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2003年5月中旬 |
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『呪禁局特別捜査官 ルーキー』は、おなじみ(だと思うが)『呪禁官』の続篇である。「一年も待たせてしまいました」と〈著者のことば〉に書いてあるが、正確には一年と四分の三、早い話が二年弱である。いや、べつに非難しているわけじゃないけど。
前作では、科学とオカルトが微妙に入れ替わった世界で、魔術犯罪捜査官を目指す若者たちの爽やかな友情(!)が重点的に描かれていたが、本書では主人公の葉車創作、通称ギアは新人呪禁官になっていて、前作でしゃぶり切れていなかったおいしい設定から相当ダシが絞り出されてきそうな感じだ。例によって〈週刊読書人〉で取り上げるであろうと予知はできていて、どのくらいはっきり予知しているかというと、つい二、三日前に入稿したかのように感じられるほどまざまざと予知しているのだった。
『歌の翼に ピアノ教室は謎だらけ』は、「音楽ミステリー」と謳われている。ピアノ教師・杉原亮子が事件の謎を解いてゆく短篇連作のようで、『小説NON』を読んでいないおれは、設定も初めて知った。「癒しのミステリー連作」ともあるから、事件解決に伴って、関係者が“癒される”のであろう。こういうアオリ文の語句だけからも、どういうトーンの話か想像されるほどに、“菅浩江的カラー”は商業的に浸透したわけである。菅浩江を“癒し系”云々と宣伝するのは、たしかにわかりやすく、菅作品に初めて触れる読者を開拓するのには非常に有効であろうとは思うが、同時にそろそろ菅浩江にとっていささか煩わしくもなってきているのではないかと思う。菅作品の“癒し系”的側面は、人間の非常にどろどろした部分や非人間的な部分に着眼して斬り込んでいるからこそ、その反作用として醸し出されているところも大きく、口当たりのよいだけの“癒し系”だと勘ちがいして読みはじめた読者は、思っていたよりも重いものを突きつけられて胃もたれするやもしれないのである。で、SFファンとしては、“癒し系”という惹句にまんまと引っかかって(失礼)きた新たな読者には、大いに胃もたれしてほしい“いけず”な気持ちもあるわけなんだが……。本書にどのくらい胃もたれ成分が含まれているのかはまだ読んでないからわからないが、含まれていないはずはないと想像するのである。
【5月14日(水)】
▼なにかと世間を騒がせている白装束集団の千乃代表とやらが乗っている車は、あ、「アルカディア号」というのか……。千乃代表がつけたのか、取り巻きの白い連中がつけたのか、いったいどういうセンスをしている。オウムのときもたしか、なんたら除去装置ってのがあったような気がするなあ。松本零士作品には、ああいう連中に好かれるなにかがあるのであろうか。いい迷惑だろうなあ。するとなにか、あの白装束の連中が警察や周辺住民に追われてしぶしぶ移動を開始するとき、千乃代表の運転手は、「アルカディア号、発進っ!」とか叫ぶのか? そもそも千乃代表は女性なのに、なんで「クイーン・エメラルダス」じゃないのだ?
あの車の中はおそらくじめじめした不潔な環境だろうとアナウンサーだかコメンテーターだかが話していたが、なあに、大丈夫だ。きっとサルマタケがたくさん生えていて、千乃代表はそれを食っているのだろう。何年も前から末期癌らしいけれども、たぶんサルマタケの薬効で生き永らえているのだ。松本零士おそるべしってなにが。
【5月13日(火)】
▼会社から帰ってネクタイを外していると、母が今日買いものに行ってなんたらかんたらとおれにはなんの興味も持てない話をいつものようにするのでテキトーに聞き流していると、買いもののついでに“マルケー”に寄ってなにかを買ったという話になった。はて? ここいらに“マルケー”なんて店があったろうか? なんだそれは? と、一瞬考えたが、おれの脳ももう慣れたものである――。
「それは“サークルK”それは」
まあ、あのマークは、そう読みたくなるのもわからんではないが……。
【5月11日(日)】
▼ここいらでは土曜のど夜中(つまり今日)に毎日放送が放映している『ガンパレード・マーチ 新たなる行軍歌』だが、もう最終回である。十二話しかないとは、ずいぶんと潔い。たまたま初回を観て、「はて、『サクラ大戦』を昭和にずらして学園ものにしたようなもんかい? でも、映像はやたら凝っとるなあ」と思いつつ、ずるずると全話観てしまった。何話か観ているうちにSFとしてはどうでもよくなってきて、ひたすら学園ドラマとして楽しむ。小ネタのセンスがよく、ラブコメとしてけっこう面白いのだ。人物の表情が細やかで、キャラの立てかたも、どぎつくなく、もの足りなくもなく、設定にスマートにフィットしている。全方位の嗜好にまんべんなくアピールするキャラクター設定と配置が、ステロタイプだからこそ魅力的である。要するに、全体として上品で丁寧な作りをしている。アニメ作品として非常に高品質だと思う。元がゲームなんだから二次的に展開された作品なわけだが、だからといって、というか、だからこそ手を抜かない姿勢が好もしい。斬新でも新奇でもないことは作っているほうだってよくわかっていて、その制約の中でひたすら丁寧に作ろうとしているのが伝わってくる。このクオリティでSFがメインの話だったらなあ。でも、それだとちがうものになってしまうから、ないものねだりですわな。人間が共通して持っている“定型への渇望”のようなものに、これでもかこれでもかと訴えてくるタイプの作品も、丁寧に作ってあれば、ちゃんと楽しめるものだなと感銘を受けた。なんか梅原克文みたいなことを言っているが、こういうのばっかりでも飽きるにちがいないから、おれみたいな中年のすれっからしは困る。もっとも、これほどきちんと上品に定型を織り上げるのは、誰にでもできることではない。SFとしてもの足りないことが、むしろこの作品に最初から課された制約なのだと考えれば、これはこれで優れた作品だと認めざるを得ないだろう。ごちゃごちゃ言っているが、早い話が、面白かったんだよ。
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