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2000年6月下旬 |
【6月29(木)】
▼林譲治さんから、万が一にもヒトゲノムの書評を依頼された場合の秘策を教わる。「脱稿までに多年を要した大作であるのは認めるが、まだまだ完成されているとはいえず、なおかつごく一部を除けば無意味な描写が多すぎる」とでも書いておけばよいそうだ。な、なーるほど、たしかにそうにはちがいない。でも、“無意味な描写に見えている部分”を“無意味な描写”と言い切ってしまうのは、なんとなく気が引ける。その部分は、「当時の書評子は読解力が不足していた」と後世暴かれてしまうかもしれないぞ。
ともかく、書評はそうやってお茶を濁すにしても、なによりもまず読破しなくてはならないのが最大の難関であろう。電話帳のほうが、まだ起伏に富んでいるのではあるまいか。分量も半端じゃない。ATGCの四種の塩基を表現するのに二ビット必要であるから、三十億塩基対ぶんの情報量は六十億ビットということになる。つまり、七百五十メガバイトだ。原稿用紙一枚ぶんにぎっしり日本語を書くのには八百バイト必要だから、この作品は九十三万七千五百枚の大作である。全部雑誌に掲載されたものだとし、大自然先生の原稿料を一枚三千円と適当に決めると、この先生は人間一作あたり二十八億一千二百五十万円稼いでいる。すげーなー。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
うーむ、むむ。いただけるのはたいへんありがたいのだが、おれははっきり言って『スター・ウォーズ』にはそれほど興味がない。嫌いじゃないんだが、ペプシのボトルキャップを集めるほどには好きではない(それでも、二個持っていて捨てられないところがなんとも……)。《スター・ウォーズ》小説というものも、いままで読んだことがないのだ。いい機会だから、勉強させてもらおう。訳者あとがきには、「映画しか見ていない方にも楽しんでいただけることと思う」と書いてあるから、独立した小説として成立していないなどということはないにちがいない。なにしろ、グレッグ・ベアが書いているのだから、仮に『スター・ウォーズ』というものをまったく知らない人が読んだとしても、理解できるものであるはずだ。とはいうものの、おれの場合は、筋金入りの『スター・ウォーズ』音痴であるからして、はなはだ心配である。なにしろ、劇場公開を観逃したまま、まだ『エピソード1/ファントム・メナス』を観ていないくらいなのだ。いくらなんでも、これは不勉強であろう。一般教養を欠くに等しい。「『カサブランカ』を観たことがない」と言っているようなものだ。いい機会だから、この足で(というか、指で)amazon.com にビデオを注文しておくとしよう――ということで、いま注文してきた。定価24ドル98セントのところを、32パーセント引きで16ドル95セントだというのだから、なんとも安い。送料を乗せても、劇場に観にいって外食するより安いのではなかろうか。まったく、おれみたいなものぐさ者にとっては便利な時代になったものである。
【6月28日(水)】
▼どういうわけか駅の売店で必ず売っているもののひとつに、「梅ぼし純」(アサヒビール薬品)ってのがありますわな。梅干しを加工して錠剤型にしたものだ。梅干し以外のなにものでもない味がする。いったい、いつごろ現われたのか記憶にないのだが、売店にあれが並んでないとなんだか寂しさを感じるほどに、もはや“売店風景”とでもいったものに馴染んでしまっている。直観像記憶の持ち主でなくとも、「梅ぼし純」を置いていない売店を見たとしたら、「……な、なにかがまちがっている」と、ぼんやりとした不安とゆーか実存の嘔吐とゆーか時代の関節がはずれているとゆーか、まあ、とにかくそんなような感じに捕われるにちがいない。
分量のわりにけっこう高いので、おれはしょっちゅう食っているわけではないのだが、なぜか梅雨時から夏にかけて、「梅ぼし純」がやたらめったら欲しくなる。ほとんど“疼き”とでも呼ぶべき切実なものが衝き上がってくる。なんなんだろうな、これは。
▼二○○三年に完成する予定か……。完全版の刊行もその年ということになるのだろうな。いやだなあ、書評の依頼が来たらどうしよう。〈SFマガジン〉や〈SFオンライン〉なら、取り上げかねないしなあ……。おれは逃げるぞ。あのようなものを読破して評する力はおれにはない。まあ、まちがってもあれがおれのところに来るとは考えにくいから、あまり心配する必要もないか。やはり、瀬名秀明さんかのだれいこさんが適任であろう。ヒトゲノムの書評は……。
【6月27日(火)】
▼以前、“陽根”と“陰茎”とが同じものを指しているのは不思議なことだと悩んでいたことがあったが、また妙な組み合わせを見つけてしまった。“求道者”と“極道者”である。求めているあいだは好ましいということになっている人なのに、極めてしまうと好ましくないということになっている人になってしまうのはいったいどうしたことか。水玉螢之丞さんとか堺三保さんとかは、はたして求道者であるか、極道者であるか? 主観的には極道者なのかもしれないが、この方々を傍から見ると、求道者としか言いようのないものを感じるときがあるんだがなあ。「道(タオ)が動く。道がこのフィギュア(アメコミ)を買えと体内の気をさざめかせる……」などと、『フューチャーマチック』(ウィリアム・ギブスン、浅倉久志訳、角川書店)の謎の殺し屋みたいな感じで生きてらっしゃるのではないかと思うわけですよ、オレ的には。
【6月26日(月)】
▼なんともあやふやな選挙結果に思わず叫ぶ――「ちゅ〜〜〜〜〜〜〜っとハンパやなぁ!」(たぶん関西の人しかわからんCMネタじゃ)
自公保に鉄槌を下すというところまでゆかず、木槌を振り下ろそうとしたところが途中で柄が折れ、槌の部分がぼとっと自公保の頭の上に落ちたような感じである。まあ、過ぎたことはしかたがない。森首相だけはとっととお払い箱にしろよと思っていたら、いけしゃあしゃあと続投するらしい。おれ最近、野中幹事長に激しく同情している。おれはあのおやじは嫌いだが、たしかに偉いやつにちがいない。このところいっそう老け込んで、なにやら小さくなったように思われる。あのアホ首相がまたなにかやらかす(やらかすに決まっている)たび、野中さんは一歩一歩小渕さんのいるところに近づいてゆくのだった。いまごろ、自民党の中でもぼやいてる人がいるのだろう……「森さんが寝ててくれりゃいいのだが、そうもいかんしなあ」
▼そういうおれの支持政党はどこなのだと言われそうだが、おれはいわゆる無党派層である。こんなふうに言うと、まるでいつのまにか“無党派層”という政党を支持させられているみたいで不愉快だが、まあ、いたしかたない。おれはおれなりの考えと美意識に則って票を投じるので、投票日前にはどう投票しようとしているか他人に言ったりしないのである。親にも言わん。妹にも言わん。妻はおらん。人は人であって、おれの知ったことではない。たぶん、人もおれのことなど知ったことではないと思っているであろう。清々しい。これぞ無党派層の心意気だ。今回は小選挙区は民主党候補に、比例区は自由党に入れた。
そういえば、おれのところにも、共産党を貶すばかりで己の正体もあきらかにせぬいやらしい例の小冊子が配られてきたが、あれの糸を引いた政党がもし暴かれたなら、おれはその党には一生投票してやらん。いまどきあんなネガティヴ・キャンペーンを真に受けるやつがいようとは到底思われないし、今回の結果は単に共産党の力不足にすぎないとおれは思っている。だが、あのような卑劣なことをするやつらは断じて許せん。わが国を民主主義から遠ざけ、二十一世紀の三流国家にしようとする、あるいは、二十一世紀も二流国家に留まらせようとする悪魔の使徒と見なす。今後の選挙で、もしあのような冊子やビラがうちの郵便受けに入っていたら、そのときは、おれは無条件で共産党に投票することにする。なぜなら、どこの誰が、どこの党の手の者がやったかわからんのだから、そいつを利する可能性を最も低くしようとすれば、共産党に投票するのが合理的だからだ。共産党が自分で撒いているという可能性は理屈の上ではたしかにあるが、おれのような偏屈者が多数派でないとすれば、そんなことをしても共産党にはなんの得もなかろう。どこのどいつか知らんが、もう一度言うからよっく聴いておけ。おまえらを操っているやつにしかと伝えよ。次にああいうことをしたら、おれは自動的に共産党に投票してやるからそう思え!
え? みなが互いにああいうことをやりはじめたらどうするって? そのときは、どこか英語の通じる国に逃げて、日本が滅びてゆくのをゆっくりと見物させてもらうことにする。
【6月25日(日)】
▼さまざまな原稿の締切に追われながら、選挙に行く。投票所へ行っても、うしろから締切がついてくる。投票用紙に候補者の名前と党名を書いていると、うしろから締切が覗こうとするので、肘打ちを食らわせてやった。またそのうち、締切のやつに復讐されることだろう。
夕方になっても、予想していたほど投票率が伸びないので、いらいらする。やっぱり森首相が言っていたように、みな家で寝ておるのか。晩飯を食いながらテレビを観ていると、さほど社会に背を向けているわけでもなさそうなごくごくふつうの若者が「選挙へ行くか」とマイクを向けられ、いけしゃあしゃあと明るく、どこまでも明るくほざいている――「行きません。興味ないですから」
ええい、おまえのようなやつが粗悪な政治家に餌をやっているのだ飼っているのだ肥らせているのだああそうかだったらおまえ政治に文句を言うなよ愚かな若者よおまえだおまえがターゲットになっておるのだおまえが社会に出て生きてゆくようになったときにおまえを食いものにするために粗悪な政治家どもはいまのおまえのアホ面をテレビで見て笑っておるのだくやしくないのかなにくやしくないああそうかおまえのようなやつは死ね、死ね死ね死んでしまえ(興奮すると筒井文体が出るわい)、と心の中で叫びながら豚キムチ餃子を口に運ぶ。
まあ、腐るところまで腐り、落ちるところまで落ちたほうが、この国にとってはいいのかもしれん。ほんとうの国家的危機を経たほうがいいのかもしれん。『五分後の世界』がいつの日かちゃんとやってくるのかもしれんと悲観的な楽観を抱きつつ、また仕事にかかる。たしかに、どんな明日であろうとも、寝ていても起きていても、否応なしに明日はやってくるのだ。
【6月24日(土)】
▼ケダちゃん、ますます怪鳥、じゃない、快調、でもやっぱり怪鳥かもしれん。牧野修ファンサイト「ヴァーチャルヘヴンへようこそ」を開設した返す刀で(?)、田中啓文ファンサイト「ふえたこ観測所」まで作ってしまった。まさか、この調子でマンガカルテットの残る二人も血祭りに上げるつもりだろうか……。
▼深井龍一郎さんからカエル情報をいただいていた。NHKの「インターネットスクール・たったひとつの地球」というところで、「インターネットカエル調査」なるものをやっている。テレビ番組でも呼びかけているらしい。“インターネットカエル”とはなんぞや――などとベタなネタはやめておくとして(やっとるやないか)、これはなかなか面白そうだ。「なーるほど、インターネットというのは、バスジャックを決行する意志を固めるためだけに使うものじゃないのか」と子供たちが気づくとしたら、まことに教育効果は大きいと言えよう。おれも「カエル探偵団」という怪しげな名前の頼もしい団体の存在を、このサイトで知ることができた。
どういうふうに指導しているのかなと読んでみたところ、「カエル調査の方法」には感心させられた。「カエルの観察が終わったら必ずつかまえた場所にかえしてください。/*ちがう場所に放すとカエルが生きていかれないかもしれません。/*生き残ると、もともと住んでいる生き物の環境(かんきょう)をこわしてしまいます」 そのときのファッションで珍しげな外国の生きものを個人輸入しては、飽きたらその辺に捨てるようなやつに聴かせてやりたいね。いやしかし、おれたちが子供のころは、こんなことを考えてカエルを放したことなどなかったなあ。というか、考える必要がないほど、そこいらじゅうにカエルがいたのだ。こんなふうに指導しなければならないくらいにカエルが減っているということだろうか。このサイトで言っていることは正しいのだが、なんだかフクザツな心境である。
もしおれの日記を愛読しているなどという気色の悪い小学生のキミがいるとするなら(失礼)、「インターネットカエル調査」に協力してみてはどうだろう? 以前にもオレゴン州立大学の研究をご紹介したが、カエルはいろいろな意味で環境のバロメータ、“炭坑のカナリア”となり得る生物だ。カエルが生きていけないような環境は、人間にとってもろくなことがあるはずがないのである。
【6月23日(金)】
▼先日、かの“マンガカルテット”(小林泰三、田中哲弥、田中啓文、牧野修)のファンサイト「わが愛しのまんがカルテット」を開設したばかりのケダちゃんが、今度は牧野修さんのファンサイト「ヴァーチャルヘヴンへようこそ」を開設した。なに、ファンサイトなんぞどこにでもある? いやいや、このファンサイトは、ただのファンサイトではない。金がいるのだ――ってのは嘘で、そういう意味ではタダのファンサイトである。が、ただのファンサイトではない。それがあなた、マンガカルテットの中で唯一自分のウェブサイトを開設していない牧野修さんの近況「俺の眼にウロコを貼れ」が読めるのである。正真正銘の本人が書いている近況だ。どこかからの電波が書かせているのかもしれないというもっともな説もあろうが、それでも本人が書いていることにかわりはない。
牧野修ファンはGo! 雛形あきこも山田まりやもGo! あさっての選挙にもGo!((C)渡辺真理)だ。誰に、どこに投票したらいいかわからん? わからんでもええ、サイコロで決めてもいいから、とにかく投票だけはしよう。以前にも主張したけれども、むちゃくちゃに投票したって、民主主義が機能していない現在の日本では十分に大きな意味があるのだ。というわけで、『ニュースステーション』の宣伝をするわけじゃないが、選挙にGo!だ。Go, buddy, go, anywhere you want!
【6月22日(木)】
▼喫茶店で昼飯を食いながら、出版社からのメールにケータイで返事を書く。文庫解説のゲラに関する質疑応答だ。こういうことがスパゲッティを食いながら片手でできるようになったのだから、まったく便利な世の中である。片手でできるようになったのももちろん便利だが、そうやって書いたものを無線で送れるのはさらに便利だ。
こんなふうに、いつでもどこででも仕事ができるようになってしまうと、勤勉な人は要注意である。いつでもどこででも仕事をしてしまうからだ。おれにはその心配は無用だが、ほんとうに勤勉な人となると、いまの時代、下手をすればトイレで糞をきばりながらでも仕事ができてしまう。右手で女性を悦ばせながら(べつに男性でもよろしい)、左手でメールを打つことだってできよう。これからの時代は、“いつ仕事をしないか”を各人が真剣に考え、厳しく己を律してゆかねばなるまい。おれなんかはべつに、身体の許すかぎりのべつまくなしに仕事をしていてもよいから気楽なのだが、ちゃんとした家庭をお持ちの方ではそうはゆかないだろう。
【6月21日(水)】
▼6月11日の日記でアノマロカリスに触れたところ、片岡正美さんからタレコミ情報。なんでもアノマロカリスのおもちゃがあるのだそうである。片岡さんに教わった「聖 咲奇のインタロシタ」のバックナンバーにある「アノマロカリス」を見てみると、な、なるほど、そう言われないとわからないが、これはたしかにアノマロカリスにちがいない。それが証拠に、パッケージにアノマロカリスと書いてある。やけにメタリックなアノマロカリスだ。尻尾がちょっと情けない。「カンブリア紀最強の生物」を「おふろで復活!」させようというコンセプトが秀逸だ。見つけたら絶対買ってしまうであろう。再来年には四十になるおっさんが、しょぼくれたチンポコをぶらぶらさせながらこいつを抱いていそいそと風呂に入り、湯舟の中で泳がせてにまにましている光景を想像すると、なおのことその光景を実現させたくなってくる。
こんなケッタイなおもちゃがほかのウェブサイトでも紹介されていないはずがないと睨んだおれは、さっそく 「infoseek JAPAN」 で「アノマロカリス」とメーカ名「ピープル」をキーに検索してみた(「goo」で検索しないところが洒落なのだ)。わははは、あったあった。「Bのものおき」というサイトの「おもちゃ」のコーナーに、同じアノマロカリスが紹介されていた。側面と正面から撮った大きな写真まで出ている。な、なるほど、胴体は三枚のスクリューで構成されていて、それらは互いちがいの方向に回るようになっているのか……これには、なかなか感心した。頭と尾はそんなに重くないだろうから、スクリューが全部同じ方向に回ったのでは、すぐに身体全体が回転しはじめ、結果としてスクリューの回転が打ち消されてしまうぶん、推進力が失われることになるのだろう。バイオニック・ジェミーが鍵のかかった鉄扉のノブを手でねじ切るときに重要なのは、腕にどれだけの力があるかよりも、いかに身体が宙に浮いてしまわないようにするかなのである。ジェミーはどうやっているのか、いまだによくわからない。仮に身体が固定できたとして、どうしてジェミーの腕は機械と生体の継ぎ目である肩のところからもげてしまわないのか、まことに不思議だ。
それはともかく、胴体がほとんど三枚のスクリューだけで構成されているようなこのおもちゃの場合、スクリューを互いちがいの方向に回せば、おもちゃ全体にはスクリュー一枚ぶんの反作用を押え込めるだけの安定性を持たせておけばすむ。頭部の二本の摂食用付属肢や出っぱった両眼は、軽い頭部に安定性を持たせることにも大きく寄与しているにちがいない。見た目は悪いが、各部の形状に機能と不可分な合理的な意味があり、しかも無駄な部分がない。エレガントなおもちゃと言えよう。
だが、どうもリアルじゃないなあ……って、べつにほんものを見たことがあるわけではないのだが、アノマロカリスといえば臨場感溢れるCGで見るものと相場が決まっているため、まるで「ああ、子供のころは、そこいらにたくさんいたよ」といった感じになってしまっているのだった。CGおそるべし。
うーむ。だけどやっぱり、このおもちゃのデザインでアノマロカリスってのは無理があるよなあ……。どう見ても、かなり痛そうな大人のおもちゃかなにかとしか思われん。
▼即席早口言葉。「このアノマロカリスとあのアノマロカリスとそのアノマロカリスとどのアノマロカリス?」
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