間歇日記

世界Aの始末書


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99年10月中旬

【10月20日(水)】
▼なんとなく物理寄りの話が続くが、今日もたまたま大宇宙の神秘に思いを馳せてしまうような事柄に遭遇したので、またもや物理学の話題で行こう。われわれの宇宙に於ける“対称性の破れ”についてである。
 駅の立ち食いうどん屋(何度も言うが、関西のアレはそば屋ではない)で、カレーライスを注文した。こういうところは早いのが取り柄である。二分もしないうち、おばちゃんはおれの前にカレーライスの入った楕円形の深皿をどんと置いた。その瞬間おれは、とてつもない違和感に襲われた。なんだこれは――。この宇宙であってはならないことが起こっている。おれが信じてきた物理法則にいけしゃあしゃあと反する現象が眼前で展開している。おばちゃんは、カレーが左側、米が右側に来るように皿を置いたのであった。
 カレーと米が別々に出てくるようなひとかどのレストランやインド料理店は別として、まあ、たいていの安食堂では、カレーライスといえば米とカレーが同じ皿に入って出てくる。皿の中には、米の陸地があり、カレーの海がある。大むかしは島だったインドがプレートの動きに伴ってユーラシア大陸にめり込んだ大いなる地球のドラマが、ヒマラヤを盛り上げた大自然の力が、あの楕円形の安っぽい皿の中で表現されているのだ。カレーひとつ食うにも、自然のひとこまを切り取って箱庭にせずにはおかない日本人の魂を、おれは大衆食堂式カレーライスに見る。
 それはともかくだ。あの方式の場合、やはり米の陸地が左側に来なくてはならない。米の絶壁をスプーンで突き崩して、あるいは、そこにスプーンでカレーの怒濤を浴びせて、両者がせめぎ合っているあたりをぐちゃぐちゃとかき混ぜながら、そこに生じる混沌と調和をこそ掬い取って食うのが大衆食堂カレーライスの醍醐味であろう。古来、日本の庶民はそうやってきたはずだ。それを、あろうことか、カレーが左側に来るように皿を置くとはけしからん。このおばちゃんはカレーライスを食ったことがないのだろうか。
 おれは苛立ちを抑えながら、皿をカウンターと平行に百八十度回転させ(垂直に回転させてはならない)、黙々とカレーを食った。だが、待てよ。よく考えたら、これは本来スプーンなどという南蛮人の食器で食うべきものではない。インドの人は手で、右手で食うはずだ。米が右でカレーが左に来るように置くというのは、ひょっとすると、正しい作法なのではあるまいか。きっとこのおばちゃんは、立ち食いうどん屋でカレーを出すためにインドの山奥でんでん虫転んで、じゃない、インドの山奥で修行をしてきたにちがいない。そう思って見ると、割烹着姿がどことなくレインボーマン・ダッシュ7のようである。おれがわざわざ米が左になるように置き直したのを見て、「尻の青いやつめ」と腹の底でせせら笑っているのだろう。
 だけどね、レインボーマンがなんと言おうと(なにも言ってないか)、おれは米が左じゃないと食いにくいの。たいていの日本人はそうだと思うぞ。その証拠に見ろ、松山容子がにっこりと笑いかけてくる大塚の「ボンカレー」のホーロー看板だって……げげっ、カレーが左だ。こっ、これは、松山容子がおれたちに向けてカレーライスを出そうとしている図ではないのだ、きききっとそうだ。彼女がいままさに自分でカレーライスを食おうとしているところにほかならないのだっ!

【10月19日(火)】
▼めちゃくちゃに忙しいが、めちゃ忙しいくらいに緩和された。原稿の締切が一本うしろにずれたのである。にしても、十分忙しい。この日記もしばらくは、まるで日記みたいになるかもしれないので、ヘンなのを期待している方々、ごめんなさい。
 今日の夕刻、出先から会社へ戻ろうと各駅停車の電車に乗っていると、すぐそばに乳母車が停まっていた。若い母親は乳母車を前にして座席に座り、隣の女性と話し込んでいる。ラッシュアワーまでにはまだ少しあるため電車は空いており、サラリーマン風の男性が数人まばらに座っているだけだ。電車が駅に停車し、ドアが開く。誰も乗ってこない。ぼーっと携帯電話のメールを読んでいたおれは次の瞬間、「きゃーっ」という女性の叫びに驚いて目を上げた。車輪を固定し忘れていたのだろう。電車が動き出したとたん、乳母車がひとりでに走りはじめたのだ。いや、正しくは、乳母車は極力いままでの場所に留まろうとしていただけで、電車のほうが前方に動きはじめたのだ。やはり、スチャラカ日記とはいえ、こういうことはきちんとしておかないと野尻抱介さんに叱られる。
 ニメートルほど移動したところで、母親が乳母車をがっきと掴んで止めたが、そのときすでにおれはスーツの内側の左脇に右手を差し入れるが早いか車内を鋭く見わたし、どいつがアル・カポネの手下か目星をつけていた。まったく条件反射とは怖ろしい。

【10月18日(月)】
▼べつに読まなきゃならないわけでもないし読んでもちゃんと理解できるかどうかさだかでないが面白そうだから一度は目を通しておきたいなと思っていた論文が今日送られてきた。American Association of Physics Teachers なる団体が大学教員や学生のために出している American Journal of Physics(April 1996)に載った Complex speeds and special relativity という論文である。「複素速度と特殊相対論」とでも訳せばいいのかな。実数の固有質量を持った物体でも、速度に虚数成分を与えて複素数として扱えば、もちろん光速では運動できないが、光速以上でなら物理法則に矛盾を生じることなく運動できると理屈の上では言えるはずで、そういうことにしてみるといろいろ面白い現象や解釈が生じるのでマジで考えてみました、光速以上でも特殊相対性理論が成り立つとしての話ですけど、学生の興味をかき立てる素材としては面白いでしょ、教材に使えるんじゃないすかという主旨だ。Online Journal Publishing Service というサイトで、手軽に買うことができる。論文を指定すると、コピーして送ってくれるというので、こりゃいいやと買ってみた次第。最近の論文はPDFやHTMLにもしてあるが、こいつはさすがに古いので紙のコピーが届いた。サービスの便利さを思えば、価格も手ごろ。ちょっと高いハードカバーを買うくらいかな。自宅の卓袱台の上でちょこちょこっとパソコンを操作するだけで、一週間後にはアメリカからコピーが送られてくるのだから、なんとまあ、いつのまにかほんに便利な世の中になったことよ。なんの因果でこんなものを読んでいるかというと、まあ、単なる趣味である。野次馬根性ともいう。おっと、論文の著者を書くのを忘れていた。Catherine AsaroMolecudyne Research, Box 1379, Laurel, Maryland 20725)という人である。

【10月17日(日)】
小林泰三さんのウェブサイトで、小林泰三ファンページ小林泰三メーリングリストを立ち上げているのを知る。gangu-ML という名前がお茶目だ。社団法人日本玩具協会の方々は、まちがって加入したりしないように。いや待てよ、むしろしていただいたら面白いのではあるまいか。リモコンで動き「てぃーきらいらい」と叫ぶ「超合金玩具修理者」とか、お友だちとパーツを交換して遊べる「着せ替えヒトブタ」とか、ケータイライフが楽しくなる「兆ストラップ」とか「ダイソン砂時計」とか「シュヴァルツシルト・リカちゃんハウス」とか、怪しいおもちゃを手当たり次第に作ってくだされば、どれかは当たるかもしれん。女子高生を掴むのが先決だろうな。やはり「兆ストラップ」が有望か。案外、ワンフェスやらコミケやらですでに売ってたりして。
 おっと、なにはともあれ加入しておこう。

【10月16日(土)】
▼ちょっと二時間ほど仮眠するつもりが、気がつくと八時間以上が経過している。どうやら、寝ているあいだに光速近くでどこかへゆき、折り返してきたらしい。飛ぶ夢をしばらく見ないと思っていたが、ほんとうに飛んでいたのに気がつかなかったとは、こりゃあおじさん一本取られたわい。
 「仮面ライダーチップス」(カルビー)と「焼きもろこしプリッツ」(グリコ)と「スニッカーズ」(輸入総発売元:マスターフーズ リミテッド)を食いながら、ときおり「エスタロンモカ12」(エスエス製薬)をペプシコーラで流し込み、ひたすら仕事をする。メールの返事やら掲示板のお返事やらが著しく遅れておりますが、他意はございませんのであしからずご了承ください。
 肩がばりばりになってくると「アリナミンEX」(武田薬品工業)を貪り食い、ドクター朦朧としてくると「施君力 SESINRIKI P.W」(協和薬品工業)を服用する。こいつは最近使い出したのだが、プラセンタエキスやらニンニク抽出成分やらが入っていて、値段のわりにはかなり効く。これらに加えて、ガンマーオリザノール配合酢酸d−α−トコフェロール(天然ビタミンE)製剤やらアスコルビン酸粉末(ビタミンC)やらフィッシュソーセージ(マルハ)やらを摂取し、マイルドセブン・エクストラライトをぱかぱか吸う。それでもドクター朦朧が襲ってくるようであれば、ショットグラスでふだんより多めに「新スーパー黒酢」(タマノイ酢)を呷ると、あまりの酸っぱさにたちまち目が醒め、頭がすっきりしてくる。食道が焼けるように熱く、あわててお茶をチェイサーにして飲む。そういえば、このあいだ青汁(キューサイ)の無料サンプル(百五十円×七パック)がもらえるという広告が郵便受けに入っていたな。毒食らわば皿までじゃ、申し込んでみよう。「まずーい もう一杯」と顔をしかめる八名信夫の写真の横に「が、飲みやすくなりました」などとキャプションがついている。飲みやすくなったことが言いたいのか、「まずーい」ことが言いたいのか。まあ、そんなことはどうでもよい。タダでもらえるものはもらっておこう。効く効かんは別として、気つけ薬にはなりそうである。

【10月15日(金)】
▼ふー、きつい。今月はきつい。表仕事も裏仕事も忙しい。今日はすっかり遅くなってしまい、家に帰ったら明日になっていた(ヘンな日記だ)。しかし、月曜日までに原稿を二本やっつけてしまわねばならない。その二本をやっつけたら、ようやく今月はあと二本というところまでたどり着く。現時点ですでに一本やっつけている。いったいおれはいつ寝ているのだろう。いや、寝てしまうと起きられないのがわかりきっていてあとで慌てるため、こういうときは電車などで細切れに寝るにかぎるのである。歩いていても、ときどきふっ、ふっ、と断続的に意識がなくなっているらしく、そんなときはまるでテレポーテーションしているみたいで愉快だ。こうやって日記を書いていても、ニ、三十文字ごとに意識が途切れているらしい。もしかすると、左右の脳が交替で寝ているのかもしれない。おれはイルカか。こんなときは、日記でも書いていないとやりきれん。まあ、十一月になれば、少しは楽になるだろう。
 書評や解説なども、草上仁氏のように“富山の薬売り方式”にできればいいと思う。時間に余裕のあるときに書き貯めて出版社に渡しておいた作品が、使われたとき使われたぶんだけ原稿料が入るという方式である。半年後に出る本の解説とか、二年後に出る本を糞味噌に貶す書評とかをどうやって書くかが、なかなか難しいところであろう。しかし、そのような硬直した思考をしていてはいけない。あらかじめ書いておいた解説を作家に送りつけ、「この解説に合うような小説を書いてください」と頼んでも、論理的にはなんら問題はないはずだ。なぜ誰もやらないのだろう。どなたか、この企画に乗りませんか?
 待てよ。こんなことを言っていると、ゲオルグ・ユルマン『人がみな狼だった時』(夏声書院)を、ふと近所の書店で見つけて呆然とする羽目にならないともかぎらない。そんな本は知らんとおっしゃる方は、『本の森の狩人』(筒井康隆、岩波新書)をお読みになってから、書店にお問合わせください。
▼そらみたことか、井上ほのか、藤原紀香、香山リカ。やっぱり買ってしまったではないか。なにをって、あなた、そりゃ「仮面ライダーチップス」(カルビー)ですがな。夜中に駅のそばのコンビニに入ると、あのけばけばしくも懐かしい袋がずらりと並んでいて、ふと気がつくとすでにふたつを籠に入れていた。むかしは、お菓子屋のおっちゃんだかおばちゃんだかが別途カードをくれたように記憶しているが、今度の「仮面ライダーチップス」の場合、カードの入った袋がポテトチップスの袋にしっかりと貼り付けられているのであった。まあ、このほうが手間がかからんわなあ。なんとなくせち辛い感じがせんでもないけど……。
 帰ってさっそくカードを取り出してみると、一枚めは〈(72)怪人雪男スノーマン〉と出た。毛深くていやらしい。こんなのおったっけ? なんという名前だ。まんまやがな。もう一枚のほうは、〈(12)「仮面ライダー」オープニングテーマ(2)レッツゴー ライダーキック〉で、裏面にテーマ曲の二番の歌詞が書いてあり、写真は仮面ライダーとムササビートルの絡みである(もはやおじさんは、1号と2号の見分けがつかなくなっている)。どうやら、ライダーのほうが“受け”みたいだ。ムササビートルの股間に垂れ下がる尾がなんとなくいやらしい。どうも三十年近くも経つと、カードの楽しみかたも変わってくるようである。
 はたして、いまの子供もこういうものを喜ぶのだろうか。菓子の袋に「あまったカードは友達と交換しよう! カード集めがさらに楽しくなるぞ」などと書いてあるのが微笑ましい。そうだよなあ。そういうことをしていたよなあ。あるいは、男の子たちが仮面ライダーカードなんぞに興じている傍らで、女の子たちは「あまったオヤジは友達と交換しよう! 男漁りがさらに楽しくなるぞ」とか言ってるのかもしれないのだが……。昭和は遠くなりにけり。

【10月14日(木)】
▼めちゃくちゃ忙しいので、ちょっとネタが粗い。
 以前にも不思議だと書いたことがあるのだが、いまだに解明されない現象がある。エッセイのコーナー「迷子から二番目の真実」の8番「心霊写真」へのアクセスが、いつもほかのお題へのアクセスに比べて多いことがはっきりしているのだ。というか、プロバイダが会員だけに公開しているログは、アクセスが10以下のファイルは表示されない。「迷子から二番目の真実」は更新もめったにないから、ふだんはログ上に浮上してこないのだけれども、顕れるときには決まって「心霊写真」がそれこそ幽霊のように顕れる。あとは目次のページくらいだ。不思議である。最近、このサイト全体のアクセスがいくらか増えてきているのだが、やっぱり「心霊写真」に人気がある傾向は変わらない。検索エンジンからダイレクトに来るとしたら、“心霊写真”みたいなキーワードで検索する人が少なくはないということかなあ。それとも、おれがまだ見つけていないどこかのサイトからリンクされているのだろうか(いや、してくれるのは大いにありがたいんですけど)。検索エンジンから来る人には、たぶんご期待を裏切るようなことが書いてあるにちがいないので、なんとなく申しわけない気持ちになってしまう。でも、そんなに心霊写真見たいですか?
▼帰宅して飯を食ったあと煙草を吸っていると、テレビで『どっちの料理ショー・秋の大決断スペシャル』(日本テレビ系)ってのをやっている。マダム・フユキは、この番組が嫌いである。たしかにうまそうなのだが、特上の食材がうまいのはあたりまえであって、これでまずそうに見えたら、よっぽど料理人の腕が悪いのだ。極力手をかけずに、ありふれた安いものを、ちょびっとでも楽しく食うというマダム・フユキの哲学には、あんまり関係のない番組である。今日も、なんとなく不思議な劣等感を覚える立派な松茸だの、えらく上等そうなサンマだのを大げさにうまそうに見せていた。無為に食欲を刺激されるので、無視して仕事をする。
 ふと『どっちの病理ショー』という番組を思いつく。できるだけ苦しそうな痛そうなおどろおどろしい病気の患者を連れてきて、それぞれの主治医がゲストの芸能人たちの前で、その病状を説明するのである。病変のある部位をどアップで見せたり、冒された組織の顕微鏡画像などを見せたりして、いかにその病気が怖ろしいかを微に入り細にわたり語るのだ。途中“プレゼンテーション”と称して、目の前でいかにも痛そうな治療や、手術をして見せたりする。そして、最後に関口宏三宅裕司「さあ、どっちかの病気に絶対冒されなければならないとしたら、冒されたいのはどっち?」と――これ以上厭な番組もないだろうなあ。

【10月13日(水)】
昨日『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス、小尾芙佐訳、ダニエル・キイス文庫1、早川書房)の話を続ける。
 あの最初のほうの、チャーリイ・ゴードンの知能が低いころの「けえかほおこく」なんだが、中学校くらいの英語の試験に持ってこいだと思うのだ。たぶん、使ったことがある英語の先生も実際にいらっしゃるんじゃなかろうか。前からあちこちで言ってるのだが、日記で言ったことがなかったのに気づいたんだよね。
 なぜそう思うのか? きわめて平易な文章であるにもかかわらず、たぶんまったく意味が取れない生徒が非常に多いだろうと推測するからである。実物を見たことがない方もあろうかと思うので、ちょっと冒頭を引用してみよう――

progris riport 1 martch 3
Dr Strauss says I shoud rite down what I think and re-
membir and evrey thing that happins to me from now on.
I dont no why but he says its importint so they will see if
they can use me. I hope they use me becaus Miss Kinnian
says mabye they can make me smart. I want to be smart.
My name is Charlie Gordon I werk in Donners bakery
where Mr Donner gives me 11 dollers a week and bred or
cake if I want.

 要するに、綴りがまちがいだらけなのだが、音読するとさほどまちがっているわけではない。冒頭のこれを読んだだけでも、チャーリイにはその程度の知能はあることまでわかる。人名を大文字ではじめることは理解しているようだし、発音どおりに自分なりの綴りを発明してまちがえているところがあるかと思うと、says のような頻出語を発音どおりに sez と書いたりしない程度には、読み書きを練習しているらしいともわかる。“ドクター”が“賢くしてくれる”とはどういうことだろう、そんなことが実際にできるという話は聞いたことがないからこれはSFなのかな、だとしたら知恵遅れの人の中から選ばれて賢くしてもらえるほどにはチャーリイは優秀なのだろう、あるいはほかの知恵遅れの人と比べて“賢く”しやすそうななにかを持っているのかもしれない、一応社会に出て働いてはいるくらいだからな、でも働いているというよりは面倒を見てもらっているという感じだな――くらいまでは、想像がつく。チャーリイの知能程度を高すぎず低すぎず想像させながら、これから起こることに期待を抱かせる絶妙の文章である。やはり、ツカミが肝心だよねえ。
 こういう文章は、日本の学校教育を受けている子供たちが最も苦手とするところだろうとおれは思うのである。そう思いませんか? 『これはチャーリイ・ゴードンの「けえかほおこく」の一部ですが、あなたが添削して正しい文章にしなさい』なんて問題、おれが英語の先生になっていたとしたら絶対作ってるよ。でもって、「趣味に走ってはいけない」などと、ほかの先生に厭味を言われていたことだろう。

【10月12日(火)】
『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス、小尾芙佐訳、ダニエル・キイス文庫1、早川書房)を買う。よく考えたら、以前に持っていたハードカバーは、顔も憶えていない親戚の子にあげたのだった。いや、遠い親戚のおばさんがうちに遊びにきたとき、「最近、娘が本ばかり読んで……」などとわが一族ではきわめて珍しいことを言うので、突然変異がこんなところにおったかと驚き、鉄は熱いうちに打てとばかりにおれが押しつけたのである。おれが自分の本を人にくれてやることなどめったにないのだが、まさかこれが絶版になることはまずなかろうし、原書のペーパーバックがあるから、さほどの痛痒は感じなかったのだ。いつでも買える作品であるからして、書物そのものの資産価値などよりも、本を読む親戚などという世にも奇なる娘をSF菌に感染させ得る機会を重視すべきであろう。
 とはいえ、当時は予想もしなかったことに、SFを読むのが一応商売のひとつになってしまったわけだから、翻訳を手元に置いておくに越したことはない。引用したり参照したりせねばならぬことがあるやもしれないしね。
 それにしても、ようやく文庫になったねえ。買ったからといって、さっそく再読するわけでもない。こういう名作は、気が向いたときにふらっと赤提灯にでも立ち寄るようにして再読、三読したい。そもそも、これほどの名作古典となると、もはや何度読んだかなど数えてもいないよな。もしも、まだ読んだことがないという方がいらしたら、すぐ買ってきて読んでいただきたい。あなたは人生を損している。この日記の読者はSFファンばかりではないから、あえて言うのだ。SFが生んだ不滅の金字塔、ひとつの奇跡と言ってよい作品である。おれがダニエル・キイスだったら、こんなものが書けた時点で、「おれは生まれてきた甲斐があった」と、いつ死んでもいいような気持ちになることだろう。「そこまで言うか」とすれっからしのSFファンの方は呆れているかもしれないが、いいもんはいいじゃないのよさ(ピノコ語)。SFファン同士だと、ついつい「なにをいまさら……キホンでしょ、キホン」みたいな暗黙の了解に立ってしまうけれども、おれたちがあたりまえだと思っている人類の宝を、意外と世間の人は知らないのである。『都市と星』(アーサー・C・クラーク、山高昭訳、ハヤカワ文庫SF)はいいぞ、『発狂した宇宙』(フレドリック・ブラウン、稲葉明雄訳、ハヤカワ文庫SF)は面白いぞーなどと、折に触れてあたりまえのことを言いふらさねばいかん。納豆はうまい。カエルは可愛い。2足す2は4だ。これで、いいのだ。

【10月11日(月)】
▼ひえええー。テレビのニュースを観て、またもや腰が砕ける。臨界事件を起こしたジェー・シー・オーの建物は、密閉していなかったのか! おまけに換気システムが作動していて、中の核分裂生成物を十二日間も垂れ流していたそうな。ヨウ素131は相当漏れた(というか、せっせと排出された)らしい。あーのーなあー。おれは思わず、そこいらに鋸が落ちていないか、部屋を見わたして捜した。「おーまーえーはーあーほーかー」と反射的に言いたくなったのだ。鋸がなかったので言えなかったのはくやしい。
 そりゃあ、最初のころは、中性子線の危険があったから建物に近寄ることもできなかったのはわかるぞ。だが、ひとまず危険が去ったあと、誰ひとりとして「密閉せんでええんでしょうか?」と言い出さなかったのか。世間の人は、当然やってるもんだと思っていたはずだ。「科学技術庁が言うてこんかったんで」というわけか? 言わんほうも言わんほうだが、気づかんほうも気づかんほうである。ひょっとしたら、科学技術庁も「そりゃ、当然やっとるやろうから言わんでもええやろ」と思っていて、ジェー・シー・オーはジェー・シー・オーで、「言うてこんから、言われんことをわざわざやることもないやろ。あとでなんか言われたらアホらしい」と思っていたのかもしれない。いや、きっとそうだ。ありそうなことである。そりゃもう、おれの職場でもしょっちゅうあることであって、おれも「わかっててもあえて言わん」という手をしょっちゅう使うので、そうにちがいないとよーくわかる。こういうときは、なにか言うたもんが損するのである。それが日本の組織なのである。そやけどなあ、事態が事態でしょーが。ほんとうに誰も気づいていなかったのだとしたら、もっと怖い。社員全員が「なんか、新入社員研修で一度だけ習ったような気がするが、自信ないなあ」とか言ってたりしてね。
 ヨウ素131の半減期は、理科年表によれば8.04日である。比較的短いから、危ないあいだだけヨウ素剤を飲んで、放射性のヨウ素131が甲状腺に溜まらないように手が打てるのだ。これがもし、何年も何十年も何百年もの半減期を持つ核種が垂れ流されていたのだとしたら、どえらいことである。まあ、今回は原発のメルトダウンなんかとはちがうから、長い半減期を持つ“汚い”核種が多量に漏れたということはないだろうが、ヨウ素131だって十二分に危ない。
 それにしても、ジェー・シー・オーに取材や視察に行ったマスコミ関係者やお役人は、相当吸ってるだろうね。小渕首相も吸ってるな。やっぱり、放射線はヨウ素ヨウ素でちゃんと計らんと。いかん、これはあまりにも苦しい。なにかもっと、インパクトのあるネタはないか。うーんうーん……(キィイイーン)一本の原木から街造りまで、信頼と実績のある亀岡山田木材経営団地、「ヨウ素っ!」(どどん!) 関西の人しかわからんな。あかん、仕事しよ。


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冬樹 蛉にメールを出す