゆーかそーゆーものを見たのではあるまいか。若いころに比べるとあきらかに神通力が弱ってきているような気がするがまあそれはこの際あまり追究すべき問題ではあるまい。
 ともあれ、「百鬼夜行 妖怪コレクション」の評判が、実際のところいかばかりであるかはわからないのだが、たしかによくできている。リアルだ。リアルだっつっても、おれはぬらりひょんを見たことがないのでどのくらいリアルなものか判定できないけれども、リアルだとしか言いようがない。このコレクション、第二期が出るとすれば、「垢嘗め」「小豆荒い」はなんとしても入れてほしいな。
 突然だが、じつはおれは「一反木綿」が好きである。『ゲゲゲの鬼太郎』に出てくる妖怪では、いちばん好きであった。子供のころ、よく一反木綿の絵ばかり描いていた。あんなもの、ぬりかべと同じくらい描き易かろうとお思いになるでしょうが、とんでもない。ぬりかべはまだ描き易いが、一反木綿はたいへん難しい。妖怪お絵描きは、一反木綿にはじまって一反木綿に終わると言われている(おれだけに言われている)くらいだ。なにが難しいといって、尻尾(?)のほうがきわめて難しい。水木しげるが描くような妖しい感じにどうしてもならないのである。ふつうの人が一反木綿を描くと、ただのペナント生八橋のようなものになってしまう。一度、ナンシー関「記憶スケッチアカデミー」で取り上げてみてほしいものだ。もう取り上げてるのかな?
▼バタバタと雑用を片づけているうちに、一日が終わってしまう。仕事ができん。皆既月食も見逃した。世の中で起こっていることがさっぱりわからない。まあ、世の中で起こっていることは、いつもさっぱりわからないのだが……。

【7月15日(土)】
▼またまたトマトジュースを飲む。いったいどうしたのだろう。たしかに子供のころからトマトジュースは嫌いではなかったが、このところ病的に飲みたくなってしまう。だけど、トマトジュースを大きなペットボトル一本(900g)飲むと、渇きが癒されるというよりは、どってりと腹が膨れるね。トマトジュースを“食べる”と言ったほうがいいのではないか。
▼こないだ買ってきた『二階堂黎人が選ぶ! 手塚治虫ミステリー傑作集』(手塚治虫、ちくま文庫)をちびちび読んでいる。一度に読むのがもったいないのだ。
 たしか木曜日だったかと思うが、「おや、こんなのが出ているぞ。文庫オリジナルだな」とさっそく買って喫茶店に入り、小腹が空いていたのでホットドッグとホットコーヒーを注文し(こういう場合、ハムエッグを注文するのが正しい手塚ファンなのだろうが、その店にはなかったのだ)一篇めを読んでいると、ウェイトレスがコーヒーを運んできた。いつものように砂糖をスプーン一杯入れ、あのちっこいバケツみたいな容器で出てくるミルクをいつものように入れようとしたおれの手が空中で止まった。「ここは大阪やな……」
 砂糖だけのコーヒーを飲みながら、雪印の罪は大きいなあと実感したことであった。

【7月14日(金)】
「bk1」から、最初の本が送られてくる。あちこちで話題になっている『猫の地球儀 焔の章』(秋山瑞人、電撃文庫)だ。送料タダで文句は言えないが、ちょっと包装が貧弱かも。べつに海を渡ってくるわけではないから、amazon.com みたいに包装と格闘しなければならないほどにする必要はないと思うが、宅急便ってけっこう荒っぽいからね。『猫の地球儀 その2』も併せて注文したのだが、どうやら別々に送ってくれるらしい。送料無料の期間だから、そりゃあ入荷次第バラバラで送ってくれるほうがいいんだけど、送料を取られるようになったら、当然、amazon.com みたいに一括か分納か選べるようになるんだろうな。どうも、ついつい「amazon.com みたいに」ってのを連発してしまうが、あのサイトとあのサービスを一度経験してしまうと、どうしてもアレを基準にものを考えてしまうのだ。
 楽しみにしていた“特製ブックカバー”は、なかなかいい。手ざわりがいい。なんかこう、眼鏡が拭けそうである。ネックストラップを使うことはほとんどないだろうけど、野外に出たりするときには案外便利なのかもしれない。カバーで文庫本を包み込むようにしてマジックテープで留められるようになっているけれども、開放されている折り返しのテープの位置は、もう少し折り返しの深いところにつけたほうがよかっただろう。最近の文庫本は厚いからだ。四百ページを超えるような文庫本だと、包み込んで留めようとするとマジックテープが折れてしまうので、うまく留まらないのだ。これでは早晩マジックテープが取れてしまうんじゃないかと思って裏を見ると、一応、テープはカバーに縫いつけてあった。これならかなり保ちそうだ。でも、いつかは取れちゃうだろうな。まあ、べつにマジックテープがなくたって、ふつうのブックカバーとして長く使えそうだからいいんだけど。
 電車の中で吊り革にぶらさがりながらこのカバーをつけた本を読めば、前の座席に座っている人はおれの手元を見上げて、否が応でもURLを憶えてしまうにちがいない。いや、ネット環境を携帯している人なら、「おっ、そうだそうだ」その場で本を買いはじめるかもしれん。そんなやつはおらんやろぉってか? いやいや、おれは本気で言っているのだぞ。そういう時代が、もう目の前なのだ。ケータイのカラー画面に書影が出てくるとかね。
 そのうち、ネットをメインに活動するもの書きは、原稿料やギャラではなく、“投げ銭”をしてもらうという本来の形になるのかもしれない。つまり、おれたちの精神的なご先祖様であるところの“河原者”“大道芸人”に正しく戻れるというわけだ。あるいは、渡部昇一がかつて(青島幸男のような人間のいる)参議院を「道化(フール)の府」と呼んだ意味での“道化”かな(この一件に関しては、渡部昇一はじつに的確な表現をしたものだとおれは思う。でも、まさか青島幸男が東京都知事になる時代がそのうちやってくるとは、渡部昇一などには夢想の埒外ですらあったろうけどね)。参議院議員が宮廷に飼われている道化なのだとすれば、ネットもの書きはフリーの道化ということになろう。それこそ、おれがかくありたいと望む姿だ。
▼帰宅が遅くなり、深夜のコンビニをうろついていると、まーたまた玩具菓子に目が留まった。「百鬼夜行 妖怪コレクション」フルタ製菓)というやつだ。おれは特撮メカや特撮ヒーローほどには妖怪には燃えないのだが、ラインナップがなかなか渋いので試しに(なんの試しだ?)「牛鬼(うしおに)」「ぬらりひょん」とを買ってみる。「注 この商品は御祓い済です。」などと書いてある洒落っ気が気に入った。いったい工場のどこでお祓いをしているのだろう? きちんとお祓いをしないと、黄色ブドウ球菌が増殖したりするのかもしれん。
 帰って遅い晩飯を食い、煙草を吸いながら「牛鬼」を組み立てる。竹谷隆之によるなかなか禍々しい造形だ。パッケージに入っていた妖怪研究家・多田克巳の解説をなんの気なしに読みはじめたおれは、狂ったように笑い転げた。笑った笑った笑った、数分間笑った。あまりに面白いので、ウェブサイトでも公開されていることだから、引用してみよう。

 牛鬼はただの怪獣ではなく、人間のように知恵があり、美女に化けて人を油断させて、いきなり怪獣の姿にもどって襲ってくる。ただし水面に写る姿は牛鬼のままなので、その正体を見破ることもできる。
 もし牛鬼を退治しようとすると牛鬼に恨まれて必ず復讐される。執念深くて、狙われた人は逃げられないという。人を殺す残忍な妖怪だが、もしケガなどしてそこを人間に助けてもらうことでもあれば、その人に恩返しするともいわれる。

 え? なにがそんなに面白いのかって? うーむ、わかる人にはわかるんですけども、わからない人にはわからなくて幸いですねと申し上げるほかないのである。そうですなあ、「こだまのあとだま」という妖怪を研究しているサイトがあるので、そのあたりから丹念にリンクを辿って勉強(?)なされば、わかるようになるかもしれない。
 いやあ、それにしても、タチの悪い妖怪がいたものだ。秋津透さんの“偏執痴鳥ヴァッキャヨー”にも匹敵するタチの悪さだ。気の弱い人は近づかないのが得策だろう。

【7月13日(木)】
▼今日はリストカメラで電車の窓から外の景色を撮ってみた。やはり画像の処理に時間がかかるのか、移動している景色は少し歪んだように写る。電車が走り出したあたりではさほど歪みはないのだが、スピードが出てくるにしたがって歪みが激しくなってきた。リストカメラのモニタを見ながらシャッター・チャンスをうかがっていると、そのうち、うしろに見えるはずの景色が徐々に前のほうに寄ってきて後方はすっかり暗くなってしまいやがて赤外域にあった景色が見えるようになり前のほうに絞りこまれていった景色も全体的に紫方に偏移して――って、どんな電車やねん。

【7月12日(水)】
郡(こおり)さんとおっしゃる方から「雑誌や,新聞に紹介された本のデータベースの公開を開始しました」とメールを頂戴したので、さっそく見にいってみる。「BOOK REVIEW GUIDE 本の評判」というサイトだ。こ、これは驚きだ。試しに〈SFマガジン〉2000年7月号を見てみると、同号の書評で取り上げられた本の書誌データがちゃんと出てくる。出てくるからには、雑誌のデータが入力されているのだろう。それではと、「キーワード検索」を試してみると、おおお、『フューチャーマチック』(ウィリアム・ギブスン、浅倉久志訳、角川書店)は、〈STUDIO VOICE〉〈小説推理〉森下一仁)と〈週刊ポスト〉東京新聞朝刊中日新聞朝刊北海道新聞夕刊(永瀬唯)で取り上げられたなんてことが、たちどころにわかるのである。むろん、掲載号だってわかる。著作権の問題があろうから、書評そのものはほとんど読めないのだが、少なくとも、なにで読めるかはわかる。書影がうまく表示されたりされなかったりするけど、データだけでもこのように検索ができると、なにかと便利だろう。なんとねえ、いつのまにこんなものができたんだろう。おれが鈍感なだけなのかもしれないが、彗星のように現れたサイトという感じだ。いかにもまだできたばかりだなと思わせる部分もあるし、データベースがカバーしている範囲もそれほど広いとは言えないけれども、正直言って、こりゃすごい。メンテナンスがたいへんだろう。“使える”本情報サイトとして注目である。作家の方は、ご自分の本がどんな媒体で取り上げられたか、一度、調べてみてください。
▼またもや、水玉螢之丞さんからタレコミ。今度は「コピーロボット(本物)@ゲノム型」Yahoo! オークション に出たそうな。タイムマシンが出品された一件で、こういうのはすぐに消されてしまうことがわかったからあえて直リンクは張らないが、よくやるよなあ。また電子レンジの部品を使っているところから、タイムマシンを出した人と同一人物ではないかというのが水玉さんの推理である。おれもそんな気がする。
 出品の理由は、こういうことであるらしい――「以前、開発したコピーロボットを売ります。 衆議院選で候補者に貸し出していたのですが終わったため不必要になりました」
 んー? そうかあ? いままでにもたーくさん貸して、まだ貸しっぱなしなのではないの? ほんもののほうは家で寝てるとしか思えないことがあるぞ。
▼おれの母親が近所の酒屋兼雑貨屋で、とんでもないものを見たとぷりぷり怒っている。なんでもその店では、雪印乳業「毎日骨太」を、まだ平然と店頭に並べて売っているのだそうである。しかも、母の目の前で、よぼよぼの爺さんがそれを買っていったんだそうだ。店の人が「これでよろしいか?」と訊いたら、爺さんは「わしはこれやないとあかんのや」と言って買って帰ったという。
 おいおいおいおい。なんて小売店だ。「毎日骨太」は、大阪府から雪印乳業に真っ先に回収命令が出た当の製品だぞ。飲んだ人が食中毒になったことがはっきりわかっている製品だぞ。雪印や大手小売店が自主的に回収している製品ではないのだぞ。う、う、う、売るなー!
 母がはっきり聴いたという会話から、怖ろしい可能性が導かれる。つまり、その爺さんが食中毒事件のことを知らないという可能性だ。爺さんは、世間が騒いでいることなど露知らず、「これでよろしいか?」と言われたので、これじゃないとだめなんだと答えたとも考えられる。店の人は、食中毒事件のことをいちいち説明したわけではないのだ。だが、それにしてもだなー、「わしはこれやないとあかんのや」と言われようが言われまいが、ふつう、売るかー!? 店頭に並べっぱなしにしておくかー!?
 まったく、呆れてものが言えん。爺さんが食中毒になったらどうするのだ? 老人のこととて、それが引鉄で死ぬかもしれんのだぞ。そうなったら、これは立派に未必の故意による傷害致死、いや、殺人だろう。以前から非常識な言動には定評がある店ではあるのだが、あまりにもひどい。こんな小売店があちこちにないことを祈るばかりだ。いったい、この国はどうなってしまったのだ?

【7月11日(火)】
“日本のアマゾン”と期待されるオンライン書店「bk1」(ビーケーワン)が、午前一時、ついに開店。お買い上げ先着一万名様にもれなくくれるという特製ブックカバーが欲しくて、とにもかくにも、開店するや否や、先行予約と注文を試してみる。手前もSF本の紹介を書いているとはいえ、無条件でもらえたりはしないのである。世の中、厳しいのだ。ひたすら、ブックカバーを欲しがる一顧客に徹して、クリックしまくる。どうも、反応が異様に遅い。まだシステムが安定していないのかなと思っていたが、ようやく注文に成功してから、さっそく送られてきた注文内容確認メールを見ると、「ご注文番号」は早くも二百番台だった。ひええ、アクセスが殺到しとるなー。なにはともあれ、先着一万名には入れた。開店一時間くらいでブックカバーがなくなってしまうのではあるまいかと、ちょっとだけ心配していた。いくらなんでも、インフラにそれだけの処理能力がないだろう。
 おれも「SF」の棚でさっそく書評じみたものを書いているので、どうぞよろしく。本屋のサイトで書評を書くという行為と文体のノリについて、自分なりに整理が必要であった。本を売るための書評であるのはたしかだが、べつに欠点の指摘はかまわんのである。その代わり、いいところも見つけなくてはならない。それが見つけられないのであれば、評者の能力不足か、ほんとうに箸にも棒にもかからん本であるかのいずれかである。箸にも棒にもかからん本の書評は、いったん引き受けてから断ったってかまわんということになっているのだ。
 初回は、『フューチャーマチック』(ウィリアム・ギブスン、浅倉久志訳、角川書店)と『永遠の森 博物館惑星』菅浩江、早川書房)の評を書いた。お気に召したら、買ってみてね。ネットで本を買ったことがない人もまだまだたくさんいるだろうから、初体験を兼ねてぜひどうぞ。


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