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2001年8月下旬 |
【8月30日(木)】
▼おれたちには手の指が十本あるから十進法を使っているのだというたいへんわかりやすい説に子供のころから慣らされてきたが、わかりやすい説ほど警戒せねばならないのが世の常である。手の指が十本あるから日常的には十進法を使うというのは、それほど必然的なことであろうか。たとえば、一本の指には、折っている状態と伸ばしている状態の二値が取れるとすれば、五ビットの素子を持つ片手だけで三十一(零を含めれば三十二)まで数えられる。慣れないうちは指が攣りそうになるが、コンピュータ関係の方は、一度は練習してみたことがあると思う。人類が最初からこの方法に気づいてさえいれば、いまごろおれたちは一○二四進法を使って買いものをしていたかもしれない。
最初から二進法を使っていたにちがいない種属がいる。バルタン星人である。なにしろ彼らの手は、指(?)を折ったり伸ばしたりするようにはできていない。手、というか、ハサミ全体が、開いているか閉じているかの二値しか取れないのである。両手を使っても、四つの状態しか表わせない。“半開き”とか“四分の一開き”といった状態に意味を持たせることもできるかもしれないが、これはハサミの制御が難しい。「コロッケ二つ買って来てね」と、お母さんバルタン星人に八分の二開きのハサミを見せられ、「コロッケこれだけ、コロッケこれだけ」と健気にハサミを八分の二に開いたまま買いものに出かけた子バルタンは、途中で犬に吠えられ、コロッケを八つ買ってきてしまうかもしれないのだ。目の悪いバルタン星人だっているだろうから、とにかくこの方法はよろしくない。
よって、バルタン星人は、種属の歴史の非常に早い時期に、二進法あるいは四進法を標準採用していたと考えられる。原始バルタン星人たちは、ややこしい計算をしたりするとき、八人とか十六人とか三十二人とかが横一列に並び、フォッフォッフォッフォッと目にも止まらぬ速さでハサミを開いたり閉じたりしていたのだ。中世バルタン星人の城では、八人ひと組になって十六本のハサミを振りかざしたバルタン星人が、十六本のハサミで数えられるだけの六万五千五百三十五組(零番組というのはないのだ)で城の周囲を取り巻いて護っていた。それぞれの組には決まった役割が充てられており、たとえば、二十五番の組は手紙を出す係だったり、八十番の組は城主のお布令を掲げる係だったりしたわけである。二十三番の組などは、城主が城の外にいるときでも命令を受け、城主に代わって強大な権限で指令を実行できる重要な役であったが、それだけに外からの侵略を受けることも多く、城主のセキュリティー意識が甘く二十三番組がボンクラであると、しばしば国ごと他国の傀儡にされたり、城内をめちゃくちゃにされてしまうこともあったという。
といった、エンドユーザにはわかりにくいやや専門的なバルタン史はともかくとして、やがてルネサンス、産業革命を経たバルタン星人たちは、自分たちの日常をたちまち機械化してゆき、ごくごく自然にコンピュータを作ったのであった。バルタン星人は、進化の偶然の神に器用な十本の指を与えられなかったがゆえに、日常感覚の中からおのずとフォン・ノイマン式コンピュータにたどり着いたのだ。ゆめゆめ疑うことなかれ。
【8月29日(水)】
▼H2Aロケット打ち上げ成功。めでたいめでたい。関係者は夜も打ち上げをするんだろうなあ。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
「Treva」で撮影 |
『鬼女の都』は、ハードカバーからノン・ノベルに入った“京都ミステリ”。「げげっ。もうあれから五年も経つのか……」と思ったことである。なにから五年かというと、恐怖のSF試験が行われた一九九六年の京都SFフェスティバルから五年なのだ。あの“二次試験”の問題のひとつが、「『鬼女の都』の英語タイトルを書け」というものであった。直訳ではいけない。観察力が問われる問題である。表紙にちゃんと書いてあるのだ。幸いおれは正解した。かの英語タイトルは、ノン・ノベル版にも引き継がれている。
おれは生まれこそ東京だが、京都に三十六年間住んでいる。それでも、いまだに他所者なのである。自分でも、おのれを“京都人”であるなどと思ったことは一度もない。あと三百年くらい住まないと、京都人にはなれないような気がする。おれの脳はたぶん、七十八パーセントくらいが大阪人で、二十一パーセントほどが東京人、一パーセント弱がアメリカ人であろう。京都人の要素があるとすれば、○・○三パーセントくらいだ。おれは、京都人よりも、まだしも火星人のほうに近いのではないかと思う。それくらい気色の悪い土地が京都なんである。生っ粋の京都人の前に出ると、おれはある種の脳障害を患っているかのような気になる。ほれ、漢字の形は形としてちゃんとはっきりわかるのに、意味がまったく連動してこないといったような障害があるではないか。あんな感じだ。京都人のコミュニケーションは、おれにはよくわからん。五パーセントくらいの重みで交わされる言語の裏で、九十五パーセントはあろう“沈黙の言語”が、おれの五感を超えた領域で交わされているかのように思われ、たいへん不安になる。
菅さんは京都人でもSF作家だけあって、おれたちのように文化的に浅薄な火星人の言語にも堪能なのだが、それでも菅さんと話していると、おれには聞こえない超音波と低周波の部分に膨大な情報量が秘められているのではなかろうかと想像してしまい、なにやら菅さんが魔女のように思われてくる。まあ、そういうわけで、京都はとにかく怖〜いところなのである。
あっ。おれの中に唯一非常に強く京都人的なものがある。方向音痴だ。猫の子をず〜っと縦縞模様の部屋で育てると、横縞が認識できなくなるといった実験があったように思うが、たぶん同じような理由で、京都人の脳には“斜め”という概念がないのである。縦方向と横方向の成分に分解して平面を認識している。聞いていると、しょっちゅう上ガルとか下ガルとか言っているので、どうやら三次元も認識できてはいるらしい。“右斜め上”とかになると、それぞれの次元の成分に分解しないとわからないにちがいない。つまり、日々、一挙手一投足、箸の上げ下ろしに至るまで、常にベクトル演算をして生きているのが京都人なのである。こういう環境に生まれ育つと、直感的な空間把握能力が発達しないのではなかろうか。
さて、『呪禁官』のほうは、おれの予知能力によると、非常に近い未来にどこかに書評を書きそうな気がする。ここでひとつ、時間を超えて、未来にリンクを張るという実験をしてみよう。きっと、このあたりで書評しそうだ。どうです、当たってますか?
【8月28日(火)】
▼今日は晩飯を外食して帰らねばならんので、会社の帰りに駅のそばの料理屋へ入ったところ、嬉しいことにもうサンマの塩焼きが出ていた。見るからに安っぽい魚であるが、うまいものはうまい。一も二もなく注文。むろん、熱燗も付ける。まだいささか脂の乗りが足りないが、今年最初の“ブラック・ジャックごっこ”を堪能した。今日のオペも成功だ。これくらいきれいに食ってもらえれば、サンマも成仏することであろう。
【8月27日(月)】
▼おれもネット生活は長い。ウェブページは誰が読んでいるかわからないということも、何度かの驚きを通じて身に染みて知っているつもりであった――という書き出しは、朝日放送の鳥木千鶴アナウンサーから突如メールを頂戴した2月2日の日記で使ったのだったが、性懲りもなくまた使う。おれが2000年3月19日の日記で学生時代に読んだ名著としてご紹介した『英会話上達法』(講談社現代新書)の著者、倉谷直臣先生があれを発見なさり、メールをくださったのである。びっくりだ。まったくインターネットとはなんという媒体か。何度も言うが、そのうち葉月里緒菜からメールが来てもおれはもう驚かんぞ。驚くものか、驚いてなるものか。これだけ何度も名前を出しているのだから、もうそろそろ来てもいいころなのだがな――とかなんとかいったネタをやっていると、ほんとうに詐称してくるやつだって現われかねないのだから、インターネットってのはまったくなんという媒体か。
【8月26日(日)】
▼最近「バンテリンコーワ 1.0%ゲル」(興和)というやつを肩や腰に塗っている。効くのはいいのだが、塗るときに手がべとべとになってしまい、ただそれだけのためにいちいち手を洗わねばならないのがものぐさなおれには苦痛である。かといって、液体のやつはひとりでは塗りにくいのだ。これのスプレーを作るわけにはいかんのだろうか? なにか技術的な困難があるのかな。でも、できたとしても割高になりそうだよな。まあ、コーワのサイトには「マスコットカエルライブラリー」があるから、多少割高でもいいか――って、なんのこっちゃ。
▼語学スクールのNOVAがついにお茶の間留学レッスン二十四時間化――というテレビCM、えらくたいそうな感じはするものの、「ツァラトゥストラかく語りき」が流れてくると、なぜかやっぱりテレビに目をやってしまう。条件反射やね。まあ、名場面が観られて嬉しいのだけれども。ウェブページを見るかぎりではロシア語はやってないみたいだから、ロシア語をはじめるときには、ぜひ『2010年』でどうぞ。クリーツァ。
【8月25日(土)】
▼昨夜は深夜に帰宅したため、稲垣吾郎が逮捕されたことを今日になって知る。駐車違反くらいなら人気タレントでもそりゃあやるだろうと思うが、公務執行妨害まで加わっているとなると、にわかに信じ難い。なんでそんなことをする必要があったのか? なにがどうなっているのやら、さっぱりわからない。いろいろいろいろいろいろ裏がありそうだ。たとえば、稲垣吾郎はじつは宇宙からきた正義の超人で、今日も今日とて市民を危機から救ったあと、電話ボックスの中で着替えているところをうっかり人に見られてしまったのはないか……とかなんとか、隠された真相をいろいろと邪推してしまう。きっと、みんなこういう想像をしていると思う。
SMAPの中では、おれは稲垣がいちばん好みであり――などと書くと誤解されそうだな――いちばん好きであり、まことに残念なことである。やっぱり、むかしテレビで小林泰三の「玩具修理者」の一節を朗読したりしたのが悪かったのにちがいない。作家の邪悪な“気”にアテられたのだ。かわいそうに。
▼けっこうでかい地震。京都が震源地らしい。“地震の目”は揺れないのだったら面白いのに。
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
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「SFセミナー2001」での講演資料(5月3日・7月15日の日記参照)を簡易製本した非売品で、先日の「第40回日本SF大会〈未来国際会議:SF2001〉」で無料配布されたものだそうである(HTML版・PDF版はウェブで公開されている)。まったく瀬名さんの几帳面さには頭が下がる。瀬名さんは当初反響が少ないと落胆していらしたようだが、最初の講演からまだ四か月も経っていないのだ。一般の多くの書籍とちがって(!)、ウェブに置いておくかぎり、きわめて長期にわたってじわじわと確実に読者は増えるし、今後SFに関する議論の際には、折に触れて引用・言及されることにもなるであろう。学術論文だってそういうものではなかろうかと思う。
今回は書影はなしである。ほとんど水色一色の表紙に黒で文字が書いてあるだけなので、「Treva」のようなおもちゃカメラでは、なにがなんだかわからない写真になってしまうのだ。
【8月24日(金)】
▼おれのような極道者はきっと畳の上では死ねないだろうと思っているが、知り合いを頭の中で見わたしてみると、まず畳の上では死ねそうにない人ばかりで、まことに心強いことである。中でも、堺三保さんなどは、オタクの真髄を極めた求道者、というか、要するにやっぱり極道者であり、彼を知る人は絶対に畳の上では死ねないと口を揃えて言う。とくに一種の都市伝説ともなっているらしい堺さんの自宅のありさまを知る人によれば、畳の上で死のうにも、畳どころか床面すら露出していないため、畳の上で死ぬことは物理的に不可能であるらしい。なーるほど。おれの部屋は、狭いながらも五、六本くらいは立錐の余地があるだけましであるが、修行が足らないとも言える。姪どもが遊びに来るたび、「あっ、そっちの部屋は、素人は入ったらあかん。怪我するぞ」などと言えばすむ程度では、まだまだなまぬるいにちがいない。
【8月23日(木)】
▼最近、尻軽女と呼ぶにも若すぎるような雌の子供が、ケータイの出会い系サイトでひょいひょい男についてゆき酷い目にあう事件がやたら発生している。いったいどういう神経をしているのであろう。想像の埒外にある。もちろん、ついてゆくほうの神経がである。酷い目にあわせるほうの神経は、多少は、というか、かなりというか、相当、わからんでもない(そういう神経の命じるままに行動してはいかんが)。まったくもって、どういうふうに育てれば、あそこまで警戒心のない生物に育つものなのであろうか。まあ、ある意味で人を疑うことを知らぬ天使のような子供と言って言えぬこともなかろうけれども、天使はあんまり地上で長生きできそうにない。
おれも姪どもによく言って聞かせておかねばなるまい。人を見たら大久保清と思え。おっちゃん誰それ――て、そうか知らんか。じゃあ、人を見たら宮崎勤と思え。おっちゃんによう似てる人か――て、ほっとけ。部屋もそっくりや――て、そやからほっとけちゅうんじゃ。ううむ、教育とは難しいものだ。
【8月22日(水)】
▼台風はやっぱり関東でも肩すかしを食らわせているらしい。「ブラックホールには毛がない」などとよく言うが、台風には少なくとも目と肩はあることがわかっているわけだ。待てよ。目は角運動量があるからできるのだろう。肩は、なにしろ“すかし”たりできるくらいであるから、質量のことなのだ(論理に飛躍があるという狭量な考えはこの際無視する)。雷を伴うからには電荷も持っておろう(分極しとるだけじゃろうという屁理屈はこの際無視する)。おおお。台風とはカー=ニューマン・ブラックホールのようなものであったのか。これはすごい発見をしてしまった。マッカンドルー教授もびっくりだ。将来、台風からエネルギーを取り出す技術が確立するにあたっては、角運動量を持つブラックホールに於けるエルゴ領域のような概念が台風にも適用されるようになるかもしれん。ならんかもしれん。なるわきゃなかろうが。台風が時空を引きずって回っとったら怖いわい。それになにもそんなややこしいエネルギーの取り出しかたしなくても、頑丈な風車でも回したほうが手っ取り早い。結局、おれの大発見はなんだったのだろう?
【8月21日(火)】
▼台風には肩すかしを食う。昨夜は、会社がとっとと帰れと放送しているにもかかわらず少し遅くなってしまい、あわてて会社から駅へ向かった。徒歩でほんの十二、三分の距離なのに、途中、何度も風で進めなくなった。これはひょっとすると家に帰れんかもしれん……と思っていたのが嘘のように、今日はなにごともない。台風一過とはよく言ったものだ。子供のころはてっきり台風一家だと思っていた。思ってはいたが、「それはどういう一家か?」と改まって問われるとどういう一家なのだかよくわからない。たぶん工藤夕貴が何人かいるような一家ではなかろうかという気はなんとなくする(高見エミリもいるかもしれない)。『逆噴射家族』と『台風クラブ』とが、おれの中では“台風一家”というキーワードで繋がっているのであろう。人間の連想なんて、大方こういうもんである。
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