間歇日記

世界Aの始末書


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98年10月下旬

【10月31日(土)】
▼何度教えても覚えないので、どちらかが死ぬまで同じ説明を繰りかえさねばならないものと、おれは半ば諦めている。母親に「“はろういいん”てなんえ?」と訊かれるたび、おれは「西洋地蔵盆や」と答えることにしているのだった。京都の人間だから、それで納得する。
▼仕事のBGMにCDを流しておきたくなり、ミニコンポにセットする。あららら。このところ針跳び(というか“光跳び”)が起こって調子が悪かったのだが、とうとう実用に耐えぬ段階にまで来てしまった。レンズ・クリーナーのディスクを何度かかけても改善の兆しはない。こういうときは、あっさり諦めればよいものを、なおさら矢も盾もたまらなくなってくるものである。処理してしまったあとはケロリと気にならなくなるあたりが、なにやら性欲に似ていなくもない。
 しかたがないからパソコンのCD−ROMドライヴを使おうとするも、やはりノートパソコンのスピーカーではもの足りない。だが、おれはパソコン用の外部スピーカーを持っていない。さて、どうしたものか。ミニコンポのスピーカーを外し、アダプタを介してパソコンに繋げばいいのだが、スピーカーのコードが短いため、いちいちパソコンのそばに持ってこなくてはならなくなる。それはいかにも面倒くさいし、おれがいつも仕事をしているテーブル(というか、ガラスの卓袱台のようなもの)には、スピーカーをふたつも置く場所などない。さて、どうしたものか――と部屋を見まわしたおれの目に留まったのは、ビデオデッキの前面オーディオ入力端子であった。おお、この手があったか。ビデオデッキなら、最初からミニコンポに接続してある。おれはテレビやビデオの音はいつもミニコンポから流して聴いているのだ。オーディオ入力端子はビデオデッキ後面にもあるが、裏へまわってあれこれするのは億劫だ。前面端子はデザイン的にはかっこわるいけれど、おれのようなものぐさ者のためにつけてあるにちがいない。えらいぞ、三洋電機
 おれはパソコンの音声出力端子にステレオミニプラグの延長コードを繋ぎ、さらに左右のピンプラグに分岐した接続コードを繋いだ。これだけで四・五メートルある。そいつをビデオデッキの前面オーディオ入力端子に挿し込む。ビデオデッキのオーディオ出力端子からは五メートルのステレオ・ピンプラグ付きコードが延び、ミニコンポの外部ライン入力端子に繋がっている。よっしゃ、準備はできた。パソコンのCD−ROMドライヴに音楽CDをセットし、好きな曲を選択プログラム、演奏を開始させる。パソコンから出た音楽は、途中、ビデオデッキとミニコンポのアンプでブーストされ、ミニコンポのスピーカーから大音量で流れ出した。さすがにオーディオ専用機器だけあって、信号さえ入力できればこっちのもの、おれのパソコン環境ではかけられないエフェクトがかけられる。かくして、直線距離にして二メートルと離れていないパソコンとミニコンポとのあいだを、音楽の信号は都合十メートルの旅をしてようやく空気の疎密波に変換されるのであった。アホである。六畳間がコードだらけだ。あたりまえのことながら音質は多少落ちるけれども、そこらはミニコンポ側で補正すれば十分聴けるものになる。パソコンに光ケーブルの出力端子があればいいのにな。まあ、あってもそんなものが使えるほどのオーディオ機器を持っていないのだが。
 なんとかBGMを復旧したおれは、安心して仕事に取りかかるのであった――のだが、問題は残る。いろいろソフトを使っていると、「ドシャッ」「ピコッ」「ピンッ!」などという警告音がだしぬけにミニコンポからステレオで鳴り響き、はなはだやかましい。やはり、音楽CDは音楽CD用デッキで聴くのがいいようだ。いまごろわかったか。

【10月30日(金)】
▼今月の「SFオンライン」に載っている久美沙織氏の「小説の書き方」があまりにも面白かったものだから、ついつい『小説を書きたがる人々』(久美沙織、角川書店)を手に取ってしまい、他人にも自分にもやたら思い当たるディテールに大笑いしながら一気読みしてしまった。締切ぎりぎりの原稿があるのに外道なことだ。お待たせしている編集者の方々、ごめんなさい。
 よく考えたら、おれは“小説の書きかた”に類する本をほとんど読んだことがない。久美氏の小説以外の本もこれが初めてである。『文章読本』の類なら、谷崎やら丸谷やら吉行やらいろいろ読んだけれども、結局、他人の言うことはほとんどおれの参考にはならないとわかって、やがて飽きてしまった。誰かの文章に憧れるなら、その人の文章をひたすら読みまくるのがいちばんだ。“小説の書きかた”に於いてをやだろう。そもそも“小説の書きかた”などという分野の書物が存在すること自体、おれには不可解でならない。なにをどう書いてもいいのが小説なのだから、ほかならぬ“小説の書きかた”そのものを自分で編み出すのが作家という職業の最も重要な部分のはずである。『独創的になる方法』という本を懸命に読んで独創的になろうとしているやつがいたら、それははなはだ滑稽な図だと思うぞ。まあ、地図にない街を捜すには最初に地図が要ると、たぶんさだまさしが言ったのだと思うが、それを踏まえたうえで、すでに他人がやってしまったことを確認するために読んでいるのならわからないでもないが……。だからおれは『文章読本』だの『小説の書きかた』だのは、あくまで作家の作品として読む。きっと、こうしたものを書いた作家は「――とまあ、この本に書いたようなことは、わしがここにこうして書いてしまったことだから、真似するんじゃねーぞ」と言っているのだろう。そこには、その人が到達した文学観なり技術論なりが表れているはずだ――が、それは他人が直接役に立てられるものではないのだ。
 「小説を書くというのはソフトウェアを組むというよりは、ハードを創ることなんだ」と、神林長平「言葉使い師」(『言葉使い師』ハヤカワ文庫JA所収)という“小説”の中で書いているが、こいつに初めて遭遇したとき、おれは「これは読むほうにも適用できる」と膝を打った。読むという行為は、ハードウェアである“おれ”に小説というソフトウェアを載せて走らせてみることではない。おれのほうこそがソフトウェア、あるいはデータなのであって、それをハードウェアである小説に“入力”するのだ。そして“出力”されてきたおれがなんらかの変容を受けていれば、それはおれにとって価値のある、少なくとも意味のある小説であったと考えられる。読むという行為についておれがぼんやりと感じていたことの本質をシンプルに言語化してくれたこの小説は、おれにとってはいいハードウェアだった。ハウツー本の類ですら、おれにこのような変容をもたらしてくれるのであれば、それはすでにハウツー本ではないと言えるだろう。『文章読本』や『小説の書きかた』や『女の口説きかた』や『お金の儲けかた』からも、このような読みかたを心掛ければ、マニュアル的知識以上のものを掴み獲って帰ってこられるかもしれない。
 堅いことはともかく、この『小説を書きたがる人々』は、読んでいる最中、しきりと既視感に襲われた。あっ。そうか。これは、中島梓『ベストセラーの構造』(講談社)の再話ではないか。中島氏のは透徹した思考で導き出した論文であったが、久美氏は、豊富なサンプル群とつきあってきた実体験に基いて、さらに歌って踊って楽しませてくれているのだ。言うまでもなく、これは久美沙織の“作品”なのである。ノウハウ本として役に立つ(?)部分があるとすれば、それは五ページ足らずの最終章「書ける人々」だけだ。この五ページを書くために、二百八十ページを歌い踊ってくれる久美沙織は、やはりプロの小説家なのであった。滑稽なことに、この本を役に立てられる人にはこの本は要らないし、役に立てられない人にはこの本はわからないのだが、そんなことは久美沙織自身、百も承知である。それでも、もしかしたら……とこんな本を書いてしまう久美沙織は、やっぱりどうしようもなく小説が(書きたがる人々が、じゃないよ)好きなんだろうな。

【10月29日(木)】
▼なにやら「百万人の日本人普通の人アンケート」に続いて、一部のネット日記網でブームになりつつある「あなたの値段を鑑定します」であるが、よく感想メールをくださる近藤雅子さんやねこたびさんも、やっぱり基本的に“運だけ人間”らしく、仲間が多くて頼もしいことである。高杉緑さん渋谷伸浩さんに至っては、運以外すべて0円というすさまじい鑑定結果で、おれがとてつもなく不運な人間であるかのように思われてくる。きっと高杉さんや渋谷さんのご両親は強運の持ち主で、そのまたご両親もそのまたご両親も運に恵まれていたのだろう。ご先祖にブラウンという姓の西洋人はいらっしゃらないか? え、なんのことかわからん? そういう人は『リングワールド』(ラリイ・ニーヴン、小隅黎訳、ハヤカワ文庫SF)を読もう――って、最近こうやって無垢な読者をハメようとしているパターンが多いな。
▼パソ通専業(?)時代から、おれのエッセイハチャメチャ小説を熱烈に応援してくださっていた奥村真さんから、ホームページを立ち上げたとのメールを頂戴した。昨今、ウェブページの増える勢いには爆発的なものがあり、郵政研究所が先日発表したデータによれば、WWW上で検索可能な国内の文書量はここ半年で約一・八倍に膨れ上がり、今年九月現在で約三千六百五十万ページを数えるとのこと。じつにけっこうなことである。読んでるだけで飽き足らないそこのあなた、一丁、自分のページを作ってみよう。なに、ネタがない? ふつうに生活していればないわけがない。ふつうに生活していなければ、なおさらないわけがない。面白いと思ってもらえそうなものを作る自信がない? 日本のどこか、世界のどこかには、それを面白い、役に立つと思う人がいるやもしれない。どんどんやったんさい。あと半年でもう二倍くらいに増やしてやろうじゃないの。
 「ウェブページなんてクズばっかりだ」という論調がある。これは一般論としては正しい。たとえば、あなたがいま読んでいるページなどは、その最たるもののひとつである。しかし、各論としてはまちがっているのだ。「どんなものでも九十パーセントはクズである」という、SFファンには有名な“スタージョンの法則”というやつがある。この法則が正しいとして、ネットサーフィンをしてみたAさんが言う。「ウェブページって、九十パーセントはクズだね」 それを聞いたBさんも同意する。「たしかに九十パーセントはクズだね」 二人は「ウェブページの九十パーセントはクズだ」という一般論に関して意見を同じゅうすることになる。が――だ。じつは、Aさんがクズだと言っている九十パーセントのページは、Bさんのそれとは一致していないはずなのだ。それどころか、Aさんが価値ある十パーセントに入れているページを、Bさんはクズだと思っているかもしれないわけである。WWWとはそういう特質を持った媒体なのだ。一般論で語ったときに取りこぼしてしまう部分にこそ、WWWの最大の力が隠れている。“Cさんが田舎の老親に孫の運動会の写真を見せてやるためだけに作ったページ”は、おれにとってはクズ以外のなにものでもないが、Cさんのご両親にとってはたいへん価値あるすばらしいページなのである。「せっかく世界に向けて情報を発信できる媒体を、なにもそんなことに使わなくたっていいじゃないか」などと肩に力の入った人は言うかもしれないが、「べつにそんなことに使ったっていいじゃないか」とも、まったく等価に言える。97年10月8日の日記でもほのめかしたように、たいへん逆説的ながら、ほんの一部の人にしか役に立たない情報、ほんの一部の人しか面白いと思わない情報が流せるのが、WWWの重要な媒体特性のひとつである。そういうものは、逆立ちしたって商業的な媒体には乗らないからだ。WWWでは“価値ある”情報を公開すべきだなどと主張している人は、手前が一般的な価値の有無を判断できると思い込んでいるわけで、それは言うまでもなく度し難い傲慢である。いかにもマスコミ的な一般論に踊らされているにすぎない。WWW上では「吸入麻酔薬感受性の異なる2系統マウスにおけるベンゾジアゼピン感受性について」という情報も「『スケバン刑事3 少女忍法帖伝奇』の第八話は[炎の修業!これが究極のヨーヨー技じゃ]で、放映日は一九八六年十二月十八日」という情報も厳密に等価である。それらは、一般的にはホワイト・ノイズである点に於いて等価なのだ。ホワイト・ノイズの中から意味を汲み出す個別の利用者を想定したとき、はじめて個別に価値が生じるのである。よって、あなたが発信する、発信できる情報に価値がないなどということはあり得ない。ただし、そこには多数決原理は働くし、ネット外の世界でのさまざまな自由や制限も同様に働く。だが、ほんの二、三人しか見てくれなくとも、あなたの目的が達成できれば、それはあなたやあなたのページの利用者にとっては“価値あるページ”だ。
 そういう意味で、どんなに“一般的に”くだらないと言われそうなページでも、量が増えるに越したことはない。その情報の海の中で溺れないための努力は、情報の発信者ではなく利用者に求められているのだという至極当然の認識を広めるためにも、もっともっと増えたほうがいい。あーんと口を開けていれば親や教師やどこかの偉い人が栄養のあるものを箸で食べさせてくれるのに慣れているお子様たちに、自分にとって価値あるものは自分で見つけるしかないという情報社会の常識を叩き込む教材として、インターネットほど教育的なものもそうそうないだろう。そういう人材が増えすぎると困ると思っているにちがいない連中も、いまの日本には少なからずいる。彼らが慌てふためくような子供たち、若者たちがどんどん育ってきてくれるとしたら、こんな頼もしいことはない。情報というのは、おれたちが使うものであって、使わせられるものではないのだ。
 で、一席ぶったところで、奥村さんの「サイト:真」の話に戻る。はっきり言って地味なサイトだけれども、たいへん面白い試みをなさっている。「ラヂオ:真」というコーナーで、日記のようなお喋りを毎日二、三分ずつ、ストリーミング再生できる音声データで公開しておられるのだ(再生にはReal Playerが必要)。アナウンサーや声優の方などが自分の声の見本を公開しておられたり、音楽好きな方が自作のMIDIデータを載せておられたりする例はよくあるし、昨日触れた「ラジオカロスサッポロ」もそうだが、電波による放送局が“インターネット放送”をやっているのも、もはや珍しくもなんともない。が、個人的なお喋りを個人で発信してしまおうというのは、ちょっと珍しいと思う。目の前に相手がいないところで、独りなにかを喋り続けるのは、思い当たる経験をお持ちの方もおられようが、存外に難しいものである。奥村さんのも、まだけっして達者とは言えないが、徐々に上達してゆかれるのが聴いていて面白い。いや、難しいすよ、これは。慣れない人がやると「経理課長の放送」(『筒井康隆全集11』新潮社・所収)みたいになっちゃうはずだ。奥村さんはかなりの美声の持ち主である。声のファンがつくのではあるまいか。「声を聴くだけでイキそうになる」などとオーバーなことを言う女性ファンが、おれにもごくごく一部にいたりするのであるが、あちこちでイカれては社会秩序を乱すので、おれは声を公開したりはしないのだった。ちなみに、奥村さんは強度の弱視である。おれのページなどさぞ読みにくいだろうと申しわけないけど、ほかにもいろんな読みにくいページを見て、音で日記を流してやろうと着想なさったのかもしれない。こういうポジティヴな発想には「やられた」と思うね。まあ、おれもいかにも真面目で賢そうなページをたくさん見て、じゃあ、アホを売りものにしてやろうとこうしてやっているのだから、それほど奥村さんに負けているわけでもなさそうだ。
 というわけで、ウェブページを作るのって面白そうだなと思っているあなた、誰に遠慮がいるものか。どんどん立ち上げよう。
▼と、どんどんウェブページは増えてくるのに、最近の goo は、すっかり壊れてしまっている。いらいらするので、おれはあまり使わなくなってしまった。一時はいちばん気に入っていたのにな。いったい全体、どうしたんだろう?

【10月28日(水)】
▼昨日の日記でネタにした「あなたの値段を鑑定します」だが、今日いつも読む日記群を見てまわっていると、いろんな人があちこちでやっていることがわかった。みんな好っきゃなあ、こういうの。結果をウェブに公開していない堺三保さんMATUKENさんからも、「こんなん出ましたけど」(古いね)とご報告があった。堺さんは「8576万780円」、MATUKENさんは「2842万5079円」だそうな。ほかの人の結果をいくつか見たが、総額にこそ差はあれど、おれの知っているSF系の人は似たり寄ったりで、総合すると「運だけで生きている、才能などゼロに等しい血も涙もない冷血漢」であるらしい。おれなどまだまだ序の口であった。このテストが誰がやってもこうなるようにできているのか、それともやはりSFファンにはなにか共通した傾向があるのか、興味深いところである。SFが嫌いな人が作ったテストなのかな?
25日の日記で世に問うた“納豆ラーメン”について、一歩さんから意外な情報。阪急電車石橋駅前にある「天下一品」では、碾割納豆を使った「なっとうラーメン」を出しているそうだ。「天下一品」といえば、筒井康隆氏も一時期CMに出演していた超有名チェーンである。え、知りませんか? そうそう、筒井氏のCMは関西でしか放送されてなかった(もうやってないけどね)。筒井氏のサイトの「Multi Media Theater」でムーヴィーが観られるようになってるので、ご存じない方は、回線の空いてる時間帯にぜひどうぞ。筒井氏が「天下一品」でラーメンを食いながら、「客観性を背負うて『天下一品』のラーメンを構造分析するとコノスープの濃厚さが焼き豚の過剰な官能性を排除する形態をとものうてハイデガー的気づかいを世界−内−存在に齎すな。この非日常性をポストモダン用語のソノ物語という……」云々と、唯野教授ノリでまくし立てる「はやい話篇」がおれは好きだ。なにしろ『ポスト構造主義による「一杯のかけそば」分析』(『文学部唯野教授のサブ・テキスト』筒井康隆、文藝春秋・所収)ってのがあったくらいだから、妙にラーメン屋にハマっていておかしい。
 それはそれとして、この「なっとうラーメン」は、阪急電車豊中駅と蛍池駅のあいだにある「天下一品」のメニューにもあるそうだが、こちらは碾割でなく、大粒の納豆を用いているとのこと。やはり碾割のほうが“こってりスープ”と納豆のネバネバとが渾然一体となった醍醐味が楽しめるらしく、一歩さんは石橋駅前のほうに軍配を上げると言っておられる。はて、石橋といえば、なーんとなくSFに縁のありそうな土地柄という気がしないでもなく、また訪ねる機会があれば、碾割の「なっとうラーメン」を試してみることにしよう。ちなみに、一歩さんはあちこちの「天下一品」を食べ歩いておられるが、納豆ラーメンを出しているのは、この二軒以外にはご存じないそうである。
 以前にも何度かこの日記に登場している札幌医科大学の三瀬敬治さんからも、「納豆ラーメンですが私も時折食しております」との心強いお便りをいただいた。札幌の人が作って食っているのだから、もはや納豆ラーメンは本場のお墨付きを頂戴したも同然であろう。納豆汁に近いものにするには、味噌ラーメンを用いるのがベターとのアドバイス。なるほど、言われてみればそうだ。次はそうしてみよう。ちなみに、三瀬さんの奥さん(「ラジオカロスサッポロ」でDJをなさっている三瀬恵さん)は、カレーライスに納豆をかけ、グシャグシャ混ぜて召し上がるとか。奥様曰く「カレーの辛味が納豆によってマイルドになる」のだそうである。辛いのが苦手な方は、試してご覧になってはいかがか。想像するだにうまそうだ。これも挑戦の価値ありだな。

【10月27日(火)】
平野まどかさんの日記で紹介されていた「あなたの値段を鑑定します」というテストをさっそくやってみる。
 鑑定によれば、おれの値段は「3693万480円」で、階級は全42階級のうち27位の「給食当番級」である。内訳は次のとおり。


内訳値段割合(%)
1416万8370円38.3
才能66万8970円1.8
境遇0円0
人徳348万8640円9.4
1860万4500円50.5
___________合計:3693万480円


 ううむ、意外と高い。「境遇0円」なんてのは、狙ったって出せるものではないのではないか(一度しかやってないからわからんけど)。清々しい。どういう根拠で計算しているのかはともかく、要するにこれは「その場の思いつきと運だけで生きている」ということだろうから、たしかによく当たっていると言えよう。しかし、これだけ運がいいのなら、もっといろいろおいしいことが転がり込んできてもよさそうなものなのに、いままでの人生でそのようなことがあったとは思われない。きっと、これから十年くらいのうちに、このぶんがどっと押し寄せてくるにちがいない。おお、生きているのが楽しみになってきたぞ。
 ちなみに、この鑑定結果の論評はこんな具合であった。


論評
あなたが持っている最も高い財産は「運」です。最も重要な要素ですが最も悲しい結果といえるでしょう。たしかにあなたはこの運さえあれば大部分の人生は難なく乗り切れることでしょう。しかしそれは自動的に世界が動いているだけで、あなたが生きていることとは違います。運に頼った人生なんてきっとつまらないでしょうが、世の中を大きく動かす最低条件はやはり運がいいことなので、あなたはその可能性を秘めた人ともいえるでしょう

各値段の評価
<心のBライセンス>心は普通の値段です。そっけないところもあるけれど、いざというところでは良心が動き出す、冷徹にはなりきれない人でしょう。クールな路線より、やさしいあなたのほうが好かれるでしょう

<才能のDライセンス>悲しいことに才能はゼロに近いです。あなたが世の中で必要とされるときは、きっとその才能ではなく財産やお情けなのかもしれません

<境遇のDライセンス>全く恵まれていません。自分の力で人生は切り開くしかありません。しかしながら、それが人生の醍醐味とあきらめれば、この逆境は恵まれているのかもしれません

<人徳のDライセンス>かなり人徳は無く、嫌われ者でしょう。いや、嫌われなくても無視される、世の中にいてもいなくてもいい、ときっとまわりの人は思っています

<運のAライセンス>運がいいです。金運も恋愛運もいいです。ただ、世界がうまく自分の思い通りに回転しても、自分の才能だと思いこまないでください。運の力を無視していると、きっと何も残らなくなるでしょう


商品化
なお、あなたを商品化すると、以下のようなものが買えます
世界一周旅行を3周
冬樹蛉さんの結婚式が6回
全自動洗濯機が9台
腹筋運動補助具が1セット
高枝切りバサミが2本
うまい棒が24本

また、一日三食、ずっと肉まん(88円)を食べるとすると
139888日間(383年と93日)生きていられそうです

また、普通の生活をすれば
18465 日間(50年と215日)生きていられそうです


 ふむふむ。ふつうに暮らしていれば、やはり五十年か。おれの主観的見積りどおりだ。人間五十年というのは、いまもむかしも同じだとおれは思っている。あとがあったら、それはおまけであって、おまけをくれるというならありがたくいただいておくが、最初からおまけがあるつもりで生きてはいけないのである。
 ちなみにおれは、よく話題に出る「信長、秀吉、家康のうち誰が好きか?」という陳腐な質問には、当然のことながら信長と答える。おれに言わせれば、秀吉などただ頭と要領がいいだけ、家康などただきわめて優秀、かつしぶといだけであって、真の天才は信長にほかならぬと思っている。なによりあいつは、自分の思いつきでやりたいことをやり放題やっているにすぎず、意地汚くないのがよい。幸か不幸か、たまたま天才であっただけだ。レオナルド・ダ・ヴィンチなんかも、なにかを成し遂げようなどと意地汚く思っていたのではないだろう。ただ、自分の知りたいことを知ろうとし、表現したいことを表現していただけで、これも幸か不幸かたまたま天才だったため、図らずも後世に残ってしまったにすぎない。まあ、こういうこと言うと、秀吉や家康のファンから抗議されそうだが、べつにおれは好みを表明しているだけだからいいのだ。
 ということは、おれの主観的寿命はあと十四年なわけで、信長の鼻毛にも及ばぬ才能とスケールしか持ち合わせはないが、せめて意地汚くないところだけはあやかりたいものだ。やれることをやり放題やって、ある日、プツンと無に帰る。こんな清々しい人生があろうか。老後や死後にいい目を見ようなどという意地汚い思想が、おれはどうしても好きになれないのである。

【10月26日(月)】
▼おお、もったいなや、もったいなや。「SFマガジン」(98年12月号)の「SFまで10000光年」で、とうとう水玉螢之丞さんに似顔絵を描かれてしまった。なんとなく童貞を奪われたような気分である。これでもう戻れないぞと宣告されたような気分である。あとは坂道を転げ落ちてゆくだけだぞと、女神の甘い誘惑に足を一歩踏み出したような気分である。あっ、はるか彼方、坂の下のほうを豆粒のようになって転げ落ちている堺三保さんが見える。
 それにしても、プロにプロと言うのはあたりまえすぎて失礼だが、やっぱりプロだなあ。水玉さんと生身でお会いするのは年に二、三度程度なのに、一切の夾雑物を切り捨てたおれの本質が、みごとに描き出されている。画才のある人は、みな多かれ少なかれ直観像記憶の持ち主なのだろうか。じつに陳腐な感想ながら、実物より似ているとしか言いようがない。これはわが家の家宝にせねば。
 以前にも一度、妹尾ゆふ子さんに描かれてしまった(これの三コマめはおれだそうだ)ことは、この日記でもご紹介した。まあ、こっちはわざわざおれだと言わないかぎりはバレない(バラしてるけど)。どちらも似ているのはたしかだけど、どこかで運悪く実物に出会う女性ファン(おるんかい?)を落胆させないようにお断りしておくと、妹尾さんのはかなり美化されているんだからね。そこのお嬢さん、惚れてはいかんぞ。
▼そーらみたことか、昨日作った納豆ラーメンはちゃんとプロだって出している。Sararimacさんによれば、東京都港区の御成門にある「芝パークホテル」の向かいで夜になると営業する屋台ラーメン「てっちゃん」(ずいぶん細かい情報だ)には、具が納豆のラーメンがあるのだそうだ。納豆入りは「ランダム」と称するそうだけど、なにやら不思議なネーミングセンスである。豆が不規則に散らばっているという意味だろうか。ラーメンの中に納豆が一粒ひとつぶ整然と並んでいたりしたら気色が悪いと思うが……。
 しかし、このラーメン屋、おれと同じものを作るとは見どころのあるやつだ。きっと東京では繁盛しているのだろう。東下りの折には、一度訪ねてみなくてはなるまいが、まあ、さほど怖るるに足らん。なにしろ、東京人ははなはだ不器用で、お好み焼きひとつ満足に作れないものである。粉を溶くにも水分の塩梅がわからないのか、やたら汁気の多いやつを鉄板にぶちまけ、当然のことながらちゃんとした形にならないものだから、半分焦げた酔っぱらいのゲロみたいなものを、やけくそになって箸でぐちゃぐちゃにかきまわしながらうまそうに食ったりしている。可愛いものだ。しょせんは東京のラーメン屋の作るもの、大阪の食いものにはかなうまいが、納豆を使うとはなかなかどうして侮れぬやつじゃ。いずれは対決せねばならんだろう。首を洗って待っておれ。

【10月25日(日)】
▼お待たせいたしました。マダム・フユキの宇宙お料理教室の時間がやってまいりました――というわけで、また新作食いものネタである。各界で大反響を呼んでおり、“料理界のフィリップ・K・ディック”の名をほしいままにするおれであるが、あまり過激な料理ばかり紹介しては初心者にはついてゆけなくなるので、今回は少々保守的なものにしよう。題して「納豆チキンラーメン」である。みなさま、メモのご用意を。
 材料は、日清の「チキンラーメン」と適当なメーカの納豆2パック。なにしろ、四十年もほとんど変わらない「チキンラーメン」だ、基本的にはなんとだって合う。そのまま齧ってよし、お湯を注いでよし、煮てよし焼いてよしの汎用食品である。一説には、サルマタケを具に入れると、いっそう侘しさが引き立ってうまいとも言われている。納豆汁というのがあるくらいだから、納豆ラーメンがあって悪いわけはない。こういう構造主義的アプローチが重要なのだ。できれば納豆汁と同じく碾割納豆を使うのがいいのかもしれないが、面倒なので手近な小粒納豆ですませよう。
 まず、湯を沸かし、チキンラーメンに注ぐ。あとから納豆を入れるのだから、納豆のネバネバを殺しすぎぬよう、やや少なめに入れるのがいいだろう。ほぐれるのを待つあいだ、納豆を練っておく。この料理教室では、とにかく付いているものはみな使うのが原則であるからして、ちゃんとタレや芥子も入れるように。納豆が練りあがるころ、ちょうどラーメンもいい塩梅になっている。ためらいなく、一気に納豆をぶちこむように。これでできあがりである。
 さっそく食べてみる。スープの表面からほわんとうまそうな納豆の香りが立ち昇り、否が応にも食欲をそそること請け合いだ。さすがに納豆に比べてスープの量が多いため、2パック使ってもスープは一見さらさらした感じに見える。が、食べてみると、スープにほんのりと“とろみ”が出ていて、さながら高級中華のようである。栄養も豊富で、しかも、安上がりだ。寒くなってゆくこれからの季節、夜食にぴったりの一品と言えよう。
 次回は、もう少し湯の量を減らして、納豆と麺との絡み合いを楽しんでみよう。湯は麺がなんとか軟らかくなる程度に抑え、生卵と納豆とを絡めてみるのもちょっぴりお洒落な都会風の趣でよい。
 食ったあとに気づいた。ふつうチキンラーメンは腹持ちが悪く、食ってもすぐ腹が減るのが難点なのだが、納豆チキンラーメンは充実したサブスタンシャルな食感で、満腹感も持続する。安い。うまい。栄養がある。食った気になる。いいことずくめだ。ぜひ一度お試しあれ。

【10月24日(土)】
「HIV感染防ぐ物質発見」などと今日の讀賣新聞朝刊にでかい見出しが出ていたものだから、「すわ、特効薬開発か」とよく読むと、あまり適切な見出しではないことがすぐわかった。幸運にもおれはHIVのキャリアではないが、これから感染しないともかぎらない。こんなわけのわからん厚生行政の行われている国に住んでいると、いつどこでなにが“まったく安全とされているルート”からわが身に降りかかってきても不思議ではないのだ。興味を持たずにおらりょうか、と胎児期にサリドマイドを摂取させられたおれとしては思うのである。おれの腕はふつうの長さだが、これは単に運がよかっただけだ。
 間一髪はこれだけではない。子供のころ腸が弱く(いまも弱いが)よく腹を下していたおれは、家にとてもよく効く下痢止めがあったので、何度も飲んでいた。ピタリと止まるものだから、一家で「よく効くなあ」と感心し、重宝していたものである。そう、こいつの主成分がキノホルムだった。運よくスモン病にはならなかったが、薬というのは怖いものだと子供心に植えつけられた。怖いから飲まないかというと、まったくそんなことはなく、病弱な人間ほど、安全な薬(ほんとはそんなものはないのだが)がちゃんと効いたときのありがたみは、身に染みて知っているものである。結局、素人なりに自衛するしかない。亀の甲が読めなくても、薬は人間が作って人間が認可して人間が売っているものなのだから、人間の言うことにおかしなところがあれば、素人でも疑うことができるはずなのだ。とはいえ、情報が隠蔽されてしまっていては、一般消費者には手も足も出ない。
 それはともかく、「HIV感染を防ぐ物質発見」みたいなニュースは社会的な影響がでかい。下手な流れかたをすると、株価は動くわ、デマは絡むわ、いろんな団体は右往左往するわ、ゴロは商売ネタにするわで、得したり損したりする人があちこちに出る。慎重に報道してほしいものである。讀賣新聞のこの見出しは、まちがったことを言っているわけではないにしても、非常に誤解を招きやすい表現だと思う。武田薬品工業群馬大学生体調節研究所が今回見つけたのは、あくまでHIVがT細胞に侵入する際に利用する受容体の“ひとつ”と結合する物質と、それをコードするヒト遺伝子の塩基配列であって、これでHIV感染がすべて防げるわけではない。たしかに、ちゃんと記事を読めばわかるとはいえ、この見出しはちょっと言いすぎじゃないすか? いや、言い足らずと言うべきか。まあ、見出しだから文字数に制限はあるだろうが、東スポ(大スポ)じゃないんだからね。「HIV感染に関わる重要物質発見」とかなんとか、口幅ったいにしても誤解を与えるよりはましな表現が工夫できませんかね。詳しいことは、武田薬品工業のプレスリリース「エイズ感染に関与する受容体に対する作用因子の発見について」で読めたからいいんだけど。もちろんこれは製薬会社のリリースだから専門的に書いてはあるが、瀬名秀明「Gene」(『ゆがんだ闇』角川ホラー文庫所収)やBRAIN VALLEY(上・下)』(角川書店)を読んだ方なら、文科系の人(ってのは手前のことだが)でも言ってることは把握できるはず。難易度はさほど変わらない、というか、こういう研究って、これらの小説に出てきた研究者たちも日常的にやってたことだよね、ちょっと分野がちがうだけで。むかしなら、新聞社によって編集されない、製薬会社のナマのプレスリリースをおれたちが入手するのはかなりの手間だったはずだが、いまではこうやって家に居ながらにして原文が読める。便利な時代になったもんだ。ちなみに、こういう情報を漁るには、Biotechnology JapanHOT NEWS のコーナーが便利。こっちはさらに専門的で、おれにはなんのことやらわからんことも多いのだが、製薬会社や研究所の名前がわかればしめたもので、そっちのサイトに跳んでプレスリリースを読めば、もう少しわかりやすく書いてあるものである。
 さてさて、讀賣新聞の見出しには文句をつけたけれども、この発見自体が大ニュースであることにまちがいはない。HIVの感染メカニズムそのものに踏み込んだ薬の開発に繋がり得る発見ではあるからだ。いまいろいろあるエイズの薬は、逆転写酵素阻害剤プロテアーゼ阻害剤の二種だけである。前者は、HIVの逆転写酵素の働きを阻害してウィルスが自分の情報を細胞のDNAに書き込みにくくするだけ、後者は、HIVが増殖する際に自分の“身体”にするための蛋白質を調達しにくくするだけという、残念ながら姑息な薬だ(もちろん、これらがあるだけでもすごいことだ)。今回の発見が新薬の開発に道を拓けば、HIVが最初に細胞に侵入する段階で邪魔ができる新しいタイプの抗HIV薬が現れるかもしれない。もっとも、すべてのHIVに対して効きめがある薬が出揃うには、まだまだ時間がかかるはずだ。HIVたちが利用する受容体すべてに蓋をする必要があるだろう。また、蓋ができたとして、それらの受容体がもともとなんのために存在しているのかを解明しておかないと、思いがけない副作用が出ることもあるだろう。べつにおれは専門家じゃないから言うことは当てにならんのだが、常識で判断しても、そういうことが考えられるじゃないか。
 究極の治療となると、それこそいまはまだSFの領域になる。すなわち、HIVの遺伝子コードを書き込まれてしまった細胞の“マスターファイル”たるDNAをスキャンし、HIVの部分を切り取って元の状態に修復する――なんてことができたら夢のようだよね。でも、人間が考えた荒唐無稽なことって、遅かれ早かれ、実現してきてるからねえ。それだけの知的な作業を行えるナノマシン――十億分の一メートル(ナノメートル)の世界で動作する“分子の機械”が、いつの日か、開発されないともかぎらない。ボーア・メイカーみたいなやつがあれば、エイズなんて怖くないのにな。「なにそれ?」とおっしゃる方は、『極微機械(ナノマシン)ボーア・メイカー』(リンダ・ナガタ、中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)を読みましょう。まあ、こういうアイディア自体は、ジョン・ヴァーリイなんかが早くから書いてますけどね。こんなのができたら、性転換だって簡単にできちゃうのだ。
 なんだ、結局、おまえが巻末解説書いた本の宣伝だろうって? ちがうってば、解説は印税じゃなくて原稿料なんだから(稀に例外もあるそうだけれども)。

【10月23日(金)】
▼以前に“ながらみ”を売りにくるおじさんや“なぞなぞ焼きいも屋”(98年8月15日28日)の情報をくださったちぇろ子さんが、このたび「第1回インターネット文芸新人賞」(主催:NTTプリンテック、読売新聞社/選考委員:阿刀田高・大原まり子島田雅彦)にめでたく入選なさった。なんでも、初めて書いた小説で、賞に応募なさったのも初めてなのだそうだが、いやはや、才能というのは怖ろしいものである。Cherokee というペンネームで、作品は『The Blue Rocket Man』、入選作品三作のうちのひとつだ。嬉しいことにSFである。というか、あらすじを見てみると、最優秀賞受賞作品の『緑の手紙』(五十嵐勉)を除いて、入選作はどれもSFもしくはファンタジーらしいのだ。募集要項には「ミステリー、SF等のエンタテーメント系の作品を基本としますが、特にジャンルを限定しません。ジャンルを越えた作品も歓迎します」とあるのだが、やはりSFが多かったのだろうか。一般的に、SFファンは新しい媒体を使いはじめるのが早いようだから、選考委員の顔ぶれや媒体に鑑みて、SF作家志望者が待ってましたと飛びついたのかもしれない。なにしろ、いまSFの二文字を冠した新人賞はなく、SFが受け容れられそうだと判断できる賞も少ない。いい賞ができたもんである。SFが書きたい方々は、ぜひ狙いましょう。おれも応募しようかな。
 じつは、さっき最優秀作と入選作の四作品を、さっそく買ってきた。新聞発表と同時に受賞作品が買える新人賞など、かつてあったであろうか。いやありはしない、と古文の先生でなくたって言うだろう。これもこの賞の大きな魅力である。
 なにはともあれ、SFを書いてくれる人が、ひとりでもふたりでも世に出たのは嬉しい。ちぇろ子さん、いや、Cherokee さん、華々しいデビュー、おめでとうございます。末永くいいものを(できればSFを)書き続けてください。もしかしたら、あなたの作品をいつかどこかでけちょんけちょんに貶すこともあるかもしれないけれど、おれがひっくり返って後頭部陥没でおっ死ぬくらいの傑作を期待してますぜ。
 あ、それからこれは「インターネット文芸新人賞」主催社への提案。PDFとエキスパンドブックで作品を販売するというのは画期的なやりかただと思うけど、Infoket(インターネット上でデジタル商品を販売するための仕組みのひとつ)を使って電子本が買えるようにするところまでの準備は、コンピュータ・リテラシーの低い人にはまだかなり難があると思う。SF関係者にはパソコンに強い(少なくとも弱くはない)人が多いが、他の文藝分野となると、おそらくコンピュータに弱くはない人はもっと減ってくる。発言力のある評論家や書評家の中には、文具としてパソコンを使ってはいても、電子財布のセットアップや電子クーポンの購入となると、とまどう人も少なくないだろう。「読みたいが、こんな面倒なものは買えない」という方々もいらっしゃるにちがいない(ここを読んでいるような方には、それほど面倒ではないのだが)。むろん、それはその方々の評論や書評の能力とはまったく関係のないことだ。よって「インターネット文芸新人賞」の主旨には反するやもしれないが、電子商取引普及過渡期の措置として、評論家や書評家などにはプリントアウトを謹呈なさってはいかがだろうか。電子メールアドレスを持っているような人に対しては、著者に“電子謹呈”を認めればいいと思う。でないと、結局、不法コピーが出回ることになるだろう。いや、べつにおれのような木っ端もの書きがタダでくれとねだっているのではない。パソコンが使えない、インターネットが使えないという些細な理由で、もっと偉い先生方の目に触れないとしたら、せっかくの画期的な賞がもったいないからだ。もしかすると、もうやってらっしゃるのかもしれないが、おせっかいながら気になったもので……。
 まあ、もう五年から十年もすれば、インターネットを使えないもの書きは少数派になっちゃうだろうとは思うんですけどね。だって、一般読者が日常的に調べものや買いものに使っている電話のようにあたりまえの道具が、情報の提供者側に使えなかったら、二十一世紀の知的労働者としてやっていけるわけがないでしょう。いま下から繰り上がってくる読者たちは、ほとんど全員がインターネットを使えるようになりつつある。ナマの情報なら、海外のものだろうと、下手すると(しないでも)読者のほうが入手が早いことも多いはずだ。意味がわかればこと足りるような文献は、たちまち海賊翻訳が現れ電子の速度で広まる。一週間後、半月後、一か月後に“ニュース”として印刷された紙束が店頭で売られていても、誰もありがたがらない。「この人は外国語が読めるんだなあ」「海外にニュースソースを持っているんだなあ」などとは、誰も畏れ入ってはくれない。ナマ情報をコピーするだけのもの書きは淘汰されてしまうことになるだろう。畢竟、編集者の編集能力、つまり“情報の伝えかた”と、ナマ情報にプラスαの価値を与える、もの書きの藝で勝負するしかなくなるにちがいない。発信源で情報を“生産”しない、付加価値を与えられないもの書きは、ただの“電線”に――いや、遅いという点では、電線以下の存在になってしまうのだ。怖ろしいと言えば怖ろしい、ありがたいと言えばありがたい話である。
 てなこと言ってるおれが、五年後、十年後には、「そういえば、そんなやつも、ひところ、ちょこっといたっけなあ。懐かしい」と言われている可能性も十分に高いのよな。日本の銀行を嗤ってる場合じゃないわ。

【10月22日(木)】
「チューチューマウス」ike氏作)をヴァージョン・アップ。Ver.3.4 だ。とにかく、こいつがないとフラストレーションが溜まってしようがない。なくてはならないソフトである。おれはマウスをきわめて敏感に設定するのが好みで、使い慣れた自宅のパソコンなど、ちょいと手首を振るだけでマウスカーソルが画面の端から端まですっ飛ぶように動く。無駄に手を動かさなくてよいから、たいへん具合がいい。もしこれを他人が使ったら、カーソルの狙いがなかなか定まらず、さぞや不便なことだろう。こうした基本設定をしたうえで、さらにチューチューマウスを使うと、もはやマウスを“動かす”必要などあまりなく、ほとんど“指の握りをちょっと変える”だけで勝手にカーソルが走りまわり、ぴたりと狙ったところにやってくる。うまくチューニングすればするほど、機械というやつはいとおしいものだ。「チューチューマウス」のような常駐ソフトは、ともするとほかのアプリケーションソフトと相性が悪かったりするものなのだが、いまのところ重篤な障害に遭遇したことはない。おれを腱鞘炎から守ってくれているありがたいネズミだ。
 一応自在に両手が使えるおれですらありがたいと思うのだから、手の不自由な人にはものすごく便利にちがいない。こういうソフトが企画・開発・販売できないあたりが、企業というものの弱点だ。企業が不甲斐ないというのではない。企業でなければできないこともある。が、企業活動では絶対にカバーできない領域というのは厳然として存在するのだ。そんなニッチを軽々と埋めてくれるフリーソフトやシェアウェアの作者たちに、おれは清々しいものを感じる。
 ソフトにかぎらず、そうしたニッチはあらゆる分野に存在するはずだ。小説にもエッセイにもマンガにも音楽にも。おれは個人ウェブページにはそういうものであってほしいし、そういうものを目指したい。たかが企業にできる程度のことは企業にまかせておけばよいというのが、個人ウェブページ作者の心意気ってものだろう。

【10月21日(水)】
▼例によって、昼休みに喫茶店でどこの誰とも知らぬおっさんと相席でカレーライスを食っていると、隣の四人がけの席で三人のOLがぺちゃくちゃと喋っている。聴くともなしに聴いていると、どうやら性について喋っているらしい。おお。OLの性。これはカレーをこぼしてでも聴かねばなるまいと、耳をダンボ(死語)にする。ひとりは完全に聴き役にまわっていて、あとのふたりが熱く語っている。いや、よく聴くと、片方はなかなかさばけた性格らしくあっけらかんと話しているが、もう一方はちょっと面食らったように、ややはにかみながら話している。さらにじっくり聴いていると(カレーなど知らないうちに食い終わっていた)、なにやらふたりの話が噛みあっていないことに気づく。当人たちも、お互いにとんちんかんな相槌を打っているのに気づいたらしく、よく喋るほうがついに言った。

「あんた、なんの話や思てるの?」
「“性”やろう?」
「ちゃうて、“せぇ”“せぇ”

 おれは椅子から転げ落ちそうになった。この女、さっきから“背”すなわち“身長”の話をしているのだ。道理でとんちんかんな会話になるはずである。
 大阪人(関西人)には“手”“毛”“目”“歯”がない。あるのは、“てぇ”“けぇ”“めぇ”“はぁ”である。CDEHをドイツ語読みする要領だ(ちょとちがうけども)。関西弁には、短母音で一音節の言葉はないと思ってもらってかまわない。関西人は上品だから“屁”をひらないのだ。“へぇ”“こく”のである。なんとも雅な言葉遣いだ。この原則をマスターすれば、とりあえず、あなたも関西人の仲間入りである。人前で納豆を食わないかぎりは、たこ焼きを投げつけられるようなことはない。
 それにしても、必死で聴いてて損したなあ。日記のいいネタになると思ったのに。ま、結果的にネタにしてるわけだが……。


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