間歇日記

世界Aの始末書


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98年6月上旬

【6月10日(水)】
▼キリンビールのCMに使われている Enya Anywhere Is だけど、あれって、なにかに似てないか? 最初に The Memory of Trees を買ってきて聴いていたときには、「なにかに似てるよなあ」ともやもやしたものを感じながらも言語化するところまで突き詰めなかったのだが、何度もCMで聴かされているうち、先ほどようやく気づいた。これって、大漁唄い込みじゃないか。じっくり聴き直そうとCDを引っ張り出し、曲に合わせて「エンヤートット、エンヤートット」と口ずさんでみると妙にハマって、大笑いしてしまう。と同時に、なにやらエンヤの本質を見たような気がした。つまり、この人の音楽的な核の部分には、ケルトの血に連綿と受け継がれてきた労働歌のエッセンスが脈打っているのにちがいない。教会音楽のようでありながら、どこか土臭い親しみを覚えるのもそのせいだろう。日本のどこかの浜辺で、碧い空の下、赤銅色に日焼けしたとーちゃんかーちゃん、じーちゃんばーちゃんが地引き網でも曳いている光景を想像しながら Anywhere Is を聴いていると、まったく違和感がないどころか、まるで何百年もむかしから日本にあった曲のようにすら思えてくる。
 この曲をビールの、しかも、キリン・ラガーという伝統のブランドのCMに持ってきた企画者の慧眼には舌を巻く。ビールってやつには、お世辞にも“ハイカラな酒”だというイメージはない。海外ブランドやら、若者や女性を狙った新参者のブランドにはスマートなイメージを打ち出す広告も多いが、キリン・ラガーは、もともとそういうブランドじゃない。だいたい“ラガー”なんてことをわざわざ言い出したのも、“ドライ”が出てからのことである。それまでは、ビールと言えばこれしかないのかと思えるほどに、ドブネズミ色のくたびれた背広を着たサラリーマンも、腰に手拭いぶらさげた日雇い労働者のおっちゃんも、先生も、ホステスさんも、魚屋さんも、八百屋さんも、駄菓子屋のおばちゃんも、誰もかれもが、あの“キリンビール”を飲んでいた。キリン・ラガーのイメージは、泥臭い労働に汗を流した者が、ひとりではなくわいわいがやがやと大勢で憩いのひとときに呷る“庶民の酒、労働者の酒”だ。「とりあえずビール」という言葉に最も似合う。おれが子供のころ初めて飲んだビールも(おいおい)“あのキリンビール”であった。エンヤのこの曲は、日本人の労働歌の脈動にも共振するものがあるのだ。
 うーむ、CMって面白いなあ。本体の番組よりよっぽど面白いことも多いよ。そんなおれだから、NHKを観てると、どうももの足りないのである。根っからのテレビっ子だもんね。I was born in a house with the television always on.Love for Sale, by Talking Heads)
 エンヤはおれと同い年なのだが、やっぱりテレビ観て育ったんだろうか? なんかそんな気はしないよなあ。

【6月9日(火)】
6月6日の日記に書いた河原町二条・レザリアム・センターでの手塚治虫サイン会、おれは高校一年のときだとばかり思っていたのだが、喜多哲士さんのご指摘で中学三年のときのことだとわかった。あれあれと思って資料を引っぱり出してみると、サイン会が催されたのは昭和五十二年の九月から十月にかけてで、全四回。ということは、中学三年のときだ。おれと喜多さんは同い年で同学年になる。いやあ、人間の記憶ってのは当てにならない。だが、なぜ喜多さんがそんなことを正確に憶えておられるのか、と読者は問うであろう。さすがというか、業というか呪いというか、もちろん喜多さんもそのサイン会に行っていたわけなのだ。おれと同じ日だったかどうかは確認できないが、ひょっとすると会場で会っていたのかもしれない。京都は狭いよなあ。まさか、菅浩江さん(SF作家)や岡田靖史さん(SF翻訳家)も、あの場にいたんじゃあないでしょうね?
 それにしても、高校受験まで半年を切っているというのに、マンガ家のサイン会にのこのこ出かけてゆくとは、けしからんガキどもである。世間をなめておるなあ。こういうことをしておると、ろくな大人にならない。おれがいい見本だ。もっとも、喜多さんはいまや先生になっておられるわけだから、結局、若いときゃ好きなこと思い切りやってればなるようになるのよ。好きなことがない、やりたいことがないというほどつまらん青春はない。だいたい、それがないんだったら、勉強なんてしたってしょーがねーじゃん。「勉強するのが子供の仕事だ」なんてほざくバカな大人がむかしもやっぱりいたけれど、ちがうよ、自分の好きなものを見つけるのが子供の仕事だ。それは、たとえ行く手になにが待ち受けていようと、一生の支えとなってくれる重要な足場である。そりゃ、早く見つかるに越したことはないが、こういうのは個人差があって当然だよね。それを工場で生産管理でもするように横並びにさせ、できるだけ手際よく振り分けては細分化するなんてのは愚の骨頂である。たまたまその生産管理のサイクルに適合しなかったやつが、無用な劣等感を植えつけられて、センサ式のアームでもってベルトコンベアから“不良品”の箱に弾き落とされているのだとしたら、こんなもったいないことはない。まあ、ほんとうに才能と根性のあるやつなら、いつかどこかで這い上がってくるだろうから、そう心配したものでもないかもね。でも、不必要に遠回りさせられたり、逆に足踏みさせられたりするのは、まったくもって災難だよなあ。たしかに、あたりを見回すとろくな世の中じゃないけどさ、そんな砂漠みたいな場所でも、愛せるものがあればまんざらでもないと思えることがあるのよ。
 がんばれよ、子供たち。

【6月8日(月)】
▼地下道を歩いていると、ペプシコーラの例のダイナマイト企画、2001年に5名様を宇宙旅行にご優待(ご招待じゃないところが、ちと残念)ってやつの大きな看板があり、前で二、三人の女の子が熱心に説明を読みながら騒いでいる。むかしは、こういうのに群がって騒ぐのは男の子と相場が決まっていたものだが、いやあ、野尻抱介さんの影響力はたいしたものだ。
 それにしても思い切ったことをやるもんである。必ずどこかで誰かが書いているにちがいないけれど、「トリスを飲んでハワイへいこう」っつって大騒ぎしていたのが一九六一年で、わずか三十七年後にコーラ飲んで宇宙へ行こうってんだから、驚いたね、熊さん。サントリーの考えることはワンパターンだとも言えるが、自社の古典をみごとに活かして度肝を抜くところが、さすが広告の巨人だけのことはある。
 コカ・コーラもうかうかしてはいられないぞ。ペプシに対抗するなら、いましか使えない手がある――2001年、5名様を府中旅行にご招待! なにしに行くんだ、なにしに。
 われながら古典的なギャグだなあ。でも、ほんとにやったら、話題にだけはなるよ、絶対。
「TECH Win」(アスキー)を初めて買ってみる。先日「TECH Win」編集部から、おれのサイトのURLを付録のCD−ROMに収録してもよいかというメールが来て、どうぞどうぞと返事を出したのだった。なんでも、我孫子武丸さんのリンク集を紹介するので、おれのもCD−ROMに入るということらしい。とにもかくにも、露出が増えるのはありがたいことだ。少なくとも、一見さんが何名かはいらっしゃるだろう。その中で常連になってくれる人はごくわずかなのだが(笑)。
 本誌を見てみると、なるほど、見慣れた我孫子さんのページが出ている。おお、我孫子さんのリンク集のページ 「ネットの魂」も、3×4センチくらいの写真で掲載されているぞ――と、よーーーーーく見ると、腕時計の裏に書いてある WATER RESISTANT と同じくらいの大きさの字で、うちのサイト名が写っている。わははははははは。載ってることは載ってるのだから、本誌にも掲載されていることにしておこう。これに気づく人は、よほど目のいい人だよ。
 さて、問題は、付録のCD−ROMの中身がどんなものなのか、おれのパソコンでは確認できないことである。いまどき信じられないでしょうが、おれの愛機にはCD−ROMドライブがついていない。外付けドライブも持っていないのだ。金もないし、なにより、これ以上デバイスにメモリは割けん。おれは市販のソフトをほとんど買わず、たいていのことはフリーソフトとシェアウェアですませてきたので、それでとくに不便を感じなかったのだった。会社で見ようと思えば見られるのだが、まあ、いいや、どうせ今月パソコン買うもんね。じつはもう発注はしてある。Windows98 などという得体の知れないものがプリインストールされてしまう直前に、Windows95 のプリインストール機が値下がりするのを待っていたのだ。それでも今度のは、なにしろ二世紀にわたって使うわけだから、清水の舞台から飛び降りる気で、おれとしては奮発したけどね。置くとこがないもんで、やっぱりノート型だけど。驚くべきことに、CD−ROMドライブもついてるし、MMX Pentium 266MHz だし(聞いて驚け、いまのマシンは 486SX 33MHz だ)、144MBもメモリを実装した(聞いて驚け、いまのマシンは20MBだ)。しかも、パソコンからビープ以外の音が出るなんて、まるで夢のようである。世間では Pentium II のノートすら出ているようだが、なあに、上を見ればきりがない。本体がどんどん陳腐化しても、メモリさえ積めるだけ積んでおけばなんとかなるわい。
 で、これでなにをするのかというと、秀丸エディタでテキストをパチパチ打ち込むのである。こいつは快適にちがいない。ああ、マンガ家やデザイナーでなくてよかったなあ。ああいう商売だと、メモリがいくらあっても足らないよ、きっと。

【6月7日(日)】
▼おお、ついに見合い結婚が一割を切ったか。でも、この厚生省の統計って、「コンピュータで相手を選んで、恋愛して結婚しました」なんてのはどっちに入れてるんだろう?
 ふと思いついたが、“見合い同棲”って、あったら愉快だよね。結婚を前提にせず、見合いして気に入った相手と、法的手続きを取らずに勝手に暮らしはじめるわけ。あっても不思議はないような気はするな。恋愛ではじまる場合は、結婚するか同棲するかで選択肢がふたつあるが、一般的に、見合いというのは前提として結婚のオプションしかない。結局、それが見合いに人気がなくなっている最大の理由のような気がする。やっぱ、選択肢が多いほうがいいでしょう、なにごとも。
 どのみち、ひとりの人間が一生に出会える人の数なんてたかが知れてるから、効率よく人と出会うのにコンピュータを用いるのも悪くない。そういうのはたぶん“見合い”とは認識されてなくて、“恋愛を前提とした効率的な相手捜し”をしたということで、それで結婚した人は自分たちは“恋愛結婚”だと答えるんじゃなかろうか? だから、“見合い”の定義が変わっただけで、今様の見合い(恋愛を前提とした効率的相手の選択)も数に入れれば、むかしより“見合い結婚”は増えているのかもしれないよ。

【6月6日(土)】
▼夢の話というやつは、本人と精神分析医以外にはまったく面白くないのが常だからなるべく書かないようにしているが、有名人の出た夢なのでご紹介する。こんな夢を見た――

 おれが子供のころ住んでいたアパートに、なぜか手塚治虫が来ている。そこらのおやじが着るような色褪せた水色の半袖ゴルフウェアに茶色いベレー帽をかぶり(おれの夢はたいていカラーである)、家庭訪問の先生のような感じで座ったまま、まだ若い母と雑談などしているようだ。そこへなぜかすっかり大人になっているおれが入ってゆく。いい機会なのでなにか質問をせねばと、おれは手塚先生に訊いた。「物語というのは、最初こんなふうに(とジェスチャーを入れる)緩やかな坂を登ってゆくと、やがてごつごつした岩が混じりはじめ、そのうちぐらぐらした大岩や険しい断崖ではらはらさせられるものの、最後にはなだらかな平野に案の定たどり着いてほっとするように終わる(夢の中のこととて、こんなにはっきりした表現ではないが、こういうことを身振り手振りを交えて話した)。こんな同じようなものを次々と無数に書く(描く)ことに、なんの意味があるというのか? 先生は虚しくないのか?」 夢とはいえ、失礼なことを訊くやつだ。
 手塚治虫は、おれが話しているあいだ、ときどき「ほお」と感心するような顔を見せていたが、おれが質問を終えるとやおら立ち上がり、なぜかおれの家にあった汚れた黒板に黄色いチョークで絵を描きはじめた。それは、おれが形容したとおりの岩山であった。次に手塚治虫は、それとは少しちがう岩山を黒板の少し下のあたりに描いた。最後に、手塚がかすかに丸みを帯びた地平線のようなものを描くと、その絵は名も知れぬ小惑星表面の荒涼とした風景となった。手塚先生は笑みを浮かべておれに向き直り、小惑星の地表ではなく、地平線の彼方に広がる宇宙空間をチョークでトントンと叩いて指し示した。そこには、汚れた黒板の表面に付着した細かなチョークの粉が、満天の星となって大きく小さく輝いていたのだった。それらの恒星の周りには、まだ見ぬ無数の惑星や小惑星や岩塊が、想像を絶する形の岩山を乗せて巡っているにちがいなかった。おれは手塚治虫はなにが言いたかったのか、一瞬にして理解した。夢のこととて、言語化していたわけではないが、はっきりと悟ったような気がして、大きく肯いた。そのまま手塚治虫はアパートから出てゆき、白い自転車に乗って去って行った。おれの部屋にいるときは人間の手塚治虫だったのだが、部屋の窓から見た去ってゆく手塚治虫は、彼の作品にしばしば登場するマンガの自画像になっていた。

 奇妙な夢である。もしかしたらおれは、小説というものを読むことに関して、意識の底では少々疲れや疑問を感じてきているのかもしれない。おそらくおれの深層が、おれにとってユングの言う老賢人としての手塚治虫を引っ張り出して、じつは深いところでは知っている答えを、おれの表層の意識に与えようとしたのだろう。起きているより寝ているほうがはるかに勉強になることもあるのだ。
 おれが共感する作家は手塚治虫のほかにも少なからずいるはずなのだが、夢に出すとなると、やはり子供のころから知っている人物が妥当だろうと、深いところのおれは判断したのやもしれない。なにより、おれにとっての最も偉大なクリエイターの中で、唯一生身で会ったことがあるのは手塚治虫だけだからだろう。
 高校一年のときだった。京都河原町二条に、レザリアム・センターという当時話題になっていたレーザー・アート・パフォーマンスのための施設があった。そこで手塚治虫展が催され、サイン会もあるというので、おれはいそいそと出かけていった。サイン会というやつに行ったことのなかったおれは、近所の文房具屋で比較的高価な色紙を買い求め、わざわざ持参したのだった(色紙や著書なんぞ会場で売っているに決まっているのだが)。はたして、会場ではあらかじめ手塚キャラを印刷した色紙を売っていたが、せっかく色紙を持ってきたのでそれは買わず、マンガ少年別冊版の『火の鳥 鳳凰編』を買ってサイン待ちの列に並んだ。なにしろ当時は、『火の鳥 望郷編』『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』などがリアルタイムで進行していた手塚治虫第二絶頂期の真っただ中である。夥しい人だった。展示会場には、当時で二十万円とも三十万円とも言われていた『ロスト・ワールド(前世紀)』の初版本が展示されているかと思うと、写楽呆介設計になるところの“脳ミソをトコロテンにする装置”の実物大レプリカ(?)まで陳列されていて、なかなか愉快であった。
 二時間近くは並んだろうか。ようやくおれの番が来た。おれはガチガチに緊張して本と色紙を手塚先生に手渡し、「お願いします」と蚊の鳴くような顫える声で言った。マンガ少年別冊版『火の鳥 鳳凰編』の表紙見返しには、火の鳥の絵と手塚治虫のエッセイが載っている。見返しを開いた手塚先生は、どこにサインすべきか、ほんの一瞬迷ったように見えた。火の鳥の隣には名前くらい書けそうな空欄があり、そこにサインなさるかのなとおれは思った。が、マンガ家・手塚治虫は、絵を傷つけるおそれのある場所ではなく、自分の文章の上からでかでかとマジックで署名なさった。さすがである。手塚治虫はマンガ家であって、エッセイストではないのだ。おれが持参した色紙が白紙で、会場で売られていたものとはちがうので、手塚先生は「やあ、ごめんねー」などとおっしゃりながら、丁寧にサインしてくださった。絵入りの色紙が売り切れたものと勘ちがいなさったのだろう。「丁寧にサインしてくださった」などというのは欲目だろうと思うでしょうが、その後も手塚治虫のサインをあちこちで見るうち、やっぱりあれはわざわざ時間をかけてくださったのだと思われる特徴を発見したのだ。手塚治虫のサインは“虫”の字の中にふたつ、目のように点が打ってある。虫プロのロゴがそうだよね。高速モード(?)でサインなさるときは、その“点”は点ではなく二本の縦線なのだ。くりくりと点を描くより、線を描くほうが時間がかからない。おれの色紙には、きちんと塗り潰すようにして、あの“点”を打って、いや、描いてくださったのだった。おれが絵入りの色紙を買い損ねたと勘ちがいなさっていたのだとしたら、「絵を描いてあげられなくてごめんね」という意味で、とくに署名に時間をかけてくださったのかもしれない。子供のファンにはそういう気遣いをしそうな方ではある。あるいは、分厚い眼鏡をかけた気弱で病弱そうな少年に、ご自分の少年時代を見るような親近感を覚えられたのやもしれない……とまで思い込むと、これはファンの欲目だな。そういえば、塾でアルバイトをしていたころ、生徒たちに、「先生、『ねらわれた学園』のあのいやらしいやつみたいや」とからかわれた。たしかに、若いころはいまよりずっと手塚眞氏に似てましたなあ。生徒はからかっているつもりなのだが、おれはどことなく嬉しかったのだから、ファン心理というやつはどうしようもない。
 手塚先生はサインを終えると、こちらから求めもしないのに、手を差し出してくださった。紛れもないこの手が、膨大な真っ白い紙にあの偉大なインクの染みを刻んできたのかと思うと、握手する手も顫える。固くて繊細なマシンのような手を想像していたが、思ったより短いまん丸っちい指で、汗ばんでふわふわと軟らかかったのが意外だった。「今日はわざわざありがとうね」――ひえええ。それはおれの台詞だってば。この天才は、「ごめんねー」などと一介のガキに謝ったうえに、そりゃあ読者はお客様なのかもしれんが、礼まで言うのだ。天才というのはたいてい嫌われるものだというイメージがあるけれども、手塚治虫は、手塚眞氏が“父は天才であると同時に人格者だった”と葬儀のときに述懐していたとおりの方だったのだろう。石津嵐氏や石坂啓氏など、手塚治虫の仕事中の姿に身近に触れた方々の回想を読むと、手塚治虫とて随分素っ頓狂で理不尽なことをおっしゃる面もあったらしいが、それが嫌われていたわけでもないところが人柄を物語る。編集者の中にはたいへんな目に会わされた人もいるはずだが、いまとなっては手塚担当だったことを誇りに思っているにちがいない。
 おれとて、冷静な目で読めば“手塚的なるもの”に苛立ちを感じないこともないではない。事実、そうしたアンチ手塚のスタンスを出発点に独自の作風を築き上げたマンガ家も少なくない。だが、彼らも結局は、反作用の形で手塚治虫の影響下にあることは否定できないだろう。そういうものこそが正しく古典と呼ばれるわけで、シェイクスピアやドストエフスキーが古典であるのと同じ意味で、手塚治虫は古典である。

 ぼくのところの新人がある日なげいて、
「ああ、おれたちゃ損だ。漫画の新機軸なんて、手塚先生や、ほかの人がみんな先にやっちまったんで、おれたちの手の出しようがない。時期が悪かったな。」
 といったので、
「ばっきゃろー!!」
 とどなりつけたことがあった。自分たちの不勉強をタナにあげて、なんたることであろう。
 
――『マンガの描き方』(手塚治虫、光文社・カッパ・ホームス)

 なんの世界にいても耳の痛い話だ。ましてや、手塚治虫も目にすることのなかった新しいメディアがどんどん出てきて表現行為全体に揺さぶりをかけているこの時代に、たとえ旧来のメディア上であろうが、もはや新しく挑むものがないなんてことがあるわけがない。きっと、今日の夢は、二十一年前に読んだこの本のこのくだりが歪曲を受けて出てきたんだろうな。うむ。勉強せねば。
 やれやれ、妙な夢のせいで、なんか今日はミーハーな思い出話になっちゃったな。

【6月5日(金)】
『タイムクエイク』(カート・ヴォネガット、浅倉久志訳、早川書房)読了。随分時間がかかってしまった。ヴォネガットの本はいつも読むのに時間がかかる。しょっちゅう立ち止まっては、ぼーっとしてしまうからである。なにげない飄々としたフレーズが、いちいち鋭い。ヴォネガットは基本的に同じことばかり書いている。その同じことを読むのが毎回楽しいんだよな。『タイムクエイク』の腰巻には“アメリカ現代文学の巨匠”と書いてあるが、どうも“巨匠”という言葉はヴォネガットには似つかわしくないよね。SF作家と蔑まれていた人でノーベル賞候補になった(と言われている)のはヴォネガットくらいのものじゃないかと思うけど(大江健三郎はちがう。あの人は功成り名遂げてからSFを書いたのだ)、やっぱり“巨匠”という感じじゃない。おれがいままでに読んだあらゆる作家の中で、好きな作家オールタイム・ベストを挙げろと言われたら、まちがいなくヴォネガットは五本の指には入れる。でも、“巨匠”じゃないよなあ。本人もそのつもりは毛頭ないと思うぞ。認められてしまったキルゴア・トラウトのつもりでしょう、たぶん。たまたまアメリカの評論家の目が節穴ばかりで、ヴォネガットが生涯ペーパーバック・ライターに留まっていたとしても、やっぱりクソが扇風機にぶつかる話を飄々と書いているだろうと思うよ。
 あちこちでのたうち回って笑わされる『タイムクエイク』だが、とくに大笑いしたのは、全米ヒューマニスト協会の名誉会長であるヴォネガットが、前任のアイザック・アシモフ追悼集会で放ったというジョーク――「アイザックはいま天国におります」
 ぎゃはははははは。ヴォネガットも、自分が死んだらどこかのおふざけ屋にそう言ってほしいそうだ。こりゃあいいや。おれもこれ希望! もっとも、おれが死んだら、おれがどう遺言しようと勝手に仏式の葬式をやるに決まっているから、誰かが「彼も御仏のもとで安らかに……」云々と、おれへの弔辞としては最高のジョークを自動的に言うにちがいない。おれを最もよく知る参列者たちは吹き出しそうになるのだが、場所が場所だけに笑うに笑えず、肩を顫わせて必死で爆笑を噛み殺す。それがちょうど鳴咽をこらえているように見え、あまりおれを知らない人たちは「惜しまれて死んだ人なのだなあ」と勘ちがいして感心してくれるという寸法である。出棺後、葬式の二次会((C)浅田美代子)に喫茶店で駄弁る友人たちは、その様子を思い出して、今度は存分に笑い転げるのだ。おれにはそれが見られないのはとても残念だけれども、おれのことをよく知ってくれている人たちには、最後にそれくらいのサービスはしたいものである。

【6月4日(木)】
▼おっ、『ニュースステーション』(テレビ朝日系)の例の「最後の晩餐」に内田春菊が出ている。いやあ、いろんな意味でいい女だなあ。こんな人が身近にいたら、惚れちゃうね、おれは。まあ、内田春菊級の才人がそこいらにごろごろしているわけはないから、その点は安心だけど。おれにとっては、テレビに出たりしている芸能人の内田春菊と、マンガやエッセイや小説を書いている藝人としての内田春菊はちがう内田春菊なのだが、どっちもいいよなあ。
▼さてさて、盲人ブロックの話であるが、さっそく情報をお寄せいただいたので、ご紹介する。まず、あれは“点字ブロック”とも言うはずだから、それで捜してみてはどうかとアドバイスをくださったのは野村真人さん。なるほどそっちもよく聞く言葉だ。どうも“盲人”という言葉は、漢字の“盲”の含意のせいか、あまり印象がよくない。単に“視覚に障害がある”とニュートラルな意味を持たせたいものだが、使っているほうがいくらそのつもりでも、“真実に気づかない”といったニュアンスを否応なしに伴ってしまい、曲解の滑り込む余地がいくらでもある困った言葉である。たしかに不用意に使わないほうがよいだろう。だが、厳密に考えると、あれは意味を伴った“点字”ではないのだから、点字ブロックと呼ぶのもなんだか妙な気もしないではない。さて、困った――と、思っていたところへ、片岡正美さんがアレの正しい呼び名を教えてくださった。“視覚障害者誘導ブロック”というのだそうである。なるほど、多少長たらしくて言いにくいけれど、これなら人を不快にしてしまう危険はかなり減ずるだろう(こういう政治的に正しい表現の不自然さに不快になる人もいるとは思うが)。
 誤解なさらないでほしいのだが、おれは人を不快にする表現が悪いと言っているわけではない。極論すれば、誰も不快にならないような、箸にも棒にもかからない文章を書いても詮ないことである。ある表現を突きつけた対象が狙いどおり不快になってくれるのは大いに喜ぶべきことだ。しかし、書き手の手抜きや不注意や無知無学などのために、対象として意図していなかった人々を表現の切っ先で傷つけてしまうのは、書き手として恥ずべきことだろう。むろん、そういうことは言葉を使う人間になら誰にでもあるから、結局、ものを書いて公表するというのは、その恥や非難を引き受ける覚悟の要る行為である。このあたりのおれのスタンスをまとめておこうと、一度、NIFTY-Serve のある会議室で“言葉狩り”の話題が出たときに、ひとこともの申さんとコメントを書きはじめたのだが、これがやたら難しい。割り切ろうとすると滓が残る感じがして、おれにはどうしても論説にまとめることができなかった。そこで、おれの中のもやもやをもやもやのまま投げ出してしまえと、論説文ではなくショートショートにしてみたのが、いま「十月は立ち枯れの国」に置いてある「読者からのお便り」という、めちゃくちゃに読みにくい作品である。かなりあざというえ、小説としての価値はほとんどないし、まとめられなかった考えを生のまま書いてみる器として小説を利用した邪道にすぎないが、少なくともおれの苛立ちだけはなんとか形にできた。お時間のある方はご笑覧ください。
 さて、“視覚障害者誘導ブロック”についてだが、片岡さんの教えてくださった「Monthly Report」というサイトの記事「1996年版 No.1 視覚障害者によせて」が非常に参考になった。なんと、驚くべきことに、視覚障害者誘導ブロックのデザインは統一されておらず、しかも、その配置も視覚障害者がほんとうに安心して利用できる状態にはなっていないという。おれが記憶に留めていた突起五個の列が五行、四個の列が四行という千鳥格子タイプも、写真を見るとたしかに存在する。おれがモウロク族になったわけではなかったようだ。それにしても、デザインがまちまちだとは驚きだ。月面に降り立ったほどの生物が、なぜかくも重大な不合理を容認している? まったくもって、世界は驚異に満ちている。少なくともおれは、退屈に悩まされることだけは一生なさそうだ。それだけでも十分生まれてきた甲斐のあるしあわせ者である。野村さん、片岡さん、ありがとうございました。

【6月3日(水)】
▼立体が商標登録できることになり、不二家のペコちゃん・ポコちゃんなどが認められたというのだが、これは困った。山岸真さんは人前に出るたびに不二家に金を払わねばならないのだろうか?
一昨日、盲人ブロックの突起の話を書いたが、今日駅で足元を見て愕然とした。あの突起は六行六列の三十六個しかないではないか! そんなバカな、とあちこちで見てみてもやはり三十六個しかない。たしかにおれは、五個の列が五行、四個の列が四行のブロックをじいっと見て、ほほう、うまくできているものだ――と頭に叩き込んだ記憶があり、そのせいか、いままでみんなそうだと思っていたのだ。思い込みというのは怖ろしい。目に映っているものが思い込みによって歪曲され、ありのままに見えていなかったということになる。おれのほうがよほど目の不自由な人だ。ことによると目は大丈夫で、頭のほうがいよいよモウロク族になりかかっているのだろうか。それとも、まさかとは思うが、盲人ブロックともあろうものが、一種類ではないのであろうか? 突起ではなく、帯が四列入ったものはたしかにあるけれども、突起タイプのものに何種類もあったら目の不自由な人がややこしてくてしかたがないではないか。あるいは、おれが感心して記憶に焼き付けたブロックのほうこそが、紛らわしいにせものだったのであろうか? それとも、どちらもほんもので、途中でデザインが変わったのか? うーむ、謎だ。こいつは調べてみる価値がある。「悩むまでもない。それはこういうことだ」と、盲人ブロックのデザインに詳しい方がいらしたら、ぜひご教示を賜りたい。

【6月2日(火)】
▼部屋に置いてあった讀賣新聞の夕刊一面になにげなく目をやると、「野茂、ドジ」と縦書きの大きな見出し。なにかエラーでもしたのだろうが、いくらなんでもひどい言種だと思いつつふたつ折りの新聞を広げると、折り目の下から「ャース退団」という文字が出てきた。讀賣新聞はいつから大スポ(東スポ)になったのだ?
「通販生活 夏の特大号」(カタログハウス)の巻頭特集「ロングセラー製品の底力。」に、どこかで見たような本の写真が――。よく見ると、『いさましいちびのトースター』(トーマス・M・ディッシュ、浅倉久志訳、早川書房)だった。「このトースターは、どうして、童話の主人公になってしまったのか。」なんてキャッチがついてるけど、“童話の主人公”じゃなくて“SFの主人公”と書いてほしかったなあ(ディッシュをSF作家とは書いてくれてるけどね)。まあ、この媒体のこの文脈では“童話”にしないとさまにならないし、子供にも楽しめるという点では童話なんだけどさ。一応、イギリスSF作家協会最優秀短篇賞、一九八一年度星雲賞海外短篇部門受賞作ですんで、そこんとこよろしく。いさましいちびのイラストレーター、水玉螢之丞さんが伊達に肩書きに拝借なさってるわけじゃない、SF性に溢れた楽しい作品なのだ。
 「通販生活」には、このいさましいちびのトースターはサンビームのだと書いてあるが、はて、トースターのメーカなんて書いてあったっけな? たしか一緒に大冒険をする掃除機はフーバーのだったはずだが……と、妙に気になり、短い作品だからざっとチェックしてみると、あっ、ほんとうだ。冒頭では「通信販売の会社からまっすぐこの別荘にやってきた」としか素性が書かれていないが、大団円近くで「サンビームのトースター」と明記してある。それにしても「通販生活」の人、“通信販売”という言葉を見て「しめた」と思ったか、著者近影にディッシュと一緒に写っているトースターを見て「あ、これは――」と思ったか、目に映るものを自分の仕事に絡めて考えてしまう嗅覚はプロだねえ。いかにもSFファンがいそうな編集部ではある。
 ひさびさに『いさましいちびのトースター』を取り出してみたけど、八七年に刊行された翻訳(初出は「F&SF」八○年八月号、初訳は「SFマガジン」八一年十二月号)の著者紹介文には、ディッシュは“いさましいちびのトースター”のモデルになったトースターを十五年あまり使っていると書いてある。彼はまだこのトースターを使い続けているのだろうか? だとしたら、同じトースターを二十六年以上使っていることになるが、サンビーム製トースターのがっちりした筐体を見ていると、そういうこともありそうに思えてくる。なんとなく、そんな風格があるんだよな。さすがはロングセラー商品だ。おれはパンを焼くときは電気オーヴンで焼くのでトースターは持っていないが、見てると欲しくなってくるよ。もっとも、パンを焼くのに二万二千円払うほど、おれは食道楽ではないけどね。
 「通販生活」とてものを売ってなんぼの商売のはずだが、この雑誌がものを売りながら突きつけてくる「わかっちゃいるけどやめられない。しかし――」という自家撞着的コンセプトには考えさせられるところが多い。この雑誌は、消費社会そのものが孕む矛盾を、それと知りつつ正直にそのまま表現してしまう。この雑誌の存在と編集方針自体が、矛盾を矛盾として提示している。それによって、“いい品とはなにか?”を消費者に否応なしに考えさせる、というか、「わたしらもわからんので、一緒に考えましょう」と巻き込んでしまうのだ。飽きが来ず、使えば使うほど愛着が湧き、しかも長持ちするような製品がいい製品だとして、みながそんなものを求めはじめたら、いまの日本の経済は確実に崩壊する。ものは、せいぜい一、二年でぶっ壊れるか飽きるかしないと困るのである。でも、それでいいのか――と、やはりみなが思っているのだが、どうしたらいいかわからないのだ。わからないけど、困ったことですなあと言っちゃうのが「通販生活」なのである。ちょっと面白い不思議な雑誌だと思う。

【6月1日(月)】
▼あややや、なんてことだ。褒めて損した。98年5月20日の日記で、ミント菓子「FRISK」のフィルム包装がフレーバーによってちがうのは深い意図のあることではあるまいかと書いたのだが、今日店で見たら、いつのまにかみんな同じ包装になっていた。キャラメル包装の帯が短辺に平行にかけてあるタイプばかりになっていたのだ。とすると、あれは怪我の功名だったのか。怪我の功名なら功名で、なんで色盲の人に便利だということに気づかんかなあ。盲人ブロックの上に自転車を停めてるバカがたくさんいるはずだよ、とほほほ。
 ここで問題です。盲人ブロック一枚に、あの“突起”はいくつあるでしょう? 直観像記憶の持ち主か、おれみたいにくだらないことを観察するのが趣味の人ならともかく、即答できる人は少ないよね。正解は四十一個。突起が五つ並んでいる列が五行、そのあいだに四つ並んでいる列が四行挟まっている。覚えやすい。覚えやすいけど、受験生の諸君がこんなことを覚えたとて、なあんの役にも立たないこと請け合いである。
 ただ、フレドリック・ブラウンもジョン・レノンも言ったように、想像せよ。ちがう宇宙を生きている者の感じかたを。それはおれたちの想像を絶するものであるかもしれないが、想像を絶するものを想像してみる知性は持ち合わせていたい。盲人ブロックは、全国どこへ行ってもこのデザインだからこそ、撫でたときカツカツと杖先に当たる感触や、足の裏に感じる“いつもと同じ”刺激で、目の不自由な人はそれと確実にわかるのにちがいない。だから、法律で禁じられているかどうかおれは知らないが、まちがってもこれと紛らわしいデザインの敷石やタイルを作ったりしてはならないのだ。この日記をディスプレイで書いたり読んだりしているおれたちは、盲人ブロックを“突起のついた黄色い帯”として文字どおり一目瞭然に認識している。記憶の中でもそういうものとしてしかなかなか想起できない。が、それ以外のものとして、どう感じ得るかを想像してみるのも無為なことではないだろう。そうした精神の構えこそ、そこに立ち現われる驚異こそ、SFそのものだ。盲人ブロック一枚にもSFは潜んでいる。たとえば、音で、熱で、匂いで、味で“ものを見る”異星人たちの社会では、“盲人ブロック”のデザインにはどのような配慮がなされているのだろう――。


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