間歇日記

世界Aの始末書


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2001年1月中旬

【1月20日(土)】
▼ただただ表仕事・裏仕事に追われる。日記の更新ができないのでストレスが溜まる(ストレス解消に書いておるのか)。

【1月19日(金)】
▼姪(小学六年生の姉のほう)の誕生日祝いに本をやろうと妹に電話してみると、姪は『窓ぎわのトットちゃん』(黒柳徹子、講談社)を欲しがっているという。なんでも、学校で流行っているらしい。そりゃ、けっこうなことである。考えてみれば、あれはもう二十年前の本なのだ。当時は、「はあ、まあ、こういう教育もかつて突然変異のようにあったのであろうなあ。夢のようであるなあ。学費が高そうやなあ」と、夢のような話として読んでいたものだが、いま姪の“学校で流行っている”とはどうしたことなのであろうか。姪の学校は公立だが、なんでもモデル校とやらになっているらしく、かなり先進的な試みをいろいろ行う学校なのだそうである。もしかしたら、トットちゃんが受けたような教育も「マジでこういうふうにできんものか」と現実的に捉えられはじめたのやもしれん。だとしたら、けっこうなことだ。ああいう教育のオプションがあってもよい。あの本を読むかぎりでは夢みたいな教育に見えるし、ああいう方向に近づいてゆくのが好ましいとは思うのだが、ある意味でいまの大部分の教育より教えるほうも教わるほうもキツいのではないかと思う。なんらかの才能がある子供にならああいう教育は断然すばらしいだろうけれども、実際問題として、な〜んの才能の片鱗も見出せぬ、箸にも棒にもかからん子供というのもおると思うぞ(「いや、いない」という信念もありましょうが)。そういう子供でもただただ“マジメに”知識を詰め込みさえすればなんとか格好がつく態の教育も、ある種の救いになっていることはたしかである。才能を伸ばせ個性を伸ばせというのは、多少なりともなんらかの才能があったり個性と呼ぶに足る個性を持っている人間の側から見た強者の論理なのかもしれないのだ。かといって、才能も個性もない人間に、ただただ「よくがんばりましたね〜」みたいなチーチパッパな論理で地位や権力を与えるような社会のままでは、真の意味での知性を決定的に欠く人間コンピュータ的なアホ官僚やアホ学者ばかりが量産され、早晩、そいつらが日本を五流国家に引きずり降ろすことになろう。なるほど、『窓ぎわのトットちゃん』は、いまこそ再読に足る書なのやもしれん。
 ふむ、よかろう。トットちゃんが読みたいなら買ってやろう。というわけで、amazon.co.jp から、メッセージ付きのギフトラップで贈ってやった。一冊ではなんなので、『わたしのグランパ』(筒井康隆、文藝春秋)を付けるところが、このおじさんらしいわけだけどね。中学生になったら、いきなり「囹圄」なんて言葉が出てきても、よくわからん気持ち悪さに耐えながらありったけの想像力・推理力を駆使して読み進める図太さを身につけんといかんぞ。自分ですぐ辞書を引いたらたいしたもの、“少年少女小説”と腰巻に書いてある本なのだし、さらに文脈から察するにそのうち説明があるだろうと読み進めてそのとおりであることを発見したらもっとたいしたものである。

【1月18日(木)】
岡田靖史さんからタレコミ。毎日放送で水曜深夜に放映されている『ボストン弁護士事務所』(原題: The Practice )に、Ally McBeal『アリー・myラブ』) の登場人物がときどき出てくるのだそうである。また、こっちの登場人物もアリーのほうに出たりするのだそうである。ひょえ〜、知らなかったなあ。『ボストン弁護士事務所』は観たことなかったのだ。公式本のどっかに書いてあったのかもしれないが、全然知らんかった。『ボストン……』のプロデューサーもデイヴィッド・E・ケリーだということで、まあ、そういうバルザック的な視聴者サービスもあるんだろうな。昨夜も『ボストン……』にアリーとビリーが出てきたという。『ボストン……』はシリアスな弁護士ドラマらしく、アリーもシリアス一筋だそうだ。こりゃあ、チェックしておかなくてはなるまい。NHKのアリー・サイトに言及があってもよさそうなものなのだが、民放局が現在放映中の番組を宣伝する(?)わけにもいかないのかもな。

【1月17日(水)】
▼晩飯に出たチーズちくわを食っていると、「それはなんか賞を取ったちくわやそうや」と母が能書きを垂れる。パッケージを見ると、「農林水産大臣賞受賞」などと大書してある。紀文食品「チーちく」というやつだ。けっこううまい。おれが紀文の社員だったら「パーちく」という姉妹商品を提案して即座に却下されそうな商品である。
 それにしてもいつも思うのだが、この「農林水産大臣賞」とはいかなる賞なのであろうか? 誰が選んでいるのだろう? まさか農林水産大臣が食ってみて、「うむ、これはうまい。農林水産大臣賞決定!」などと決めているとは思われぬ。お菓子によくついている「モンド・セレクション金賞受賞」みたいなものだろうか(って、そっちもどういうものだかよく知らない)。なんだかよく知らない賞受賞って書いてあった場合、「ほう、なんだかいいらしい」と思う人が多いのか、それとも「なんじゃこりゃ?」と思う人が多いのか、どっちだろう? SFの腰巻に「星雲賞受賞!」とあった場合、多少SFを知っているが毎年発表に注目しているわけでもない人なら、「ほう、そうだったのか、どんなのだろう?」と手に取ってぱらぱら見てみるくらいのことはするかもしれない。しかし、SFをほとんど知らない人(つまり、フツーの人)であれば、「星雲賞受賞!」の腰巻がなにかの手ちがいで「農林水産大臣賞受賞!」になっていたとしても、受ける印象は変わらないのではあるまいかと思うのである。いや、もしかしたら、「農林水産大臣賞受賞!」のほうが販促効果が大きかったりするかもしれない。つまり、「星雲賞受賞!」は、星雲賞という賞の存在は知っているが直近の受賞作は知らなかったという人々に対してのみ効果があるのであり、星雲賞に注目している人は受賞作などとっくに知っているから腰巻に書いてあろうがなかろうが関係ないのである。これはヒューゴー賞でもネビュラ賞でも同じだろう。問題は、“星雲賞の存在は知っているが直近の受賞作を知らない”といった人の顔がおれには具体的にまったく思い浮かばない点なのであるが、これはおれの交友範囲に問題があるのだろうなあ。

【1月16日(火)】
▼冷蔵庫にコーヒー牛乳が入っていて、不思議に思う。うちにはコーヒー牛乳などという軟弱な飲みものを好む者などいない。幼いころは好きだったが、それはあくまでコーヒーの代用品としての高級感(!)があったからであり、ほんもののコーヒーを飲むようになってからは、買ってきてまで飲むものではなくなったのであった。
 母が言うには、なんでも、恰幅がよく上等の背広を着たいかにもエラいさんでございと全身で言っているような(母がこんなにブンガク的な表現をしたわけではない。母の言うことを総合するとこうなるのだ)雪印の社員と名告る人がスーパーの前で配っていたのだそうである。やはり信用の回復に苦慮しているのだろう。ほんとうにエラい人がこんな田舎のスーパーにまで出てきて自社製品を配っているとはおれにはとても思えず、閑職の人がいい衣装を着せられて配ってるんじゃあるまいかと意地悪な想像をしてしまうのだが、ほんとうにエラい人だとしたら、ただごとではない。よっぽど業績が落ち込んでいるのだろう。
 それにしても、これはある意味で捨て身の販売促進ではあるまいか。だってだ、もし、このタダの牛乳をもらって帰って飲んだ人の中から食中毒患者でも出た日には、雪印はもう二度と絶対に立ち上がれぬ打撃を受けることになるではないか。
 と言いつつも、タダでもらったものはしっかり飲むところがおれのおれたる所以なのであった。

【1月15日(月)】
昨日の“のどチンコ関係”のメールをいくつか頂戴している。こういう話題となると識者諸氏が俄然反応してくださり、この日記の品格を高めるうえにも、まことにありがたいことだ。
 まず、日本語の美にたいへんこだわりをお持ちの中野善夫さんによれば、『これは標準語だと思います。全国的に通じるという意味で。言語学の本などの音声の項目でよく出てくるのですが、口蓋垂という専門用語の後に必ず「いわゆる<のどチンコ>」と書いてあるので、恐らく、最も広く用いられている言葉なのでしょう』とのこと。たしかに、「いわゆる〈のどチンコ〉」という注釈はおれも見たことがあるような気がする。さらに、『私はこれまで「のどひこ」は聞いたり読んだりしたことがありませんでした。NHKのドイツ語講座は昔よく聴いたり観たりしていたのですが』とおっしゃる。うーむ、NHKのドイツ語の先生もたくさん代替わりしているからなあ。言われてみれば、“のどチンコ”と言っていた先生もいたような気もする。朝、BGM代わりにNHKラジオのドイツ語講座をよく流すのだが、少なくとも記憶に新しい近年の先生は“のどひこ”(あるいは“のどびこ”)派が多いと思う。とくに女性の先生はそうだ。いくらドイツ語の先生でも、そうそうしょっちゅうのどチンコの話ばかりしているわけではなく、四月と十月に発音の基礎を教えるときに問題の言葉が頻出するのである。次の四月にはよく聴いておこう。じつはNHK内部では、“のどチンコ”か“のどひこ”かが、「ハングル講座」で自分たちが教えている言語を“韓国語”とも“朝鮮語”ともけっして名指しで言及しない(だしぬけに「この言語は……」などというのだ。おれは、言語の名前としては“朝鮮語”だと思うのだがなあ)問題にも匹敵する大問題になっていたりして。ちなみに埼玉でお育ちという中野さん自身も“のどチンコ”派で、『樺太出身の父(祖父は東京?)も福島出身の母も「のどチンコ」と云っていました』ということなのである。おれもずっと“のどチンコ”派だなあ。身のまわりの人々もすべて“のどチンコ”だった。
 探求心旺盛な田中哲弥さんの話を聴こう――『広辞苑第四版を見ると「のどちんぽ」という言い方もありますね。さすがにのどちんこが言える女性も「のどちんぽ」は言いにくかろうと思います』
 の、“のどちんぽ”ですか。“ぽ”が効いていますな、“ぽ”が(どう効いているのだ?)。じつは、ねこたびさん(女性)からも『「のど◯◯ぽ」だったら口に出す人が半減しそうな気がしませんか』と鋭い指摘をいただいているのだった。するする。そんな言葉が使われているのは耳にしたことがないなあ。いやそりゃ、ぽんぽん使われても困ってしまうのだが。田中さんのさらなる調査によると、広辞苑には『喉彦は「のどびこ」と載ってました。大辞林第二版には「のどちんぽ」の項はなく、やはり「のどびこ」で[「のどひこ」とも]と書かれています』ということで、「喉彦の兄は目彦といって南米の血を引いているそうです」そうですか。「口蓋垂の俗称ということですが、あれの正式名称が口蓋垂などというものだと初めて知りました正しくは喉陰茎かと思っておりました嘘です」って、実際、後者のほうが形態がすぐ連想されてわかりやすいのではあるまいか。さらに形態について考察すると、口蓋垂が“のどチンコ”なのであれば、声帯は“のどマンコ”かという問題もあるかもしれないが、それはこの際無視する。
 わざわざ辞書をふたつも引いてくださった田中さんの向学心には頭の下がるものがある。田中さんは、「まだまだ知らないことは多いですなあ」とたいへん謙虚だ。人間、こうありたいものであるなあと、辞書のひとつも引こうとしなかった己を恥じ、作家・田中哲弥について認識を改めたところ、最後にこう書いてあった――「でもバイメタルは知っている」

【1月14日(日)】
▼突然だが、“のどチンコ”というのは標準語だろうか? おれは“のどチンコ”を子供のころから平気で使っているが、口にするのを恥ずかしがる人もいるのである。やはり、“のどについているチンコ様のもの”だと素直に解釈してしまう人が恥ずかしがるんだろうけれども、おれはあまりにふつうに使っているため、そのような語源(?)を意識したりはしないのである。同じような精神構造の人は女性にもたまにいて、こと“のどチンコ”にかぎってはなにごともなくさらりと言ったりしている。ドイツ語の教本などには、よく“のどひこ”と書いてあって、NHKのドイツ語講座の先生なども“のどひこ”をしばしば使うようだ。まあ、NHKで“のどチンコ”はまずいか。でも、“のどひこ”なんて言いかたは、じつを言うと、ドイツ語を勉強しはじめるまで知らなかった。ふだんそんな言いかたをする人には、それまでひとりとしてめぐりあったことがなかったのである。
 あなたは、ふだんあれをなんと呼ぶであろうか? なに、そもそもそんなものに日常生活で言及しない? ごもっとも。

【1月13日(土)】
ケダちゃんから「納豆あめなめちゃいました。」(亀印商事)なるお菓子が送られてくる。いつもいろいろありがとうございます。「日本発 名物」「くせになるおいしさ!」なのだそうである。スーパーなどで三パックまとめて売っている納豆の容器を模した(というか、それそのもの)の中に、小袋に入った“納豆あめ”が詰まっているすさまじいものである。さすがにカラシやタレは入っていない。
 さっそく食ってみる。小袋を破って観察すると、透明な飴の中に碾割納豆のようなもの(そうなんだろうけど)が埋め込まれている。琥珀に閉じ込められた昆虫のようだ。遠い未来、太古に滅びた茨城県人の遺跡からこの飴を発見した未来人たちは、納豆の遺伝子から納豆を復元するのだろう。ゲノムの欠落部位をカエルのDNAで補填したものだから、納豆はネバネバした糸を引きながらそこいらを跳ねまわる。心暖まる光景だ。
 口の中に入れる。ふつうの飴だ。が、やがて徐々に口の中がネバネバしはじめ、あの納豆の匂いがほんわりと広がってくる。自分の息を嗅いでみると、もろに納豆臭い。すごい飴である。そのうち埋め込まれていた碾割納豆の砕片がごつごつと舌先に触れ、ネバネバと匂いは最高潮に達する。そして飴は小さくなってゆき、飴の去った口の中には、あのネバネバだけがなにやらエロチックな食感を伴ってしつこく残るという、驚異の「健康銘菓」だ。
 これが「くせになる」とちょっとまずいと思うなあ。関西人は、職場で食うと大顰蹙を買うこと請け合い。口臭だけはなかなかなくならないからである。しかし、茨城県人のことだ、納豆の本体がなくとも、あの匂いを純粋にかぐわしいと感じるのかもしれない。茨城県では、「デートの前にお口のエチケット キシリトール入り納豆キャンディー」なるものが売られていないと誰に言えよう。

【1月12日(金)】
▼会社の帰りにジュンク堂に行って本を買い、サブウェイでポテトを食ってから京阪淀屋橋駅まで歩いたところで便意を催してきて、駅のトイレに入る。げげ。扉の裏に服を掛けるフックがない。以前にJR大阪駅でも同じ目に会ったが、大きな駅のトイレにはしばしばフックがないものであるね。最初からないのではなく、なぜか取り外されているのである。ホームレスのおっちゃんとかが、家財道具にするために持ってゆくのだろう。なかなか使いでがありそうだからな。
 困った。上着だけなら強引にたくし上げて用を足せぬこともないが、コートは危ない。かといって、コートを置くのに適したまずまず清潔そうな場所もない。いま一度、扉の裏を観察すると、あきらかにフックがついていた跡がある。おおっ。ここについていたフックは、貼りつけ式ではない。貼りつけ式のフックが強奪された場合、黄色い接着剤の痕跡が付着しているものであるが、このフックはねじ式であった。ねじ穴がふたつ残っている。これなら、なんとか“シリツ”をすることができるかもしれぬ。
 おれは眼鏡のねじを締めるために持ち歩いている精密ドライバーを鞄から取り出すと、ねじ穴に差し込んでみた。ぴったりのサイズである。ねじが刺さっていた穴なのだから、ドライバーとサイズが合っても不思議ではない。しかも、かなりの荷重を加えてもちゃんと安定する。おれはドライバーで作った即席のハンガーにコートと上着を掛け、無事に大便を排泄した。
 うむ、ひとつ賢くなったぞ。今度からこの手を使おう。問題は、貼りつけ式のフックが奪われていた場合だなあ。折り畳み式の手回しドリルでも持ち歩こうか。もともとフックが貼りつけてあったところに穴を開けるのならかまわないだろう。手ごろなドリルがないか、工具屋にでも通りかかったときに見ておこう……。待てよ、百円均一の店でよく売ってるS字フックの大型のやつを持ち歩けばよいのか。上部に空間がある扉になら使えるな。公衆便所はたいていそうだ。中で火災が発生したり、人が気を失ったり、いろいろ妙なことがあったりした場合に対処しやすくしてあるのだろう(単に安上がりにするためかもしれんが)。
 まず、S字フックだな。それがだめならドリルを使おう(って、おい)。
▼帰宅してテレビのニュースを観ていると、いきなり画面に「クラゲ猿」と出てきて面食らう。初の遺伝子組み換え霊長類としてクラゲの遺伝子を組み込んだアカゲザルがアメリカで誕生したという話なのだが、すげー誤解を招きそうな表現だなあ。いきなり「クラゲ猿」と言われたら、ふつーこーゆーもの……

……を思い浮かべるでありましょう。思い浮かべませんかそうですか。
 ともあれ、ウナギイヌの誕生も時間の問題だということだな。

【1月11日(木)】
▼成人式で騒ぎ暴れるアホ成人どもが“心の師”としているにちがいないのが、国会でやたら野次を飛ばす国会議員どもであり、県民が選んだ知事の演説が「わかりにくいわかりにくい」と自分の無知を棚に上げ開き直って威張っているどこかの田舎者県会議員どもであり、そいつらの尻馬に乗る一部マスコミ関係者どもであることは公然の秘密であるが、それにしても、いったいいつからだ、“野次”を“野次”と呼ばなくなったのは? 野次を飛ばしている議員どもが“不規則発言”などという意味不明の言葉で己の罪悪感をごまかそうってんならまだ話はわかるが、NHKをはじめ、マスコミ関係者までが一緒になってあの気色の悪い日本語を使っているのはどうしたことであるか。いや、もしかしたらあれはマスコミがはじめたのか? さっぱりわからん。
 “不規則発言”があるのなら、当然“規則発言”なるものがあるにちがいない。それはどういう発言であろうか? 「えー、わが国の、えー、えー、えー、えー、ITの遅れは、えー、えー、えー、えー、えー、えー、えー、えー、えー、ひとえに政策レベルでの、えー、えー、えー、えー、えー、えー、えー、えー、えー、えー、えー、えー、えー、えー、えー、えー……」といった発言のことであろうか。「えー」の数が規則的である。
 バカやろう、“野次”は“野次”だよ。“野次”というとなんとなくそれを発した者の品格が落ちるような気がするが、“不規則発言”であれば、べつに誰も非難されぬ。「不規則発言をした議員」などと言われても、なんの痛痒も感じないだろう。くだらん詐術だ。おれはみなに呼びかけたい。アホ国会議員どもやアホマスコミ関係者どもに乗せられて“不規則発言”などという知性のカケラも感じられぬ言葉を使うのは絶対にやめよう。賢明なる一般国民までがアホをうつされることはない。
 さらにマスコミ関係者に提案である。この国を少しでもましなほうへ持ってゆきたい使命感があるのであれば、いっそ“野次”という言葉すらやめてはどうか? 代わりに“駄々”というのだ。「駄々をこねていた議員に激昂した松浪議員は、コップの水を……」といった具合に報道する。己が発言すべきでないときに、空気を媒質とするエネルギーの大きい疎密波という暴力で他者の発言を封じ、他者の発言の権利を侵害して発言するのであるから、その疎密波の運んでいる情報がいかなるものであろうが、それは“駄々”である。非常に知性的な言葉遣いであり、マスコミが尊敬されること請け合いだぞ。


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