間歇日記

世界Aの始末書


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2003年5月中旬

【5月19日(月)】
先日この日記でNHKテレビの語学講座を話題にしたら田中哲弥さんから異論が寄せられた。市川実和子カエルではない、どう見ても金魚だというのである。うーむ、たしかに、セリーヌ・ディオンといい、高橋尚子といい、田中さんに人間の顔を動物に見立てる才能があることは事実であるが、金魚かなあ? 金魚だとすると、出目金系に限られてしまう。やっぱりおれはカエル説を取りたい。それが証拠に、そのあとすぐ北野勇作さんからもメールが来て、北野さんが怖るべき予言をしていたことがあきらかになった。それは今年一月の“牧野修さんの日本SF大賞受賞を祝う会”の席上であったのだが、北野さんは当時市川実和子を知らなかったおれに、市川実和子は「カエルに似てるから絶対冬樹さんは好きですよ」と言ったというのである。おれはすっかり忘れていたが、言われてみれば、誰かがカエルに似ていて……という話をたしかに北野さんがしていたのを思い出した。市川実和子を知らなかったものだから、記憶に残らなかったのだ。そうか、カエルに似ているのは市川実和子のことであったか――。ということは、北野さんもやっぱり市川実和子をカエルとして認識しているということであり、金魚説は劣勢になってきた。なんでも北野さんは、市川実和子の出る番組がダブるときは『ドイツ語会話』をビデオに撮ってまで観ているファンなのだそうである。また、これは日本SF史にとって重要なデータなので北野さんの了解を得て書くのだが、『かめくん』に出てくる図書館のミワコさんは市川実和子なのだそうだ。あっ、そうか。市川実和子を知ったときに、どこかで聞いたような名だと脳の奥のほうでなにかが反応したのだが、そういうことであったか。おれの脳裡にたちまち“国立民俗学博物館の資料閲覧コーナーに佇む市川実和子の図”が浮かび、なるほどハマっとるなーと納得した。
 さらに北野さんは、「いや、それにしても女目当てで中国語を見てるとは田中哲弥はあほですね。ぼくはドイツ語やからあほちゃうけど」とドイツ語の優位を表明した。そらみたことか、やっぱり市川実和子はカエルでドイツ語のほうがエラいと田中哲弥さんに北野さんの意見を報告すると、『北野さんはまあ、自分で「あほちゃうで」と言うのですからそっとしておいてやるしかないと思いますが、ときどきこの人ほんまもんやなあと思うときがあるほどあの人はあほやと思います。小林泰三とどっちがあほかと考えると、ちゃんと違うところであほなので、たいしたものだと思います』と同業者への賛辞が返ってきたので、おれは才能豊かな作家たちの美しい交流に感動しつつ、「そっとしておこうと思います」と返事を書いた。今日はとてもよいことをして、清々しい気持ちだ。
▼そういえば、《北野勇作どうぶつ図鑑》であるが、あの本が二重の意味で“折り紙つき”であると最初に看破したのは、なんだかんだで山岸真さんなのだそうである。発売前に読んでいた山岸さんは、すでに〈本の雑誌〉5月号でそのネタを使ったとのこと。それにしても、あの折り紙、おれはまだ作っていない。切り離すのがもったいないのである。それに、切り離してしまったら、“折り紙つき”でなくなるではないか。まあ、読んだあとなら、小説(しょうせつ)の品質(ひんしつ)を自分で確認(かくにん)したあとなわけだから、べつに“折り紙つき”でなくなってもかまわないという理屈ではあるのだが……。
▼NHK語学講座の話題はさらに続く。市川実和子カエル説を展開した上述の日記に、池澤春菜「おもちゃ声のぶりっ子声優」と表現したところ、なんと池澤春菜さんご本人に読まれていることが判明。池澤春菜ホームページの掲示板でご本人が「へこむなぁ」とコメントなさっていた。悪いことはできないものである。
 この日記の常連読者の方には、おれが声フェチであって、片山淳子の例に漏れず、“おもちゃ声”を基本的に好むことが知れていようから、“池澤春菜はデフォルトでオーケー”だという前提の下に「おれが池澤春菜に萌えたのでは、あまりにも驚きがなくてつまらんだろう」と強がっていじくっているところがキモになっているギャグとして伝わるだろうが、この日の日記だけ読まれると、たしかに貶しているみたいである。ちと常連読者を念頭に置いて書きすぎた。いわば、この日記的楽屋ネタなのだ。常連読者向けの楽屋ネタができるところが個人ホームページのローカル深夜ラジオ的な媒体特性を活かした楽しさでもあるのだが、楽屋ネタをやりすぎると一見さんの読者に誤解されるおそれもある。難しいところだ。ほんとうに嫌いなやつにならへこんでもらって大いにけっこうだが、“デフォルト”の池澤春菜さんに誤解されてはかなわんので、当該掲示板まで釈明に行った。口は災いのもとである。
 いや、それにしても、天下の池澤春菜がこんな日記くんだりまで読みにくるとは夢にも思わなんだ。“ウェブページは誰が読んでいるかわからない体験”2001年2月2日8月27日の日記など参照)を、日記に書いていないものも含めて何度もしていながら、いまだに懲りないのである。たぶん、これからも懲りないような気はするが……。いつの日か、市川実和子と名告る方から、「私はカエルでも金魚でもない」と抗議が来たりしたら、おれが「カエルに似ている」と言えばそれは絶賛に近い褒め言葉であって……などと説明しなくちゃならないよなあ。なに、私ならそう説明されても、ちっとも嬉しくない? うーん、カエルの美がわからん変わった人も世の中にはおるかもしれん。残念なことである。
 そうだ、鈴木宗男からメールが来ないかなあ。喜んで返事を書くんだがな――「ええそりゃもう、私はあなたが嫌いです。大嫌いです。生理的に嫌いです。蛇蝎のごとくに嫌いです。いや、それではヘビやサソリに失礼です。私は蛇蝎のほうがあなたよりずっとずっと好きです。二度と国政の場に出てこないでください。あなたのやりかたが正義として通る精神的田舎者のコミュニティで、お山の大将として適当に利用されながら静かに死んでゆきなさい」
 よし、これくらい明示的に書いておけば、本人に誤解されることはないだろう。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『呪禁局特別捜査官 ルーキー』
牧野修、祥伝社 ノン・ノベル)
『歌の翼に ピアノ教室は謎だらけ』
菅浩江、祥伝社 ノン・ノベル)

 『呪禁局特別捜査官 ルーキー』は、おなじみ(だと思うが)『呪禁官』の続篇である。「一年も待たせてしまいました」〈著者のことば〉に書いてあるが、正確には一年と四分の三、早い話が二年弱である。いや、べつに非難しているわけじゃないけど。
 前作では、科学とオカルトが微妙に入れ替わった世界で、魔術犯罪捜査官を目指す若者たちの爽やかな友情(!)が重点的に描かれていたが、本書では主人公の葉車創作、通称ギアは新人呪禁官になっていて、前作でしゃぶり切れていなかったおいしい設定から相当ダシが絞り出されてきそうな感じだ。例によって〈週刊読書人〉で取り上げるであろうと予知はできていて、どのくらいはっきり予知しているかというと、つい二、三日前に入稿したかのように感じられるほどまざまざと予知しているのだった。
 『歌の翼に ピアノ教室は謎だらけ』は、「音楽ミステリー」と謳われている。ピアノ教師・杉原亮子が事件の謎を解いてゆく短篇連作のようで、『小説NON』を読んでいないおれは、設定も初めて知った。「癒しのミステリー連作」ともあるから、事件解決に伴って、関係者が“癒される”のであろう。こういうアオリ文の語句だけからも、どういうトーンの話か想像されるほどに、“菅浩江的カラー”は商業的に浸透したわけである。菅浩江を“癒し系”云々と宣伝するのは、たしかにわかりやすく、菅作品に初めて触れる読者を開拓するのには非常に有効であろうとは思うが、同時にそろそろ菅浩江にとっていささか煩わしくもなってきているのではないかと思う。菅作品の“癒し系”的側面は、人間の非常にどろどろした部分や非人間的な部分に着眼して斬り込んでいるからこそ、その反作用として醸し出されているところも大きく、口当たりのよいだけの“癒し系”だと勘ちがいして読みはじめた読者は、思っていたよりも重いものを突きつけられて胃もたれするやもしれないのである。で、SFファンとしては、“癒し系”という惹句にまんまと引っかかって(失礼)きた新たな読者には、大いに胃もたれしてほしい“いけず”な気持ちもあるわけなんだが……。本書にどのくらい胃もたれ成分が含まれているのかはまだ読んでないからわからないが、含まれていないはずはないと想像するのである。

【5月14日(水)】
▼なにかと世間を騒がせている白装束集団千乃代表とやらが乗っている車は、あ、「アルカディア号」というのか……。千乃代表がつけたのか、取り巻きの白い連中がつけたのか、いったいどういうセンスをしている。オウムのときもたしか、なんたら除去装置ってのがあったような気がするなあ。松本零士作品には、ああいう連中に好かれるなにかがあるのであろうか。いい迷惑だろうなあ。するとなにか、あの白装束の連中が警察や周辺住民に追われてしぶしぶ移動を開始するとき、千乃代表の運転手は、「アルカディア号、発進っ!」とか叫ぶのか? そもそも千乃代表は女性なのに、なんで「クイーン・エメラルダス」じゃないのだ?
 あの車の中はおそらくじめじめした不潔な環境だろうとアナウンサーだかコメンテーターだかが話していたが、なあに、大丈夫だ。きっとサルマタケがたくさん生えていて、千乃代表はそれを食っているのだろう。何年も前から末期癌らしいけれども、たぶんサルマタケの薬効で生き永らえているのだ。松本零士おそるべしってなにが。

【5月13日(火)】
▼会社から帰ってネクタイを外していると、母が今日買いものに行ってなんたらかんたらとおれにはなんの興味も持てない話をいつものようにするのでテキトーに聞き流していると、買いもののついでに“マルケー”に寄ってなにかを買ったという話になった。はて? ここいらに“マルケー”なんて店があったろうか? なんだそれは? と、一瞬考えたが、おれの脳ももう慣れたものである――。

「それは“サークルK”それは」

 まあ、あのマークは、そう読みたくなるのもわからんではないが……。

【5月11日(日)】
▼ここいらでは土曜のど夜中(つまり今日)に毎日放送が放映している『ガンパレード・マーチ 新たなる行軍歌』だが、もう最終回である。十二話しかないとは、ずいぶんと潔い。たまたま初回を観て、「はて、『サクラ大戦』を昭和にずらして学園ものにしたようなもんかい? でも、映像はやたら凝っとるなあ」と思いつつ、ずるずると全話観てしまった。何話か観ているうちにSFとしてはどうでもよくなってきて、ひたすら学園ドラマとして楽しむ。小ネタのセンスがよく、ラブコメとしてけっこう面白いのだ。人物の表情が細やかで、キャラの立てかたも、どぎつくなく、もの足りなくもなく、設定にスマートにフィットしている。全方位の嗜好にまんべんなくアピールするキャラクター設定と配置が、ステロタイプだからこそ魅力的である。要するに、全体として上品で丁寧な作りをしている。アニメ作品として非常に高品質だと思う。元がゲームなんだから二次的に展開された作品なわけだが、だからといって、というか、だからこそ手を抜かない姿勢が好もしい。斬新でも新奇でもないことは作っているほうだってよくわかっていて、その制約の中でひたすら丁寧に作ろうとしているのが伝わってくる。このクオリティでSFがメインの話だったらなあ。でも、それだとちがうものになってしまうから、ないものねだりですわな。人間が共通して持っている“定型への渇望”のようなものに、これでもかこれでもかと訴えてくるタイプの作品も、丁寧に作ってあれば、ちゃんと楽しめるものだなと感銘を受けた。なんか梅原克文みたいなことを言っているが、こういうのばっかりでも飽きるにちがいないから、おれみたいな中年のすれっからしは困る。もっとも、これほどきちんと上品に定型を織り上げるのは、誰にでもできることではない。SFとしてもの足りないことが、むしろこの作品に最初から課された制約なのだと考えれば、これはこれで優れた作品だと認めざるを得ないだろう。ごちゃごちゃ言っているが、早い話が、面白かったんだよ。


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