間歇日記

世界Aの始末書


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99年12月下旬

【12月31日(金)】
▼やあ、今年も終わりか。大晦日だというのに、今年最後の仕事をする。年越し蕎麦を食いながら、『コンピュータが死んだ日』(石原藤夫、光文社/ハヤカワ文庫JA/徳間文庫)の紹介を @niftySFファンタジー・フォーラム「本屋の片隅」にアップロードし、仕事納め。さてさて、明日は“コンピュータが死んだ日”になるのだろうか。なってもらっては困る。会社の仕事ももの書きの仕事も趣味も、コンピュータなしでは立ち行かないのだ。
 ほっとして熱燗を傾けながら、くだらないテレビを観る。ほんっとに年末年始の番組はつまらなくなりましたなあ。まあ、今年はなぜか丸川珠代(テレビ朝日アナウンサー)の出番が多く、その点は高く評価したい。いいねえ、あの人は。タイプだ好みだ抜群だ。あれで眼鏡をかけていれば完璧なんだが。
▼今年もこのくだらない日記を多くのさまざまな人々が読んでくださった。おかげさまで日記のカウンタも三十万を超え、愉快なメールもたくさん頂戴した。まことにありがとうございました。来年も言いたい放題、好き勝手なことを書きまくりますので、ご贔屓に願います。みなさまによき二○○○年が訪れますように。

【12月30日(木)】
▼忘年会の続き。しばらくカードゲームをしたあと、昨年とほとんど変わらぬ面子でカラオケに繰り出す。むろん、ほとんどアニソンばかりを唄いまくることになるのである。今年は、昨年の佐脇洋平さんに替わって、菊池鈴々さんが加わっている。やはり女声があるとカラオケに華があってよろしい。以前別のカラオケパーティーで「ペリーヌものがたり」を野郎どもが数人で応援歌のように唄うという藝を披露され、あまりの不気味さに現実感を喪失したものだ。たしかあのときは、神代創さんが嬉々として唄っていたように記憶している。気色わる〜。
 帰りにラーメンを食うのを主目的にやってきた水鏡子さんは、なかなか腹が減らないと唄い続けている。堺さんはへろへろになって、途中で寝たりしている。昨年酔っ払ってほとんど寝ていた米村秀雄さんは今年はすごく元気で、これまた渋い歌を唄い続けている。今回の収穫は米村さんの「傘がない」であった。これはマジでほんものっぽい。“溜め”が利いている。ボブ・ディランのようでもディーン・マーチンのようでもある歌唱法が、この歌にはよく合うのであった。しかし、あれが歌唱法であったのか、喋りかたの地であったのかは不明である。
 珍しく三時ころで終わる。カラオケが朝までにならないのは、じつにひさびさのことである。堺さんがラーメンを食いたがったからだ。このラーメンというのが、めちゃくちゃうまい。99年7月9日の日記で、やっぱりカラオケの帰りに食っていた長浜ラーメンだ。しかし、満天星で唄って長浜ラーメン食って帰るパターンばっかだな。
 旅館に帰ってしばらく寝て、朝飯食ってチェックアウト。例年のごとく全員で喫茶店に入り雑談。〈SFマガジン〉「マイベスト5」の話になり、『エンディミオン』(ダン・シモンズ、酒井伸昭訳、早川書房)の一位投票者がけっこう多いのに驚く。おれは『順列都市(上・下)』(グレッグ・イーガン、山岸真訳、ハヤカワ文庫SF)派なのだが……。たしかに小説の巧拙だけで評価するならグレッグ・イーガンなどダン・シモンズの足元にも及ばない。が、SF以外では逆立ちしても書きようがないことに正面突破的武骨さで挑み、そこそこ成功しているイーガンは、やっぱりただものではないと思うのである。これで小説がうまくなればねえ。同じように、小説は下手だがおれが高く評価したのは『クリスタルサイレンス』(藤崎慎吾、朝日ソノラマ)である。二位に入れた。おれは器用貧乏嫌いで判官贔屓なのだろうな。どうも、今年はSFが豊作すぎて評が割れそうな気配だ。結果発表がじつに楽しみである。
 みなと別れて烏丸で雑用をすまし、ふらりと京都駅に行って買いものをする。そうだそうだ、愛用の御教訓カレンダーをまだ買っていなかったので買う。歩きまわって小腹が空き、よせばいいのにまたラーメンを食う。これもこってり系の悟空ラーメン。身体に悪そうと思いつつ、やっぱりスープをほとんど飲んでしまう。腹もくちくなったせいか、家に帰るなりパタリと寝る。
〈通販生活〉のテレビCMがいよいよ“語尾上げ喋り”撲滅キャンペーン(?)を展開しはじめた。やれやれー、どんどんやれー! これに“語尾上げ喋り”擁護派が反発しはじめると、また世の中が面白くなる。あれを擁護しようって人がいるのかどうかわからんが、いるとすれば“語尾上げ喋り”にどのようなメリットがあるのかをこじつけだろうがなんだろうが説明してくれるだろうと思うので、それが楽しみなのである。
amazon.com に注文していたキャサリン・アサロThe Veiled Web が届く。インターネットもののスリラーらしい。これが一年半ほど前に「バンタムに売れた」とニュースグループで言ってたやつだろうな(98年7月2日の日記参照)。さてさて、いつ読めるのやら。ぱらぱらと眺めてみると、チャールズ・シェフィールドがAIのアイディアをなにやら褒めているのには、やっぱりなと思う。おれはアサロのことを手短かに説明するのに面倒なとき、“女シェフィールド”などと言っていたことがあるのだ。なんとなく似てるんだよね。妙なディテールでやたらハードなわりに、話はさほどハードではなく、もののみごとに定型エンタテインメントに徹している。シェフィールドのほうでも、アサロに同類の匂いを感じているのかもしれない。

【12月29日(水)】
オウム真理教上祐史浩さんが刑期を終えて出所してきた。むろん、上祐史浩さんと表記しているのは、厭味にほかならない。こう表記するのが正しいのであるが、個人的にはものすごく抵抗がある。マスコミもそう感じているらしく、“上祐史浩幹部”などとしてお茶を濁しているケースが多いようだ。あーいえばじょーゆー、また、明太子だったかなんだったかの地位に復帰するのだろうか。表面的には幹部に復帰せずとも、事実上そういう扱いになるに決まっている。やれやれ。
▼恒例の“関西のSFな人々の忘年会”に参加。いまだに正式名称のよくわからない忘年会なのだが、青心社の方々や関西海外SF研究会まわりの人々が集まって催す会である――と去年書いたとおりの忘年会に今年も参加する。会社の納会が終わるや、家に飛んで帰って着替えて支度をし、タクシーに飛び乗って地下鉄の駅までゆき、なんとか三十分の遅刻で会場の旅館に到着する。鍋をつついていると、さらに少し遅れて東京から堺三保さんがやってきた。なんともタフな人である。タフでなければ生きてゆけない。オタクになれなければ生きている資格がないという哲学を体現している求道者だ。いったいいつ寝ているのだろうか。
 今年のビンゴでは、珍しく水鏡子さんが著しく早くアガった。菊池誠助教授が確率論の講義をはじめる傍ら、水鏡子さんは競馬を続けてゆく決意をしたようである。驚いたことにおれも早くアガる。来年は多少はツキそうだ。

【12月28日(火)】
▼道を歩いていると、バリバリと神経を逆撫でする爆音を立ててバイクが通り過ぎる。いつも思うが、いったいなんなんだ、あれは? 本来音が出るはずのものをテクノロジーの力で静かにするところにこそ、精巧なマシーンのセクシーな魅力があるのではないか。これほど技術の進んだ時代に、あのような大きな爆音がするとはどうしたことであろう。安物のバイクなのかもしれん。きっとビンボー人が乗っているのだ。だとすると、あまり非難するわけにもいかない。おれはバイクに乗らないからいいようなものの、もしバイクに乗らねばならぬ羽目になったら、まず、ああいう安物しか買えないだろうからだ。
▼バーゲンの季節が来るたび、京都・大阪の人々は頬を引き攣らせ失笑を浴びせるのを楽しみにしていると以前(99年7月2日6日)ご紹介した〈京阪モール・ザ・バーゲン〉の広告に、待望の新作が登場。外国人女性が両手に一本ずつスリコギのようなを逆手にぶらさげ踊っている写真にかぶせてコピー――「ブラボー、ブラボー、ブラブラボー、モール・ザ・バーゲン、ブラブラボー」
 …………。こりゃもう、逆さにぶらさがって寝ているコウモリを見て「カサブランカ」とつぶやく((C)とり・みき)に等しい力業である。田中啓文さん、ほんまに京阪モールでアルバイトしたはりませんか?

【12月27日(月)】
〈SFマガジン〉2000年2月号、「今月の CROSS REVIEW」『終わりなき平和』(ジョー・ホールドマン、中原尚哉訳、創元SF文庫)。三人ともみな褒めていて、ちょっと拍子抜けする。いや、文句なしにいい小説なので、自分が褒めているものが褒められるのは嬉しいわけだが、もう少し評価が割れるかと思っていたのだ。解釈は割れるが、評価はおしなべて高いというのは、けっこうなことであろう。海外のウェブページの感想・批評には、プロ・アマ問わず、ボロクソに言ってるやつも散見される。かと思うと、褒めてるやつは激賞しているのだ。こういう作品は、いずれにせよ、読んで損はないものなのである。
 たとえば、『チグリスとユーフラテス』(新井素子、集英社)は、おれにはそれほど優れた作品だとは思われない。ただおれと波長が合わんだけかもしれんが、嘘は言えん。褒めてる人はたいへん褒めているようなので、波長が合う人には面白いのだろう。補足しておくと、おれはあれを優れた作品ではないと思うが、劣った作品でもないのである。おれは新井素子の「ネプチューン」が大好きで、あれこそ新井素子のSFの最高傑作だと思っている。『チグリスとユーフラテス』は、大冊のわりには、「ネプチューン」ほどのインパクトをおれに与えなかった。ある意味で、あの「ネプチューン」を知ってしまっている読者がいるがゆえに、『チグリスとユーフラテス』は損をしているのかもしれない。あるいは、新井素子文体でニ段組み五百ページ近くを読むには、単におれが歳を取りすぎただけなのかもしれない。
 えっと、こういうふうに毀誉褒貶にやたら広いスペクトルがある作品は、読んでおいて損はないというのが言いたかっただけ。
 〈SFマガジン〉に戻ろう。「今月の執筆者紹介」の近況コメントで、水玉螢之丞さんがやっぱりチビ太のおでんの話を書いている。そうなのだなあ、こうして世界の謎は減ってゆくのだ。しかし、感慨に耽っていてはいけない。われわれの前には、まだまだ探求すべき謎また謎が立ちはだかっている。たとえば、バター犬が背負っているバターはどこの製品なのだろうか。こればかりは『ためしてガッテン』といえども、もう作者に直接訊くわけにはいかないだろう。それも寂しいけどね。一九九九年も、いろんな人が亡くなられました。みなさん、思い出をありがとう。

【12月26日(日)】
▼朝刊の一面を見ると「チェチェン 電車が首都侵攻」などと書いてあり、はなはだ驚く。そういう秘密兵器でもできていたのか。一瞬、「ねじ式」(つげ義春)やら『パヴァーヌ』(キース・ロバーツ、越智道雄訳、サンリオSF文庫)やらがごっちゃになったあらぬ映像が脳裡をよぎったが、よく見ると「露軍が首都侵攻」であった。最近、視力が落ちてきているのだろうか。
▼晩飯を食いながらテレビを観ていると、美空ひばりが唄っている。声フェチ冬樹としては、美空ひばりの声質そのものはあまり好きではないのだが、あのくるりとカエル声になるあたりのいささか下卑た巧さには、やはりゾクゾクする。また、地声とファルセットとの境界がない、高性能戦闘機の演技飛行を見ているかのような緩急自在の声アクロバットには、いつ聴いても感嘆する。いったい、どういう声帯をしているのか。
 おれはけっこう『東京キッド』なんかが好きである。「右のポッケにゃツメガエル〜、左のポッケにゃチューインガム〜」などと意味不明の歌詞で鼻歌を唄うのが楽しい。「私はツチノコ、巷の子〜」というのもある。「ちょいとお待ちよ、円谷さん」なんてのもあったりする。だからなんなんだ。

【12月25日(土)】
昨日の京阪電車沿線火災の記事を新聞で読み、おれはラッキーだったのだとわかる。おれがJRで京都に向かっているころの京阪淀屋橋駅の写真が出ているのだが、ものすごいありさまである。改札付近は立錐の余地もない人人人の洪水だ。もし、おれが淀屋橋駅に到着して事故を知るのがもう少し遅かったら、あの人ごみに巻き込まれていたところである。また、もし、アーケードゲームであっさり悪人どもに撃ち殺され、小腹が空かずマクドナルドでハンバーガーも食わなかったら、線路上で電車の中に閉じ込められていたはずだ。新聞記事から時間を計算すると、まさにそういうめぐり合わせだったのである。やはり日ごろの行いがものを言うにちがいない。おれの信じていない神様とやらは、自分を冒涜ばかりしているやつにもけっこう気前がいいようだ。来年もまた罰当たりなことばかりをほざき続けるにちがいないが、よろしく、神様。
▼妹の家で姪たちとクリスマス・パーティーじみたことをやってきた母が、ケンタッキー・フライドチキンから音楽CDをもらってきた。日本中でやってるサービスなのかどうかは知らないが、6ピースだかなんだかを買うともらえたのだそうである。これがおまけにしては豪華なのだ。山下達郎White ChristmasJingle Bell RockHave Yourself a Merry Little Christmas に、竹内まりやThe Christmas Song の四曲入り。おお、こんなのタダでもらっていいのか。じつのところ、White ChristmasHave Yourself a Merry Little Christmas は、すでに持っているアルバム Season's Greetings に収録されているのと同じものだが、いくつあっても困るもんじゃない。選曲もいい。Jingle Bell Rock は別にして、あとの三曲はバラード系のクリスマスソングでは定番中の定番であろう。おれも大好きな曲である。自分で言うのもなんだが、この三曲なら、おれもかなり自信がある。というか、はっきり言って、自分でもうまいと思う。山下達郎には、ちょっと負けるな。おい、誰かそろそろ止めろよ。聴きたいって? レコード会社からお呼びがかからないからねえ。おれがクリスマスごろに暇なとき運よくカラオケに誘い出し、しかもカラオケ屋にこれらの曲があったという幸運が重なったときにのみ、人はそれを聴くことができるのであった。クリスマスでなくても、気が向いたら家で唄っているから、家族は飽きているだろうけどね。
 竹内まりやの The Christmas Song は、アルバム Quiet Life からだが、持ってないので初めて聴いた。いいねえ。英語にごまかしがなく、感情の込めかたが歌詞と連動している(あたりまえかもしれんが、英語がわからないうえに不勉強な歌手には、このあたりまえのことができないくせに恥も外聞もなく英語の曲を人前で唄うやつがいる)のもいいけど、声フェチ的には、あの絶妙に鼻にかかった声はヒジョーにすばらしい。全盛期(再来年になったら前世紀と表記してもよい)の伊東ゆかりを髣髴とさせるものがあるって、いくつだよ、おれ。
 さて、浮かれてばかりもいられない。仕事じゃ、仕事。

【12月24日(金)】
▼会社の帰りにストレス解消のため、ひさびさにちょこっとアーケードゲームをする。悪人どもを数百人と善良な市民を二、三人撃ち殺してすっきりし、年末年始のちょっとした雑品の買い物をすませ、パソコンショップを冷やかして帰路につく。京阪淀屋橋駅で露店のCD屋をさらに冷やかし、小腹が空いたのでマクドナルドに入り、ベーコンチーズバーガーをコーラのMで流し込む。
 さて、帰ろうと駅のホームに降りてみると、なにやら様子がおかしい。電車の便種・行先表示板になにも表示されていないのだ。妙だなあと思いつつホームに入ってきた急行に乗ったら、なぜかなかなか発車せず、やがてとんでもない車内放送が流れる。香里園駅付近で沿線火災が発生し、淀屋橋−出町柳間、つまり京阪電車の大動脈が不通になっているというのだ。京阪神の地理に疎い方のために詳しく説明しておくと、香里園とは、『男どアホウ香里園』などと関西では古典的なネタに使われる、あの香里園である。どこが詳しい説明じゃ。えー、香里園というのは淀屋橋−出町柳間の相当大阪寄りにあり、京阪を利用して大阪に通っている人のほとんどは香里園よりも京都寄りの駅からやってきている。つまり、折り返し運転をしたところで、ほとんど意味がないのである。
 これはえらいこっちゃなあ、まあ、しばらく待ってみるかと、駅の構内放送と車内放送をとにかく聴く。「まだ燃えているということです」「情報が入り次第お知らせいたします」と、どうも淀屋橋駅でもたいした情報を掴んでいないようだ。携帯電話で自分で情報を取ろうにも、淀屋橋駅は地下にあり、残念ながらツーカーホン関西はまるで通じない。JR大阪駅方面に行くと、地下でもけっこう入るのにな。ツーカーホンに於かれては、京阪電車も重視されたし。いずれにせよ、一般的に地下はPHSのほうが圧倒的に強いな。
 ホームや車内にはクリスマス・ケーキと思しき手荷物を提げた乗客が少なくない。見るからに苛々している人もいて、あとから乗ってきた若い男性など、まるで小便を我慢している柴田恭兵のようにせつなげに身を捩りながら、「何分くらい停まってるんですか?」とおれに訊いてきたりした。パーティーの待ち合わせでもあるのだろう。気の毒なことだ。
 「いま鎮火しました」まではおれも黙って聴いていた。「鎮火はしましたが、建物の撤去にいましばらく時間がかかる模様です」と構内放送。車内放送はもっと率直である。「建物の撤去に時間がかかるようで、いつ発車できるか、ちょっと見当がつきません。いつ発車できるかまったくわかりません」などと言っている。こらあかんわ、と見切りをつけ、おれは急行列車を降りた。地下鉄でJR大阪駅まで行き、そこからJRで帰るという手があるのだ。JRを使うとえらく高くつくのだが、いたしかたない。
 JR大阪駅に着いたころ、なにやら腹具合が悪くなってきたので、公衆便所に入る。大のほうは、みんな使用中である。クソッタレと心の中で舌打ちをしたが、よく考えてみると、それはおのずと状況を正確に描写した罵倒となっているのであった。ようやくひとつ大便室(とでもいうのか、あれは)が空いたので、前の人と入れ替わりに入ると、和式の便器にべったりとビチグソがついている。ひえええ。このビチグソがおれの直前の人のものなのか、さらに前の人のものなのかを判別するのは不可能だ。同様に、おれの次に入れ替わりに入る人がいた場合、次の人に「あ、なんというやつだ」と思われる可能性もあるわけで、こういうのははなはだ迷惑である。入れ替わりざまに、「いえ、ちがうんです。これは私の大便ではありません」などと言いわけするのもなんだか奇妙で、余計疑われそうな気がする。
 冬場のこととて、コートを着ている。ビチグソにかすりでもしたらたまったものではないから、大便がしたいのをこらえて、注意深くコートを脱ぐ。そこでドアの裏に目を転じたおれは、わが目を疑った。ふ、フックがない。上着などを掛けるためにふつうは取り付けられているフックがないのである。お、おれがなにをしたというのか、神様とやら。ほかの場所にフックがあるのではないかと四方を見まわしてみると、うしろの壁にかつてフックが取り付けられていた痕跡を発見することができた。だが、そんなものを発見したところで、なんの喜びがあろうか。ひょっとするとおれは、筒井康隆のドタバタ小説にいま登場している最中の架空の人物なのではないかとすら思えてきた。ごめんなさい、おれは冬場はあまりビールを飲みません。飲んでも、たまに贅沢するときでスーパードライ、たいていはホップスやらなにやらの発泡酒ばかり飲んでいます。今度からよく冷えたモルツも飲むようにします。
 筒井康隆に謝ってもしようがない。ともあれ、あまり清潔とは言えない棚がついていたので、鞄を置いた上にコートと上着をそっと乗せ、なんとか用を足すことができた。ほっとして公衆便所の手洗い場で手を洗おうとすると、ホームレスのおじさんがとなりの洗面台でしきりに鍋を洗っている。クリスマス・イヴになにか特別な料理でも作るつもりであろうか。手を洗いながら横目で観察する。このおじさん、かなり手練れのホームレスである。鍋の洗いかたがうまい。このカランは、蛇口付近を走っている赤外線を遮ると水が出てくるタイプの自動式のものである。なのに、おじさんが鍋を洗っているのを見ていると、水がずっと連続して出ているのだ。ただ手を洗うのでさえ、あのタイプのカランは、うまくしないと途中で水が途切れたりする。このおじさんは、相当ここを使い慣れているのだろう。どのように手を出して、どのように鍋を構えれば赤外線を遮り続けられるかを熟知しているにちがいない。どんなところにもプロフェッショナルはおるものだと(なんとなく語義に矛盾があるような気がするが)感動しながらトイレを出た。
 いやまったく、なんというイヴであったことか。メリー・クリスマス。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『シンポジウム「バイオ世紀の生命観」遺伝子組み替え食品からクローンまで』
(コーディネーター:高橋真理子、パネリスト:ルース・フロマーリンガー、リサ・ワトソン、安田節子、ダリル・メイサー、中村祐輔、リー・シルバー、玉井真理子、瀬名秀明/1999年9月3日/東京・有楽町朝日ホール/主催:朝日新聞社フォーラム21)

 発行は朝日新聞社総合研究センター・フォーラム事務局とあり、発売に関する記述がなく価格もついていないから、非売品のシンポジウム記録のようだ。朝日新聞社発行の冊子なのに角川書店から送られてきていて、シンポジウムのパネリストに瀬名秀明の名があるので、瀬名さんがわざわざご手配くださったのだろう。ありがとうございます。おれは科学関係者でもなんでもなく、単にSFと自分の生活とに関わってくる延長線上で科学者のやっていることを面白がっている野次馬にすぎないのだが、生命科学はとくに個人的に関心の深い領域でもあり、こういう門外漢にもわかりやすい非売品を頂戴するとまことにありがたい。科学に関係のない人など現代の日本にはいないはずなのだが、ことに生命科学はダイレクトに“一般人”と関わりの深い分野である。なにしろ、ポリンキーの袋に「原材料は遺伝子組み替えではありません。」なんて書いてあるんだもんなー。
 余談だが、おれの母親は、のべつテレビを観ていながら、いまだに遺伝子組み替え食品クローン家畜のちがいがわかっていない。とにかくなにやら怖ろしげなものだという認識をしているようである。説明するのも億劫だし、なにより母はニ十秒以上の説明には耐えられないから、とくに実害もないので放置している。とくにおれの母が特別だとは思っていない。顔のない“マス”のレベルはこのあたりだろうと認識しておいたほうが、なにかとまちがいが少ないのではないかとすら思っている。これは、世間の人間をバカにしているエリート意識ではなく、“最大公約数を取る”という作業が自己言及的にフィードバックされてゆく(コンピュータ関連の方には“リカーシヴ・コールされてゆく”とでも言ったほうがイメージが通じると思うが)ことによって作られる“マス”なるものが不可避的に持つ性質を、そう捉えているにすぎない。双方向性を持つメディアを無条件に進んだメディアであるかのようにもてはやす向きもあるようだが、最大公約数の取りかたをはきちがえたままのメディアが双方向性を持つと、目も当てられない愚衆製造装置になる危険性もあるだろう。テレビが登場したからといって、日本人は“一億総白痴化”しなかった、とおれは思う。だが、テレビは一部の元々白痴的であった視聴者をさらに白痴化しているとは言えるような気がする。基本的にあれは増幅装置だからだ。されど、多様性が維持されているかぎりに於いては、それもあながち悪いことではあるまい。誰だって、バカになりたいときがある。
 おっと、話を戻そう。瀬名さんのパネル「問題提起 四 生命科学をいかに伝えるか」だけ先に読んだ。シンポジウムのパネルということもあって、あまり濃密な内容を十全に語るわけにはいかないのだろう、全体としては『小説と科学 文理を超えて創造する』(瀬名秀明、岩波高校生セミナー8、岩波書店)で述べられている小説観、科学観に通じるところが大である。
 「ヒト型ロボットの開発に好意的な反応があるのは、実は日本だけの特徴だそうです。欧米では、神への冒とくだ、という批判が多いのだそうです」というのは、たしかにそういう話はよく目にするのだが、あまり単純化して言い切ってしまうわけにはいかない文化的要因が根底にあるだろうと思うので、事実として前提にできるかどうかにはやや疑問を抱く。『あるロボット工学の研究者は、実は手塚治虫のマンガ「鉄腕アトム」のおかげだと言っていました。「鉄腕アトム」にあこがれて、ヒト型ロボットを開発しようと考えた研究者は、日本にたくさんいます』手塚ファンとしては嬉しい認識ではある。そういう研究者は、事実として実在するだろう。『ブラック・ジャック』に憧れて医者になったという人も、たしかにいる。だが、欧米人が抱くと言われている、ヒト型ロボットに対する感情的な気味悪さを帳消しにするほど、アトムに力があるとはどうも考えにくい。もし、日本人にヒト型ロボットに対するアレルギーがないとすれば、それはおそらく、もっと深いところになにかがあるのだろう。からくり人形の伝統とか、人型の物体に念を託すとか、そうした物体が魂を宿すとかいった、まず器があって、そこに生命が宿るというような発想が日本にはある。形によって、生物と無生物との、此岸と彼岸との境界が存外に容易に溶解させられるのだという発想が根底にあるような気が、おれにはする。形から入っているわけだ。同じ姿をしているものは同じという、野生の思考である。日本人がみなほとんど同じ姿をしていることも影響しているのかもしれない。
 一方、あちらの映画を観ていて、おやおやと思うことがある。『エレファントマン』ジョン・メリックは、あの醜い身体のため踏んだり蹴ったりの扱いを受けていたのだが、彼が『ロミオとジュリエット』を暗唱してみせるシーンで観客は感動することになっている(ここ、感動するトコね、と映画が言っている)。ああ、彼は器は人間の姿じゃなくても、知性と美を愛する心を持っているのね、とたちまち納得しろというわけである。『E.T.』だってそうだ。彼にも home があり、そこへ phone したがっているというだけで、観客はたちまちふにゃふにゃと彼を可愛い存在だとして親近感を持たされるように導かれる(ちなみにあれは、『ベンジー』が犬の目線の高さで撮って成功したように、冒頭からいきなり子供の目線の高さで、大人が持つさまざまな枷と権力を同時に象徴する“鍵束”を撮ることで観客を暗示にかけているのだとおれは解釈している)。『2001年宇宙の旅』のおなじみHALの不気味さは、姿形ではなく中身が人間のようであるので欧米人にはいっそう不気味なのかもしれない。そんなHALが自己犠牲的行為に出る『2010年』では、HALを作った科学者チャンドラ博士は滂沱の涙を流すのである。つまり、こうした少ない例で強引に解釈すれば、欧米人は器よりも中身が人間(に近い)かどうかにこだわっているように思われる。これは、連中が姿形がちがう連中とのべつ遭遇してきて、外見のちがうやつらの中に“自分たちと同じもの”を発見することで異人種、異文化とつきあってきたせいかもしれない。
 むろん、ここで述べたことは、緻密なリサーチに基づいたデータから得られた知見ではなく、おれがなーんとく抱いている感想程度の意見にすぎない。もし、この感想にいくらかの真実が含まれているとするなら、むしろ、日本人がヒト型ロボットを気味悪がり、欧米人のほうがそんなものは平気だと思っても不思議はないだろう。同じ理由で、瀬名さんと同じことも言えるのである。因果関係はよくわからないが、日本人の心性と欧米人のそれとのあいだに、difference は存在しているらしいくらいのことなら言えるかもしれない。ともかくこれは、日本人のヒト型ロボットに対する好意的な感じかたには『鉄腕アトム』の貢献大といった単純化はとてもできない問題ではないかと、おれは慎重にならざるを得ないのである。
 余談だが、ジョン・メリックもE.T.も「やっぱり気持ち悪い」と口にする人は、おれの周囲にはけっこういた。いや、彼らだって、映画に感動してはいるのだ。でも、それとこれとは別だというのである。正直というかなんというか、知性と心を持った存在に対して気持ち悪いとはなにごとかという建前がないのだ。欧米人がほんとうのところどう思っているのか、機会があれば訊いてみたいものである。「姿はどうでもいいのです。知性と心です」などと答えられたら、頭ではおれもそう思っていても、ほんとうに生理がそう思っているか、自問してしまうだろうな、少なくとも、おれは。

【12月23日(木)】
▼コンビニで買っておいた「ポリンキージュニア バーベキュー」湖池屋)を食いながら袋の裏を見ると、「原材料は遺伝子組み替えではありません。」とポリンキーのジャン君が言っている。ちなみに、元祖ポリンキーのあの三人は、ジャン、ポールベル(むかしはベルモンドと言っていたはず)というふざけた名前なのだが、小容量のポリンキージュニアで“ソロデビュー”したのである。ひとりずつメールアドレスを持っているのだぞ。ポリンキージュニアのほうはあきらかに子供向けのコンセプトの菓子だから、遺伝子組み替え云々は保護者向けに言ってるんだろうけど、子供のほうはこれを食いながら「“遺伝子組み替え”ってなんだろう?」と思うよな、当然。教育的と言えば言える。
 さらに袋の裏を読んでゆくと、ポリンキーのサイトにはなんとiモード対応ホームページまであるのである。誰が見るんだ、誰が。子供にiモードのデモをしてやるのには便利かもな。なんともはや、たかがスナック菓子の袋ひとつに時代を感じさせられた。なにがすごいと言って、すごい時代だなあなどと感心しているおれたち大人を尻目に、いまの子供はこういうのをあたりまえだと思って育ってゆく点である。SFだなあ。
 湖池屋ってのは、なんとなくマイナーな感じがする菓子メーカだが、製品コンセプトや広告が異様に濃い。ウェブサイトにもそういうところがよく表われている。これはおれが勝手に思ってるだけなんだが、たとえばカルビージャストシステムだとすると、湖池屋はテグレット技術開発なんだよな。スナック菓子とパソコンが好きな人(けっこう重なってると思うぞ)には、かなり通じる喩えではないかと思う。
 あ、思い出した。97年10月8日の日記に、ウェブページの価値を論じた文脈で『「コイケヤのカラムーチョの袋に描いてある“ヒーおばあちゃん”と“ヒーヒーおばあちゃん”の名前がなんとしても知りたい」と思っているときに、その回答を与えてくれるページに遭遇したら、きっと感動するだろう』などと書いたことがあり、そのときはまさかこんな情報を記しているのは世界広しといえどもおれのページだけだろうと思いながら書いたのだが、さっき湖池屋のサイトをあちこち見てたら、ちゃんとそういうページができていたのでびっくりした。湖池屋おそるべし。
▼昨日の深夜(日付は今日だ)、パソ通友だちの真希さんとケータイでメッセージ交換していたときに、それは起こった。そのとき真希さんの乗っていた終電が人身事故で停まったのである。訊けば、真希さんが昨日職場へゆくときも、電車が人身事故で遅れたのだという。しかし、それくらいで驚いていたおれは甘かった。今日晩飯を食ったあと、また真希さんにメッセージを飛ばしてみたら、ちょうど彼女は秋津透さんたちとカラオケ・パーティーを楽しんだ帰りの電車の中で、なんと、その電車はまた人身事故で停まっているのであった。年末だからだろうか。にしても、東京ってのは、なんともせちがらいところだ。まあ、こっちでは子供を刃物で殺して逃げまわっているやつがいるわけだから、やっぱり田舎がいいなどと陳腐なことは、口が裂けても言えませんけどねえ。
 ♪ Maybe not in time for you and me / But someday at Christmas time...

【12月22日(水)】
▼年末年始は病院の外来が休みなので、会社の帰りに持病の薬をまとめてもらいにゆく。ほんとうは薬を“買いにゆく”のだが、なぜかこういう場合は“もらいにゆく”と言うのだ。日本語は難しい。
 外来の待ち合いコーナーには、日本電気「魚八景」が置いてある。水槽を模した筐体の高解像度ディスプレイに、水中を泳ぐ魚を映し出すだけの奇妙な商品だが、生きものを飼わなくてよいうえに、ソフトを入れ替えればいろいろな水棲生物(エビやらクラゲまであるのだ)が飼える、じゃない、飼っているように見せかけられるので、病院やらホテルやら客商売の店やらにはけっこう好評らしい。長期的には、ほんものを飼っているよりもずっと安くつくだろう。これを味気ないと見るか、冴えたアイディアだと見るかは、意見の分かれるところでありましょう。
 ぼーっと魚八景を見ていると、身長五十センチくらいの女の子がとことことディスプレイの前に近づいてきた。お、きたきた。じつは、病院で魚八景に近づいてくる人を見るのは、映像の魚を見ているよりもよっぽど面白いのである。通常の大人であれば、これが単なる映像であることは難なく見破れるのだが、お年寄りや子供は、どう見てもほんものだと思っているとしか思えない反応をすることがあるのだ。
 その女の子は、しばし偽の水槽の中を泳ぐ魚たちを見つめていたが、やがてうしろのほうの母親を振り返り、映像を指差しながら言った――「おととー」
 か、可愛い。はたして、この子がこの魚をほんものと思っているのか、じつはテレビに映っている魚と同じだと見破っているのかは、よくわからない。わからないが、これは魚だ、私はこれが魚だとわかる、お母さんにも教えてあげよう、魚だよ、と指差したこの子の心の動きはほんものなのである。一枚の児童画かなにかのようなこの情景を見ていたおれは、思わずほにゃあ〜と微笑み、めろめろになってしまった。よくこの子を抱きしめなかったものである。おれは子供が嫌いなんだが、こういうのを見ると、子供ってのはいいものだと思う。これで子供が、ぎゃーぎゃー泣き叫んだり、ウンコやオシッコを垂れ流したり、そこいらじゅうをお菓子でべたべたにしたり、憎まれ口を叩いたり、金属バットを持ってこちらの寝込みを襲ったり、茶髪にガングロで「だしぃー」とか言いながらお金持ちのおじさんに身体を売ったり、ほかの子供の首斬って校門の前に置いたりしなければどんなにいいであろう。あっ、そうか、きっとこういう発想の人が魚八景を作ったのだ。そのうち「子供八景」かなにかができるかもしれない。あ、待てよ、この発想はつまり、グレッグ・イーガン「キューティ」だよな。

【12月21日(火)】
9月30日のJCO臨界事件で中性子線を大量に被曝した作業員が、本日死亡。こう言っては不謹慎かもしれないが、よくいままで生きていたものである。報道で知り得たかぎりでは、あの状況であの線量を被曝したのなら、まあ、たいていの書籍や資料によれば、二、三日からせいぜい一週間で死亡するのが妥当なところだろう。放射線医学の進歩によるところも大きいだろうけれども、なによりも、現代医学ではすでに“生きている”という言葉の意味が日常語のそれから乖離しているのが、彼がいままで生きていられた理由なのだろうな。あのおれよりも若い作業員は、いろいろな意味で貴重なデータを多く残したはずだ。それが最大限に活かされることを望む。
▼かと思ったら、京都市伏見区で校庭で遊んでいた小学生男児が、若い男に刃物で斬り殺される。男は逃走中だそうだ。事件があった日野小学校というのは、おれの家からも妹の家からもさほど遠いとは言えないところにある。事件が報道されてからというもの、母や妹は大騒ぎであったそうだ。そりゃそうである。妹には小学生の女の子がふたりもいるのだからな。逃走中の犯人が次にどこに出没するかわかったものではない。まあ、まちがってもおれの妹や姪は襲わないほうがいいと思うぞ。妹に巴黒潮くずしとコブラツイストをかけられ、身体中に新しい関節がたくさんできることだろう。おれが帰宅してからも、母と妹はまだ電話で事件のことを話している。「学校やからというて、安心して遊ばしてたらあかんえ」などと母が妹に注意をしているが、そんなのはいまにはじまったことではない。先生に痴漢行為をされるかもしれん。警察官にされるかもしれんし、大阪府知事にされるかもしれんぞ。姪たちが正月に遊びに来たら、「先生とおまわりさんと政治家のおじさんには気をつけるように」と教えてやることにしよう。会社に入ったら、上司のおじさんにも気をつけなくてはならない。これからどんどん色気がついてきたら、おれにも気をつけたほうがいいぞ。
 そ、それはともかく、わけのわからない犯行声明を現場に残し、自分を示す“記号”とやらを書き記している点、九七年の酒鬼薔薇クン事件の模倣の匂いが濃い。もっとも酒鬼薔薇クンほどの偏った特殊な知能は感じられず、ただただひたすら幼稚なだけの声明文である。十中八九子供の犯行だと誰もが思っていて、やりきれなさを感じていることだろう。


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