間歇日記

世界Aの始末書


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99年4月上旬

【4月10日(土)】
▼今日は珍しく文学論をやろう。といっても、論などというご立派なものではなく、文学なるものに関するおれの基本認識を表明するだけである。
 いまさらなにをと思われるかもしれないが、おれは小説が好きだ。とくにSF純文学が好きである。経験的に、おれがこういうことを言うと、「両極端ですね」と言われるか「なるほど」と言われるかのいずれかになる。前者の反応が、おれにはいまだに理解できない。おそらく、本屋で売りにくいし、買うほうも捜しにくいから、一応“ジャンル”なるものが存在しているらしいのだが、主観的にはあんまり意味がない。そんなもの、おれが面白いと思うものがおれにとって意味があるに決まっているのであって、世間でそれをなんと呼んでいようが、おれの知ったことか。
 どうやら、世の中には二種類の人間がいるようだ(ってのは、たいへん便利なフレーズである)。パソコン風に言えば、頭の中にディレクトリなりフォルダなりがあって、己が遭遇する事物をきちんとそれらに分けて入れている人と、なんでもかんでも同じところに放り込む人とである。おれは根が自堕落だから、当然後者だ。納豆もチョコレートもパタリロもハイデガーも葉月里緒菜も夏目漱石も相対性理論もシェイクスピアもホイヘンスの原理もドラッカーもモーツァルトもウルトラマンガイアも吉行淳之介もおちんちんもおまんこも、みんな同じところにぐちゃぐちゃに子供のおもちゃ箱のように投げ込んであるだけ。よって、網羅的・論理的な思考がはなはだ苦手だ。「はて、あれはなんだったかな」と、なにかテーマを決めて頭の中のおもちゃ箱の底に手を突っ込んで引っ張り出そうとすると、がちゃがちゃがちゃがちゃと音を立てて、関係ないものが一緒にくっついて出てくる(おれにとっては、くっついて出てくるものは関係があるのだが……)。往々にしてくっついて出てきたもののほうに興味が移ってしまい、「あ、懐かしいおもちゃが出てきた」とばかりに、それをいじくりまわして遊んだりする。阿呆である。
 だものだから、人と話すときには一応の共通語として認めないと話が進まないのでしかたなく使うが、“純文学”とか“主流文学”とかいう呼称が、おれは大嫌いだ。そもそもが文学なんてものを必要とする人間は、ほんの少数、ひと握り、ちょびっとだけであって、そんなものを好むこと自体が、すでにこの世の中で立派な“傍流”である。その傍流の人間が書いたり読んだりしているものに、さらに主流も傍流もあったもんではない。どうも“主流文学”という言葉を聞くと、目糞が鼻糞を笑っているような印象を受ける。そんなもん、仮に小説がこの世からなくなったとて、大部分の人はなんの痛痒も覚えることなく、昨日と同じ今日を過ごし、明日が今日と同じであれとささやかに願いながら、生まれて食って寝て糞たれてまぐわって死に続けるに決まっている。ミステリがなくなったら二時間ドラマの原作がなくなって困るという人もあろうが、それはべつに小説でなくたっていいのだ。おれが、いわゆるSFを“一般主流文学”、いわゆる純文学を“特殊主流文学”と勝手に呼んでいるのには、98年2月12日の日記で書いた理由に加えて、上記のような思いもあるからである。
 そういう、いわば余計なものがどうしようもなく好きになってしまったことについて、若いころは“逆エリート意識”みたいなものを持っていた。人が必要としないものを必要とするのは、なにか特別な選ばれた人間であるかのような錯覚を生むからである。さすがに二十代も半ばになると、要するに自分は一種の精神異常者なのであって、なるべくまともな人々に迷惑をかけないように、ひっそりと自分の好きなものを抱きしめて生きてゆきます、ごめんなさい、許してください、それでも誰がなんと言おうとこれだけは手放しませんし、この異常を治してほしいとは微塵も感じません――と、開き直れるようになった。くさややらシュールストレミングやらが好きな人は、きっとこんなふうに思って暮らしているのだろう。親類縁者じゅう見わたしても、おれの仲間はひとりもいない。日常生活でも滅多に遭遇することはない。たまーに狂人仲間と邂逅すると、やたら嬉しかったものである。しかし、こうして小説が出版され続けているからには、かなりの数の狂人がまともな人間のふりをしてこの社会のあちこちでひっそりと暮らしているはずである。そのうちパソコン通信という便利なものができた。おお、世の中には、こんなにたくさん狂人がいたのか――! パソ通はマイノリティーを結びつける力を持ったとんでもないインフラだったのだ。そして、インターネットも。おかげでおれは、狂人仲間をたくさん見つけることができたし、狂人ばかりで形成されている業界への入口がワームホールのようにそこかしこで口を開けていることも知った。
 幼い姪どもを見ていると、おれの仲間にしたいという気持ちと、こっちへ来ちゃいけない、おれの妹のようにまともな人間に育てよという気持ちが同時に湧き起こってくる。そんな大人の思惑とはまったく無縁に、幸か不幸か、小説やら文学やらを必要とする狂人は、いつの世も、いくばくかの比率で、生まれも育ちもあまり関係なく、どこからともなく蛆虫のように湧いて出てくるのである。不思議なことだ。それが小説のパワーだと言えば言えるであろう。よっておれは、なにももともと蛆虫でない人を無理やりに蛆虫の世界に引っ張ってきたいと強くは思わないのだ。まともな人は、ふつうにまともな世の中を動かしていってください。だが、蛆虫の素質のある人、自分が蛆虫だとまだ気づいていない人を前にすると、仲間にしたいという悪意のようなものがむくむくと頭をもたげてくる。もしも、万が一、おれのせいで小説などというものに、中でもSFなどというものに新たに興味を持つ人がいたとしたら、おれはたいへん嬉しいが、一方で、なにやら申しわけないことをしたとも感じるだろう。もっとも、蛆虫に生まれた人は遅かれ早かれ自分の正体に気づくはずだから、おれがそれほど罪悪感を覚えることもないのではないかとも思うが……。
 おれの認識では、さほど話題にならない小説を自分の好みでコンスタントに読んでいる人は、おれと同じ蛆虫系に属する人である。これを読んで(少なくとも買って)おかないと“一般教養”を疑われるとか、人と話が合わなくて困るとか、要するにまともな人間の世界での社会生活に支障を来たすと考えて小説を手に取る人は、蛆虫系とはまったくちがったなにものかである。つまり、ベストセラーなるものの読者は、蛆虫も含むが大部分はまともな人間だ。小説の固定読者とベストセラーの読者とを同列に論じても詮ないことだと言えよう。まあ、これはかなり前に書いたことだけどね(97年7月3日の日記参照)。
 なんだか話があちこち跳んだな。要するに、蛆虫としては自然に蛆虫仲間を増やしたいだけで、べつに人間の遺伝子を強引に改造してまで蛆虫を作ろうとは思わないってこと。
▼おっと、土曜日だった。“ガイア突っ込みアワー”をやらねば。
 今日の『ウルトラマンガイア』(TBS系)は、テーマ的にはおれ好みのいい話。でも、ちょっと突っ込んでみましょう。魔頭鬼十朗なる戦国時代の呪術師が、いくら現代に現れたからといって“エネルギー”などという言葉を使うのは違和感あるなあ。呪術師らしく空中で半跏趺座を組み、両手で印のようなものを結んでいるのはいいのだが、怪しさを醸し出すどころか、どう見てもコロッケに似たイヤミがシェーをしているといった風情で、おれは爆笑してしまった。ここは笑うところじゃないと思うんだが……。
 感心したのは、飛んでいるサッカーボールの軌跡が、少年の念動力で急激に変化するシーン。あの特撮は、ガイアが闘っているときの特撮よりよほど厄介なはずである。生身の我夢と違和感なく連動させなければならないからだ。コンピュータのおかげだよね。コマ送りでじっくり見ると、ほんの少し我夢の視線の動きが不自然なだけで、ボールそのものの映像はみごとなものだ。念動力でぐいっと曲がって飛んでいるあいだもちゃんとボールは回転しており、しかもふつうに飛んでいるときと同じような残像を曳いている。これくらいの技術で『柔道一直線』『サインはV』を作り直したら面白いだろうな。
 あと、おれの中では女優として石橋けいには及ばないものの、橋本愛のカジュアル姿がなかなかよかった。橋本愛、一点プラス。来週は石橋けいの出番が多そうだ。わくわく。

【4月9日(金)】
▼時節柄、酔っ払いをよく見かけるが、今日の帰りの電車で乗り合わせたおっさんは、じつに絵に描いたような酔っ払いであった。なにしろ、乗ってきてから降りてゆくまで、ひたすら大声で歌を唄っていたのだ。もうひとり酔っ払いが乗っていたら「うるせえ!」と喧嘩になるところだが、幸い酔っ払いはそいつだけで、周囲の人も絡まれたら厄介だからだろう、誰も止めない。ちなみに“「うるせえ!」と喧嘩になる”というのは、わかりやすいように関東風に翻訳しているのであって、大阪から京都に向かって走っている電車の中では、実際には「じゃかぁっしゃ!」と喧嘩になるはずである。「やかましいわ!」の意だ。気の短い人がさらに威嚇的に言うときには「ぢゃあっしゃ」になり、はなはだしい場合は「ぁあっしゃ!」「わあっしゃ!」でも通じる。以前、似たような状況で、気の短そうなおっさんが突如「しゅわっち!」と酔っ払いを威嚇していて、さすがに驚いた。たぶん「じゃかぁっしゃ!」と言ったつもりなのだろうが、あれはやはり「しゅわっち!」だったように思うのだ。そのときは酔っ払いはおとなしくなってしまった。残念だ。こういう場合、正しい大阪の酔っ払いは、卵を掴んだように鋏の形に構えた手を顔の両側で上下させながら「ふぉっふぉっふぉっふぉっ」と応じるべきである。
 それはさておき、今日の酔っ払いが唄っていたのは、堺正章「さらば恋人」であった。きっと、このおっさんは、酔っ払うと決まってこの歌を唄うのにちがいない。「さよならと書いた手紙ぃ……さよならと書いた手紙ぃ……さよならと書いた手紙ぃ……さよ――」と、いつまで経ってもテーブルの上に置かない。かと思うと、突如「いっつ、もー」などとずいぶん先のほうに跳んでしまう。「だんご3兄弟」だったら面白いのに。おっさんのおかげで気づいたのだが、この歌、「串に刺さってだんご、串に刺さってだんご、串に刺さってだんご、だんご3兄弟」てな調子で、歌詞をこれだけ憶えておけば最初から最後までほとんど唄い通すことができる。だからどうだというのだ?
 なるほど、ひどく酔って朦朧としているときに、人はたいてい何曲かの決まった歌を唄うものらしい。そのとき耳につく曲が流行っていればべつで、いっときなど、酔っ払いはみな示し合わせたように「タッタタラリラ、ピーヒャラ、ピーヒャラ――」ばかりを繰り返していたものである。
 そこでふと、おれは酔ったときになにを唄うだろうと考えてみると、いくつか思い当たる歌が出てくる。「モスラのうた」(ザ・ピーナッツほか)、The Best of Times(Styx) 2,000 Light Years from Home(The Rolling Stones)、Eleanor Rigby(The Beatles)、Nowhere Man(The Beatles)、Super Trouper(ABBA)、「遠い音楽」(zabadak)あたりだなあ。駅から家までの夜道をふらふらと歩いて帰る最終段階ともなると、SingSesame StreetIt's Only a Paper MoonLullaby of BirdlandLeft AloneStardust など、スタンダードの中のスタンダードに落ち着いてくる。おそらく、おれがボケ老人になったら、こういう歌ばかりのべつ唄っていることになるのだろうな。But it wouldn't be make-believe if you believed in me...などと唄いながら徘徊している痴呆老人って、ちょっと素敵じゃないか?

【4月8日(木)】
▼まだ続く、シュールストレミングの話。スウェーデン・フリークを自称する鳥居美苗さんから情報が寄せられた。いくらスウェーデン人でも、みんながみんなこんなものをしょっちゅう食っているはずがないというおれの当然の推測はどうやらそのとおりらしい。鳥居さんによれば、北欧では一般に酢漬けの鰊を朝から食べる、いまは廃れた伝統があるにはあるそうだが、さすがにシュールストレミングは特殊な位置づけだとのこと。必ずピクニックに出かけて屋外で食うことになっているのだそうな。ごもっとも。シュールストレミングも含めて、スウェーデンの食事についてお知りになりたい方は、鳥居さんの裏ページ「スウェーデンの常識 その1」をご参照ください。おれはスウェーデン語ができないので、シュールストレミングの sur は、たぶんシュールレアリスムの sur 、つまり“ちょ〜臭い”とかなんとかいう意味だろうと勝手に思っていたのだが、どうやら sour の親類筋らしい。要するに、sour herring ということか。
 昨日の日記に登場した内藤さんAさん(朝岡さん)からも、あれはスウェーデンでもかなり変わった食いものである旨、ご教示いただいた。内藤さんによれば、やはり「あんなもん食えるか!」というスウェーデン人もたくさんいるとのことである。「缶を見ただけで顔をしかめる人も」あるそうで、スウェーデン人にも臭覚があるらしいことが推察される。またAさんは、スウェーデン人に会うたびに「シュールストレミングすきですか?」と質問しまくったことがあって、六〜七割くらいの人が「悲しそうな顔」をして「私はああいうものは食べないから……」と答えたんだそうだ。なにが悲しかったのだろう。さらに鳥居さんがおっしゃるには、『ちなみに私のスウェーデン人の友人たちに確かめたところ、もっとも悪意に満ちた反応は「まあ、僕は大好きって訳じゃないけど、あれはあれでいいもんだよ」でした」とのこと。なるほど、悪意に満ちているな、これは……。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『玩具修理者』
(小林泰三、角川ホラー文庫、角川書店)

 待望の文庫化である。第2回日本ホラー小説大賞短編賞受賞作「玩具修理者」「酔歩する男」の二篇を収録。いずれもSFファンが読むとハードSFに見え、ホラーファンが読むと論理的なホラーに見える(らしい)奇妙な味の傑作だ。
 「玩具修理者」が突きつけてくる問題というのは、おれには実感としてよくわかる。おれは自分自身を“非常によくできた機械”以外のなにものでもないと思っているし、そのことになんの痛痒も感じないからだ。当然、おれはほかの生きものや人間だって、そういう目で見ている。“魂”とやら称するものなんて、なくたってべつにかまわない。おれみたいな感じかたをする人間は、将来おれたちと同じくらい非常によくできた人工の機械が出現すれば、それを“仲間”だと感じることだろう。生きものを、人間を機械だと思っていると言うと怒る人がいたりするのだが、おれには彼らの感性がまったく理解できない。機械だというのは事実ではないか。ただ、その機械のハードウェアや情報処理のパターンや経験/記憶などの“個性”が、一度失われてしまえば再現できない点に於いてたいへん貴重だというだけの話だ。この宇宙の歴史の中でワン・アンド・オンリー、仮に容れものを再構築できたとしても、けっして中身は再生できない大切なものであることは、生きものだろうが精巧きわまりない機械だろうが同じだ。しかし、これはあくまでおれの感じかたであって、ほんとうはどうなのかはまだ誰にもわからない。科学と技術は、やがてこの問題をおれたちの日常に突きつけてくるにちがいない――いや、すでに突きつけつつある。もしかするとこの小説は、SFではあり続けても、そのうちホラーではなくなってしまうかもしれないのだ。日常になってしまったものは、怖くもなんともないからである。

【4月7日(水)】
▼昨日書く時間がなかったので今日書く。昨夜の『古畑任三郎スペシャル「黒岩博士の恐怖・猟奇連続殺人の目的は何か? 死体に埋めこまれた暗号の謎とは? 動機なき殺人を解決するために引退していたあの男が呼び戻された」』(フジテレビ系)は、なんじゃ、あれは? まあ、タイトルと出だしで「あ、今回は遊んだな」という予感はしたが、それにしてもちょっとひどすぎやしないか? 西園寺刑事のトレーナーの色までジョディ・フォスターに合わせて笑わせてくれた掴みのご愛嬌はまあいい。“古畑任三郎”シリーズを本格推理ドラマだと思って観ている人も、もうあまりいないだろう。もはや、このシリーズはキャラを楽しむものになっている。ミステリではなくテレビドラマとして楽しむべきもので、その点では優れた品質を保っていた。しかし、今回はがっかりである。いくらなんでも、ミステリの部分を投げすぎだ。少々粗削り、あるいは、相当むちゃくちゃなトリックや推理であっても、いままでは「おお、こうくるか」という驚きが少なくともひとつはあった。ときに非常に秀逸なアイディアもあった。今回のは、ミステリとしてのオリジナリティーがまったくない。誰でも知っているアレやらナニやらをこれでもかこれでもかとツギハギしただけである。ミステリにさほどうるさいわけでもないおれが思うのだから、よっぽどのことだ。どこにも、なんにも驚きがないではないか。「へ? どこに謎があったの?」と最後まできょとんとして観ていた人も多いだろう。おまけに決め手まで見えみえ。ここまであからさまにミステリ成分を放棄されると、これは意図的なものだと解釈せざるを得ない。ネタバレはルール違反にはちがいないから、録画してあるものをいまから観る人は、次の▼まで跳んでください――と警告しておいて文句を言うが、クリスティの大古典は言わずもがな、毎度毎度小ネタをパロっている“刑事コロンボ”シリーズからも、『溶ける糸』『二枚のドガの絵』『別れのアタリメ』――じゃない『別れのワイン』と、これはもう、完全に遊ぶつもりで借りてきているとしか思えない。要するに、来週からはじまる新シリーズの幕開けとして、顔見世興行をやっただけなんだろうな。こんなのなら作らないほうがいいよ。いままでの長時間枠“古畑任三郎”の中でも出色の駄作と言えよう。緒方拳の使いかたも、あまりにももったいない。もっとも、緒方拳クラスのゲストがいなければ、目も当てられなかったろうけど……。前回のスペシャル枠『古畑任三郎 VS SMAP』はテレビドラマとしては堪能したのだが(99年1月3日の日記)、今回はいただけませんねえ。三谷幸喜とも思えない。だいたい、前のから三か月しか経ってないじゃないか。粗製濫造しちゃだめだってば。粗製濫造しなきゃ食えないような凡庸な脚本家じゃないだろうに。なんだかんだ言っても、おれは古畑任三郎シリーズが好きだ。だから言いたい。長時間枠用はせいぜい一年に一、二本、一時間のレギュラー枠用は二、三年に五、六本程度に留めておいてほしい。そりゃあ、質が維持できるならたくさん作ってくれるほうが嬉しいけど、いかな三谷幸喜といえども人間でしょう。古畑だけで食ってるわけじゃないんだからさ。
世界は狭いという話。4月4日の日記で恐怖の試食会レポートをお送りした“シュールストレミング”だが、当のブツを野尻抱介さんはお友だちの内藤さんから入手された。4月6日の日記でご紹介したラジオ番組をご夫婦でやっておられる三瀬敬治さん三瀬恵さんは、おれのメール友だちである。でもって、野尻抱介さんとおれとは電識も面識もあるSF友だちである。ここまではいいですね。ここに三瀬敬治さんのお友だちのAさん(女性)という方がいらっしゃると思いねえ。このAさんが、以前「シュールストレミングが職場にやってきたが、どうするかみんなで相談している」という内容のメールを三瀬さんに出しておられた。で、つい先日、Aさんから三瀬さんにまたメールが来たそうな――「冬樹さんのサイトに当の缶詰めの話が出ている」
 なんとこのAさんは、内藤さんの職場のご同僚だったという次第。つまり、シュールストレミングで“人の輪”が繋がってしまったのだ。「臭い仲」ってことで――というのが、三瀬さんからのメールのオチである。

【4月6日(火)】
▼今日は、シュールストレミング・ショックで紹介し損ねていたタレコミ情報をまとめて書く。
 4月2日の日記で触れた「ウェルチ」の声について、ここ数日のあいだに坂口哲也さんとさんから情報が寄せられた。ただものではないとは思っていたが、やっぱりただものではなかった。おれが単に芸能情報に疎いだけだろうが、なんと、ウェルチの正体は大竹しのぶなのだそうである。言われてみれば、大いに納得。喋りかたがそうだよね。でも、声はかなり作っている。ああいう声もできるんだなあ。さすがは名女優である。どうも大竹しのぶタイプはいかにも癇が強そうで、おれは個人的には苦手なのだが、ちょっと明石家さんまの気持ちがわかったような気がした。
▼以前に「ラジオカロスサッポロ」「おしゃべりランチ」(現在は放送終了)という番組でこのサイトを紹介してくださり(98年3月5日の日記参照)、常々なにかとネタを提供してくださる三瀬敬治さん・三瀬恵さんのご夫妻が、同局で新番組をはじめられた。そうそう、敬治さんは“納豆ラーメン”を、恵さんは“納豆カレー”を食べる人々として、この日記では有名(?)である(98年10月28日)。この「はたしてそうかな?」(毎週日曜日・19:00〜20:00)という新番組、日常のなにげないものについての疑問をネタにご夫婦で掛け合いをやり、答という結論に至らないまま終わらせる……かも知れない“情報科学バラエティ番組”なんだそうだ。コミュニティ放送局のこととて電波ラジオの可聴域は狭いが、Real Player のストリーム再生でインターネット放送もしているほか、ウェブページでは番組中の「インターネットのコーナー」が音声データでダウンロードできるようになっている。つまり、可聴域以外にお住いの方や放送時間にインターネットに繋ぎっぱなしにできない方も、電子メールによるお便りコーナーだけはダウンロードしてゆっくり聴けるという次第。自分の出した質問や感想が札幌の放送で採用されても、距離や時間に縛られずそれを聴くことができるわけだ。
 さっそく第一回をダウンロードして聴いてみた。先日も「クローズアップ現代」(NHK総合)で取り上げていた“絶滅の危機に瀕しているメダカ”の話。はて、そもそも北海道にメダカはおるんでしょうか――と気になる方は聴いてみてね。SFファンのみなさまは、なにげない疑問を抱くのがお得意でありましょうから、放送に適したネタがあったら、ぜひ投稿してみてください。「中性子星を相対論的質量増大効果が大きく出るほどの速度にまで加速していったら、ブラックホールになってしまうのでしょうか?」なんて質問は、日常のなにげない疑問じゃないので(なにげない疑問だという人もありましょうが)ダメだと思う。ちなみにこれは、はるかむかしに前野“いろもの物理学者”昌弘さん石原藤夫博士になさった質問だそうである。蛇は双葉より芳し、栴檀は寸にして人を呑む。
▼その異様な交友関係から片時も目が離せない森奈津子さん「森奈津子の白百合城」「今月の城主様」というコーナーができた。毎月三名が城主としてリンクを張ってもらえるのだそうで、死体が好きでもなくオートフェラチオもできずカタツムリも剥かないおれなのに、もったいなくも記念すべき第一回の城主陣に加わる栄誉を受けることになった。“二文字姓+一文字名”が今月の選定基準だそうだが、ほかにもそんな人はたくさんいるから、きっと“声フェチ”が高く評価されたにちがいない――と思っておこう。肩書きが“SF評論家”というもったいないものになっているけれども、最近は人が呼んでくださるぶんにはありがたくお受けすることにしている。自分じゃ絶対言わないけどね。おれも森さんを勝手に“隠れSF作家”などと呼んだりしているのだ。
 ともあれ、やはり人間、なにかのフェチでなくてはつまらない。死体フェチでも、カタツムリフェチでも、なんでもいいじゃないか。他人のフェチの対象は理解できないことも多いが、フェチ心そのものは切実に理解できる。もっとも、シュールストレミングのフェチの方とは、あまりお近づきになりたくないが……。
▼あちこちのシュールストレミング試食会レポートを読んだ林譲治さんから、素朴な疑問が寄せられた。「関西方面のSF者が中心で、あまつさえ作家も多数いるという団体の報告を鵜呑みにしてよいのだろうか?」 つまり、「もしかすると缶詰はこの世の至宝とも言うべき味わいであるため、この秘密を独占しようとする有志がそれらしい情報を流したのかもしれない」と、われわれ善良な試食隊を陰謀史観で疑っておられるのである。さすがは架空戦記&SF作家だけのことはあり、着眼が鋭い。とりあえず、なにごとも宇宙人・ユダヤの秘密組織・CIA等々の陰謀と疑ってみるのが正しい好事家のありかたというものだ。もっとも、そうやって遊ぶのとそれらを信じてしまうのとのあいだには、光速の99.99%と光速くらいのちがいがあるわけだが……。
 とはいえ、関西方面のSF者がいかに正直で話に尾鰭を付けず天地神明にかけて客観的な真実しか書かないかは、たとえば田中哲弥さんや田中啓文さんの日記をふだんから読んでおられる方々にはいまさら説明の必要もないことだろう。シュールストレミングが“この世の至宝とも言うべき味わい”などとは、とんでもない邪推である。賢明なる読者諸氏は、くれぐれもこのような陰謀史観に惑わされず、われわれの報告を信じていただきたい。
 ところで、林譲治さん、明日から身のまわりに黒い服を着たサングラスの男がちらほら目立つようになるかもしれないが、あまりお気になさらぬよう。夜中に窓の外が明るくなって、異様に大きな目をした銀色の小さな人間のようなものがうろちょろするかもしれないが、それも些細なことなのでお気になさらぬよう。近所の犬や猫やエルバッキーが血も流さずに内臓を抉り取られた姿で転がっていても、なにほどのことでもないのでお気になさらぬよう。もしかするとミステル・ヤオイが訪ねてゆかれるかもしれないが、滅多なことは口になさらぬよう。ことによるとニャントロ星人と称する人物が――(以下略)。

【4月5日(月)】
▼なんとなく今日は腹具合が悪いような気がするものの、おれの場合、平素の“バックグラウンド不健康”のレベルが高いため、少々の不健康が加算されたところで、自分がどのくらいの不健康状態であるのかがいまひとつよく実感できないのであった。大便がいつもより“いい匂い”に感じられる。シュールストレミングを食うとなんらかの効果によって大便が芳香を放つのか、それとも、あの匂いを体験した鼻がふつうの大便くらいには動じなくなってしまったのかもわからない。まだ衝撃的体験が尾を曳いている。世界は驚異に満ちているのだ。小林泰三さんのギャグが思い出される――「スウェーデンの人は、この缶詰が腐ってるかどうかわかるんやろね。缶を開けた途端、『あ、クサっ、これ腐ってるわ』とか」 いや、ほんとにそうなのかもしれん。人間ってのはすごいもんだからねえ。
 シュールストレミングがいかに強力な悪臭源であるかを思い知ったのは、今日になってからであった。試食会に持っていった「リッツクラッカー」が余ったので箱ごと持って帰ってきていたのだが、食おうと思って箱を開けたところが、なんと、かすかに“あの臭い”がするのだ。恐るべしシュールストレミング。まちがっても、スウェーデンとだけは戦争をしてはならない。こんなものが空から降ってきたらどえらいことだ。
 恐怖の体験から一日を経てじっくりと考えてみる。思うに、スウェーデン人の中にも、こいつが嫌いで嫌いでしかたがないという人がおるにちがいない。納豆が嫌いな日本人がいるのと同じことである。というか、スウェーデンでもこいつは日本の“くさや”のような扱いを受けているのではあるまいか。こんなものが週に何度も食卓に上るとは、とても想像できないのだ。実際、どうなんでしょうね? スウェーデンにお住い、もしくは、お住いになったことがある方、ぜひご教示ください。スウェーデン人の誰もかれもが、おれが納豆を食うように、毎日毎日これがないとはじまらないとばかりに食ってるのだとしたら、人間の適応力というものに改めて驚かざるを得ない。

【4月4日(日)】
▼今日は、おれには珍しく日曜日に外出した。怪しい宴に誘われたのだ。あの“世界一臭い食いもの”と名高い“シュールストレミング”野尻抱介さんが入手なさり、SF周辺関係者の好事家(好事家でないSF関係者というのはあまり知らないが……)で集まって食おうということになっているのである。テレビでご覧になった方も多いと思うが、鰯だか鰊だかを塩漬けにして醗酵させたスウェーデンの食いものだ。調べてみると鰊らしい。今回のものとメーカはちがうかもしれないが、シュールストレミングの一メーカのページを見つけた(中欧か欧米のフォントで見てね)。おれはスウェーデン語は読めない。英語の説明を読むと鰊である。
 場所は大阪府吹田市の万博記念公園。モノレールの駅の改札前で屯している野尻抱介さん、喜多哲士真理(こう書くと漫才コンビみたいだ)のご夫妻、堺三保さん都築由浩さんと合流。都築さんとは初対面だ。明るいターミネーターみたいな人である。意に反して、万博記念公園駅前はすごいヒトデ――といっても、パイラ星人がうようよいるのではなく、地球人がうようよいるのである。

冬樹「いまここで(シュールストレミングの缶を)開けたらおもろいでしょうね」
「それはテロです。テロ」

 やがて小林泰三さんがふつうに現われる。この人はふつうにしているといかにもふつうであり、このふつうの人があの小林泰三だと知っている人のみが、そのふつうさになおさら不気味なものを感じるといったタイプの作家である。
 しばしバカ話をしていると、ロック野郎な物理学者、菊池誠さんが登場。なんでもご家族連れでいらしていて、のちほど恐怖の試食会に合流するとのこと。かわいそうに。
 はて、とうとう仕事で来られなかったのか――とみなが思いはじめたころ、はるばる大久保町から田中哲弥さんがやってきた。日記に書かれていた、かの有名な“イカナゴの釘煮”を持ってこられたという。少なくとも、まともな食いものが一種類は確保されたわけであり、みな内心ほっとしているのが見て取れる。
 さてさて、このような書き出しにすると、当然、これからこの嵐の万博記念公園で連続殺人が起こらなくてはならない。たしかに誰が犯人でもまったく不思議のない面子ではあるが、残念ながら肝心の名探偵がいないので、とにかく目的のシュールストレミングを食うことにする。
 モノレールの駅から出て記念公園に入ると、眼前にあのパイラ星人をデザインした男がデザインしたという、腹に人面瘡ができた巨大なオバケのQ太郎、別名“太陽の塔”がそびえている。これから数時間、あなたの鼻はあなたの身体を離れて、不思議な時間の中へと入ってゆくのだ。
 なるべく人の少ないところを探して、野尻試食隊は記念公園をうろつきはじめた。桜のきれいなあたりでは、善良な市民たちがこれからここでなにが起こるかも知らず楽しそうに語らい、子供たちは天使のように駆けまわっている。いまここで件の缶を開けたら、桜の木の下に死体が転がることになろう。桜と沈丁花のジャングルをかきわけかきわけ進む野尻試食隊。と、突如、叢の中から、一匹の毒蛇が野尻隊長に跳びかかった――(ここでCM)――としたら、もう少し日記も面白くなるのだが、やがて一行は梅林へと出た。

冬樹「梅林に女の子が立っている。梅林ギャル」
喜多夫人「冬樹さんって、おじさんですね」

 まだエンジンがかかっていないだけである。おじさんであることはたしかだが……。
 ようやく、人のいないスポットを発見。いそいそと宴の準備。みな、ちゃんと防護服を持ってきている。携帯用のレインコートだ。いいおっさんたちが雨も降っていないのにおもむろにレインコートを着て、なにやら横文字の書かれた缶詰を遠巻きに見守っている光景を、道行く人は不思議そうに見ている。視線が痛い。
 さてしもあるべきことならでは、ついに野尻さんが缶切りを手にシュールな缶に挑んだ。醗酵で出たガスで、シュールストレミングの缶はぱんぱんに膨れ、両側が盛り上がっている。まずガス抜きの穴を開けねばならない。野尻隊長の手に力が込められた――

「ぷしゅっ」

 一瞬、缶から霧のようなものが噴き上がり、野尻さんが鼻を押さえて跳びのいた。往年の薬師丸ひろ子ならつぶやいたであろう――「開……缶……」
 カイカンどころではない。たちまちあたりに腐臭が漂いはじめる。やっぱりこの缶詰、腐っているのではないのか。
 あまりのことに戦意を喪失した野尻さんに替わり、今度は都築さんが缶の蓋を切り開いてゆく。じゅくっ、じゅくっ、と色の悪い液体が缶から溢れ出す。それはたとえば、死後一週間くらい経った変死体にうっかり躓いてしまったところ死後硬直が解けた首が横を向いた途端その口からぐぼっと溢れ出すであろうような液体である。
 さあ、開いてしまった。その臭いたるや、もはや腐臭というよりは死臭である。みな観念して恐るおそる一尾ずつ小皿に取って食いはじめる。人魚の幼生の腰から下を切断して塩漬けにしたような不気味な姿だ。
 「こういうものは、やっぱり“これ系”の人から食べていただかないと……」と小林さんに期待するおれ。「ほんまに食うんですか」と田中さん。都築さんや小林さんは敢然と食いはじめ、ご両人とも最終的には一尾丸々平らげてしまう。みなちびちびとつまんでは、赤ワインで流し込むようにして食べている。おれも食ったが、味はさほど悪くない。ただの魚の塩漬けだ。臭いさえなければ、だが……。そのようすを遠巻きに見守る菊池さん一家。
 そのうち牧野修さんがいないのは残念だという話になる。「あの人やったら、缶を開けた途端、両手で手掴みにして『うぉー、ぐぉー、もっとくれー、もっとくれー』と貪り食う――」と、小林さんがその場にいない牧野さんの“もの真似”をやりはじめる。誰も牧野さんがシュールストレミングを食っているところを見たことなどないはずなのだが、やけにリアルな演技にみなが大きく頷いていた。
 やがてみな臭い(匂いではない)に慣れてきて、酒もまわって、むちゃくちゃなことばかり言いはじめる。いつ誰がネタにしないともかぎらないので、詳しくは書かないでおこう。あんなおもろい宴会をタダで再現してなるものか。
 結局、菊池さんと堺さんは食べなかった。「節度ある菊池誠は食べなかったと書いておいてくれ」と言われたので、そう書く。堺さんは、みなに「根性なしぃー」と言われ、「根性なしとでもなんとでも呼んでくれ」と言っていたので、そう書いておく。「根性なしぃー」
 いやあ、しかしすごい体験だった。こんな体験はそうそうできるものではない。万博公園まで出かけていった甲斐があった。みな“藝の肥やし”と自分を納得させていたが、田中哲弥さんがぽつりと――「ただの肥やしやったりして」
 そ、そうかもしれん。

【4月3日(土)】
▼そういえば、みなさん、もうすっかり忘れておられるんじゃあありませんか――って、いや、おれも忘れてたわけだけどさ、ほら、齋藤冬樹さんの「百万人の日本人普通の人アンケート」だよ。「なにそれ?」って方は、比較的最近ここへ来てくださるようになった読者の方ですね。齋藤冬樹さんという、力いっぱいアホなことをやる一種の求道者がおられてですね、一年ほど前に「自分はいかにふつうか?」を調べるアンケートをひょっこり企画なさったところが大ブレーク、一世を風靡したのでございます。詳しいことは、98年4月18日23日30日あたりの日記をご参照ください。
 さて、ひさびさにチェックしてみたら、6991名中、おれは4023位になっていた。変さ値「34.132」だ。かなり“ふつう”の日本人である。こうして科学のメスで解明されると(?)嬉しいような、なんとなく癪なような複雑な気持ちだ。おれにはかねてから持論があって、人は若いころには「おれはどうして人と同じなのだろう?」と自分の平凡さが厭になり、歳食ってくると「おれはどうして人と同じでないのだろう?」と自分の特殊性が厭になるものではなかろうかと考えている。逆の人はたぶん天才なのだが、天才が主観的にどう感じているかなど、おれの想像の及ぶところではない。
▼今週は“ガイア突っ込みアワー”をやろう。先日、「大のウルトラファン」という女性から「土曜日の日記を楽しみにしております」などと励ましのお便りを頂戴してのけぞった。“ガイア突っ込みアワー”にファンがいたとは。かと思うと、ウルトラマン関係で検索をかけていたところここを発見し『帰ってきたウルトラマン』同好の士ということでメールをくださった方もある。やはり、世にウルトラファンは多いようだ。べつに土曜日に“ガイア突っ込みアワー”をやると決めているわけではなく、突っ込んで面白そうなことを発見して気が向いたら書いているだけのこと(日記なんだから)なのだけれども、けっこう反応があるので嬉しい。べつにおれは科学者でもなんでもなく、ほとんどポピュラー・サイエンス好きな高校生程度の知識で誰もが「おや」と思うであろう重箱の隅に“突っ込み”を入れて楽しんでいるにすぎない。要するに、好きだから茶々入れをしているのだ。かといって、ウルトラ警備隊のキリヤマ隊長「なに!?」と何回言ったかを知っているほどのウルトラおたくでもない。ふつうにテレビを観てふつうに育ったおれたちの世代の人間なら、とくに意識しなくともなにがしかの“ウルトラ成分”が血肉に染み着いているはずなのである。
 で、今週の『ウルトラマンガイア』(TBS系)だけど、もっと早く気づくべきだったことにいまごろ気づいた。レスキュー等を使命とするチーム・シーガルの飛行艇(なんて名か忘れた)は、ライトニングやファルコンなどのファイティング・チームのそれとは大幅にデザインがちがいますわね。『帰ってきたウルトラマン』で活躍したマットジャイロみたいな、翼に大きなローターが組み込まれているタイプだ。救助活動にはホバリングが必須だからだろう。しかし――今回、チーム・ライトニングの梶尾艇が人命救助活動のために空中で停止するシーンがあった。そりゃそうだ、エリアルベースがああやって浮かんでいるからには、リパルサーリフト搭載機にはホバリング(levitating とでも呼ぶほうが適切かもしれんけど)が簡単にできるはずである。それじゃあ、いったいシーガルの飛行艇は、なんのためにわざわざあんな格好をしているのだろう? リパルサーリフトを使えば、なにもローターで必死に空気を下に押しつけていなくても悠々と空中に停まっていられるのに。そのほうが無用な風を巻き起こすこともなく、救助活動にも有利だろう。
 と、そう言ってしまってはチーム・シーガルの立場がないので、シーガル機があんなデザインである理由をなんとか考えてみる。まず、火災などの際、あのローターで上から新鮮な空気を送り込むと同時に熱気を吹き払って、機体の下にいる人を保護する目的でわざわざ原始的な揚力を使っている可能性がある。また、いまのところリパルサーリフトが作用している空間が人体にどのような影響を与えるのかがよくわかっていないから、体力を著しく消耗しているであろう救助対象の健康に配慮しているのやもしれない。ここでも、リパルサーリフトの正体が明かされていない強みがある。
 シーガル機のデザインの謎は置いておくとして、定石を考えれば、せっかく使っているリパルサーリフトをもっと利用しないと損だと思う。未知の力を発生させる装置や、未知の原理を用いた推進機関は、兵器に転用するのがこの世界(どの世界じゃ)の“お約束”というもの。もしかすると、ガイアの製作者側もすでに考えているかもしれないぞ。わくわく。とくにリパルサーリフトは重力に作用する装置であるからして、使いかたによっては標的周辺の時空を擾乱し巨大な破壊力を生むこともできるはずだ。仮にリパルサーリフトが重力を相殺する作用を持つのだとすれば、たとえば、ブラックホールの事象の地平面に“リパルサーリフトビーム”を射ち込んだりしたらどうなるだろう? ビームが当たっている部分の事象の地平面は、外側に盛り上がってくるのではなかろうか? 角運動量を持っているブラックホールなら、それによって回転の重心が変わり、事象の地平面が振動をはじめる。さらに十分なエネルギーをリパルサーリフトビームに投入すると、事象の地平面はビームの発射口に向けて吸い出されてきて、ついに“まりもようかん”のように地平面が破れる。その一瞬、裸の特異点がこの宇宙に露出されるのか、ビームが作用しているあいだはブラックホールがブラックホールでなくなってしまい、中性子星みたいなものがそこに突如現われるのか――うーむ、このあたりまでアホなことを考え進めると、おれにはハードな考証はとてもできん。どうなるにせよ、そんなことをするにはとてつもないエネルギーが必要なはずだが、それにはもちろん“真空エネルギー”を汲み出して使う――ってのも、お約束といえばお約束ですねえ。
 おや、待てよ。重力を相殺できるのだとすれば、結局のところ、リパルサーリフトは一種のタイムマシンであるはずだ。なぜなら、重力場の中でリパルサーリフトが作用している局所的空間では、なんらかの理由で重力が無効化されているわけだから、その部分の時間の経過は周囲の重力場よりも速いにちがいない。とすると、地球上の牛乳にリパルサーリフトビームを照射し続ければ(もちろん昇ってゆかないように押さえつけて)、その牛乳はほんの少しだけ早く腐る。いや、話を逆から見てみよう。リパルサーリフトは、投入したエネルギーのぶんだけ、作用空間の時間の流れを速くする装置だとしたらどうだろう? その作用空間は時間の流れが速くなったので、矛盾を生じないように重力の弱いほうへと熱気球のように昇ってゆくのである。したがって、重力場の中でしか揚力を生まないのだ。こう解釈すれば、リパルサーリフトで浮かんでいるエリアルベースの真上を、同じくリパルサーリフトを搭載しているピースキャリーが飛んでゆく現象(99年2月7日の日記参照)にも説明がつく。ピースキャリーのリパルサーリフト作用空間では、エリアルベースが生むそれよりも、相対的に時間の流れが速いのだ。
 うーむ、いい加減きわまりないが、ことほどさようにいろいろ遊べるのである。ガイアのスタッフの方々、リパルサーリフト転用兵器、期待してますからね。
▼おっと、新聞を見てはじめて知った。映画『クレヨンしんちゃん・電撃!ブタのヒヅメ大作戦』(監督:原恵一/1998)がもうテレビで放映されるのか。とうとう劇場で観る暇がなかったので、あわててビデオに新しいテープを入れる。そういえば、『ヘンダーランドの大冒険』『暗黒タマタマ大追跡』もテレビで観たんだよな。一年でテレビ放映しちゃうんなら、べつにおれは映画評論家じゃないので、なにもガキが騒がしいだけの劇場に観に行くこともない。前にも書いたように(98年3月28日の日記)、クレヨンしんちゃんの映画はほんとに丁寧にできてるよ。藝が細かい。今月はやたら忙しいが、これは観なければなるまい。姪どもが観ていないといけないので、念のため妹宅に電話して知らせるように母に言い、映画クレヨンしんちゃんがいかにすばらしいかをついつい熱く語ってしまったところ、「へぇ」と狂人を見るような目で見られた。しまった、肉親だからうっかり気を許してしまったが、ふつう三十六のおっさんが“ちがう世界の人”にこういうことを熱く語ってはならないのであった。まあ、ちゃんと電話はしてくれたようだが……。
 食い入るようにテレビにかじりつき、今回も堪能した。こういう良質のコメディーが(しかも立派なSFだ)一年に一本生まれるなんて、まだまだ日本も捨てたもんじゃないよね。こんなのを観て育ったやつらが、やがて社会に出てくると思うと、頼もしいやらそら怖ろしいやら、いやあ、日本の未来は明るいぞ。

【4月2日(金)】
▼新聞の映画広告をなにげなく見ていたら、「母をたずねて海底二万里」というフレーズが浮かぶ。何者なんだ、この母は。
▼このところ、年甲斐もなく宇多田ヒカルなんぞを聴いているが、たしかに魅力のある歌声だね。まちがっても美しい声ではない。でも、人を惹きつけるいい声だ。おれも、この声みたいな文章を書きたいものだなあ。
 宇多田ヒカルを聴いていると複雑な想いに捕われる。おれも歳を食ったなあとしみじみ思うのだ。子供のころ、耳にタコができるほど藤圭子ばっかり聴かされていた時期があった。母が内職しながらエンドレスで流すのである。その後遺症か、なにかを数えていて「……十三、十四、十五、十六、十七」までくると、いまだに「私の人生暗かったぁ」と頭の中で唄ってしまう。おれは藤圭子が唄っていた類の曲が大嫌いだけれども、子供心に声は好きだった。思えば、おれの声フェチは藤圭子に端を発するのやもしれない。あろうことか、その娘の声にまたまたフェチ心をくすぐられているとは、なんともはや、おれも立派なおじさんになったものだ。
 今日は疲れているので、徹底的にフェチに走る(理由になってない)。最近フェチっている声で気になっているのは、「ウェルチ」ってジュースのCMでウェルチ役をやっている女性の声だ。あれ、いいよねえ。おれはテレビを点けているときには常時ビデオも回して録画していて(そのためのテープを一本決めて、ぐるぐると重ね撮りを繰り返しているのだ)、あのCMがたまたま入ってると、思わず巻き戻して声を聴いてしまう。ビョーキだ。
 そんな声フェチのおれが、なんにも感じない声がひとつある。松任谷由実の声だ。あれはいったいなんなのであろう。人間の声じゃない。ふつう人間が「あーーー〜〜〜」と声を伸ばせば、とくに意識せずとも自然にビブラートがかすかにかかる。ところが、松任谷由実はおかしい。そのまんま定規で引いたように、「あーーーーーーーーーーーーー」とただただ伸びるだけだ。呼気で出しているのではなく、電気で出しているかのようだ。シンセサイザで作ったような声だと思いません? いや、べつに歌手としてのユーミンを貶してるんじゃないよ。貶すもなにも、おれの脳にはあの人が口から出す音波が、人間の声として認識されないのである。好きも嫌いもない。無個性が個性になっている特殊な声だ。ユーミンの歌が耳に入ってくると、「あ、松任谷由実が唄っている」とおれには思えず、「あ、松任谷由実が鳴っている」と感じてしまう。おれの嫌いな華原朋美でも、一応その声は人間の声として認識されるというのに(歌として認識されないことはままあるが……)。まったく不思議な声だよねえ、ユーミンのは。
 さて、最後に声フェチの夢などひとつ。一度でいいから、白鳥英美子山本潤子上野洋子でトリオを組んでアルバムを出してもらえないものだろうか。想像するだけでも鳥肌が立ってくるよ。もう二、三人入れるとしたら……などとあれこれ考えているとたいへん楽しい。つくづくしあわせなやつだね、おれは。

【4月1日(木)】
▼毎年なにか豪快な嘘をついてやろうと思いつつ、もう何年もエイプリル・フールに嘘をついていない。なんだか選挙権を行使し損ねたかのようで、はなはだもったいない。エイプリル・フール権を貯めておいて、あとでまとめて使える方式ならいいのだが……。ま、考えてみれば、おれという人間は、その存在自体が趣味の悪い冗談みたいなやつであるからして、なにもわざわざ企んで嘘をつく必要などないかもしれない。そうだ、四月一日は「せめて今日くらいは、真面目かつ正直でいる日」とでも個人的に定めておくことにしよう。
▼こないだ買ってきた『星ぼしの荒野から』(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、伊藤典夫・浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF)の表紙を、改めてしげしげと眺める。ううむ。この表紙はひょっとして「たおやかな狂える手に」(同書所収)のイメージ画なのだろうか。だとしたら、こんなに可愛くてはまずい。しかし、不美人でもやっぱりまずい。難しいところである。たまいまきこ氏も苦労なさったにちがいない。
 腰巻もまたすごいね。「『たったひとつの冴えたやりかた』のティプトリー・ジュニアがあなたに贈る愛と涙と感動の珠玉の名品集」ときたもんだ。いやあ“売り”に入ってますね、早川書房さん。ティプトリーのファンは言わずもがな、この腰巻の文句を書いた方も、これが大嘘であることは百も承知なのである。大嘘と言うと語弊があるな。この“愛と涙と感動”は、ティプトリーを知らずに本を手に取った人が「ほう、愛と涙と感動なのか」となんの気なしに思うであろう“愛と涙と感動”とは、まったく異質な“愛と涙と感動”なんだもんね。ファンはもちろんそれを知っていて、「おおお、いけしゃあしゃあとやってくれますなあ」とにやにやしながら、気持ちよくなる薬だと騙されて売人から覚醒剤を買ってゆく女子高生を物陰から窺うような思いで、書店で誰かが手に取るのを観察してしまうのであった。早川書房も、このくらいあざとくやっていただいて大いにけっこうかと思う。無垢な少年少女をティプトリーの世界に引きずり込んでくれるのなら、ティプトリー作品を三冊重ねて串に刺して売っても、おれは文句は言わん。そりゃもう、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアなる作家を、おれは個人的に熱愛している。日記だから遠慮なくミーハーするが、おれがいままでに読んだ古今東西すべての作家(SF作家、ではない)の中で、まずまちがいなく五指には入れる、大好きな作家だ。“好きである”と“優れていると評価する”とはまったく別の話だが、ティプトリーの場合、それはたいてい一致する。SFという文藝ジャンルが生んだ最高峰のひとつである。この日記を読んでくださっている方の中に、万が一にも、ティプトリーを読んだことがない方がいらしたら、『星ぼしの荒野から』を手はじめに、徐々にむかしの作品へ遡って読んでゆかれるのがよろしいかと思う。近年の作品のほうが“とっつき”がいいからだ。はっきり言って、ティプトリーは血も涙もない作家である。血も涙もないところが“愛と涙と感動”なんである。わからない? わからない方は、とにかく騙されたと思って読んでみてください。もし「騙された」と思うようなことがあったら、笑って許してね。今日は四月一日じゃないすか。


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