間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


99年10月下旬

【10月31日(日)】
▼体調悪し。忙しいのに、うだうだと過ごしてしまう。ふと、植物の名前はカタカナで書いたほうがいいのか漢字で書いたほうがいいのかなどという疑問に捕われる。“ヒマワリ”よりは“向日葵”のほうが風情があるのはたしかなのだが、下手すると読めない人が多いのではないかと気をまわし、ついつい手堅いカタカナのほうにしてしまう。また、植物の名前には難しい当て字が多いんだよな。といっても、カタカナが無難かというと、そうでもない。“ハゲイトウ”などと書くと、気を悪くする伊藤さんとか伊東さんとか井藤さんとかがいそうだ。だけど“葉鶏頭”ってのも、なんだか字面がぐちゃぐちゃで目の悪い人には読みづらそうである。困った困った、ってよく考えたら植物の名前を書くことなんておれにはあまりないぞ。
インド人もびっくりと言おうか、ハヤシもあるでよと言おうか、「カレーはどっちだ?」問題に関するメールが続々やってきている。食いものには誰もが一家言持っているから面白い。おれはあまり食には興味がないんだけども、食に関するくだらないことをほじくるのは好きなのだ。それにしても、みなさん、好きですねー。

【10月30日(土)】
▼そういえば、先日「Scritti Politti は最近どうしているのかなあ」と思って amazon.com で検索しているうち、Tinseltown to the Boogiedown というシングル(つっても、アルバムと同じ大きさのやつね)を買ってしまったのだった。送ってきたので聴いてみると、うーん、がっかり。目下の最新アルバム Anomie & Bonhomie を買うのは、ちょっと延期しよう。金もないし、アマゾンのリスナー評もあんまり褒めてないし。Green Gartside の声は、声フェチ的には好きなんだけどな。やっぱり、Cupid & Psyche 85 がいちばんよかった――って、げげっ、もう十四年前になるのか。

【10月29日(金)】
▼晩飯を外で食って帰る。以前に女の子を押し倒そうかと思った居酒屋(98年7月3日の日記参照)に入ると、うまそうなサンマがメニューにあった。一も二もなく注文する。酒は熱燗にしようか冷酒にしようか迷ったが、名称からしていかにもおれに似つかわしい冷酒があったので〈美少年〉を飲むことにした。
 さて、サンマがやってきた。焼いたサンマを前にすると、おれの中でひとつの条件反射が発動する。両手の肘を軽く曲げ、掌を自分の側に向けて顎あたりの高さに構えて、サンマの頭から尾までを鋭く眺めわたす。そう、おれはいま、ブラック・ジャックになっているのだ。
 次に、頭の中で「ピノコ、メス!」とクールに言い放って、右手に箸を取る。まずは入念な術前処置を行わねばならない。皿の上で寝ているサンマを、生前の泳いでいる姿勢に立て直し、首(?)のあたりから尾にかけて、箸で上から押しつけてゆく。この処置によって、患者の肉を骨から剥離するのが容易になるのだ。
 再びサンマを寝かせる。頭は左、尾は右だ(まさか、これも頭が右派が多いんじゃないだろうな)。鰓蓋の下あたり、側線上に箸を二本揃えて突き立て、片方の箸を最初の切開箇所に残したまま、もう一方の箸で側線に沿って胴体の中ほどまで一気に切り開く。これは右手だけで行うのが美しい。というか、全術式にわたって、極力左手を使わない、すなわち、手を汚さず箸だけを用いるのが、おれのこだわりである。
 次に、最初の切開箇所にあった片方の箸をもう一本の箸が待っているところまで引き寄せ、再びそこを立脚点に二本の箸を開き、尾まで側線上を切り進める。サンマを食うときには、なにがあろうとも背骨を損傷してはならない。まるでマンガに出てくる乞食がゴミ箱の中を漁ったあと頭の上に乗せているかのようなサカナのホネを食ったあとに残すのが、ブラック・ジャックの使命なのである。なんだかよくわからないが、それが使命だと叫ぶものがおれの心の中にある。
 さて、ここからの術式が熟練を要する。手術創を二本の箸で背と腹の側にこじ開けるようにして、サンマの左半身を剥離してゆく。ひとまず左半身の剥離が終わったら、醤油を染み込ませた大根おろしを剥離した肉に乗せ、口に運ぶ。この際、あとで右半身を食うときに困らぬよう、大根おろしの残量に気を配らねばならない。左半身を食ったあとにワタを食べ、それから右半身にかかるのがおれの流儀である。ワタは、日本酒にじつによく合う。
 ここからの術式には、おれの観察ではふたとおりあるようだ。背骨越しに右半身を攻めるか、患者を裏返して皮側から右半身を切開するかである。おれは前者を好む。というか、このフェーズこそがサンマを食う醍醐味の最たるものであり、それを十全に味わうには手術野を分散させないほうがよい。まず、寝かせた箸でサンマの首(?)のあたりの肉や皮を注意深く切り離す。そして、二本の箸を背骨と右半身のあいだに滑り込ませ、背骨に沿ってぞろりんと開く。この動作によって、ばっさりと右半身を剥離するのがじつに壮快なのである。仕上げに尾のあたりの肉や皮を箸で引きちぎると、あとには典型的なあの“サカナのホネ”が残る。美しい。この“サカナのホネ”を作り上げることにこそ、サンマを食う意義があると言っても過言ではなかろう。おっと、ここで陶酔してしまって、右半身を食べるのを忘れないようくれぐれも注意されたい。
24日の日記で触れた『天空戦記シュラト』は、ここいらへんではテレビ大阪で放映されていたと、さんからご教示いただいた。なるほど、だったらおれの住んでいるあたりでは、まったく映らない。このころから、すでに京都はアニメ後進地域(発展途上地域と言うべきか)だったのだな。最近は、京都テレビもなかなかがんばっているみたいなんだけどね。

【10月28日(木)】
10月20日の日記を発端とする“カレーライスのカレーは左右どちらの側にあるべきか”について、続々と意見や報告が舞い込んできている。じつに驚くべきことに、いまのところ“カレーが左”派のほうが圧倒的(というほどメールが来ているわけではないが)に多いのだ。いつのまに日本人は、米を左側に置くという呪縛から逃れたのであろうか。カレー左派といい、ケータイ右手派99年9月18日の日記参照)といい、ある種の文化的変容がいつごろからか日本を襲っているのだとしか思われない。面白いので、近々「カレーはどっちだ?」問題特集をやることにする。頂戴したメールはその際紹介させていただくことがあるから、意見や報告をくださる方々は「公開してもよいお名前」「(ウェブサイトをお持ちの場合)リンクしてもよいかどうか」をご明記ください。
 カレー問題でふと思いついた。「携帯電話をどちらの手で持つか」と「カレーライスのカレーをどちらの側に持ってくるか」には、相関があるのだろうか。あったりして。ズボンのベルトの端は左右どちらにするか、腕時計はどちらの腕にするか、望遠鏡はどちらの目で覗くか、ものを食べるとき左右どちらの奥歯をより頻繁に使うか、性器は左右どちらに寄っているか(あるいは、どちらの側の組織が大きいか)などなどなどなど、およそ考えつくあらゆるくだらないことの相関を調べておけば、犯罪者のとんでもないプロファイリングができるかもしれない。「カレーライスのカレーを左に持ってくる人間の32%は右手の中指の指紋が渦状紋で、猫を飼っている場合には“菊之助”と名づける可能性が0.68%と最も高い。よって……」などと推理する“データマイニング探偵”とか、どなたか書きませんか。それとも、すでに書いてますか。holistic detective(“全体論的探偵”というか、いっそ“ホロン探偵”とでも訳すか)を自称する Dirk Gently って探偵をダグラス・アダムスが創造しているが、こいつの推理(?)方法がそんな感じである。全体論的視点に立てば、なにとなにの関係に着目してもいっこうにかまわないため、“風が吹けば桶屋が儲かる”的な快刀乱麻を断つ推理がいくらでもできるのだ。
 将来、ヒトのDNA解析が徹底的に進み、「ここのところが AGCCTAGATGC になっている男性は、四十三歳のとき女で身を滅ぼすことがきわめて多い。ナノマシンで“治療”しておきますか、奥さん?」なんてことになったら、なんだか激しく厭だね。

【10月27日(水)】
▼おおお、『鉄腕アトム』がハリウッドで映画になるとな。なんでも、実写とCGの合成だというのだが、まさか『バンパイヤ』と勘ちがいしているわけではないよね? あるいは『火の鳥 黎明編』とか(ミシェル・ルグランの曲はとてもよかった)。さてさてこのハリウッド・アトム、観るのが楽しみなような怖いような……。日本でも大むかしに実写の『鉄腕アトム』があったそうで、おれは資料映像でちょこっと観ただけであるが、それはそれは怖ろしいものであった。どのくらい怖ろしいかというと、加山雄三『ブラック・ジャック』に匹敵する怖ろしさだ。あれはもう、秋吉久美子が出ていなくて、ヒカシューがテーマソングを唄っていなかったらブラウン管を叩き割っていたところである。
 ともあれ、おれ個人のこだわりでは、アトムはなんといっても白黒アニメでなければならない。あの犬型パトカーが妙に好きだった。
 気になるのは音楽である。今度の映画も、むかしアメリカで放映された Astro Boy のテーマ曲を使うのだろうか。「空をこえて……」「……十万馬力だ、鉄腕アトム」のところは日本版と同じメロディで、途中がやけにちがうアレである(ついつい amazon.com で衝動買いしてしまった ANIME 曲集がここにあったりするのだが……)。いつも思うんだけど、日本のアニメの歌を英語版にしたやつって、すっげーひどいよね。曲のアレンジも歌詞も歌い手も、幼稚度が爆裂する。下手くそなガキどもに舌足らずの英語で唄わせるな。主人公の名前を必要以上に連呼するな。おもちゃみたいな音でドンシャリ録音するな。ディズニーのアニメには不滅の名曲が多いのに、なぜに日本のテレビアニメを輸入するとなるとここまで幼稚になるのだろう。『美少女戦士セーラームーン』なんぞ、英語版は恥ずかしくて聴いてられんぞ。まさかとは思うが、ひょっとしてもしかして、アメリカのような発展途上国では、アニメは子供が観るものだと思ってるんじゃないだろうね?

【10月26日(火)】
▼今年も「京都SFフェスティバル1999」の案内が送られてきた。もうそんな季節かあ。あっという間だ。年々、時間が経つのが速くなってくる。もうちょっとゆくと、滝になってなだれ落ちているのであろう。
 そ、それにしても、合宿企画の「リベンジ・オブ・マンガカルテット」(司会・大森望)ってのはなんなんだ。昨年はマンガカルテットの負けだったのだろうか。おっと、“マンガカルテット”という呼称がどのくらい人口に膾炙しているものかわからないので一応説明しておくと、関西の若手SF作家四人(小林泰三田中哲弥田中啓文牧野修)で作っているお笑いテロ集団のことである。SF作家ではないが、我孫子武丸さんが隠れた五人めのメンバーだというのを、どうやら公安は掴んでいるらしい。
 うーむ、リベンジときたか。つまり、ジベレリンのアナグラムになっているわけだ。文字の数がちがうところが、このアナグラムのミソである。さすがは京都大学SF研究会、なかなか藝が細かいと言えよう。だが、おれとしては、やはり第二回は「マンガカルテットの地下都市」がよかったな。当然、第三回は「マンガカルテットの地下都市への帰還」で、マンガカルテットは次元のあいだ、別の時間から侵入するのだ。第四回では、マンガカルテットがパラレル・ワールドから侵入してくる。そういったところだ。ことによると、考古学者が古代の墓を見つけて、大きな棺を開けると、たちまち怖ろしいマンガカルテットがとびだして、地元の発掘作業員を襲ったあと、カイロじゅうの人間を襲い、そこから世界じゅうに広がっていく第五回があるかもしれない――って、こんな濃いネタがいったい世界中の何人に通じるというのだろう。いま笑ってるあなたは相当のディッキアンなのだろうが、わけがわからない人は『アルベマス』(フィリップ・K・ディック、大瀧啓裕訳、サンリオSF文庫・創元SF文庫)をお読みください。今日は完全にSFファン向けの日記になっちゃったな。

【10月25日(月)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『順列都市(上・下)』
グレッグ・イーガン、山岸真訳、ハヤカワ文庫SF)

 先日『宇宙消失』(創元SF文庫)が出たばかりのような気がするのだが(じつはまだ読んでいる最中である)、もう出た。いやあ、山岸さんは仕事の鬼だ。ひとりでイーガン旋風を巻き起こしている。〈SFマガジン〉11月号のイーガン特集も、監修から訳まで全部ひとりでなさっている。このところ、山岸さんの生活のすべてがイーガン一色になっているだろうことは想像に難くない。山岸さんがイーガンに魅了されるのは、非常によくわかるような気がする。〈SFオンライン〉の連載にも書いたが、グレッグ・イーガンはとくに神林長平に通じるところがある。どこぞのイベントで、イーガンと神林の対談でも企画しないものだろうか。きっと、司会が割り込む暇もないほど双方が喋りまくって盛り上がるか、ひとことふたこと、ぽつりぽつりと言葉を交わすだけでたちまちお互いの意図が了解されてしまい、テレパス同士の対談を聴いているかのようになるかの、どちらかだろうなあ。
▼『順列都市』と一緒に〈SFマガジン〉12月号も送られてきた。ついに、キャサリン・アサロ「四声のオーロラ」で本邦初登場。“キャスリーン”“キャスリン”を経て、結局、名前の表記は“キャサリン”に落ち着いたようだ。ヘンな日本語を連発しながら殺人事件を解決する人とはちがうのでご注意を(って、誰もまちがわんてば)。もう予告が出ているし、無事に解説の原稿も納めたので宣伝しておこう。十一月には、《スコーリア戦史》(と呼称することに決まったそうだ)の第一作『飛翔せよ、閃光の虚空(そら)へ!』 Primary Inversion(キャサリン・アサロ、中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)がいよいよ出る。こりゃもうあなた、めちゃくちゃに面白いので、いまから覚悟しておくように。とくに女性の方々、必読である。べつに奨励するわけではないが、萌え萌え同人誌が作りたくなること請け合い(おれの知っている女性たちが、ちょっと特殊な人ばかりなのかもしれないが……)。それでいてしかも、文庫解説はほんとうにおれでいいのか、菊池誠さんや前野昌弘さんでなくてもよいのか、と思うほどハードSF的においしい部分が続々出てくる。専門領域からすると、前野さんが萌える、いや、燃えるだろうなあ。
 どなたがどんなイラストをお描きになるのかわくわくしていたら、今月の〈SFマガジン〉で山下しゅんや氏だと判明した。おおお、いいですねえ。本国版のカバーイラストは、はっきり言って趣味が悪い。主人公の女性軍人など(イラストは第四作のカバーで初めて出てくるのだが)、どうみてもおばちゃんである。いやまあ、年齢的にはおばちゃんにはちがいない設定なのだが、いろいろと生体改造されているうえに寿命を延ばす措置も受けているので、実年齢よりもずっと若く見えるということになっているのである。山下氏のイラストは本国版よりかっこいい。こっちのほうがおれは好きだなあ。来月をお楽しみに。

【10月24日(日)】
21日の日記に書いた“お経を唱えながら変身するヒーロー”だが、慶應義塾大学SF研究会向井淳さんから『天空戦記シュラト』ってのがあるとご教示いただいた。なんでも、その連中は「真言を唱えて鎧をまとっていた」である。「お経と真言ではだいぶ趣が違いますが、まあ真言宗ではお経といっしょに真言も唱えますので、似たようなものでしょう(なんて不信心なんだ)」って、いやあ、おれの認識も似たようなものだ。こと不信心にかけては、そこいらの十人中九人くらいには勝てる自信がある。向井さんもたぶん、おれみたいな縁がなくて幸いであると思っている縁なき衆生なのであろう。こういうことを書くと、「そんな認識ではいかん。よいか、真言とは……」「開いた口が塞がらないがお教えしよう。そもそもお経とは……」などとメールしてくるご親切な人が現われそうな厭な予感がするが、せっかく教えていただいても、どのみちおれにはみな念仏の裁ち屑のようにしか聞こえないと思うので、その手の小さな親切は遠慮したい。真言だろうがお経だろうがびっくり念仏だろうが湯念仏だろうが、それらしい雰囲気が出ていて聴いているほうが気づかなければ、文句がでたらめであったところでなにも実害はない。
 しかし、『天空戦記シュラト』ってのは知らんなあ。どこかでかすかに聞いたことはあるような気はする。世代差だろうか。おれはアニメには疎いのだ。十年くらい前の番組らしいが、テレビ東京系だとするとこっちでは放映されていないかもしれない。京都テレビで放映されてましたか、岡田靖史さん
 ところで、そもそもレインボーマンの話になった発端である“カレーライスのカレーは右側か左側か?”という大問題について、おれの宇宙観を根底から覆すような説を唱える人が意外と多く、とてもとても驚いている。先日、マヘルさんから「我が家では家族全員カレーが左です!(きっぱりはっきり)」と、きっぱりはっきり言われてしまい、三平方の定理はまちがっていたかのようなショックを受けた。あろうことか、向井さんも「カレーの海は左側にあるものではないですか?」などと、エネルギー保存則は嘘だと言うにも等しい衝撃的な考察を提示なさっている。『気になったので母親に、あらかじめ何の情報も与えず「カレーの海の部分はどちら側にあるか」と質問したところ、左側であるとの解答を得ました』って、ほんとですかあ。信じられん。ひょっとして向井さんのお母様は、ジャムのコピー人間かなにかじゃありませんか? そのカレーに含まれるアミノ酸はたぶん光学異性体なので、食べても消化できていないはずだ。お母様はついついジャムの癖が出て、カレーを左側にしてしまうのでしょう。えーと、なんの話かわからない人は、『戦闘妖精・雪風』(神林長平、ハヤカワ文庫JA)と『グッドラック 戦闘妖精・雪風』(神林長平、早川書房)を読もう。
 そもそも、こんなくだらないことはいままで人に訊いたこともなかった。この手の重箱の隅をつつくような事柄について意外な事実が明るみに出てくるのだから、ウェブページってのはまっこと面白い媒体だ。やっぱり、ラジオの深夜放送のノリだよなあ。

【10月23日(土)】
『2010年モバイル進化論』(荒井久、発行:日経BP企画、発売:日経BP出版センター)という本を読んでいたら、携帯電話がピピッと鳴ってメールの着信を告げた。見ると、自動回送設定にしてあるおれのいくつかのメールボックスのいずれかから、EmCm Service のフィルタを通して転送されてきたメールである。サブジェクトを読むや否や、おれはテレビとビデオデッキのスイッチを入れた――「今、石橋けいがテレビに」と書いてあったのだ。なんと、今週の『世界・ふしぎ発見!』(TBS系)のリポーターは、石橋けいではないか。おれは毎週観たりはしていないのだから、どうして新聞のテレビ欄にそういう重要なこと書いてくれないかね!
 ケータイでメールを受けたのが二十一時十九分ころ。番組は二十二時前には終わる。ゆっくり観ている暇はないので、ビデオデッキの録画ボタンを押して読書に戻る。あとでゆっくり楽しもう。これでも石橋けいの出番の三分の二くらいはカバーできたはずだ。あの番組は、リポーターが好みの女性のときはたいへんおいしい。カメラ目線の語りが多いうえに、いろんな服の着せ替えが楽しめるからである。クイズの問題? 今回はそんなものは二の次だ。
 メールをくださった「知恵市場」スタッフのTJさんは、以前からおれの日記を愛読してくださっていて、テレビに石橋けいが出ているので、おれに教えてやろうとご親切にもメールしてくださったわけである。しかし、その時間はいくらおれでもネットに繋ぎっぱなしではない。テレホーダイ適用外の時間である。TJさんは、おれの電話番号もメールのマネジメント環境もご存じないから、おれが『世界・ふしぎ発見!』放映中にパソコンでネットに繋いでいる可能性に賭けて、「今、石橋けいがテレビに」と冬樹蛉アドレスに向けダメ元でメールを打ってくださったにちがいない。ケータイに転送していなかったら、おれはあとからパソコンでメールを確認したとき初めて石橋けいを観逃した事実を知り、「くそー、知らなかったなあ」とくやしがったことだろう。奇しくも、モバイル通信端末とインターネットとの統合力を、家にいるときにこういう形で実感することになろうとはね。皮肉なものである。「今、石橋けいがテレビに」というメールを見たとき、おれはてっきり、おれのケータイの番号を知っている数少ない人々の誰かからのタレコミだと思った。そのメールがまず携帯電話で読まれることを知っていないと、こういうサブジェクトにはしないだろうと思ったのだ。しかし、よく考えてみると、おれがパソコンでネットに繋いで読むことを前提に出したメールであったとしても、「今、石橋けいがテレビに出ていたよ」という報告としては意味が通る。いやはや、ちょっと気味が悪いくらいに象徴的な体験であった。
 それはともかく、石橋けいはいいねえ。目が知性的でいい。ブスではないが、それほど美人でないのもいい。葉月里緒菜みたいな巨大目殺しもいいが、石橋けいの細目殺しにもメロメロになってしまいますなあ。なに? おれの目フェチの話は聞き飽きた? じゃあ、やめとこう。ところで、石橋けいに眼鏡をかけさせたいのはおれだけではないだろう――って、いいかげんにフェチから離れんかい。

【10月22日(金)】
▼熱帯魚やなにかをただただ見ていると、なんとなく頭が休まるような気がするのはたしかだ。うちには熱帯魚など置く場所がないから、手近なところでパソコンを代用品にすることになる。
 文字ばかり読んだり書いたりして、どうも頭の使いかたが偏っているなと感じられると、このところおれは、ルーディ・ラッカーのサイトでダウンロードしてきた人工生命プログラム「Boppers」を立ち上げて、ぼけーっと眺めるようにしている。この人工生態系を、彼らにとっての神の視点で眺めていると、不思議と心が安らぐのである。これに類するプログラムを“癒し系”の目的に使っている人は、存外に多いのではないかと思う。コンピュータ画面の中をあくせく動きまわっている boppers もおれも、複雑度こそちがえど、本質的にはそれほど異なった存在ではないのだろう。うちの boppers は、みなIQ100の色情狂で族内婚も族外婚もオッケーという設定にしてあるから、やっぱりおれたちとあまり変わらない。
 人工生命たちが彼らの生を繰り広げている裏では、SETI@home のプログラムが、宇宙からの電波に知性の痕跡がないか黙々と解析を続けている。そういう環境のパソコンでせっせとSF関係の文章を書いているというのは、ケッタイだけどそこはかとなく愉快ではないかい。オタクっぽくて暗くて気持ち悪いって? ほっとけ。

【10月21日(木)】
昨日の日記にだしぬけに登場したレインボーマンであるが、若い人にはなんのことやらわからないかもしれないので、補足説明をしておく。こいつも、おれが小学生のころにテレビ放映されて人気があった特撮変身ヒーローのひとりで、インドの山奥で修行し聖人の魂を宿して超能力を身につけ、日本人を全滅させようとする“死ね死ね団”なる組織と闘うのである。“死ね死ね団”とは、なんとも直截的でわかりやすいネーミングだ。なにも、自分たちが滅ぼそうとしている国の言葉を組織名に使わなくてもいいのに。あの手の特撮ヒーローものに出てくる悪の組織は、たいてい世界征服を企むものなのだが、“死ね死ね団”はとにかく日本人さえいなくなればいいと思っている控えめなやつらだ。それだけに、なにやら洒落にならない設定ではある。詳しくは、懐かしヒーロー系サイトでは有名な「AKのHERO大好き!」「愛の戦士レインボーマン」というページをご覧ください。AK氏は、オウム真理教(と明記してらっしゃるわけではないが)の事件を聞いたときに“死ね死ね団”を連想したとお書きになっているけれども、おれなりに補足すれば、連中は主観的には“インドの山奥で修行して悟りを開いた聖者”の側に立ちながら、客観的には“死ね死ね団”をやっているのである。つまり、むちゃくちゃに無責任かつ不謹慎なことを言えば、オウム真理教の本質は「レインボーマン」の醜悪なパロディ以外のなにものでもない。案外、松本智津夫はあの番組の熱烈なファンだったのではあるまいか。多かれ少なかれ当たっていようがいまいが、「レインボーマン」関係者にとってはいい迷惑である。どこか壊れていながら妙に生々しい異色の特撮ヒーローものとして、おれはけっこう好きなのだ。
 お経を唱えながら変身するヒーローなんてのは、あとにも先にも、おれはレインボーマンしか知らんなあ。「エロイム・エッサイム」の普及に『悪魔くん』が圧倒的に貢献しているように(98年12月14日の日記参照)、「アノクタラサンミャクサンボダイ」は、釈迦のありがたいお言葉などではなく、おれと同年輩の人々にとっては、なにはともあれ、レインボーマンが変身するときの呪文(?)なのではなかろうか?
 あ、そういえば、お経を唱えると空を飛ぶ巨大ロボットってのもありましたなあ。ジョージ秋山『ザ・ムーン』ね。おれははっきり言って、ジョージ秋山が嫌いなんだが、おれの少年時代と彼が少年マンガで活躍していた時期とがちょうど重なっているので、強烈な印象だけは残っているのである。なにしろ、どろどろの情念を生のまま叩きつけてくるものだから嫌悪感が先に立つ。しかし、その嫌悪感にどことなく心地よくもある魅力を感じていたのは事実だ。むかーしのプロテスト系のフォーク・ソングがそのまんまマンガになったような、あの感じね。ジョージ秋山の大人向けの作品をおれは全然読まないけれども、あの“歪み”の魅力とでも言うべきものはなんだったのか、むかしの少年向け作品をこそ、いま大人の目で読み直してみたいと思うことがたまにある。キレイだからといってウソでないものがあるのと同じくらい、キタナイからといってマコトではないものがあると知っている程度には、おれのほうも少年時代に比べれば多少は成長しているしね。
 で、話はレインボーマンに戻る。あのテーマソング、でんでん虫が転ぶ替え歌(?)はともかくとして、そもそものオリジナルがあんまりだという気がしないでもない。「いまさらあとへは退けないぞ/だからゆくのだ、レインボーマン」って、ずいぶんと腰のひけたヒーローだと思いませんか。“ゆく”動機の最たるものが“いまさらあとへは退けない”ことだというのだぞ。なんだか、しかたなしに厭々悪と闘っているみたいだ。自分のポリシーで闘こうてるんとちゃうんかい? あとへ退ける状況になったら、誰かほかのやつに任せて、とっととヒーローやめたいんかい? 責任者、出てこーい。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す