間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


2001年1月下旬

【1月31日(水)】
▼寒いときの飲みものにはなにがいいといって、そりゃあもう、生姜湯にとどめを刺す。今日も今日とて生姜湯を作って飲んでいると、生姜の効果で頭の血のめぐりがよくなったのか、またいつもの“ふと浮かぶ疑問”がやってきた。みなさんは、あの飲料をなんと呼ぶだろうか? おれは「しょうがとう」と読むのだが、「しょうがゆ」と言っている人も少なからずいるのである。はて、どちらが正しいのか?
 常識的に考えれば、葛根湯「かっこんとう」なのであるから、生姜湯は「しょうがとう」であろうという気がする。葛湯なら、当然これは「くずゆ」とおれもなんの疑問も抱かず言っている。しかし、生姜は漢語なのであろうか? まあ、中国から伝わったのだろうからそうなのかもしれないが、ずいぶんむかしから土着のものになってしまっているような感じもあり、ひょっとすると和語扱いしてもいいのかもしれない。いままでなんの疑問も抱かず、なんとはなしに「しょうがゆ」だと重箱読みのような気がしていただけで、生姜“湯”を重箱読みするとはじつになんともややこしい皮肉ではないかなどとそちらのほうに思考が泳いでいってしまい、深く考えたことがなかったのであった。
 試しに広辞苑(第五版)で調べてみると、なんと「しょうがゆ」と読んでいて、「しょうがとう」(生薑糖)のほうは伊勢市の銘菓「しょうがいた」のことなのである。ひょえ〜、知らんかったなあ。
 まあ、どっちでもええやんけと思うのだけれども、おれが長年信じてきた読みかたが否定されてしまったのはなにやら気持ちが悪い。「しょうがとう」だといかにも中国伝来の薬品っぽくて心理的にも多少なりとも効能が高いような気がしないでもなく、「しょうがゆ」などと呼んだのではどうも個人的にはありがたみが薄れそうで、損をしたような気になる。貧乏性であろう。そうだなあ、こうしてはどうか――すなわち、「生姜湯」と書いたときには「しょうがとう」と読み、「しょうが湯」と書いたときには「しょうがゆ」と読む。まったく主観的には、こうあるべきだと思われる。ここらで手を打たんか(って、広辞苑と交渉してどうする)。テレビやラジオの人がどちらを使うか、気をつけて聴いておくことにしよう。

【1月30日(火)】
▼あの「月をなめるな」事件でおなじみの清水勇希さんから、ウェブページを開設したとのお知らせをいただく。「時間が余っている学生のうちに一度くらい経験しておいた方がいいかもしれないと思いまして」とのことだが、いやなに、これからは一人一殺、じゃない、一人一サイトくらいは名刺代わりに個人ページを持つ時代になるだろうから、「学生のうちに一度くらいは」などと言わず、地道に続けてほしいものである。
 まったくもって、あの投稿はウェブ上でも各界にただならぬ衝撃を与えたようで、思わぬところからあの日の日記にリンクが張ってあるのを、いまだに新たに発見するくらいだ。きっと文部科学大臣も読んでいるだろう。文部科学省が“ゆとりの教育”とやらを見直すことにしたのは、じつは「月をなめるな」事件が原因であるという評価もあるくらいだ――くらいの想像をしておくほうが人生楽しい。

【1月29日(月)】
▼またまた妙な言葉遊びを思いつく。といっても、筒井康隆「昔はよかったなあ」(『筒井康隆全集23』新潮社・所収)で使っているネタなので、おれの発明というわけではない。ヘンな音楽グループを作るというやつである。「内山田洋とボルテスV」ってのを突然思いついたので(いったい、ふだんなにを考えていたら、こんなものを「突然思いつ」くというのか)、そのノリでいくつか作ってみようと思い立ったのだった。「ポリンキーとキラーズ」「トム・ピーターズとハートブレイカーズ」ってのは、たちまちできた。「ジョアンナ・ラスとシュープリームズ」ってのも悪くないな。どうも、元ネタとすべきグループの名をそもそもあまり思いつかなくて、あとが続かない。みなさんも、暇なときに作ってご覧になってはどうだろう、ってそんな暇な人があまりいるとも思えないが……。

【1月28日(日)】
▼夕方、なにげなくテレビを点けると、突如学校の黒板が現われ、画面の外からどこかで聴いたような声が流れてきた。瀬名秀明さんである。瀬名さんが小学生に講義をするというNHKの番組らしい。興味深いので、そのまま観る。瀬名さんは、自身の創作理論を噛み砕いて子供たちに語り、これから実践をさせるようだ。子供たちを〈石の博物館〉に連れていった瀬名さんは、そこで“お話”を書くための取材をさせる。お話を書くためには、書こうとする題材に関して“博士”(これは「はかせ」と読まなくてはならない)にならなくてはならないというのは、『八月の博物館』(瀬名秀明、角川書店)でも展開されていた“お話”の書きかたである。子供たちは、いろんな石を観察し、展示説明を読み、学芸員に話を聴き、“博士”になるべく情報を収集する。瀬名さんの小学校の先生ぶりはなかなかのものだ。
 で、実際に“お話”を書くのは冬休みの宿題となり、番組は子供たちが四苦八苦している姿を追う。そりゃあ、これはいまの子供にとってはキツいぞ。な〜んにもないところからなにかを作れなどという作業は、まず滅多にやらないだろうからだ。大人だってやらない。ところが、これが楽しくてしかたがないというタイプの人間もいて、こういう授業を受けて初めて、自分はそうだったのだと気づく人もいるのである。大人になってから小説やらなにやらの創作講座を受講してみて、ようやくそれに気がつく遅咲きの人だっているくらいだ。
 新学期。子供たちが仕上げてきた作品を見て、瀬名さんは満足そうである。自分で小冊子に製本したオールカラーのマンガを描いてきた子もいた。彼はこういう作業が「楽しくてしかたがない」ことに気づいたクチである。クラスにひとりふたりであっても、己が創作を楽しめる人間であると気づかせてやれれば、こうした授業は大成功だと思う。テレビ番組だけじゃなく、現役の先生がふだんもこうした授業をしていてくれることを、また、先生にそういう授業をさせる制度があることを祈るばかりだ。
 おれが瀬名さんの生徒だったらどういうものを書くだろうか、ついつい想像してしまった。

瀬名先生「おお、君は〈石の博物館〉で熱心に石をスケッチしていたね。どんなお話ができたのかな?」
小学生のおれ「SFです」
瀬名先生「ほお? で、どんなお話しなのかな?」
小学生のおれ「こないだ泥人形のゴーレムのお話を読んだので、それをヒントにしました。悪い科学者が石でアンドロイドを作るんです」
瀬名先生「そりゃ、すごいね。それから?」
小学生のおれ「アンドロイドは中国で政治家になりますが、やがて内戦に敗れて台湾に逃れます」
瀬名先生「む、難しい言葉を知っているねえ。な、なんとなくオチがわかったような気もしないでもないけど、き、君はふだんどんな本を読んでいるのかな?」
小学生のおれ「田中啓文先生のファンです」
瀬名先生「えっと、君はどんな石をテーマにしたんだっけ?」
小学生のおれ「方解石、ホウカイセキ……ほうかいせき、ショウかいせき、蒋介石――」
瀬名先生・小学生のおれ・どこからともなく現われ赤フンドシ姿で教室を泳ぎ回る田中啓文先生「ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい!」

【1月27日(土)】
e-NOVELS「田中啓文特集」がはじまったらしいので、あわてて行ってみる。ひええええ、「あいうえ音座録体験版」(田中啓文セッションバンド)ってのがすごいなあ。ミュージシャンとしての田中啓文の才能に目も眩むばかりだ。しかし、悪いものを聴いてしまった。「勝利の歌(アカ・キヤダ・ヤッハ)」が耳について離れないのである。さあ、仕事をしようとパソコンに向かっても、ふと気がつくと「アカ〜、キヤ〜ダ、ヤッハ〜〜」と口ずさんだりしている。おお、そうか。ここで紹介されている田中啓文の曲は、みな対テレパス戦術としての“強迫唄”に使えるようになっているのだ。じつは彼の奥さんはテレパスであり、彼は心を読まれまいという実用的な動機からこれらの名曲をものしたにちがいない。
 「匿名座談会」には首を傾げた。たいていの「匿名座談会」は、匿名と言いながらも、おぼろげながらは誰だか見当がつくもので、だからこそ面白いのだが、この「匿名座談会」は、さっぱり見当もつかない。もう少し田中啓文に近しい人々を連れてくるべきではなかったろうか。

【1月26日(金)】
▼見知らぬ女性から「日記が更新されていなくて、さびしいです」とだけ書かれたメールを頂戴する。いやあ、おれも女性を寂しがらせるような男になったか。ふっ。この日記に惚れちゃあ、不幸になるぜ(S・E 遠くで船の汽笛)。いやまあ、先日も書いたが、忙しいのである。寂しいときには、むかしの日記を読み返してくれ(S・E 遠くでウミネコの鳴き声)。いじらしいことを言ってくれらあ。明日をも知れぬおれのこと、約束はできねえが、この日記は続けるぜ。続けるとも。期待せずに待っててくれ(S・E カエルの鳴き声)。

【1月25日(木)】
▼しぶとく“のどチンコ”関係の話題で繋ぐが、今日は小ネタである。『アリー・myラブ3』にヒントを得たのだが、“のどチンコ”と言うのが恥ずかしい人は、“のどムスコ”と言ってみてはどうだろう?
▼最近、“マダム・フユキの宇宙お料理教室”をやっていないが、今日はちょっと藝風を変えて、“ケーシー冬樹の医学講義”をやってみよう。

 あー、私の講座によく集まってくださった。
 本日のテーマは“痔”である。諸君の中には、痔でお悩みの方もおられよう。今日はしっかりと私の話を聴いて帰って、健康管理の参考にしていただきたい。
 さて、まずこちらの図をご覧いただきたい――「*」
 これは「ケツの穴」、専門用語で言うと「肛門」である。肛門は非常に複雑な構造をしており、言葉だけで説明するのはなかなか難しい。ノーベル文学賞候補になったと言われているアメリカの作家、カート・ヴォネガットもそう思ったのか、その著作の中で肛門を絵で表現しているくらいである。ヴォネガットはもう少し凝った表現をしているが、ここではより抽象的に「*」を用いることとする。痔は他人事ではなく、今日は安全だと思っていても、明日はわが身である。「今日は安全、アスタリスク」と専門家は言う。一部の学派では、「今日は掘らない、アスホール」とも言うようだ。
 “痔”を考える際にまず問題になるのは、その位置だ。痔の位置は、肛門を基準とした座標で示す。この図のように肛門にきわめて近い痔もあれば、よいしょっ……と、こんなふうにかなり遠い痔もある。最も肛門に近いところにある痔と、最も遠いところにある痔とを、それぞれ医学用語で“ペリ痔”(perigee)“アポ痔”(apogee)と呼ぶ。詳しくは、大江健三郎『同時代ゲーム』(新潮社)を参考にしてもらいたい。
 痔の部位によっては、生活に深刻な支障を来たすことがある。重篤な病状の場合、椅子にも座れないくらいとなる。そのような患者の苦痛を緩和するため、肛門に刺激を与えぬように設計した“耐痔シート”という椅子が開発されている。
 痔の中にはまことに怖ろしいものがあり、患部に剛毛が生えてくるものがある。座ったときなど剛毛が患部に突き刺さり、患者はその激痛のため痔瘻ではないかと思うほどだが、剛毛が突き刺さるときの痛みと痔瘻の痛みとは微妙にちがう。前者は針で刺されるようだが、後者はリベットを打ち込まれるように感じられ、この痛みを専門的には“リベット痔瘻”と言う。
 毛はどんどんと直腸の中にまで広がり、重篤な症例では、S字結腸から下行結腸、さらには横行結腸、上行結腸にまで及ぶ。これをわれわれ専門家は“結腸毛だらけ”と呼んでいる。
 以上で本日の講義を終わる。なに? オチはないのかって? オチなどあるものか。これは真面目な医学講義である。中途半端で終わってもよかろう。なに? 痔だけに弁のキレが悪い?
 もう君に教えることはなにもない。

【1月24日(水)】
▼またしても“のどチンコ”関係である。いまやネット者のカエラーなら誰でも知っているけろすけさんから、新説が寄せられたのだ。

『で、本日メールを差し上げたのは「ノドヒコ」の謎です。
 ダーリンに「ねぇ、ノドヒコって聞いたことある?」ってな質問から話が発展し
「なんでもドイツ語講座のセンセーが…」なんてところに話が及んだときのこと
「あー、ならわかる。ドイツ語ってチ(chi)の発音をヒって言う時あるからね。
だからその先生はもしかしたらノドヒコではなく、ノドヒンコと言いたかったのかも」

というじゃありませんか(笑)』

 って、あのですねー、いくらドイツ語の先生でも、ローマ字で書いてある台本を読んでるわけやないのですから、“のどチンコ”を“のどヒンコ”と言いまちがえる可能性はきわめて低いと思うぞ。でも、面白い説だから採用(って、面白ければいいのか)。
 さらに、けろすけさんご本人の説が、“ダーリン”の説をぶっ飛ばすほどに秀逸である。

『もしくは、天下のバカNHKですから
「センセー、チンコと言うのはちょっと……」とプレッシャーをかけた結果
センセーは自主的に「ピー」の音を口で言ったとか(爆笑)。
「ノドピーコ」と言うつもりが、カメラに緊張し「ノドヒコ」になったとかね(これはないかな…)。』

 いや、ないことはない。少なくとも、のどヒンコ説よりも説得力がある。
 「ピー」を口で言うってのがいいよね。森首相のボディーガードとかは、「ピー」をすばやく電子音風に発音する練習をして、「やばいっ」と思ったらすかさず「ピー」を入れるようにしてはどうか? 「エイ(ピー)が来る」「みんな寝(ピーーーー)と助かるんだが……」「iモードは電(ピーーーー)える」「いつクビにな(ピーーーーーー)から」「シ(ピーー)変やら大(ピーーー)争やら」 やかましゅうてしゃあないわい。

【1月23日(火)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『かめくん』
北野勇作、徳間デュアル文庫)

 「かめくんは、自分がほんもののカメではないことを知っている。ほんものではないが、ほんもののカメに姿が似ているから、ヒトはかめくんたちのような存在をカメと呼んでいるだけなのだ」――とまあ、アオリにはあって、さらにアオリは続くのだが、何度読んでもどういう話なのか、さっぱり見当もつかない。「異才が描く空想科学超日常小説」であり、「脱力&極楽小説」(イラスト担当:前田真宏氏談)なのだそうである。うーむ、よくわからない。『親切がいっぱい』(神林長平、光文社文庫)みたいな話なのだろうか? やっぱり、よくわからない。要するに、かめくんのことが知りたければとっとと読めと本が全身で言っているような感じである。
 北野勇作作品の最大の魅力であり、かつ、北野勇作作品が最も損をしているところは、アオリや腰巻で端的に内容が紹介しにくい点であろう。〈SFマガジン〉には、掲載作冒頭付近に編集部による囲み解説が付くが、あれだって北野作品にはいつも苦労しているようすが見て取れる。〈SFオンライン〉「SFマガジンを読もう」をやっていたころにも、北野作品は最もあらすじの紹介がしにくい部類に入った。「良識は駅前の自転車置き場に捨ててきた」(集英社刊・牧野修『忌まわしい匣』の大森望氏による腰巻より)みたいな、一発でよくわかる惹句がきわめて書きにくい作風なのだ。つまり、宣伝がしにくい。これは作品の質とはまったく関係がないのであって、ただ単にそういう作風だというだけだ。しかし、宣伝がしやすい作風の小説に比べて、なんらかの形で損をする局面というものも、たしかに世の中には存在するだろう。だから北野勇作の小説は、騙されたと思ってともかくなんの予断もなくモノを読むのが正解でありましょう。騙されることはほとんどないと思う。
 ……とかなんとか御託を並べてないで、とっとと読まんか。はい、できるだけ早めに読みます。

【1月22日(月)】
しげ蔵さんとおっしゃる方から、おれの小説が気に入ったのでリンクを張ったとのご報告を頂戴する。なにかの言及ついでにちょこっとリンクを張ってくださったのだろうと見に行ってみると、ちゃんと自作小説サイトのリンク集というのがあって、でかでかと紹介してくださっていたのでのけぞった。ときどきこういう奇特な方がいらして、うろたえてしまう。いや、このようなものでも数分の暇潰しになるのでしたらまことに嬉しいのでありますがやっぱりこっ恥ずかしい。でも、ありがとうございます。でもこっ恥ずかしい。だったら公開するなよと思うのだが、たとえば、あ〜んな評論家とかこ〜んな翻訳家とかがまさか将来そのままの形で天下の中央公論から商業出版されるとは夢にも思わずに書いたにちがいない小説がたくさん載っている『ネオ・ヌルの時代(全3巻)』(筒井康隆編、中公文庫)などというものをおれもご本人たちと面識ができてからも改めて取り出して読んで喜んだりしていたわけであり、小説の恥は書き捨てとむかしの人も言ったことであるし、あー、なにを言ってるのかよくわからないが、まあ、早い話が、小説だろうが詩だろうがエッセイだろうが都々逸だろうが、文字で書いたものはもったいないからできるだけウェブサイトのコンテンツにしてしまおうという貧乏性なのである。そういえば、最近、小説(?)を書いてないな。そのうち、せめて十五分くらいは暇を潰せるもう少しまともなものを書こう。

【1月21日(日)】
▼ただただ表仕事・裏仕事に追われるので逃げるとまた追われる。いや、べつにしょっちゅう催促の電話がかかってくるというわけではないのだ。心理的に追われるだけである。来月また、昨年と同じく、「SFが読みたい! 2001年版」(早川書房)が出るのである。なに、昨年出たのは2000年版だろうって、細かいところは気にせんでよろしい。さらにもうすぐ〈SFオンライン〉が出るのだが、レギュラーの書籍レビューに加えて、今月はあの世にも怖ろしい「SFオンライン賞」のための年間回顧と推薦作リストがあるのだった。今年も「SF中短篇」担当である。「SFが読みたい!」のほうも、SF中短篇ベスト10の選出である。似たような原稿だと書きやすいとお思いでしょうが、両者は対象期間が二か月ずれているので、頭がこんがらかるのだ。よーく寝てよーく食ってよーく屁をして体調がよくてしかたがないのであれば、人間の頭はその程度のことでこんがらかったりしないものであるけれども、朦朧としているためにしばしばこんがらかる。そもそもおれは、リストを作ったり、ものに順位をつけたりするという細かい作業が大嫌いである。大嫌いであるから苦手である。ほとんどフィーリングだけ、思いつきだけで生きておる人間だからだ。なに、そうは見えん、おまえは理屈っぽいって? だーかーらー、フィーリングはそのまま他人に伝わらんから、そのフィーリングをなんとか説明しようとして理屈をひねくり出しておるだけであって、あくまで最優先するのはフィーリングなのである。しかし、総括したり回顧したりするには、苦手なリストも作らねばならない。待てよ、おれが思うかぎりでは、水鏡子さんは結論直覚型の感性的な人だが、リストを作るのが大好きだ。不思議である。やっぱりアレかな、コレクターのメンタリティーが関係しているのだろうな。おれはコレクターじゃないからダメなのだ。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す