間歇日記

世界Aの始末書


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2001年8月上旬

【8月10日(金)】
▼おれが強制的に自分をリラックスさせる方法のひとつに、「ここは宇宙船の風呂だ」と妄想するというのがあるのだが(1997年4月10日の日記参照)、よくよく考えると、いや、よく考えなくてもそうだけど、この妄想にはかなり無理がある。船首に風呂場があるようなケッタイな構造の宇宙船で、スターボウが見える(というか、光行差や光のドップラー偏移が、肉眼で見たとしたら「おお」と思えるほど十分に顕著になる)ほどの速度で飛んでいたら、危なっかしくてしかたがなかろう。塵やらなにやらが相対論的速度で風呂場のドームにまともにぶつかってくる。水素原子一個だって危ないだろう。ゆっくり風呂になど入っている場合ではない。
 当然こういう船はラムジェット船であろう。星間物質の進行方向を磁場でねじ曲げる仕掛けが宇宙船本体に先行して飛んでいるはずだ。だが、それはあくまで推進剤調達用だし、そいつで掬いきれないような、電磁場の影響を受けないものや比較的質量の大きなものなんかが飛んでくる可能性もあるわけだから、宇宙船本体にも防護用のシールドなどの仕組みを別途設けるのが筋というものだろう。となると、風呂場から前が見えなくなる可能性は高い。ううむ、困った。
 怖ろしく強靭で透明な素材を開発して、それでドームを作ればいいか。でも、開発できなければそれまでの話だし、そもそも亜光速で飛ぶ宇宙船の船首で風呂に入りながらスターボウを眺めたいというだけのバカな道楽のために、わざわざそんなものを開発するやつがいるとは思え……ないこともないか。アホな目的であるからこそ燃える科学者がいるはずだ。SFファンの科学者は少なくない(が、世間が思っているほどに多くはない)。
 もっとも、実際にそんな奇天烈な構造の宇宙船を作るくらいなら、「船首からはこう見えるはず」といった映像を、船内の安全性の高いところにある風呂場の天井に宇宙戦艦ヤマト方式で映せばいいだけのことである。それどころか、“一Gで加速していたら亜光速に達した宇宙船の船首にある透明な風呂場”という設定で地球上にヴァーチャル・リアリティー環境を作ったほうが、手っ取り早いし安上がりだ。いまの技術でだって作れそうである。でも、風情がないことおびただしいよなあ。ヴァーチャル・リアリティーってのは、つまるところ“夢オチ”みたいなもので、ハードSFの敵ですな。安易なサイバーパンクもどきが垂れ流した最大の弊害だ。もっともこれが、“七百Gで加速していたら亜光速に達した宇宙船の船首にある透明な風呂場”という設定なら、それはそれで別種の風情があるハードSFになるであろう。湯気が天井からぽたりと背中に……落ちてきたら怖ろしいことになりそうだ。いや、そもそも“ぽたり”とは落ちてこないよな。粉のような水滴がピシューンピシューンと砲撃してくるのか? いや、そもそも“湯気”が天井に溜まったりするか? この気圧下では摂氏四十度くらいの湯から湯気など立ち昇るか? 石鹸は泡立つか? 湯舟に浮かべたお銚子の盆はどのように振る舞うか? ただただテーブルに置いてあるのと変わらんのではないか? ハル・クレメントといえども、日本の風呂場が七百Gの環境下でどのようになるのかはさすがに書いていないだろうと思うが、じつに心の和む入浴体験になることはたしかだ(そもそもどうやって人体が形を保っているのかが不思議であるが、そこはそれVRなのだ)。
 どうもヴァーチャル・リアリティーというと、実際にはあり得ないファンタジーじみた体験を実現する“なんでもあり”の仕掛けとして使うことをすぐに考えてしまい、また、ついわれわれはそうした通俗的な発想に囚われがちなのだけれども、“厳密に合理的であるが絶対にわれわれが生身では存在できない世界”をわざわざ仮想体験する道具としても使えるはずである。そういうSFは案外少ないような気がする。なぜか光速が音速ほどに遅い仮想世界で日本が沈没するとかいった古典の本歌取りなんかもやりやすそうだ。とはいえ、その物語の舞台がなぜそのようなややこしい仮想世界でなくてはならないのかを、仮想世界のメタレベルでも面白い物語に仕立てて読者に納得させなくてはならないだろうから、その点ではたいへん難しそうではあるよな。また、「これはかそうせかいのできごとです」と設定するのは小学生にでもできるが、厳密に合理的だが非日常的である仮想世界を構築するのには、それなりの才能と学識が必要だ。誰にでもできることではない。
 まあ、とにかくハードSFの風情というのは、けっこう微妙なものでありますなあ。

【8月9日(木)】
▼朝、会社のそばに住んでいるおじさんを見かける。といっても、べつに大阪のオフィス街の一角にある旧家に住んでいる人ではなくて、そこいらへんから自分で木や紙を調達してきて家を作って“棲んでいる”類のおじさんである。ああ、こんなご時世だからなあ、明日はわが身だなあとも思うことは思うのだけれども、それよりなにより、ああいうおじさんを見かけると、不謹慎だと思う間もなく、ほとんど条件反射のようにおれの頭の中には音楽が流れはじめるのだった――It's not too late to start again 〜♪と、ジャニス・イアンが唄いはじめるのである。三つ子の魂というやつだ。この日記を読んでるような人の中には、同病者もかなりいるにちがいない。Toujours gai, mon cher 〜♪

【8月8日(水)】
▼マクドナルドに入ると、飲みもののストローがビニールの袋に入って出てきた。あれ、いままでは剥き出しだったのだがな。それにしても、これはいくらなんでも潔癖すぎるのではあるまいか。たしかにあのストローはトレイの中でコロコロと転がって、紙を敷いていない端っこのところで止まることがよくある。「あ、汚ないな」と一瞬思うことは思うが、べつにそれほど気になるわけでもない。きっと、そういうことがとてつもなく気になる人が苦情を寄せたために、こんな資源の無駄遣いがはじまったのであろう。だけどなあ……そのくらいのことが気になっているようでは、屋台のラーメンやらおでんやらはとても食えんぞ。
 そういえば、「手ごねハンバーグ」という表現を厭がる人がいるってのは、けっこう有名な話らしい。いかにも不潔に響く名称だというのだ。そりゃ、「足ごねハンバーグ」だったら厭だけどさ、手ごねはいいんじゃないかなあ。「手ごねハンバーグ」とメニューや看板に書くほうは、大ざっぱな機械などではなく精妙な手でこねるのだというところに価値を見いだしているわけだが、もはやそのようなステレオタイプのイメージが通用しない人が増えてきているのだろう。手のほうが頼りなく汚く、機械のほうが信頼できて清潔だという感覚が頭の中で“既定値”になっている人がいるのは、理解できないことはない。どちらかというとおれもそっちの人種のほうに近いかもしれないが、手ごねハンバーグは許容できるぞ。
 ことによると「一品一品、手作りの……」などという表現も作るほう売るほうの自己満足にすぎず、それこそがウリだと自信を持ってアピールしても、ちっとも客に通じていないのかもしれないよな。“手がいちばん”といった一種の信仰が崩れてきているのは、固定観念からの脱却という点では喜ぶべきことだが、たとえば寿司やおにぎりが食えないなんて人種が増えるのはどうかと思うよなあ。

【8月7日(火)】
▼いやあもう、多忙多忙、イシュトヴァン・多忙――ってネタは、遠いむかしにどこかの掲示板だったかに書いたような気もするが、この際それは大きな問題ではない。それより、どうもそこはかとなく日記が遅れているような気がするぞ。もしかすると、一か月近く遅れているかもしれないが、八月七日のおれがそれを知っているはずがないので、そんなはずはないのだ。しかし、どうも気味が悪い。なんとなく八月二十七日までの未来をすでに知っているような気さえしている。試しに予言をしてみよう。な〜んとなく八月二十四日稲垣吾郎が逮捕されそうな気がするぞ。そんなバカなと思うだろう? それが時間に囚われた常人の浅はかさだ。まあ、見ててみろ。何年か経ってから、たまたまこのサイトを訪れたやつは、今日の日記を読んで仰天するにちがいないのだ。わはははは、日記と歴史の教科書はよく似ている。

【8月6日(月)】
先日、驚愕の調査結果を知ったためか、どうも心配になってきた。この日記は小学生や中学生も読んでいるかもしれないから(あまり読ませたくはないが)、念のために書いておこう。広島に原子爆弾が投下されたのは、一九四五年八月六日午前八時十五分である。そこのキミ、憶えましたか? よろしい。なに? それは憶えたが、質問がある? 長崎に水爆が落ちたのはいつだったかも教えろ? なになに? そのとき、日本とアメリカはいったいどこの国と戦争をしていたのかって!?

【8月5日(日)】
▼話題の(あれだけ宣伝してれば、話題にくらいは当然なろうが)ブラック・ジャックサイトTezuka Osamu@Cinema)に行ってみる。『ブラック・ジャック』(手塚治虫)のアニメをインターネットで配信するというのだから、どんなものだか気になるではないか。アニメを楽しむための推奨環境をおれのパソコン環境は大幅に下まわっているが、無料のプロモーションアニメを観てみたかぎりでは、なあに、少々我慢すれば十分楽しめるではないか。
 虚心坦懐に熟慮、じゃない、アニメとして鑑賞するなら、そりゃあふつうのアニメ映画にはまったくかなわない。だが、Macromedia Flash でここまでできるとは素朴に驚かされる。声優も豪華だ。ブラック・ジャックはOVAや映画ですっかりBJ役が板に着いた大塚明夫なので、イメージを壊されずに安心して聞ける。そして、おそらく多くの人が報道でご存じだと思うけど、ピノコ宇多田ヒカルである。いまさらBJに大塚明夫以外は持ってこられないだろうが、ピノコはまだイメージが定着しているというほどではないから、ここに意表を突いた人材を起用したあたりはなかなか商売上手だ。おれとしては片山淳子がいいと常々思っているのはともかくとして、素人丸出しとはいえ、宇多田のちょっとハスキーなピノコも面白いことは面白い。
 まあそれほど高額というわけでもなし(手塚ファン度によって感じかたはちがうだろうけれども)、とりあえず有料会員登録をして、第一回配信の二話「医者はどこだ!」(十七分)と「ピノコ・ラブストーリー」(十一分)を観てみた。「医者はどこだ!」は、ご存じブラック・ジャック初登場のエピソード(『あ、「ねじ式」だ』と思った子供は相当マセていたと思われる。思ったけど)。「ピノコ・ラブストーリー」は、1998年8月5日の日記でネタにした、思わず突っ込んでしまうヘンなところがあるあの話である。二分二十五秒のプロモーションアニメとちがって、おれんちの56Kモデム(!)では、かなり根性が要りましたな。
 紙芝居でもなし、かといって、見慣れたクオリティーのアニメでもなしという微妙な媒体特性が、面白いことに紙媒体マンガのコマ運びと妙に親和的が高く、ほぼ原作どおりであっても違和感はない。紙芝居とアニメの中間あたりに位置する両者とは異なる表現媒体だと思って観れば、けっこう楽しめるのである。もっとも、紙媒体のマンガよりアニメのほうが用語規制が厳しいのか、“ゴロツキ”“不良”になっていたりするような言葉の言い替えが随所にあった。カンニングせずにいくつ見つけられるか、BJファンはトライしてみよう(って、ヘンな楽しみかただな)。“モグリ”もだめなのかね、驚いたな。
 いやあ、それにしても、一九七三年にあの黒い天才外科医がコートを翻して旅客機のタラップに姿を現わして二十八年近くも経ってから、このような媒体で再会することになろうとは、じつに爺臭い陳腐な感想で申しわけないが、長生きはするもんだと思ったね。

【8月4日(土)】
▼てっきりおれが、ダイナガイアのときと同じように、“『ウルトラマンコスモス』突っ込みアワー”をやるものと思って期待している(?)人がいると困るので、念のため、触れておきましょう。最初のほうは観逃したが、一応観てはいる。しかし、あれを観ると、なんだか身体に悪いような気がしてならず、あまり好きになれないのだ。
 ご存じのように、ウルトラマンコスモスは“やさしいウルトラマン”である。一週間に最低一匹ずつノルマのように怪獣を殺したりはしない。できるだけ“保護”するのだ。アクションもなにやら太極拳のようで、怪獣に爪先や拳を叩き込んだりしない。掌で突きを食らわしたりするのだ。まるで太極拳には破壊力がないかのように子供に誤解を与えそうな気がしないでもないが、まあ、とにかく“画的”には、怪獣をできるだけやさしく扱っている。
 途中の過程はよしとしよう。しかし、だ。野蛮と言われようがなんと言われようが、おれはウルトラマンには最後には光線技で怪獣を爆散させてほしいのである。毎回シーボーズと闘っているウルトラマンなんぞ、なにが面白いのか? 助さんが懐に手を突っ込んだまま終わってしまう『水戸黄門』を観たいか? 深夜の江戸の寒空に首巻きのあいだから白い息を吐いてはてくてくてくてくてくてくと夜回りを続け、そのまま家に帰ってくる中村主水が観たいか? 完璧な証拠を揃え鉄壁の論理で下手人に罪を認めさせる刑事コロンボのような遠山の金さんが観たいのかっ!? いいや、観たくはない。どうも、ウルトラマンコスモスを観ていると、おお、こりゃいい感じじゃわいとさんざん期待し女性の肩ごしに腕時計を盗み見て終電の時間を計算していたら「今日はだめ」と言われたときに前立腺のあたりにしこってくる重苦しい疼きのようなものをまざまざと思い出す。女性の読者にはわからなくてごめんなさい。
 そうなのだ。以前、「ウルトラマンの決め技と身体像」(1999年3月20日の日記)とでも言うべき高尚な哲学論考で述べたように、男の子は(あるいは成人男性は)、ウルトラマンに性的なカタルシスを求めているのである。そりゃまあ、なんでもかんでも叩き潰すのはよくない、怪獣には怪獣の事情があるのだから、相手のことも考えましょうという教育的意図はわからんでもないよ。でも、なにもそれをウルトラマンでやることはないじゃないか。ウルトラマンコスモスの企画スタッフは、おれのような下賎な大人には想像も及ばぬほどに高潔で、そのあたりの性的なものがわかっていないのではあるまいか。男の子は決め技の光線を迸らせ、怪獣リビドーを爆散させないと身体に悪いのである。

【8月3日(金)】
▼喫茶店でスパゲッティを食っていると、隣に座っているサラリーマン風の男ふたりが、ケータイの話をはじめる。ひとりは生半可に詳しい若い男、もうひとりはその先輩風で、ケータイは話せればいいというタイプ。

若い男「PHSは新幹線とかでは使えませんからね」

 ああ、いらいらする。おまえは「H"」「feel H"」を知らんのか。新幹線だって、いつもいつも最高時速で走っているわけではない。時速百キロくらいまでであれば、いまのPHSは十分に使えるぞ。とくに「H"」でなくとも、基地局間のハンドオーバーは、むかしとは比べものにならぬほど高速になっているのだ。

先輩風の男「おれに関するかぎりは、PHSのほうがよかったなあ。いまの携帯電話にして不便になった。地下とかはとくにな。PHSのエリアは狭いとか言うけど、面積やのうて、生活圏をポイントで考えたら、むしろPHSのほうがようカバーしとるのとちがうか」

 まるで〈日経モバイル〉の名物コーナーのようであるが、それにしてもあんた、DDIポケットのまわし者か(持ってたのはドコモの携帯電話だったが)? そうだ、そのとおりだ。いいぞ、がんばれ。
 よっぽど割り込んでやろうかと思った。あなたが喫茶店でスパゲッティを食っていて、隣の二人組が、

「ほれ、あの岡山弁の怖い話の人やんか、えーと……」
「岩下志麻子?」
「ちゃうちゃう」
「岩井由紀子か?」
「えらいもん出してきよったな。あの鎖骨がなかなかよかった、て、ちゃうちゃう、そんなに古いことないが、歳はもうちょっと上かもしれん。鎖骨がええのは似とる」
「ええっと、小岩井……」
「そら、レーズンバターや」

……などと話しだしたら、絶対割り込みたくなるであろう。精神衛生に悪い昼食であった。

【8月2日(木)】
ポール・アンダースンが昨日亡くなったと、野尻抱介さんのところの掲示板で知った。とくに思い入れがある作家でもないのだが、主流文壇で認められてしまったヴォネガット本人以上に、おれはどうもこの人にキルゴア・トラウトのイメージを重ねていたような気が、いま思えばする。ポール・アンダースンに“不遇”などという暗い言葉は似合わないよな。SFが好きで好きでたまらない人生をSFにどっぷりつかって全うした、大いなる二流作家という感じだ。そうであればこそ、まさに時を超えて愛されるSF作家のひとりであろう。凡庸な極道者としては、こういう生きかたを見習いたいものである。
 梅原克文氏は口は悪くて非常識ではあるが、うまく表現されていないであろうその本心をおぼろげながら察するに、どうやらアンダースンのような作家になりたい(彼がアンダースンその人を挙げるかどうかは問題ではない。アンダースン“のような”である)ということを言いたいのではなかろうか、などとふと想像するのであった。

【8月1日(水)】
▼腹具合がやたら悪い。どうやら下痢するタイプの風邪を引いたらしい。たまにこういう風邪を引くのには、もしかしたら意味があるのやもしれない。おれの体内に溜まった汚いものを、ときおりごっそりと出させようという仕掛けになっているのであろうか。都合のいい考えかただよなあ。


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