間歇日記

世界Aの始末書


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2001年7月上旬

【7月10日(火)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『ハルピュイア奮戦記 第二話 翼の決断』
秋津透、ハルキ文庫・ヌーヴェルSFシリーズ)
『カムラッドの証人 ゾアハンター』
(大迫純一、ハルキ文庫・ヌーヴェルSFシリーズ)
『チェンジリング 碧の聖所(ネウェド)』
妹尾ゆふ子、ハルキ文庫・ヌーヴェルSFシリーズ)
『暗黒太陽の目覚め(上)』
林譲治、ハルキ文庫・ヌーヴェルSFシリーズ)
「Treva」で撮影

 どっひゃー、である。要するに、このたび立ち上がったハルキ文庫の新レーベル《ヌーヴェルSFシリーズ》のスターティング・メンバーをまとめて送ってくださったわけだ。いくら『カムラッドの証人 ゾアハンター』の解説を書いているとはいえ、こんなにいただいていいものであろうかと恐縮する。ありがとうございます。それにしても、前にも同じようなことを書いた気がするが、まだオンラインでもオフラインでもまったくやりとりしたことのない大迫純一さんを除いては、パソ通のチャットを通じて知り合った人ばっかりである。夜な夜なみなで遠隔筆談のバカ話をしていたころから、かれこれ十年は経とうか……。思わず(・_・)(トオイメ)になってしまいそうだ。
 それはさておき、ひとつお詫びをしておかなくてはならない。『カムラッドの証人 ゾアハンター』の解説に一箇所唐突にヘンテコなところがあるのだが、これはおれの校正指示が曖昧だったためである。この場を借りて、訂正させていただく。237ページに――

(前略)SFに疎い方のために簡単にご説明しておくと、「(1)ロボットは人間に危害を加えてはならない」「(2)ロボットは(1)に反しないかぎり人間の命令に従わなくてはならない」「(3)ロボットは(1)(2)に反しないかぎり自己を守らなくてはならない」というSFの世界では有名な原則だ(安全性・操作性・堅牢性だから、家電製品の条件そのものだと穿ったことを言う人もいる)。
「この“縛り”が要所要所で隠し味に使われているため、いかに人間そっくりであってもダリアには古典的なロボットらしさがついてまわり、“キャラが立つ”わけである。」また、音緒を問答無用の超能力者にせず、一応理屈で説明がつく異能者と設定したところもニクい。(後略)

 ――とあるが、「この“縛り”が……」の一文の箇所がおかしいうえ、「 」で括られてしまっている。ここのところが、おれの指示が曖昧だった部分だ。お恥ずかしいことに、おれはファックスを持っていないのである。ゲラに対して筆者校正をかけなければならないような解説の仕事はそう頻繁にあるわけではないので、ほかの用途にはまったく使わないファックスを買うのを横着して渋っているのである。校正指示はいつも電子メールで行う。誤解のないように気を配っているつもりだが、今回はけっこうスケジュールがタイトだったため、うっかり誤解の余地のある書きかたをしてしまったようだ。面目ない。正しくは、こうなのである――

(前略)SFに疎い方のために簡単にご説明しておくと、「(1)ロボットは人間に危害を加えてはならない」「(2)ロボットは(1)に反しないかぎり人間の命令に従わなくてはならない」「(3)ロボットは(1)(2)に反しないかぎり自己を守らなくてはならない」というSFの世界では有名な原則だ(安全性・操作性・堅牢性だから、家電製品の条件そのものだと穿ったことを言う人もいる)。この“縛り”が要所要所で隠し味に使われているため、いかに人間そっくりであってもダリアには古典的なロボットらしさがついてまわり、“キャラが立つ”わけである。
 また、音緒を問答無用の超能力者にせず、一応理屈で説明がつく異能者と設定したところもニクい。(後略)

 少々レイアウトがおかしくても文意は通じるのが不幸中の幸いであったが、「おや、この意味ありげなカッコはなんじゃ?」と悩まれた方もいらっしゃるであろう。まことに申しわけございません。お買い求めになった方は、上記のように訂正しておいてください。
 それにしても、腰巻の表紙面に解説者の名前が入っているのはびびった。井辻朱美氏の格調高い解説(『チェンジリング 碧の聖所(ネウェド)』)ならそれだけの値打ちもあろうが、ほとんどファンレターみたいなノリのおれのミーハーな解説であんなところに名前を入れてもらったのでは、いまにも稲妻に打たれそうで畏れ多い。もったいなや、もったいなや。でも、ちょっと気持ちよかったりして。

【7月9日(月)】
「VAAM」とかいうスポーツ・ドリンクのテレビCMに首を傾げる。「事実、高橋尚子は、VAAMを飲み、そして、勝った」(なんか『プロジェクトX』のナレーションみたいだが……)ってやつね。
 「事実」とだしぬけに前置きするところから、この前に「VAAMとやらにほんとに効果はあるのかぁ?」といった視聴者の心内発声が省略されていると見るべきだろう。とすると、「高橋尚子は、VAAMを飲み、そして、勝った」という部分は、その心内発声に対する反論なのである。「高橋尚子は、VAAMを飲み、そして、勝った」ことが、「VAAMとやらにほんとに効果はあるのかぁ?」に反駁するための論拠として持ち出されているわけだ。
 この立論はあきらかにおかしい。過度な一般化をしている。どこかどうおかしいのかピンと来ない方がこの日記の読者に万が一にもいらしたら、『ΑΩ(アルファ・オメガ)』小林泰三、角川書店)の八十六〜八十七ページあたり、小野妹子が英語を喋るかどうかのくだりをご参照ください。
 あそこを読んだとき、おれは爆散せんばかりに笑った。ふつうに読んでももちろん論理エラーが面白いのだけれども、小林泰三の邪悪さを知るインターネット利用者(けっして少なくはない)には、広く人口に膾炙している楽屋ネタとしても二重に楽しめたはずである。あそこはあきらかに笑うところなんだが、気づいている人は意外と少ないみたいだ(と、本人もあるところで言っていた)。つくづく邪悪で不真面目なおっさんである。

【7月8日(日)】
▼体調ことに悪し。暑さのせいか。今月はまた、表業でも裏業でもやたら本を読まねばならないのに、なかなか進まない。夏のバカ野郎ーっ!
 それはさておき、このくそ暑いのに「保守ピタル」はないだろう「保守ピタル」は……。今回の選挙は、寒い駄洒落合戦か。

【7月7日(土)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『20世紀SF(5)1980年代』
(カード/ギブスン他、中村融/山岸真編、河出文庫)
「Treva」で撮影

 あっ、なんてことだ。この日記をチェックしてみたら、おれとしたことが、『20世紀SF(4)1970年代』も頂戴していたのだが、このコーナーで《ご恵贈御礼》を申し上げ忘れていたらしい。コピー&ペーストして編集しようと思い、前回このシリーズをご紹介したのはいつだったろう?」と調べてみると、何度調べても『20世紀SF(3)1960年代』が最近なのである。中村さん、山岸さん、申しわけありません。ちゃんと(4)もいただいております。ありがとうございました。どうも近ごろぼーっとしていていけない。前からぼーっとはしているけれども、ことにひどくなってきた。
 (5)はいよいよ一九八○年代、サイバーパンクの登場である。考えてみれば、いまの中高生くらいまでの若い人たちは、生まれたときにすでにサイバーパンクがあったんだよなあ。しみじみ。いまの世の中がこういうふうに電脳漬けになってしまったのは驚きといえば驚きなんだが、そのじつ本質的にはちっとも驚いていないような気もするのである。今日のこの日が“懐かしい”という感じさえする。SFファンという連中は、あのころからずっといま現在の世界をあたりまえのように生きていたというか……。たとえば二十年後に八○年代のサイバーパンクをふりかえったとき、いったいそれがどんなふうに見えるのか、いまから楽しみだったりするのだ。
 どうでもいいけど、いまでも、いまだに、ふとした拍子に“ジャック・インする”なんて言葉を使ってしまったりするよなあ。そこはかとなく面はゆくないすか?

【7月6日(金)】
▼会社の帰りにコンビニに寄ると、まーたもや恐竜系の玩具菓子が出ている。最近、この手の大人狙い食玩は完全にバブっているのではないか。いくらなんでも、とても全部揃える気にはなれない。そもそも、誰も「全部揃えろ」などとおれに命じているわけでもないのに、勝手にうしろめたくなる精神構造をなんとかせねば金など貯まらん。
 というわけで、最近は、シリーズの中でもとくに好きなものを二、三個試し買いするだけで、努めて飽きるようにしている。この『ダイノワールド』カバヤ)ってやつは、“翼系”を二種買うに留めることにした。アーケオプテリクスケツァルコアトルスである。このシリーズのコンセプトからすると、なにを措いてもオビラプトルを買うのが王道(なんのだ?)なのだろうけれども、それもなんとなくあざといような気もして、結局やめる。なにがどうあざといのだかさっぱりわからない。おやじ心はフクザツなのだ。
 アーケオプテリクスなんてのは、おれの子供のころにはどの本にも“始祖鳥”と書いてあったもんで、そのころでもちゃんと「鳥の直接の祖先ではないと考えられている」などといちいち但し書きがついていた。だったら紛らわしい和名で呼ぶなよとひとりで突っ込んでいたが、最近の子供は、まずアーケオプテリクスと憶えるのだろうか? そうだ。今度姪がやってきたら、このフィギュアを見せて名前を訊いてみよう。上の姪は知るまい。下の虫愛づる姫君のほうだ。恐竜というのは、正しい少女の三種の神器であろう。正しい少女は男の子ばかりと遊び、恐竜の名前くらいすらすらと言ってのけるものだ。「赤パキケファロサウルス、青ケツァルコアトルス、黄パラサウロロフス」が三回言えるか試してやろう。「隣のティラノサウルスはよく客食うティラノサウルスだ」も悪くない。「このプロトケラトプスにトリケラトプス立てかけたのはディプロドクス立てかけたかったからプレシオサウルス立てかけたのだ」 結局なにを立てかけたのだ?
 まあ、こういうことを言わせていると、そのうちおれの妹が「おっちゃんと遊んだらあかん」と言い出すにちがいない。そこからが勝負だ(だから、なんの?)。迫害を跳ねのけるくらいでなくては、正しい少女にはなれん。正しい少女への道は険しいのだ。

【7月5日(木)】
▼会社から帰宅すると、小学校三年生の姪からケータイにメールが入ってきた。「かなぶんについて」というサブジェクト。いったいどこのどいつのせいだか知らないが、この姪は、理科系には興味のないらしい中学一年生の姉とはちがって、虫やら機械やらに異様な興味を示す少女に育っている。どれどれ、カナブンがどうしたのかな――「私が飼っているかなぶんのことでききたいのやけど.かなぶんがかなぶんの上に乗っておしりの所の出てる物がつながってるけど.卵を生むのかなぁ?教えてね!」
 あー、それはだな、おしべとめしべがあわわわわ。いやなに、ケータイで説明するにはいささか負荷の大きい問題だ。
 おれはにわかにテクスト至上主義に徹し、訊かれたことだけに答えた――「そうだよ」

【7月4日(水)】
▼話題の『フロン 結婚生活・19の絶対法則』岡田斗司夫、海拓舎)を読んだ。この日記を継続的に読んでくださっているという奇特な方で『フロン』をお読みになった方には言うまでもないことだが、おれにはなんら新しい認識をもたらすことのない本であった。至極あたりまえのことばかりが書いてある。しかし、あたりまえのことばかりが書いてあるにもかかわらず、たいへん愉快な本だ。唆しかたが巧いのである。上野千鶴子やら田嶋陽子やらの言うことがいまひとつよくわからない読者層にも、岡田斗司夫の言葉はストレートに伝わることだろう。はっきり言って、上からものを言う洗脳文体がおれには鼻につくのだが、「こんなことにも気づいてなかったの?」とでも言わんばかりに誰かがぐいぐい引っ張ってくれるのを内心願っているメンタリティーの持ち主は存外にたくさんいるので、これはこれでひとつの手だろう。
 おれはかつて自分の父親をリストラしたので、岡田斗司夫が実践した「家庭から夫をリストラせよ!」という結論にはなんの違和感もない。じつにもっともな、ひとつの論理的帰結である。みずからの思想に正直に生きる岡田斗司夫のサムライ精神には清々しいものを感じる。もっとも、べつにたいしたことではなくて、岡田斗司夫は「そうしないと自分もパートナーも子供も不幸になる」と結論して、ただ単に不幸を回避し幸福を追求しているにすぎないのだから、そこいらのおじさん・おばさんとそうちがったことをしているわけではない。
 それにしても、こと“家庭”をめぐる問題に関しては、岡田斗司夫の思考回路は、気持ちが悪いほどおれのそれに似ている。こういうのはおれにとって危険だ。あんまり読まないようにしよう。こんな人がなぜすんなりといったんはふつうの家庭を持とうとし、事実持ってしまったのか不思議である。なにしろこの人は“オタキング”なのであって、自分は極道だ、畳の上では死ねないということに人生のきわめて早い時期に気づいていなくてはおかしいのだがなあ……。まあ、世の中にはいろいろな人がいるということなのだろう。
 これだけ激賞しているにもかかわらず(激賞していたのだぞ)、おれはあまりこの本を人に薦める気にはならない。おせっかいだと思うのである。放っておいても、日本の家庭のありかたは二十世紀後半の原型を留めないほどに多様化してゆくのは確実であり、必然の過程であれば、それが加速されようとされまいと、おれの知ったことではない。おそらく岡田斗司夫という人は、自分の目の前で無用なモデルに囚われて自分を圧殺し朽ちてゆく酔狂な人々を放っておくことができないのだろう。そのあたりの性格に関しては、おれは岡田斗司夫と正反対である。気づきさえしなければ、滅びゆくモデルを満身創痍になって守りぬき、しあわせを感じて死んでゆく人だってたくさんいるはずではないか。おれはそういう人たちのしあわせを否定するつもりはまったくない。ただ、おれとは人種がちがうと思うだけだ(向こうのほうでは、おれのほうを人種がちがうと思っているだろうから、おあいこである。なにがだ?)。もの書きにとって、おせっかいだというのは重要な属性だと思うので、おれももっと努めておせっかいになったほうがいいのかなあと思う今日このごろであった。でも、埋もれている同類に「きみの同類がここにもいるぞ」と知らしめるのにはやぶさかでなくとも、わざわざ同類を作り出したり、同類じゃない人を転向させたりしようと思うほど情熱的にはなれんのよ、なんの世界に於いても。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『オルガスマシン』
(イアン・ワトスン、大島豊訳、大森望解説、コアマガジン)
『イツロベ』
(藤木稟、講談社)
『テンダーワールド』
(藤木稟、講談社)
「Treva」で撮影

 『オルガスマシン』は、あのイアン・ワトスンの処女長篇(この本に関しては“第一長篇”と言うより適切な感じがする)サイバーポルノ。その過激な内容のために英語圏では一度も出版されたことがないというのだが、なぜかわれわれは日本語版を手にすることができたのである。関係者の努力にも並々ならぬものがあるにはちがいないが、なんだかんだ言っても、こういうところはいい国だよな、ニッポンって。「オトコの欲望を満足させるためだけに作られた“カスタムメイド・ガール”の数奇な運命と出会い」と腰巻にはありまして、どうやらアレだ、セクサロイド系、ドール系のナニであるらしい。とはいえ、脳の配線がどこかおかしいあのワトスンのことであるから、ただのポルノであるとも思えない。これは楽しみである。「SF史上もっとも危険な小説」という惹句はどこかで聞いたことがあるなと思って、『ドクター・アダー』(K・W・ジーター、黒丸尚訳、ハヤカワ文庫SF)を引っぱり出してみると、「SF史上最も危険な傑作登場!」と書いてあった。細かいことを気にしてはいけない。「SF史上もっとも危険な小説」と「SF史上最も危険な傑作」とはちがうのである。元祖と本家みたいなものだ。『ドクター・アダー』は、少なくとも英語圏でもちゃんと出版されているので(書かれてから七年も経ってからだが)、そういう意味での危険度はこっちのほうが上なのかもしれない。いただいておいてこんなを言うのもなんだが、こういう性質の本が大ベストセラーになるとはとても思われないから(なったら怖いセレナーデ)、SFファン・ポルノファンは、いま買っておかないと後悔しますぞ。現実にはあり得ないほどリアルなドール写真とイラストレーション(荒木元太郎)は、一見の価値あり。
 『イツロベ』『テンダーワールド』は、ぱらぱらと見てみるとリンクしている作品のようなので、新刊でない『イツロベ』も併せて送ってくださったようだ。『イツロベ』は読んでいないので、まことにありがたい。おれのところに来るからには、SF、もしくは、SFと見なし得る作品、もしくは、SFの要素を含んだ作品なのであろう。虚心坦懐に腰巻を読むと、いずれもふつうの小説(というのもまた定義が難しいが)ではなく、なにやらSFのようなスリラーのようなミステリのような、それでいて記号論的な仕掛けのあるメタフィクションのような、とにかくそんなようなものらしいとおれにはわかるが、書店でこれを手に取ってみたそれほど小説を読まない人には、いったいどういう本なのかさっぱり見当もつかないのではなかろうかと心配になる。「奇書」とか「創世神話」とかいった言いかた以外に、どうにも分類しにくいから必然的にこのようになっているのだろうとは思うけれども、不当に損をする可能性のある売りかたである。「超・ハード・SF・ホラー」じゃないが、強引にでもなんらかのジャンルに押し込んで売ったほうがマーケティング的にはよろしいのではなかろうか。もちろん、その“マーケティング上のレッテル”は、文藝評論的な評価や分類とはな〜んの関係もないのである。もっとも、売りかたにとまどいが見られるようなものほど、とまどうだけの値打ちのある作品であることも少なくないのだが……。

【7月3日(火)】
京都議定書が危ない。だから前から言ってるじゃないか、二酸化炭素怪獣カーボンダイオクサイドンを作るのだ! 科学音痴のブッシュなんぞには、目に見えない危機は理解できん。なにをビビっている、小泉ライオン丸、アメリカなんぞほっとけほっとけ、ヨーロッパ諸国と組んでとっとと批准してしまえ! ブッシュの言種はなんだ。「アメリカの経済に不利益をもたらす」って、バカ野郎、温室効果ガスの排出を抑制したら儲かって笑いが止まらなくなる国がどこにあるか。ゆけ、日本の科学力が生んだ二酸化炭素怪獣、われらがカーボンダイオクサイドン! ホワイトハウスを踏み潰せ!

【7月2日(月)】
〈FOCUS〉の休刊が決まったらしい。そんなに売れてなかったのか。まあ、考えてみりゃ、あのようなコンセプトの雑誌が、よくも悪くもインターネットにかなうわけがない。かといって、そのままウェブ化したところで、原価がかかりすぎて採算は取れまい。ずいぶん前におれが提案した『週刊パパラッチ』をウェブ上で金を取って展開すれば、生き残る目もあったかもしれない。なに? ウェブ上のゴシップなら、「2ちゃんねる」「CyBazzi!」でまにあってる? そこはそれ、大資本の強みで、パパラッチを養成してこその『週刊パパラッチ』である。まあ、『週刊パパラッチ』は冗談にしても、なにも紙媒体にこだわり続けることなどなかったのに。思うに、ウェブ雑誌にしてしまうと、なにか彼らにとって大事なものが剥ぎ取られてしまい、送り手にとって見たくないものが見えすぎてしまうにちがいないという本能的な怖れがあったのではなかろうか。つまり、『おれたちは「2ちゃんねる」や「CyBazzi!」とはちがうのだと、どうアピールしてゆけばよいのか……いや、ほ、ほんとにちがうのか?』という問いが見えすぎてしまう恐怖だ。ただのデバカメではないという確固たる自信と使命感があれば、ビジネスとしてウェブに進出することにはなんのためらいも要らない。今日の事態を招くまでに、それなりに採算ベースに乗るように形を変えて完全にウェブ雑誌化してしまう試みもできたはずだ。なのに、座して死を待つような経営を続けたのは、紙媒体に無用なこだわりがあったからなのではあるまいか。曲がりなりにも腹の座ったところのある雑誌だとは思っていたのだが、結局、自信がなかったのだろう。あの手法で、バッサバッサと巨悪を叩っ斬り、小市民の偽善をおれたち小市民に突きつけてほしかったものであるが、どこでまちがったんだろうね?

【7月1日(日)】
▼あっ、なんてことだ。今年も今日から後半ではないか。それどころか、おれの人生はいつのまにかほぼ確実に後半に入っているにちがいない。おれが七十七歳を超えて生きるとはとても思われぬ。五十まで生きたら上等である。まあ、あと十年なんとか生きて、運よくそのあとがあったら、あとはおまけということで好き勝手に生きることにしよう。もっとも、それまでも好き勝手に生きてゆくにちがいないのだが……。


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