間歇日記

世界Aの始末書


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99年9月下旬

【9月30日(木)】
▼どえらいことが起こってしまった。むろん、東海村ウラン加工施設「ジェー・シー・オー」東海事業所で起こった臨界事故の話である。まだ核分裂が進行している可能性があると報道されているわりには、ずいぶん対策が呑気だ。稼働中の原子炉の“殻”がなにか悪い冗談でひょいとなくなってしまったに等しい事故なのだぞ。しかも、制御できない状態で。「放射性物質が漏れた事故」「作業員が被曝」などと、「ああ、またあれか」と思わせるような表現で報道されているのはどういうことだろう。そう読んでるアナウンサーも、原稿がおかしいと思わんのか? 
 なんにせよ、情報があまりにも不足し、なけなしの情報も錯綜している。なにが起こっているのかよくわからんほど不安なことはない。今日はテレビとネットのニュースに釘づけなので、事実上、いつもの日記(どんな日記だ?)はお休みである。爆発しなければいいのだが……。『10月1日では遅すぎる』(フレッド・ホイル、伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫SF)などという縁起の悪いタイトルのSFがあるが、今後このタイトルが悪い冗談にならないような方向へ事態が好転することを祈る。

【9月29日(水)】
▼会社から帰ると、オウム真理教の連中が記者会見などやっている。なにを言わんとしているのかさっぱりわからないので、さてはおれはこいつらより頭が悪いのだろうかと一瞬疑ってしまったが、よくよく聴いてみると、「私らには自由意志などございませんので、私らの行動について質問してもらっても困ります。自由意志のない者には責任など発生しません。みんな松本智津夫のせいなのです」と、白痴的たわごとをわやわやがやがやほざいていることがようやくわかり、このように簡潔に要約できるおれのほうが数段頭がいいと確認したところで、屁が一発出た。だが、よく考えたら、こいつらより頭がいいことがわかったとてなんの自慢にもならんことに気づき、ここで二発めの屁が出た。つまらん。だから、何度も言ってるじゃないか。それほどまでにより高き存在になりたいのなら、とっとと松本智津夫を破門して、おまえらでインコ真理教なりカナリア真理教なり作って修行しろよ。おれがおまえらに言いたいことは、前にも紹介した「迷子から二番目の真実[33]〜 エリート 〜」に、おまえらのわけのわからん答弁をはるかに凌ぐ明快さでまとめてあるから、熟読して修行に励むように。あ、また屁が出た。
▼偶然か必然か、文庫の解説が二本重なっていて、このところゲラばかり読んでいる。げらげらげらげら。十一月は、おれが解説を書いてるSFが二冊同時に書店に並ぶことになるのであった。迷惑かもしれないが、これもなにかのめぐり合わせと許してやっていただきたい。嬉しいことに、いずれも個人的に非常に好きな作品で、自信を持ってお薦めできる傑作だ。おれが書いたわけじゃあるまいし、自信を持ってもしかたがないのだが、「この店はうまいんだ」などと自分の店でもないのになぜか胸を張り、友だちを引き連れてラーメン屋に入ってくるやつっているじゃないすか。

【9月28日(火)】
▼おやまあ。会社の帰りにふだんあまり行かない本屋に寄ったら、日野啓三『断崖の年』がとうとう文庫(中公文庫)になっているではないか。何度かこの日記でも触れているけれども、おれは日野啓三の大ファンである(96年12月27日97年1月24日5月30日6月24日9月26日11月16日23日98年5月8日6月18日11月11日など参照、ふう疲れた)。“SFの手法で書かない正真正銘のSF作家”というのが、おれの日野啓三観だ。日本人作家で最も好きな五人には入る。なにかこう“生理が合う”という感じでは、吉行淳之介と双璧を成す。一文一文がいちいち心地よい。
 むろん『断崖の年』はハードカバーを持っているのだが、なぜかずっと手を出す機会を逸したまま、積ん読になっているのであった。「あちゃー、文庫になってしまったか」と手に取って見てみると、「本書は『断崖の年』(一九九ニ年二月 中央公論社刊)に加筆訂正したものです」などと書いてある。当然、買う。アホである。こういうことをしているから、もともと貧乏なところへもってきて、輪をかけて金が貯まらんのだろう。
 平積み台を見ると、なにやらビデオテープを売っている。『ワールド・エアクラフト ビデオコレクション 1 米国海軍空母攻撃部隊』(デアゴスティーニ・ジャパン)ってやつだ。同じ発売元の週刊〈ワールド・エアクラフト〉って冊子がバインダ付きで売られており、こいつの姉妹商品ということだろう。デアゴスティーニって、こういうのばかり出してるよね。どれも「おっ、いいじゃん」とは思うのだが、おれはいまだかつて、ひとつのシリーズを全部揃えたためしがない。結局、面白そうなのをつまみ食いするに留まるのである。性格が“ずぼら”だ。網羅的な研究に向かない。
 それにしても、このビデオは異常に安い。七百九十円だ。実在の戦闘機(退役した型式もあるけど)の実写映像が四十分入っているというのだから、嘘みたいである。デアゴスティーニ、太っ腹。思わず買う。おれは戦闘機に関する知識などろくろくないのだけれど、あれが飛んでるところを見るのは好きだ。性的快感がある。要するに、アダルトビデオと同じ感覚で買ったのよな。人殺しは好まないが、人殺しの道具は大好きなのだ。美しい。以前にもこういう文脈で書いたような気がするが、ご用とお急ぎでない方は「迷子から二番目の真実[27]〜 銃 〜」も併せてお読みください。
 帰宅して食後に観てみると、なかなかおいしい。人気AV女優のハードな絡みばかりを繋ぎ合わせたようなビデオ。オリジナルは“洋モノ”らしく、副音声のナレーションは英語だ。それも、ちゃきちゃきの(って言うのかな?)イギリス英語である。あ、そっか、デアゴスティーニってイギリスの会社なのね。
 二巻めからは、通常価格の千七百九十円だそうで、へえ、創刊記念に千円も引いていたのか。たぶんまた、つまみ食いするんだろうなあ。これだけ買って終わりそうな気もするけど。マクドナルドでサービス券だけ使ってほかのものを注文しないようなものである(学生時代はいけしゃあしゃあとよくやった)。

【9月27日(月)】
▼ひょえー、知らんかったな。なんでもカルビーが十月中旬に『仮面ライダーチップス』新発売するそうで、これはまたじつにいやはやなんとも「スキあり」((C)水玉螢之丞)で一本取られた感じ。嬉しいというか恥ずかしいというか、加藤秀一さんも稲葉振一郎さんも、さぞやお喜びであろうとウキウキしてしまう(99年6月13日の日記参照)。しかも、やっぱり仮面ライダーカードがついていて、やっぱりラッキーカード二枚で仮面ライダーアルバム(もしくは“仮面ライダースペシャルブック”なる小冊子)がもらえるというのだから、こりゃもうカルビーに浴びせる言葉はひとつしかない――「鬼っ!」
 世代を超えたヒーローをひっぱり出して、親子の対話を持ってもらおうという健全な意図であるらしいが、子供はおろか配偶者もおらんおれは、カルビーの期待を真っ向から裏切りそうな(なんかヘンな言葉遣いだな)気がする。小学生のころとまったく同じノリで、自分のために買ってしまうにちがいない。いくらなんでもカードを集め出したりはしないだろうが(?)、必ずやひと袋やふた袋や三袋くらいは、ついうっかり買っていることになるであろう。そりゃ、どういうものか見てみたいじゃないか、やっぱり。まあ、この歳になって便利なことは、おれが五袋くらいまとめて買っていったとて、店の人は微笑ましいとしか思わんということだな。はっはっは、まいったか。でも、何袋買う羽目になるかは予想もつかないが、ポテトチップスは捨てずに食うだろうなあ。中身はおなじみ“うすしお味”のぽてちだというから安心だ。スター・ウォーズのボトルキャップを集めている人なんかは、「あ、いかん、これではカルビーの思うつぼではないか」と思いつつ、気がつけば朝昼晩とポテトチップスを食うことになるのであろう。
〈SFオンライン〉がフレームを導入してすっきりと模様替え。あちこち“ぱらぱらと読む”という感触をウェブで実現するには、やはりフレームが便利だろう。フレームを使っているにもかかわらず、ちがうコーナーに跳ぶたびにいちいち全画面がフラッシュしてしまう仕様になっているのは、ウェブ雑誌としての被言及性を重視したうえでの苦渋の選択だろうと思う。要するに、個々のコンテンツによそからリンクしやすくしてくれているわけだ。個々のウェブページなるものは、WWWという巨大なハイパーテキストの構成要素であって、多かれ少なかれ否が応でも公共性を帯びてしまう資産だとおれは考えるから、こういう設計には賛成である。いや、おれもさっき見てはじめて模様替えを知ったんだよ。おれは単なるライターで、〈SFオンライン〉のウェブデザイナーではないから、ページがどういうふうにできあがってくるかは更新が公になるまで知らないのだ。
 そういうわけで、あなたがウェブページを持っていらして、気になる本に言及する際にも、「〈SFオンライン〉の31号で高橋昌一郎の『ゲーデルの哲学』について菊池誠が書いているが……」といった具合に、安心してリンクが張れるのである。

【9月26日(日)】
一昨日の日記で、「高見エミリはどうしているのだろう」などと懐かしがっていたら、梅子さんから「鳩山邦夫代議士の妻です」とご教示をいただいた。ああ、恥ずかし。鳩山邦夫に興味がないにもほどがある。きっと日本中で知らないのはおれだけだったにちがいない。「高見エミリて、鳩山邦夫の奥さんやてか?」とちょっと母に訊いてみたら、「そうや。知らんかったんか」とこともなげに言われてしまった。さすが、一日中テレビを観ているだけのことはある。あ、そうか、高見エミリが活躍していた三十数年前、母は東京都民だったのだった。しかし、李登輝総統が地震の現場視察をしているのを先日テレビで観ていて、「神戸の地震のとき、ああやってまわってはった総理大臣は誰やったかいな?」とおれに尋ねた人に言われたくはないぞ。
 もしかしたら、東京のローカル放送局では“有名人のお宅拝見”とかなんとかいう企画で、高見エミリがテレビやラジオにたまに出演したりしているのであろうか。関西では“あの人はいま”みたいなやつに、シェリーがけっこう出てくるぞ。もちろん、もうええおばはんである。あ、ひょっとして、関西ローカル局では堀ちえみが活躍しているのを知らない人は多いのだろうか。え、やっぱり知りませんか? ファンだった人は関西に来て観てみたいでしょう? 観てみたい人は、風間杜夫を連れてくるのが条件である。なに、天地真理で懲りたので観たくない? それは残念だ。いや、おれはむかしの堀ちえみより好きだよ。おばはんになってからのほうが自然体でいい。由美かおる麻丘めぐみほどの超人度を期待する贅沢な堀ちえみファンは、関西には来ないほうがよろしい。

【9月25日(土)】
“冬樹玲さん”と書いてあるウェブページをたまーに見つけるたび、「ああ、ごめんなさい」と思う。そりゃもう、ペンネームを決めたとき、“蛉”を“玲”とまちがわれるだろうことは五百パーセント確実と覚悟のうえで、それでも虫の字が使いたかったのでこうしたのである。少々まちがえようがなにしようが、言及してくださる方があるだけでありがたい。でも、田中哲弥さんは本名だから、まちがっても“田中哲也”とだけは書かないように。なぜか“哲也”だけが異常に腹が立つとご本人もおっしゃっているので、まちがえるときには“田中手突爺”とかなんとか、なるべくワイルドなまちがえかたをしたほうがよろしい。それはまちがいとは言わんかそうか。
 それはそうと、ペンネームや芸名に“虫関係”を使っている人がどのくらいいるものかとふと思い、ボケ防止にと頭を絞ってみる。
 まず、日本人百人のうち九十九人くらいが手塚治虫をいちばんに挙げるであろう。堅気の人(?)にはご存じない方が意外と多いのだが、最初はほんとうに“テヅカオサムシ”と読ませていたのである。“泣虫”と誤植されたという話のほうは、クイズ番組なんかでしばしば取り上げられるので、存外に人口に膾炙しているようだ。余談だが、このあいだ携帯電話に手塚治虫記念館の電話番号を登録しておこうと“おさむ”と打ち込んで変換させたら、第五候補が“治虫”となっていて驚いた。“てづかおさむ”とやっても一発変換しないのに、なぜか“治虫”は最初から候補に入っているのだ。辞書登録機能などないので、おれが登録して忘れているのではない。よく考えたら、おれがパソコンで使っているWXGにも“治虫”はある。もはや、“治虫”と書いて“おさむ”と読ませるのは、日本語の基本になっていると言っても過言ではない。
 えっと、虫名前の人を捜しているのであった。古くは蝉丸という人がいるが、ペンネームかどうかとなると議論の分かれるところであろう。水玉螢之丞は、考えなくてもすぐ出てきますな。こおろぎさとみ横浜銀蠅ミヤコ蝶々まるむし商店と、芸能関係の方々にもけっこうある。蜂谷真由美という人もいたが、あれが芸名かどうかは議論の分かれるところであろう。
 ちょっと拡大解釈してもよいとすれば、秋津透The Beatles なども虫名前の人々に入れられる。も少し拡大解釈してもいいなら、モハメド・アリもアリだろう。もっと拡大解釈を許すなら、片平さなぎという人も――そんなやつはおらんてか。でも、大むかしに一本だけ撮っただーれも知らないAV女優とかにありそうな名前ではあるよね。もしほんとうにいらしたら、片平さなぎさん、ごめんなさい。

【9月24日(金)】
▼ちょっと前から気になっている。行きつけのコンビニから『カカオの恵み』(ロッテ)が消えているのだ。まさか、『買ってはいけない』(「週刊金曜日」増刊、船瀬俊介ほか、金曜日)の影響じゃあるまいな。そういえば、『完熟カカオ』(ロッテ)ってのが出て、これがけっこううまいのだが、『カカオの恵み』と同じような味がする。まったく同じかどうかと言われると自信がない。おれの味覚なんて、そんなもんよ。
▼台風が来ると、高見エミリを思い出す――って、いまそこで大笑いしている人は、少なくともおれよりは年上だろう。おれだって、かすかに憶えているくらいだ。むかーし、たしか『台風娘エミリー』(であってると思う)というテレビ番組があったのだ。おれが三つか四つくらいのころかなあ。日本の家庭に厄介になっている外国人の娘がいろいろ事件を巻き起こすホームドラマであったように思う。そのころはガイジンの女の子がいるだけでドラマになったのだろう。日常の中に、とんでもなく異質な存在がぽこっといるだけで面白いというのは、考えてみれば、オバQハットリ君みたいである。いまでこそ、自分の住んでる町に外国人がいてもなーんにも感じないが、当時はまだガイジンさんが珍しかったのかもしれない。
 いま高見エミリはどうしているのだろうと思い、infoseek で検索してみたら、なんと一件だけヒットした。日本映画データベースのサイト内に「高見エミリ」のページがあり、出演作がひとつだけ記載されているではないか。なんと『黄金バット』である。一九六六年の東映作品だというから、おれの記憶にある彼女が活躍していた時期とも合致する。あの高見エミリにちがいない。ビデオ屋にでもあったら借りてみてやろうかなあ。

【9月23日(木)】
▼世間は地震やら台風やらでたいへんだが、おれは夏バテでたいへんである。だしぬけに動悸・息切れ・めまいが襲ってくる。救心の宣伝文句みたいだ。食欲もなく血色も悪い。養命酒の宣伝文句みたいだ。これでくしゃみが三回出れば完璧である(なにが?)。だが、風邪を引いているわけではないらしい。やっぱり夏バテだ。まったく、九月も下旬だというのに、ちょっと動くと汗だくになる気候が続くとはどうしたことだ。もう少し太れば表面積が増えて放熱がよくなるのかもしれないが、よく考えたらおれは立体だから、表面積が増える以上に体積が増えてしまう。この宇宙の幾何学はおれに味方しない。せめて手の指を大きく広げて口を開けていれば表面積が増えるだろうと鏡の前でしばらくやってみる。たちまちもの哀しくなってきたのでやめた。身体のあちこちに切り込みを入れるという手もあるな。しかし、それだと余計に体力を消耗しそうだ。バルタン星人みたいな体型だと、さぞや放熱がいいだろうに。それにひきかえ、オバケのQ太郎は、むちゃくちゃに放熱が悪そうだ。O次郎やP子は、なおさらだろう――などと、こんなことばかり考えているほどに頭が鈍っている。
 頭が鈍ると、よく頭の中で歌が回り出す。エンドレスで回り出す。のだれいこさんの頭の中では、「♪ぶた、ぶた、ぶたぶたぶた、空からぶたが降ってきた♪」「♪ぶたが〜道を〜ゆくよ〜(ぶんちゃかちゃ〜ぶんちゃかちゃ〜)♪」が回っているそうだ(「近況報告」99年9月20日)。おれの場合、激しく疲れていると、こんな歌が回り出す――

寿司の降る町を〜、寿司の降る町を〜♪
思い出だけが通り過ぎてゆ〜く♪   
寿司の降る町を〜、寿司の降る町を〜♪
思い出だけが通り過ぎてゆ〜く♪   
すっしの……            

 どことも知れぬ町を、コートのポケットに手を突っ込んで背中を丸めて歩いている。あたりにはしんしんと寿司が降っているだけだ。ぼとっ、ぼとっ、ぐちゃっ、ぐちゃっと降り積もる寿司を踏みしめ踏みしめ、おれはときどき肩の上に積ったトロやらアマエビやらイクラやらアカガイやらを払い落とし払い落とし、知らない町をとぼとぼと歩いてゆく。この町でもいろいろなことがあった。それでもいまは、白い寿司がただ降るばかり。らーららーって、ちょっと歌が変わったような気もするが、そんなことはどうでもいいほどに、ただただ寿司は降る――などと本人はリアルな情景を思い浮かべているのだが、声に出して唄っているのを傍から見るとかなり不気味らしい。家族は慣れているから救急車を呼んだりはしないけれども、うっかり電車の中などで唄ってしまわないか心配である。
 意味不明ながらも頭の中でぐるぐる回るこうした歌を誰もが持っていて、精神のバランスを保っているはずだ。持ってなかったらどうしよう。

【9月22日(水)】
▼前から不思議に思っていることがある。《必殺シリーズ》ってのがありますわな。貫井徳郎氏ほどではないにしても、おれもけっこう好きである。あれの中で、踏んだり蹴ったりの目にあったあげく殺されてしまう弱者が、今わの際に「こ、この世には、金で怨みを晴らしてくれる闇の仕置人がいると聞きました。どうか、こ、これで……」とかなんとか、中村玉緒だか鮎川いずみだか渡辺篤史だか三田村邦彦だかに言い残してこと切れるシーンがしばしばあった。そんでもって、ひとつのシリーズが終わり次の《必殺》がはじまると、不思議なことに殺される弱者は「こ、この世には、金で怨みを晴らしてくれる闇の仕事人がいると聞きました。どうか、こ、これで……」と、ちゃんと闇の殺し屋たちの名前が変わったことを知っているのである。江戸の庶民たちが非常に発達した情報網を持っていたことの証左であろう。

【9月21日(火)】
▼携帯電話を左手で操作することについて9月18日の日記で書いていたら、なんと、携帯電話の電池の開発・製造に携わる会社にお勤めの宮崎泰仁さんとおっしゃる方から推理が寄せられた。文章が面白いので、加工せずに掲載させてもらおう。ご本人の承諾はいただいてある。

『若年層が左手で受話器を取ることに拘泥のない傾向について、ビジネス経験を持たないことに根拠を求められておりましたが、わたし達の世代以前はいずれも社会人教育を受ける以前から、左手に受話器を取ることを刷り込まれてはいませんでしたでしょうか。冬樹さんは電話機のレイアウトなどの制約からやむなく右耳に受話器をあてて、えも言われぬ生理的違和感を覚えた経験をお持ちではありませんか?』

 言われてみれば、たしかにそのとおりだ。おれは子供のころから左手に受話器を持っている。べつにそうせよと教えられたわけでもないのだが、そうせざるを得ないひどく明白な理由があったのだった――

『一つには、電電公社から拝借していたあの黒電話。
ある時期より以前、普及率、シェア共にほぼ100%といって間違いなさそうなあの機種のくるくるコードは、左手に受話器を取り、右手でダイヤル操作をすることを強要する位置に配されていたと記憶します。誤って、或いは人の気を引きたい幼児の心理から、コードが本体のダイヤルを横断するように受話器を置こうものなら、概ね予想された叱責が大人達から返ってきたのではないでしょうか』

 そうだそうだ。むかしの電話には“コード”というものがあったっけ。あったっけって、うちの電話にはいまもコードがあるし、会社の電話にもほとんどある。こんな構造の電話で右手に受話器を持ち右耳にあてがい電話をかけるには、左手でコードをかきわけながらプッシュボタンを押すか、いったん電話器に背を向け、大きく仰のいて操作するかしかない。前者はまだいいが、後者となると身体が柔らかくなくてはならない。背骨がばきばき鳴る音を相手に聞かせるのもいささか不粋だし、長電話だとつらそうだ。

『暗黒の時代に基本的な生活習慣を獲得した我々にとって、左手に受話器を取ることは「お茶碗を持つ方」と同じくらい自明の所作として深く根を張っているのではないでしょうか。大学生以下の彼らの家庭では、折しも彼らの物心つくその時コードレス化の洗礼を受け、くるくるコードの呪縛から解き放たれたものと測られます。右手に取った受話器そのものに付いているプッシュボタンを操作し、そのまま右耳に受話器を当てる一連の動作に、もはや左手、左耳の介入する余地は残されていません』

 そうか、コードレス電話が登場したとき、すでに“携帯電話右手派”の出現は約束されていたのだ。さっきも「とろみ好麺」とかいうラーメンのテレビCMで、中国人の女性が右手に携帯電話を持ち、高級料亭らしきところになぜかインスタント・ラーメンを注文していた。そういえば、むかーし、マクベスの家系を継ぐとかいうなんたら伯爵だか公爵だかが、どでかい城に住みながらなぜかインスタント・コーヒーを飲んでいるCMがあったな。不動産の維持費や税金がたいへんだったのだろう――って、そういう話じゃなくて。宮崎さん、どうもありがとうございます。
 うちはまだ一度も“デスクトップ電話”にコードレス型のものを使ったことがない。家の電話にコードがないとなんとなく気色が悪いように思うんだよな。受話器のコードには重要な役割がある。あれがなかったら、いったい右手の指になにを巻きつけながら喋ればよいのだ? 落ち着いて話すには、いちいちメモ帳に意味不明の図形(三匹の全盲の鼠とか)を書かねばならず、紙がもったいないではないか。


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