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99年9月中旬 |
【9月19日(日)】
▼またしても、携帯通信機の話である。母にPHSを持たせた話を先日書いたが、母が持つんならと、妹もPHSを持ちはじめた。妹も以前からDDIポケットの〈安心だフォン〉に目をつけていたそうなのだ。結局、母に合わせてアステルの〈きめトーク〉にしたのである。妹も母の悪いところが似て機械にはてんで弱い。〈きめトーク〉専用端末はいまのところアステル関西には一種類しかないから、必然的に母のと同じ機種になる。まあ、機械に弱い者同士、まったく同じものならいろいろと都合がよかろう。どのみち三箇所にしか発信できないのだ。端末が本来持っている機能の一割も使わなくてすむだろう。こうやって身内の加入者が連鎖的に増えてゆくんだろうな。基本料が安くても、けっこうおいしい商売なのかもしれない。
▼体調がすぐれないので小説を読む集中力が続かず、ふと息抜きに『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』(高橋昌一郎、講談社現代新書)に手を出したところがやたら面白く一気読みしてしまう。忙しいのに、なにをやってるんだろうね、まったく。なんちゅうか、一般向けの解説書ばかり読みたくなる偉人ってのがあって(専門書が理解できないからなんだが)、クルト・ゲーデルは、アインシュタインとハイゼンベルクに並ぶ三巨頭であろう。
こういう本の厄介な点は、難解と言われている専門的な理論を著者がどのような創意工夫を以て一般読者に伝え得ているか、あるいは伝え損ねているかが、当の一般読者には判断できないところだ。それでも、一般向け解説書をあれこれ読むうちなんとなくわかってくる経験則みたいなものがある。同じテーマの一般向け解説書のあいだに、記述やニュアンスの齟齬が見つかったり、感じられたりしてくるからだ。「あ、同じことを説明しているにしても、こっちのほうがエレガントだ」みたいな感触は、比較によって一般読者でも得られるのである。経験的に、わかりやすすぎるものとドラマチックすぎるものは、話半分に読んでおいたほうがよさそうだ。その偉人が手ずから一般向けに書いたものがあれば、わかろうがわかるまいが読んでみるべきだろう。少なくとも、難しいということだけはわかるのである(おいおい)。たとえば、『光と物質の不思議な理論――私の量子電磁力学』(R.P.ファインマン、釜江常好・大貫昌子訳、岩波書店)なんて一般向けの本があって、リョウシデンジリキガクなるものを数式を一切使わず説明しようとしているわけだが、そんなもの、素人目にも暴挙であることは察しがつく。しかし、量子電磁力学をよく理解している人が(創始者だってば)、一所懸命わかりやすく(おれには十分わかりにくい)書こうとしている伝えたいことの中核らしき概念は、たしかに伝わってくるのである。ファインマンやホーキングみたいな外向的でノリの明るい超一流学者ばかりだと一般読者も嬉しいのであるが、ゲーデルがもし生きていたとしても、まず一般向け解説書など書いてくれそうにない。とか言ってると、ゲーデルの遺稿から『サルでもわかる不完全性定理』が発見されたりして。されねーよ。
で、この『ゲーデルの哲学』だけども、オレ的感触ではどうやら“アタリ”らしい。理論そのものを過度に単純化してわかった気にさせるくらいであれば、いっそ雰囲気だけをうまく伝えるほうがましであるというスタンスが明確だ。「そういう説明のしかたは誤解を招くでしょう」といった専門的に厳密な評価はおれにはできないが、そこいらを度外視するとしても、知らなかった伝記的事実が仕入れられたので、おれにとっては儲けものであった。
クラーク、アシモフ、ラッカー(は当然だわな)の話が出てくるのも、SFファンとしては嬉しい。ミーハー読みである。余談だが、“嘘つきのパラドックス”に絡めた「自己言及と自意識」という項を読んでいて、大爆笑してしまった。『間違ったことを信じる正直者は、「間違っている人」で納得することにしよう。それでは、間違ったことを信じる嘘つきは、どうなるのだろうか』って、うーむ、そういうややこしい人は遠慮したいよな。
【9月18日(土)】
▼このところ携帯電話の話が多いような気がするが、PDA(おれの場合はポケコンね)の次くらいによく手にする機械になってしまったのだからしかたがない。このふたつがまだ別の機械であるという中途半端な時代はじきに過ぎ去るにちがいないにしても(合体したやつも出てはいるけど、融合したとは言い難いよね)、中途半端だからこそ、カンブリア紀のように、いろいろとワイルドなマシンやサービスが現われるのが面白いのである。
といっても、今日はそういう大袈裟なメディア論を展開するわけではない。手の中の携帯電話をじっと見ていて、前からなんとなく気になっていたことにふと改めて思い当たった。どうしておれはいつもこんなにややこしい機械を、利き手でない左手で操作しているのであろうか、と。
デスクトップ電話の場合、ダイヤルを回したり(!)ボタンを押したり、あるいはメモを取ったりするのを利き手の右手で行うのに慣れているため、必然的に受話器を左手で持つことになる。電話器の構造からして、そういうふうに使われることを期待したものになっているし、会社などでも受話器を左手で持つよう新入社員やアルバイトに教育しているはずだ。どうやら、長年培われたこの習慣が、携帯電話にも暗黙の前提として受け継がれているように思われる。おれ自身も、携帯電話は左手で持ち、左手で操作しないと気色が悪い。というか、左手だけで操作しないと気色が悪い。そういう人間のためを思ってか、インタフェースの基本思想が左手用に特化した機種も少なくない。たとえば、ソニーご自慢のジョグダイヤルを搭載した機種などは(おれのもそうだが)、右手でははなはだ操作しにくい。ジョグダイヤルは極端だが、最も頻繁に用いるメニュー操作用のポインティングデバイスを左側に寄せている機種はけっこうある。当然、左手の親指で主な操作を行わせようとしているわけだ。
面白いことに、人が携帯電話で話しているところを見ていると、右手派もけっして少なくはないのである。ことに大学生以下の若い子に多いような気がする。彼らは、ビジネスでデスクトップ電話を使った経験をほとんど持たず、受話器は左手で持つものという先入観や慣れがないために、利き手で持って操作するのを自然に感じるからではないだろうか。それを意識してか、とくに細かい操作を必要とするメール関連のボタンやポインティングデバイスを、電話器の正中線付近に配置した機種もなかなか人気のようだ。これなら、どちらの手で操作しても、少なくとも不便ではないからだろう。当たり障りがない。左手だけ・右手だけで操作したいという人も広く取り込むことができる。だが、いったん左手で操作すると決めてしまうと、左手特化型のほうが断然便利だと思う。おれは特化型が好きである。左手特化型の機種は、左手だけで使いたい人を強く誘引することができるが、右手だけで使いたい人には不便そうに見えてしまうだろう。一方、両手用(?)の機種は、必然的に似たり寄ったりの外見にならざるを得ず、不便ではないがたいへん便利でもない“生ぬるい”感じがする。しかし、特化型で勝負するメーカが、ニッチを埋めてユーザを増やすため右手専用の機種を出そうとすれば、それだけコストがかかってしまうだろう。単純に裏返すというわけにはいかないのだ。また、メール中心か音声通話中心かの製品コンセプトによっても、インタフェースの思想は大きく変わってくるはずだ。目下のところ、どちらの手で使う人にとっても不便でないタイプがいいか、左手で使う人にとって便利なタイプがいいかについては、メーカだって思想的に揺れているのではなかろうか。どちらにも一長一短があるのだ。
似たような形の機器はないかと部屋を見渡してみると、ビデオとエアコンのリモコンが目に留まった。うちのビデオ(三洋電機)のリモコンは、どう見ても右手で操作することを前提にしている。エアコン(松下電器産業)のほうはというと、基本操作は右手でしたほうが勝手がいいが、複雑な設定は左手(あるいは両手)を使ったほうがやりやすい。ちょっとヘンな設計だ。もう十二分に練れているはずの家電ですら、メーカによって得手不得手があり、細かい心配りがあり、首を傾げる“タコ”なところがある。発展途上の携帯電話など、なおさらのことだろう。これからどんなふうに度胆を抜いてくれるものが現われるのか、たいへん楽しみである。
こうやって、身近にあるいろいろな機械のユーザインタフェースを“読む”のは、読書に匹敵する面白さがある。ここいらへんのことは、「迷子から二番目の真実[20]〜 機械 〜」にむかし書いたことがあるので、ご用とお急ぎでない方はご笑覧ください。おれが神林長平ファンである理由の一端がよくわかるにちがいない。というか、これは神林長平論としても読めるはずなのだ。
【9月17日(金)】
▼人騒がせな“郷ひろみゲリラライヴ”の関係者が書類送検されたとな。それくらいは折り込み済みでああいうことやったとしか思えん。阿呆じゃないのだから、肉を切らせて骨を断つ覚悟で、捨て身のプロモーションに出たってところなんじゃないかなあ。それとも、やっぱり阿呆だったのだろうか。
ところで、郷ひろみのあの新曲、『スーパージョッキー』の熱湯コマーシャルで使ってなかったっけか?
▼《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。
一九九○年から八年にわたって〈SFマガジン〉に掲載されてきた殿谷アーバン・ファンタジー八篇が、ひとまず単行本にまとまった。“ひとまず”というのは、同じトーンの作品は、いまも不定期に〈SFマガジン〉に掲載され続けているからである。〈SFオンライン〉におれが書いている「S-Fマガジンを読もう」で、本書所収の「リユニオン」「空ガ墜チテクル」の紹介・寸評を行なったことがあるから、それでわざわざおれみたいな木っ端レヴュアーの住所を調べてご手配くださったのだろう。ありがたいことである。
なにしろ、本書でいちばん古い作品は九年前のものになるわけで、タイトルを眺めても話が思い出せない作品がいくつかある。改めてまとめて読めるのは嬉しい。どなたが言い出したのか知らないが“アーバン・ファンタジー”ってのは、こうした殿谷作品群を指すのにとてもしっくり来る言葉だと思う。なんじゃ、それはって? ううむ、腰巻の文句以上にうまく説明できる自信がないので、そのまま引かせてもらおう。「都会の生活に疲れた心が遭遇する時空の揺らぎ、その狭間から生きものの遠い記憶を孕んだもうひとつの生が立ち上がる――」とまあ、こういう基調音が流れる短篇群である。抒情のカケラもないおれ流の言いまわしだと“喪黒服造の出てこない『笑ゥせぇるすまん』”なんてことになる。ほんとに抒情のカケラもないやつだな。
殿谷みな子は寡作だが、一篇一篇の完成度が高く、〈SFマガジン〉に新作が載るのが楽しみなのである。一度に読むのはもったいない気もして、己の生理に逆らわぬよう、疲れたときに一篇ずつ読むのが贅沢な読みかたなのかもしれない。そうだなあ、やまだ紫とかが好きな人は波長が合うんじゃなかろうか。お試しあれ。
【9月16日(木)】
▼いま愛川欣也が唐突に本を出すとするとタイトルを『わたしのケロンパ』にすれば売れるのではあるまいか売れませんかそうですか、田中哲弥風。
で、『わたしのグランパ』(筒井康隆、文藝春秋)なのだが、いやこれはじつにまた清々しくていい。あまりの清々しさに騙されているような気がして、しばし呆然と思考回路をフルオート・モードに切り替えぽかんと口を開ける。ははあ、これはもしかすると『敵』(筒井康隆、新潮社)を裏返しに発想してみたら、副産物としてジュヴナイルが一本書けてしまったのかもしれぬな。半分本気で言っているのだ。あるいは、「アルファルファ作戦」の続篇として読むのもいいかもしれない。
こういうのを書いてくれるとありがたい。姪どもがもう少し大きくなったら、買い与えてやろう。「おもしろかった」と言ったら、次に『時をかける少女』を買ってやる。「感動した」とかほざいたら、次は『家族八景』と『農協月へ行く』だ。「お母さん(ってのはおれの妹だが)には内緒だよ」という魔法の言葉を囁くのを忘れてはいけない。あとは放っておいても『パプリカ』くらいまでは行くだろう。行かんかなあ。
【9月15日(水)】
▼おれももうニか月ちょっとで三十七だが、仮にあと三十七年生きなければならないとすると、かなりぞっとするものがある。年寄りはどんどん増えてくるのに、年寄りにとってはどんどん生きにくい世の中になってくるのは目に見えているわけで、すでにしてあちこちガタが来ているおれがまちがってもあと三十七年生きるようなことはなさそうであるにしても、万一そんなに生きてしまったらえらいことである。してみると、どんなに役立たずの小憎らしいだけの年寄りでも、ただ生き延びてきているというだけでも、じつに尊敬に値する存在だと思う。少なくとも、生き延びることにかけては、現に生き残っている年寄りはノウハウの塊である。もっとも、ただ生き延びることが尊いかどうかは個々人の美意識の問題だ。しかし、自殺は美しくない。難しいなあ。ま、考えてるうちにも、刻一刻と生きちゃってるわけだけどね。
▼12日の日記で紹介した〈ラジオカロスサッポロ〉のシュールストレミング開缶実況生中継を聴く。いやあ、パーソナリティーがなかなかしたたかで、引っ張る引っ張る、なかなか缶を開けてくれない。まあ、面白いからいいんだけどさ。二十二時からの番組で、二十三時すぎにようやく開缶。さすがにインターネットラジオでは匂いは聞こえてこないが、あのときの臭気を思い出し、さぞや現場はすごいことになっているのだろうとにやにやする。野尻抱介さんのサイトの掲示板では、インターネットラジオを聴きながらの、いわゆる“ボードチャット”がはじまった(ここいらへんから)。さらに臨場感を増すことには、野尻掲示板の常連、安井史さんがラジオカロスサッポロの近所にお住いだということで、局まで見物にいらしたのであった。おまけに、インターネットで知ってやってきた人として番組に出演までなさり、おれは掲示板で発言を読んだことしかない安井さんの声をこんな形で耳にすることになった。なんだかとても不思議な気がする。
それにしても、札幌のコミュニティ局の放送がこうして有線で聴けるとは、すごい時代になったもんだ。むかーし、おれが中学生になったばかりだったろうか、京都駅前の近鉄百貨店が“丸物”(まるぶつ)だったころ、まだ原爆頭をしていた若い若い笑福亭鶴瓶がやっていたラジオ番組(当時の近畿放送ラジオ「わいわいカーニバル」である)の公開録音に出かけてゆき、生で観たトークショーが後日ラジオで放送されるのを不思議な感慨と共に聴いていたのが嘘のようだ。懐かしいでしょ、岡田靖史さん、喜多哲士さん、菅浩江さん。「わいわいカーニバル」のあとは、当然、「日本列島ズバリリクエスト」に雪崩れ込むのが京都の中学生の正しい深夜放送の聴きかたであった(と思う)。月曜担当はエッチネタが面白い尾崎千秋である。わはは、きわめて一部の人にしかわからん二十五年くらいむかしのネタで申しわけない。いやあ、あのころは一日中ラジオ聴いてたなあ。It's yesterday once more...♪ しゅびどぅわっわー♪
インターネット料金の定額制なんぞがはじまると、いまの中高生はネットで深夜放送を聴くのがあたりまえなんてことになりそうだ。ラジオってのは、マクルーハン的にはいわゆるホットなメディアだから、ネットと親和性が高いような気がするんだよね。
【9月14日(火)】
▼先日アメリカの下院が、NASAの来年度予算を今年度予算の九割(百二十六億ドル)に削減する歳出法案を可決していたが、『600万ドルの男』や『地上最強の美女 バイオニック・ジェミー』を輩出したO.S.I( Office of Scientific Intelligence )も予算削減には勝てず、四年前に解体されてしまっていたそうだ。大部分の機能は農務省に引き継がれているが、バイオニック・パーツの不良在庫を抱えて困っているらしく、いつのまにかネット通販で在庫一掃セールをはじめていた。なんともせち辛いことだ。たとえば、バイオニック・レッグは、二本セットで定価三百五十万ドルのところを、一本あたり千六百九十九ドル九十五セントの特価でバラ売りもしてくれるらしい。amazon.com ほど洗練されたインタフェースではないが、なかなか良心的な通販サイトなので、一見の価値はあるだろう。売価に十パーセント上乗せすると、わずらわしい“バイオニック効果音”の機能は取り外してくれるそうである。サイファイやなあ。
▼新幹線に乗るたびに思うのだが、あの車内電光掲示板に出てくる広告は、どうして日東電工と大同特殊鋼と住友ベークライトばかりなのだろう。そりゃまあ、ほかの会社の広告もあるのにはちがいなかろうけど、この三社のを目にする頻度が異様に高いのであった。こうやって覚えてしまうくらいだから、広告効果はあるんだろうなあ。
【9月13日(月)】
▼あっちゃこっちゃで話題になっている「りゅうりゅうの精神年齢鑑定」をやってみる。まあ、予想どおりと申しましょうか、こんなん出ましたけど〜(これがそもそも古いよな)。
「鑑定結果 あなたの精神年齢は61歳です
あなたの精神年齢は『初老』です。たくさん苦労してきたあなたは、周りの人々から尊敬の眼差しで見られていることでしょう。ただ、たまに『ジジイくさい』と思われているかもしれません…
実際の年齢との差25歳
あなたは実際の年齢よりかなり大人です。周りの人からもよいお父(母)さん役として親しまれていることでしょう。ただ、同年代の人とはしばしば話があわなくなったりしてしまうでしょう。
幼稚度26%
あなたは中学生並みの幼稚さを持っています。時々親の手助けが必要になったりします。
大人度89%
あなたはかなりの大人です。物事を冷静に受け止めていく様は、とてもかっこいいと思います。
ご老人度66%
あなたは70歳のご老人なみにおじいちゃん(おばあちゃん)っぽさがあります。こうなったからにはのんびり人生を楽しみましょう」
「こうなったからにはのんびり人生を楽しみましょう」って、ずっとそうしてきているのだが……。「たくさん苦労してきたあなた」ってのもよくわからない。おれの定義では、苦労というのは自分の責任外で理不尽に降りかかってくるものなのであって、なにかを得るために自分の意志で努力をしたなどというのは、苦労じゃなくて単なる極道である。そもそも努力をすることが可能な環境が与えられる、得られるということは、めちゃくちゃにしあわせなことなのだ。ほんとうに苦労している人は、努力する道すら自分の責任外の要因で封じられているものである。「物事を冷静に受け止めていく様は、とてもかっこいいと思います」ってのも、これ自体がずいぶんとジジイくさい意見であろう。冷静なのがかっこよかったのはむかしの話だ。現代では、往々にして、感情的にぎゃーぎゃー騒いでは素っ裸で走りまわったほうが、なにやら真剣な態度であるかのように見えるし、結果的に得をすることが多い。みなそれがわかっているので、純プラグマティックな観点から冷静に感情を剥き出しにするといった方便がしばしば採用されている。それは実際にきわめて有効なのだ。だが、そうわかっていてそのようにするのは、おれの美意識に照らせばあまり美しくない。なに? 他愛のない遊びにそうやって解説をつけるところがいかにもジジイくさいとな? ごもっとも。
▼biosphere records から葉書が来ている。zabadak の四枚めのベスト・アルバム『STORIES・ZABADAK』が9月15日にポリスターからリリースされるとのお知らせ。ポリスターから出た五枚のアルバムからのセレクションを中心にしたものだそうだが、おれはポリスター時代のザバダックには熱心でない。いくら“のれんわけ”しようが、おれの中でザバダックは吉良知彦・上野洋子の時代で止まっている。要するに、ザバダックに置いて行かれているわけで進歩のないやつだけども、好き嫌いの問題だからいたしかたないのである。ザバダック(というべきか、吉良知彦というべきか)は、今年から活動の場をまたバイオスフィア・レコードに移した。今後どういうふうに転がってゆくか、やっぱり気になるユニットではある。今回のベスト・アルバムには、未発表曲「蒼い空に」が新居昭乃のヴォーカルで入っているそうだから、声フェチ的には買っちゃいそうだなあ。
【9月12日(日)】
▼以前におれの日記を紹介してくれた札幌のコミュニティ放送局〈ラジオカロスサッポロ〉(78.1MHz)で、怖ろしい計画が進行している。というか、すでに怖ろしい計画の実行日も予定されている。関係者の三瀬敬治さんから公開許可が出たので、あえて書く。あまりの怖ろしさにキーボードを打つ手も顫える。
同局の「後藤真理人のずびずばDON!」(毎週水曜日・22時 〜 24時)なる番組で、シュールストレミングの開缶記念実況生中継をやるというのである。そう、あの世界一臭い食いもの、スウェーデン名物の醗酵鰊の缶詰、あの怖ろしいシュールストレミング、あのすさまじいシュールストレミングである。
まさかスタジオ内で缶を開けるなどという命知らずなことをするのではありますまいなと三瀬さんに確認したところ、さすがに屋外でやるとのこと。ラジオカロスサッポロのあるビルには“空中庭園”のようなところがあり、そこで開缶するそうである。ということは、屋外とはいえ、わざわざ高いところで激臭を撒き散らすわけで、半径五百メートルくらいは危険であろうと思われる。気流の具合によっては、一キロも二キロもはたまた十数キロも離れたところに“ホットスポット”が出現するかもしれず、札幌市内にお住いの方は要注意だ。
例によって、実況生中継はインターネットラジオでもストリーミング音声で放送されるから、理論的には、インターネットの使えるところ世界中のどこからでも聴ける。シュールストリーミングだ。
この阿鼻叫喚の宴(にならいでか)を聴いてやろうという方は、Microsoft Media Player(Window版・Macintosh版)を予めインストールのうえ、9月15日の22時、〈ラジオカロスサッポロ〉にアクセスしてくれたまえ。実況中継への道が示されているはずである。なお、君もしくは君の仲間がシュールストレミングが欲しくなり、あーるいは、実際に入手してしまっても当局は一切関知しないからそのつもりで。なお、シュールストレミングの臭気は、ちょっとやそっとでは自動的に消滅しない。成功を祈る。
【9月11日(土)】
▼おっと、昨日の日記で触れた国立がんセンターの調査結果だが、まったく酒を飲まない人の半分しか癌死がないのは“二日で一合”しか飲まない人ね。なにを血迷ったか“二日で二合”などと書いていたので、意味が通らなくなってしまっていた。紛らわしいまちがいをしてすみません。直しておきました。
▼ふと思い立って、母親にPHSを持たせることにする。もともと身体が弱いが、最近とくにしばしば具合が悪くなるのだ。年寄りのこととて、歯医者だの目医者だのそのほかだのあちこちの病院に出かけてゆくのだが、病院との往復で疲れて体調を崩すなどということがしょっちゅうあって、なんのために病院に行っているのやらわからない。実際のところ、ほとんど処方箋をもらいに行っているようなもので、どのみち三分診療だ。薬出すだけなら、とっととサイバースペースでなんとかできるようにしろよ。
もっとも、病院にすら出かけていかなかったら、社会との接点を失い早くボケるかもしれぬし、行き帰りの交通費なども日本経済を多少は潤しているのかもしれない。医療費の統計数字は“病院へ通う”という行為に随伴する経済活動(昼飯を外食する、喉が渇いたので喫茶店に入る、缶ジュースを買う等々)は掬い取りようがない。いわんや、いわゆる“シャドウ・ワーク”をやである。身体にガタが来はじめた全国の老人がいっせいに病院通いをやめたとしたら、景気に影響が出るほどであるかもしれない。だから著しく非効率的な病院通いにも意味があるのだとでも言うのなら、そういう考えかたこそが日本経済の足を引っ張っているのだろう。より便利で効率がよく消費者に喜ばれる、新しいタイプのサービスが伸びてくるのを阻害しているからだ。日本では、コンピュータの導入が市場の創出や雇用の促進にほとんど繋がっていない。むしろ悪化させているくらいだ。コンピュータ化が巨大な労働市場を創り出しているアメリカと好対照を成す。もっとも、貧乏人が受けられる医療サービスの質では、まだ日本のほうがましだろうけれども……。
それはともかく、PHSである。以前にPHSを持ってはどうかと母に持ちかけたときには、「女子高生ではあるまいし」そんな「贅沢なものは要らん」(いまや全日本人の四割が携帯電話かPHSを持っている)と断られたのだが、このところめっきり体力が落ちてさすがに心細くなってきたのか、今回はあっさり承諾した。どのみち、とくに機械に弱い母に現在のPHSが持つ種々の機能が使いこなせるはずもなく、そもそもわざわざPHSで電話をかけなければならない相手などほとんどいない。母が近所の婆さんたちにかけるのには、家の据え置き電話でこと足りるのだ。さほどつきあいが広いわけでもない。よって、あくまで非常用の“お護り”という意識で持たせることにした。たとえば、病院通いの道中やら買いものに出た先やら墓参りの行き帰りやらに急に体調を崩したときなど、おれや妹夫婦に、あるいは緊急時には警察や消防署に連絡が取れる装置を携帯しておれば、そのこと自体が精神の安定に繋がり身体にもいいだろう。
幸い、基本料金が九百八十円/月で、予め登録した三箇所だけに電話がかけられる(着信は自由、110や119にかけるのは可)というサービスをDDIポケットやアステルがやっている。母には必要にして十分なので、こいつを利用することにした。おれも経済的に助かる。おれの名義にして基本料はおれが払うから、妹とお喋りする通話料は自分の小遣いから払え(っつっても、元をたどればおれが払っているわけだが)ということで同意。まあ、始末屋の母のことだから、使えと言っても自分からかけるようなことはほとんどあるまい。
この相手先限定超安価サービス、DDIポケットは〈安心だフォン〉、アステル(ここいらはアステル関西になる)は〈きめトーク〉と称している。サービス内容はほとんど変わらない。元々、DDIポケットが、子供などに持たせる際の使いすぎを防止するという意図ではじめたようだが、蓋を開けてみると最安価のサービスとしてけっこう若者やお年寄りにも人気があるのだそうである。なるほど、学生の恋人に持たせるなどという用途なら、あちこちにかけられないほうが都合がよいと考える向きもあるのだろう。
いずれの社のサービスも専用端末しか使えず、機種の選択の幅はほとんどない。DDIポケットのほうは企画がオーバーシュートしているのか、端末の実機を置いている店がほとんどないようで、直営店と代理店とでは〈安心だフォン〉専用端末の機種にちがいがある。近所の直営店で訊いてみると、どう考えても年寄り向けでないスペックの機種しか扱っていない。なかなかかっこいいけれども、エアコンの温度調整すらまともにできない母に使えるとはとても思えない端末である。深夜近くまで学習塾でお勉強のお子様に持たせたら、たちまちすべての機能を使いこなすだろうな。
アステル関西が〈きめトーク〉専用端末にしている機種(一機種だけである。アステルグループの企業によって使っている端末が異なる)は代理店に実機があったので、マニュアルを出してもらい基本操作を確認した。スペックからすれば、ニ、三年前の機種だろう。それを〈きめトーク〉用にカスタマイズしているとみた。皮肉なことに、それくらい古い機種のほうがインタフェースが洗練されていないため、かえって機械音痴向けである。これなら、母にも操作できそうだ。じつに野暮ったいマシンだが、そんなことはどうでもいいのである。というわけで、アステルにする。加入時の端末買い取り価格もアステルのほうが安い。以前、アステルは京都のここいらへんではきわめて電波状態が悪かったのを知っていたので、町村単位の詳細エリアマップを出してもらい確認した。最近では通話エリアも広がって、母の行動範囲程度は確実にカバーしている。激烈な競争で、電話会社も設備投資がたいへんでしょうなあ。あとひとつ気になるのは、自宅で使えるかどうかという点だ。一度、母が日中に軽い心筋梗塞の発作を起こし、ダイニング・キッチンに置いてある電話のところまで這っていって妹に異状を知らせたなどということがあり、自宅にいるときですら据え置き電話が役に立たない状況を想定しておかねばならない。都合のいいことに、アステルは室内で使うためのパワーアンテナを無料レンタルしてくれるという。けっこうけっこう。
手続きに小一時間ほどかかるというので、代理店の入っている百貨店をぶらつく。滅多に入らない本屋でヤングアダルトのコーナーを見ていると、あっ、なんてことだ。以前に紀伊國屋 Book Web に注文しても取り寄せできないと言われた『悪魔の国からこっちに丁稚(上・下)』(L・スプレイグ・ディ・キャンプ、田中哲弥訳、電撃文庫)が、平然と棚に並んでいるではないか。隣で立ち読みしていた女子高生に奪われぬよう、あわてて確保した。京都の中央や大阪の大書店になかったものが、地元の百貨店の書店で手に入るとは皮肉なものである。その代わりと言ってはなんだが、野尻抱介は一冊も置いてなかった。妙に偏りのある書店だ。
PHSを受取り、家に帰って初期設定をする。腹立つことに、パワーアンテナを取りつけると、室内ではおれのツーカーよりずっと感度がよい。妹がさっそくテストだと電話をしてきて、「ふつうの電話みたいや」と音質のよさに驚いている。妹は夫やおれの携帯電話としか話したことがないから、PHSの音質を知らないのも無理はない。マニュアルをざっと通読し、通話の基本操作だけ母に教え込む。〈安心だフォン〉にしても〈きめトーク〉にしても、老人が使うことも当然想定されるサービスのはずだが、操作盤が英語だらけなのはいただけない。老人には英語が読めないとバカにしているわけではないが、読めない老人が身近にいるのは事実なのである。アイコンが描いてあるのが、せめてもの救いだ。このあたり、DDIポケットさんもアステルさんも、ちょっと考えませんかね?
何度か妹と話しているうち、さしもの機械音痴の母も、電話を受けることはできるようになったようだ。PHS話が長くなったが、同じような事情で老人にPHSを持たせようと考えている人のご参考にでもなればと思い、できるだけ詳しく書いてみた。幸いにも、うちの老人はまだPHSの位置情報が必要になるほどにはボケていないが、いずれは使うようになるかもなあ。
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