間歇日記

世界Aの始末書


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2001年8月中旬

【8月20日(月)】
▼なぜか“猪木の「ダーーーッ!」”をやっているようにしか見えない、いつも昼飯を食う喫茶店の招き猫。山頭火風。どこがだ?

【8月19日(日)】
「第40回日本SF大会〈未来国際会議:SF2001〉」も二日めであるからして、星雲賞が決定。小説部門に関しては、まあ、予想どおり。日本短編部門「あしびきデイドリーム」(梶尾真治)というのが、ちょっと唐突な気はする。おれはエマノンが好きなので、なんの文句もないけれども、だからといって「あしびきデイドリーム」がとくに突出した傑作短編であるとも思えない。思うに、長らく入手困難だった『おもいでエマノン』『さすらいエマノン』が徳間デュアル文庫で復刊されたため若年層のエマノン・ファンが増え、その層の票が「あしびきデイドリーム」に集まったのだろう。短編は数が多く評が割れるために、ファン投票では出版タイミングもけっこう結果を左右するはずだ。小説以外の部門は、おれはとやかく言えるほど詳しくない。しかし、なぜに『カードキャプターさくら』(CLAMP)? アニメのほうを数回観たことしかないのでよくわからないのだが、コミックのほうはSFSFしたものなのであるのかもしれんな。そのうち読んでみよう。
 これで山岸真さんも星雲賞翻訳家になった。受賞者のみなさま、おめでとうございます。

【8月18日(土)】
▼世間では(かなり狭い世間だが)、今日から「第40回日本SF大会〈未来国際会議:SF2001〉」が開催されている。今年はもったいなくもゲストに呼んでくださったのだが、夏休みが短いうえにやたら忙しく体調も悪いため、今年もお伺いできず。もともとSF大会にはあまり行くほうではないが、今年は二○○一年という記念すべき年でもあり、幕張という比較的行きやすい場所(京葉線の“東京駅”という詐欺みたいな駅名は別としても)だったためかなり食指は動いたのだけれども、行く行くと言っておいてドタキャンするのは嫌いなので、大事を取って行かないことにし、結局行かなかったのである。
 それはさておき、さっき“未来国際会議”と入力しようとしたら、“みらい子臭い会議”と変換されてしまい、あまりの申しわけなさに涙を流しながら大笑いしてしまった。こ、これっ、なんということを! みらい子さん、おっ、おれのパソコンには他意はないので、いやもちろんおれにも他意はないので、お気を悪くなさらぬよう。“みらい子”という特殊な文字列を辞書に人名登録しているから、こういうことが起こるのだ。しかし、“未来交通”とか“未来工事現場”とか“未来恋物語”とか“未来肛門外科”とかは一発で変換されるのはどういうわけだ?
『ウルトラマンコスモス』(TBS系)の今日の怪獣は、むかし懐かしガラモンそっくりで、その名も“ガモラン”。ひねりなさい、ひねりなさい。ま、少しはひねってるか。ご丁寧に人間大の小さいやつも出てきて(というか、ガモランのほうが巨大化するのだが)、そいつは“ピモグン”だろうと思ったら、さすがに言いにくいせいか、“ミーニン”なのであった。卵(?)を発見して孵した子供たちが“ミーニン”と名づけるのだけれども、その時点ではガモランのほうが巨大化して暴れることを子供たちは知らないはずなのであり、なにを以てミニだと思ったのかは不明である。

【8月17日(金)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『鬼の探偵小説』
田中啓文、講談社)
『SFバカ本 人類復活篇』
岬兄悟大原まり子編/北野勇作、草上仁、岬兄悟、矢崎存美小室みつ子高瀬美恵、大原まり子/メディアファクトリー)
「Treva」で撮影

 『鬼の探偵小説』の腰巻には、「推理と恐怖の鬼才、講談社ノベルス初登場!」とあるのだが、おれは田中啓文をそんなふうに見たことがなかったので、はなはだ驚いた。たしかにそういうふうに見ようと思えば、なるほど推理と恐怖の鬼才にはちがいない。藝域が広すぎて、的確な肩書きやコピーを考えるのが難しい。そのうち“嘔吐と痙攣の異才”とか“天地無用と割れ物注意の天才”とかいろいろ出てくるかもしれない。ナニとナニのナニ才であっても、そう言われればなんとなくそういう気がしてしまうところがすごい。
 『人間業とは思えぬ変死体の謎に挑む忌戸部(いみとべ)署の「鬼」!』というコピーはたぶん編集者が考えたのだと思うが、よくよく読むとこれはよくできたコピーである。「人間業とは思えぬ変死体」ってのがいい。これはつまり、ふつうに読めば、「よくもこんな殺しかたができたものだ。人間業とは思えない」という意味ではなく、「ようこんなケッタイな殺されかたしよるな。人間業やない」という意味である。変死体のほうが主体であって、変死体が変死体であるさまが「人間業とは思えぬ」と言っているのであり、「もうちょっとまともな殺されかたせえよ」と、変死体を非難しているようなニュアンスさえ感じられる。通常なら、なんだか文法がヘンだと思うところだが、なにしろ田中啓文の本であるからして、これはこれでよい、いやそれどころか、これが最も適切な言いまわしであるような小説にちがいないと思えてくるから不思議である。
 しかし、裏表紙のアオリには、「人間業とは思えぬ事件の背後に隠れているのは、いかなる論理か、それとも狂気か?」と書いてあって、こちらは事件を起こしたやつのほうについて「人間業とは思えぬ」と言っているから、もしかしたら腰巻のコピーのほうは単なるミスなのかもしれず、あるいは、ヘンだと気づきつつも、「お、このほうがおもろいやんけ。なにしろ田中啓文やからな」と編集者がそのまま面白がって通したのではないか、それやったら怖いななどと、読む前から推理と恐怖を楽しめたのであった。
 『SFバカ本 人類復活篇』は、もう説明の必要もない、おなじみ《SFバカ本》シリーズ最新刊である。ハードカバーやら文庫やら、いままでいろいろな版形を渡り歩いてきたが、メディアファクトリー版になってからのソフトカバーがいちばんコンセプトにしっくりくるような気がする。しかも今回から紙質が変わっており、作品数も減っていて、ちょうど手に取りやすい重量である。安っぽいというよりも、親しみやすい効果のほうがよく出ており、《SFバカ本》としてはこの版形、この紙質がベストではないかと思う。なぜか、手に取ったときに不思議な心地よさがあるのだ。単におれがこういう版形が好きなだけかもしれんけど。

【8月16日(木)】
「小太りを落とす勢い――ダイエット」というのを考えたのだが、来年の御教訓カレンダーの締切は過ぎているよなあ。それに、見れば見るほど過去にあったかもしれないような気がしてつまらなく思えてきたので、日記で使ってしまおう。
「おや、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ、デスラー総統」――というネタも、見れば見るほどどこかで使われているような気がしてきたので、使ってしまうことにする。
▼むかし『お聖どん・アドベンチャー』(田辺聖子、集英社文庫/徳間文庫)というバカ本があったのだが、あの書名を思い出すたび、おれは巨大な田辺聖子が海底をのっしのっしと歩いている姿を夢に見てうなされる。それにしてもあれは、『とうに涅槃をすぎて』(橋本治、徳間文庫)に匹敵する脱力系タイトルの傑作ではあるな。後者はたしか沖雅也が飛び降り自殺をしたころに出た本だったかと記憶しているが(なにしろ「涅槃で待つ」というのは流行語だったのだ)、いまとなっては、なぜだしぬけに“涅槃”なのかさっぱりわからない。じつはタイトル“だけ”が印象に残っていて、買っても読んでもいないのだ。タイトルだけをこれだけ印象づけたのだから、すごいと言えばすごい。もっとも、出た当時だって、“涅槃”のほうは日本国民のほとんどにわかったろうが、なぜ“とうに過ぎ”なければならないのかがわかった人は少数であったろうと思われる。ひょっとしたら、『とうに夜半を過ぎて』(レイ・ブラッドベリ、小笠原豊樹訳、集英社/集英社文庫)よりも『とうに涅槃をすぎて』のほうが売れたのではなかろうか。おれはブラッドベリの短篇集の中でも、とくにあれは好きなんだがなあ。日本語で読んだことはないのだけれど、古本屋で見かけでもしたら買っておこうと思いつつ幾星霜、いまだに見かけたことがない。捜してまで手に入れたいというほどの情熱はないんだな、これが。やっぱりおれは、コレクターにだけは絶対なれない性格だ。

【8月15日(水)】
▼終戦記念日。靖国神社は例年に輪をかけて大騒ぎである。表層のイデオロギーとはまったく別の次元で、この大騒ぎは、そこはかとなく“祭りのように不気味”に感じられる。“祭”“奉”“政”などと外国の文字で書き分けるものだから表層の意識ではちがうもののように錯覚しているが、このクニの深層に流れる闇の意識にとって、これらは“まつりごと”という、もともとひとつのものにほかならない。
 さてさて、おれたちが昭和の終わりに体験したあの不気味な“夜”の日々を「夜舞」で描いて見せた野阿梓であれば、この“やすくにまつり”もそのうち小説にしそうな気がするのだが、おれごときが勝手に期待するのも迷惑であろうゆえ、密かに待つこととしよう――と、日記には書いておこう(古い)。

【8月14日(火)】
一昨日書いたカーペンターズペリー・コモの競演というのは、“大工と散髪屋”というケッタイな取り合わせだと気づく。けっこう有名な逸話だけれども、若い方はご存じないかもしれないので念のため解説しておくと、ペリー・コモは最初理髪店で働いていて“唄う散髪屋”として有名になり、プロになってしまった人なのである。
 だが、考えてみれば、日本でも、戦後最も親しまれた歌謡界の女王は魚屋の娘であったし、大晦日になると、毎年ちがうモビルスーツに身を包んだ肉屋の娘が現われて唄い、お茶の間の度胆を抜くことになっている。似たようなものである――って、どこがだ?

【8月13日(月)】
小泉首相が靖国神社に参拝。おれは思わず「ちゅ〜〜〜〜〜〜っとハンパやなぁ」と叫び、うしろにコケそうになった。来年までには、いろいろな意味で決着をつけていただきたいものである。
▼夜、道路工事現場を通りがかり、ふと思う。あのヘンテコな“点滅するチューブ”があったのである。ほれ、ご覧になったことあるでしょう、チューブの中に等間隔に電球が配置されていて、たとえば1・3・5・7・9番めの電球が点いたと思ったら、次の瞬間には2・4・6・8・10番めの電球が点き、それを交互に繰り返すだけのものだ。それだけのことなのに、人間の脳は、なぜかチューブの中を光が一方向に移動してゆくように認識してしまうのである。誰が考えついたものか知らないが、じつにエレガントな仕掛けだ。おれはあれがなぜか好きで、あれを見かけると、頭の中で必ず実験をする。「いま、光が左から右に移動しているようにおれの脳は錯覚しているな」と思うや否や、「いや、右から左に移動しているのだ。そうにちがいない。絶対にそうである。そうなのだ〜っ」と強く自分に言い聞かせると、あら不思議、たちまち右から左に移動しているように見えはじめる。さらに、「いやいや、騙されてはいけない。あれは単に複数の電球が交互に点滅しているだけなのだ。そうである。ほかにどんなふうに見えるというのだ?」と自分に言い聞かせると、はたしてそういうふうにしか見えなくなる。なんとも人間の認知というのはいいかげんなものである。そのいいかげんさを確認するのが面白くて、いつもあれで遊んでしまうのである。
 今日、よくよく観察して気づいたのだが、あのチューブはあまりまっすぐには配置されていない。まっすぐ配置できるはずなのに、わざとくねくねと蛇行させてある。たまたま比較的まっすぐ張ってある箇所があったので、そこをじっと見つめてみると、光が移動する錯覚が生じにくいことを発見した。なるほど。蛇行させてあることには、重要な意味があったのだな。蛇行しているというだけで、人間の脳はそこに“運動”を勝手に見て取ってしまうのだ。蛇行しているものは運動している可能性が高いという認知の鋳型が、進化の過程か個体の経験かで形成されているのであろう。縄跳びの縄の一端を持って左右に振ったりしても、“波”が“移動”してゆくように見える。新体操のリボンでもそうだ。縄やリボンを等間隔に区切って各区画の動きだけを捉えれば(つまり、デジタルな見かたに変換してやれば)、各区画は仮想の“波”の進行方向と垂直に振動しているだけであるにも関わらず、やはりそこには連続的過程としての“運動”が見えてしまう。
 “錯覚”というものは、高度な情報処理のパターン化があればこそ生じるもので、“錯覚”できない類の知能(人工知能とか、ある種の障害を持つ生体脳とか)は、錯覚してしまう類の知能に比べて客観的な真実が見えているとも言えるし、よりバカであるとも言える。「あっ、ほら、あそこっ!」と誰かがだしぬけに指を突き出したとき、その人物の目と指先を結んだ延長線上の彼方に目をやってしまうのは一種の錯覚である。客観的に考えれば、ある種の精神疾患を抱える人がそうであるように、その“指先そのもの”に注目するのが合理的な情報処理であるとも言えないことはない。道の真ん中でひとりの男が片方の腕を高々と掲げて空を指差しているので、道行く人々がなにごとかと大勢集まってきて、みな怪訝そうに空を見上げている。それを見てさらに大勢の人が集まってくる。やがて黒山の人だかりの中心で男はおもむろに指を下ろし、指先を見つめて言う――「……やっと血が止まった」――な〜んて古典コントも、錯覚があればこそ笑えるのであった。
 錯覚することにもしないことにも、いずれにも一長一短がある。どちらが高度であるとは言えないのだ。真に柔軟な知性は、その錯覚をもメタレベルからコントロールする認知や思考の枠組みを常にどうしようもなく見つけようとしてしまうものであるべきではなかろうか。錯覚を意図的に“着脱”するのだ。錯覚で遊ぶのである。人類は、それを知っているほどには十分に知性的であるけれども、言うは易く行うは難いのも事実だ。また、メタレベルに立つことそのものが重要なのではない。メタには常にメタがあり、そのメタ化の階梯にはきりがない。メタレベルに立つことはちょっと訓練すれば誰にでもできる。いったんメタレベルに立ったうえで、もう一度当初のレベルに降りてゆき、メタレベル思考を“着脱”することこそが重要なのである。少しでもそうした高度な境地に近づくためには、文化という錯覚の中で、SF的思考は非常に有力な武器となり得るのではないかとおれは思っている――って、道路工事現場からここまで引っ張るかね。我田引水もはなはだしいよなあ。

【8月12日(日)】
▼二十一世紀になってカーペンターズ(A&Mがユニバーサルに買収されてから、なにしろいま本国に公式サイトが存在しないという状態なのである。一応、このリンクは日本の公式サイト。すげーつまらない)のニューアルバムを聴けるとは思わなかったが、こうして手にしているのだからしようがない。デジタル技術万歳である。
 というわけで、このas time goes by、正式に過去のアルバムに入らなかったアウトテイクやテレビ出演などを音源にリチャード・カーペンターが編集したもので、掘り出しものの収録曲 The Rainbow ConnectionLeave Yesterday Behind がテレビドラマ(TBS系『恋がしたい 恋がしたい 恋がしたい』)の主題歌と挿入歌に使われているらしく、そのためか日本先行発売なのだそうである。カーペンターズにとって、日本は足を向けて寝られない市場ですからなあ。ベンチャーズとかとちがって、いまだに世界中で人気があるしね。
 聴いてみると、これがもう、ファンにはたまらんプレゼントである。カレン・カーペンターエラ・フィッツジェラルドのデュエット、カーペンターズとペリー・コモの競演なんてのが入っていて、小便をちびりそうに嬉しい。『ゴジラ対ガメラ』でも観ているかのような豪華さである(もう少しましな喩えはないのか)。アルバムのタイトルにもなっている As Time Goes By はカレンとエラの掛け合いメドレーに含まれている。これにはイングリッド・バーグマンだって小便をちびったにちがいない(もう少し上品な感激の表現はないのか)。こんなのがあったんなら、もっと早く出してくれよ。
 個人的にとくに嬉しいのは、バラード風にアレンジした Nowhere Manビートルズの曲ではおれの最も好きなもののひとつだ。ガレージ録音のデモテープが残っていたそうだ。脱力したときなど、おれはよく勝手にバラードにして鼻歌で唄っているのだが、おおそうか、リチャード・カーペンターも高く評価しておるか。「ノルウェイの森」(どうでもいいけど、このケッタイな邦題はなんとかならんか)なんかもいかにも唄ってそうな気がするんだけど、ありませんかね、リチャードさん? 白鳥英美子のはなかなかいいぞ。
 こんなのもあったのかと驚いたのは、リチャードのピアノとオーケストラの Close Encounters/Star Wars である。おお、SFじゃ。歌詞はないからカレンは唄わないけれども、『題名のない音楽会』風の企画が面白い。カーペンターズもいろんな“営業”してたのねえ。
 ちょっと気になったのが、カレンの California Dreamin' である。言うまでもなくあのスタンダード曲だが、スタンダードだからこそ気になる。二コーラスめの、教会に入るところの歌詞が、"I began to pray" となっていて、カレンもそう唄っている。「あちゃー、よくも悪くもカーペンターズ」と、いささか苛立つ部分だ。アメリカン・ポップス好きの方には言うまでもなかろうが、もちろん原曲では "I pretend to pray" である。カーペンターズはたまにこういうことをやる。Superstar の "And I can hardly wait to sleep with you again" を "to be with you again" と替えて唄ったのは有名な話だ(余談だが、おれはカーペンターズ用にレオン・ラッセルの原詩を変えたのだとばかり思っていたのだけれども、「スーパースター」にはリタ・クーリッジ&レオン・ラッセルのバージョンがあって、カレンはそれを使ったのだというk.d.ラングの説を見つけた。インターネットってのはこれだから面白い)。ここでも、WASP中流階級の価値観が服着て歩いてるようなイメージをおっかぶせられてしまったカーペンターズの悲哀と言おうか、やっぱりカーペンターズが“祈るふり”をしてはまずいのであろう――ところが、念のため、原曲の歌詞にネットで当たってみたところ、面白い証言に出くわした。The Mamas and the Papas の原曲にも、歌詞のちがうバージョンがあるというのだ。これは知らなんだ。気になってさらにいろいろなサイトを見てみると、どうやら映画のサウンドトラック版では "began to pray" になっているらしい。むろん、広く人口に膾炙しているのは "pretend to pray" のほうだ。カーペンターズどころか、ママス&パパスにしてからが、なんらかの政治的・宗教的圧力をかけられたということなのだろうな。こういうところが、アメリカという国のじつに野蛮なところである。「伊代はまだ十六だから」という“商標”入りの歌詞をNHKでは変えさせられたなんて話は、まだかわいいものだ。まあ、カーペンターズとしては、当然、"began to pray"バージョンを選んだのだろう。それにしても、こういう言葉狩りは見苦しくて厭だねえ。"pretend to pray" と "began to pray" では、曲の趣が全然ちがってしまうではないか。時代背景とか土地柄とかいうものが死んでしまう。"began to pray" では、この歌の主人公は、ただただ気温が高かったからカリフォルニアに帰りたがっているという、じつに薄っぺらなことになってしまいかねず、はなはだ間抜けである。
 さてさて、嬉しいのは、やはり The Rainbow Connection だ。べつにドラマの主題歌になったからではない。なにしろこれは、カエルのカーミットThe Muppet Movie(1979)で唄った曲なのである。あのカレン・カーペンターがカーミットの持ち歌を唄っているのである(まあ、ポール・ウィリアムスの曲だから、カーペンターズにも縁が深いのだが)。これはカエラーにとっても名誉なことだ。大人にも通じる、いやむしろ、大人のための童謡といった趣で、いつまで経っても大人になれないおれのような人間には元気の出る、ほのぼのとしたよい歌である。カーミット版の歌詞と彼の勇姿は、トランス・セクシュアルの katie さんのサイトで見られるし、カーペンターズ版の歌詞と対訳・解説は、カーペンターズ研究では他者の追随を許さない、ご存じ小倉ゆう子氏のサイトで楽しめる。これは名曲ですぞ。おれの一生の愛唱歌となるであろう。
 というわけで、SFありカエルありのカーペンターズなどという、まるでおれのために出たようなアルバムに、ひたすら狂喜する日曜日なのであった。いやあ、あんまり嬉しいもんだから、長々と書いちまったなあ。

【8月11日(土)】
7月7日の日記に、「たとえば二十年後に八○年代のサイバーパンクをふりかえったとき、いったいそれがどんなふうに見えるのか、いまから楽しみだったりするのだ」と書いたところ、高校一年生の本上力丸さんから、面白い意見をいただいた――『まあ多分、今で言うところの「高層ビルの間を空飛ぶ車が飛び交う世界」みたいな感じで語られるのでしょうねえ――というか、私がそう感じています』
 なるほどねえ。本上さんは、ちょうど『ニューロマンサー』(ウィリアム・ギブスン、黒丸尚訳、ハヤカワ文庫SF)がアメリカで出版されたころに生まれているわけである。なんと、「クローム襲撃」Burning Chrome(ウィリアム・ギブスン『クローム襲撃』浅倉久志・他訳、ハヤカワ文庫SF所収)で“サイバースペース”という言葉が誕生したときには、まだ影も形もなかったということか。おそるべし、高校一年生(なにがだ)。
 まあ、たしかに、サイバーパンクっぽいものがすでにあたりまえのように存在している世界に生まれ育った本上さんたちには、おれの世代にとっての「高層ビルの間を空飛ぶ車が飛び交う世界」のように、いまの世の中が見えているだろうねえ。現実というやつは、なかなかフィクションのように“かっこいい汚れかた”をしてくれないものですなあ。


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