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98年10月上旬 |
【10月9日(金)】
▼子供のころに刷り込まれたことが気に入らず、自分を再教育しようと苦労することが読者諸氏にもよくあるだろう。英語の本を読んでいるとときおり遭遇する climb down という表現を見るたび、おれはいまいましく思うのだ。climb は“のぼる・よじのぼる”だと若い脳に刷り込まれてしまったため、これを消去するのがなかなか難しい。climb down を一瞬でも奇異に感じてしまうということは、まだ完全に unlearn できてはいないのである。くそったれ。人間、子供のうちは learn するのが大事だが、大人になったら、自分の脳が幸か不幸か学んでしまったことをいかにぶち壊してゆくかのほうが、ずっと重要になってくる。じゃあ、最初からぶち壊されたものを学べばいいかといえば、それではただのアホになってしまうのだ。とかくこの世は棲みにくい。
「え、climb は“よじのぼる”じゃだめなの?」と首を傾げている中学生のキミ、べつにまちがっているわけではない。「次の単語の意味を書きなさい。climb → ( )」などという、くだらない問題が試験に出たら、騙されたふりをして(よじのぼる)と書いておこう。でないと、世渡りができない。が、実際には“よじる”ほうに重点があるのであって、“のぼる”の意味は軽い。中学校で刷り込まれてしまうよりも、はるかに軽い。だから、climb up などとわざわざ言うことも多いわけだ。移動の上下方向がとくに言及されていない場合は、一応“上”が既定値だが、けっして方向に主たる意味があるのではない。
問題は、climb down に相当する自然な表現が日本語にはないことである。こいつを見るたび、「翻訳家というのは、たいへんな仕事だろうなあ」といつも思う。“よじおりる”と言って言えないこともなかろうが、なんだか不自然だよねえ。なぜか垂直に聳え立った断崖の壁面が世界のすべてであると思って暮らしている人々の話だとか、夜間にインテリジェントビルに閉じ込められて殺人鬼に追われる透視能力者の話だとかを訳すとすると、きっと苦労するにちがいない。
どうだろう、いっそ“よじおりる”をみんなで日本語に定着させてしまわないか? 去年の6月18日の日記で、こういう表現は気色がわるいとは言ったものの、“よじおりる”は許してほしいなあ。みんなで広めれば、次の次の版くらいには、広辞苑にも載るかもしれないぞ。
【10月8日(木)】
▼このサイトが誕生して(そんな大袈裟なものじゃないけど)、今日で二年になる。最初のころこそタイトルどおりだった“間歇日記”も、いつしか毎日書くのがあたりまえのようになってしまった。ここまで続けてこられたのも、偏に本人の努力の賜物である――というギャグをタモリがむかしよくやっていたが、正直なところを言えば、アホな話につきあってくださるみなさまのおかげである。誰も読んでくれないものなど、とても書き続けられるものではない。それができるのは、真の天才か真のオナニストだけである。前者であれば、五十年後か百年後か千年後かに「おお、これはすごい」ときっと誰かが面白がってくれるにちがいないが、そんなに生きるのはいささか億劫だ。後者であれば、なにもウェブで公開する必要などなく、自分のハードディスクに入れておけばよいだけの話だろう。おれは真の天才でも真のオナニストでもない。やはり、読者あってのウェブ日記である。みなさま、ほんとうにありがとうございます。性懲りもなく三年めに突入いたしますので、これからも適当に突っ込みを入れてやってくだされば、ますます“いちびって”ろくでもないことを書き続けることでありましょう。
▼おれは野球にはさっぱり興味がないが、あの“ビールかけ”ってやつは、そんなおれが見ていても爽快だ。むかしは、ドリフターズやらがああいうことをやると、「食べものを粗末にするとはけしからん」と必ずテレビ局に抗議があったものだが、飲みものだからいいのだろう。あるいは、ビールかけを見て抗議している人は、やっぱりいまも一定数いるのかもしれん。
それにしても、三十八年ぶりの優勝とは、さぞやうれしいことだろう。いくら野球音痴のおれでも球団の名前くらいはなんとか知っているけど(表記が怪しいのもあるな)、子供のころには、横浜ベイスターズなんてチームは聞いたこともなかったもんなあ。よほど影が薄かったのだろう。新井素子氏に於かれては、ぜひ「横浜が、勝ってしまった。」という作品も書いていただきたいものである。なんでも、野球通の人によれば、阪神タイガースはハレー彗星が来る年に優勝するということになっているらしい。ということは、横浜ベイスターズは、ちょうどその半分の周期で優勝するのだろうか。ううむ、やっぱり野球というやつは、おれにはよくわからん。
で、ビールかけの話だ。あれを見て一瞬「毒物が入っていなければいいが……」と思ったのは言うまでもないけれども、酒の飲めない人には、ビールだって毒物みたいなもんである。やはり、そういう人のために、ソフトドリンクにするべきではなかろうか。コーラかけとか、冷やしあめかけとか、カルピスかけとか――ああ、なんか想像するだけで気色わるくなってきた。
【10月7日(水)】
▼会社から帰ると、amazon.com から小包が届いていた。中身は本であるに決まっている(CDかもしれないが、おれは注文してない)。その段ボール箱には、樹脂製のベルトが食い込むほどに強くかけてあり、いつものように愛用のセラミック製オープナーで切ろうとするも、こいつが手強くてなかなか切れない。この野郎めと力を込めると、なんと、刃が欠けた。思わずつぶやいたのは言うまでもない――「セラミック刀が欠けちゃった」 むろん、おれひとりの部屋でウケてくれる人もなし。寂しい。
さてしもあるべきことならでは、“いらち”のおれは、ライターでベルトを焼き切った。長距離を旅する商品の包装が厳重なのはありがたいが、セラミック刀、じゃない、セラミック・カッターでも切れんほどにすることはなかろうに。ようやく包みを開くと、 Forever Peace (Joe Haldeman, ACE)が出てきた。先日何冊かまとめてSFが届いたとき、一冊だけ繰り越し注文になっていたのだ。以前、出版社の依頼で借りて読んでいるのだが、ヒューゴー賞も取ったことだし、手元に置いておこうと買ったのであった。もうペーパーバックも出ているが、装幀がかっこよかったから、わざわざハードカバーを注文した。しかも、どのみち、すぐ再読したりはしないに決まっている。金が貯まらないはずだ。おれは電子出版大歓迎派だが、不可思議な所有欲をそそる“紙に印刷された本”の魔力にも弱いんだなあ。両方の形態で出版されたりすると、気に入った本なら、結局は両方買ってしまうことになるだけである。嬉しいやら悲しいやら。平野まどかさんがよくおっしゃってる「買った本は読まないので、読んだ本だけ買おう」というのは、けだし名言であると思う。でも、ヤクザなおれは、経済力の許すかぎり、読む本も読まない本も読んだ本も、やっぱり所有したくなってしまうのであった。やれやれ。
▼ホンダの「HR−V」とやらいう車のCMで流れている曲を、海外の新曲だと思っている若い人はけっこういるのではなかろうか。三十代のおじさん・おばさんは涙を流して懐かしがっているにちがいないあの曲は、以前に日記でも触れた(98年7月21日)二十九年前のマシンガン・コント番組「巨泉・前武のゲバゲバ90分」のテーマ曲、「ゲバゲバマーチ」(作曲:宮川泰)である。ちょっとアレンジが変わって、英語歌詞がついているだけだ。もともとは歌詞なんてないよ。まったくもう、誰が引っ張り出してくるんだろうね、こんな曲を(って、たぶん同年輩の人だろうなあ)。嬉しいじゃないか。来年は、あちこちの運動会で使われるのではあるまいか。いや、甲子園で入場行進に使ってもいいぞ。シルクハットかぶって手にはステッキを携え、意気揚々と行進してくる大橋巨泉と前田武彦の姿がいまも目に浮かぶ。ううう、おじさんが勝手に懐かしがってごめんね。
【10月6日(火)】
▼風邪で身体のあちこちが痛く、挙げ句の果てに歯まで浮いて痛んでくる。誰かが陰でおれのことを絶賛してでもいるのだろうか。単に炎症起こしてるだけだろうな。
▼マスコミは保険金詐欺の話で持ち切り。ごくあたりまえのことだが、保険って、宝くじやら競馬やらと構造的にはまったく等価だよね。あれも公営ギャンブルなのだ。宝くじはふつうの状態から幸運のほうに引っ張り上げるために行い、保険はいったん不幸に落ちたときに埋め合わせをするために引っ張り上げるためのものだというだけで、“当たったらみんなが出したお金がもらえる”という構造においては変わらない。原資調達の仕組みだってほとんど同じだ。保険の場合は、どうしても人の不幸があからさまに絡むので(ギャンブルだって、あからさまでないだけで、そうなんだが)、ギャンブルと等価だということが心理的に隠蔽されているだけである。結婚式と葬式とがとてもよく似ているにもかかわらず、多くの人は異なるものとして認識しているようなものである。
金より大切なものを失ったとき、及ばずながら金銭で埋め合わせするのが保険本来の理念なのだろう。だが、それはすなわち、金以上に大切なものがない人には、すべての保険はギャンブルそのものに見えているということを意味する。例の夫婦は、そのギャンブルで“いかさま”をやったために容疑をかけられているわけだが、あそこまで行かなくとも、公明正大な方法で保険というギャンブルを楽しんでいる人は、たくさんいるはずだ。おれも何例も見ている。情で見ると保険とギャンブルは別のものに見え、知で見るとただ呼び名がちがうだけのまったく同じものに見える。保険制度というものは、そうした情と知の微妙なバランスの上で危うく成り立っている。そのバランスの崩れた人間が、売るほうにも買うほうにも少なからず現れはじめた社会では、保険はまさしく公認ギャンブルそのものとして機能する。情と知のバランスを失った人間には、すばらしい絵画が与えてくれる感動などはどうでもよいことなのだ。それが、いくらで売れるかのみが関心事なのである。
本来リスク・マネジメントの一環であるはずの保険が公認ギャンブルに堕している事実に、ものすごく日本的なものを感じるのはおれだけだろうか?
【10月5日(月)】
▼中秋の名月とはよく言ったもので、会社の帰りに上を向いて歩いていると(よい子のみんなは真似しちゃだめだよ)、水でも垂れてきそうな透明感のある月がビルのあいだに浮かんでいる。おれは、こういう都会で見る月のほうが好きだ。月にはビルが似合う。
いったい、あれを天体として意識しはじめたのは、いつごろだったろう。もう憶えていない。アポロ11号の月着陸が小学校一年生のときだったから、いくらなんでもこのころには月が他の天体であることは知っている。四、五歳でも、テレビのアニメやら特撮やらを観ていたはずだから、やっぱり知ってはいただろう。三島由紀夫みたいな人ならともかく、まさか一、二歳では知らんだろう。となると、三歳から四歳あたりに、「あれはそらにうかんでいるべつのほしなのだ」と知った瞬間があったはずである。そのときの感動を思い出せないのが残念だ。もっと残念なのは、それ以前に、いったいあれをなんだと思って見ていたのかがわからないことだ。きっと、とてつもなくワイルドな想像をしていたにちがいない。
大人になったいまでは、あの美しい天体は、地球に向かって自由落下し続けているだけの岩の塊だと、はっきり感じながら見ている。いま見えている光は一・三秒ほど前に月を出た光で、太陽の光が反射してるわけだから、八分二十秒かそこらむかしに太陽を旅立った光だな――なんてことを、月を見上げると、それこそ反射的に考えてしまう。富士山やらなにやらを見上げるのと、なんら変わらない感覚である。天体というよりは、地球の一部というか出店というか、とにかく、そこいらへんの石ころと同じように身近な存在だ。これは大人には一般的な感覚なんだろうか? それとも、多感な時期に“人類が月に立つ”というイベントを体験した、おれたちの世代に特有の感じかたなんだろうか? 興味深いところである。月に関しても、まだまだわからないことが山ほどあるわけだが、それでもやはり、すでに人間の手の届くところにあるものだという感覚は拭えない。征服感とかいったたいそうなものとは、まったくちがう。“瀬戸内海の向こうに、なるほど四国がある”みたいな、「はあ、さよか」っちゅう感じなのだ。
いずれ近未来の子らは、おれが月に抱いているのと同じような“身近さ”を火星や木星に対しても感じるようになるのだろう。そして、おれのような旧い感覚の持ち主とは、決定的に異なる感じかた、考えかたを、あたりまえのように身につけてゆくのだろう。そうあってほしい。おれにはおれの感じかたしかできないのだから、そのうち視野の狭い耄碌爺いになってしまうのなら、それもいい(もうなってるってか?)。土星を、天王星を、冥王星や海王星を“そこいらの石ころ”感覚で捉える子供たち――想像するだけで、なにやら嬉しくなってしまわないか。
【10月4日(日)】
▼和歌山の保険金詐欺容疑の夫婦が逮捕されただけで、なべてこともなし。いまの段階で、なにをあんなに大騒ぎする必要があるのだろう? なにか新しいことでもわかったのか?
ちょっと風邪気味で、おとなしく本を読むか寝てるかだけの一日。「SFマガジン」11月号の裏表紙に、映画『ザ・グリード』の広告が載っている。今月の「SFオンライン」にも「最新映画『ザ・グリード』クロスレビュー」が出ている。怪物映画(怪獣映画ではない)らしい怪物映画のようで、なかなか面白そうだ。「90分で3000人――喰って、喰って、喰いまくれ!」って、広告の惹句がすごいね。ビールは別料金だろうか。これはやはり、海から出てきた怪物が九十分で三千人の人間を食うという意味なのだろうなあ。ほんとに数えたんだろうか? 航海中の客船を海魔が襲うという話らしいので、たぶん客船の収容人数をそのまま書いてるだけだろう。ちゃんと数えるのなら、スクリーンの隅にカウンタを表示してですな、海魔が人を食うごとにカチャカチャと数字が上がってゆくようにしてはどうか。映画史上最多人死に記録が出たところでという文字が現れ、記録更新を祝う。え? それは『ホット・ショット2』でやってたって? ばれたか。
それにしても、一人ひとり丁寧に食ってたら、とても九十分で三千人は食えまい。一分で三十三人強は食わなきゃならないのだ。それでは、怪物の椀子蕎麦大会みたいな映画になってしまう。やっぱりロットで食うのだろう。
上記「SFオンライン」のクロスレヴューをなさった方々はさすがにセンスがよく、この手の映画評でいちばん楽そうな“落としかた”だけは避けておられる。さてさて、いったい何人の映画評論家やライターが“アレ”を書いてしまうだろう。浜村淳なんか、いかにも言ってしまいそうだしなあ(もう言ってたりして)。ほら、アレですよ、アレ。「ひとことで言うと、人を食った映画だ」ってやつ……。
【10月3日(土)】
▼先日からJ・G・バラードの『ハイ−ライズ』を引き合いに出して(98年9月20日・25日)内容とはほとんど関係のない話ばかりしているが、性懲りもなくまたやる。大久保潤さんから面白い情報を頂戴したのだ。なんでも、三鷹にある大久保さんの友人宅近くに、「High Rise」というマンションが実在するのだそうである。うーむ。名前をつけた人はバラードを知らないんだろうなあ。まあ、high rise ってのは高層建築を指す一般名詞だからして、「はちみつレモン」みたいな名ではある(どうでもいいけど、最近「はちみつレモン」はどこへ行ったのだ?)。でも、バラード読者が通りがかったら、やっぱり笑っちゃうよね。入居者はとても荒んだ生活をしていそうだ。大久保さんの「Diary of a Madman −ダメ人間日記−」(98年5月5日)にも、このマンションの話が載っている。そういえば、どこぞのウェブページで「NERV」って喫茶店だかスナックだかの写真を見たことがあるな。「High Rise」のほうは単なる事故(?)だろうけど、「NERV」は確信犯だろう。ついでに言うと、大阪府枚方市には「ユービック情報工科専門学校」というのがあったりする。これも確信犯だろうなあ。経営者はディッキアンか? してみると、けっこう多くのスジ者が、仇討ち前の赤穂浪士のようにさまざまな姿に身をやつして、あちこちに潜んでいるのやもしれぬ。
おれも、店でも持てたら、きっと名前で遊ぶだろうなあ。一見して“濃い”とわかる名前だと、自分と似たような客が集まってきて商売がやりやすいかもしれない。脱サラして小さな店を持つSFファンが増えはじめると、そこいらに妙に馴染み深い名の店が多数現れることになろう。ペットショップ『シリウス』とか、ラブホテル『恋人たち』とか、画廊『モナリザ・オーヴァドライヴ』とか、メンタル・クリニック『パプリカ』とか、トイ・ショップ『玩具修理者』なんてのは、作品名そのままでわかりやすい。わかりやすくても、進学塾『スロー・ラーナー』などはミもフタもないので、ちょっと凝って『ジョニイ』くらいにしておいてほしい。鍼灸院『二十億』、星占い『アフサン』、ブティック『カエアン』みたいなのになると、立ち止まって所在地をメモして帰らずにはいられない。ホテル『ヒルベルト』、宅配便『イクラ』、葬儀屋『ソイレント』あたりまでくると凝りすぎで、経営者の顔が見たいということになろう。どのあたりまで凝るかが難しいところである。脱サラを目論んでいるSFファンは、いまから店の名前を考えておこう。喫茶『ソラリス』ってのは、かつて実在したからだめだよ。いまでも、京都SFフェスティバルで出店が復活することもあるしね。
【10月2日(金)】
▼おっと、内定していたことは知っていたが、いつのまにか黒澤明監督に国民栄誉賞とやらが授与されていたらしい。この日記の常連読者の方々は、おれが死後の世界などというものを微塵も信じていないことをよくご存じであろう。したがっておれは、死んでからもらえる賞なんぞ、なんの意味もないと考えている。この国民栄誉賞なるもののアホらしさについては、喜多哲士さんも「ぼやき日記」(98年9月8日)で書いていらしたが、おれも喜多さんのおっしゃることはまことにもっともだと思う。言いたいことは喜多さんにほとんど言われてしまったのだが、あえて駄目押しをするとするなら、スポーツ選手以外は死なないともらえないという受賞資格(?)には、明確な理由があるのである。
たとえば、たまたま自民党が与党である内閣Aが、まだ生きている藝術家Aに国民栄誉賞を授与したとする。藝術家Aのそれまでの活動は、自民党にとって図らずも都合のいい内容であったか、とくになんの影響もない内容だったのであろう。しかし、厄介なことに、藝術家Aはこれからも創作活動を継続してゆくにちがいない。もしかすると、将来、自民党にとって都合の悪い内容の創作物をものするやもしれん。これは政治家にとって非常に大きなリスクだ。「あのとき藝術家Aを推薦したやつは誰だ」ということになり、それをネタに足を引っ張られる可能性がある。よって、まだこれからも活動を続けそうな人には、怖くて賞が出せないわけだ。スポーツ選手はなぜもらえるかというと、ひとつには、将来、斯界でこれ以上の活躍をしそうにないと予測しやすいからであり、いまひとつには、スポーツ選手のスポーツ以外の活動は、所詮“いろもの”としてしか注目を浴びることはなかろうと、政治家たちが考えているからである。えげつないことを言ってしまうと、要するに、スポーツ選手は、政治家にバカにされているからこそ、生きていても国民栄誉賞がもらえるのだ。「そんなことはない」と政治家たちは言うかもしれないが、なにより実績がそれを物語っているのだから、否定のしようがあるまい。下手をすると、将来野党から立候補でもしそうなスポーツ選手は、どんなにものすごい成績を残し、国民に夢と希望を与えたとて、絶対に受賞することはない。これはもう、おれが保証する。長谷川町子がもらえて、手塚治虫がもらえなかった最大の理由は、手塚治虫は、ともすると政治的にも解釈できる強烈なメッセージを鈍感な政治家にもはっきりわかる形で発信したからである。長谷川町子だって、マンガ家本来の鋭い観察眼と一流の諧謔精神を持っており、『いじわるばあさん』なんて、ずいぶんと政治家に都合の悪い部分があるはずなのだが、たぶん政治家にはさりげないマンガのパワーがわからなかったのであろう。
まあ、ノーベル賞だって、平和賞や文学賞にはとかく政治の匂いがつきまとうものだが、まだかなり納得できる権威がある。あからさまには政争の具であることをさらけ出さないだけの矜持がある(さらけ出していると見る人もいるだろうが)。ところが、国民栄誉賞には、そんな誇りすらない。おれが上に書いたようなことは、誰にも見えみえであるうえ、賞を出すほうでも「そうですよ」といけしゃあしゃあと言っているに等しいのだ。よく恥ずかしげもなく、こんな賞を継続しているものである。
おれは、いままで受賞した人を貶めているのではない。いずれも立派な業績を残した人ばかりである。そういう人々を、この賞は新たに受賞者を出すたびに、どんどん貶めてゆくのだ。こんな賞も珍しい。なにしろ、「毒にも薬にもならない人だけがもらえる賞ですよ」と政治家が明言しているにも等しい賞だと、それこそ国民にも見透かされてしまっていて、みんなしらけ切っているからである。
そこでだ。おれは、運悪く国民栄誉賞を与えられてしまいかねない偉い方々に提案したい。万が一、生きているうちに内定したら、あっさり蹴ってほしい。たとえば、イチローあたりが、おれと同じようなことを淡々と記者会見で述べ、「そんなもん要らん」と言ったら、国民は拍手喝采するのではあるまいか。「私が死んだら、下手をすると内定しかねない」と危惧なさる方は、まちがっても国民栄誉賞だけは受けないと遺言し、身内や親しい人々にも意思表示をしておいてほしい。「私は国民栄誉賞は受けません」と記したドナーカードみたいなものを作って携行なさってはどうか。ひょっとすると、ノーベル賞のあとにおずおずと差し出された文化勲章を蹴った大江健三郎氏などは、すでに自衛のための手を打っておられるやもしれない。だいたい、国民栄誉賞の候補になるような人は、すでに十二分に功成り名遂げておられるのだから、ことさらなんの値打ちもない、いや、むしろマイナスの値打ちしかない賞のひとつやふたつもらわなかったところで、いささかの痛痒も感じないはずである。
そこでおれも、ウェブページという公の場でいまのうちに明確な意思表示をしておこう。おれが生きてるうちでも、死んでからでも、国民栄誉賞だけは絶対に要らん。要らんからねっ! 要らんと言ったら、要らんっ! なに? そんな心配をする必要はまったくない? ごもっとも。
【10月1日(木)】
▼以前から不思議でしかたがないのだが、たとえばテレビなどを観ていると、みんなわりと平気で“おちんちん”という言葉を口に出す。明るいホームドラマなんかでも、いかにもマイホームパパ然とした父親が風呂上がりに駆けずりまわる子供を追いかけながら、「ほらほら、早くパンツを履かないと、おちんちんが風邪を引くぞ。わはははは」などと、平然と言っている。それはなにやら微笑ましい光景として人々の目に映っているようだ。テレビの前の視聴者も、にこにこと家族で観ていたりするのかもしれない。
ところが、である。いかにもマイホームママ然とした母親が風呂上がりに駆けずりまわる子供を追いかけながら、「ほらほら、早くパンツを履かないと、おまんこが風邪を引くわよ。わはははは」などと言っているのを、おれはいまだかつて聞いたことがない。これはゆゆしき差別問題である。偏向教育とは、こういうのを言うのだ。
フェミニストたちに言わせると(って、手前も一応そのつもりだが)、この社会ではおまんこは持ち主の女性たちのものではないのである。あくまで男性が口にすべき言葉とされており、言葉を独占することによって、その対象までをも支配しようとしているのだ。おちんちんは男のもの、おまんこも男のもの、おれのものはおれのもの、おまえのものはおれのもの、なのである。みーんな男のものという刷り込みが暗黙のうちに行われ、その男社会の戦略にハマって社会化されてしまった女は、みな超自我に男社会の支配原理を埋め込まれ、自分の身体を男の支配下に置かれてしまうことになるのであーる――ということになる。
まあ、そんなに大上段に振りかぶることもなかろうが、自分の身体部位の名称を口に出せない人間というのは、じつに奇ッ怪で滑稽な存在であることはたしかだ。どこかの女の子をとっ捕まえてきて、臓器の名称を口にするのはとてつもなく恥ずかしいことだと超自我に叩き込んで育ててやったら面白いだろうな。その子が美しい娘に成長したころ、具合が悪くなって病院へゆくとする――
医者「あー、どこが痛いんですか?」
うら若き乙女「……おな、か……です」
医者「お腹じゃわからんなあ。ここかね? 胃かね?」
乙女「…………(顔を真っ赤にして俯く)」
医者「どうなんだね? 胃が痛いのかねっ?」
乙女「……い、い……です」
医者「そんな官能小説みたいな台詞まわしをせんでもよろしい。ふーむ、膵臓も弱っているようだが……」
乙女「いやっ――す、すい××だなんて、そ、そんな……」
医者「それとも脾臓かな?」
乙女「ひっ、ひ、ひ、ひぃいーっ!」
医者「胃かな? 脾臓かな? いや、肝臓だろうか――そうだ、腎臓かもしれん!」
乙女「い、いいーっ、ひっ、ひっ、か、かん……じっ」
この医者、完全に遊んどるな。
ともあれ、おれは自分の姪たちを、このような奇形的な精神構造の持ち主にしたくないので、やつらが興味を持ちはじめたら、「これは標準語では“おまんこ”と言い、関西弁では“おめこ”と言う。だから、ふだんは“おめこ”と呼べばよろしい」と、きちんと教えてやろうと手ぐすね引いて待っている。図解も用意しておかずばなるまい。親戚一同から総スカンを食うやもしれないが、知ったことか。おれは少なくとも、存命中の五親等内の一族ではおそらくいちばんのインテリだ(たいした一族でないことが知れよう)。表立って反論してくるやつはおるまい。もっとも、わが一族の辞書には、「インテリ【いんてり】[名]変人のこと。できるだけ関わり合いを持たないほうがよい」と記されているので、反対者も現れないが賛同者もいないだろうけれども。姪どもがとくにおれを慕っているのをよいことに、“こちら側”に引きずり込んでやろうと、いろいろ画策しているのである。鉄は熱いうちに打たねばならぬ。「Aちゃんは、大きくなったらなにになりたい? おっちゃんに教えてえな」「……うーん、お嫁さん」「それは仕事とちがうやろ。で、なにになりたい?」 ほとんど、洗脳である。
以前、森奈津子さんの98年7月某日の「東京異端者日記」を読んでいて、おれはわが意を得たりとディスプレイに乗り出した。なんでも、男性週刊誌の取材を受けた森さんは、上がってきたゲラを見て腰を抜かしそうになったそうである――『生っ粋の耽美主義者であるこの私が、「女性のアソコ」などという馬鹿げた言葉を吐いたことになっているのである』『なにが悲しゅうて、自分の体にもついてる物を「アソコ」などといううしろめたげな表現で語らねばならんのだ! 私はちゃんと「女性器」と言ったはずだっ!』
いいぞー、いいぞー、もっとやれー! さすがはバイセクシュアル隠れSF作家、胸のすく思いである。願わくば、姪たちにも、ぜひ森さんのように育ってほしいものだ。
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