間歇日記

世界Aの始末書


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99年9月上旬

【9月10日(金)】
▼帰宅してネットを見てまわっていると、にわかに雷鳴が轟きはじめた。ばきばきばきばき、ずどーーーんなどと、かなり近いところに雷が落ちている。これはやばい。カードモデムがサージ電流を食らった日には、パソコンまでやられてしまいかねない。森奈津子さんが、パソコンの内蔵モデムと電話の子機が落雷でぶっ壊れたと先日書いてらしたばかりだ。サージアブソーバなどという気の利いたものは、おれの通信環境にはないから、雷鳴が過ぎ去るまで外部との結線を断つ。たまにパソコンをスタンドアロンで使ってみるのも、なかなか新鮮でいいものである。
先日から晩酌の代わりに黒酢を飲んでいるが、早くもすっかり馴染んでしまった。なにがいいといって、安上がりなのが助かる。ショットグラスでちびちびやるだけで身体が熱くなり食が進むのだ。酒が嫌いなわけではないが、あまりにも酢のコストパフォーマンスがいいので(酒に酔うのとはちがった快感がある)、しばらくは酒量が激減しそうである。
 酒を適度に飲む人は、飲まない人より癌で死に至ることが少ないという興味深いデータを国立がんセンターが発表していたが、やはりそうであったかとなんとなく納得しちゃうね。この数字によれば、日本酒にして二日で一合くらい飲む人に最も癌死者が少なく、飲まない人の約半数というからすごい。二日で一合ってのが微妙ですなあ。日本酒が好きな人にとっては、飲ませてもらえない以上の拷問ではあるまいか。おれも、飲むときには最低一回に一合は飲むからなあ。二十八合飲んだら鉄人だといった程度のネタはさらりと流すことにしても、なぜ二日で一合くらいがいいのかについては、よくわからない。そもそも酒の成分が主に効いているのか、ストレスの解消が主に効いているのか、その相互作用がいいのか。どのみち、薬のつもりで酒を飲んでもうまくないので、こういうデータが出たからといって、人々の酒量にそれほど影響があるとも思えない。
 おれはさほど長生きしたいとは感じないけれども、生きているあいだはふらふらでいるより健康で活動できたほうがいいに決まっている。死の前日まで絶好調で活動し、ぷちっとスイッチが切れるように死ぬのが理想だよなあ。通り魔に刺されるのは厭だけどね。

【9月9日(木)】
8月30日の日記自家製納豆製造機の話を読んだ鷹司史朗さんが、あのような機械を使わなくとも「普通に家庭にあるもので生産に成功しました」とメールをくださった。自家製納豆作りの過程は、鷹司さんのサイトに「納豆の自家生産」として詳しく報告されている。こういうことを実際にやってみるという精神がすばらしい。ものぐさなおれにはとてもできない。問題はやはり、大量にできてしまう(作らざるを得ない)という点らしい。食べごろの納豆が、いつでも適量出てくるような機械があれば便利なのだが……。

【9月8日(水)】
〈ハッカージャパン〉VOL.5(白夜書房)が出ていたので買う。こう言っては失礼だが、大胆なタイトルのムックが出たもんだと好奇心で創刊号を買ったときには、ニ、三号で消えちゃうだろうと思っていた。五号も出るからには、一応売れているらしい。いまのところ、おれもなんとなく惰性で毎号買っている。号を重ねるごとにだんだん健全なセキュリティー雑誌になってきてしまい、斜に構えた感じを残してはいるものの、とても“ハッカー”が読んでいるとは思えない内容になっている。たとえば、「ひと味ちがうインターネット教養講座」の PART4 は「お気楽TCP/IP入門」(文・TIP)というのだからびっくりだ。『みなさんが気が付かないところでインターネットを潤滑に動かしている中心となっているTCP/IPについてを説明していきます。これを読んでいけばほぼインターネットの動作が理解できるはずです』『ちなみに、TCP/IPは「ティーシーピー・アイピー」と読みます』って、おいおい、どこが“ハッカー”ジャパンだよ。もっとも、この記事自体は、下手な一般ビジネスマン向け雑誌なんかよりよっぽどわかりやすく要点をまとめていて、筆者自身はハッカーなんだろうけれども。おれはハッカーでもなんでもなく単なるヘヴィーユーザなので、けっこう楽しめる雑誌なのである。
 〈ハッカージャパン〉などという誌名を見ただけで、おどろおどろしい不道徳な雑誌なんだろうと早とちりしている人もいるかもしれないけど、べつにほんもののハッカー向け雑誌ってわけじゃなく(そもそも、ハッカーが不特定多数にほんとにヤバイところを教えてくれるものか)、一般向けに“ハッカーっぽい”文化の片鱗を紹介する娯楽雑誌であります。こないだダブルクリックができるようになったばかりなのに急にインターネット関連部署に配属されてしまったなどというお父さん方にも、役立つ部分が多いだろうとマジで思う。
 しかし、ひょっとすると「TCP/IPってなに?」ってハッカー(?)もいるのかもしれないなあ。ハッキングツールをブラックボックスとして使っているだけで、ちょっとした火遊びを楽しむ“技術力のないクラッカー”が実際増えているらしい。ある意味で、高度な技術を持つ少数の確信犯よりも、多数の無邪気な井の中の蛙のほうがよっぽどタチが悪い。そういうのにかぎって、捕まってから「こんな大ごとになるとは知りませんでした」なんて泣きべそをかけばすむと思っているだろうからだ。どう思ってやろうと悪事は悪事だけど、あまりにも行き当りばったりな悪事は、なんだか苛立つよね。
▼池袋で通り魔事件が発生。やけに馴染み深い場所で起こっただけに、テレビの中の映像に現実味がない。あそこいらへんは、仕事でも遊びでも何度も行っているのだ。やっぱり東京は怖いなあなどと呑気に構えている場合じゃないな。新京極だろうが阪急東通商店街だろうがかっぱ横丁だろうが、ああいうことは起こるときには起こるであろう。どう自衛したものか、途方に暮れる。通り魔は、二百メートルを駆け抜けるあいだに八人を殺傷したという。ひええ。もっとも、中国にはもっと長い距離を一夜にして駆ける千里魔(チョンリマ)という怖ろしいやつが――おらんおらん。ああ、また不謹慎なギャグをかましてしまった。
 それにしても、おれにとっては楽しい思い出が多い場所であのようなことが起こるとは、ほんとうに治安の悪い国になったのだなと実感したことであった。あんなやつに殺される無念はいかばかりであろうか。ふつふつと怒りが滾ってくると同時に、おれがいまのところあのような通り魔になっていないのは単なる幸運でしかないのかもしれぬと思うと、殺伐とした心持ちになる。自分が被害者になるのはたまらんとは誰もが思うだろうが、あの手の事件の加害者にならずにすんでいることにこそ、より陰鬱な安堵感を覚える。それがまた、いっそう不快だ。

【9月7日(火)】
〈通販生活〉秋の特大号(1999年10月)が送られてきた。「保存版 一冊まるごとエコロジー図書館」なる別冊が付いている。巻頭特集の「私を環境問題に目覚めさせたこの一冊」で著名人がいろいろな本を挙げているが、近藤正臣氏のお薦めが『何かが道をやってくる』(レイ・ブラッドベリ、大久保康雄訳、創元SF文庫)だってのは、いくらなんでもかっこよすぎる。いや、べつに茶化しているわけじゃなく、近藤氏は素直にこの本を選んでいるのだろうと思うのだが、やっぱりかっこよすぎる。かっこよすぎて癪に障る。でも、いいセンスだよな。
 この別冊をざっと眺めてみると、雑誌の性格もあってか、紹介されているのは細分化された個別の問題に関する本が多い。それが悪いというわけじゃないし、個別の問題に関する知識を持つことは、とりあえず環境問題に想いをめぐらすきっかけとして必要だろうとは思う。でも、「うわあ、えらいこっちゃえらいこっちゃ」と途方に暮れてしまう人も多いんじゃなかろうか。おれも途方に暮れた。いまでも暮れている。ことほどさように、おれたちのまわりは“えらいこっちゃ”だらけなのである。おれも一時手当たり次第に読んでたころがあったが、個別問題に関する本ばかり読んでいると、次第に危機感が鈍磨してくるのだ。ひょっとすると、発狂するやつすらいるかもしれない。一歩まちがうと、それこそ7月16日の日記で触れた『買ってはいけない』(「週刊金曜日」増刊、船瀬俊介ほか、金曜日)の世界への陥穽に落ちそうな気がする(この本については、谷田貝和男さんが便利な関連サイトリンク集を作ってらっしゃる)。このあたりは怖い。逆に環境ファシストとでも言うべきものになってしまいかねないと思うのだ。いままで本など読まなかった人、本を読む習慣のない人が、たまたま読むととくに怖いだろう。
 おれはべつにエコロジーの専門家でもなんでもないが、この問題を着かず離れず扱ってきたSFというジャンルの読書に一日の長があるロートルとして意見を述べれば、個別の問題で危機意識を持たせてくれるような本をある程度読んだら、ちょっと引いて考えたほうがいいと思う。おれたちはひょっとしたら滅びるべき文明を生きているのではあるまいか、まあ、滅びるんやったら滅びてもええんちゃうのん、そやけどやっぱりおれは生きたいし、子供らも生きたいやろな、困りましたな、考えなあきませんな……くらいに肩の力を抜いたほうが、危機感が長続きすると思う。わかりにくい言いかただけど、なんかそんな気しませんか? ほら、受験生がそうでしょう。志望校に入らなきゃ自分の人生終わるみたいなぎらぎらした精神状態が続くと、どこか妙なところに入り込みそうな感じがするじゃないすか。環境問題と受験を一緒にするなと言われそうだが、人間、その程度の動物だと思うよ。ぎらぎらした状態を続けられるほど強くはないのだ。逆に言うと、なにごとも末長く持続するには、ある種の諦観というか、“のほほん感”が必要である。結果的に、のほほんのほうが強い。
 で、おれも〈通販生活〉に倣ってお薦め本を挙げとこう。あえて一冊と言われたら、『資源物理学入門』(槌田敦、NHKブックス)かな。言われてみればあたりまえのことを、淡々と書いてあるだけの本であるが、それはなかなかできることではないだろう。はっきり言って、「それを言っちゃあ、おしまいだ」という感想すら抱く。だからいいのだ。一度おしまいだと思えば、気が楽でしょ。だが、滅びるのは癪だから、どうすりゃいいのだろう――ってのを考えるのは、各読者の仕事であろう。ちなみにおれは、問題解決策については、槌田敦氏に必ずしも同意しない。むしろ、反感を持つ面のほうが多い。解決策のオプションは、もっとたくさんあるはずだと信じる者だ。だが、彼の現状分析と根本的問題の指摘は、どこまでも正論だと思う。
 おれは、人類が地球に依存せずに生きてゆけるようになり、地球くらいの環境は自在に作り出せるようになったら、古い建物をぶっ壊すように地球をぶっ壊しても差し支えはないと思っているのだ。まあ、そんな日が来ても、記念碑的意味を込めて人類はこの星を残すだろうけどね。地球という親の脛を齧っているうちは、浅知恵で無茶をやってはいけないのはあたりまえだ――というのが、おれのエコロジー観である。

【9月6日(月)】
▼このところ、マンガについて語っているふたつの面白い文章が偶然にも立て続けに目に留まった。ひとつは、すがやみつるさんの「モバイルコラム ** No.010 ** マンガの自殺」だ。携帯電話やPDAで読んだ人も少なくないかもしれない。『「マンガが面白くない」という声が増えているのは、マンガが、消費され、消耗されることを恐れるようになったせいではなかろうかと思えるフシがある』と興味深い考察をしていらっしゃる。大衆文化としてのマンガが「あざとさ」「臆面のなさ」を欠いては、本来のパワーが失われるのではないかという懸念だ。
 いまひとつは、「京都精華大学マンガ学科準備室」の中にある「話の話」というコーナーでのマット・ソーン氏へのインタビュー記事である。喜多哲士さんの「ぼやき日記」(99年9月3日)に、おがわさとしさんの初連載・カラー・オンライン・マンガが読めると書いてあったので読みにゆき、そこにソーン氏の言葉も見つけたのだ。「今のマンガは見慣れた心地のいい記号でできあがっている。キャラクターが怒っているということを伝えたければ、おでこに血管マークをつけたら一番わかりやすい。他にやり方があったとしても探そうとしない。新しい記号を読み取るのは面倒くさいけど、読者の方も挑戦したほうがいいんじゃないかな」と、ソーン氏は心地よい定型に安住する姿勢に批判的だ。
 すがやさんが日本人実作者の立場で日本のマンガを案じているのに対し、文化人類学者のソーン氏は、外国人マンガ研究者・翻訳者(『風の谷のナウシカ』の英訳をなさったそうだ)としての立場から、やっぱり日本のマンガに発破をかけている。一見、対立することを言っているようにも読めるが、両者とも日本のマンガに一抹の危惧を覚えているところでは、認識を共有しているのだろうと思う。もし、会ってお話しになったら、意気投合なさるんじゃないかという気さえする。
 いや、おれはべつにマンガには詳しくないし、とくに最近のマンガに関しては無教養と言ってもよい門外漢である。ただ、お二人のご意見をこうして読み比べてみると、ひとつの表現ジャンルをそれぞれがお互いの反対側から見て描写しているだけで、そのじつ、立っているところはそれほど離れていないのではないかと思われ、それが面白かったのだ。当然おれは、お二人のマンガに関する意見を、SFやその他のジャンル・フィクションに引きつけて咀嚼してしまうのであった。なるほど、第一義的に大衆文化であるものが、その粗野な原始のパワーを失ってはいかんだろう。あたりまえだ。また、そうした「あざとさ」や「臆面のなさ」のみに胡坐をかいてもいかんだろう。これも、あたりまえだ。はたまた、“鑑賞者”のほうでもそれなりの修行を積まねば面白さの片鱗も垣間見ることができないような極端な伝統芸能まがいのものになってしまっても、これまたいかんだろう。結局、型を受け継ぎながら造る、型を守りながら壊すという不断の緊張の中にこそ、ひとつのジャンルというものの輪郭が、淀みの渦のように姿を現すのではないかとおれは思う。渦を構成している水は、一瞬前の水とはちがう水なのである。しかし、大きさや形を刻一刻と変えながらも、渦は渦であり続けるのである。そして、いつかは消えることになるにちがいない。文藝、藝能にかぎらず、文化の伝承とはそういうものだろう。
 そんなことを考えながら、『キリンヤガ』(マイク・レズニック、内田昌之訳、ハヤカワ文庫SF)を日本のSF情況に重ね合わせて、大胆に誤読してみるのも一興ではあるまいか。まあ、おれが思うに、なにごとに於いても「かくあるべし」といったスタティックな制御系は、きわめて短期的・近視眼的には効率がよくとも、ひとたび環境の激変に見舞われるや、あっけなく瓦解するだろう。また、昨日スタティックであったものが今日ダイナミックになっているやもしれず、今日ダイナミックであるものが明日はスタティックに成り下がる(おれの価値観ではね)こともあるだろう。そのさま自体が、じつにダイナミックで面白いと言えないこともない。わしゃ、禅坊主か。

【9月5日(日)】
▼そういえば、なにやら横文字のダイレクトメールが来ていたなと紙屑の山に乗っけてあった郵便物を見てみると、International Herald Tribune の勧誘だった。なになに、ニか月の無料購読サービスがついて一年間で八万四千六百円だとぉ。どこでおれの住所を調べてきたのか知らんが、年収まではご存じないようである。こうやって、大まかなところはウェブ上で読めるというのに、なにが哀しゅうて一日で古くなる紙の出版物をこんな値段で海外から取り寄せにゃならんのだ。わしゃ、ウィンダム(あるいは、レクサス)を駆って地球狭しと飛びまわる辣腕弁護士でも一流脳外科医でもないぞ。京阪電車に揺られて本を読むか居眠りするのがせいぜいの、納豆とハンバーガーを愛する小市民である。これでも正価の五十三パーセント引きだって? ひょえ〜。こういうDMは紙の無駄だから、どうせ個人情報を調べているんなら、電子メールで送ってこいよ。おれがいま紙の新聞を取っているのは、テレビ欄を見るのと、その上で爪を切るのと、焼肉や鉄板焼きをするときに卓袱台のまわりに敷くのと、ものを包むのとに必要だからである。ヘラルド・トリビューンの上でスイカを食うのは、一部あたりいくらしたかを考えると落ち着かんと思うぞ。まにあってます、まにあってます。え? 手拭いと洗剤くれるって? 要らんわい。

【9月4日(土)】
▼病院などで自分のペンネーム(や芸名ハンドル)を呼ばれるという事態があり得るだろうかと、ふと考える。発音が同じであれば、やっぱりギクっとするわけで、まさか蜻蛉の字の人はおるまいが、フユキレイという名前の人ならどこかにいそうである。田中哲弥さんとか森奈津子さんとかはそもそも本名だから、同じ読みの人はそんなに珍しくなさそうだ。歯医者や銀行の窓口などで、棚糧ツヤさん(79)や毛・リナ・都子さん(国籍不明)が呼ばれているところに遭遇する可能性も高かろう(高かねーよ)。サンプラザ中野氏やデーモン小暮氏にはそういう経験はまずないにちがいないが、大槻ケンヂ氏には、あるいはあるやもしれない。「ほかにはあり得ないと思っていた自分の商売上の名前を本名に持つ人に遭遇した」「そういう話を知っている」という方は、ぜひお聞かせください。確率のいたずらってやつは、いつ聞いても面白いのだ。
 もっとも、源氏名は、たとえ大声で呼ばれていても、そんなにぎょっとしないだろうな。姓がないからである。待てよ、姓のある源氏名をつけている人もいるんだろうか? “六本木マミ”とか“池袋アケミ”とか“西中島南方キャサリン”とか。たいてい名前だけだよね、やっぱり。一見のスナックに入ったら女性がやってきて左隣に座り、角を丸めた名刺を取り出すと[ 陽子 ]と書いてある。左隣に座ったコの名刺は[ 電子 ]で、前に座ったコは[ 中性子 ]で……みたいなところがあったら一度行ってみたいぞ。ちなみに、笹山量子さんのファーストネームは本名である。いかにもSFに縁がありそうな名前だ。
▼近所のスーパーで「新スーパー黒酢」タマノイ酢)を衝動買いする。500mlボトルのペプシコーラをまとめて三本籠に入れたあと(一本百円なのだ)、珍妙なスナック菓子は出ておらんかとスーパーをぶらついていたら黒酢が目に入り、三割引きだったので思わず買ってしまったのだ。あのウルトラ父娘が宣伝してる“黒酢のジュース”ではなく、いかにも黒酢黒酢した黒酢のほうである。
 先日、晩飯に出たもずくの酢をずるずると飲み干していると、母が「うがぁ〜〜」とかなんとか、意味不明の音を発した。小鉢の隅から見ると、化けものを見るような目つきでこちらを見ている。おれが酢の物の酢を飲むのがそんなに珍しいか。べつにいまにはじまったことではなく、おれの子供のころからしょっちゅう見ておろうが。その都度、痛そうな声を発するのは、いい加減にやめてもらいたいものである。「よう、そんなもん飲むなぁ」と母。「おいしいやないか。ときどき、酢だけコップに入れて飲んだろうかと思うくらいや」夏場などマジにそう思う。「……ほんなら、黒酢を飲んだらええやないか。このごろ、よう安売りしてるで」「ほう、さよか」
 ……といったやりとりを思い出し、安売りの黒酢を見ているとむらむらと飲みたくなってきたので、ほんとうに買ってしまったというわけなのだ。晩飯のあとに、試しに飲んでみた。どのくらい飲むものなのであろうかと能書きを読むと、一日に大さじ一杯くらいが目安とある。なんだ、それっぽっちか。べつに薬じゃないのだから、少々多めに飲もうが死にはすまいと思うのだが、まずは味見ということで量を守ることにする。大さじ一杯の黒酢をOCHIKA/LUNAさんにもらったカエル柄のショット・グラスに移し、無法者が屯する西部の酒場に風のように現れたさすらいのガンマンにでもなったつもりで、テーブルの上に置く。テーブルというのがちょっと興醒めで、ここはやはり木のカウンターでなくてはならないのではないか。これがほんとの黒酢カウンター、などとバカなことをついつい思いついてしまう脳を無視し、ひと息でぐびっと呷ってみた。いけるじゃん! いささか酸っぱすぎるような気もするが(あたりまえだ)、ちょうど生(き)のウィスキーを呷ったときのような焼けるような心地よさが食道をじわーっと走り、胃の腑に落ちてゆくのがはっきりとわかる。うむ、味は悪くない。酢が嫌いな人にはお薦めできないが、酢を飲むのを好きな人にはお薦めできる(あたりまえだ)。ふつうは、料理に使ったり、飲むにしても水やほかの飲料で薄めて飲んだり蜂蜜を混ぜたりするらしいのだが、そんなもったいないことをする気にはなれないほどうまい。おれはウィスキーの水割りがあまり好きではない。食道を熱い液体が落ちてゆく、あの触覚が好きなのである。いや、ほんとに、酢であることさえ度外視すれば、ウィスキーを飲んでいる感覚とさほど変わらないではないか。これはハマりそうだ。
 しかし、せっかくジュースのほうのCMにあの父娘を使ってるんだから、“スーパー黒酢”などという無粋な名前ではなく、“ウルトラ黒酢”にするべきだと思うのだがどうか、タマノイ酢さん。
『ウルトラマンガイア』が終わってしまったので、なんとなく寂しい。後番組は一応録画したけれども、まだなんとなく観る気がしない。そこで、“ガイア突っ込みアワー”の最後っ屁をかます。あの変身アイテムのエスプレンダーだが、どうも途中でひとまわり小さくなったような気がしませんか? べつに全話録画してきちっと見比べたわけではない。でも、なーんとなくそんな気がしてしかたがないのだ。「じつは私もそんな気がしていた」「小さくなっているという確証を掴んだ」という方がいらしたら、ぜひ教えてください。もちろん、な〜んの景品も出ません。地下鉄をどこから入れたか気になるってネタみたいなもんですな。

【9月3日(金)】
▼体調最悪。こういうときは栄養をつけねばなるまいと、半額サービスが終わる8月31日に駆け込みで十個買ってきて冷凍しておいたマクドナルドのハンバーガーを二個貪り食う。一年中半額サービスをやっているとして(それはふつう「定価が半額になった」と言わんか?)、朝飯に三個、昼飯に三個、晩飯に四個ハンバーガーを食えば、一日の食費は六百五十円ですむ。一年で二十三万七千二百五十円。おお。これは安いぞ。たくさん本が買える、CDが買える。半額サービス期間中に、三千六百五十個のハンバーガーをまとめ買いしておく手もあるな。そこそこの納豆(百円くらいにしとこう)を一日にニパック食うとして、一年で七万三千円。合わせて、三十一万二百五十円か。少なくとも、これくらいあれば一年食えるわけである。まあ、あまり贅沢をしなければ、さほど不自由のない食生活と言えよう。問題は、納豆はその都度買うとしても、三千六百五十個のハンバーガーを冷凍保存する設備維持費がどのくらいかかるかだ。でかい冷蔵庫を何個も買わねばなるまい。電気代もかさむ。かえって損をするような気もするな。納豆は毎日食えているが、ハンバーガーは一日ニ個は食える暮らしがしたいなあ。まあ、夢が叶ってしまうと生きてゆく楽しみというものがなくなるので、いつの日かそういう贅沢ができる日が来ることを信じて、こせこせ頑張ろう。
 いつも切実に思うのだが、アメリカ合衆国なる国が人類の歴史に登場した意味の半分くらいは、ハンバーガーとコーラを発明したことに見い出せるにちがいない。それ以外にアメリカがなにかたいしたことをしたであろうか?
▼いまの子には椎茸嫌いが多いらしいという情報を8月27日の日記でご紹介したところ、椎茸嫌いに関する考察が二件寄せられた。繁村さんがおっしゃるには、『私の調査によれば,「鼻がよい」と自称する人間はほぼ椎茸嫌いといってよいかと思います。(偏見)/この場合,対象となるのは特に"干し"椎茸であることが多く,"生"椎茸ならOKというケースもあるようです。/長じたからと言って矯正される見込みもないようで,/餃子はあかん。/十六茶には椎茸の成分が含まれているので二度と買わん。/といった証言も得ることが出来ました』ということなのである。また、ケダちゃんは、子供時代に「ニンジンは大丈夫でしたが、椎茸はものすごく嫌いでした」と体験談を語ってくださった。「たぶん、味よりも、口の中に入れて噛んだときに咽頭から鼻腔に逆流(?)してくるにおいがだめだったんだろうと思います。キノコご飯とか、ごぼうと椎茸と蛋白質1品(笑)炊き込みご飯などをしたとき、炊飯器から立ち上る湯気の香りには、今もちょっと抵抗があります。あのにおいが美味しいと言われても、理屈ではなく生理的な問題なので、どうしようもありません、はい」
 いずれの報告にも共通しているのは、椎茸の匂いが嫌いだという点だ。うーむ、おれは鼻がよくないせいか、椎茸の匂いなどまったく気にしたことがなかった。たしかに独特の匂いがあるのはおれにもわかるが、嫌悪感を催すほどのものだとはまったく思えない。人の好みというのは不思議なものである。椎茸の匂いをとくに強く感じる遺伝的形質を持ったグループが存在するのかもしれないな。
 うんと想像を逞しくして、アホなことを考えてみよう。むかしむかし、人類の祖先が大型肉食動物にしょっちゅう襲われていたころ、なぜか椎茸の匂いを好む肉食動物シイタケタイガーかなにかがいて、椎茸の匂いに鈍感な人は生き残れなかった地域があった――とか。あるいは、化石こそ残っていないが、特定の地域に人を食う椎茸がいたのかもしれん。椎茸が嫌いな人は、みなそこに住んでいた人々の子孫なのだ。傘をふり立てて夜な夜な襲ってくる椎茸に脅え、人々は苦難の日々を過ごしていた。これが“しいたけられる”の語源である。だが、人類の叡知は負けてはいない。統制された集団行動を編み出した人類は、やがて人食い椎茸に反撃、椎茸たちはさんざんな目に合って敗退した。このとき人類が挙げた勝ち鬨が“まいたけ”の語源である。なに? 今日の日記はいつもに輪をかけてひどい? どこが日記じゃて? そんなもん、“わらいだけ”取ろうとしてるに決まってまんがな。

【9月2日(木)】
低用量ピル発売。おれとしては当然唄わなければなるまい。「ピルの街にガオー」って、古すぎてわからんてか? たしかに。「どこにいるのか、ピ〜ル〜」 なに、これも古いか。「糞虫、おまえはなんだ?」「はい、糞にございます。ピルルルルルルル……」 なに、これもわからんとな。ああ、おれはもうだめだ。古い人間なんだあ!
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『カニスの血を嗣ぐ』
(浅暮三文、講談社ノベルス)

 出たばかりの本というわけではないのだが、ご恵贈くださった方が最近おれの住所をお知りになったとのことなのである。くどいようだが、この《ご恵贈御礼》コーナーは“プレスリリース”のつもりでやっているので、送ってくださった個人・団体の名前はあくまで出さないのだ。謝意のみを、公の場で表する。最近、この日記の読者が微増して、平日にはこの最新日記ファイルが、ログ上で一千ページヴューを常時超えるようになった。カウンタだと五百から六百くらいだ。新しい読者に《ご恵贈御礼》コーナーの主旨を都度説明するのは億劫だから、今回から《ご恵贈御礼》コーナーをはじめた日の日記に書き出しの《ご恵贈御礼》からリンクを張ることにした。
 さて、そりゃまあ、おれだって腰巻というのは宣伝コピーだとはわかっている。しかし、「こんな小説はこれまで誰も読んだことがない」「真に奇蹟的」とまで山田正紀に言われると、これはただごとではあるまいと思う。どうやら“匂い”の話であるらしい。黒い犬の顔が表紙だ。腰巻の折り返しにまで黒い犬の顔が載っている。「のらくろオリジナルグッズ」が当たるという講談社のキャンペーン告知だ。これは関係ないか。
 “犬”と“匂い”か。わくわく。この黒犬が「警告あります」と吠えてまわるのであろうか。どうもそういう話ではなさそうだ。アオリを読むとミステリのようでも幻想小説のようでもあり、おれのところへ来るということは、SF的要素あるいはスリップストリーム的風味もなきにしもあらずなのかもしれない。読むのが楽しみだ。

【9月1日(水)】
▼ほんとうは7月30日にオープンする予定だった e-sekai から今度こそ正式オープンしたとメールが来たので、どんなふうにリンクしてくれたのか確かめに行った。「厳選ホームページ これぞ定番!」の中にある「読む前に読むか?読んでから読むか?活字中毒者の書評サイト・掲示板」というサブカテゴリー・ページで紹介されていた。紹介されているのはたいへんありがたいのだが、なんとそこには全部で九つしかサイト紹介がないのであった。なにやら、たーいへん申しわけない気がする。ほかのサイトは正真正銘“書評サイト”なのに、ここはといえば、たまに思い出したように書評じみたものが載るだけで、完全に日記がメインのサイトと化しているからである。e-sekai からいらして新刊の書評をわんさか期待なさっている方、ご覧のとおり、なにがしたいのかよくわからないサイトでございます。落胆なさったらごめんなさい。でもまあ、プレスリリースのつもりの《ご恵贈御礼》をはじめ、日記で本を肴にすることも多いので、なにがしかの参考にはなるやもしれませぬ。読むところだけはたくさんありますゆえ、暇潰しになれば幸いに存じまする。
▼で、いつもの調子に戻ろう。8月27日に書いた“漉し餡ルーレット”であるが、ケダちゃん(“さん”は要らないそうである)が「正確なところは確認できていないのですが、嘉門達夫のCDに入っていたと思います」と指摘してくださった。そうそう、そういえば、嘉門達夫もやってたよね。たしかにテレビで観たことがある。どのアルバムに入っているのかは、おれも知らない。だが、嘉門達夫のは、『週刊テレビ広辞苑』『パタリロ!』よりも、かなりあとではなかったかと思う。捜せばまだまだ出てきそうだ。このネタは、もはや古典になったと言ってもいいだろう。
▼さて、ザリガニである。どうやら、おれは長年とんでもない思いちがいをし続けてきていたらしい。すなわち、実物のニホンザリガニを見たことがあるという思いちがいだ。8月26日の日記で、「子供のころにたまに見た」と書いたところが、しつちょうさんがまちがいを指摘してくださった。ニホンザリガニは、そもそもが北海道と東北三県にしかおらず、まだほとんど赤くないアメリカザリガニの幼体を、多くの人がニホンザリガニだと思い込んでいるとのことなのである。『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送)でも紹介された事実だという。無念、おれはその回を観ていないのだ。
 だとすると、おれがニホンザリガニを見ているはずはない。北海道はおろか、東北三県にも行ったことがないからだ。しつちょうさんが教えてくださった「北海道教育大学大雪山自然教育研究施設」サイトにある「ニホンザリガニとアメリカザリガニ」というページに、なるほど、詳しいことが書いてある。なんとねー。おれが子供のころ捕まえていたやつは、アメリカザリガニの子だったとは……。《少年探偵団シリーズ》を書いたのはエドガー・アラン・ポーだと思い込んでいたようなものである。なんかちがうような気もするが、とにかくそんなようなものである。驚き呆れたおれの脳裡に、たちまち「みにくいニホンザリガニの子」なる童話のプロットができあがった。書けば「おひさま大賞」まちがいなしの感動的な傑作であるが、おれくらいの才能の持ち主ともなるとその程度のものはいつでも書けるので、なにもいま書くことはない(と、一生ぼやき続けながら朽ち果ててゆく作家志望者は星の数ほどいるらしい。おれはそういうのを密かに“作家死亡者”と呼んでいる)。
 こんなまちがいを信じ続けてきたくらいだから、ひょっとするとおれがザリガニだと思い込んでいるものはじつはヤドカリかもしれんイセエビかもしれんドウケツエビかもしれんコガタアリガタハネカクシかもしれんリュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシかもしれんと不安になり、念のため、ザリガニ関係のサイトを調べてみた。するとまあ、カエルが好きな人がいるように、ザリガニが好きな人もいるもんなんだねえ。佐倉ザリガニ研究所という素敵なサイトが見つかった。そこにある「ザリガニいろいろウソ?ホント?」に、おれの知りたいことがもろに書いてあった。「田んぼでアメリカザリガニとニホンザリガニを捕まえた」というのは、「非常に多く耳にする話ですが、まず100%ありえません」とのことである。
 それにしても、ザリガニというのも、けっこう鑑賞に堪える美しい生きものなんですなあ。“ヤビー”という種類の青い個体なんてのはすごい。カエルにもコバルトヤドクガエルという青い宝石みたいなやつがいるが(鳥羽水族館ギャラリーにきれいな写真がある)、なかなかどうしてザリガニも負けてはいない。
 いやあ、勉強になりました。しつちょうさん、ありがとうございます。


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冬樹 蛉にメールを出す