間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


2003年5月上旬

【5月8日(木)】
▼サイコドクター・風野春樹さんが“「周知のように」禁止令”を提案してらっしゃる。専門書などで「周知のように」が出てくると、そのあと決まって全然周知じゃない事柄が続くというのだ。言われてみればそうである。不思議なことだ。風野さんは憤る――『だいたい、専門書で「周知のように」なんて言葉を使う意味がどこにあるのか。単に「こんな知識は、私の膨大な知識の中じゃ初歩の初歩だもんね」と優越感にひたりたいだけとちゃうのか』
 うーむ。専門書じゃあ、たしかにそうだわなあ。風野さんが列挙する“周知”の事例におれは大笑いしながらも、ちょっとひやりとした。おれもこの日記でかなり「ご存じのように」ってのは使うからだ。だが、よく考えてみると、おれが「ご存じのように」を使うときには、“この日記を読んでくれそうな趣味・嗜好・性向を有するある種の人々の最大公約数と想定される層”ってのを念頭に置いて使っている。仮想読者像のようなものがぼんやりとあるから、そこへ向けての「ご存じのように」という推量は、ある程度成り立つわけである。誰しも自分のよく知っていることをくどくどと説明されるのはじれったいと感じるはずだから、おれが「ご存じのように」を使うときには、「こんなことをいちいち説明して、ひょっとしたらじれったく感じている人もいらっしゃるでしょうが、そこはまあ勘弁してください。ひょっとしたらご存じないという方もあるやもしれませんので、念のため説明します」という気持ちで、要するに「ごめんなさい」と言っているのである。いちいち「ご存じのように」などと書かなくても、自分の推定を信じてがんがん思ったように書いてしまってもいいのに、気が弱いもんだから「ご存じのように」と謝っているわけだ。
 が、「周知のように」ってのは、あまりにも大胆な言葉遣いである。ほんとうに紛れもなく周知の事実であればいちいち書く必要はないのだから、「周知のように」という言いまわしは、それ自体がテクスチュアルな意味論上では自己矛盾を抱えている。ということは、やはり風野さんの分析どおり、発話そのものがメタレベルで意味を持っていて、それはすなわち、「俺様にとってはあたりまえのことだが、おまえらの多くは知らんだろうから、わざわざ言ってやるけれども」ということなのだろうなあ。意味がないことに意味がある言葉なのだな。
 風野さんの禁止令には賛同するが、完全に禁止されてしまうと困る。厭味以外にも、コンテクスチュアルな意味を持たせて使うことはできるし、使いたいからだ。早い話が、おれもギャグには使う可能性がある。「周知のように、中島梓栗本薫は同一人物であるが……」なんてのは、この日記で使うかぎりはギャグだということが大多数の読者に伝わる。少なくとも、多少なりとも文藝に興味がある人にとっては、ほんとうに周知の事実だからだ。「周知のように、小林泰三は慈愛に満ちた正義漢であり……」というのもアリだろう。こう書いても誰も真に受けないほど、「小林泰三は性格が悪い」ということが世に“公理”として浸透しているからであり、さらにその性格の悪さは彼の商売道具であって、社会生活に支障を来たす類の性格の悪さではなく、そういう意味では常識人でさえあるように思われるほどに業の深い性格の悪さである――と、ある種の人々のあいだでは認知され、理解されているからである。
 なんだか話が逸れてきたような気がしないでもないが、まあとにかく、「周知のように」はギャグには使える。というか、もはやギャグにしか使えないかも。
▼周知のように、田中啓文さんがバンドマスターを務める「THE UNITED JAZZ ORCHESTRA」というビッグバンドが、『NEW CINEMA PARADISE』CASBA RECORD)と題するCDを出したことは自明である。おれもまもなく買って聴く――といま予知した。周知のように、SF作家とジャズには、むかしから切っても切れない縁がある。が、CDまで出してしまう人は少ない。ジャケットデザインは藤原ヨウコウ井上佳子、帯の推薦文は恩田陸と、これまたSF業界的にも豪華なパッケージだ。田中さんのテナーサックスが咆哮し、淀川長治が裸足で逃げ出すくらいマニアックな映画解説を兼ねた田中さんのMCが冴えわたる――というCDだと、くどいようだが、いま予知した。

【5月7日(水)】
▼どうでもよいことではあるが、世に“ガシャポン”とか“ガチャガチャ”とか呼ばれている“アレ”は、いったい正式にはなんというのであろうか? ひょっとしたらアレは正真正銘の正式名で、おれの知らないところで“ニッポニア・ガシャポン・エレクトゥス”とかなんとかラテン語で学術誌に取り上げられたりしているのやもしれないのだが、“ガシャポン”が正式名なのだとしたら、なんとも哀れな品物である。まんまやないか。「おれ生まれたとき、東の森、ガシャガシャ鳴った。西のコヨーテ、ポンと屁をした。だからおれガシャポン。ネイティヴ・アメリカン、ウソつかない」みたいなノリだ。まあ、おれは“ホッチキス”はあの道具が機能するさまを表した擬態語ではなかろうかと疑っているくらいであるからして、ガシャポンがそうであったところで個人的にはなにも困ることはない。なにが言いたいのか自分でもよくわからん。

【5月5日(月)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『不在の鳥は霧の彼方へ飛ぶ』
パトリック・オリアリー、中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)

 おおっ、なんかかっちょいいタイトルだ。数年前に出た同じ作家の『時間旅行者は緑の海に漂う』(中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)もそうだが、まるでむかーしの山野浩一荒巻義雄みたいなタイトルである。ニューウェーヴ風タイトルとでも言おうか。『飛べ! 不在の鳥よ霧の彼方へ』だとキャサリン・アサロになってしまう。まあ、アサロになっても訳者は同じだけど。
 腰巻を見て驚く。「神林長平氏絶賛!」とある。解説を神林長平が書いているのだ。オリアリーはフィリップ・K・ディックを髣髴とさせる作風で話題になった作家であり、神林長平はかつて日本の椋鳩……じゃない、“日本のフィリップ・K・ディック”と呼ばれていたことがある。いい取り合わせだ。これはなにを措いても読まずばなるまい。最初のページを開いて、おれはそこにあった章題にどきっとした――「一九六二年――いっしょにこの世界にいるんだから」
 この章題だけで引き込まれてしまう人が日本のSF業界にはたくさんいそうだ。よりによって、この年を持ってくるかあ。

【5月3日(土)】
▼ここ数年、毎年参加していた「SFセミナー」ではあるが、今年は連休がやたら飛び石で肉体的にきついうえ、経済的にもきついので一回休み。会社の出張でしょっちゅう行ってたころは東京は近いなあと思っていたが、手前の金で行くと東京は遠いよなあ。
▼最近ときどき出てくる“体重シリーズ”の話である。風呂上がりに体重を量ったら六十三キロ。一か月に一キロのペースで減っている。はてさて、どこまで減るのだろう? 身が締まってきたから、そろそろ止まりそうなあたりなのだがな。なにしろ、考えてみれば、体重が減ってゆくというのはおれの人生で初めての経験なのである。大人になるまではもちろん増えていったし、その後もなんだかんだでじわじわと増える一方であった。面白い。じつに面白い。体重が減るというのは、こんなに面白いことであったのか。長生きはするもんである。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す